東京いろいろ


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旧古河庭園と名探偵浅見光彦 平塚神社 平塚亭   
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両国界隈


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東京のいろいろその2





回向院

久寿餅の石鍋屋

天保九年(1838)に出版された「砂子の残月」によれば、「二月初午王子稲荷最も群衆す。
この日武家市も稲荷を祭り灯燭をかかげ鼓吹舞」とあり、
側用人より大名に迄なった柳沢家が信仰の王子稲荷は出世稲荷と武士たちも参詣し、
又柴田是信の茨木の大絵馬が江戸市中で人気を得、画工・芸能人も参詣し、錦絵の作品が最も多い場所となった。

飛鳥山紙の博物館にある大岡越前の許可書によれば、
飛鳥山より音無川王子稲荷にかけて五十四軒の料理屋・水茶屋と三ヶ所の揚弓場のある観光地で
明治、大正、昭和の戦前までその面影が残っていた。

鍋石屋は明治二十年代より料理屋、茶店などに四季折々の食品を提供しておりましたが、
戦後は店売のみとし、昔ながらの手作りで各種商品を製造しています。

商品の久寿餅はなぜに久寿餅かと言うと葛餅ではないので久寿餅と名をつけています。
商品になるまで長い期間を要し(二年以上)餅と呼べる食感にさせるには伝統の技が必要です。
つまり米やもち米での餅作りは素人さんでも簡単ですが、原料は小麦粉を使って食感を出しています。
自然食品ですので、賞味期限は買った日を含めて二日間(常温)となっています。
おいしいですよ!

                                                     案内説明より

久寿餅 黄粉と黒蜜で食す

元総理大臣田中角栄氏最終学歴校

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秋葉原





明治神宮

額面著色鬼女図 国認定重要美術品

日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保十一年(1840)二月初午に、
江戸住吉の砂糖商人の同業組合である明徳講が、商圏の拡大を願って奉納した絵馬です。

絵馬は、凡そ縦190㎝、横245㎝の大きさで、画面いっぱいには、
酒天童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。

源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ化けた女の片腕を切り取ってしまいました。
それから六日後のこと、鬼女は切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。
鬼女は、切り取られた腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風の如く空中に飛び去りました。

この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、
是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられています。

絵馬は毎年二月の初午、二ノ午のみ公開
                                             案内説明より

駅前の
秋葉原電気街ビル?

交通博物館方面より秋葉原中心街

交通博物館 引越しの予定があるとか?

万世橋を渡ったガード沿いにある
ジャンク店

憧れの肉の万世
しかし
何故か今は食事制限中

今もスピーカーシステム製造販売を手がけているらしい、上写真の石丸電気左横の店。
私の友人が何処で都合つけたのか、コーラルの12吋ウーハーを使い、3ウェイスピーカーシステムを作った。
もちろん都合とはお金のこと。
チューナー付きアンプとレコードプレイヤーも同時に購入、こちらは何処で買ったか記憶が無い。
付合わされながら自分もうきうきしたことを思い出す。
住所が変わってしまうまでの4、5年の付き合いだった。
年取っただろう彼の顔が想像出来ない。 

ジャンク屋さんもあった万世橋横のビル。
すっかり立て替えられていた。

ある時期レコード専門店であった
石丸電気X号店

石丸電気
現品にて格安との宣伝で会社に無断で冷水器を購入
冷や冷やしたが怒鳴られることも無く、使ってもらえた。
それまでは、蛇口の付いたホウロウの容器に、
製氷店から1貫目、2貫目と買ってきて水を冷やして飲んでいた。
人が物より簡単に使えた高度成長が始まろうとする時代。
左に石丸電気中央に第一家電右に朝日無線が在ったような気がする場所

電気街を少し離れたある意味秋葉の中心街より駅方向
いずれ探検できたら?ご報告 乞うご期待!


