北陸のいろいろその2



世界遺産 五箇山合掌集落

金沢街巡り  参照: 温泉その16→金沢松島温泉 テルメ金沢
前田家墓所  寺町・卯辰山・小立野寺院群  長町武家屋敷 
にし・ひがし・主計茶屋街
金沢城・兼六園  参照: 温泉その2→山代温泉
金沢城・兼六園 その2  成巽閣  石浦神社  石川県護国神社  金沢神社
藩家老本多蔵品館  東本願寺 金沢霊沢伝統産業工芸館  西田家庭園玉泉園





トップページへ

旅行見聞録へ

まちさんぽへ 

北陸のいろいろその1





世界遺産
 五箇山合掌集落


相倉合掌集落  村上家・白山宮  菅沼合掌集落  岩瀬家・行徳寺
  冬の合掌住宅

越中五箇山相倉合掌集落

越中五箇山相倉合掌集落

五箇山は、庄川上流と支流利賀川の深い谷間に点在する七十の集落(旧・平村、上平村、利賀村)の総称で、
相倉はその典型的な集落の一つである。

五箇山には古くから人が住んでいたが、史料の上ではっきりするのは浄土真宗が広まってきた十五世紀末ごろである。
天文二十一年(1552)十月二十七日付の『五箇山十日講文書』には大部分の集落が記されており、
その中に相倉道場(現相念寺)の坊守、図書了歓の名もある。

合掌造りは豪雪に耐えるために60度の正三角形に造られた急傾斜の屋根を持っている。
アマ(屋根裏)で蚕を飼ったために、切妻として明り取りを設け、床下で塩硝(鉄砲火薬の原料)の土を培養したため床が高い。

養蚕・塩硝・紙すきは江戸時代の五箇山の三大蚕業で、これらの生産と厳しい環境への対応から合掌造りが生まれました。
こうした貴重な遺産を守るために集落全域が文化財に指定され、ここに住む人たちも保存のため努力をしています。


   文化財指定の経過

昭和四十五年十二月四日・・・・・国史跡に指定
平成六年十二月二十一日・・・・・重要伝統的建造物群保存地区に指定
平成七年十二月九日・・・・・世界遺産に登録



   合掌造りの里 民宿 「勇助」 yusuke

囲炉裏では薪で火を焚きいつでも温かいお茶が飲めます。
合掌造りの内部の様子が一階、二階とみられます。    
相倉の四季や歳時記を写真パネルで紹介しています
相倉の歩み、世界遺産の話など解説パネルで学ぶことが出来ます。

開館時間: 10.00〜15.00  休館日: 毎週火曜日(その他不定休)  入館料: 大人 300円  小中高 100円

合掌造りの里 民宿「勇助」

公衆トイレ

村社 地主神社

世界遺産登録記念碑

五箇山豆腐 

30年前は硬い豆腐であった。
出されたものは木綿豆腐をペーパータオルで
水切りした程度のものでした。

民宿

民宿

五箇山豆腐 冷奴





村上家 
(重要文化財)  白山宮 (重要文化財)

村上家住宅 (重要文化財)

桁行 67尺5寸京間(約23m)、梁間35尺2寸京間(約12m)、正面・背面庇付、一重四階、切妻造・妻入、茅葺屋根

約400年前の建築当時の様式を伝える貴重な合掌造り家屋で、民族資料なども展示しています。
五箇山地方の民家のうち、古い時代の形式を改造されずに残している建造物がこの「村上家住宅」です。

この種の家屋を一般に「合掌造り」と呼んでいますが、その中でも最大規模の農家で、一重4階、切妻造り茅葺、戸口は妻入り、
間口は35尺2寸、奥行は67尺5寸あります。天正年間に建設されたと伝えられており、
戦国時代の武家造りから書院造りに移行する過渡期の様子を示すなど、多くの古風、古式の遺構が残っているのは、
全国にその類を見ないといわれています。

また、江戸時代に五箇山の主産業といわれた塩硝製造や和紙製造等の民族資料数千点を陳列しており、
五箇山の生活史を見ることもできます。
これらのことは、当主が囲炉裏を囲みながらお話しします。


                                             村上家HP解説より

村上家 国道に沿って

開館時間: 8.30〜17.00
        12月〜3月 9.00〜16.00
休館日: 毎週水曜日(祝祭日開館)
入館料: 大人300円  小中150円


国指定重要文化財 村上家
富山県南砺市上梨742
Tel: 0763-66-2711

白山宮 舞殿・神楽殿

国指定重要文化財 建造物 白山宮本殿
一間社流見世棚造、板葺  附指定 棟札一枚(「文亀弐年壬戌  卯月廿日」 文亀二年壬戌、二月二十日)

