北陸のいろいろ
    
北陸のいろいろその2

立山黒部アルペンルート   
前田利長墓所と高岡市  高岡城址 国宝・瑞龍寺 高岡大仏 町の商家  
雨晴海岸&櫻谷古墳&武田家住宅     
一乗谷 朝倉館跡  
北ノ庄・福井城遺構・柴田神社  参照: 温泉その13→山代温泉
永平寺・丸岡城・福井城跡  参照: 温泉その8→アパホテル福井   
東尋坊  参照: 温泉その7→芦原温泉
富山県氷見めぐり  忍者ハットリくん








立山黒部アルペンルート

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黒部ダムより立山

黒部ダム上流薬師岳方面

黒部ダムより後立山 鹿島槍ヶ岳

関電トンネル破砕帯の湧水

黒部ダム駅

立山黒部アルペンルート 扇沢駅

関電トンネル トロリーバス

関電トンネル破砕帯サインランプ

展望台への階段200段

展望台より黒部湖

黒部湖駅

ケーブルカー

黒部平

黒部平より赤沢岳

ロープウェイ

ロープウェイ大観峰駅

立山トンネルトロリーパス

室堂駅

雪の大谷 16m

雪の大谷ウォーク

工事用ケーブル等の基礎

大観峰駅より黒部湖

室堂から大日岳

室堂から国見岳

立山山頂 右雄山と雄山神社 左ピーク大汝山

室堂から浄土山

佐伯有頼の像

立山は万葉集に神の山と詠われた霊山である。

伝説によると、大宝元年(701)に越中国守佐伯有若の子有頼少年が白鷹のゆくえをたずねて山に入り、
山で熊を射たが熊と思ったのは実は佛であった。
佛のお告げに感激して僧となり名を慈興と改め立山を開くため一生をささげたという。

古来越中では男子は立山に登拜せねばならぬしきたりであったが、少年有頼の物語こそ越中人の心の支えであった。
そして昭和天皇が御歌に詠まれた雄大な姿は今も富山県民の魂のよりどころとなっている。

昭和天皇御歌 「立山の 空にそびゆる ををしさに ならへとぞおもふ みよのすがたも」
                                                             案内説明より


アルペンルートの交通機関は立山黒部貫光株式会社という会社であることを初めて知った。
普通観光の字を使うと思うのだが、アルプスを貫くのでそうなったのかと勝手に思っていたが、その説明が駅に掲示してあった。

   社名の(貫光)について
「貫光」の「貫」とは時間を、「光」とは宇宙空間、大自然を意味している。
わが日本国土の中央に横たわる中部山岳立山連峰の大障壁を貫いて、富山県と長野県を結ぶことにより、
日本海側と関東、中部、関西を擁する太平洋側との偏差を正して国土発展の均衡化をはかり、
もってそれぞれの地方自治の発展をはかろうとする理念とあわせて我が国に比類なき立山黒部の大自然並びに
千年余にわたる文化と歴史を広く世に紹介し、
国民想像力涵養の道場たらしめんとする高邁な理念をもつ創業者佐伯宗義社長が、社名を「貫光」と命名したのである。

以上が社名の由来である。
長い文章で、一文ですべてのことを述べているのでわかりにくい文言と思った。

俗にいう裏日本と表日本の経済格差、をなくすために、立山黒部に観光に訪れてほしい。
そのために、大自然にエスカレーターを設置したので多くの人にその自然を満喫し、越中の歴史的文化にも触れてもらいたい。
このようなことが述べられているのでしょうか

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前田利長と高岡

JR西日本高岡駅

駅前の大伴家持銅像

大判家持は日本最古で最大の歌集「万葉集」の代表的な歌人であり、その編纂に深い関係があるとされている。
天平十八年(746)から天平勝宝三年(751)までの五年間、越中国守として、高岡市伏木古国府に在任し、
この間越中を中心とした豊かな風土に接して歌を詠んだ。

万葉集全四千五百十六首のうち家持の歌は四百七十九首で、その内二百二十三首が越中で詠まれた歌で、
家持の「越中万葉」はひときわ光彩を放っています。

高岡が奈良、飛鳥と並び万葉の故地といわれている由縁です。
家持がいた国庁跡近くの伏木一之宮には、全国初の万葉集に関する専門施設「高岡市万葉歴史館」があります。

国府の所在地は伏木測候所の辺りだと云われている。

大伴家持の歌

御旅屋(オタヤ)商店街アーケード

市内唯一のダイワ百貨店

かたかごの花をよぢ折る歌


もののふの 八十をとめらが 挹みまがふ
寺井の上の かたかごの花



この歌が縁でかたかごの花(かたくり)
は高岡市の花に制定されている

富山銀行本店 煉瓦社屋

井波屋仏壇店(国登録有形文化財)

佐野家住宅(国登録有形文化財)

日蓮宗 海秀山大法寺

本堂
この近辺には寺社が多く点在している

境内の聖人銅像

高峰譲吉博士胸像(高峰公園内)

1854年この地に医師である父高峰精一と母幸子の長男として生まれた。
母の実家津田家は醸造業を営み、生まれながらにして父母の影響を受けて化学者への道を歩むよう運命づけられていた。
生まれた年に父は、加賀藩前田家に招かれて金沢に赴任し、翌年母と共に金沢に移った。

1879年工部省工部大学校(東京大学工学部の前身)応用化学科を卒業、翌年イギリスに留学した。
1884年アメリカのニュー・オリンズ市万国博覧会事務官として渡米し、肥料などに生かされている化学の有用性を認識。
帰国後の1886年に専売特許局次長に就任し、1892年タカ・ジアスターゼの研究に成功する。
1894年にタカ・ジアスターゼの特許を得た。

1900年牛の副腎からアドレナリンを結晶として得ることに成功するなど、多くの発明発見を行い、
世界の医学・薬学の発展に大きく貢献した。

博士は、高岡市がアルミニウム産業の立地に有利であることを提唱した。
今日、高岡市は博士の指摘どおり、わが国のアルミニウム産業の一大拠点となっている。

また、アメリカで日本倶楽部・「日本協会」を創設し、セントルイス万国博覧会の日本館{鳳凰殿」を「松楓殿」として残すなど、
日米親善に尽くした。
                                      案内説明より

川巴良諏訪神社

本殿

鐘楼門

本堂

蒲鉾屋

仏壇販売井波屋
表通りの井波屋との関係は?