ガード下の賑わい

興味津々だった半導体屋さん
40年前真空管と交代しようと性能が向上著しい時代。
低周波のオーディオ分野では十分真空管に対抗できた。
しかしその単体トランジスターもパワーアンプ分野ではしばらくは生き延びたが、
半導体の技術進歩は著しく、
アマチュアの自作の道(性能、コスト)はなくなってきたような気がした。
興味はあったが、諸事情ですっぱり手を切って以来今日まで手にしたことは無い。

トランス屋さん
電源トランス・出力トランス・チョークトランス等。
チョークは後になってから使い始めた。
真空管で最後に作ったアンプは、P電圧300V P電流300mAの高gm管
PPで2チャンネル、筋力トレーニングにも余るような大物
出力トランスも・・・X万円
アルミシャーシーはペラペラして耐え切れないので、電源部を分離

線香花火の最後の輝きの様な自作アンプ。
システムとしてバランスが取れずに数年後には解体となる。

スピーカー屋さん。
気軽に試聴させてくれる。
ただ穴の明いたBOXひとつに
スピーカーを乗せ、
入力ソースは幾つも無かった。
だけれどもスピーカーによって、
これほど音色が変わることを知った店だった。
残念ながら店頭で、
財布を取り出したことは無かった。

ラジオセンター1階のパーツ専門店。
見慣れたお顔にはお目にかかれ無かったが、年かっこから見ると子供さん?
ひょっとすると・・・・・

ここのおじさん人をのせるのがうまくて、あれこれと言いながら、
買い物をしたり相談をすると、
兄ちゃん色々知っているね、何処でおぼえたの、
などとオダテを言いながら、顔はぶすっとしていた。
二十歳まえのことだった。
それからも用はないのだけれど横目でチラッ.。元気そうだった。

ラジオセンター2階で開いているジャンク品専門店。
当時長居して迷惑をかけたがハタキもかけられずに楽しかった。
今覗いても、買うわけではないが、足が止まる。
箱にバラ盛の真空管つい手にとって名前を確かめてしまった。
なんとなくもっと昔にビー玉を手に持った気分がしたような、懐かしさ・・・

デパートの裏側に位置する電気や。
オートメパーツ専門店。
ここは専ら仕事。
中央通り、山際電気の先に大型店専門店が在るが土日は休み。
ここは年中無休で、どちらかの店が開いていた。
土日営業は仕事がらみで暇なしにはあり難かった

秋葉ではじめての高額商品を買った店。
パイオニアのスピーカー2ウエイ一体型 定価9000円→7200円
千円札十数枚の収入のなかでは高額商品ゆえに値段も鮮明。
ステレオでもう一本月を変えて手に入れた。
ところが、半年後くらいに某メーカが同じサイズの同じ形式で5500円で売り出した

しかもカタログでの高音特性が優れていた。
聞き比べたことはなかったが、例えて言えば買った株が下がった感じ!

秋葉原デパート店頭には名物の実演販売。
包丁・洗剤・手品・調理用品と変わらず

見て見て見てのご同輩TVでご活躍。
もう一人の方、TVのWショウで先達を務めたが、
最近はお目にかかることはない。
ちょっとやせ目の人なつっこい顔が懐かしい


屋台のラーメンの旨かったこと
キタナサも味に溶け込んで・・・

緑の山の手線 真ん中通るは中央線でおなじみの
万世橋カメラ

神田青果市場跡に建つ
 先端技術センター?

2006年12月6日
今良くも悪くも話題のアキバに行って来ました。

八重桜

鴨場築地

山吹の道

ビルに囲まれて

芳梅亭

ボタン園

夜桜 ライトアップ

三百年の松 ライトアップ

三百年の松

菜の花畑

稲生神社

水門

水門

鷹の茶屋跡

御亭山

水門

水門

庚申堂鴨場跡

汐入の池と中島の茶屋

汐入の池 ボウアオノリ(青海苔) 

お手伝い橋

小の字島

中島の御茶屋へのお手伝い橋

馬場跡

石灯篭

銅像
軍神 可美真手命(うましまでの命)

松の茶屋跡

石垣 切り込みはぎ算木積

浜離宮 大手門口入り口

延遼館跡





浜離宮恩賜庭園

菖蒲園

下草の中のキノコ

うっそうとした森

肥後熊本藩加藤家下屋敷跡らしい

清正井

社殿門

拝殿

大太鼓

東屋

隔雲亭

社殿鳥居

大鳥居

明治神宮 南参道鳥居

築山 石組

樹木の道

藤代峠より

熊笹と水辺

満開の桜草 道すがら

六義園 煉瓦塀

土産 桜羊羹

宇都宮線(東北本線)尾久駅

田端大橋から尾久操車場方面

山手線 田端駅

田端在住の作家、芸術家たち

河童のキャラクターりゅうのすけくん
もちろん芥川龍之介の「河童」から?

