東海のいろいろ


白川郷 夏・・・・・白川村
白川郷 冬・・・・・白川村
御母衣ダムと荘川桜・・・・・高山市
飛騨の都・・・・・高山市
城ヶ崎海岸・・・・・伊東市  参照: 温泉その6→伊豆高原

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世界遺産 白川郷 夏

荻町城天守閣展望台より

荻町城跡本丸展望台

荻町城本丸跡

長瀬家住宅

和田家住宅 (重要文化財)  

和田家は、天正元年(1573)以来、代々弥右衛門を名乗っていたことが知られ、
江戸時代には名主や牛首口の番所役人を勤めると共に、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えた。

和田家住宅は、白川村萩町伝統的建造物保存地区の北部に位置し、西に面する主屋を中心にして、
前方右手に便所、後方左手に土蔵が建つ。

屋敷の周囲には、石組みの消雪溝や池を配し、主屋の北側に屈曲する石組み溝と池からなる庭園を設け、
その北に石垣と防風林を備える。
建築年代は不明であるが、主屋・土蔵・便所共に江戸時代中期の建築と考えられている。

主屋は桁行十二間(22.3m)、梁間七間(12.8m)の平面をもつ一重三階の大型の合掌造り民家であり、
両側と背面に庇が付属する。
和田家住宅は、合掌造り民家として最大級の規模を持つ質の高い建築であり、
式台付の玄関を備えるなど格式の高い造りとなっています。

世界遺産白川郷の合掌造り集落を代表する民家である。


   神田家住宅

神田家は、和田家の次男が分家し、この地に居を構えたのが始まりです。
この地には産土八幡宮の「神田」があったことから、名字を和田から神田と改め、吉右衛門を襲名しました。

神田家合掌造りは江戸後期に石川県の宮大工により十年の歳月をかけて建造されたろ云われています。
それまでの合掌造りの構造を受け継ぎながらも、新しい技術を取り入れ改良し、完成度の高い建築と評価されています。


   長瀬家

長瀬家の合掌造りは五代目当主民之助により、明治二十三年(1890)に建造されました。
白川郷の自然に育まれた樹齢150~200年の天然檜や樹齢300~350年という栃・欅・桂等の巨木が使用されております。
五階建合掌造りは三年の歳月と当時の金で八百円、米百俵、酒十一石八斗と白川郷民の結の心で完成したと云われております。

平成十三年からの大屋根の葺き替えにあたっては、NHKがその過程を一年にわたり撮影し、
放送されたドキュメント番組は、今も伝えられている「結」の精神を伝え日本中に大きな反響を呼びました。
また当家は、先祖が加賀藩前田家百万石の御殿医を勤めていたことから前田家より拝領した品も多く伝わっております。

揺るぎない風格と合掌屋根が作り出すなだらかな線は、白川郷の自然と相まって独自の美を創り出します。
長きにわたり私たちの暮らしを守り、大家族を育て心を豊かにしてきた「結の家」を、この度数々の民具や銘品とともに、
初めて皆様未公開させていただきます。
                                         案内説明より

神田家住宅

和田家 正面平入り

神田家石碑

萩町合掌集落

萩町合掌集落

合掌屋根葺き替え作業

おおたサクラ

旧遠山家離れ屋

旧遠山家民俗館 (重要文化財)

旧遠山家の建築年代は文政10年(1827)頃で、能登の大工によって建てられた。
嘉永7年(1854)に高山の大工、中邑弥兵衛により改築されている。
白川郷の代表的な切妻合掌造りで、1階の空間は居住、2~4層は主に養蚕に用いられ、
さらに床下では火薬の原料となる焔硝づくりが明治20年代まで行われていた。
昭和43年に村立の民俗館として公開、46年には国指定の重要文化財となっている。