県内最古の木造建築物である。
本尊の秘仏十一面観世音菩薩は、33年ごとに御開帳される。

白山宮は泰澄大師が人形山頂に創建したものを、後に現在地に移したと伝えられる。
現在の本殿は、棟札によれば文亀2年(1502)の建立が明らかである。

もとは拝殿内にあったが、大正10年(1921)の本尊御開帳に合わせて拝殿より外に移築し、覆屋を設けた。
昭和29年に修理工事を実施し、昭和33年に重要文化財に指定された。
その後、御開帳(昭和61年)に合わせて、昭和55年に拝殿を移築修理し、その中に本殿を奉置して原形に復元した。

屋根は板葺、身舎は舟肘木、扠首組の簡素な造りであるが、向拝は三斗組、頭貫を虹梁状とし、
木鼻は象模様、蟇股や手狭に若干の装飾がみられる。

木割は割合に太く、木鼻、蟇股、手狭などに時代の特色がみられ、様式的崩れも少なく、
この地方の文化を知るうえで貴重な建造物である。

                                         案内説明より

本殿 覆堂 (重要文化財)

手水舎





越中五箇山菅沼合掌集落

五箇村民俗館

合掌造りの公衆トイレ

五箇山菅沼合掌集落

この集落は茅葺き切妻合掌造りの家屋が14棟あり、昔のままにまとまって保存されている数少ない合掌集落です。
合掌造りは礎石の上に大角柱を建て、桁や梁を渡して、その上に丸太の大合掌を組み上げ茅葺とし、
内部を2階、3階としたものです。

建物は冬季の積雪に耐えるように建築されているので、角柱や桁や梁は太い材料が用いられているものが多い。
現存する合掌住宅の古いものは、天保年間(1830〜1840)以前の建築から、新しいものは大正14年に建築されたものがある。

合掌集落は昭和30年代頃までに急速に姿をけし、ついに合掌集落の原型を永久に窺うことができなくなるので、
その保存を図るため昭和45年12月、この菅沼集落を国の史跡に指定したものである。
平成7年12月には世界文化遺産に登録された。

またこの集落には民家を利用し、民俗資料を展示する五箇山民俗館と塩硝の館を設置し、一般公開している。

                                                 案内説明より

五箇村民俗館

開館時間: 9.00〜16.00
入館料: 大人300円  小中150円 
      (民俗館・塩硝の館 共通)
休日: 無休 (12/29〜1/3は休館)

富山県南砺市菅沼436
Tel: 0763-67-3652

合掌造りの土産店

土産品

集落の神明社

合掌集落

集落〜駐車場のエレベーター





重要文化財
岩瀬家・行徳寺

岩瀬家 (国指定重要文化財)

この住宅は、江戸時代に五箇山における塩硝(鉄砲火薬)の上煮役をつとめた藤井長右衛門が、
住宅と役宅を兼ねて建築したものである。

五箇山・飛騨白川地方の合掌造りでは最大の規模を持つ住宅で、木割は太く良質材を使用しており、仕上げも精巧である。
建物の半分は総欅造りで、座敷部分は奥式台のある書院造となっている。

各階の床をすのこの平張りにしてあるのは、かって、三階以上において養蚕業などを行っていたため、
階下からの焚火の暖気が最上階まで通るよう設計された生活の知恵である。

岩瀬家の総体は、間口14.5間(26.4m)・奥行き7間(12.7m)、高さ8間(14.4m)もあり、大黒柱などは一尺(0.3m)角の欅を、また、
24畳敷の出居の敷板にも全て欅材が使われ、しかも釘を一切使わず、縄とねそで結び上げて造られています。

五箇山は大自然の優しさよりむしろ厳しさの多い地です。人々は、その厳しさに寄り添うように生活してきました。

その象徴が合掌造といわれる家屋です。手を合わせたような急勾配の屋根の形は、豪雪地帯のこの地で雪を落としやすくし、
屋内を幾階にもわけて活用する為です。
この岩瀬家は準五階建てで3〜5階は養蚕の作業場となっています。
また、下階の炉から暖をとり、風通しをよくする為上階の床板は透かしの目皿になっています。