藤代峠最上の赤石

蓬莱島 吹上茶屋 と船置き場

しだれ桜 咲き始め

つつじの茶屋
躑躅木で造られている

渡月橋

ソメイヨシノ桜

ネットで鳥害防御の茅葺き屋根

枕流の洞(まくらながしのどう)

元禄の道標

山陰橋

六義園は、五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主柳沢吉保が元禄15年に築庭した
和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なものです。
明治時代に入って、三菱の創業者である岩崎弥太郎の別邸となりました。
その後、昭和13年に岩崎家より、東京市(東京都)に寄付され、
昭和28年に国の特別名勝に指定された貴重な文化財です。

六義園の名は、中国の詩の分類法(詩の六義)にならった古今集の序に和歌の分類
(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来したものです。

柳沢吉保自身の撰した「六義園記」では、日本風に「むくさのその」と呼んでいましたが、
漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」と読みます。

                         園内六義園説明より





六義園

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六義園正門





旧古河庭園と名探偵浅見光彦

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旧古河庭園

庭園の敷地の一部は、もとは明治の元勲陸奥宗光の別邸でした。
その後宗光の次男潤吉が古河財閥の古河市兵衛の養子となったために古河家が譲り受け、
財閥三代当主の古河虎之助が本宅を構えました。
そして新たに隣接地を買収し、今見るような庭園としたことに始まります。

時を経て物納税により国に所有権が移り、地元住民自治体などの要望により東京都が借り入れ整備をし、
昭和三十一年四月より一般公開しました。

この庭園の特徴は、武蔵野台地の南斜面という地形を活かし、一番の高台にゴシック様式の洋館を建て、
その回りと前面斜面には明るい洋風庭園とし、
それに続く斜面と先の低地には日本古来の落葉樹や針葉樹、池泉、石橋・木橋などの渡橋を配置した和風庭園を造り、
これらを一体としたバランスの良い和洋折衷庭園としたことにあります。

設計にあたっては、鹿鳴館やニコライ聖堂などを手掛けた英国人ジョサイア・コンドル(1852~1920)が
洋館並びに洋風庭園を受け持ちました。
また和風庭園は、京都の平安神宮や山県有朋の別邸無鄰菴を作庭したことで知られる京都の著名な庭師、
小川治兵衛(1860~1933)の手によるもので、地形を活かした日本の伝統的な庭園を見事の造り上げています。


この庭園は、大正期の原形を留める貴重なもので、昭和五十七年八月四日に東京都文化財として指定されていました。
その後、近代庭園の中でも極めて良好に保存され、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な庭園として、
平成十八年一月二十六日、国の名勝に指定されました。

                                           案内説明より

洋館

玄関

ダブル・デライト「二重の喜び」

プリンセス・オブ・ウェールズ
「プリンセス・ダイアナ」

カーディナル

楓の紅葉

春日型燈籠

濡鷺型燈籠

雪見型燈籠

奥ノ院型燈籠

泰平型燈籠

   春日型燈籠
燈籠では最も多い形式であり、六尺(約1.8m)を標準としている。
図柄は名の由来になっている奈良春日大社の神獣である鹿と鳥居を組み合わせたものが特徴です。

   濡鷺型燈籠
他の形式に比べて笠が厚く、むくり(反り)が無い。
図柄は「濡れ」を文字で「鷺」を絵で表現するか、「濡鷺」を文字で表現するかの二種類があります。

   雪見型燈籠
この形の灯篭は水辺によく据えられ、その姿が水面に浮いて見える「浮き見」と点灯時にその燈火が浮いて見える「浮灯」が
「雪見」に変化したとする見方が多い。

   泰平型燈籠
名前の如くどっしりとした形で、蕨手(傘の縁が蕨の様に渦巻き状に反った形)は角柱の様にごつごつし、竿は太く節も三節ある。

   奥ノ院型燈籠
燈籠に牡丹、唐獅子、雲、七宝透かしを、中台に十二支を、基礎には波に千鳥、又は波に兎を刻んでいる。
奈良春日大社の奥ノ院にあるものを本家としてその系統が発展したものである。

