山梨・新潟のいろいろ


田神社  甲斐善光寺  恵林寺  新府城址
糸魚川・・・・・塩の道途中下車
魚沼・・・・・石川雲蝶と旧家目黒家 
山梨の桜・・・・・神代桜 わに塚の桜 神田のオオイトザクラ 武田八幡神社
鮭の町 越後村上市  参照: 温泉その3→瀬波温泉   
豪農の館北方文化博物館  白鳥瓢湖  参照: 温泉その9→五頭温泉

北杜市 駒ヶ岳神社  参照: 温泉その3→白州尾白の湯    
甲府城  参照: 温泉その13→湯村温泉湯村ホテルB&B
身延山久遠寺  参照: 温泉その15→下部温泉
越後一之宮弥彦神社  参照: 温泉その7→岩室温泉
大月市 日本三大奇矯・猿橋




武田神社 
takedajinjya

武田神社 御祭神武田晴信(信玄)公

武田晴信公は清和源氏の河内源氏系嫡流源頼義の三男で新羅三郎義光公の後裔で、大永元年(1521)十一月三日、
武田信虎公の長男として石水寺要害城にて生まれました。

幼名を太郎、童名を勝千代と名乗り、天文五年(1536)三月の元服に際し、将軍足利義晴から「晴」に一字を賜り晴信といい、
従五位下大膳大夫に叙されました。
天文十年(1541)信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以後三十有余年領国の経営に力を尽くされました。

天正元年(1573)四月十二日、天下統一の夢を抱き京へ上がる途中、信州伊那駒場で病没されました。
享年五十三歳。

大正四年(1915)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、
官民一致協力して、社殿を造営、大正八年(1919)四月十一日鎮座祭が盛大に斎行されました。


   国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)

武田氏館は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田晴信(信玄)の父が永正十六年(1519)に石和からこの地に、
館を移したことから始まります。
その後、晴信、勝頼と、武田家当主の館として使われました。

そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約七十年にわたり、
この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。

館は、一辺が約二百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、
その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。
館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って城下町が開けていました。

この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。
                                                        案内説明より

拝殿

中門と本殿

神橋

左近の桜

右近の橘

信玄公の旗印「風林火山」

石垣 館跡の石垣ではないようだ

外郭水堀

能舞台 甲陽武能殿

橋掛かりと鏡の間

信玄公が使った井戸

水琴窟

榎の巨木と榎神社の祠

姫の井戸のお水

この水は境内「姫の井戸」のお水です。
「姫の井戸」は、躑躅ヶ崎屋形の内でも其の生活の中心となる場所に有り、一説によると信玄公の御息女誕生の折、
産湯に使用したことに因り「姫の井戸」と名付けられたと云い、また「茶之湯の井戸」とも言われ、
この井戸より発見された茶釜などの品々が現在宝物殿に展示されており、当時の生活を推測する貴重な史料であると共に、
この茶釜は勝頼公が京よりの客をもてなす茶会の折使用したとも言われており、
屋形内で茶を点てるときにはこの井戸の水を用いたと伝えられております。
                                                    案内説明より

かいのき(楷樹)

古来より「学問の木」「合格の木」と言われる「かいのき」は、儒学の祖孔子の子弟がその死を悼み、孔子廟に植えたことから、
学究の徒が向学の木として愛し、更には科挙(古代中国の官吏登用試験)の合格祈願の木とも言われました。
また、枝幹がまっすぐに伸びることから書体の「楷書」の語源とされます。

御祭神武田信玄公は学問への造詣が深く、また「楷」が「甲斐」に通じることから献木されました。

太宰治が愛でた神社の桜

昭和十四年一月から八か月間
甲府での新婚生活の中で、
当神社の例大祭と境内の桜のことを
「春昼」の中に記しています。

奇木「三葉の松」

この三葉の松は信玄公が信仰しておりました高野山より公を慕ってこの地に種子が飛来落種し、
今日に到ると伝えらてております。

三葉の松は全国でも珍しく、黄金色になり落葉することから「金運」の御利益があると言われております。
また、そもそも松は古来より「延命長寿」の縁起もあり、
この松葉を身に付けることにより御利益を戴き、招福必来と言われております。

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新府城址
 sinpujyosi

本丸

新府城跡

新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として、
城地を七里岩南端の韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、
これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。

築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余で竣工した。
次いで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年十二月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。

然し戦局は日に悪化して、翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、
みずからこの城に火を放って退却するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。

廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、德川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、
家康はこの城を修築して本陣とし、我に五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き、
名城新府の真価を発揮したのである。