土蔵造り街並み

木舟町 大野屋菓子店舖

   菅野家住宅
菅野家は、代々伝右衛門を襲名した高岡の代表的な商家で、江戸時代末期から明治にかけて、回船の隆盛にともない財を築いた。
明治二十二年(1889)には高岡銀行を設立、明治三十六年には高岡電灯を創立する一方で、
政界にも進出するなど高岡の政財界の中心的な存在であった。

主屋は、明治三十三年(1900)の高岡大火の直後に再建され、土蔵も同時期の建設と推定される。
主屋は土蔵造り、二階建て、平入りの町屋である。

外観は黒漆喰仕上げで、太い出桁で軒を支え、二階の窓に観音開きの土戸を備えるなど、全体的に重厚な意匠とする一方、
大棟、防火壁正面の石柱、正面庇の天井飾りや軒を支える鋳物の支柱などの細部の要所には細かな装飾がほどこされ、
華やかな意匠としている。

また、トラスの洋小屋組や釉薬をかけた煉瓦の防火壁など、時代を反映して洋風の要素を取り入れてている。
土蔵は二階建で、蔵前も土蔵造りとしており、主屋と同じく大火の教訓を生かして防火に念入りに備えた造りとなっている。

内部は、柱や長押等の部材が細く、土蔵を意識させない造りとなっている。
特に、本間など外向きの部屋は数寄屋風で白木の正目の桧や屋久杉などの銘木を使用し、
壁は自然石を砕いた粉を混ぜた朱壁とするなど、贅を凝らした造りとしている。

当住宅は、伝統的な町屋が多く残されている高岡の中でも、大規模で最も質の高いものとして貴重であると評価され、
平成六年十二月二十七日、重要文化財に指定された。

桁行:12.7m  梁間13.6m  切妻造  桟瓦葺  二階建  平入  正面に一間の本瓦葺の土庇


   筏井家住宅
筏井家は代々、糸などの卸商を営んでいた商家である。
明治三十三年(1900)の高岡の大火で罹災し、明治三十六年に現在の家屋が再建されたことが普請文書からわかる。
大工は石塚嘉平、左官は山谷長次郎である。

主屋は道路に面して西向きに建ち、両隣家との境に煉瓦積みの防火壁が立ち上げられている。
北側の防火壁に沿って主屋と土蔵を結ぶ通り土間、南側の防火壁に沿って主屋と客用便所を結ぶ土庇が設けられている。
主屋は土蔵造り、二階建、平入りの町屋で、外観は黒漆喰仕上げである。

屋内の間取りは通り土間形式で、道路側に店の間と店座敷、中間部に茶の間、座敷、仏間、奥に控の間、
茶室、床の間が並び、裏庭境に土庇をつけている。
二階は、道路側に物置、奥は縁側のついた座敷が並んでいる。

二階の外部には観音開きの土戸を付けた窓が設けられているが、
これ等の土戸はすべて開けると隣りどうしの戸が一体化しておさまるように設計されており、意匠的な配慮が見られて興味深い。
隣り家境には釉薬をかけた煉瓦と青石からなる洋風の防火壁が立ち上げられ、防火の備えに大きな注意が払われている。
屋内の諸室は、良質の材料と趣向が凝らされた意匠に特徴がある。

また、根太天井を張った茶の間には高い天窓を設けて、採光や意匠の面でも工夫がなされている。
小屋組みは洋風トラスである。

筏井家住宅は、在来の町屋に見られる伝統的な技法を踏襲しながらも、塗り壁による防火構造、洋風の構造、
意匠を導入した質の高い建造物として貴重であると評価され、
平成十年二月二十五日、富山県指定有形文化財に指定された。

桁行:11.7m  梁間: 13.5m  切妻造  桟瓦葺  二階建 平入  正面に一間の本瓦葺の土庇

                                                 案内説明より

菅野家住宅(重要文化財)

筏井家住宅(富山県有形文化財)

天窓

土蔵づくりのまち資料館
高岡市有形文化財(旧室崎家住宅)

大仏の御顔(高岡市指定文化財)

高岡大仏 銅像阿弥陀如来坐像

高岡大仏は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、
延享二年(1745)木造金色の仏像を建立したのが始まりである。
しかし、その像は文政四年(1821)に焼失し、その後、天保十二年(1841)に再興されたが、
これもまた明治三十三年(1900)の大火で焼失した。

現在の大仏は、篤信家の松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治四十年(1907)に造営事業が着手された。
その後、中川原町の荻布宋四郎らの協力により、二十有余年の歳月を経て昭和八年(1933)に全行程を完了し、
同年五月に開眼式が行われた。

昭和五十五年(1980)に十一メートル後ろに下がった現在の場所に移転・補修された。
原型は中野双山。
古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行った
記念すべき大作である。

昭和三十三年(1958)に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を一字で表現する(キリーク)という梵字が
頂点に配されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しく、奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている。

地上より総高さ:15.85m  身長: 7.43m  白毫直径: 15㎝  螺髪直径: 9㎝  御髭長さ: 60㎝  
光背外形: 4.54m  青銅消費量: 13,125㎏
                                       案内説明より

野立の金剛力士像

鐘楼

高岡城跡外堀

   高岡と加賀前田家二代藩主前田利長・三代藩主前田利常
織田信長に仕え加賀百万石の礎を築いた初代前田利家。
その利家と妻まつとの間に生まれた長男が、二代藩主前田利長です。

利長は早くから父に従って戦場を駆け巡り、主君信長からも期待をかけられていた逸材でした。
二十歳のとき、利長は主君信長の四女永姫を妻にむかえ、その四年後に越中三郡の領主として今の高岡の守山城に移る。
これが利長と高岡との深い縁の始まりとなった。

1599年、利長は父利家の遺領を継いで二代藩主となり金沢城に入城した。
秀吉の亡き後力をつけてきた德川家康の加賀征伐という動きに対し、利長は母まつを人質として家康に差出し、
加賀藩を危機から救った。
1600年、関ヶ原の戦いで利長は德川方につき、戦功により加賀、越中、能登三国を領する百二十万石の大大名となった。

1605年、利長は四十三歳にして弟の利常に家督を譲り富山城に隠居した。
その四年後に富山城は焼失したが、利長は迷うことなく、かっての居城守山城に近い関野ヶ原(高岡)に築城し、
1609年に町を開いた。

金沢城をも凌ぐ高岡城の設計は、天下に聞こえた築城の名人高山右近の手による。
城下町の名前は、中国の「詩経」にある「鳳凰啼けり かの高き岡」から、高岡と命名した。
しかし、開町五年にして利長は死去すると、翌年には幕府の一国一城令により高岡城は廃城の運命をたどるこことなった。

その後、若くして加賀藩百二十万石を譲られた異母弟の三代利常は、兄利長に深く思いを感じ、
高岡の地に利長の墓と菩提を弔う瑞龍寺の建立を命じた。
また、廃城により城下町として寂れかけていた町の復興に力を注ぎ、高岡は城下町から商工業都市として見事によみがえった。

加賀藩の威信をかけて建立された一代城郭の風格を持つ瑞龍寺は、廃城となった城に代わる高岡の町民の心の支えとなり、
以来瑞龍寺は高岡の町の発展を見守り続けてきた。
兄利長への報恩の心によって高岡に深い歴史の彩りを与えた三代藩主利常は。
高岡にとって利長は産みの親、利常は育ての親といえよう。高岡はそのご金沢に次ぐ加賀藩第二の都市として栄える。