                                                   案内説明より

冬支度の薪

穀つき小屋

動力メカニズム

旧遠山家民俗館

岐阜県大野郡白川村御母衣125
Tel: 05769-5-2062
休日: 毎週水曜日 12/29~1/3

入館料: 大人 300円  小人 150円
開館時間: 10.00~16.00

和田家住宅

岐阜県大野郡白川村荻町997
Tel: 05769-6-1058
休日: 不定休

入館料: 大人 300円  小人 150円
開館時間: 9.00~17.00

神田家住宅

岐阜県大野郡白川村荻町
Tel: 05769-6-1072
休日: 不定休

入館料: 大人 300円  小人 150円
開館時間: 9.00~17.00

長瀬家住宅

岐阜県大野郡白川村荻町823-2
Tel: 05769-6-1047
休日: 不定休

入館料: 大人 300円  小人 150円
開館時間: 9.00~17.00





御母衣ダムと荘川桜

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明善寺庫裡 (重要文化財)

当地方の民家は大きな切妻造り、いわゆる合掌造りをなしていることである。
合掌造りの美しさは全国でも屈指の偉観である。
また、民家としては資材構造において一番すぐれたものと言うことができる。
白川村でも世界に誇れる第一級の重要性をもつ理由はここにある。
当時の庫裡は民家の代表的なものであり、白川郷で最大の合掌造り建築物である。

本堂

明善寺郷土館

岐阜県大野郡白川村荻町679
Tel: 05769-6-1009
休日: 不定休

入館料: 大人 300円  小人150円

開館時間: 4月~11月 8.30~17.00
        12月~3月 9.00~16.00
御母衣ダム (ロックフィルダム)

ダム突堤から上流を見る

水位塔 (最高位65m)

旧照蓮寺桜 (展示写真より)

旧光輪寺桜 (展示写真より)

照蓮寺の桜 (手前)  光輪寺の桜 (奥)

光輪寺の桜 (手前)  照蓮寺の桜 (奥)

   荘川ザクラ (県指定天然記念物)
二本ともアズマヒガンザクラで幹回り5m余の大樹で、推定樹齢400年といわれている。
ダム建設により水没した中野地区の照蓮寺、光輪寺の庭にあった巨大桜で、
初代電源開発総裁高碕達之助氏のはからいにより重さ40トンはあったという巨樹を
昭和35年秋に現在地に移植されたものである。

移植当時は、根が活着するかどうか心配されたので枝をはらわれてまるで裸になった異様な姿であったが、
翌年春には見事に活着し年毎に枝葉が伸びて花が咲くようになり、
現在ではかっての寺の境内にあったときのように美しい花を咲かせている。

荘川桜二世

御母衣ダム湖畔の荘川桜が実を結び、実生桜が自生した昭和50年春、
電源開発(株)御母衣発電所有志により苗をふるさと友の会に送り、
そこで育てられた若木は昭和54年8月御母衣湖ドライブインに移植されました。

その後開花が見られた若木を昭和59年11月26日に故郷である御母衣湖畔のこの地に
関係者各位の協力により再度移植がなされた記念すべき桜であります。

高碕達之助(電源開発初代総裁)と荘川桜

庄川電源開発における御母衣ダム建設に奔走され、事成りし日に湖底に沈む運命にあったこの桜を惜しみ語ったという。

「進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われてゆく、だが、人の力で救えるものは何とかして残してゆきたい。
古き者は古きが故に尊いものである」

慈愛に満ちたその言葉はその時高碕に従って村々を歩いた人々にも又、村民にも深い感動を与えたという。
その結果、今日この桜を見るたびに、その思いがよみがえり、此処に親子桜を見ることにもなった。

                                                 案内説明より   





飛騨の都 高山市めぐり



屋台会館  飛騨桜山八幡宮  千光寺  高山陣屋  古い町並み   





屋台会館 
重要有形文化財展示

屋台の棟飾り 石橋台

屋台の棟飾り 鳳凰台

屋台の展示
手前から神楽台 仙人台 鳳凰台 石橋台(日枝神社例大祭屋台)

屋台の展示 (反対側から)