この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれた。
その城地の特色は城外から俯瞰されないことで特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、
従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。

新府城は、南北六百メートル、東西五百五十メートル、外堀の水準と本丸の標高差八十メートル。
近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。
最高所は本丸で、東西九十メートル、南北百二十メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。
本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。

堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるため、
堅固な二ヶ所の出構が築かれている。
三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。

本丸と東西三の丸、三の丸と大手などの間には、帯曲輪、腰曲輪があり、搦め手にも望楼がある。
蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、
特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。

                                                     案内説明より

外堀からの急斜面

東出構跡

石祠 武田勝頼公霊社

石碑 長篠役陣歿十四将士の墓

左より 五味興惣兵衛貞氏  小山田五郎兵衛昌輝  真田兵部丞昌輝  真田源太左衛門信綱  高坂源五郎昌澄
     山県三郎兵衛昌景  馬場美濃守信房  武田兵庫頭信実  原隼人佐昌胤  内藤修理亮昌豊
     高坂叉八郎助宣  土屋右衛門尉昌次  甘利郷左衛門信康  横田十郎兵衛康景

新府 藤武神社 参道

拝殿

本殿

神楽殿





甲斐善光寺 kaizankoji

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浄土宗 定額山浄智院善光寺

当山は、開基武田信玄公が、川中島合戦の折、信濃善光寺の消失を恐れ、
永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。

ここ板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本多善光公葬送した地と伝えられ、
信濃より台本願上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。

その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、
慶長三年(1598)豊臣氏から信濃に帰座なさいました。

甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州蝕頭を勤め、
德川家の位牌所にもなっておりました。
                                                  甲斐善光寺HP説明より
   善光寺山門付棟札 (国指定文化財 建造物)

五間三戸の楼門式山門で、入母屋造りの構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦四年(1754)の大火により、
本堂と共に焼失したが、本堂に先立って再建され、明和四年(1766)に上棟式が行われた。

両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すり付の板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。
巨大な朱塗りの丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもし出される雰囲気は、
本堂の壮大な建築によく調和した山門ということが出来る。
                                                  案内説明より

山門  国指定重要文化財

本堂  国指定重要文化財

稲荷社

鐘楼

手水舎

山門 金剛力士吽形像

山門 金剛力士阿形像

香炉

金堂の扁額

おびんずるさま

阿弥陀如来

石灯篭

六地蔵

宝物館

霊牛碑

江戸芝牛町に、大切に飼われていた牛がおりました。
延宝六年(1678)五月下旬のこと、その主人の夢に三晩続けて牛が現れ、「私を甲斐善光寺へ参拝させてください。
そうすれば、必ずこの家は末永く栄えるでしょう」と告げたのです。

主人は不審に思っていると、六月初め牛は自ら小屋を出て、西に向かって駆け出してしまいました。
主人はあわてて後を追ったのですが、捕まえることが出来ず、先日の夢の告げも思い合わせ、放っておくことにいたしました。

一方この牛は、四谷口から甲州街道を一路ひた走り、六月十八日板垣村善光寺に到着し、金堂に参拝いたしました。
四足を折り伏して頭を垂れる様は、まことに人が善光寺の如来様を拝むかのようであったと申します。
数刻の後、おもむろに立ち上がり、金堂の東側に駐まる事七日間、八日目にようやく帰途につきました。

江戸に帰った牛は、三十日ばかりして突然死亡しましたが、その体には円光が輝いていたということです。
主人は、日頃信仰する阿弥陀如来様の再来かとねんごろに供養し、牛の角を当山に寄進したのです。

一本の角はこの地に埋め、五輪塔を建立して、信心深い牛の末代までの記念といたしました。
その後、霊夢のごとく主人の商売は繁盛し、福徳円満に暮らしたと伝えられております。
そのため、開運福徳の霊牛として、この碑を参詣する人が絶えないのです。

なお、もう一本の角は寺宝として現存しており、宝物館で一般に公開いたしております。

ねじりの松

庭園

芭蕉翁月影塚

芭蕉句碑  尺五連中 建立
   月影や 四門四宗 たヾひとつ
更科(信濃北部)紀行 善光寺

芭蕉の旅の目的を百年以上後に
小林一茶が
信濃では 月と(姨捨田毎の月) 仏と(善光寺)
おらがそば(戸隠蕎麦)とよんだが、
一茶の俳句であるかはわからない

お咳婆さんの石

この大きな石は、「お咳婆さんの石」と呼ばれています。
いつの時代からか、百日咳など咳に苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、
効験が著しいと言われておりました。
同様に信仰されてきた石は、甲府市千塚など各所にもあると言われております。