                                             高岡の見どころリーフレットより

外堀にかかる朱塗りの駐春橋

駐春橋より外堀

内堀

本丸 前田利長像

本丸中央広場

高岡城石垣の石

   高岡古城公園
市街地の中心部に広がる桜の名所古城公園は、今から四百年前に加賀藩二代藩主前田利長が築いた高岡城の跡です。
約二十一万平方メートル(約七万坪)の城跡は、全体の三分の一が水濠で占められています。
城の建築物は残っていませんが、堀や石垣は築城当時のままに残されています。

築城時の堀が完全な形で残っている高岡城は、江戸城、弘前城に並ぶ貴重な存在です。
園内には藩主前田利長や城を設計した高山右近の銅像が立っています。
                                   
                                                  高岡の見どころリーフレットより   

石割筋のたがね痕

二の丸 市民会館

射水神社  祭神 二上神(瓊瓊杵尊)

当地五キロメートルの二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し詳しくはないが、
天武天皇の三年(674)正月奉幣に興られた伝承を以って鎮座の年と定めた。

次いで、慶雲三年(706)初めて祈年奉幣の例に入り宝亀十一年(780)従五位下の神階に叙せられ、
延喜式の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。

やがて戦国の世屢く兵火に罹り類廃したが、前田利家・利長の保護により輪央を改め、明治四年國幣中社に列した。
維新の神仏離規制に従い且つは広く県民の崇敬に迎えられ寺坊所管の二上を離れ明治八年九月現在地に遷座せられた。

                                                 案内説明より

拝殿 奥本殿

手水舎

ホテルニューオータニ高岡
郷土の大谷米太郎が縁のホテル

読売新聞 日本テレビ系列等々
郷土の正力松太郎が縁で

男と女の駅前飲食歓楽街

前田利長公墓所(国指定史跡)参道

加賀藩主前田家墓所は、高岡市の前田利長墓所と金沢市の野田山から成る近世大名家の墓所です。
前田利長墓所は、慶長十九年(1614)に五十三歳で生涯を閉じた利長の三十三回忌にあたり、三代利常が造営したものです。
近世段階の墓域の総面積は、約三万三千平方メートル(一万坪)と広大で、大名個人墓所としては国内屈指の規模を誇ります。

二重の堀で囲まれた墓域中心部には、幅十五・五メートル、高さ五・〇メートル(石塔上までは十一・九メートル)の御廟があり、
その立面は狩野探幽下絵と伝承される百三十枚もの蓮華図文様が彫刻され、荘厳な印象を与えます。

戸室石で全面を覆う外観は、方形土盛り墳墓形式の前田家墓所とは異なるものです。
しかし、学術調査の結果、内部の構造は歴代藩主同様の土盛り墳墓であることが判明しました。
また、堀や土塁、石燈籠の配置などは正方形区画を意図しており、
初代利家(幅二十メートル、高さ五・七メートル)を上回らない規模で築いています。

これらは、前田家墓所の造営様式を踏襲したものであり、
わが国の近世大名墓所のあり方を知るうえで欠かすことのできない史跡です。

                                                   案内説明より

利長公墓所

利長公墓石

瑞龍寺

曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は高岡城を築城し、この地で亡くなった。
加賀百二十万石を譲られた異母弟利常公はその恩を感じ、時の名匠山上善右衛門嘉広をして禅宗建築の七堂伽藍を完備し、
広山怒陽禅師をもって開山とされた。

造営は天保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)まで約二十年の歳月を要して完成した。
当時、寺域は三万六千坪(約十万八千平方メートル)で周囲に濠をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。

平成九年、山門、仏殿、法堂が国宝に指定され、禅堂、大庫裡、大茶室、廻廊が重要文化財に追加指定となり、
江戸時代を代表する禅宗建築として高く評価されている。

総門(重要文化財)

山門(国宝)

山門扁額

正保二年(1645)に建立され万治年間に場所を変えて建てなおす。
延享三年(1746)火災で焼失、現在の建物は文政三年(1820)に竣工した。
当時としてはめずらしく和算により設計されている。
左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢をまつっている。

仁王像 吽形

仁王像 阿形

吽形像の左足

仁王のわらじ

楼上への階段

仏殿(国宝)

万治二年(1659)に建立された。
山上善右衛門嘉広の最も心血を注いだ力作の一つで、総欅造りである。
屋根は鉛板をもって葺かれている。
これは全国においても金沢城石川門にその例を見るだけである。

上層軒組は、禅宗建築の純粋な形式であり、屋根裏の扇垂木やエビ虹梁など複雑にして妙を得たか架構法である。
本尊として中国明代の釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊をまつっている。

仏殿階段と大太鼓

仏殿御本尊

法堂(国宝)

明暦年間(1655~1657)の竣工になり、建坪百八十六坪。
境内第一の大建築で、総桧造りとなっている。
構造は方丈建築に書院建築を加味したもので、六室より成り立っている。

中央奥の内陣には二代藩主前田利長の御位牌が安置されている。
法名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。

中央二室の格天井には狩野安信の四季の百科草が描かれており、
正面内陣の欄間には高岡という地名の由来となった鳳凰が刻まれている。

前田利長公御位牌

法堂大茶室(重要文化財)

格天井百科草配置説明案内図

中庭

釘隠し

石廟

石廟(県指定文化財)

手前から前田利長、利家、織田信長、信長室正覚院、織田信忠の分骨廟
石廟の中には、宝篋印塔がまつられている。

禅堂(重要文化財)

全国で重要文化財の指定を受けている禅堂が三棟ある。
京都東福寺の禅堂、京都宇治の萬福寺の禅堂と当瑞龍寺の禅堂である。
瑞龍寺の僧堂(禅堂)は古規僧堂として高く評価されている。

古規僧堂では坐禅をする場所(單)、法服寝具を納める棚(函櫃)、座禅の合間に歩く廊下(経行廊)が
備わっていることが大切である。
瑞龍寺僧堂は凡てそれ等が整っていて、更に黄檗宗の影響が見受けられる。
一 文殊菩薩の背後に来迎柱、来迎壁が存在する。
一 單に上がる際の踏み台(踏床)がある。

又ほかにない特徴として、函櫃の上は明かり障子である場合が多いが壁となっている。
構造として夏は涼しく冬は暖かく留意されており、採光は黄昏時の明るさを保つよう工夫されている。

坐禅修行道場

禅堂内部

庫裡大広間

庫裡台所

大庫裡(重要文化財)

この建物は寺の台所である。
向拝は明治初年の廃仏毀釈に際し砺波の千光寺へ売却された。
今回の復元修理に際し千光寺様の御好意により返却され、本体と共に復元されたものである。

