城下町高田の寺院



浄土宗善導寺  日蓮宗浄法寺  時宗稱念寺  浄土宗天崇寺  曹洞宗神宮寺  曹洞宗久昌寺  真宗大谷派高田別院

曹洞宗洞仙寺  曹洞宗孝厳寺  真言宗豊山派華園寺  真宗大谷派浄蓮寺  真宗大谷派常敬寺  真宗大谷派明善寺  

曹洞宗國厳寺  真宗浄興寺派本山浄興寺  真宗浄興寺派善福寺  真宗浄興寺派勝見寺  真宗浄興寺派専稱寺

真宗浄興寺派西光寺  真宗浄興寺派浄正寺  真宗浄興寺派玄興寺  真宗浄興寺派正光寺  真宗浄興寺派正念寺

真宗浄興寺派浄泉寺  浄土宗光樹寺  曹洞宗宗恩寺  真宗大谷派常榮寺  真言宗智山派寶蔵寺  浄土宗来迎寺  

浄土真宗本願寺派念妙寺  日蓮宗長遠寺  真宗佛光寺派性宗寺  真宗佛光寺派常徳寺  曹洞宗光榮寺

曹洞宗海隣寺  日蓮宗日朝寺  曹洞宗長徳寺  日蓮宗常顕寺  日蓮宗妙國寺  浄土宗大厳寺  

浄土真宗本願寺派光學寺  浄土真宗本願寺派光國寺  真宗大谷派安傳寺  真宗大谷派長命寺  真宗大谷派浄國寺  

浄土真宗本願寺派願念寺  真宗大谷派最尊寺  曹洞宗天林寺  浄土真宗本願寺派願重寺  浄土真宗本願寺派祐正寺

日蓮宗常國寺  浄土宗淨林寺  真宗大谷派真宗寺  真宗大谷派法林寺  曹洞宗太岩寺  真言宗豊山派太子堂  

曹洞宗高安寺  真宗大谷派本誓寺  真宗大谷派本浄寺  真宗大谷派圓福寺  真宗大谷派了源寺  真宗大谷派長楽寺

日蓮宗善行寺  


城下町高田の寺院その2


専念寺  常念寺  善福寺  最賢寺  嘉楽院  善念寺  雲妙寺

照蓮寺  安養寺  眞慶寺  照行寺  大仙寺  金光寺  本覚寺  等正寺

林西寺  浅渓院  光運寺  得願寺  法顕寺  浄照寺  顕本寺  長徳寺

瑞泉寺  明厳寺  上宮寺  流源寺  正輪寺



城下町高田の神社


寺町日枝神社  南本町神明宮  大手町榊神社  東本町三真福稲荷神社  東本町直江八幡神社  東本町二稲荷神社

東本町一宇賀神社  北本町二八幡神社  大町五五ノ辻稲荷神社  大町三稲荷神社  大町二乙吉稲荷神社

大町一土橋稲荷神社  本町一春日神社






山梨・新潟のいろいろその2


城下町高田の寺院
城下町高田の神社
城下町高田街巡り

春日山城と直江津巡り

城下町村上の寺院
城下町村上の神社
城下町村上街巡り



湊町新潟の寺院
湊町新潟の神社
湊町新潟街巡り







  真宗大谷派 真宗寺
開基は、越中国司の藤原光隆(淀ノ中納言)の弟で、萩生村(富山県黒部市)の真言宗寺院の住職、慈観です。
親鸞聖人が流罪で越後に向かう途中、当寺に三晩逗留された折、教えをいただき、
寺号と法名(一乗)とを賜り1213年に改宗創建されました。
その後、福井県金津町、越後福島城下をへて、寛文年間に現在地へ移りました。
第二十四世・良由は高田別院創建(1730)のために財と命を懸けて尽力した傑僧で、その功により御抱寺と号します。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

  真宗寺の由来と来歴
真宗寺は京都の人「淀野一乗房」を以て開基とする。
鎌倉時代前期「淀」の中納言の愛称で庶民に親しまれていた藤原光隆郷(時の越中國司)の弟にあたる。
越中國新川郷荻生村の真言宗の住職であったが、偶然配流で越後国に下向の親鸞聖人が、黒部川の氾濫の足止めで、
当寺に逗留された佛縁から浄土真宗に帰依して、聖人から「受野山・真宗寺」の寺号をいただいた。
時に建暦二年(1212)の事であった。

室町時代中期の文明年間(1469~1486)蓮如上人の勧奨で越前國金津に移って五十六年間(この間金津山と改称)
以後越中國城ヶ花時代の七十八年間、続いて越後國福島時代の七年間・・・・を経て、
慶長十九年(1614)松平忠輝が福島城から高田築城開府となるとそれに従い、
城下寺町二之町(現在 仲町三丁目鉄道寄り)に移転した。
五十二年後の高田大地震の復興に際しての区割り整理によって現在地に移ることになったのである。
時に寛文六年(1666)の事であった。

以来ここに三百有余年、高田真宗大谷派七山の一つとして、佛道教化に努めてきた。
その間高田別院の誘致創建のために京都本山へ上がって請願、江戸へ馳せて寺社奉行に直訴、辛酸苦闘実に満十年、
美事(見事)に素志を貫徹された
第二十五代良由師の功労と偉勲は、上越の真宗大谷派発展史に永くその名を留める事であろう。

この由緒と伝統を受け継いで、法燈を今日に維持してきた先祖代々の篤い信仰と遺志に背くことなく、
檀信徒一同親睦を深め協賛に務め、真宗寺の隆昌を通じて仏恩報謝の道に益々精励せんことを心から念ずるものであります。
本堂改築落慶の吉日に是を記す。 
昭和六十三年十一月十三日

                           案内説明より

  真宗大谷派大谷派 高田別院
承元々年(1207)、親鸞聖人越後後配流のご苦労を通しそのご縁をいただき、
上越一円の門徒から建立が望まれ現在の地に東本願寺直轄の高田掛所(別院の前身)として幕府寺社奉行から
設立を認められたのが享保十五年(1730)東本願寺第十七代真如上人の時。

この間設立に向けての運動は享保七年から八年間におよび展開され、幕府の新寺建立停止の政策にもかかわらず
寺社奉行への篭訴や入牢をも覚悟するほどの不屈な熱意で嘆願、掛所建立の願いが結実した。

現在の地は、頚城開墾の祖小栗美作の屋敷跡で、時の高田城主榊原政永より寄進を受けた土地。
当初は東西十四間半、南北十五間の本堂と御食堂、総門、鐘楼、宝蔵、庫裡、総会所、茶所、詰所の壮大な施設が建立されたが、
その後四度の火災で焼失。

いずれも延享二年(1745)、宝暦五年(1755)、宝暦十年(1760)、昭和三十三年(1958)にこの地方、
頚城三郡(東頸、中頚、西頚)に亘る二百五十余ケ寺の管内寺院とその門徒の懇志浄財で再建され 
”お多屋”、”高田御坊”、”越後高田掛所” と称され明治二年(1869)に東本願寺高田別院と改称。
全国に存する真宗大谷派五十二別院の一ケ寺として現在に至る。


  山門
総欅の単層入母屋造三戸門で文政十年(1827)第二十代達如上人の願で建立。
「別院大門」の名で親しまれ上越市に残存する山門では唯一、最も荘厳な門である。
当時の藩主も緊縮財政の中、町の活気を得んためと特別に許可したもので、棟梁竹澤志摩則行の手による彫刻は、
中国の故事や十二支を見事に浮彫りにしている。


  鐘楼・梵鐘
現在の鐘楼堂は文政元年(1818)に建立された。
中の梵鐘は天明三年(1783)真宗門徒として聞法篤信な宮崎勘助氏(三和村)の寄進による重量四百八十貫の大鐘。
焼失した太鼓とともに「お多屋の太鼓と大鐘」と親しまれ、当時城下に時を知らせ町人の生活と深い結付きをもっていた。
その後大戦により昭和十九年(1944)当時政府が没収。

上越地方から名物の大鐘の音が消えたと思われたが、同二十年八月埼玉県にて無傷のまま発見。
当時の別院筆頭総代廣瀬収造氏の努力で再びこの地に返り、現在は安穏な時を刻んでいる。

                        真宗大谷派大谷派高田別院案内説明より転載

境内 文学碑

刻されている陶濟という号は上越市に縁のある陶芸家・齋藤三郎氏の号であるという。
久昌寺に窯を築き陶芸の道を究めた。
久昌寺に窯を築かれたのは久昌寺住職が齋藤三郎の実兄である関係であるが、現在窯あるいは窯跡があるかは分らない。

詩文は友人知人におくられた(第三者に)ように冒頭部分は感じるが、後文は自身の思いを吐き出した覚悟が感じられ、
自分を第三者的に見たとき(俯瞰)その道の経済的、肉体的、物理的の困難さ、やるせなさも感じとる事が出来る。


  曹洞宗久昌寺
三門を入り松並木の参道を進むと、重厚な甍と正面の卍、花頭窓の格子が印象的な本堂が目にはいります。
参道の両脇に並ぶたくさんの石仏や、クマザサが参拝者を迎えてくれます。
久昌寺は、顕聖寺(新潟県東頸城郡浦川原村)第1十世の日山乾恵の隠居寺として、慶長三年(1598)に建てられました。
高田城の築城後に、寺町へ移りました。

                             寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂

参道並木

大厳寺

本堂

本堂 入母屋造桟瓦葺

並木参道

三界萬霊等供養塔

庫裡

本堂

本堂

並木参道

参道

庫裡

境内樹木

境内樹木

  善導寺縁起
善導寺は後土御門天皇の御代、文明年間(1473~1475)、
開山・蓮開上人が夢の感見によって善導大師の霊像を直江津の浜辺にあった捨て小舟の中から見出された事に始まる。
それまでは光明寺という寺であったが、善導大師の像(四尺一寸)を安置してからは善導寺と改称された。
その霊像は善導大師の御直作と伝えられ、
わが国三善導寺(筑後国久留米・井上山光明院善導寺、上野国館林・終南山見松院善導寺)の隋一と呼ばれるに至った。

その後、高田開府の際の慶長十九年(1614)現在の地に移ったが、
善導大師の像が上陸された場所は今でも善導濱と呼ばれている。
第三代目の住職の岌翁上人の時、畏くも善導大師の像を後奈良天皇の叡覧に供し奉り、
その際仏舎利などの御品を御下賜あらせられた。