   甲斐善光寺の棟木  (里垣の伝説)

昔、遠光寺村というところに、お琴という美しい娘がおりました。
お琴には、夫となるべき若者がいて、二人は仲睦まじく過ごしておりましたが、ある青い月のきれいな晩に若者は、
「私は、高畑村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」
と涙ながらに言いました。
そして「私は切られても、千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら、動きましょう」と言い残すと、
すうつと消えてしまいました。
さて、その明日のこと、柳の大木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。
そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の大木はするすると動いたということです。
                                                        案内説明より

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乾徳山恵林寺
 kentokusan erinji

恵林寺 総門

恵林寺は臨済宗妙心寺派。
往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有している。

草創は、鎌倉時代末期の元徳二年(1330)で、当時甲斐牧の庄と称した当地地頭職の二階堂出羽守貞藤が、
七朝帝師と尊称された夢想国師を招き自邸を禅院とした事に始まる。

越えて、戦国時代甲斐国主、武田信玄の尊崇を受けた快川紹喜国師の入山で寺勢を高め、
永禄七年(1564)、信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。
天正四年(1576)四月、武田勝頼は父信玄の三年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修した。

天正十年(1582)勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。
同四月三日、織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰塵に帰する中で、
快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と遺偈、従容として火定する。

本能寺の変後、德川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代、
甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、柳沢甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展、吉保夫妻の菩提寺ともなる。

恵林寺庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。


   恵林寺四脚門 (国指定重要文化財)

丹塗りの門であるところから、通称「赤門」とも呼ばれている。
切妻造り、檜皮葺で、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽方が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。

中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、
軒先を海老虹梁で繋いでいる。
極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割が大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現している。


   恵林寺三門 付棟札一枚 (県指定文化財)

構造は一門一戸の楼門形式。
この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱、
すなわち空門・無相門・無願門の意による三解脱門の略で、
快川国師が織田軍の兵火で焼き討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて
火定した場所に建つ。

四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、
実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻き状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。

小規模ながら相対的にあふれる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。


   武田信玄

信玄は俗名を晴信といい清和源氏、河内源氏系の棟梁源頼義の三男で源義光の子孫武田信虎の嫡子として、
大永元年十一月三日石水寺城に生まれた。

幼少より禅僧に学び、後に快川紹喜を師と仰いだ。
また好んで六鞱三略、孫子、呉子などの兵法を学んだ。
十六歳のとき元服して大膳大夫、従五位の下に叙せられた。

甲斐、・信濃両国の太守として早くから天下制覇の大志を抱き、川中島五度の大合戦に後、後北条氏と和し、
越前の朝倉、近江の浅井や摂津本願寺と結び、室的幕府十五代将軍足利義昭の意をうけて、
元亀三年、三万の大軍を率いて上洛の途につき、三方ヶ原に織田・徳川の連合軍を破り、
更に三河の野田城を陥れて宿望ならんとしたとき、病を得て帰国の途中信州伊那の駒場で死去した。

信玄は稀に見る軍略家であり又外交家、民政家でもあった。仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位をうけた。
                                                案内説明より

恵林寺四脚門 (国指定重要文化財)

恵林寺三門 (県指定文化財)

安禅不必須山水 滅却心頭自凉

三門扁額

天正時代の山門礎石 (伝)

開山堂

本堂玄関門

庫裡 拝観者受付入口

太鼓渡り廊下

うぐいす廊下

不動明王像

武田家臣供養墓

武田信玄の墓 (県指定史跡)

武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)の出生。
天文十年(1541)二十一歳で家督を次ぎ、甲斐国主となる。
性格武勇沈着、こよなく家臣団、領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀四年(天正元年・1573)、病のため信州・駒場の陣中で五十三歳で歿した。

その十年前、永禄七年(1564)十二月一日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、
信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、三年間の秘喪の後、天正四年(1576)四月に勝頼が施主となって本葬が執行された。
「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。
この時の仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財)に記録している。

現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。
面積百八十四・八平方メートル。
ここに全高三百四十九・六センチメートルの五輪塔一基、全高三百六十九・六センチメートルの宝篋印塔一基が建立されている。

この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、
五輪塔・宝篋印塔ともに寛文十二年(1672)四月十二日、信玄公百回忌が厳修された際に、
恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫五百九十二人の浄財を得て建立したものであることがわかる。
                                                案内説明より

千二百年の霊木切り株

柳沢吉保夫妻の墓

江戸時代の中期、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の側用人で大老格の地位にあった
甲府藩十五万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓で、
はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保九年(1724)三月吉保長男甲斐守吉里のとき、
奈良の大和郡山十五万石に転出がきまり、このため同年四月十二日恵林寺へ改葬されたものである。

柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。
また、病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献資料の中にもそれをうかがい知れる資料が現存している。

このため、山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定文化財となった。
                                                       案内説明より

境内杉の古木

吾心閣

開基 二階堂出羽守貞藤供養塔

庫裡の鬼瓦と棟ぐし

本堂屋根の鬼瓦

恵林寺庭園 (国指定 名勝)

庫裡の鬼瓦

鐘楼

武田信玄公遺訓の石碑

凡そ軍勝五分を以て上と為し 七分を中となし 十分を以て下と為す
その故は五分は励を生し 七分は怠を生し 十分は驕をするか故

たとえ戦に十分の勝を得るとも 驕を生すれば 次には必す 敗る々ものなり 
すへて戦いに限らす 世の中の事 此の心かけ肝要奈利
                  
                        甲斐恵林寺 三光書
  

正面玄関

石庭

武田不動尊

不動明王殿唐門

不動明王本殿

武田信虎公供養墓
天正二年三月五日信州高遠にて病没 
享年八十一歳

墓所 曹洞宗 万年山大泉寺
諡 大泉寺殿泰雲存康庵主

三重塔 仏舎利宝塔(納骨堂)

中の池

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落葉の黄金三葉松葉

甲斐の銘菓 信玄餅





塩の道糸魚川

JR西日本糸魚川駅

河口海岸

海上高速道路橋(北陸自動車道)

駅前 ヒスイ王国館

含ヒスイ岩石

ヒスイ露出原石

ヒスイ露出原石

糸魚川は、日本最大のヒスイ産地であり、
縄文時代に始まった世界最古のヒスイ文化発祥の地です。

大きな原石は、糸魚川の中心部を流れる姫川で産したもので、重さ約八トンあります。
白地のヒスイの中に緑のヒスイが入っています。
左の小さな原石は、姫川の支流小滝川で産した紫色のヒスイ原石です。

                           案内説明より

日本海 大町展望台

展望台より日本海

巨大な六脚波消しブロック

道路起点(塩の道起点とは異なる)

塩の道(松本街道・千国街道)起点と賑わった沿道
廻船が栄えた時代、船着き場と塩の道の起点があったこの一帯は、廻船問屋、塩問屋、四十物問屋のほかに,
ボッカ(歩荷)や船員のための建物が多く軒を連ね、糸魚川の中心地として大いに賑わいました。

   蒸気茶屋
蒸気船がこの先の海岸沖に停泊し、荷物は「ハシケ」で運搬しました。
海岸に近いこの付近には茶屋ができ、船員たちの休憩所や荷物置き場がありました。
また、茶屋の二階では宿泊できるところもありました。

   沖の口番所
船に乗り降りする人や荷物の取り締まりなどが行われていました。

   ふんごみ茶屋
わらじを脱がずに囲炉裏にあたれる茶屋が数多くありました。

   塩問屋
「上杉謙信公 塩御用問屋」と名乗った中村五兵衛の店をはじめ、多くの塩問屋が並んでいました。

   船頭長屋
明治の中ごろまで六軒の船頭長屋がありましたが、その後の火災で現在は面影もありません。
                                                               案内説明より

雪除け歩道の商店街

新潟B級グルメグランプリ
いかすみブラック焼きそばフラック

旅館 趣がある平安堂玄関

八福神宝船

加賀の井酒造元

   加賀藩前田家・本陣跡
百万石を誇った加賀藩は、承応元年(1652)親不知や姫川の難所をひかえ、
また、参勤交代が二千人の大名行列になるなどから、ここ糸魚川を宿泊の地としました。

殿さまの宿泊するところを本陣といい、加賀の井酒造(小林家)がその場所にあたりました(糸魚川本陣)。
殿様一行への心配りや、宿泊、往来のための警戒、気配りは町や村の大きな負担でもありました。

小林家は、本陣の役と町年寄(民間の総元締め)を兼ねて、江戸時代の終わりまでその役を踏襲しました。
前田候の拝領品、町方文書などが保存され、一部展示されています。

本町通り八福神石像(商売繁盛・地域振興) 順不同

福禄寿 (幸福・俸禄・長寿)

恵比寿 (商売繁盛・無病息災)

毘沙門天 (開運出世・大願成就)

弁才天 (学芸成就・除災得幸)

大黒天 (金運良好・子孫繁栄)

寿老人 (長寿延命・富貴繁栄)

布袋 (家庭円満・金運招福)