天井は漆喰を弓形状に塗り、一種の防火建築としての特徴がうかがえる。
隅柱及び荷重のかかる柱を特に太いものを使っていることも見逃せない。

廻廊庫裡正面の扁額

香積堂横の韋駄天像

廻廊に祀られる延命地蔵尊坐像

禅堂前の回廊

法堂の鬼瓦(銅板葺き替え以前のもの)

休み処 八丁茶屋右近亭

八丁道にある利長公銅像

八丁道

前田利長廟所と瑞龍寺を結んでいる参道は、その長さが約八町(八百七十メートル)
あるところから八丁道と呼ばれています。

参道には五十四基の石灯籠が配置されています。

高岡駅プラットホーム

オバケのQ太郎、忍者ハットリくん、ドラえもんが此処から後、生まれることになる。

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一乗谷朝倉館跡

西門(唐門)

   朝倉義景屋敷跡
この館跡は山城を背にして西を向き三方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓を構えている。
内部には十数棟の建物群が見られ、これらは大きく二つに分けられる。 

一つは主殿を中心として南半に位置するもので、接客の機能をもち、会所や数寄屋・庭園なども見られる。
もう一つは常御殿を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂・湯殿なども見られる。
この他、厩等も存在していた。

建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸・明り障子といった引き戸を多用し、畳を敷き詰めた部屋も多かった。
また屋根は杮板などで葺いていたと考えられている。
書院造りの成立過程を知るうえで欠くことのできない貴重な遺構である。
                                                    案内説明より

朝倉館案内板
読み難く危険な場所に設置してある

朝倉義景屋敷跡

屋敷跡(台所や井戸)

北門跡

北門外にある稲荷神社

客殿跡

主殿跡全景

建物想像プレート(倉庫)

主殿跡プレート

朝倉義景公墓所

義景石廟(後世に祀る)

朝倉義景館庭園跡復元(特別名勝)

館跡全景

湯殿庭園跡(特別名勝)

鶴石

湯殿庭園 庭池中島 亀石

   特別名勝 一乗谷朝倉氏庭園
特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡には、庭池の周囲に豪壮な庭石組みを伴った林泉庭園から、
数個の立石・伏石と小礫の化粧敷からなる枯淡枯山水平庭まで数多く遺存する。
それらの内で湯殿跡・諏訪館跡・義景館跡・南陽寺跡の四庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として平成三年五月二十八日、
国の特別名勝に指定された。

義景館跡庭園を除いた桟庭園は、庭石組などが地上に露出していたこともあり名園として知られるところで、
昭和五年すでに国の名勝に指定されていた。
しかしその後の管理が不十分でかなり荒廃していたので、
昭和四十二年庭池の堆積土の除去や周囲の雑木の伐採などが行われ整備された。

また昭和六十二年には湯殿跡・諏訪館跡・で、庭池に導水するための石組溝や暗渠が発掘された。
山地を背景に凝灰角礫岩の立体的庭石組がなされている。

湯殿跡庭園が最も古く、他の三庭園は義景時代の作庭で、庭石組の形式もよく類似する。
後世に改変されることなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。

   義景館跡庭園
義景館跡庭園は完全に埋没していたが、昭和四十三年の館跡の調査で発掘された。
汀の庭石を建物の礎石に兼用するなど、建物と庭園が密接な関係の下に作られていた。
庭池は数寄屋の南の山裾に設けられ、中央に滝石組みがある。

滝口の前方には分水石が、滝石組みの左方には橋狭石と石橋の残片が遺存する。
東側の急斜面には、つづら折れに流れ落ちる導水路が作られている。
数寄屋跡の西には縁を介して、庭石を数個配し小砂利を化粧敷した枯山水平庭がある。
当庭園には海石の安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が一部に使われ、
華麗な桃山庭園様式の芽生えが見られる。

   湯殿跡庭園
湯殿庭園は、一乗谷で最も古い四代孝景の頃の、回遊式林泉庭園である。
庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石(凝灰角礫石)による護岸石組みや滝石組、
三尊石組などの豪快な石組みがなされている。

瀧副石は左右ほぼ同じ高さで、水落石は一段、滝口の前には、水分石がある。
導水路が発掘され、往時には池に水がたたえられていたことがわかった。
中島は亀石、西端の大石は鶴石とも言われている。

西方には園路の跡があり、池尻付近には橋狭石に相当する石も見られ、石橋が架けられていたと推定される。
排水路の出口は空堀石垣で壊されている。
観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。

                                                    案内説明より
     

諏訪館跡

諏訪館は、義景夫人小少将の屋敷跡と伝えられている。
庭園は一乗谷で最も規模の大きい回遊式林泉庭園である。
上、下二段の構成で、上段には滝石組と湧泉石組がある。

導水路は、東側の土塁部では暗渠になっていて、大きな礎石は、輪蔵のものとみられる。
下段の滝副石は、高さ413㎝で日本最大である。
弘化四年(1847)朝倉教景、貞景、孝景の法名を刻んで供養している。

落差が大きく水落石は四段に組み、水分石や礼拝石、橋狭石なども型通り据えられ、当時の庭園様式をよく伝える。
構成は大変形式的で、専門の庭師の作庭によると推察される。
天端の平らな石が多く安定感にとみ、実生のヤマモミジの巨木が庭石によく調和し、豪壮華麗な庭園美をつくっている。

諏訪館跡庭園

諏訪館跡庭園

諏訪館跡庭園 滝副石

中の御殿石垣跡

中の御殿石垣

中の御殿跡

中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられています。
この高台は、南陽寺跡や湯殿跡、諏訪館跡とならんで義景時代の華やかな生活の場所であり、
朝倉義景館近傍の屋敷に朝倉氏当主の妻子などが居住したであろうことが想像できます。

屋敷は南の道路に対して門を構え、この道路に面する南辺と東辺に土塁、さらに東辺の外側と北辺に空堀を廻らしています。
屋敷内は、門を入って右手に小規模な建物と、さらに奥に庭園が検出されています。

また、庭園北側に規模は明らかではありませんが、礎石建物が検出されており、主たる建物があったと考えられます。
これより北東奥には萬僕七間、東西二間を基本とする建物が検出されており、
規模や位置などから、日常の建物と考えることが可能です。
                                                   案内説明より

中の御殿跡

中の御殿跡南門跡

中の御殿南面道路

諏訪館跡庭園上の庭

一乗谷川

米津跡

米津は、一乗谷川右岸、上城戸跡から朝倉館に向かう中間に位置しています。
東側の高台には諏訪館跡があり、城下町の中心部に近いことから、重要な場所であったと考えられています。
米津では、平成十九年度に発掘調査を実施しました。

遺構は一部削平を受けていたものの、土塁を巡らした敷地に、
いくつかの建物跡や井戸跡のほか、敷地南東では炉跡を確認しました。
また遺物は日常生活で使用した物のほか、刀装具を型押しした土製の型や金属を加工する材料や道具が出土しました。