その後江戸幕府五代将軍・徳川綱吉公の母桂昌院が善導大師を篤く信奉され、五十石の寺領、毎年金三百両宛、
德川家御門入りの袈裟などの御寄進があり、不断念佛の道場として念仏の声が絶ゆることが無かった。
山内には十個院の塔頭をもち、大本山京都百万遍知恩寺の越後総末寺の触頭であった。

第二十九世の中興・元愚忍察上人代、東西九十六間、南北百三間の境内地に十二間の方形本堂を建立し、
輪奐を極め、高田の一偉観であったが、大正四年五月、災厄に遭い本堂・庫裡悉く烏有に帰した。

寺宝として「龍の玉」があるが、これは天正十六年(1588)播随意上人が当寺に滞在し、
清里村櫛池の青柳池野龍神を済渡された折、龍神が御礼に献上したものと伝えられる。
かって、毎年四月十三・十四両日、万部会という善導大師の法要が厳修されたが、
この法要には龍神が参詣したと言い伝えられている。

後奈良天皇の御下賜品と伝えられているものは、釈迦如来の御舎利、尊證法親王の御染筆、
念仏の元祖法然上人が母・妙海尼の為にお書きになった名躰不離の名号、などである。
その他の宝物として播随意上人が江戸幕府の命を受け切支丹の弾圧に加担した時、不思議の利益を顕したという不焼の名号、
弘法大師が米山で護摩の修法をされた時、その灰を練って造られたという辯財天像、
万無上人の御作・子育ての観世音菩薩像などが伝えられている。

境内に松平中将の重臣・小栗美作公の墓がある。
美作公は生前善導大師を篤く尊信されたという。
この度、奇きし因縁によって現れ給うた御本尊を安置する由緒ある寺を旧に復さんと世話人、檀家信徒広く有縁の篤志に依り、
ここに本堂再建が実現された。
大正年間の焼失以来実に七十七年ぶりの快挙である。


  龍神之井・・・伝説
善導寺は、室町中期、文明七年(1475)布教の為京から下向された蓮開上人によって、
光明寺の名で今町(直江津)の西浜に開基・創建された。
奇しくも海中出現の善導大師(唐の聖僧)の尊像に邂逅(めぐりあう)するという佛縁により、
これを本尊とし「善導寺」と改称された。
慶長十九年(1614)德川家康の六男・松平忠輝の高田開府と共にこの地に移転し、十二間方形の豪壮荘厳な堂も落成した。

その落慶を祝う記念行事として江戸から播随意上人を招き「百日法要」を厳修した。
その間一日も欠かすことなく日参して熱心に聴聞している気品高き人物がおり、退去した後の座席の畳がいつも濡れていた。
満願日(百日目)になり、その人が上人に向かい
「私は櫛池村(清里区)の“青柳の池”に棲む龍神であるが、未熟な者で得道できずに悩んでいる 
どうか成仏の道を教えてください」と嘆願した。

上人はその熱意に感銘して高弟の隋波坊を青柳へ遣わし「一念血脈の奥義」を一対一の対座で伝授させ、
得道させる事が出来た。
歓喜感激の龍神は、直ちに善導寺に参向し、礼の品として「龍玉」「龍燈「龍水」を寄進献上して立ち去ったと云う。
その「龍水」がこの「龍神之井」であり、どんな旱天(ひでり)でも井戸水が枯れないことから、
池底より水がこんこんとわき続けて水位が通年変わらない青柳の池の水と神通力により水脈がつながっていると云われている。
この一連の物語は『杢太将監蔓陀羅』絵巻物として今に伝わっている。

當山参詣の善男善女人の皆様、願わくはこの龍神の霊にあやかって、
共励互助相携えて、法義を悟り、佛恩に報いたいものです。


  小栗美作守正矩の偉業
小栗家は、越前松平家(徳川家康二男秀康藩祖)に仕え、
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)勢ら七十五人を打取るほどの殊勲を立てた名門です。
小栗美作守正矩は高田藩家老職・小栗五郎左衛門正重の長男として寛永三年(1626)高田で生まれました。
正重は善政を施し殖産興業に務め繁栄を図りましたが、寛文五年(1665)の高田大地震により城内で圧死しました。

美作守正矩は父の跡を継ぐとすぐさま江戸幕府へ申請して、米三千表を見舞いとして受け取り、被災者に与え、
同時に五万両の大金を借りて城の修理と災害復興資金に充てました。
今日の高田の市街区画整理がこのとき造成されました。

人生不惑の域に達した美作は、優れた頭脳を持ち、父の遺志を受け継ぎ殖産興業に尽力しました。
直江津港の補修、関川の浚渫、中江・西中江用水の開削、魚沼の銀山採掘、
大潟・保倉谷神田の開発など多くの事業を推進しました。
特に野尻湖に源流を求めた延長六里十八丁(26㎞)の中江用水開削は、三百年以上経た今もその恩恵を受けています。
これは頸城の大開発期とも呼べる時代で、それを推進した小栗美作は、まさに上越地方振興の偉大な先駆者でありました。

このように「万代不易」の功績を残した美作でありましたが、高田藩内で起こった藩主・松平光長の跡継ぎをめぐる争い、
いわゆる越後騒動のため、その張本人として悪名を着せられ、
五代将軍徳川綱吉親栽のもとに、天和元年(1681)六月二十二日、子の掃部大六と共に切腹を命ぜられ果てました。
美作五十六歳、掃部十八歳の生涯でした。

美作が我が子掃部を藩主光長の嗣子として、跡継ぎにしようとしたという越後騒動の通説は、全く事実無根の事でありました。
ともあれ、美作の偉業により完成した中江用水は、今日なお美田を潤し、水力発電の源となり、
農業を始め頸城後の産業発展に寄与されている功績はまさに不滅であります。


  無縁供養塔建立由来
終南山善導寺は開山以来数ヶ寺の末寺を有する高田藩の名刹なるも、寺運盛衰にして後世善導寺檀信徒の墓地となる
墓地は末寺廃寺の為開山以来の無縁の墓石累積し荒廃甚だしく、
ここに世話人協議の上、當山墓地管理規則により墓石を整理し新たに無縁供養塔を建立、
以て三界萬霊等の仏界菩提の資となすものなり。

                                案内説明より

高田の寺院へ

高田の寺院へ





浄土真宗大谷派 岡本山本浄寺
  
上越市寺町3-6-37

高田の寺院へ

  日蓮宗 善行寺
「あじさい寺」として市民に親しまれている善行寺は、
天文六年(1537)に結城(茨城県結城市)に結城政朝によって創建されました。
開山は日士と伝えられています。
その後、北庄(福井市)をへて、松平光長とともに高田寺町へ移りました。
松平綱国が寄進した三葉葵が施されている山門をはじめ、数多くの法宝物、そして境内の杉木立や奥庭の池が、
往時のおもかげを残しています。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載


天文六年(1537)下総国結城郡(茨城県結城市)に創建され、開基は結城家十五代結城政朝、開山は日士上人である。
その後、慶長五年(1600)徳川家康の次男結城秀康が結城より越前北ノ庄(福井県福井市)六十七万石に封ぜられた時、
當山も招かれ越前に移った。
秀康の子松平直忠は福井藩主の頃、家臣氷見家(秀康の生母おまんの方の実家)を滅ぼしたのを悔やみ
、子の市正長頼と大蔵長良に氷見家を再興させた。

直忠の長男松平光長が、高田藩二十六万石に封ぜられた二年後の寛永三年(1626)松平家・氷見家の菩提寺として、
さらに越前よ七十石を以て当地に招かれ現在の地に建立された。

現在の本堂の一部は、越前時代のものと伝えられ、山門は氷見市正長頼の子松平綱国の寄進によるものである。
本堂裏には氷見市正長頼と側室、その長女の墓がある。

                            案内説明より

五輪供養塔
延宝二乙卯年六月三日薨とある
「普忠院殿妙長月信」
確かに読んだものではない

墓地の竹林

墓地

梵鐘

鐘楼

本堂 切妻造桟瓦葺流向拝

山門 棟束板蟇股

杉並木参道

無縁墓石供養塔





日蓮宗 守榮山善行寺
  
上越市寺町3-5-35

高田の寺院へ

  真宗大谷派 長楽寺
木の塀で囲まれた落ちついた境内。
本堂の正面には、中国の故事にもとづいた精緻な彫刻が浮き彫りにされ、向拝には獅子や龍が巧みに施されています。
これらの木彫と白壁とが見事に調和しています。
長楽寺は、根知城主(新潟県糸魚川市)村上義清の家臣であった誓安が、本願寺第十一世顕如に帰依し、
元亀二年(1571)に開創したお寺と伝えられています。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

墓地

本堂・庫裡

長楽寺標札

  真宗大谷派 了源寺
仲町五丁目の雁木の下を寺町に向かって進むと、本誓寺の門の左手に見えてくるのが了源寺です。
了源寺は、貞観によって明応元年(1492)に北条(新潟県刈羽郡北条町)に建立されたのがはじまりと伝えられています。
現在の場所へは、寛永年間(1624〜1644)に移ったといわれています。
現在の新しい本堂は、昭和六十一年(1986)に新たに落慶したものです。

                    寺町まちづくり協議会案内説明より転載

墓地

本堂

了源寺標札





浄土真宗大谷派 了源寺
  
上越市寺町3-6-37

高田の寺院へ





浄土真宗大谷派 新井山圓福寺
  
上越市寺町3-6-37

高田の寺院へ

  真宗大谷派 本浄寺
本誓寺の参道を進むと左手に「本浄寺」の門柱が目にとまります。
本浄寺の開基は存実と伝えられています。
存実は永正十六年(1519)、今庄(福井県今庄町)に創建しましたが、
文禄二年(1593)春日山城主上杉景勝のときに越後に移りました。
阿弥陀如来を本尊としています。また、向拝に彫られた龍は、まるで生きているかのようです。

                     寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

本堂

本浄寺

  真宗大谷派 本誓寺
源義家の子孫の教念が、親鸞に帰依して開創したといわれています。
本願寺第八世蓮如の勧めで本誓寺と改めました。
その後、笠原村(長野県)に移ったことから笠原御坊と呼ばれました。
第十世超賢の 時、当時、上杉謙信と対立していた一向宗徒をまとめ、謙信の上洛を助けたことから、
越後国の総録として迎えられ布教を許されました。
超賢は川中島合戦に従軍したほか、石山合戦でも目覚ましい活躍をしました。
これらのことを物語る法宝物が数多く残されています。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