奴奈川姫 (恋愛成就・縁結び)

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魚沼 石川雲蝶と旧家目黒家

目黒邸(重要文化財 旧目黒家住宅)

目黒邸は、割元庄屋を務めた豪農目黒家の役宅を兼ねた住宅である。
寛政九年(1797)に建築された茅葺きの主屋は、正面の千鳥破風が役宅に威厳を備えている。

建物は寄棟造りで、総じて天井は高く、柱や梁は木割太く豪雪に耐える構造になっている。
座敷周りや橡亭には意匠的にも見るべきものがある。

中庭に心字の池、滝、稲荷社などが配され、静寂の中に往時をしのばせている。
主屋の裏側には中蔵・新蔵があり、周囲には籾蔵、味噌蔵、酒蔵等の跡が残り、豪農の暮らしぶりがうかがい知ることが出来る。

目黒家は会津武士の流れをくむ豪農で、江戸時代初期から近郷の村々を束ねる総代庄屋を、
江戸時代後半からは糸魚川藩魚沼領の大庄屋職である割元庄屋を代々務め、明治維新に至っている。

明治から大正にかけて、親子二代にわたり帝国議会の衆議院議員になり、政界でも活躍した。
大正期には魚沼地方屈指の農地を保有し、経営規模は百六十五町歩に達していた。
また、明治三十二年(1899)には広瀬銀行を設立している。

大正七年(1918)には自家用車を購入し、県庁が「新一号」で、次ぐ「新二号」は目黒家のプレート番号であったという。
大正二年(1913)須原発電所が発電を開始すると、目黒家では電化生活をはじめている。
大理石の配電盤は富豪をもって知られた当時の名残を今に伝えている。

                                                   案内説明より

主屋右側中庭縁側

築山から主屋を望む

主屋裏庭

屋敷周りの石垣 いつ頃の構築?

中蔵・新蔵と右側味噌蔵跡

雪囲い兼用の板壁で覆われて一棟の建物のように見えますが、右側が「中蔵」、屋根が一段低い左側が「新蔵」です。
ともに目黒家の家財用品が収納されていました。
現在家財用品の一部は「目黒邸資料館」で展示されています。

   中蔵
最初は寛政九年(1797)の建造でしたが、現在の建物は明治四年(1871)に再建されたものです。
建物の大きさは、梁間三間(5.5m)、桁行五間四尺(10.3m)です。

   親蔵
天保十一年(1840)の建造のままで、建物の大きさは梁間三間(5.5m)、桁行三間(5.5m)です。

   味噌蔵跡
「中蔵」の右側の空き地には、梁間三間(5.5m)、桁行三間(5.5m)の「味噌蔵」がありました。
味噌はもちろん自家製であり、味噌樽の多さが富の象徴であった時代、目黒家でも専用の蔵で、
管理保存をしていました。

   もみ蔵跡
百六十五町歩の小作地から納められた米や穀類を収納していた蔵の跡です。
建物の大きさは梁間三間(5.5m)、桁行七間(12.7)で、約二千五百俵(150t)を収納できたといわれています。
中央横になっている石は、戸の敷居です。また、柱の礎石もそのままに残っています。

建物は平屋建て、屋根は石置き板葺でした。
また蔵の後ろには雪室もありました。

   酒蔵跡
目黒家での酒造りは寛文十三年(1673)金八十両で酒造免状を得て、
当時日本一であった銀山(現在湯之谷村の奥只見ダムにより埋没)向けを中心にはじめられたと言います。

酒造業は、現玉川酒造(株)(ゆきくら館)の地に大正元年(1912)玉川屋を創立して受け継がれて、
現在では湯之谷村(現魚沼市)の名産品になっています。

ここにあった「酒蔵」は、梁間四間(7.3m)、桁行十二間(21.8m)の大きさで、水車の設備もありました。
石垣、石臼などに当時の様子がうかがえます。
                                       案内説明より

もみ蔵跡

酒蔵跡

中庭 

参照: 北方文化博物館(豪農の館) 旅行見聞録→温泉と観光→温泉その9→五頭温泉郷
参照: 村上市(鮭と城下町) 旅行見聞録→温泉と観光→温泉その3→瀬波温泉

曹洞宗 永林寺

石川雲蝶と永林寺の出会いは、伽藍復興に奔走していた当時の住職二十二世円応弁成大和尚が、
金物類を求めて三条に出かけたのがきっかけということです。
雲蝶が仕上げた本成寺の彫刻を見て、「ぜひうちの寺にも彫刻を」と考えたのでしよう。