屋台の車輪

屋台の回転装置

御輿

神楽台

高山祭屋台会館

岐阜県高山市桜町178
Tel: 0577-32-5100
休日: 無休

入館料: 大人820円 高510円 小中410円
開館時間: 3月~11月 8.30~17.00
        12月~2月 9.00~16.30





飛騨高山 桜山八幡宮

拝殿

仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。
征討将軍の勅命を受けた難波根子武振熊命は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。
武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。

その後、聖武天皇の御代(8世紀)諸国に八幡信仰が栄え、
往古は数百本の桜樹が花を競い境内はいっそう整えられたとも言われる。

大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱の時代が続き境内は一時荒廃した。

元和9年(1623)高山城主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。
以後高山北部を氏子と定め、例祭には奉行を派遣して神事を管理した(奉行祭)。

飛騨が天領となり、氏子を初め代々の郡代は篤く崇敬して奉行祭を継承し境内を整えた。

                                                 八幡神社由緒説明より 

本殿

手水舎

三之鳥居 青銅製の扁額

青銅製の鳥居扁額は、享保十五年(1730)社殿再建にともない代官長谷川忠崇によって寄進された。
「八幡宮」の文字は江戸中期の書家佐文山(1621~1727)の筆による。

   佐文山
佐々木文山 名は龍(龒)、字は臥龍、通称百助・文山・黒華堂等の号で最も知られている。
江戸西久保に住し玄龍はその兄で共に書名が高い

ニ之鳥居

一之鳥居

神門大石段

十九段全部が各一枚の石(長さ3.3m)で造られ、当桜山八幡氏子の人々は「一枚石の段々」と言って誇りを持って伝えている。

上の境内には桜山八幡宮本殿を始め末社の照前・菅原・稲荷・琴平の各社があります。
大原騒動時の代官大原彦四郎紹正が寄進した石灯籠一対があります。
   大原騒動(明和騒動・安永騒動・天明騒動) 明和8年(1771)~天明8年(1788)

   狂人石
往時より神社神域を汚すものはこの石にふれると狂人になるという不思議な言い伝えのある霊石です。

神門

狂人石

境内社 秋葉神社

境内社 稲荷神社

神楽台納蔵

神楽台は宝永五年(1708)に、以前金森重勝から寄進されていた大太鼓を荷車風のものに乗せ、
獅子を舞わせて祭礼に巡行した。
享保三年(1718)には氏子の有力者風井屋長右衛門が神楽台を新調し寄付した。

文化十二年(1815)に大改造、嘉永年間(1848~1853)に修理をしました。
明治三十七年に現在の神楽台に改造された。
昭和九年、昭和四十一年と修理がなされている。

金森重勝寄進の太鼓は音響遠近に轟き、
文久年間(1861~1863)には外組の嫉みをうけて、鎌で切り付けられたと伝えられている。

祭礼に際しては、侍烏帽子、素襖姿の五人の楽人をのせ、獅子舞を付随させる。
棟飾りの鳳凰と、天照神、八幡神、春日神を表した金幣束が独特である。

                                               案内説明より

照前神社(手前)と天満神社

菊花展

盆栽展

神社前池庭

飛騨国高山 桜山八幡宮
岐阜県高山市桜町178
Tel: 0577-32-0240





真言宗 袈裟山千光寺

千光寺大慈門

千光寺は1600年前、仁徳天皇の時代に、乗鞍山ろくに住んでいた両面宿儺が開山した霊山で、飛騨国一の古刹です。
仏教の寺院としては、平安時代に、嵯峨天皇の皇子で弘法大師の十大弟子の一人、真如親王が当山に登山され、
本尊千手観音を拝し、法華経一部八巻と二十五条袈裟が奉祀されていたことから袈裟山千光寺と名づけ、自ら開基になりました。
それ以来高野山の末寺となり、「飛騨の高野山」とも呼ばれています。

また、鎮護国家を祈祷する道場でもあったため、朝廷の帰依を受け、寺運は隆昌を極め、山上に19の院坊を持ち、
飛騨国内に30ヶ寺の末寺を随えていました。
更には、飛騨一宮神社の別当職でもあり、天皇御即位の際には、国家安穏玉体安穏、万民豊楽、諸人快楽を祈念して
一位の笏木を献上してもいました。