これらにより、この地には朝倉氏から特別な権限を与えられ、
刀装具という特殊な製品を製作したお抱えの金工師がいたことが想定されています。

米津跡全景

復原武家屋敷

この屋敷は約三十メートル四方の基準的な広さをもち、周囲に土塁を巡らし、西の道路に向かって表門を開いている。
屋敷内の南半に六間×四間の主殿を配し、これに接して東南隅に屋敷と庭を設けている。
北半には蔵や使用人が居住したと考えられる納屋や井戸などが配されている。
これらの建物は、発掘調査の結果に基づき、絵画などの資料を参考にして復原を行った。

屋根は割板で葺かれ、室内には畳も敷き詰められ、舞良戸・明障子等の引き戸が多く用いられている。
木材の加工には、かんな・やりかんな・ちょうな等当時の道具を用いている。
全体にかなり進んだ建築様式の住宅であったことが知られ、一乗谷の文化水準の高さが伺われ、興味深い。

復原町並み中央通り

屋敷内井戸

復原武士屋敷門

復原町並み 紺屋商店染料瓶等

復原武家屋敷敷地の納屋や井戸

復原武家屋敷の厠

台所

納屋

町並み発掘跡

復原町並み土塀

(社)朝倉氏遺跡保存協会
復原町並
福井県福井市城戸ノ内町28-37
Tel: 0776-41-2330

開場:9.00~17.00 (入場16.30迄)
休日: 12月28日~1月4日
入場料: 210円
      70才以上・中学生以下無料

大河ドラマ江ゆかりの福井県ポスター
義父(柴田勝家)との数か月の縁でした

平成二十一年九月六日 全国植樹祭 一乗谷

天皇皇后陛下記念植樹



  天皇陛下の御歌

生徒らの 心を込めて 作りたる
  鍬を手に持ち 苗植ゑにけり

天皇陛下植樹(ウスズミザクラ)
ほかアカマツ・ケヤキ植樹

皇后陛下植樹(スタジイ)

皇后陛下植樹(ウワズミザクラ)
ほかトチノキ植樹

こまいけ高岡





富山県氷見市

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阿尾城跡  円照寺  光禅寺  上日寺  朝日貝塚  氷見日宮神社  氷見番屋街  光久寺茶庭

雨晴海岸(高岡市)  北陸の古墳(氷見市・高岡市)

榊葉乎布神社 (覆屋の中)

祭神:天照大神 建御名方神 住吉三神  菊理比咩神
当社は大友家持の勧請なりと伝聞され、阿尾村産神として鎮座しています。

十六世紀末、肥後の名家菊池氏の末裔、菊池武勝(右衛門入道)が、西国より当地に来往するに当り、
伊勢神宮に詣で、同社の榊樹を阿尾城築城の際に植栽したことに因み、榊葉神明宮と言われました。
阿尾城には、天正・文禄年間(1573~1596)頃、菊池右衛門入道・十六郎父子が居城し、
榊葉神明宮を城の守護神として尊崇してきたと云う事です。

また、菊池武勝は、北八代(氷見市北八代)に鎮座する式内社箭代神社の祭神、葛城襲津彦命を武神として奉斎、
祈願所としたとも伝えられています。
明治十二年(1879)八月二十二日に榊葉乎布神社と改称、村社に昇格しました。

前の社殿は、総欅造り、瓦葺、平入りで、明治四十年(1907)九月に造営されたものでしたが、
平成三年、台風により損傷したため、平成五年十月に白峰社の新造営と共に改修されました。
しかし、平成七年一月に焼失し、現社殿は平成九年九月に再建されたものです。 


   阿尾城跡 (県指定史跡)

阿尾城跡は、富山湾に面した標高20~40mの独立丘陵上に立地し、その独特の景観とともに市民に親しまれている史跡です。
発掘調査では、伝二の丸、伝三の丸から中世の土器、陶磁器類が多数出土しました。
また伝本丸には櫓が築かれていたと伝えられ、ここで海上交通を監視していたと思われます。

築城の時期は不明であるが、出土遺物から考えると十五世紀後半ごろには城としての利用が始まっていたと推定できます。
天正・文禄年間(1573~1596)頃には菊池右衛門入道・十六郎父子が居城していました。
菊池氏は織田信長の配下であった佐々成政に従っていたが、豊臣秀吉と成政が対立すると秀吉方の前田利家へと寝返り、
一万石を安堵されている。

しかし、慶長初め(1597頃)には廃城となり、菊池氏は加賀藩前田家の家臣となった。

                                                   案内説明より

阿尾城跡と榊葉乎布神社鳥居

手水舎 水っ気は少しも無し

神社石段参道

白峰神社参道 至る伝本丸跡

二の丸から本丸を望む

氷見港の夕日

富山湾越しに立山は見えなかった





真宗大谷派 毫光山円照寺 kokozan-ensyoji

山門

山門の扁額

本堂

鐘楼

   寺宝 木像阿弥陀如来立像 (市指定文化財)

像高84㎝、桧材、一木造り、彫眼の阿弥陀如来立像である。
来迎院という印相を結び、蓮華座に立っている。

節目で丸く張った頬の肉付け、小さい唇やあごの柔かな表現、大腿部のY字形衣文と裳の裾の短い着こなし、
そして体奥の浅い均整のとれた体躯など平安後期の特色がうかがわれる。

なお、円照寺には木仏安置の許可願いに対し、
本山からの書状及び寛永七年(1630)八月八日の木仏札(宗主からの許可証明書ともいうべきもの)等の古文書が現存する。

                                                 案内説明より

庫裡

本堂 隣接しているコンクリート造りの寺

庫裡

浄土真宗本願寺派 光明寺





曹洞宗 海慧山光禅寺 soutousyu kaikeizann-kozenji

高岡町並み 前田利長墓所 高岡城址 瑞龍寺

本堂

山門 新築の門

子安地蔵堂

本堂扁額 海慧山

本堂鬼瓦 前田家の家紋入り
加賀藩前田家の祈願所となっている

庫裡 藤子不二雄 資料展示公開

七福神石像

左から毘沙門天 福禄寿 恵比寿 弁才 大黒 布袋 寿老人

氷見漁港に浮かぶ小島、唐島(県天然記念物)は光禅寺境内地として島内には弁才(財)天・大黒天・恵比寿天が祀られており、
大漁満足・海上安全・財宝福徳・芸術・芸能の神として、また氷見市街の鬼門守護の霊場として地元の信仰を集めております。

                                               案内説明より

境内の庭園

弁財天

大黒天

恵比寿

歴代住職等寺関係者の墓所

左から 忍者ハットリくん  怪物くん  プロゴルファー猿  笑ウせぇるすまん

藤子不二雄
 本名安孫子素雄の生家としての方が世間的には有名? 