岩瀬家は、昭和三十三年(1958)五月十四日に国指定重要文化財に指定されました。

現在は、家長の間・仏間・書院の間・武者隠しの間・奥式台の雨戸(鎧戸)・長押の桃・牛乗石・牛繋石・塩硝釜
火天屋・天屋の仕組・自然石の大水槽・池の石垣など、ご観覧いただけます。

岩瀬家のあるこの五箇山は、幾重もの山に取り囲まれた谷間にあり、およそ八百年前に源平の戦いに敗れた平家の落人が
逃げのびて来た所とも言われています。
その中で、岩瀬家は約三百年前に、八年もの歳月を費やして建てられたもので、
当時、加賀藩の塩硝を取りまとめ納入する上煮役の藤井長右エ門が、天領飛騨白川郷へ、
加賀百万石の威光を示したものだとも言われています。

明治時代までは35人もの大家族が暮らしたと伝えられており、合掌造り最大といわれるその威容を物語っています。
岩瀬家は、昭和三十三年(1958)五月十四日に国指定重要文化財に指定されました。

また平成7年12月、岩瀬家から程近い菅沼・相倉の両集落は、後世に残すべき貴重な文化遺産として、
ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
約300年もの長きに渡り守り続けられてきた岩瀬家の遺構は、
美しい山村の風景とともに今なお昔のまま山人の歴史を語り続けています。

                                              岩瀬家案内説明より

切妻 平入

岩瀬家住宅 (重要文化財)

開館時間: 8.00〜17.00
入館料: 大人300円  小中150円
休日: 無休

富山県南砺市西赤尾町857-1
Tel: 0763-67-3338

三階

四階

三階

三階から四階

五階合掌部

五階

仏間

神棚

妻入式台玄関

式台玄関の書院の間

岩瀬家玄関

入口 囲炉裏の間





浄土真宗 角淵山行徳寺

開山 赤尾道宗 行徳寺山門

行徳寺山門(鐘楼門)市指定文化財

合掌造り庫裡 市指定文化財

本堂組物と蟇股

本堂

鐘楼

本堂扁額 角淵山

赤尾道宗遺徳館

開館時間: 9.00〜17.00
入館料: 大人200円  小中100円
開館日: 4月上旬〜11月下旬  休館日: 11月下旬〜4月上旬

富山県南砺市西赤尾町825
Tel: 0763-67-3302

ページトップへ

ページトップへ

ページトップへ

ページトップへ

ページトップへ

ページトップへ

越中五箇山へ

越中五箇山へ

越中五箇山へ

越中五箇山へ

越中五箇山へ

重要文化財 村上家

重要文化財 岩瀬家

行徳寺

白川郷行きバス (城端駅)

終着城端駅 列車止め

菅沼集落

菅沼集落全景

冬の五箇山合掌住宅

束の間の晴れ

越中五箇山へ

ページトップへ





金沢城 兼六園 その2

兼六園  金沢城  成巽閣  石浦神社  石川県護国神社  金沢神社      
 
兼六園  金沢城    





兼六園

桂の木

今は残った親木の原形から往時の姿が偲ばれ、
その命は若木に受け継がれて成長している。
このあたりは、かつての桂の大木にちなんで
「桂坂」と名付けられている

兼六園 桂坂口

桂の木

桜ヶ岡の桜の老木

常磐ヶ岡の赤松

常磐ヶ岡の椿?

徽軫灯籠(ことじとうろう)  手前虹橋 奥建物内橋亭

蓬莱島

水道の遺構

唐崎松

眺望代より

灯籠の脚部破損の様子

旭桜

贋行橋

二世姫小松と左初代姫小松


  徽軫灯籠と虹橋
この灯篭は琴の糸を支える琴柱の形をしていることから、徽軫灯籠(ことじとうろう)と呼ばれている。
手前の橋は虹橋、別名を琴橋ともいう。
この巧みな意匠が兼六園を象徴している。
灯籠の脚部は琴柱の呼び名のごとく両脚のバランスの良い姿であったが、何らかの理由で片脚が損傷し、
今のような片脚を池端にのる姿になったという。


  水道の遺構
兼六園を流れてきた辰巳用水が、ここから逆サイフォンの原理で金沢城の二の丸へ導かれた水道の遺構である。
寛永九年(1632)に作られたときは木管であったが、天保十五年(1844)に石管に替えられた。
この取水口を土塀で囲み、三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。