ところが、戦国時代に入り永禄7年(1564年)、甲斐の武田軍勢が乱入し、全山炎に包まれてしまいます。
そして、諸伽藍はもちろん末寺まで、並びに数万の経典儀軌等も悉く灰燼に帰してしまいました。
しかし、本尊は守られ、その法灯は今も連綿として続いています。

現在の堂宇は、天正15年(1589年)、高山城主金森長近公が再興、建立したものです。
また、7年に一度の本尊開帳法要があります。

さらに最近は「円空仏の寺」としても、その名は広く知られている。
現在は高野山真言宗に属する密教寺院で、山岳仏教の修行の古風を現代に伝えている。
海抜900メートルの袈裟山に広がる寺の境内には、大慈門の近くに「円空仏寺宝館」があり、
館内には六十三体の円空仏と寺宝の一部が展示開放され、年間2~3万人の拝観者を受け入れている。


   観音堂

永禄七年(1565)、甲斐武田軍の飛騨攻略の際に当山の七堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。
その後文禄一年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、
時の中興初代住職玄海法印が一千座の本尊観世音菩薩の修法を行った。

その二年後の慶長三年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)と共に本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは万治二年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、
再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。

                                           案内説明より

本堂

観音堂

   謹告
ようこそ ご参拝くださいました。
当山の円空仏は、現在すべて岐阜県重要文化財に指定されており、
保存管理のため円空仏展示館内に、
他の寺宝と共に安置いたしてあります。

円空仏拝観希望の方は展示館に入るときに入館料が必要です。
尚、本坊(桜の間、大師堂ー県重要文化財)、本堂(本尊千手観音)、
本堂(龍天井ー県重要文化財)など諸堂内拝は、自由にご参拝ください。
お志すを中でお納めくだされば結構です。

お寺は別稱「精舎」とも言い、心を磨く道場であります。当山が皆様の魂修行のお役にたてれば幸いです。

又、仏教や円空仏、そのほか心の悩み、問題について、当山住職が時間の許す限り面談に応じますので、
ご遠慮なくお申し付けください。

大師堂

袈裟山 本堂扁額

本堂内陣 千手観世音菩薩立像

龍天井

桜襖絵 (岐阜県重要文化財)

三熊思考(みくま しこう)の絵で、襖九枚に描かれています。

思考は京都の人で、幼少より絵を好み、長じて桜を描くことに熱中し、高野山にこもり、
また名花あるところへは遠近を問わず足を運び寝食を忘れるほどであったと言います。
思考が飛騨に入ったのは天明七年(1787)、五十七歳の時でした。


   龍天井 (岐阜県重要文化財)
作者は狩野探雪。
寺伝によれば、この龍天井の板には血痕が滲みこんでいますが、これは戦国武将の切腹自害によるものだと言います。
血のついた床板は供養のため再建された本堂の天井に張られました。
その後、来山した探雪が鎮魂をこめて下から見上げて龍を二頭逆さ描きしたものです。


   舞良戸  
元禄八年(1695)二月、高山城は幕府の命により、加賀藩によって取り壊されました。
この時、城中の舞良戸(細い桟のある戸)が譲渡され、ここに使われています。

                                                  案内説明より

舞良戸(まらいど)

大師堂
中央大日如来 左如意輪観音 右弘法大師 

撫仏

大師堂講堂

庫裡 参拝入口

庫裡囲炉裏の間

自在鉤吊具

円空工房 一心庵

宿儺堂 (すくなどう)

庫裡玄関衝立

光明真言塔

この塔は明治時代に当地より5000m程離れた大萱地区より多くの善男善女によって運ばれた石です。
明治二十七年二月完成。
延べ一万五千七百人により献納されました。


   宿儺堂 (すくなどう)