光禅寺四十九代住職の父母のもと昭和九年に生まれる。
10歳のとき父の死により寺を離れ高岡に移り住み、それが藤子・F・不二雄 本名藤本弘との出会いの場となり、
その後の人生を歩むことになる。

光禅寺縁の作家 藤子不二雄 を記念しその作品石像を造り境内に展示してある。
この種の石像としては大きく、仕上がりも立派です。



   寺宝 木造地蔵菩薩立像 (市指定文化財)

尊像は、高さ54.5㎝、桧材、一木造、彫眼、素地古色の立像で、位牌堂の本尊として祀られている。
左手臂を前方に向け(手首は欠失)右手は手首(後補足)で衲衣をおさえている。

この作風は九世紀ごろの様式で、あまり類例がないとされている。
しかし、頭部が大きく、肉付の良い温雅な顔立ち、丸みのある量感豊かな体躯、そして袈裟を薄鏧で、あたかもなでるかのように抑揚げを避け、浅く低平に彫るなど平安時代後期の特色がうかがえる。


   寺宝 絹本著色前田利家画像 (市指定文化財)

加賀藩祖前田利家の画像は、縦96㎝、横51㎝の絹地に描かれており、右手には笏をもち、衣冠の正装で、
揚畳に座した姿からは、権大納言大老にふさわしい威厳と風格が感じられる。

摩滅はいくらかみられるものの、筆勢、彩色ともに優れ、黒袍には唐草紋様のすかし、裾には花の丸紋様、
そして袴には藤の丸がいずれも金泥で細かく丁寧に描かれている。

垂幕のあるところから、供養像と描かれたものとみられ、寺伝は寛永九年(1633)、三代利常によりされたとする。
光禅寺には前田家歴代藩主に位牌が安置されているが、利常の位牌が特別に祀られていることから、
その恩顧の深かったことがうかがえる。

                                             案内説明より

七福神の一部





真言宗 朝日山上日寺 asahizan-jyonitiji

開創 1327年   開山 明峯素哲禅師   開基 足利尊氏   加賀前田家祈願所

本堂

   上日寺観世音菩薩霊水
この清水は白鳳十年(681)、御本尊千手観音菩薩を安置して、上日寺開創の時湧き出て、本尊を沐浴したものである。
霊木大銀杏樹もその時植えたものであると伝えられている。

この霊水に因む伝承は多く、修行者が心身を清めたり、「瘠男面」等で有名な室町期[1480頃)の面作師、
氷見宗忠もこの霊水にて心身を清め観音堂にこもって能面を彫ったと云われている。

また、往古、度々、大旱魃のとき、この霊水を観音菩薩にお供えし、釣鐘を打ち鳴らして雨乞いをしたところ、
霊験たちまちにして慈雨に恵まれたと伝えられ、
以来、慈雨、天候順調を祈願する奇祭「ごんごん祭り」が毎年四月十七日・十八日に行われています。

なお、この霊水は往古より厄災を逃れ、無病長寿・眼病平癒に効験ありと云われ、飲用や茶道にも珍重されている。
昭和六十一年二月二十四日「富山の名水」に選ばれています。

                                              案内説明より

庫裡

観音菩薩霊水

上日寺のイチョウ (国指定天然記念物)

上日寺は、銀杏精舎とも言われています。
白鳳十年(681)当寺創建の際に観音菩薩を安置し、その霊木としてこの樹が植えられたと伝えられていることに由来する。

樹高36m、幹回り12m、大きさでは日本屈指の樹木である。
四月下旬には雌花を開き、秋には1,000リットルにも及ぶ実を結ぶ。

地上3~5mの辺りから大小無数の気根を出し、生命力に強さがうかがわれる
その気根先端が削られているのは、気根を乳房に見立てた乳の出ない母親が乳の出るようにと祈り、
乳首にあたる気根の先を削り持ち帰り、煎じて飲用すると出るようになるとの民間信仰のためである。


上日寺の寺宝・文化財

   絹本著色 騎獅文殊菩薩画像 (市指定文化財)

文殊菩薩は世に「三人寄れば文殊の知恵」と言われているように、知恵を司る菩薩であり、
元来普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍となっているが、この画像は独尊図として描かれたものと思われる。
縦90㎝、横41㎝。

結跏趺坐の姿で獅子に乗り、右手に剣、左手に蓮華をもっている。
稚児文殊と呼ばれる同時の様なふくやかな顔立ちと体つきで描かれている。

また、頭部は五つの宝髻を結び、息災を本願とする「五髻の文殊菩薩」として信仰されたのだろう。
菩薩の首飾り光背、獅子の装飾等、各所に截金の手法が用いられている。

当市の文殊菩薩信仰を考える上で、大変貴重な資料である。


   木造 延命地蔵菩薩坐像(餅喰地蔵)

延命地蔵菩薩は、左手に宝珠を捧げ、右手に錫杖をとり、蓮弁三段葺の蓮華をもつ岩座に半跏の姿で坐し、
薬師堂に安置されている。

高さ47㎝の桧材で、一木造、彫眼、彩色の坐像である。
均整のとれた本像は、穏やかな衣文と円満具足の面相を持ち、量感は厚みがある優れた南北朝期の作である。

別名「餅喰地蔵」ともよばれ、元禄の昔、継娘をいじめ続けた鬼女のような継母が、
継娘をかばおうと目の前で餅を食べる地蔵を目の当たりにして改心し、仏道に帰依して慈母になったという民話は有名である。


   上日寺梵鐘

上日寺では、毎年四月十七日と十八日の両日にわたり、朝日観音の例祭が挙行され、その際、松丸太をかついで鐘楼にかかる梵鐘を連打する風習が伝えられていることから、一般には「ごんごん祭り」と呼ばれている。

この梵鐘は、総高143㎝、口径81㎝、乳数64を数える。
陰刻された銘文によると、祈雨の修法が成就したことを喜んだ人々の寄進により、新たに寛文四年(1664)梵鐘を鋳造したが、歳の経過とともに音が悪くなったため、貞享五年(1688)、金沢の鋳物師平井但馬守家長の手によりこの梵鐘が鋳造された。
市内に現存する梵鐘では、蓮乗寺の梵鐘に次いで古く、先の大戦による供出を免れている。


   長沢筑前寄進の石仏群

この石仏群は、戦国時代、森寺城主であった長沢筑前が寄進したものである。
室町時代には一か寺中に西国三十三番札所の霊場を設け、それを巡拝することによって、西国巡礼に代え、実際に霊場を回るのと同じに御利益があるとされていた。
長沢筑前も日頃から観音菩薩を深く信仰し、西国三十三か所の霊場を模し、この像を安置したものと考えられる。
この三十三か所観音のうち、元亀三年(1572)の石仏二十四体(その内銘文の残るもの五体)。
元治二年(1865)の後に補された仏六体を合せ、合計三十体が市の文化財に指定されている