参道

笠原御坊標札

本誓寺

本堂向拝 親獅子





浄土真宗大谷派 笠原山本誓寺(笠原御坊)
  
上越市寺町3-6-37

高田の寺院へ

  曹洞宗高安寺
重厚な山門をもつ高安寺は上杉謙信の祖父、長尾能景が、文明十二年(1480)に霊泉寺(福井県)の華庭籌栄を招いて、
府中(直江津)に創建させたと伝えられています。
その後、福島城下、元寺町をへて、現在地へ移りました。
奥の院には千手観音菩薩浜の観音像を安置しています。
境内には観音清水が湧きでています。
また、彫刻家後藤正義、ヘボン博士の弟子眼科医大森隆硯の墓や芭蕉の追善碑があります。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載


  高田盲学校創立者・大森隆磧墓所 大森隆磧は弘化三年(1846)五月二十二日、高田藩医・大森隆庵の長男として誕生した。
十六歳で江戸に出て蘭法医学を学んだ。
十八歳の時、父の死去で帰郷、医学研究に英語の必要性を感じ再度上京、大学南校に学んだ。
横浜でアメリカ人医師(宣教師)ヘボンに医学者としての精神を学んだ。

後、高田に戻り眼科医開業する。
自ら失明寸前の危機を体験し、視覚障害者教育の重要性を痛感した。
明治二十四年、四度目の設立願が認可され、「私立訓曚学校」(京都、東京についで日本で三番目)を創立、教育・経営に後半生を捧げた。
明治三十六年(1903)十月十日、療養先の東京で死去。
享年五十七

                          案内説明より
  

大森隆磧之墓所

五輪塔供養塔

境内樹木

参道

本堂

本堂 山号扁額





曹洞宗 海潮山高安寺 
 
上越市寺町3-9-39

高田の寺院へ

  真言宗豊山派 太子堂
池にかかる石橋を渡ると、極彩色の堂が目に入ります。
威徳院は、結城(茨城県結城市)に建立されたのが始まりといわれています。
その後、城主結城秀康にしたがって北庄(福井市)へ、さらに松平光長の移封にともなって、高田寺町へ移りました。
境内に祀られている金比羅社は、文化五年(1808)、貞岸の代に勧請されたものです。
そのほか境内には、聖徳太子を信仰する石碑などが建てられています。

                       寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂

本堂

五重石塔

鳥居参道

太子堂

達磨大師

歴代住職供養

閻魔堂

庫裡

多目堂?僧堂・坐禅堂・食堂・講堂?

供養奉納地蔵菩薩

観音堂扁額

観音堂

奥のお堂は鐘楼でしょうか

境内墓地

庫裡

本堂 入母屋造銅板葺

真宗寺 境内は工事中でした
参道と庭園の整備

  浄土宗 淨林寺
天文元年(1523)、応誉によって春日山城下に建立されたのがはじまりです。
応誉は上杉謙信の家臣一沢光範の弟で、兄の姓を山号としました。
合祀の観音菩薩像は、上杉謙信の海での危機を救ったという伝説を秘めた観音さまです。
寛文五年(1665)の地震後に現在地に移りました。
入口に建つ六字名号の板碑には、天和三年(1683)の年号が刻まれています。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

納骨堂と供養塔

境内墓地

庭園

庫裡

本堂





浄土宗 一澤山真受院淨林寺 
 
上越市寺町3-11-26

高田の寺院へ

  日蓮宗 常國寺
北本町一丁目の雁木通りを西へ歩むと常国寺の山門が目に入ります。
門前が三叉路になっていたことから、地元では「みつけ常国寺」と呼び親しんでいます。
文安二年(1445)、実相院日応によって金津(福井県金津町)に創建されたと伝えられています。
高田寺町へは寛文年間(1661〜1672)に常国寺第十六世本応院日堯の代に移ったといわれています。
大曼荼羅を本尊としているほか、本堂には祖師像読経像をお祀りしています。

                      寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

手水舎・水屋

本堂向拝 龍彫刻

庫裡

本堂 切妻造桟瓦葺

祐正寺





浄土真宗本願寺派 和光山祐正寺 
 
上越市寺町3-16-27

高田の寺院へ





浄土真宗本願寺派 府中山願念寺 
 
上越市寺町3-13-6

高田の寺院へ

向拝彫刻

本堂 切妻造桟瓦葺

庫裡

山門 寺号標木札

境内樹木・楓  紅葉が綺麗でしょう

境内墓地

  曹洞宗 天林寺
椿のきれいな境内には、二十三夜塔なども見られます。
天林寺は葉山林益が創建したと伝えられています。
伝龍寺(新潟県名立町)の末寺で、福島城下にあったといわれています。
享保年間(1716〜1735)に寺町へ移りました。
本尊は弁財天で、高田瞽女の信仰のよりどころでした。
かつて毎年五月十三日に行われた妙音講では、瞽女たちが自慢の唄を披露し、一年で一番楽しい一時を過ごしたそうです。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

地蔵菩薩・供養塔

墓地





曹洞宗 大龍山天林寺 
 
上越市寺町3-17-6

高田の寺院へ

  真宗大谷派 飯塚山最尊寺
本堂前の大きな松が清楚な境内に映える最尊寺は、
元亀元年(1570)、法眼が春日山麓の飯塚に草庵を結んだのがはじまりといわれています。
山号は建立したところに因んでいます。
元和元年(1615)に土橋町(北本町1)へ移り、寺町には、寛文四年(1664)に移りました。 
はじめ専修寺(三重県津市真宗高田派)の末寺でしたが、最尊寺第十一世慧観の時に大谷派へ転派しました。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂

鐘楼

梵鐘





浄土真宗大谷派 飯塚山最尊寺
  
上越市寺町3-13-32

高田の寺院へ

宅地
一般的に寺地周辺は宅地が多い 売却か賃貸しで副収入を得ているが
地方都市では中心部に寺地の空き地が多くなったという
次世代が郊外に移り住むのが原因と思われていて、
地価が高く更新が出来ない為とも云われている

汚水桝既設置

庫裡

梵鐘

鐘楼





浄土真宗大谷派 光明山浄國寺 
 
上越市寺町3-14-10

高田の寺院へ

  真宗大谷派 長命寺
長命寺の開山は親鸞の教えに帰依した氷見(富山県氷見市)の善祐と伝えられています。
そして善祐の子孫の祐専によって、天正八年(1580)春日山麓に創建されました。
上杉景勝が春日山城主の時に あたります。
祐専は本願寺第十一世顕如の直弟子です。
長命寺ははじめは長福寺といいました。
高田城築城に伴って寺町に移ったと伝えられています。
享保十四年(1717)、本願寺派から大谷派に替わったとき、長命寺と改めました。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂向拝





浄土真宗大谷派 春日山長命寺
  
上越市寺町3-12-29

高田の寺院へ

  真宗大谷派 安傳寺
本願寺第十二世准如の弟子の玄了が、天正十二年(1587)に、藤新田(春日地区)に建立したのが始まりといわれています。
享保元年(1716)に寺町へ移ったと伝えられています。
現在地(旧真求寺境内)には大正四年(1915)の火災後に移り、今にいたっています。
本堂前の洒脱な庭園には池が築かれ、色とりどりの錦鯉が参拝者を迎えます。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

墓地

庫裡

本堂

安傳寺





浄土真宗大谷派 安傳寺 
 
上越市寺町3-12-31

高田の寺院へ

  浄土真宗本願寺派 光國寺
木々の間をまっすぐに伸びる参道を進むと、島地黙雷が揮毫した「光國精舎」の扁額が目に入ります。
享徳二年(1453)に、堯順が春日山城下の茨清水(国府3か)に建立したのがはじまりと伝えられています。
高田城築城に伴い、現在地へ移りました。
享保二年(1718)、本願寺より永代内陣列座を賜りました。
本尊阿弥陀如来像のほか、御開山御影を寺宝としています。

                         寺町まちづくり協議会案内説明より転載

燈籠に笠が付いている 雪国仕様

墓地

歴代住職供養墓





浄土真宗本願寺派 西金山光國寺 
 
上越市寺町3-12-33

高田の寺院へ

  浄土真宗本願寺派 光學寺
正保二年(1645)、道哲の創建と伝えられています。
道哲は、親鸞より1十三世の高僧光圓の弟子といわれています。
はじめ、春日山城下の茨清水(国府6か)に建てられましたが、寺町へは高田城築城後に移りました。

寛政七年(1795)、光学寺第十一世蓋応が夢のお告げによって永昌寺(現在ありません)から持参した、
と伝えられている聖徳太子像が安置されています。
本堂裏のあでやかなしだれ桜が、短い春を楽しませてくれます。

                       寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

墓地

親鸞聖人像

本堂

光學寺

  浄土宗 大厳寺
杉並木の参道とツツジの美しさで広く知られる大嚴寺は、正長元年(1428)に永受によって足利(栃木県足利市)に創建されました。
はじめ永徳寺といい、足利尊氏の菩提所でした。
慶長十六年(1611)、台山によって寺町に移され再興されました。
この時、大嚴寺と改め、今にいたっています。
現在の場所には、寛文五年(1665)の地震後に移りました。
かつて境内に正受院と長現院の塔頭がありました。


  大巌寺本堂再建
五臺山常住院大巌寺はもと下野国足利土井水というところに在り、塗路町幕府将軍足利尊氏公はじめ、
代々足利家建立の道場にして、荘厳巍々たる精舎であったが、その後星霜を経るに至って衰微した。
当地開山・王誉台上人は、何としても再建し仏恩を報せんと語り給い時に土谷等隋喜して、牛に汗して良材を運び、
あるいは宝庫を開いて金銭をなげうち、一宇(一切)を昔のように復し願を成就した。

爾来今日までに三度の火災に遭ったものの、仮本堂のまま百年を経過しこの処の三年続きの豪雪に耐えかねるようになり、
檀家一同の総意により鉄骨二階建ての精舎を建立した。
以て此処に本堂再興を記念しこの碑を建立した。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