慶長三年(1598)建立。当山開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。
両面宿儺は日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最後は大和朝廷と戦って敗れた。
平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長三年の建立と判明しました。

永禄七年(1565)、甲斐武田軍の飛騨侵攻の際に当山の七堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。
その後文禄一年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、
時の中興初代住職、玄海法印が一千座の本尊観世院菩薩の修法を行っている。


   鐘楼

建立年は不詳。
永禄七年(1565)甲斐武田軍飛騨侵攻により当山伽藍は焼き討ちに遭い、
当山中腹にあった鐘楼も焼け落ち、梵鐘が真っ赤に焼けて、武田勢をなぎ倒したとの伝説がある。

その梵鐘は長く高山城の時の鐘として打たれていたが、高山城破却の際に当山に戻されました。
その鐘には松倉城三木氏(姉小路氏)からの寄贈の銘があり、現在岐阜県指定文化財として、円空仏寺宝館に納められている。
現在の鐘楼は江戸時代に再建されたものです。


   弁天堂

永禄年間の武田軍による焼き討ち後再建されたと伝わっている。

弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つです。
ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教、あるいは神道に取り込まれた呼び名である。

経典に準拠した表記は本来「弁才天」で、持物が楽器であることから音楽、芸術、美術等の芸能の仏でありますが、
日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝の神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記されている。

本来、仏教の尊格ですが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員になっている。

                                               案内説明より

鐘楼

弁天堂と弁天池

円空仏寺宝館

真言宗 袈裟山千光寺   
岐阜県高山市丹生川町下保1553   
Tel: 0577-78-1021

開館日: 4月~11月 (火曜日を除く)
開館時間: 9.00~17.00 (要電話予約)
入館料: 大人500円  高200円  中小100円 

雲海の彼方に御嶽山が望めるという

円空仏寺宝館

千光寺五本杉(国指定天然記念物) 樹齢推定1200年 幹回り約12m

杉の根本と人の対比

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高山めぐりへ

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高山めぐりへ

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古い町並み

三町伝統的建造物保存地区の町並み

柳橋

祭り屋台納蔵

朝市広場の青雲の像(山岡鉄舟)

鉄舟は号 本名山岡高歩(やまおか たかゆき)通称鉄太郎、幕末、明治の政治家、禅に通じ剣を極め、書を能くしました。
弘化二年(1845)飛騨郡代として着任した父、小野高福(おの たかよし)通称朝右衛門、母磯に随い高山陣屋へ入りました。

書は、高山の書家岩佐一亭に学び教えられ、十五歳で大師流入木道の伝統を継承しました。
剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学び、無刀流の一派を開きました。
禅は十三歳の頃から始め、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと思われます。
陣屋の松を見て「降る雪と 力くらべや 松の枝」と詠んでいます。

父の死後嘉永五年(1852)江戸に帰り、のち槍術を山岡静山に学び、縁あって山岡家に迎えられ山岡姓を名乗りました。
慶応四年(1868)三月西郷隆盛と駿府(静岡市)会見して、江戸を戦火から救いました。

維新後は、明治天皇の侍従を務め宮内少輔を拝命、五十二歳の五月華族に列せられ、子爵を授けられました。
明治二十一年(1888)七月十九日病を得て結跏趺坐のまま五十三歳の生涯を閉じ、東京谷中の全生庵に葬られました。
父母の墓は高山市東山宗猷寺にあります。

陣屋前 雨の朝市 

秋葉神社 中橋橋詰

日枝神社御輿蔵

陣屋前高札場跡

日枝神社神符授与所

中橋

中橋から宮川

日下部家 民芸館(重要文化財)

享保年間の1720年頃に創業。
日下部家「九兵衛」は、天領時代幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、
嘉永5年(1852)には、役所の御用金を用立てする掛屋を務め、後には両替商を営んだ。

当時の邸宅は、明治8年(1875)の大火で類焼し、4年後の明治12年に完成したものが現在の建物です。
棟梁は名工川尻治助で、江戸時代の建築様式そのままの見事な住宅を造り上げました。
昭和41年、明治建築の民家として初めて国の重要文化財に指定されました。