  唐崎松(からさきのまつ)
十三代加賀藩前田家藩主・斉泰(1822〜1866)が、琵琶湖の松の名所唐崎から種を取り寄せて育てた。


  眺望台
ここからの眺めは、兼六園の六勝(宏大 幽邃 人力 蒼古 水泉 眺望)のうちの一つ「眺望」を味わうことができる。
左のはるかに横たわる稜線は内灘砂丘、その向う側は日本海、砂丘が右に尽きるところから能登半島が北にのびている。
正面の山は卯辰山、右は遠く富山県境の医王山がのぞまれる。


  初代姫小松と二代姫小松
推定樹齢五百年を数えていた初代姫小松は、その枝ぶりの良さは兼六園内一を誇っていたが、
度々の台風による被害と老衰により、主幹の一部を残し平成七年の六月に伐採された。
左はその二世である。

                                            案内説明より

日本武尊の像 右端

七福神山

七福神山

根上松


  七福神山
文政五年(1822)に建てられた竹沢御殿(十二代藩主・前田斉広建築)からながめた築山である。
師殿石を左から順に恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁才天に見立てて配している。
別名福寿山とのいう。


  日本武尊の像と明治紀念之標
明治十年(1877)西南戦争(西南の役)で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。
日本武尊の銅像は身長5.5m、台座の高さ6.5mで明治十三年(1880)に建てられました。
像の両側には京都の西、東本願寺から贈られた赤松が植えられている。
写真の松は左側の松で西本願寺からのものである。
手向松(たむけ)の松と呼ばれている。


  地蔵堂
文政七年(1824)十二代藩主・前田斉広が隠居所「竹沢御殿」で没したときの枕石のあとにこの御堂が建てられた。
堂内には地蔵尊の石像二体が安置されている。


  根上松(ねあがりのまつ)
十三代藩主・前田斉泰(1822〜1866)が、稚松を高い盛土にお手植えし徐々に土を除いて根を表したものと伝えられている。

                                            案内説明より

地蔵堂

辰巳用水

山崎山

氷室跡

龍石

芭蕉句碑

石川県立伝統産業工芸館

伝統産業工芸館

成巽閣唐門入口

成巽閣扁額と前田家家紋

成巽閣唐門

成巽閣庭園


  辰巳用水
寛永九年(1632)金沢城の堀の水や防火用水としてここから約11q先の犀川上流から引かれた。
工事の設計施工は小松の町人、板屋兵四郎である。


  山崎山
昔、この付近一帯を「山崎の荘」と呼んでいた。
また、カエデなどが多いので、「紅葉山」ともいわれている。


  御室の塔(おむろのとう)
この五重塔は、京都の御室御所(仁和寺)の塔を模したものといわれ、この名が付けられた。


  成巽閣 前田家奥方御殿(重要文化財)
江戸後期、加賀百万石前田家を代表する建造物です。
加賀前田家十三代藩主・斉泰は竹沢御殿を解体しこの地に移築し、巽御殿としました。
色彩と花鳥で彩られた十二代藩主・前田斉広の奥方の御殿は華やかさと優美な意匠に満ちています。
京都の二条城と共に日本の江戸時代御殿建築様式を伝える希少な事例です。


  松尾芭蕉の句碑
「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
元禄二年(1689)芭蕉が金沢で作った句である。
句碑の書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆による。

                                        案内説明より

成巽閣

成巽閣

辰巳用水沈砂池

花見橋

山崎山 御室塔

山崎山

山崎山

捻り松

鶺鴒島(セキレイ島)

辰巳用水

辰巳用水

長谷池

時雨亭

時雨亭

千歳台石板橋

瓢池(ひさごいけ)

黄門橋

栄螺山

噴水

獅子巌

水路

船之御亭


  時雨亭
延宝四年(1676)加賀藩五代藩主・前田綱紀は、兼六園の前身である蓮池庭の作庭に取りかかった。
その庭の中心的な建物として建てられた蓮池御亭は、その後六代藩主・吉徳によって建て替えられているが、
藩政後期には、時雨亭とも呼ばれていた。
明治の初めに取り壊されるまでは、今の噴水の前にあったが、平成十二年三月、この地に再現させたものである。


  噴水
この噴水は、霞ヶ池を水源としており、霞ヶ池水面との落差で、高さ約3.5mにまで吹きあがっている。
日本庭園では、大変珍しく、十九世紀中ごろに作られた日本最古のものと言われている。


  松の傷
この松の傷は、太平洋戦争が終わった年、昭和二十年(1945)の六月頃、
政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採取した後である。

                                        案内説明より

梅林

梅林

梅林

傷ついた松幹

桂坂口





金沢城

大手門先の広場

石割の矢穴の跡

石垣 武者走り

笑石垣積み

刻印石

野面積み石垣と犬走り

二段積み石垣 修復? 強度?