                                                 案内説明より

奥ノ院型燈籠

燈籠

バラの園

兜門

馬車道

茶室

茶室門

板石橋

板石橋

丸木橋(現コンクリート製)

雪づり(リンゴ吊り)

コモ巻

コモ巻 横に幹が張出し折れる危険

洋風庭園への和風坂道

心字池

黒ボク石積

   大滝
この滝は、本郷台地と低地の斜面を巧みに利用した、小川治兵衛の最も力を入れた場所の一つであり、
滝壺まで総落差20mを落ちる景観は治兵衛の作風の中でも珍しく丘陵幽玄の境地を如何なく発揮している。

   枯滝
この滝は、水を流さずにゴロタ石などの小石で水流を、青石などの大石を立てて組んで水の落ちる様子を、
枯山水風に表現している。
男性的な大滝と比べ、枯滝は女性的な雰囲気がある。

   黒ボク石積
富士山の溶岩で、多孔質で軽く、加工もしやすい。
山の雰囲気が出しやすいため主に関東で石組として用いられることが多いが、石垣状のものは珍しい。

   崩石積
石を垂直に積む方法は数あるが、これは京都で発達した伝統的な工法である。
石と縊死が噛み合って崩れそうで崩れない姿が美しいとされている。
当庭園においても小川治兵衛の力作となっている。
 
                                                案内説明より

大滝

枯滝

赤石

崩石積

名探偵浅見光彦

平塚神社

六阿弥陀道(ろくあみだみち)の途上でもある蝉坂(せみざか)という名称は江戸時代の後半にはあったようで、
幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』上中里村の項に
「平塚明神ノ傍ニアリ、登り三・四十間」とあり、
このあたりから平塚神社の参道に沿って約54メートルから72メートル余を登る坂道だとあります。

坂を登りきって少し歩くと日光御成り街道と合流しますが、
西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。

明治時代初期の『東京府志料』では「或云攻坂ノ轉訛ナリト」
と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿(ほうふつ)とさせるような坂名の由来を記しています。

現在の坂道は昭和18年7月、昔の坂を拡幅して出来た道です。

京浜東北線 上中里駅

中里貝塚 (国指定史跡)

蝉坂

   中里貝塚
中里貝塚は、ここから東側100m程離れた現在の上中里二丁目広場で平成八年(1996)に発掘調査され、
ハマグリやマガキの4mを超す貝の層や国内初の貝処理施設などが出土し、縄文時代を見直す発見として一躍注目されました。

この中里貝塚史跡広場は、平成十一年に発掘調査され、2m近い貝層が確認されました。
100m以上離れたこの場所にも厚く堆積する貝層が良好に残っていることが判明しました。

また、貝層下から岩盤が波によって削られた波食台と呼ばれる地形を彫り込んだ土杭が発見され、
地盤がぬかるむためか、土杭に通じる長さ6.5m以上の丸太(樹種コナラ亜属)を半割した木道も設置されていました。
海岸で水を使った何らかの作業場であったと考えられます。

中里貝塚がこれまで知られていた他の貝塚と大きく異なるのは、規模の違いが上げられます。
周辺での発掘調査、貝塚の散布状況、江戸・明治期の記録などを詳細に分析した結果、
貝塚の範囲は長さ1㎞前後、幅70~100mにわたると推定されます。

この面積は、他の大形貝塚と比較してもけた違いに大きいことがわかります。
しかも中里貝塚の貝層は、縄文時代中期の中ごろから終わりにかけての500年ほどの間に集中的に形成されている点からも
特異な貝塚といえます。

この東西2ヶ所の広場は平成十二年九月六日、縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で
重要な貝塚であることから国史跡に指定されました。

                                              案内説明より

平塚神社 拝殿

平塚神社(旧平塚明神社)の創立は平安後期の元永年間(1118~1119)と云われている。
八幡太郎 源義家公が兄弟と共に奥州征伐(後三年の役 1083~1087)の凱旋途中にこの地を訪れ、
領主豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。

近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の舘の鎮守とした。
塚は甲冑塚と呼ばれ、高さが無い塚のため平塚と呼ばれた。
さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。

德川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸に出たところ
検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世をはたした。
その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。