地蔵堂 六地蔵

本堂

庫裡

地蔵堂

鐘楼

鐘楼 棟の徳川紋

梵鐘





浄土宗 五臺山常住院大巌寺
  
上越市寺町3-8-29寺

高田の寺院へ

本堂標札

庫裡

墓地

  日蓮宗 妙國寺
石橋、杉並木の参道、クマザサの葉が落ち着いたたたずまいを醸しだす妙国寺は、
安産・子授けの寺として多くの人に知られ、「よなひめさん」と呼び親しまれています。
興国四年(1343)に日宣により結城(茨城県結城市)に創建されました。
その後、北庄(福井市)に移り、高田寺町へは松平光長にしたがって移ってきました。
境内には、「安寿と厨子王」で有名な山岡大夫の墓があります。

安寿と厨子王と言えば、渡る世間は鬼ばかりで登場人物は人さらい、人買、奴隷と善くない人々が登場することで有名ですが、
その善くない人がここに祀られているには、いかなるものがあるのでしょうか。
それも以下に記されているように難病除け、商売繁盛の神としてであるから考えさせられる。

平成十一年に堂祠が再建され、能楽「婆相天」が復曲上演されました。
難病除け、商売繁盛の神で有名。

                            寺町まちづくり協議会案内説明より転載

霊堂 

山岡太夫の墓

  日蓮宗 常顕寺
山門をくぐると杉並木や大銀杏木をはじめ、秋には萩の花が境内をうめつくし、参拝者を迎えます。
常顕寺は、日蓮の高弟日弁によって建治元年(1275)高岸村(所在地は不明)に開かれた越後最初の日蓮宗寺院で、
後に越後国の触頭として中心的な役割を担いました。
その後、大瀁村、五智、三王屋敷と寺地を替えましたが、元禄元年(1688)、日遄によって現在地に再興されました。
日蓮の真筆と伝えられる消息のほか、多くの寺宝が伝わっています。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

向拝 虹梁 向拝柱 木鼻

庫裡

境内樹木

井戸

宝形造土蔵
扉の感じから宝物堂でしょうか?





日蓮宗 髙顔山常顕寺 
 
上越市寺町3-7-31

高田の寺院へ

  曹洞宗 長徳寺
上杉謙信の母、寅御前が寄進したと伝えられている地蔵菩薩が境内に祀られています。
このお地蔵様は「まま子地蔵」と呼ばれ、信仰を集めてきました。
また、前庭には金棒を握りしめた石の鬼や小石、泣く子供の像が配され、さながら「賽の河原」を表現しているようです。
しかし、この鬼、どこかユーモラスで憎めません。
元文年間(1736〜1741)に正寿によって創建されたと伝えられています。
もともと顕聖寺(新潟県浦川原村)の末寺だったそうです。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

地蔵菩薩像 
右の像がまま子地蔵でしょうか

地蔵菩薩坐像

鬼像





曹洞宗 洞獄山長徳寺
 
 上越市寺町3-3-25

高田の寺院へ

  日蓮宗 日朝寺
佐渡流罪をゆるされた日蓮は、鎌倉へ帰る途中、府中(直江津)に宿泊しました。
文永十一年(1274)のことです。
そのとき、称朝寺(真言宗)の住職蒙現が日蓮に帰依して名前を日朝と改め、改宗しました。
これが日朝寺のはじまりといわれています。

慶長三年日朝寺は上杉景勝会津移封に伴なって移転、関ヶ原後米沢に再移転したが寺運なく廃寺となった。
明暦元年(1658)、本山・越後国長岡村田妙法寺二十世・日鋭を中興開山とし、旧跡地に再建された。
また、日朝寺の毘沙門天が子供に姿を変え日蓮を迎えに行ったという伝説も残されており「出迎毘沙門天」として
昔より信仰を集めています。
この毘沙門天は毎月25日御開帳されます。
春先、毘沙門堂前のしだれ桜がきれいな花をいっせいに咲きほころばせます。

                        寺町まちづくり協議会案内説明より転載

境内

庫裡

本堂

山門 桟瓦葺薬医門

杉並木参道

日朝寺

毘沙門堂参道

毘沙門堂向拝 鷲彫刻

毘沙門堂前の枝垂桜

毘沙門堂向拝扁額

毘沙門堂
入母屋造桟瓦葺妻入り唐向拝

  曹洞宗 海隣寺
山門をくぐると、鬱蒼と茂る杉並木の参道の奥に本堂が見えてきます。
開山は龍泰寺(岐阜県関市)第十一世の大桃禅師。
大桃は龍泰寺を隠居後、北陸地方を行脚しました。
その途中、福島辺(有田地区か)にとどまり、草庵を結び、上杉謙信の帰依を受けたのが、海隣寺のはじまり といわれています。
天正二年(1574)のことと伝えられています。
高田城の築城に伴い、寄町(仲町6)をへて、現在地へ移りました。
境内に宝暦大地震の供養塔があります。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂 山号扁額

庫裡

境内墓地

三門 寺号扁額

三門 桟瓦葺薬医門

海隣寺





曹洞宗 日峰山海隣寺
  
上越市寺町3-4-39

高田の寺院へ

  曹洞宗 光榮寺
文亀年間(1501〜1503)に快叟良慶によって館林(群馬県館林市)に創建されました。
開基は榊原家第三代の忠次といわれています。
その後、藩主の菩提寺となり、榊原家の移封にしたがって寺地を替えました。
寺町へは榊原政永にともなって移りました。
明治十四年(1881)まで、本県の曹洞宗寺院の代表録所として、中心的な役割を担いました。
境内には、上越茶道界の祖として知られている榊原家茶頭、荒井宗二の碑があります。

                         寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

本堂

光榮寺





曹洞宗 正眼山光榮寺 
 
上越市寺町3-4-42

高田の寺院へ

  真宗佛光寺派 常徳寺
杉木立に囲まれた常徳寺の境内、早春には、レンギョウが黄色いきれいな花を咲かせます。
常徳寺は、越前国和田村(福井市)の最勝院第三世の信浄が、正保二年(1645)に建立し、
常徳寺第1世となったのがはじまりといわれています。
明治十六年(1883)高田駅建設のため、現在地に移り、今にいたっています。
阿弥陀如来が本尊です。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

常徳寺標札

本堂





真宗佛光寺派 常徳寺
  
上越市寺町3-1-15

高田の寺院へ

  真宗佛光寺派 性宗寺
天正三年(1575)に本覚寺の分寺として春日山城下に創建されました。
本覚寺は、親鸞の直弟子信性が和田村(福井市)に、貞永元年(1232)に開いたお寺で、当時、勢力を誇っていました。
性宗寺は城下の移動とともに寺地を替えますが、性宗寺十三世玄尊の代に仏光寺派に改め、
延宝元年(1673)に仏光寺和田御坊となりました。
「聖人配所御真影」をはじめ親鸞ゆかりの法宝物が守り伝えられています。
境内には、明治四十三年(1896)に起こった大逆事件の弁護士を引き受けた平出修の墓があります。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載


  平出修墓所
平出修は明治十一年四月三日、中蒲原郡石山町(現新潟市)に生まれ、
二十三歳の時高田馬出町(現上越市大町二丁目)の弁護士・平出善吉の妹ライと結婚、同家に入籍した。
そして東京の明治法律学校(現明治大学駿河台)を卒業し、司法官試補と成ったが、
その後弁護士に転じ、法律事務所を開業した。

彼は有名な幸徳秋水の大逆事件などで法廷に立つ一方、矩歌革新運動に加わり、また石川啄木、吉井勇らと共に
文芸雑誌「スバル」を発行した。
このように彼は弁護士として、明星派の歌人および評論家として、そして又社会小説の作家として法と文学両面に
かがやかしい業績を残し将来を期待されていたが、大正三年三月十七日過労のため三十七歳の若さで他界した。

永訣式には相馬御風、阿部次郎、森鴎外らが弔辞をのべ、彼の死を悼んだ。
明治文学史上極めて重要な位置を占めた。
平出修の霊は彼の願いによってここに眠っている。

                            案内説明より

手水舎

梵鐘

鐘楼

庫裡

本堂

和田御坊性宗寺 配所草庵御真影

見眞大師(親鸞聖人)御舊跡(旧跡)碑

性宗寺





真宗佛光寺派 髙雲山性宗寺 
 
上越市寺町3-1-14

高田の寺院へ

  日蓮宗 長遠寺
鬱蒼と茂る杉木立の静寂な空間は、俗世との結界を感じさせます。
永仁二年(1294)に九老僧摩訶一院日印上人によって、今日の頚城区に創建されました。
はじめは山号を常寂山といい、後に、長遠寺屋敷に寺地を移しました。
寛文五年(1665)の地震で罹災後、法光山養命寺と合併して同寺境内に移り、法光山長遠寺と号するようになりました。
境内には、日本銀行を設計した長野宇平治の墓があります。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

観音堂でしょうか?

井戸

無縁墓石供養

鐘楼堂

庫裡

大棟鬼瓦

本堂 大棟

本堂 寺号扁額

本堂

本堂 入母屋造桟瓦葺一間唐向拝

並木子参道

南無日蓮大菩薩 遠忌記念石碑

  浄土真宗本願寺派 
念妙寺創建年代は不詳ですが、はじめ春日山麓にあって蜂嶺閣といわれていたと伝えられています。
本願寺第十三世准如の弟子誓圓を開基としています。
その後、福島城下をへて寺町へ移り、正徳二年(1712) に念妙寺の寺号を与えられました。
平成二十二年に、現在の所に移転しました。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

  浄土宗 来迎寺
重厚な山門、石畳の参道、樹木に囲まれた境内は、たいへん落ち着いた静寂なたたずまいです。
承久三年(1221)浄土宗西山派の開祖証空が、現在の居多神社(五智5)の所に来迎仏と当麻曼荼羅の軸をかけ
法談をされたのがはじまりと伝えられています。
証空は、奈良当麻寺の別院の名を移して来迎寺としました。
高田城の築城とともに現在地へ移り、寛永九年(1632)に鎮西派(知恩院末)に改め、今にいたっています。
境内の木立の中に証空の供養塔があります。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

石庭

本堂

庫裡

参道 樹木

地蔵堂 地蔵菩薩像

本堂 虚空蔵堂

参道 虚空蔵大菩薩石塔





真言宗智山派 如意山寶蔵寺  
上越市寺町2-4-8

高田の寺院へ

  浄土真宗大谷派 常榮寺
ツツジの生垣に囲まれた常栄寺。閑静な境内には色とりどりの花が植えられ、木々の間から鐘楼がそびえています。
常栄寺は、道念によって永享十年(1438)に創建されたと伝えられています。
阿弥陀如来を本尊としています。
かつて境内に塔頭満願寺がありましたが、廃寺となって今はありません。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