大手堀と石垣

大手門桝形

桝形突当石垣

桝形櫓石垣

大手門巨岩隅石

金沢城管理棟

広場より菱櫓

河北門 一ノ門(高麗門)

三の丸から 左から橋爪門(高麗門)復元中の櫓門と五十間櫓、菱櫓、河北門


  金沢城公園
金沢城は、加賀一向一揆の本拠地、金沢御堂としての時代や佐久間盛政の居城した時代を経て、
天正十一年(1583)の前田利家入城後は、加賀藩主前田家の居城として本格的に建造が行われた。
天主閣(天守)は慶長七年(1602)の落雷による焼失後は再建されなかったが、櫓の数は多い時では二十棟を数えたといわれ、
鉛瓦や海鼠壁が貼られた石川門や三十間長屋など、金沢城独自の威容を誇ったと伝えれれている。
明治期には兵部省、昭和期には金沢大学が置かれ、現在は金沢公園として整備されている。


  金沢城の石垣
金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。
出入り口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、
現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。
さらに、石垣造りの秘伝書、石を切り出した丁場、石引道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境が備わっていることを合せ、
金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。
ありし日の城の姿に思いをはせながら、金沢城の石垣を巡ってみてはいかがでしょうか。


  大手掘りの石垣
堀際にある粗割り石を積み上げた石垣は、金沢城初期(慶長年間)の石垣です。
この頃、尾坂から河北坂を経由して本丸に至る大手筋の要所が石垣で固められました。
上段の石垣は、尾坂門台の石垣で、大きな石を組み込む手法に特徴があります。
寛政十一年(1799)に地震で崩れ、翌年修築されました。


  大手門(尾坂門)
高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門口)にあった大手を尾坂口に移したと伝えられている。
大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料はなく、屋根付の門(棟門)が設けられていた。


  金沢城の正門河北門
金沢城三の丸の正門が河北門です。
橋爪門、石川門とともに「三御門」と呼ばれ、御殿に至る要所を固めていました。
何れも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた「桝形門」型式の城門です。
中でも河北門は、大手筋の要所を防備する重要な門でした。
復元建物は、安永元年(1772)に再建され、明治十五年(1882)頃まで存続していた河北門の姿を
多数の資料の調査と検証に基づいて再現したものです。


  河北門桝形一ノ門(高麗門)
河北門の最初の入口です。
平入り門(切妻屋根の雨の落ちる側を入り口とする)の二本の主柱のうしろに控柱を付属させ、
その上に屋根を付ける「高麗門」という形式の門です。
三御門は同じ様式の一ノ門ですが、門の幅は石川門→河北門→橋爪門の順でやや大きく造られています。


  ニラミ櫓台と太鼓塀
一ノ門(高麗門)の右脇の設置された二重櫓が「ニラミ櫓」です。
大手筋に「睨みを利かせる櫓」という意味と思われます。
背後に見えるに二の丸の菱櫓(三重櫓)の威容とあいまって、大手筋に威圧感を与えています。
創建は十七世紀前半とみられ、宝暦九年(1759)の大火で焼失したあとは再建されず、
櫓台の上に太鼓塀を巡らすだけとなりました。


  河北門の遺構と修理とその活用
河北門の復元にあたっては、現存遺構を修理・活用する整備手法を採用しました。
石垣は、緩みの著しい部分をいったん解体し、破損石材を補修して、忠実に積み直しました。
石組の溝も、遺構を保存しつつ失われた部分を同質の石材で補い、溝本来の機能を活かして整備しています。

河北門の復元は、発掘調査で確認した門礎の遺構と絵図面から、柱の位置や寸法を復元しました。
二の門(櫓門)南側の脇柱は、青戸室石製の礎石が当時のままの状態で発掘され、
上面には柱をまいた金物の鉄さびも残っていました。
復元では建物荷重と地盤強度を慎重に検討したうえで、この礎石を再利用しています。

河北門の石垣は、多角形に加工した石材を隙間なく積み上げた切石積み(切込み接ぎ)の石垣です。
城門や御殿向き、庭園など、特別な場所の石垣に切石積みの技法を多用することは、金沢城の特色といえます。
石垣の多くは明治期に撤去されましたが、発掘遺構や写真、同時期に作られた石川門の石垣などを参考に、
当時の石積み技法をできるだけ忠実に再現しました。