その甲斐あって将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。
家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、度々参詣に訪れた。

※ 疑問として家光が度々参詣に訪れたとあるが、本当の事だろうか。
   訪れたのは山川城官貞久のような気がしているし、文面上の誤りだろう。

御祭神 

   八幡太郎 源義家
平安時代後期の武将で、源頼朝、義経の高祖父、足利氏、新田氏の直系先祖。
京都石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。
前九年の役(1051~『1062)、後三年の役(1083~1087)をはじめ数々の戦いを征された。
「天下第一武男之士」と称えられ、全国の武士たちが臣従した。
その武威はものの怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
この頼義・義家父子の武勇により河内源氏が武家の棟梁といわれるようになり源頼朝に求心力が向く要因ともなっている。

   加茂次郎 源義綱
頼家公の次弟(母は同)京都賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。

   新羅三郎 源義光
義家公の三弟(母は同)甲斐源氏(武田)、常陸源氏(佐竹)、信濃源氏(小笠原)の直系先祖。
近江国園城寺(三井寺)新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。
笙(笛)の名手としても有名。


   平塚城伝承地
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、
平塚明神ならびに別当城官寺縁起絵巻(北区有形文化財)の伝承によれば、
この時代の末期には秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城と言う城館を造ります。

平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、
使っていた鎧と守り本尊に十一面観音像を下賜しました。
近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、
義家三兄弟の木像を造り、そこに社を立てて安置したと伝えられています。
これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりとも言われます。

鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、
文明十年(1478)一月、豊島泰経の時代に扇谷上杉家家宰太田資長(道灌)によって落城してしまいます。

江戸時代、上中里村出身の針医者で当道座検校でもあった山川城官貞久は、
三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。
感謝した貞久は、自らの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。

貞久の忠誠心をしばらくして知った家光は感激し、二百五十石の知行地を与え、
このうちの五十石を朱印地として平塚明神に寄進させました。

                                               案内説明より

本殿 後方甲冑塚

神楽殿

蝉坂から平塚神社への階段

参道

手水舎 水は無かった

平塚亭 つるおか

串団子

稲荷ずし 

滝野川公園イチョウ並木

東京消防庁訓練所 後方確認訓練中

訓練用建築物 

国立印刷局 滝野川工場(工事中)

国立印刷局 東京病院

警視庁 滝野川警察署

御成街道一里塚(日本橋から二里)

慶長九年81604)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を起点として全国主要街道に一里塚を築き、
街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分(街道分岐点)一里塚の次の一里塚で、日本橋から日光御成街道二番目の一里塚にあたります。

都内の日光御成街道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、
岩淵宿から船で川口宿にわたると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。
将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、
岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。

旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。
車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存の碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。
西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうななりました。
この碑文にはこうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって
保存に成功したことが刻まれています。

西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても
記念碑的な意義をもつものといえます。
大正十一年三月八日に国の史跡に指定されています。
                                          案内説明より

中央分離帯で保存の下り左側

一里塚バス停

境内社

寺社の定番 銀杏樹

平塚七社神社

ニノ鳥居

手水舎

社務所

拝殿 本殿

七社神社の祭神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
伊斯許理度賣命(イシコリトメノミコト)・市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)
帯中日子命(仲哀天皇)・品陀別命(応神天皇)の七柱です。

由来については、寛政五年(1793)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、良くわかっていません。
『新編武蔵風土記稿』には「村の鎮守トス・・・」と記され、また、『江戸名所図会』には、無量寺の高台に描かれ、
再建後も別当寺であった無量寺の境内に祀られていたことがわかります。

七社神社は江戸時代、七所明神社と言われ西ヶ原村の鎮守で、神社の別当である無量寺の境内にありました。
七所神明社の祭神は紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日神・八幡神の三神を合祀したものと言います。
七所神明社と七社神社の祭神の異なることについては前記寛政五年の火災により詳細は不明です。

明治はじめの神仏稀釈に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として奉祀されるに至りました。
境内末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峰神社・疱瘡社が鎮座しています。

一本杉神明宮は、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社の移転により末社(天祖神社)となったものです。
現在、切り株が残っている杉の古木は、一本杉神明宮の御神木でした。

                                                 案内説明より

舞殿

舞殿扁額 武運長久

天祖神社(一本杉神明宮)鳥居

一本杉神明宮

御神木 一本杉切り株

境内大イチョウ(七社神社御神木)

境内社 熊野神社

左孟子・孔子像 HPより

稲荷神社  HPより

天満・三峰神社  HPより

西ヶ原一里塚 国指定史跡

大正時代の一里塚 案内より

一里塚交差点

ゲーテ記念館

西ヶ原三丁目に駐在所?地域密着

それなり(刑事局長)の邸宅

それなりの邸宅そのⅡ

六地蔵 不動院

真言宗 明王山 不動院
想像する浅見家住居地?