ある日、ある賭場で出会った雲蝶に、弁成和尚が賭けを持ちかけて「もし私がかったら永林寺本堂にその力作を残し、
負けたら一切の金銭の支払いは私が引き受けましょう」との条件で大博打勝負をしたとの逸話が残っています。

結果は和尚の勝となり、安政二年(1855)、雲蝶は約束通り永林寺を訪れ、
十三年の間、寺に宿泊しながら本堂いっぱいの作品を残しました。

作品群をご覧いただくと、雲蝶が「越後のミケランジェロ」と呼ばれるにふさわしいと思われることでしょう。
欄間などの彫り物師としての技はもちろん、美しい書院障子のデザインや絵画を見るにつけ、
素晴らしいコーディネーターだったと感心してしまいます。

ご覧になる方一人一人、好みの作品は異なって当然です。
玉には和尚の説教などを聞きながら、ご自分の感性を大切にし、お好きな作品を探してみるのもよいでしょう。

                                            新潟観光情報石川雲蝶案内説明より

石川雲蝶 記念石碑

本堂欄間彫刻

皆の宗・ニコニコ宗 双本山の額

曹洞宗 針倉山永林寺  
新潟県魚沼市根小屋1765
Tel: 025-794-2266  

拝観料: 大人 300円 小人100円  
休日: 無休(寺院行事等により拝観休止有 問い合わせ)  
拝観時間: 9.00~17.00  12月~2月(9.30~16.00) 

トイレの注意喚起立札

互狸役山・五鯉躍山 永林寺
御本尊 笑(聖)観世音菩薩

永林寺から越後のやまなみ

大浦開山堂

赤城山 西福寺は、天文三年(1534)に、芳室祖春大和尚によって開かれた曹洞宗のお寺です。
寺院内にある開山堂は、安政四年(1857)に、二十三世蟠谷大龍大和尚によって建立され、
建築様式は鎌倉時代禅宗仏殿構造で、屋根は茅葺き二重層、上層部は入母屋造り。
唐破風の向拝を有しています。 

開山堂の中には西福寺の御開山芳室祖春大和尚と、曹洞宗の御開祖道元禅師がおまつりされています。
また、堂内の天井、欄間、壁面などには、幕末の巨匠石川雲蝶作の彫刻 絵画がふんだんに施され、
それらの作品は新潟県重要文化財に指定されています。
                                              
   鐘楼と梵鐘
西福寺の鐘楼は、開山堂と同時代の、嘉永三年(1850)に建立され、熊谷の源太郎の彫刻がほどこされています。
源太郎は雲蝶とならぶ彫刻の名手で、四十八才のとき雲蝶と共に越後入りし、
三国峠の三国権現社において金剛力士像の競作をしたと言い伝えられています。

梵鐘は、新潟の土屋忠左ェ門の鋳造で、三十三体の観音像が模られています。
また、天皇のお許しの証である、「勅許」の銘があることから、戦時供出時に重要美術品と認められ、
「供出除外」と指定されてお寺に帰ってきた名鐘です。

昔は、時を知らせるために撞かれていた寺の梵鐘ですが、今は年に一度、除夜に撞かれています。

                                                        案内説明より

襖絵

鐘楼 梵鐘

曹洞宗 赤城山西福寺
新潟県魚沼市大浦174
Tel: 025-792-3032

拝観料: 300円
休日:毎週火曜日 12月25日~1月5日
    臨時拝観日 休日有 問い合わせ
拝観時間: 9.00~16.00
        12月~3月 9.30~15.00

本堂と開山堂(鉄骨造り覆屋根)

庭園

池と稲荷神社





山梨の桜 神代桜 山高神代桜 yamatakajindaizakura

神代桜 東面

神代桜 西面

案内板の明治期の神代桜

山高神代桜 (国指定 天然記念物)

山高神代桜は、樹齢2000年とも言われているエドヒガンの古木です。
大正11年(1922)桜として初めて国指定の天然記念物になりましたが、
近年の環境の変化により樹勢が急激に衰えてしまいました。

山高神代桜の樹勢を回復させるため、南側の道路を迂回させ、平成13年(2001)には根や病気の調査をしました。
翌年からの工事では弱った根に活力を取り戻すため養分と有用な土壌微生物に富んだ土に入れ替え、
さらに主幹からの新たな発根を促すため屋根つきの櫓を撤去しました。

これらの工事は4年間かけて行われ、平成18年(2006)3月に終了しました。

神代桜 子孫

樹元のうろ 西面

樹元のうろ 東面

根尾谷淡墨桜の子桜と右三春滝桜の子桜 (共に親桜は国指定天然記念物)