                                        案内説明より

ニラミ櫓の石垣 上部は布積み

桝形櫓門

河北門袖櫓(ニラミ櫓)と右菱櫓

櫓門礎石

河北門櫓門石垣

河北門櫓門 内側より

城塀の石落し兼塀門と鉄砲狭間

塀門

城塀の鉄砲狭間と補強材

石川門高麗門と二重隅櫓

石川門櫓門 三の丸より

武者走りと鉄砲狭間

石川門桝形刻印石

石川門桝形刻印石

石川門桝形刻印石

石川門桝形打込み接ぎ布積み石垣


  石川門(重要文化財)
金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれていました。
櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な桝形門形式で造られています。
宝暦九年(1759)の大火の後、天明八年(1788)に再建され、現在に伝わっている。
昭和二十五年(1950)国の重要文化財に指定された。


  百阮x跡
ここから見える金沢城と兼六園の間は、かって百阮xのあったところです。
金沢御堂陥落後、佐久間盛政の時代の天正八年から十一年(1580〜1583)につくられ、
前田利家の入城後、利家の子利長により改修されたと云われています。
小立野台と金沢城とを分断する、防御上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、
その大きさから百阮xの呼び名が付いたようです。

明治四十三から四十四年(1910〜1911)の道路工事により、現在のような姿となりました。
なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、
金沢御堂の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われています。

                                            案内説明より

石川門桝形切込み接ぎ石垣

百間掘跡

ページトップへ

ページトップへ

金沢城 兼六園へ

金沢城 兼六園へ

兼六園から石川門

兼六園から百間掘跡

石川門隅櫓

五十間長屋 菱櫓 橋爪門続櫓

  金沢城の歴史
天文十五年(1546)浄土真宗・金沢御堂がこの地に置かれ、加賀の一向一揆を指導したが、
天正八年(1580)に柴田勝家旗下の佐久間盛政が加賀北部を支配し、金沢城の造営をはじめました。
その後賤ヶ岳の戦いを経て、天正十一年(1583)前田利家が加賀・能登・越中を領し、
金沢城主となり本格的な近世城郭へと姿を整えていきました。

天正十四年(1586)頃に天守創建、文禄元年(1592)の高石垣の建設、元和七年(1621)の本丸拡張などを経て、
寛永の大火後(1631年以後)現在の金沢城に近い姿になりました。
現在天守はありませんが、慶長七年(1602)に落雷によって焼失するまで、本丸に聳えていました。
焼失後、天守の代わりに三階櫓が建てられ、宝暦九年(1759)の火災まで金沢城のシンボルとなっていました。

二之丸には寛永の大火後、二の丸御殿が造られ、藩主の御殿、藩庁として藩政の中心になっていました。
三之丸には河北門、石川門、時鐘、鉄砲所、新丸には作事所、越後屋敷、会所、割場などの施設がありました。
明治四年(1871)廃藩置県で明治政府の所轄となって旧陸軍第九師団の拠点となり、
昭和二十四年(1949)からは金沢大学のキャンパスになりました。
そのご、大学に移転により、平成八年(1996)から石川県が金沢城公園として整備を実施しています。


  百間長屋 橋爪門続櫓・菱櫓
石川門(三之丸)から見て右(北方)が菱櫓、左(南方)が橋爪門続櫓で、この二つの櫓を繋ぐ長い建物が五十間長屋です。
(金沢城では多聞櫓のことを長屋と呼んでいます)
名の由来は、建物の長さが約五十間あることから名付けられました。
二層の二階建てで、高さ10.08m 長さ98m
五十間長屋は、戦いの時の防備施設ですが、普段は倉庫として使われ、戦となった時、櫓は物見として、窓は鉄砲狭間・矢狭間となります。
建物の壁は土蔵と同じ造りで、強力な防火機能を発揮します。
(海鼠壁や白漆喰の土塗の壁は火矢、鉄砲玉をよく防ぐと云われています)
建築工法は、仕口や継手を用い柱・梁を組み立てる木造の伝統的工法です。
釘は、床板や天井板などを止めるときに使用する程度です。
往時の金沢城には、現存する三十間長屋をはじめ、四十間長屋、七十間長屋、九十間長屋と呼ばれる長屋群がありました。