宗派石標

庫裡

鐘楼堂





浄土真宗大谷派 菁龍山常榮寺
  
上越市寺町2-4-16

高田の寺院へ

境内墓地

  真宗浄興寺派本山 浄興寺
浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院です。
聖人は承元元年(1207)念仏禁止令により越後の国、国府(上越市)に流罪となられましたが、越後滞在七年の後、
妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。

聖人は農民や下層武士を主とする民衆に布教されるとともに、自己の信仰を深められ、
真宗の根本聖典である教行信証を著されました。
そのお喜びのお気持ちを山号・寺号に顕され、この禅坊を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけられました。
ときに元仁元年(1224年)本願寺の創建より四十八年前のことでした。

聖人は浄興寺とどまるところ十余年、京都へお帰りになり弘長二年(1262)九十歳で入滅されました。
聖人の御頂骨ならびに遺宝物は御遺命に従い当山第二聖善性上人(後鳥羽天皇皇子)によって、
一宗開闢の地、稲田浄興寺に安置されました。
後に稲田浄興寺は戦火をうけて灰燼(かいじん)となり、寺領のある信濃国水内郡太田庄長沼へ移りました。

以後、およそ三百年長沼にありましたが永禄四年(1561)川中島合戦の兵火をあびて堂宇炎上し、
永禄十年(1567)上杉謙信公の招きにより春日山城下に移り堂宇を建立し上杉家の紋章を拝領しました。
慶長十二年(1607)上杉家会津移封のあとをうけた堀氏が福島(上越市古城)に築城すると福島城下へ転じ、
さらに松平忠輝公の高田築城と共に高田へ移り、寛文五年(1665)の地震により堂宇崩壊したので、
時の藩主松平光長公の市街復興計画に従い現在の地に堂宇建立し三百有余年の年月を経て、現在に至ります。

尚、平成元年には本堂が国の重要文化財に指定されました。


  浄興寺本堂
浄興寺本堂は、正面に三間の向拝を付けた一重、入母屋造りで、県内の寺院建築では最大でかつ最古の真宗本堂です。
身舎部の柱はすべて円柱で、いたるところに絵様の入った虹梁や、彫刻が施された蟇股などを多く用いるなど、
江戸時代前期の建築物としては先駆的な意匠・形式で構成されています。
こうした特徴は、全国の真宗本堂のなかでもとりわけ注目され、
浄興寺が東・西本願寺(京都)と並ぶ格式の高い寺であったことを示しています。

本堂のいたるところに彫刻が施され荘厳され、その数は欄間七枚、蟇股九十二に及びます。
彫刻の配置を図示すると上のようになり、入口に獅子がいて、本堂の空間は宝樹の並木に囲まれた七宝の池がめぐり、
その向こうでは黄金の雲の上で天楽をなす天女が飛翔します。
さらにその向こうには瑞雲の中に阿弥陀如来がまつられる、という配置になっています。
この構造は、「阿弥陀経」が説く極楽の背景に他なりません。、
浄興寺本堂は阿弥陀如来のおわす西方極楽浄土そのものなのです。


  親鸞聖人本廟
親鸞聖人の御頂骨を安置する本廟です。
弘長二(1262)、京都で亡くなった聖人の御頂骨は、遺命により、当時、常陸国(茨城県)にあった浄興寺に納められました。
本廟には、聖人のほかにも本願寺三世の覚如上人以降の本願寺歴代門主の分骨も納められており、
浄興寺が浄土真宗開宗の由緒をもつ寺院として、厚く信仰されていたことを物語っています。

記録によると、本廟は、六年の歳月を費やして、明治二十一年に完成しています。
注目すべきは、正面唐門と塀の装飾です。
柱や妻飾りなどの細部にいたるまで、花鳥、動物などの精巧で美しい彫刻が施されています。
これらは、柏崎の名匠、篠田宗吉が棟梁となって完成させたものです。

                                  浄興寺HP案内説明より

寺号石標

庫裡

本堂

曹洞宗宗恩寺





曹洞宗 龍興山宗恩寺 
 
上越市寺町3-3-6

高田の寺院へ

  浄土宗光樹寺
お寺の名のとおり、大きな松が日の光に映えています。
そして入口に祀られている如意輪観音の石碑が迎えてくれます。
光樹寺は、はじめ安叟寺といい、館林(群馬県館林市)に榊原家の菩提所として創建されました。
開山は善真と伝えられています。
榊原氏の移封にしたがって寺地を替え、寛保二年(1742)、榊原政永とともに高田へ移りました。
現在の場所には、明治十九年(1886)に移りました。

                            寺町まちづくり協議会案内説明より転載

境内樹木

寺号石標

如意輪観音

本堂

浄土宗 光樹寺

  真宗浄興寺派 浄泉寺
開基と伝えられる宗誓は、上杉家の家臣でしたが、景勝の会津移封後も春日山城下にとどまり、
浄興寺第十五世の善芸に帰依したといわれています。
宗誓は、その後、福島城下の浄専寺の住職になったと伝えられています。
山号の至徳山は浄専寺のあった場所(東雲町)に因んでいます。
浄興寺塔頭となったのは、松平光長入封(1624年)の頃と伝えられています。
寺地・寺名ともにその時、現在のように替わったそうです。

                             寺町まちづくり協議会案内説明より転載

寺号石標

庫裡





真宗浄興寺派 至徳山浄泉寺
  
上越市寺町2-6-10 

高田の寺院へ

  真宗浄興寺派 正念寺
開山や創建年代については不詳ですが、休玄によって中興されたと伝えられています。
休玄は浄興寺第十五世の善芸に帰依し、
文禄年間(1592〜1596)に姫川原村(新潟県新井市)に正念寺を再興したといわれています。
正念寺は、その後、地頭方(金谷地区)に寺地を移しますが、
万治年間(1658〜1661)に現在地へ移り、浄興寺の塔頭になりました。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

山号石標

山号石標

本堂

正念寺 浄興寺塔頭寺院

正光寺 浄興寺塔頭寺院

本堂・庫裡
玄関に中陰法要(七・七法要)の立札





真宗浄興寺派 多珂山正光寺
  
上越市寺町2-6-10

高田の寺院へ

本堂

玄興寺 浄興寺塔頭寺院





真宗浄興寺派 井上山玄興寺
  
上越市寺町2-6-10

高田の寺院へ





真宗浄興寺派 村井山淨正寺 
 
上越市寺町2-6-10

  真宗浄興寺派 西光寺
浄興寺第十五世善芸の弟子法珍が、柏崎(新潟県柏崎市)に文禄年間(1592〜1595)建立したのがはじまりと伝えられています。
その後、寺地を移しましたが、寛永年間(1624〜1643)に浄興寺の塔頭となり、現在にいたっています。
その先祖は宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱といわれています。
境内の西側に植えられたブナの木が涼しげです。

                              寺町まちづくり協議会案内説明より転載

高田の寺院へ

本堂・庫裡

西光寺 浄興寺塔頭寺院

木鼻獅子彫刻

供養石碑

動物供養碑と犬・猫の墓

俱會一處供養碑

竹林

真新しいトイレ

向拝

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

専稱寺 浄興寺塔頭寺院





真宗浄興寺派 寶林山専稱寺 
 
上越市寺町2-6-45

高田の寺院へ

勝見寺 浄興寺塔頭寺院

本堂・庫裡

本堂・庫裡

バスケ万歳

善福寺 浄興寺塔頭寺院





真宗浄興寺派 昇道山善福寺
  
上越市寺町2-6-45

高田の寺院へ

親鸞聖人像

水琴窟

桂流園

参道 両側に塔頭寺院が並ぶ

本堂

本堂

浄興寺宝物殿

聖徳太子堂

浄光寺経蔵





真宗浄興寺派本山 歓喜踊躍山浄興寺 
 
上越市寺町2-6-45

高田の寺院へ

三面六臂 
馬頭観音のように見えるが?

地蔵堂

犬・猫供養墓

動物愛護供養塔

納骨供養塔

供養塔





曹洞宗 國巖寺 
 
上越市大貫3-2-21 

高田の寺院へ

  浄土真宗大谷派 明善寺
春先、境内いっぱいに植えられたフランスギクの花が咲きほこり、さながら白い絨毯のようです。
永仁元年(1293)、唯信によって下総国関宿(千葉県)に創建され、はじめは東樹坊といいました。
唯信は、仏教に帰依する前は、加賀藩家老を務めた山崎正義と伝えられています。
その後、寺地を移動して、現在地には明和4年(1769)に移り、今にいたっています。

                                寺町まちづくり協議会案内説明より転載

説明によると永仁元年(1293)唯信により開山、場所は下総国関宿とある。
また、唯信は加賀藩家老の山崎正義と説明されている。
つまり、加賀藩家老の山崎正義が仏教に帰依し唯信と号し1293年に下総関宿に明善寺を創建したことになる。
加賀藩家老という概念は鎌倉時代にはなかったことと思うが、伝えられていることだしね、
常敬寺の塔頭寺院と考えれば今の寺の位置も納得がゆくし、唯善の開山がすっきりするし、加賀藩家老は時代が合わないし。

鐘楼

梵鐘

境内墓地

本堂・庫裡

明善寺





浄土真宗大谷派 歓喜山明善寺
  
上越市寺町2-7-4

高田の寺院へ

本堂大棟の鬼瓦
元は瓦葺本堂であったのでしょうか

鐘楼

梵鐘

本堂

参道 左浄蓮寺 右明善寺

山門 
常敬寺の歴史が書かれている木札

  浄土真宗大谷派 常敬寺  親鸞聖人の孫 唯善上人開山の寺

常敬寺は弘安七年(1284)の創立にして、親鸞聖人の孫・唯善上人(弘雅 大納言阿闍梨)が開山された。
唯善上人は始の京都東山大谷に母・覚信尼公(親鸞聖人の末娘)と居住するも、将軍の召請により相模国鎌倉・常盤井下向、
一向堂をを構え、法義を正し、人々を教化しましたが、中国元王朝による文永・弘安の役後の情勢変動期にあたり、
鎌倉の地も不穏な情況となりうるとの鎌倉将軍の奏達により、亀山法皇の叡慮により、
下総国(千葉県)関宿中戸に大伽藍を建立し中戸山西光院と号し寄進した。