鐘楼と梵鐘

實相寺は北朝・永和年間(1375~1379)波木井伊豆守が出家し、實相院日応と号して宗を改め開いた日蓮宗の寺です。

實相寺の梵鐘は総高さ145㎝、鐘身105㎝、口径79㎝で、池の間(梵鐘外面に付けられた位置の名称)の刻銘によれば、
承応4年乙未(1655)7月16日、当山第十一世住持比丘日念の代に壇主・山高荘右衛門尉信之が大祈願を発し、
多くの人々の力によってつくられて寄進されたもので、技法的にも江戸初期の特色をよく伝えている。
工人は横沢の住、藤原の朝臣 磯崎惣右衛門重久である。

第二次世界大戦の中すべての金物が供出させられた中で、由緒ある文化遺産として供出を免れたものである。

                                                          案内説明より

日蓮宗 大津山 實相寺

手水舎

本堂

境内の花畑

民間の駐車場が点在している

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わに塚の桜と武田八幡神社

わに塚の桜 エドヒガンザクラ
大勢のカメラマンが背景の山が現れるのを待っていたが、残念の様子です 

枝振り

下枝の花

樹高:17m  根回り: 3.4m  幹回り: 3.3m  枝張 23m

   わに塚(王仁塚・鰐塚)由来
甲斐国志に「芝地十五間に十間、塚の形 神前にかかる鰐口に似たり。
後の人因りて名付けたるか。古墳なることを知りぬべし」とあり、
土地の口碑によれば、日本武尊の王子武田王が諏訪神社の南西桜の御所で治を行い、
薨じてこの地に葬られ、王仁塚と云うと。

又、王は武田武大神として武田八幡宮に合祀されている。
後、源太郎信義がこの地に在って、姓を武田と改め武田氏を興す因となったのである。
                                                            案内説明より

武田八幡神社

武田八幡神社 本殿(重要文化財)

武田八幡神社はもと八幡宮と呼ばれていた。
神社記によれば、大古この地に武田王を祀る宮社があったところへ弘仁十三年(822)二月勅命により、
九州宇佐八幡宮を勧請して王の宮社へ合祀し、武田八幡宮と称したのが起こりで、
のち貞観年間(859~876)に京都石清水八幡宮を社中に勧請した。

新羅三郎義光以来甲斐源氏の尊崇が厚かったが、とくに義光の曾孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、
当社を氏神と崇めて崇敬のかぎりをつくした。
後三百余年を経て天文十年(1541)、武田晴信(信玄)が甲斐の領主になると、当社本殿の造営に着手し、
同年十二月二十三日に早くも落成した。

本殿は三間社流造・檜皮葺で、身舎は桁行三間・梁間二間、柱は丸柱を用い、
組物は通肘木つきの和様出組として軒支輪を設け、組物間の中備えは間斗束である。
頭貫の先端は木鼻をつけ、室町期の特色を見せている。

正面三間は幣軸構えとして金箔押しに八双金具で飾る両開きの板唐戸をつけ、
扉の両脇の方立面を埋める松・竹の透かし彫り装飾は豪華絢爛である。
壁は板で、周囲には刎高欄つき縁をめぐらし、両側に脇障子を備える。

正面には昇り高欄付階段を設け、向拝前面に浜床を張る。
向拝三間は面取り角柱で、組物は桁行外方にだけ二手先となる通肘木つきの連三斗組みをおき、
中備えに透彫の装飾を入れた蟇股を飾る。

妻飾りは虹梁大瓶束で、屋根は檜皮葺の切妻造りで、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造りをなす。
本殿全体は木割が雄大で、しかも装飾的意匠に優れた室町時代の特色を示し、
武田家興隆期の力強さを誇る遺構として貴重な有形文化財である。 



   武田八幡神社末社 若宮八幡神社本殿 (県指定文化財)

若宮八幡神社は、一間社流造り、檜皮葺身舎の桁行一・五メートル、梁間一・二メートルの
小建築で沿革や建築年次もさだかでない。
しかし、様式や手法の上からは桃山末期から江戸初期の遺構と推定される。

細部についてその特色をあげれば、身舎は出組斗栱に支輪をそえた取り扱いであるが、
支輪の屈曲状態、木鼻の繰りと施された絵様、中備に配した各蟇股の脚の形態と脚端の若葉化、挿入された彫刻意匠、
幣軸の形、妻飾りでは虹梁の渦状紋、派出された若葉の形、大瓶東の結綿。