  橋爪門
石川門、河北門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれていました。
二之丸に入る正門です。
内堀に架かる橋爪橋を渡り、橋爪門に入りる、前橋門形式です。
櫓門を備えた重厚な桝形門形式で造られました。
一ノ門(高麗門)と橋爪橋は、資料や古写真に基づき忠実に復元しました。
また、復元中の櫓門と併せたこの門は金沢城の中心部・二之丸を防御する為に、城郭最大の規模をもった門です。


  出窓の石落とし
五十間長屋には大小七ケ所の石落としが設置されています。
出は、出窓形式で三方に窓がついています。
また床面は蓋が開くようになっており、戦闘の際は石垣をよじ登る敵兵を防ぐ役割を担っていました。
この装置を石落としといい、窓は鉄砲狭間として用いられた。

菱櫓の石落としは出が大きく、唐破風、千鳥破風と意匠的にも工夫され華やかである。
この出窓は石落としを主目的に造られたわけではなく、石垣を登る敵兵を横方向から鉄砲で狙撃することがこの装置の主目的。
戦国時代の戦いの名残を伝えるための石落としの設置は、意義を見出すためだけものであろう。
天下太平の世になりつつある時、この出窓は現代に通じる建築美を追求した飾屋根をアクセントとする美意識の結果です。

                                        案内説明より

菱櫓の柱材と胴差組み付け前

菱櫓の柱材組み付け完成

続櫓の柱材組み付け前

続櫓の柱材組み付け完成

菱櫓〜続櫓の長屋廊下

階段 構造的には急にする必要はない

続櫓から枡形高麗門隅櫓

菱櫓から百間長屋内堀

菱櫓から石川門隅櫓

続櫓から長屋鉛瓦屋根

長屋鉛瓦屋根

橋爪門と百間長屋と内堀

百間長屋 内堀

橋詰門桝形一之門高麗門

百間長屋石垣 打込み接ぎ布積み

橋爪門二之門櫓門建設中

二之丸より百間長屋

菱櫓 菱形柱鈍角100度

菱櫓 菱形柱鋭角80度

百間長屋隅櫓 方形柱

五十間長屋 出窓(出桁)石落とし

鶴の丸

鶴の丸から東之丸へ

鶴の丸石垣 野面積

鶴丸倉庫 重要文化財

東之丸 丑寅櫓跡石垣

東之丸 丑寅櫓跡展望台

東之丸跡 樹叢

辰己櫓跡

辰己櫓跡から広坂方面

本丸跡

本丸跡

戌亥櫓跡

戌亥櫓石垣

鉄門 櫓門跡石垣

戌亥櫓跡石垣 切込み接ぎ

戌亥櫓跡石垣

空堀と土塁 旧陸軍弾薬庫跡

  鶴丸倉庫 重要文化財
幕末の嘉永元年(1848)に竣工した武具土蔵で、石川門・三十間長屋と同様に重要文化財に指定されています。
明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていました。
長らく「鶴丸倉庫」と呼ばれてきましたが、実際に建築されている場所は「東之丸付段です。
石版を貼った外壁など、櫓や城門などとはデザインを変えています。
城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構で、総二階の延床面積は六百三十六平方メートルです。


  丑寅櫓跡
本丸の東北角、丑寅(鬼門)の方角に当ることから「丑寅櫓」と呼ばれていました。
櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(1592)の築造と推定され、金沢城内最古の石垣です。
宝暦の大火(1759)後は再建されませんでした。


  辰己櫓跡
本丸の東南角、辰巳の方角に当ることから「辰己櫓」と呼ばれていた。
長屋を備えた立派な櫓が建っていたが、宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。
櫓を支えた石垣は、明治の石垣改修により改変され、むかしの面影はほとんど残っていない。


  本丸跡
古くは金沢御堂があった場所だと伝えられ、天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、
天正十四年(1586)頃に天守を設けたと云われる。
天守は慶長七年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。
寛永の大火(1631)までは本丸に御殿が置かれ、金沢城の中心であったが、大火後は二之丸に移った。


  戌亥櫓跡
本丸の北西角、戌亥の方角に当ることから「戌亥櫓」と呼ばれていました。
西と北に「出し」といわれる出窓が設けられた二層の櫓でした。
宝暦の大火(1759)の後、再建は行われなかった。