   吉島家住宅 造酒屋「重兵衛」

吉島家は天明8年(1784)に、初代重兵衛が高山に居住したのが始まりで、以来酒造業を営んできた家です。
日下部家同様明治8年の大火で焼け、その後再建されたが明治38年再び火災に遭い、翌々年に現在の住宅となった。

この町屋は名工とうたわれた西田伊三郎の手によって明治40年(1907)に竣工しました。
当時はすでに幕府からの禁制はなく、その意味では江戸時代の豪商の夢がそれだけ自由に表現されていると言えよう。

かって現代アメリカの建築界の巨匠チャールズ・ムーアが来日した時に、
彼は「庭園では京都の西芳寺(苔寺)、建築ではこの吉島家」をあげ絶賛している。

その意匠と構成は華やかさの中にも品格に満ち、その細部の手法の質はきわめて高く、
この地方の町屋の典型を示しているばかりでなく、わが国の民家の中で最も優れたものの一つです。
軒下には今も造り酒屋新酒「杉玉」が吊るされている。

                                          案内説明より

吉島家住宅(重要文化財)

宮川朝市 飛騨高山 「谷松のこくせん」

谷松の看板商品は昔も今も「こくせん」一筋。
仕事場に機械と名のつくものは一切ない。
あるのは職人の手とその職人の手になじんだ昔ながらの道具だけである。
谷松の「こくせん」の人の手で造られたほど良い歯ざわり、厳選された材料の風味、
何とも言えない甘み、その調和は本物だけが持つ味わいである。

                            朝市店案内説明より

宮川朝市

古い町並み繁華街

町筋一つでがらりと変わる街並み

江名子川





高山陣屋跡 (国指定史跡)

高山陣屋 

元禄五年(1692)七月二十八日、飛騨高山藩金森家六代藩主金森頼時は、出羽国上ノ山藩(山形県上山市)に移封となり、
飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。
幕府は同年八月十八日関東郡代伊奈半十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、
二十二日に加賀国金沢藩主前田加賀守綱紀に高山城在番を命じた。

伊那代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏移封後の事務処理に当たった。
元禄八年(1695)四月高山城の取り壊しが始まり、
高山藩金森家三代藩主金森重頼の三人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して“高山陣屋”と称した。

以降明治維新に至るまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。

元禄八年当時の高山陣屋は、約二万八千平方メートル(二町八反)の広大な敷地を有していた。
高山城三の丸にあった米蔵二棟を陣屋内に移築し御蔵とした以外、建物の配置・規模などは不明である。

享保十年(1725)老巧化が激しくなった高山陣屋の建物は、御蔵以外すべて解体され、
旧材を利用して御役所と御役宅に区分して建て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。
しかし、敷地は三分の一に縮小されている。

その後、文化十三年(1816)御役所、文政十三年(1830)郡代役宅、天保三年(1832)表門と陣屋の建物は漸次改築されている。
この間享保十四年(1729)に美濃国の一部、明和四年(1767)に越前国の一部が飛騨代官の所管地となり、
また安永六年(1777)十二代代官大原彦四郎紹正が布衣郡代(代官→郡代)に昇進し、
関東・西国・美濃と並んで飛騨は幕府領の中でも有数の地位を占めるに至った。

明治維新後、飛騨県、高山県、筑摩県、岐阜県と行政区画が変転する中にあって、
旧高山陣屋は県政の庁舎などに転用され、また敷地も分割されていった。

昭和四十四年、飛騨高山県事務所が移転し、高山陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会が所管することとなった。
岐阜県教育委員会は全国に唯一現存する幕府の陣屋跡を後世に保存すべく、昭和四十五年以来、
文化庁の指導・援助を得て復元修理工事を実施している。