                                               案内説明より                                           

気根

根幹部の樹洞

中央薄緑の樹木
樹齢のため上部は空いている

鐘楼

閻魔堂

境内社 稲荷神社

観音堂

観音堂扁額

観音堂の扁額

大慈神呪  菅原道日徳の筆
本尊: 千手観音菩薩
     (千手千目自在菩薩)

観音菩薩は慈悲の心を以って
人々を苦しみから救い、徳を与え、
自身は悟りを追求し、修行し、
願いを成就する御姿です。

扁額の大慈とは、慈悲深き心の意味です
真言宗 朝日山上日寺
創建: 白鳳十年(681)
開基: 法道上人



地蔵堂


越中国人の霊場 立山からの朝日を拝める小高い丘に寺を建立、山号を朝日山としたと思われる。
観音堂は朝日を拝み見る立山に向かって建っているという。
朝日を拝み見る→朝日を見る→日を見る→日見→氷見 となり地名のもととなったと云われている。

ここの小高い丘を朝日山公園として市民の憩いの場となっているが、勿論、山号から採ってその様に呼ばれているのでしょう。

長沢筑前寄進の石仏群





朝日貝塚
   臨済宗國泰派 誓度寺

誓度寺 山門

本堂 (駐車場?)

境内にある貝塚保存舎

朝日貝塚(国指定史跡)は、縄文時代前期から中期(約5000年~3000年前)を中心とする遺跡です。
大正七年(1918)に誓度寺の建設・改築中に発見され、大正十三年(1924)の調査では、
粘土を踏み固めた床面に炉を持つ縄文時代の住居床面が、
二棟分確認され、わが国で最初の「住居跡」の発見例となりました。

保存舎地点では、深さ2mまでの間に15~30㎝の海水産貝類を主体とする貝の層が二層確認されています。
また、土器・石器も多数出土しました。
この中には美術書に載る装飾把手付深鉢(バスケット型土器)も含まれています。
その他、埋葬されていた五体の人骨や、重要文化財になって硬玉製大珠等も出土しており、日本海側を代表する貴重な貝塚です。

上記のように学術的には重要(国指定史跡)な史跡ですが、写真の通りで角型の保存舎が一棟あるだけです。
考古学の専門家ではない人には、私も含めてその価値を見いだせないと感じました。
展示物も無く、写真と解説の説明リーフが額に入っているだけです。

上日寺から約500mと近いので、寄ってみるのも良いと思いますが、あくまでも日本最初の住居跡として見ると良いと思います。
上日寺駐車場から下り、二つ目の曲がり角を右折、直進するとT字に突き当たり左折、
クランクの様に次を右折するとすぐ右側に誓度寺があり、車でしたら寺の境内に駐車できると思います。

                                                     案内説明より

保存舎の内部

出土品写真展示





光久寺の茶庭 kokyuji no satei

真宗大谷派 風香山光久山 山門

本堂

庫裡

阿弥陀如来立像

太鼓楼

鐘楼

茶室

茶庭

光久寺の茶庭は、背後の丘陵を巧みに生かした回遊式庭園で、江戸時代(宝永年間)、
加賀藩に仕えた造園師能登の駒造の作庭といわれる。

書院から御堂へと古風な回廊を渡っていくと、泉水、石組、植栽などが見事な調和を見せる。
俯して眺めるに良く、仰いで望むにもよい庭園の景観に名付けて俯仰園といい、
茶室「俯仰庵」の名もこれに因んでいる。

また、寺伝によると「この庭は、浄土曼荼羅をあらわすもの」とされ、
三尊石を配してあるなど『拝む庭』にふさわしい。

自然風景の理想的な縮図を意図された江戸時代の代表的庭園です。

                                     案内説明より





大境洞窟住居跡 (国指定史跡) oozakai dokutu jyukyoato

洞窟神社 白山社

拝殿

本殿

大境洞窟住居跡

この洞窟は、大正七年(1918)六月、白山社改築のため洞窟内の土砂を取り除いた際に、
人骨、土器、石器などがたくさん出てきたことから注目を浴び、当時の著名な考古学者により、発掘調査されました。
この洞窟が貴重とされる理由は次のとおりです。

① 日本で最初に発掘調査された洞窟遺跡であること。
② 落盤によってできた遺物を含む六つの地層が、時代順に区別されていること。
   (特に縄文時代と弥生時代のどちらかが古いかを実証した)

洞窟は標高約4mにあり、約7000年前の縄文海進期に波の浸食によって形成されたものと考えられています。
入口は南西方向を向き、高さ約8m、幅約16m、奥行き約34mで内部は次第に狭くなり、一番奥には湧水がありました。

遺物を含む地層は落盤によって六つの層に別れており、上にある層より下にある層の方が古い時期であることがわかります。
大正七年の発掘調査では詳細な測量図が作成されており、また、縄文時代の大型石棒のほか、
抜歯された弥生人骨や、顔面の装飾等が注目されました。

層位 時代 主な出土品
 第1層  鎌倉・室町時代頃  土師器・陶磁器
 第2層  古墳時代後期~奈良・平安時代頃  製塩土器・須恵器
 第3層  弥生時代後期~古墳時代前期頃  弥生土器・土師器
 第4層  弥生時代後期頃  弥生土器
 第5層  縄文時代晩期~弥生時代後期頃  弥生土器・骨角器・人骨・動物遺体
 第6層  縄文時代中期頃  縄文土器・石器・人骨・動物遺体





柳田布尾山古墳 (国指定史跡) yanaidanunoyama kofun

柳田布尾山古墳

富山湾を望む地に築造された全長107.5mの大型前方後方墳。
平成十年に発見されて注目されました。
前方後方墳としては日本海側最大で、全国でも十指に入る規模です。

周囲の古墳時代前期古墳と比べても隔絶した規模を持ち日本海海上交通をおさえ周辺を掌握した首長の墓と考えられている。
北陸の古墳時代の政治・社会を考える上で重要です。

前方後方墳

円墳 二号墳

富山県最大の古墳で、前方後方墳としては日本海側最大規模
所在地 富山県氷見市柳田字布尾山34番地外
立地 標高25m  平野との高低差約18mの丘陵上
墳形 前方後方墳  前方部を北北西に向ける
規模 全長107.5m
後方部・・・長さ54m  幅53m  高さ10m
前方部・・・長さ53.5m  幅49m  高さ6m
時期 古墳時代前期の3世紀末から4世紀前半頃と推定

二号墳

直径25mの円墳  
柳田布尾山古墳との間に幅約5m、深さ1.6mの周濠が巡っていました。
二号墳の中心部は調査していないため、築造時期や詳しい内容は明らかになっていません

柳田布尾山古墳館

二号円墳

古墳公園整備で伐採された樹木





雨晴海岸 櫻谷古墳 武田家住宅

雨晴海岸 男岩

女岩

女岩から能登半島方面

義経岩

二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。

この岩は別の名を「義経雨はらしの岩」といい文治三年(1187)に源義経が北陸字を経て、奥州平泉へ下る際にここを通りかかった時、にわか雨に遭い、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたとの伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として国府(市内伏木)に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集に収めています。