後に後宇多天皇は勅願所として中戸山西光院の勅額を下さった上、真宗阪東総棟梁といって、
関東で真宗大谷派最高の寺という格式を与えられたが、天正元年(1573)諸堂を焼失した。
その後天正七年(1579)、信濃国・静間(信濃国山田郷平塩 現在の長野県上高井郡高山村中平)に移り、
蓮如上人より常敬寺の寺号を与えられた。

幾多くの沿革を経て寛文六年(1666)越後高田に移り現在に至っており、
古い歴史を有し「簾の阿弥陀如来」(親鸞聖人直作日本一体)「鼻取聖徳太子」等は文化財又信仰としても多くの参拝があり、
近くの人々からは「赤門」と称して親しまれている。
法宝物は毎年八月七日「お虫干し」の時開帳、一般の参拝、拝礼が出来る。

親鸞聖人の孫・唯善上人が開山・開基された下総国関宿中戸の寺は、
現在も、浄土真宗本願寺派・中戸山西光院常敬寺(千葉県野田市中戸)として存続している。
また、信濃国にあった常敬寺は末寺徳正寺を伴っていたが、高田に移った後の延宝七年(1679)徳正寺は常敬寺から離れ、
高山村に戻り浄土真宗本願寺派・中戸山徳正寺とした開創した。
その後新たに寺地を得て新たに寺院を創建、山号を改称して浄土真宗本願寺派・龍甲山徳正寺と号し、現在に至っている。

常敬寺の足跡に残る寺院が存続しているのは領主や藩主の移動により菩提寺を移転あるいは分寺して残る例は数多くあるが、
その例に漏れたのは別の理由(本願寺分裂などの)があるのかも知れません。

                                案内説明より

境内墓地

境内樹木

  浄土真宗大谷派 浄蓮寺
生垣に囲まれた静寂な境内に立つと、手入れのゆき届いた庭には四季折々の花が植えられ目を楽しませてくれます。
浄蓮寺は、順源によって仁治三年(1242)に創建されたと伝えられていますが、
建立した場所やその後の経緯については不詳です。
阿弥陀如来を本尊としています。

                              寺町まちづくり協議会案内説明より転載

花を愛でて休み処です

メダカもいました

池には錦鯉が泳いでいます





浄土真宗大谷派 浄蓮寺 
 
上越市寺町2-7-4

高田の寺院へ

本堂

宝篋印供養塔





真言宗豊山派  華園寺 
 
上越市寺町2-13-9

高田の寺院へ

六地蔵尊

参道 花盛りです

三門

境内墓地

歴代住職供養墓

境内樹木

境内樹木





曹洞宗 龍雲山孝巖寺
  
上越市寺町1-7-8

高田の寺院へ

境内墓地と布袋さまの日光浴
七福神・布袋様は商売繁盛・家庭円満・家運隆盛に御利益あると云われている。

庫裡

会館

地蔵堂

寺号石塔

梵鐘

鐘楼

寺務所 会館

本堂

山門

寺号石標 大谷派本願寺高田別院

山門

山門軒木組み

山門

高田別院境内

車両等の一般通行の参道

石庭

久昌寺駐車場でしょうか?

釈迦如来と六地蔵尊

地蔵堂

境内休み処

この男雪の中に窯をつき
土もて玉にかへんとする
夢をいまだはぐゝめるか
とぼしき薪に寒き膳
されど雪の夜を汗して焚ける三日三晩
とり出す陶の千に一つはやゝ心にかなへりと
にがきつらにほくそゑめるか
雪はや消えん雪国に梅の蕾はいまだかたきか

陶濟





曹洞宗 久昌寺 
 
上越市寺町2-22-7

高田の寺院へ

  曹洞宗神宮寺
松の木立の静寂な境内。
石畳の参道を歩み、六地蔵にお参りした後、本堂前に立つと「天照山」の扁額が目に入ります。
慶安元年(1648)、乗国寺(南本町2)第2世の在庵宗朔によって、隠居寺として建立されたのがはじまりといわれています。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂
特別の説明も無いので開山・開基の謂れは分らない

境内墓地

本堂 向拝山号扁額

本堂 高原のペンション風

参道と石標

境内樹木 参道

山門 高麗門

山門 寺号扁額

德川宗家葵紋

天明凶作(天明初~中期)供養地蔵尊
餓死者供養天明八年建立





浄土宗 極楽山養林院天崇寺  
上越市寺町2-19-5

高田の寺院

  時宗 稱念寺
時宗・藤澤山無量光院清浄光寺六代・一鎮上人が嘉歴二年(1327)に越後国府(現 新潟市上越市)に建立した。
創建当時は応稱寺と号していたが、越前国坂井郡にある時宗念佛道場・長林山往生院稱念寺の住職が
応稱寺の初代住職を兼務していたために二代住職の時に稱念寺と改称した。
後、高田藩開府の際に寺町も整備することとなり、稱念寺も高田に移転した。


  木造 一鎮上人倚像 一? (国指定重要文化財)平成十一年六月七日指定
稱念寺を開山したとされる一鎮(1277~1355)は越後国妻有庄(現 十日町市)の出身で、
時宗開祖・一遍から数えて六代目の遊行上人である。
木像は寄木による等身の木彫像で、合掌する姿は時宗の上人像の特徴を示す。
京都長楽寺の重要文化財七件などが伝来しているが、倚像(椅子に腰掛けた像)である点、類例は極めて少ない。

写実性豊な頭部の表現から、仏師運慶の技法を継承した京都七条佛所による政策と判断され
慶派の肖像彫刻として県内唯一の貴重な遺品である。
稱念寺は元来、直江津の国府ったが、高田開府とともにこの寺町に移った。
本像は彫刻史上の価値と共に、今はない中世越後国府の謎を多く物語っている。

                                  案内説明より

本堂向拝彫刻

境内庭

歴代住職供養墓

墓地





時宗 西方山稱念寺
  
上越市寺町2-11-12

高田の寺院へ

庫裡

石標 本尊 善導大師

山門 隅柱付四脚門

山門 寺号扁額

仁王門 入母屋造龍宮形式楼門

板蟇股

重厚な棟木

二層屋根木組み

仁王門 奉納大下駄

仁王門 奉納大足袋

歴代住職供養墓 無縁三界萬霊等

六地蔵尊

浄土宗祖 法然上人御詠碑





浄土宗 終南山悟眞院善導寺 
 
上越市寺町2-5-5

高田の寺院へ

動物慰霊墓石碑

水子観音像

手水舎

奉納品

観音堂 奉納品

本堂 扉徳川紋

庫裡

観音堂

有縁・無縁納骨堂

無縁墓石





浄土真宗大谷派 府中嶋長楽寺
  
上越市寺町3-6-37

高田の寺院へ

庫裡

本堂

圓福寺

本堂向拝彫刻

境内墓地

経蔵念佛 阿弥陀如来安置

経蔵

本堂 
入母屋造銅板葺妻入り唐向拝

本堂 寺号扁額

庫裡

本堂 亀彫刻

境内樹木

杉・銀杏等の巨樹伐採記念碑
暴風により倒木

庫裡

歴代住職墓所

薬師堂 薬師如来とあるが
お姿は分らない

薬師堂

賓頭盧尊者

山門不幸 住職の御母堂示寂
七・四日法要

観世音菩薩と六地蔵尊

露地の地蔵菩薩と如意輪観音

本堂建立地 縄張り

庫裡

法林寺仮本堂

境内樹木

花園

墓地

境内墓地 俱會一處供養墓

聖観音立像

墓地

庫裡

墓地

  真宗大谷派
本堂に向かって敷かれた石畳の参道と、参道に沿う生垣、そして左手にある鐘楼が風情を感じさせます。
浄国寺は、永禄二年(1559)、賢西が春日山城下の茶畠村に小庵を結んだのがはじまりといわ れています。
そして、慶長元年(1596)に浄国寺と呼ぶようになりました。
その後、福島城下をへて、高田城築城とともに大鋸町(仲町6)へ移りました。
現在の場所へは、寛文5年(1665)の地震後に移りました。

                         寺町まちづくり協議会案内説明より転載

墓地

境内樹木

本堂

境内樹木 柘榴の実り

工事中に建物 庫裡・会館?

境内墓地

境内墓地

ぬいぐるみが納められている
水子地蔵尊?

地蔵堂?

毘沙門天王石塔

観音堂

観世音菩薩石像

歴代住職墓石供養

歴代住職供養墓

上杉謙信公開基の寺木札

三門 鳥 

三門 犬?

墓地

念妙寺標札

念妙寺本堂 会館





浄土真宗本願寺派 春日山念妙寺
  
上越市寺町3-2-7

高田の寺院へ

境内墓地

樹木

樹木

井戸

虚空蔵大菩薩石塔

庫裡

地蔵堂

  真言宗智山派 寶蔵寺
入口に建つ石碑に刻まれた文字からもわかるように虚空蔵菩薩を本尊としています。
もとは金蔵院といったので、昔は「金蔵寺さん」と呼ばれ親しまれていたそうです。
創建などについては不詳です。
高田城下の寺町へは、寛保二年(1742)に榊原政永にしたがって、姫路(兵庫県姫路市)から移ったといわれています。
明治九年(1876)、宝蔵院と合併して宝蔵寺と改められました。
市内では唯一の、真言宗智山派のお寺です。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載

境内墓地

境内石庭

山号石標

庫裡・会館

山号石柱

庫裡

山号石標

  真宗浄興寺派 多珂山正光寺
正光寺は、多珂(茨城県日立市)に天台宗の寺院として、建立されたのがはじまりと伝えられています。
その後、関東一円に念仏の教えを広めていた親鸞に帰依し、浄土真宗に改めたといわれています。
文永四年(1264)、浄興寺とともに信濃国水内郡長沼(現在長野市長沼)に移りましたが、川中島合戦の兵火により焼失。
その後、三本木(新潟県新井市)で再建されました。
さらに、文禄二年(1593)教恵の代に春日山城下へ移り、浄興寺の塔頭になりました。
平成六年(1994)新しい本堂が落慶しました。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

境内庭

俱會一處供養墓と庭の布袋像





真宗浄興寺派 春峯山西光寺  
上越市寺町2-6-10

高田の寺院へ

向拝龍の彫刻

  真宗浄興寺派 勝見寺
天正五年(1574)に、賢従によって創建されました。
賢従(出家前は今井又兵衛)は木曽義仲の重臣、今井兼平の子孫といわれています。
当時、長沼(長野市)にあった浄興寺の十四4世了性に、賢従 が帰依して、
同寺の塔頭になったのが勝見寺の始まりと伝えられています。

そして、天正年間(1573〜1592)に浄興寺とともに春日山城下へと移りました。
その後も、浄興寺に伴って寺地を替え、寛文五年(1665)の地震後に現在地へ移りました。
もみじの木々が真紅の秋を色どります。

                               寺町まちづくり協議会案内説明より転載

浄興寺本堂内陣  浄興寺HPより

慈愛堂

墓地

本堂 寺号扁額

本堂 大棟

本堂向拝

庫裡・寺務所・授与所

礼拝堂

親鸞聖人本廟

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

本堂 妻側より

半鐘

庫裡

境内樹木

墓地

別院大谷保育園

大谷保育園

墓地

経堂

納骨堂

本堂 妻側から

本堂

松が連なる参道

碑文

新築の建物 庫裡か檀信徒会館か?