                                              案内説明より

高山陣屋 玄関

陣屋建物配置図

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高山めぐりへ

御役所 役職執務所

御用場 現地役人執務所

町組頭詰所 他に町年寄り、寺院詰所

帳綴部屋  文書役人部屋

文書部屋  文書役人執務室

実務役人の出入り口

実務役人部屋の中庭

役宅住居跡

北の御白洲

囲炉裏部屋 役人休み処

役所勝手 

代官役宅への廊下

役宅座敷

代官座敷上段の間

役宅広間

使者の間

白洲と責め具

御長蔵

収め米

収め米計量検査

役宅住居 嵐山の間 郡代の居間

役宅住居 扇の間 奥方の居間

役宅住居 茶の間

役宅住居 台所

板屋根葺き材料

板葺材製作道具

板葺石置き屋根

役宅住居の客入口

扇の間の長持ち

陣屋門番所

郡代役宅中庭

役宅中庭

鬼板

この鬼板は(雲板・飛騨地方では単にくもとも言います)は、当高山陣屋正面玄関(入母屋妻入屋根)の棟飾りで、
平成八年に、玄関、役所の屋根の葺き替えの時に取り換えたものです。
瓦葺の鬼瓦に相当するもので、様式は御鬼という形です。

寒冷地に加え積雪の多いこの地方では寺社はもとより、屋根は一般に板葺でしたから、木製になっています。
大きさ等はおおよその決まりが有りますが、彫刻などは、人の見せどころではありました。
鰭(ひれ・袖の部分)の絵模様は、雲を象徴するものが多く、この鬼板はよく古い様式を残しており全体の形も整っています。


   御白洲(吟味所)

砂利が敷かれ白く見えるので白洲と呼ばれている。
犯罪者を吟味するところです。
一般庶民は白洲で、由緒ある浪人や御用達町人は板縁で、武士・僧侶・神官は縁側で吟味を受けていた。


   高山城と城下町

高山藩金森氏六代の居城であった高山城は、天正十六年(1588)から16年ほどの歳月をかけて築城され、
山城と平城の特徴を兼ね備えた平山城でした。

高山城の城下町は、初代高山藩主金森長近、二代可重の時代に、
士屋敷、町人屋敷、寺屋敷の三区域に分けられ形成されました。
現在の“古い町並み”は、この頃に形づくられたものです。

元禄五年(1692)、六代藩主頼時は、出羽国上山(現 山形県上山市)に国替えを命ぜられ、
六代百七年間続いた金森氏による飛騨の統治は終わりました。
城は、金沢藩前田家が管理することになりましたが、幕府命令により元禄八年(1695)に取り壊されました。

江戸幕府の経済的基盤の大部分は、支配地である直轄地から収納する年貢によって賄われていました。
幕府は封建的な支配を強めるために、常に直轄地の拡大を図り、幕府体制が確立した元禄・宝永年間(1688~1711)には、
所領は四百万石を越え、全国六十八か国のうち四十七か国に分布していました。

幕府直轄領は政治、軍事上の重要な位置を占めると共に、経済的、物質的基盤である豊かな農業生産地帯や、
金銀採掘地、建設資材の供給地である山林地帯などを確保していました。

六代(107年間)に渡って飛騨を統治していた金森氏を出羽国上山藩へ移させて飛騨を幕府直轄領にしたのも、
他ならぬ飛騨の山々の豊富な木材・鉱物などの資源があったからだというのが通説になっています。

                                              案内説明より

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明善寺 鐘楼山門 (県重要文化財)

明善寺庫裡

明善寺 鐘楼山門

庫裡 三階より四階&五階

本堂外陣から 阿弥陀如来立像

養蚕の器具類

荻町神社 八幡宮鳥居

ニノ鳥居と拝殿

手水舎

拝殿扁額

本殿

八幡宮 御神木






世界遺産 白川郷 冬

八幡宮 県天然記念物 大杉

新茅葺き屋根

白川郷合掌集落全景 展望台より

三軒屋根

遠く明善寺を望む

展望台より 和田家方面

調度品展示

和田家 重要文化財

囲炉裏の間

書院の間

諸運の間 欄間

磨かれた板戸と大国柱

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