   馬なめて いざ打ち行かな 渋渓の 清き磯みに 寄する波見に    家持詠

                                                 案内説明より

義経神社

雨宿り岩

雨晴海岸の大伴家持の歌碑

「磯の上の 都万麻を見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり」 

                             大伴家持 天平勝宝二年三月詠


この歌碑は、安政五年(1858)に太田村伊勢領の肝煎り(村長)宗九郎が建立したとされ、
高岡市では最も古い万葉歌碑です。


宗九郎は、相当の学問があり万葉集にも関心が高く、特に、都万麻はタモノキであると推定し、
一本のタモノキとこの碑を置いたとされるが、永年の風食により、碑の文字を判読するのは難しい。

都万麻は、クスノキ科の常緑高木で一般にはタモまたはタブノキ呼ぶイヌグスのこととされている。
老木は根が盛り上がり、神々しい姿となることから神聖な樹として扱われることが多い。

「都万麻」の歌は、家持が出挙のため旧江村(現在の十二町潟南端辺り)に向かう途中、
越中国射水郡渋谿の崎(現在の高岡市雨晴海岸)の岩上の盤根を露出した見慣れない大樹に驚き、
何よりもまだ耳にしたことの無い「都万麻」の名に異郷の風土を感じ、詠じたものであるとされている。

都から遠く離れた越中に国守として赴任していた大伴家持は、二上山塊の北東端であり、断崖となって海に投し、
海面に点在する大小様々の岩礁に白波が砕ける渋谿の景観が、よほど鮮烈なものであったらしく
、いくつかの賛辞の歌を詠じており、この歌もその中の一つである。

曲がりくねった太い根をぐんとどこまでも伸ばし、岩上にしっかり根を下ろして神々しい風格を帯びている「都万麻」の木を見て、
その根のように自分の生命の永遠を願うと共に、自分の眼前の渋谿の景観が未来永劫いつまでも続くように願ったのであろう。

                                              案内説明より





櫻谷古墳 (国指定史跡) sakuradani kofun

桜谷古墳 第一古墳

古墳時代は、弥生時代に始まった農耕が、鉄器の普及、灌漑技術の発達、耕地の拡大などによって、農業生産が著しく向上し、
大きな経済力と権力を持った地方豪族が現れた時代です。

古墳とは、弥生時代末期から奈良時代初期(三世紀末頃~七世紀初め)にかけて築かれたこれら豪族の墳墓であり、
前方後・円墳・方墳等の基本形があります。
桜谷古墳の発見は、大正七年九月、開墾のため、元諏訪神社の老松の根を掘り上げた際、
銅鏡一面と管玉十三個が出土したことに始まります。

宮内省・内務省・県史跡調査委員会などの調査で、大正十三年までに前方後円墳二基と円墳七基が確認され、
多数の遺物も出土しました。

出土遺物は、碧玉製紡錘車(糸をつむぐ道具)・碧玉製石釧(腕輪)・碧玉製管玉(数個を連ねて首飾りなどの装身具にする)
仿製内行花文鏡・金環(耳輪)・金銅性帯金具・刀・土師器・須恵器・人骨などで、
東京国立博物館、高岡市立博物館に保存されています。

円墳七基は、戦時中に食糧増産のため畑地となり、確認しがたくなりましたが、
前方後円墳二基は五世紀初頭以前の築造と推定され、規模の大きさや出土遺物の豊かさから、
北陸を代表する古墳といえます。

内部調査は行われていませんが、北陸地方の文化の発展を理解するうえで貴重な資料となっています。
この二基の前方後円墳を保存するため、昭和四十年から四十三年にかけて土地の買収と環境整備工事が行われ、
史跡公園ができました。

地元では桜谷古墳群保存会を結成して史跡の清掃管理や、文化財の愛護活動に努めています。
なお、古墳の南側を県道が通過することになり、昭和五十一年から五十二年度に工事区域の発掘調査を実施したところ、
新たに円墳一基(六世紀)と箱式石棺二基が発見されたので、遺構の上に陸橋をかけて保存しています。

第二古墳

       国指定史跡  桜谷古墳 二基   富山県高岡市太田字桜谷
前方後円墳一号墳   前方部 後円部
全長62m   幅30m  高さ54.5m   直径35m   高さ6m
前方後円墳二号墳   前方部 後円部
全長50m   幅不明   高さ1m   直径33m   高さ6m





武田家住宅 (国指定重要文化財)

武田家正面

武田家は、武田信玄(晴信)の弟逍遥軒信綱(武田信廉?~1582 織田信長甲斐侵攻で死亡)の末裔と伝えられる旧家で、
太田村の肝煎(村長)を務めた家柄である。
住宅の敷地は、南面山側を含めると三千坪以上ある広大なもので、家格の高さを示している。

この住宅は、安永年間(1772~1780)から寛政年間(1789~1800)伏木勝興寺本堂(重要文化財)が建設された時の余材で
建設されたという伝承を持ち、現住宅の構造、手法からもその頃のものであることが確認された。

武田家住宅は西に面し、間口、奥行とも十間に及ぶ大規模なもので、前方五間通りは茅葺きの母屋と庇、
後方五間通りは切妻造板葺の越屋根を付けたツノと庇からなる。

富山県平野部の民家は、「ひろま」「ざしき」のある前面は茅葺きの主屋とし、「だいどころ」「ちゃのま」のある背面はツノまたは
オロシにして奥行きの深い住宅を作るが、この住宅はツノの各室が前後三列に配される大型住宅の典型的なものである。
主屋部分は、土間に面して「ひろま」「ぶつま」を並べ、その奥に「ざしき」二室が配置されている。

「ひろま」は天井が高くなっており、「枠の内」と呼ばれる十字に交差する梁組を見せた部屋となっている。
ツノ部分は、土間側に「だいどころ」「りょうりのま」を置き、その奥に広い「ちゃのま」と「ねま」などを配置している。
「ちゃのま」天井にも「枠の内」が見られ「ひろま」とともに太い梁組や小壁の三段に通る貫の構成などは、
建築意匠として見るべきものがある。

この住宅は、建築年代が古いにもかかわらず、良く保存されていたために当初の形式を残していると共に、
この地方特有の屋根形式をもつ貴重な民家であることが評価され、重要文化財に指定されている。

                                               案内説明より

玄関

勝手門?

気抜き屋根(越屋根)

説明文中にツノとかオロシの言葉が書いてあるがそのイメージが無い。
オロシハなんとなく主屋根の裾に設けた屋根(主屋根から一段オロシた屋根)の様な想像が持てるが、ツノは?
今回は時間の都合が立たず見学は出来なかったのですが、機会があれば調べてみたい。

武田家住宅入口

屋敷林