  戌亥櫓石垣
戌亥櫓石垣は「打ち込み接ぎ」の積み方をしていますが、石の隙間に平らな石をはめ込み、
「切込み接ぎ」のように見せる技法が用いられています。
建設年代は寛永八年(1631)頃と云われています。
長い年月の間に石が抜け落ちていますが、当時の巧みな技術を見ることができます。
はめ込まれた石が残っているところと抜け落ちたところを比較しながら、当時の姿を想像してみてください。


  鉄門(くろがね門)
創建は明らかになっていないが、寛永の大火(1631)以降、二之丸から本丸に入る正門となった。
鉄板を貼った門扉(黒塗り)が付けられていたことから(黒鉄)名前が付けられたと云われている。
渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた門である。


  鉄門の石垣
「切込み接ぎ」の技法は、城の重要な部分に用いられています。
本丸への入り口となるここ鉄門の石垣にも、「切込み接ぎ」で積まれています。
石の表面を多角形に加工した優れたデザインで、丁寧な造りになっています。
宝暦の大火(1759)で金沢城は大きな被害を受けましたが、続く明和・安永年間(1764〜1780)に、
復興に向けて盛んに石垣の改修が行われました。


  旧陸軍弾薬庫入口
明治から昭和にかけて、金沢城は旧陸軍の所管となり、軍用施設が設けられました。
このトンネルはレンガ造りで、空堀になっていた窪地に旧陸軍によって弾薬庫が建設された。
明治から大正期にかけて造られたものとされています。

                                      案内説明より

煉瓦造りのトンネル

二之丸広場(二之丸御殿跡)

三之丸 河北櫓門と菱櫓

三十間長屋 重要文化財

極楽橋

極楽橋から空堀

極楽橋と空堀

石川門 高麗門

高麗門 桝形より

石川門 櫓門 桝形より

櫓門 三之丸より

鯉喉櫓より いもり堀

鯉喉櫓石垣と辰己櫓高石垣

鯉喉櫓

車橋門石垣

車橋門石垣

車橋門石垣と辰己櫓高石垣

車橋門石垣 落し積(谷積)

落し積石垣

蓮池堀(百間堀)石垣

百間掘跡

百間掘 古写真 

  三十間長屋 重要文化財
宝暦の大火(1759)の後、長く再建されず、安政五年(1858)に再建された長屋です。
本来の目的は食器類を納めた倉庫であったが、再建後の江戸時代後期には武器・弾薬を納めたと云われている。
昭和三十二年(1957)国の重要文化財に指定されました。


  極楽橋
二之丸と本丸の間の空堀に架かる橋である。
極楽橋の名前は、金沢御堂の時代から伝わったものとする伝承があるが、極楽橋の在った場所も分からないので、
確かな裏付けはない。


  石川門
高麗門と櫓門の桝形形式の門で、三之丸東端に位置している。
門の方角が石川郡に向いていることから石川門と呼ばれている。
石川門隅櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す着到櫓でもあった。
屋根は鉛瓦で葺いてある。
国指定重要文化財に指定されている。


  東之丸 東面の石垣
東之丸の石垣は、金沢城で本格的な石垣造りが始まった文禄元年(1592)に造られた金沢城最古の高石垣です。
最上段の6m分は小段をつけて積上げているものの、石垣の総高さは21uに達し、
文禄期の石垣としては日本有数の規模を誇る野面積み石垣です。


  蓮池堀(百間掘)の石垣
蓮池掘(百間掘)縁の石垣は、豊富な刻印に特徴があります。
刻印は石切り場で刻まれた合印と考えられ、金沢城では二百種類以上が見つかっています。
一箇所の石垣に数種類の刻印が混在するのが通例ですが、ここでは地区ごとにまとまりがあり、数メートル間隔で刻印の種類に変化が見られます。

創建(普請)は元和から寛永年間(1615〜1644)にかけて完成した。
元文二年(1737)頃に一部を改修している。
現在上部石垣を除けば概ね創建時の姿を残している。


  車橋門周辺の石垣
百間掘端の石垣は、本来この付近で車道側に折れて堀の南側に続いていました。
そこには増水時に堀の余水をいもり堀側に落す水門が造られ、「車橋」という名の木橋と門がありました。
高石垣下の石垣は明治末の道路工事で堀を埋め立てた際の石垣で、当時流行した「谷積み(落とし積み)」の手法で積まれています。

創建(普請)は元和から寛永年間(1615〜1644)にかけて完成した。
江戸後期から明治初期にかけて改修されている。
現在江戸後期のままの場所と、道路工事で壊され創建時を伝えていない場所とがある。

                                           案内説明より

冬の兼六園

ページトップへ

ページトップへ