通路にも見える枯山水の流

境内樹木

浄法寺傍にある髙田山碑
上部に左の文字が刻まれている 遠目には相撲と読めるが拡大すると上の写真の文字 何と読む?

境内樹木

加藤清正公を祀る石像碑(陰刻)

墓地

仁王門 山号扁額

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

仁王門 龍の彫刻

トップページへ

旅行見聞録へ

まちさんぽへ 



高田の寺院へ

大小五輪塔 親子・夫婦?
「立源院殿蓮長月頼」「長源院殿妙照是春」
確かに読んだものではない

山門 脇塀の徳川紋

山門 寺号扁額

山門  桟瓦葺四脚門

  真宗大谷派 圓福寺
本誓寺の参道を進むと右手に見える、石塀に囲まれたお寺が円福寺です。
五~六月頃、境内には、紫と白のアヤメの花が咲き誇ります。
創立年代は不詳ですが、お寺に残されている書状から、
もともとは仙台藩主伊達政宗の江戸屋敷(東京都)の近くにあったと伝えられています。
政宗は高田城主松平忠輝の舅にあたり、築城の際は、普請総裁として陣頭指揮をとりました。
円福寺と政宗との関係は不詳ですが、同寺は高田城の築城後に、現在地へ移ったといわれています。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載

境内墓地

地蔵堂

不許葷酒入山門

三門 寺号扁額

三門 桟瓦葺高麗門





真言宗豊山派 威徳院太子堂 
 
上越市寺町3-9-34

高田の寺院へ

  曹洞宗 太岩寺
関ケ原の合戦に敗れ、堀秀治に預けられた岩村城主(岐阜県岩村町)田丸直昌が開基と伝えられています。
直昌は、名立寺(新潟県西頸城郡名立町)第六世の忠山泉恕に帰依して、
慶長十年(1605) に福島城下小町川のほとりに太岩寺を建立しました。
現在の場所へは、寛永年間(1624〜1644)に移りました。
境内には閻魔堂や直昌の墓があります。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載


  太岩寺開基・田丸中務大輔直昌公墓所 慶長十四年三月七日寂 享年67  「太岩寺殿本秀心空大居士」
伊勢国・田丸城主、美濃国・岩村城主

南朝の忠臣北畠氏の一族で代々伊勢国・渡会郡田丸城主であった。
のち、陸奥国・三春城主、信濃国・海津城主を経て、美濃国岩村城主になる。
関ヶ原の戦いに大坂方に味方し落城、助命を得て越後国・春日山城主堀家に預けられる。
越中国・名立町名立寺六世忠山和尚に帰依し太岩寺を建立林鐘と号した。
従ってきた旧家臣の多くは帰農したという。


 太岩寺閻魔大王並びに閻魔堂由緒
閻魔大王は、今から約三百四十年前の延宝年間(1673~1681)に荊木家(二代目荊木新右衛門)により寄進され、
それ以後太岩寺の寺宝となっている。
高田のわらべ歌の歌詞にも「太岩寺のえんまさま」が登場し、
当時閻魔大王の大きさと共に閻魔堂そのものも立派な伽藍であったろうと推測され、地域住民の信仰をあつめていた。

その後、荊木家七代目荊木文右衛門により、文化六年(1809)に修復されている。
その後の大正四年(1915)の「寺町の大火」によりお堂は本堂、庫裡と共に焼失した。
幸い閻魔大王と十代王などの眷族は、類焼を免れ、昭和五年(1930)に竹澤新太郎によって閻魔堂が再建され、
それまでの庫裡に安置していたものを現在の場所に移すと同時に、
閻魔大王と眷族尊像の修復が檀信徒の寄付によってなされた。

戦中、戦後七十年が経過し、閻魔大王も傷みがひどく閻魔堂も老朽化が進んでいました。
平成十年(1998)、荊木家十三代目・荊木徳清の篤志により、閻魔大王、眷族尊像、閻魔堂全体の修復を完工した。
これにより、「太岩寺のえんまさま」は、以前にも増して眼光鋭く私ども人間界を見据えておられます。

                         案内説明より

田丸中務大輔直昌墓

三門

本堂 切妻造桟瓦葺一間唐向拝

本堂 山号扁額

禁葷酒入山

三門 扁額

三門 銅板葺薬医門
控柱が前方に設けられている





曹洞宗 髙陽山太岩寺
  
上越市寺町3-11-37

高田の寺院へ

  真宗大谷派 法林寺
境内の南天の赤い実がひきとわきれいな法林寺は、明暦元年(1655)に玄了によって創建されました。
開基の玄了は礪波郡(富山県)の出身と伝えられています。
本尊の阿弥陀如来立像のほか、親鸞、本願寺第三世覚如、聖徳太子の絵像など、
江戸時代前期の法宝物が守り伝えられています。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載





浄土真宗大谷派 石厲山法林寺
  
上越市寺町3-11-33





浄土真宗大谷派 金津山真宗寺 
 
上越市寺町 3-11-33

高田の寺院へ

淨林寺

本堂 切妻造桟瓦葺一間流向拝

山門 寺号扁額

山門 銅板葺高麗門と供養石塔





日蓮宗 自開山常國寺 
 
上越市寺町3-14-32

高田の寺院へ

  浄土真宗本願寺派 祐正寺
ツツジと宝篋印塔が調和する境内ツツジに誘われて境内に入ると、宝篋印塔が凛として建っています。
祐正寺は、承応三年(1654)に、利泰によって創建されたと伝えられています。
祐正寺の前を北に向かって少し歩くと、「土橋村発祥之地」の碑が建てられています。
この文字は、日本画家の小杉放庵によって揮毫されたものです。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載





浄土真宗本願寺派 高見山願重寺 
 
上越市寺町3-16-27

高田の寺院へ

  浄土真宗本願寺派 願重寺
石橋を渡り、瀟洒な山門をくぐると本堂が見えてきます。
永禄年間(1558〜1569)に了得によって開創されたと伝えられています。
はじめ、春日山城下に建立されましたが、慶長十二年(1607)領主堀忠俊が福島城を築くと福島城下へ移りました。
そして、寛永八年(1631)に高田寺町へ移ったといわれています。
現在の場所へは、寛文五年(1665)の地震後に移ったと考えられます。
阿弥陀如来を本尊としています。

                     寺町まちづくり協議会案内説明より転載

山門

山門 桟瓦葺薬医門

庫裡

天林寺

本堂 切妻造桟瓦葺一間流向拝

水口

最尊寺

手水舎・水屋

  浄土真宗本願寺派 願念寺
願念寺の開山は智源で、建武元年(1334)に駿河道場口(静岡県)に創建したと伝えられています。
永禄六年(1563)、願念寺第六世正玄の時に春日山城下へ移ったといわれています。
その後、戸野目新田をへて、寛永四年(1627)に現在地へ移りました。
願念寺の山号は、今はなき、中世越後府中の名残を知るよすがとなっています。

                       寺町まちづくり協議会案内説明より転載

本堂

願念寺

参道

庫裡

本堂

長命寺

参道燈籠

参道

光國寺

本堂

本堂扁額

庫裡





浄土真宗本願寺派 春日山光學寺 
 
上越市寺町3-12-34

高田の寺院へ

地蔵菩薩

地蔵堂

歴代住職供養墓





日蓮宗 法頂山妙國寺 
 
上越市寺町3-8-33

高田の寺院へ

三門 寺号扁額

三門 桟瓦葺薬医門

南無日蓮大菩薩 紀念石塔

地蔵堂

庫裡

本堂





日蓮宗 吉祥山日朝寺 
 
上越市寺町3-5-43

高田の寺院へ

並木参道

本堂 向拝彫刻

本堂 入母屋造桟瓦葺一間唐向拝

平出修之墓

境内墓地

境内墓地

山門 隅柱付桟瓦葺高麗門

山門 寺号扁額





日蓮宗 法光山長遠寺 
 
上越市寺町3-2-3

高田の寺院へ

金堂向拝彫刻

山門 山号扁額

山門 銅板葺高麗門隅柱付

寺号標





浄土宗 紫雲山引接院来迎寺 
 
上越市寺町2-4-3

高田の寺院へ

本堂

浄土真宗大谷派 常榮寺

  曹洞宗 宗恩寺
手入れのゆき届いた花壇の花と、境内の木々が四季折々の花を楽しませてくれます。
そして門前の両脇には小さなお地蔵様が祀られています。
寛永二年(1625)に春日山林泉寺十四世玄室膺頓によって創建されたと伝えられています。
もとは林泉寺(春日地区)の隠居寺となっていました。
釈迦牟尼仏を本尊としています。

                          寺町まちづくり協議会案内説明より転載





浄土宗 迦寶山光樹寺 
 
上越市寺町2-4-18

高田の寺院へ

本堂

浄泉寺 浄興寺塔頭寺院





真宗浄興寺派 姫磧山正念寺 
 
上越市寺町2-6-10

高田の寺院へ

  真宗浄興寺派 浄正寺
秋には境内のもみじの大木が真紅に色づきます。
浄興寺第九世の巧観に帰依した善西が、村井村(長野県筑摩郡 現在松本市村井)に建立したのがはじまりといわれています。
善西は、もと北面の武士だったと伝えられています。
永禄年間(1558〜1570)、浄興寺にしたがって三俣村(新潟県新井市)に移りました。
そして、慶長三年(1598)、春日山城下に移り、浄興寺塔頭となりました。
その後も浄興寺とともに寺地を替え、現在にいたっています。