向拝では柱の面の大きさ、虹梁の木鼻の形態、手狭の輪廊と側面に示された絵様等が見られ、
桃山末期ごろの優れた姿が残されています。
                                                   
                                                   案内説明より
                                                

拝殿

手水舎

石造鳥居と石垣と総門と神木

柱には、双葉町(山梨県甲斐市)志田の船形神社とそれと同様、見た目には胴張り(エンタシス)の如くに感じられ、
しかもがっちりと太く(46㎝)、これに比べて柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、
両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく、増しも軽妙である。

鳥居の貫に天正十二年(1584)補修の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。
石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石段をつくる特殊な形態を呈し、石積み技術も優れ貴重なものであります。

                                                案内説明より

石鳥居台座(礎石)

舞殿(神楽殿)

総門(随身門 神門)

総門の両脇守護神像 (御名前わからずです)

二の鳥居 一の鳥居は見つからない

拝殿への石垣参道

鳥居の木組み

演者控 足がかり?

脇殿

一石百観音石像

この石像は、現地(武田八幡神社)より北方約五百メートルの隆岩山玉保寺にあって、
宝永六年(1709)天下泰平・国土安全を願って造立されたものです。
玉保寺が廃寺となったので、明治十七年(1884)信徒たちによって、武田八幡神社の神宮寺跡地に移され、
さらに現地に動座されました。

石造の高さ、下部の幅とも約一・七メートルの安山岩製で、頂部には阿弥陀三尊の梵字を彫刻、その下部全面には、
西国三十三番・東国三十三番・秩父三十四番、合わせて百体の小観音を、七段に配列したものです。

かっては各地の霊場巡りが盛行したが、その後一ヶ所で参詣できる方式まで進展した。
観世音は慈悲深い菩薩として、人々の信仰を集めた。
なお、各地に百観音の文字塔は散見するが、像塔としては稀に見る貴重な遺物であります。

                                                      案内説明より

門前の桜 満開です

神田(しんでん)の大イトザクラ

大イトザクラ (県指定天然記念物)

樹勢回復工事中 元気になって!

大イトザクラと八ヶ岳(蕾状態)
季節が遅れて残念無念

ありし日の大イトザクラと八ヶ岳

神田の大イトザクラ
樹齢約400年、毎年いちはやく春を告げる壮美な桜です。
累代幕府役吏をつとめた、小松氏の祖先が広野神社を創設し、その供米産田を神田(しんでん)と称し、
その畔に御神木として植えたのが神田の大糸桜です。


   樹勢回復工事
北杜市教育委員会では、近年樹勢の衰えが著しい神田の大イトザクラの樹勢回復工事を、
平成二十一年度より四ヵ年で実施しています。
工事の主な内容は、土壌改良と不定根の誘導です。

土壌改良は、根の広がる範囲を、八分割して対角線上の二箇所を一年毎行います。
不定根の誘導は、幹から生えてくる根を土中に誘導して、木に養分をいきわたらせる為に行っています。

                                          案内説明より 

満開の水仙畑

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鳥居と石垣





大月市 猿橋 
日本三大奇矯の内

名勝猿橋石標 昭和九年二月建立

橋詰めの石碑 文面読み取れない

甲陽猿橋之圖  廣重篳

刎出材には往時と同じく木材の腐蝕を防止する為の雨除けの屋根を設けて外観は木製としているが
昭和56年改築の際安全のために基部材に鉄材が使用されている

相模川水系桂川

猿橋架替記念碑 文部大臣・天野貞祐
戦後間もなく架け替えた際の記念碑

猿に因んで
見ざる聞かざる言わざる

猿に因んで
山王宮日枝神社が勧請されています

猿橋から用水橋と国道20号

明治天皇御召換所址之碑 
明治十三年(1880)六月十八日御橋渡

  名勝 猿橋 (昭和七年三月二十五日指定)
猿橋架橋の始期については定かではないが、諸書によれば「昔 推古帝の頃(600年頃)百済の人・志蘿呼(しらこ)
この所に至り猿王藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、
その名はあるいは白癬(しらはた) 志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。

史実の中では、文明十九年(1486)二月、聖護院の門跡・道興はこの地を過ぎ、
猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
応永三十三年(1426)武田信長と足利持氏、大永四年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、
戦略上の要地でもありました。

江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、
御普請所工事(幕府直轄工事)にて九回の架け替えと十数回におよぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖を止めて、多くの作品を今に残しています。

昭和七年、付近の第断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。
昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、
その後も名勝として生き続けています。

今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架け替えられており、江戸時代を通じてこの姿や規模でありました。
昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成 総工費三億八千三百万円
橋の長さ: 30.9m  橋の幅: 3.3m  橋より下水際まで30m

                                         案内説明より

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