                           寺町まちづくり協議会案内説明より転載・

浄正寺 浄興寺塔頭寺院

本堂・庫裡

  真宗浄興寺派 専稱寺
宝徳二年(1450)、浄恵が浄興寺第六世巧観の弟子になり、中条村(長野県上水内郡)に建立したのがはじまりです。
はじめ専勝寺といいましたが、浄興寺に伴って春日山城下に移って後、専称寺と改めました。
寛永年間(1624〜1644)、専称寺第五世浄賢の代に浄興寺境内に移り、塔頭となって今にいたっています。
寛文五年(1665)の地震後、浄興寺とともに現在地に移りました。
境内の椿がそれは美しい花を咲きほころばせます。
門脇の「春雨」は名木。

                             寺町まちづくり協議会案内説明より転載





真宗浄興寺派 和光山勝見寺 
 
上越市寺町2-6-45

高田の寺院へ

  真宗浄興寺派 善福寺 
善福寺境内の杉の木、そして奥庭の竹林が落ちついた雰囲気を醸し出す善福寺。
創建などについては、天和元年(1681)の大火で古い記録が焼けてしまったため不詳ですが、
慶長三年(1598)に順理によって、福島城下の善光寺町に再興されたと伝えられています。
その後、寛永十三年(1636)に浄興寺の塔頭となり、今にいたっています。
現在の場所には、寛文5年(1665)の地震後に浄興寺とともに移りました。

                             寺町まちづくり協議会案内説明より転載

山門 寺号扁額

山門 桟瓦葺四脚門

浄興寺参道

鐘楼

梵鐘

手水舎と右 八房の梅

  曹洞宗国巖寺
国嚴寺には、堂々とした丈六の大仏が安置されています。
丈六は大仏の像高が一丈六尺(16尺)あることをさします。
大日如来(宝冠大日如来)と呼ばれるこの像は、明治十五年(1882)に高田の仏師によって制作されたものです。
元治元年(1846)の焼失後、改めて造立されました。
この像は松材を用いた寄木造りで、全身に漆が塗られ、金箔で装飾されています。
五如来をあしらった宝冠をのせ、手はおなかの前で禅定印を結んでいます。

                              寺町まちづくり協議会案内説明より転載

庫裡

住職供養墓

歴代住職供養墓

本堂扁額 大仏殿

本堂 大仏殿

寺号標

山門 寺号扁額

山門 桟瓦葺薬医門






浄土真宗大谷派 中戸山西光常敬寺 
 
上越市寺町2-7-27

高田の寺院へ

本堂があります

小道の先に

四季の花咲く浄蓮寺です

  真言宗豊山派 華園寺
落ち着いた山門と杉並木、そして境内の石祠が苔むす華園寺は、
『義経記』に源義経が奥州へ下る途中に泊まったと記されるお寺です。
もともと、山寺三千坊(新潟県板倉町)の本山で大甲院と言いましたが、
後に国司紀躬高に招かれて府中(直江津)に移ったと伝えられています。
そして、海から出現した観音菩薩を本尊として、華園寺と名前を替えたといわれています。
高田城の築城のとき現在地に移りました。

                            寺町まちづくり協議会案内説明より転載

山門 彫刻

山門 銅板葺高麗門

山門
原にぽつんと立っている

本堂

洞仙標看板





曹洞宗 岡峰山洞仙寺
  
上越市寺町1-1-22

高田の寺院へ

手水舎

山門 門扉の彫刻

山門 門扉の彫刻





浄土真宗大谷派 高田別院 
 
上越市寺町2-24-4

高田の寺院へ

三門 久昌禅寺標札

門前 地蔵菩薩像(笠地蔵)

三門 桟瓦葺薬医門

座禅堂・食堂?

庫裡

本堂庭 石塔があるが読めない

三門 松が美しい参道
寺号から推察すると名称の如く神々の別当寺らしく思えるのですが、その名を残したの高位の神を祀っていた?

参道 左の建物は

六地蔵尊





曹洞宗 天照山神宮寺
  
上越市寺町2-22-2

高田の寺院へ

小栗美作守正矩の妻・おかんの墓

高田姫と高松宮(有栖川家)妃寧子墓

高田姫勝子 左初代高松宮妃寧子

庫裡

境内墓地

常夜燈

  浄土宗天崇寺
天崇寺は天文年間(1532~1555)に上杉謙信が春日山城下に開基した寺と云われ長恩寺と号した
後德川家康の六男が信濃川中島から旧領も引き継いで高田藩四十五万石(与力大名を加えて七十五万石)を開府した。
長恩寺も開府と同じくして高田城下の寺町に移転、諸堂を建立した。

歴代領主の崇敬篤く寺運隆盛大いに上がりましたが、明治維新後は藩主の保護も無くなり又廃仏毀釈の流れの中、
廃寺を余儀なくされた寺院も多く、当寺も法灯を守る為明治十六年(1883)浄土宗極楽寺と合併し、
浄土宗極楽山天崇寺と名称を改めました。

寺号は当時に縁のある江戸幕府二代将軍徳川秀忠公三女で越前福井藩主・松平忠直公の正室・高田姫勝子の法号
「天崇院穏誉泰安豊寿大善女人」より寺号を立てました。
高田姫は夫と同居することなく高田藩主となった子の松平光長公の江戸高田藩屋敷に住み七十二歳で生涯を終えた。


  高田姫と初代高松宮妃の墓所
大きな五輪塔供養塔は、高田藩藩主・松平越前守光長公の母、高田姫(勝子)のものです。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠公の三女でなを勝子といい、三代将軍家光公の姉にあたります。
光長公は寛永元年(1624)高田藩二十六万石の藩主となりましたが、
九歳の幼少であったためしばらく国元には帰らず江戸屋敷で過ごしましたが、元服後、高田に入部しました。

光長公とともに母勝子様も同行して高田に入り、その際、土産として城下の地子銭(宅地税)を免除しています。
城下の人達は勝子様のことを「高田姫」と呼んで崇めたそうです。
この墓は、高田姫の三回忌に建立されたものです。
なお、高田姫の墓所は東京都港区にある浄土宗 光明山和合院天徳寺にあると云われる。

小さな五輪供養塔は、高田姫の娘で、初代高松宮(有栖川宮)妃となった寧子様のものです。
二代将軍秀忠公の養女(秀忠公は祖父)となり、その後初代高松宮様に嫁ぎました。
宮様が若くして三十六歳で薨去されたため高田に戻り、この地で亡くなりました。


  小栗美作守正矩の妻・おかんの墓
おかんは、父の越前家松平直忠が改易となって豊後国萩原(大分県)に配流中の寛永十三年(1636)に生まれました。
高田藩主・松平光長の異母妹にあたります。
小栗美作守正矩は光長の信用が厚かったので、慶安四年(1651)におかんと結婚しました。
この時美作二十六歳、おかん十七歳でした

二人は、伊賀・左衛門・掃部大六の三人の男子を儲けましたが、上の二人が早世したため、三男の掃部大六だけが残りました。
おかんは、寛文五年(1665)の高田大地震より半年も早く、五月十五日に病死されました。
享年三十 法名は「高源院殿清誉春法大姉」と言います。

夫の小栗美作は優れた頭脳と卓越した行政手腕を持ち、高田大地震の復興に務め、
今日の高田の市街区画整理を造成しました。
さらに殖産振興に尽力され、直江津港の補修、関川の浚渫、中江・西中江用水の開削、魚沼の軍山採掘、
大潟・保倉谷神田の開発など多くの事業を推進しました。
野尻湖に源流を求めた延長六里十八丁(26㎞)の中江用水開削は三百年以上経た今でもその恩恵を受けています。
これは頸城の大開発期とも呼べる時代で、それを推進した小栗美作は、まさに上越地方振興の偉大な先駆者でありました。

このように「万台不易」の功績を残した美作でありましたが、高田藩内で起った藩主光長の跡継ぎをめぐる争い、
いわゆる越後騒動の為、その張本人として悪名を着せられ、五代将軍徳川綱吉親栽のもとに、
天和元年(1681)六月二十二日、子の掃部大六と共に切腹を命ぜられ果てました。
美作五十六歳、掃部十八歳の生涯でした。

美作が敏腕で強い権力を持ち、藩主光長の妹を妻に迎えていたことを反対派に妬まれたのが
騒動の原因であったものと考えられています。
おかんが美作に執拗に勧めて、わが子掃部を藩主光長の嗣子して、跡継ぎにしようとしたという越後騒動の通説は、
おかんが騒動の十年以上前に亡くなっていることから、まったくの事実無根の事であります。

その為無念の死を遂げた美作とは異なり、このような大きな五輪塔の墓が残されたのです。


  天崇寺山門 (上越市指定有形文化財) 昭和五十年指定
延宝二年(1674)に建立したものです。
形式は典型的な高麗門で開いた扉を覆う雨覆いの袖屋根(主柱と控柱に棟木を渡し切妻屋根を架けたもの)がある。
高麗門は城門に造られることが多く(虎口桝形の第一之門に置かれる)、この門も高田城本丸の門と同じ型であるといわれ、
高田城の建築物を偲ぶ唯一のものである。
門の大きさは、建坪11㎡、棟高さ6.3m、軒高さ3.92m
山号扁額の揮毫は、高田藩榊原家六代・最後の藩主、榊原政敬 高田藩知事のち子爵

                             案内説明より

本堂 山号扁額

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

稱念寺山門 石柱門

本堂 虹梁と木鼻

庫裡

井戸

本堂

山門

南無妙法蓮華経石塔





日蓮宗 青柳山浄法寺
  
上越市寺町2-10-28

本堂
入母屋造銅板葺一間唐向拝

本堂 正面鳳凰の彫刻

庫裡

有縁・無縁納骨堂

小栗美作守正矩墓所

龍神井

本堂

境内墓地

境内墓地

塔頭寺院・末寺廃寺墓石供養

本堂

浄國寺

庫裡

  真宗浄興寺派 玄興寺
本山浄興寺が信濃国水内郡太田庄長沼(現在長野市長沼)にあった頃、寺領内の井上村の村おさであった先祖が、
浄興寺に帰依し、代々同寺の家令を務めてきたと伝えられています。
その後、浄興寺第十五世善芸の時、浄円が稲田鍛治町(東本町五)にお寺を建立し、
玄興寺と号したのがはじまりと伝えられます。
慶長年間(1596〜1614)といわれています。
寛文五年(1665)の地震後、現在地へ移りました。
そして浄興寺塔頭となり、今にいたっています。

                            寺町まちづくり協議会案内説明より転載