不動院 山門

それなりの邸宅そのⅢ





飛鳥山と王子界隈

飛鳥山 紅葉

飛鳥山 紅葉

飛鳥坂 坂と急カーブで都電の難所

都電飛鳥山駅

坂を下る都電荒川線
王子駅~飛鳥山駅は路面電車

都電王子駅横の飛鳥山登山道?

飛鳥公園入口駅  登山道を避たい人には楽ちんモノレール 

飛鳥山から王子駅方面

旧渋沢邸庭園

晩香廬

近代日本の大実業家の一人渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現 清水建設㈱)の清水満之助が
長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。

外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、
壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配のついた船底状の天井、越羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、
建築家田辺潤吉のきめ細やかな意匠の冴えを見ることができる。

なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。

   青淵文庫
渋沢栄一(号・青淵)の八十歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。
渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。

外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には色付した陶板が用いられている。
上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、
色鮮やかな壁面が構成されている。
内部には一階に閲覧室、記念品陳列室、二階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、
照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
                                           案内説明より

青淵文庫

園外の渋沢栄一資料館

青淵文庫 ステンドグラス

渋沢栄一像
明治三十五年壬寅四月十三日作像

築山東屋

青淵文庫 陶板柱

兜町稲荷社跡

日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。
明治三十年(1897)の第一銀行改築時に現在地に移築されました。
その後、昭和四十一年(1966)に破損が激しく、危険と言うこともあって取り壊されましたが、
基壇部分や燈籠などは現在まで残されています。

この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、
兜社と名付けられたものでした。
その後兜社は、為換座の建物と共に第一銀行に引き継がれたのです。

   山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭で、「六角堂」とも呼ばれていました。
この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、
山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられ多様です。
西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。 

   茶席「無心庵」待合跡
茶席「無心庵」への途中にあった待合です。
腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。
現在は、軒下の踏み石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

                                               案内説明より

山形亭跡

茶席「無心庵」待合跡

飛鳥山古墳1号円墳

古墳時代後期の直径31mの円墳。
平成元年の調査で周囲には幅3.8mの周溝が廻ることが確認された。
また、平成五年の埋葬施設の調査で、切り石を使用した横穴式石室が確認されています。

石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が現位置を留めているほかは、大きく壊されていた。
石室の形態は残された側壁から「胴張型横穴石室」と判断されました。
石室内からは太刀や刀子の破片、鉄鏃・耳環・管玉・切小玉・ガラス小玉が出土している。
公園内ではほかにも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。


   飛鳥山の碑 (東京都有形文化財)
八代将軍吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。
これを記念して、王子権現社別当金輪寺(真言宗 禅夷山東光院)の住職宥衛が、元文二年(1737)にこの碑を建立した。
石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。

碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。
篆額(篆書体で書かれた額、題字)は、尾張国の医者山田宗純の書である。
建立に至る経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ 龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。

碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。
吉宗の治政が行き届いて泰平の世であることを宣伝したものと考えられる。

碑は、総高218.5㎝、幅215㎝、厚さ34.5㎝。
平安時代の末頃にこの辺りを拠点としていた豊島氏が熊野権現の神々をお迎えし、祀ったこと。、
熊野にゆかりの飛鳥山・王子・音無川の名を付けたことなどの由来が書かれている。

元享年間(1321~1324)に豊島氏が王子権現(王子神社)勧請したことが記され、
土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている。

また将軍家光が新たに王子権現を新築し、そこに飛鳥の神を合祀したことや、この周辺のにぎわいなども記されている。
最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯なども記されている。
異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、
飛鳥山の変遷を理解するうえで重要な資料である。


   桜賦の碑
桜の賦は、信濃国松代藩士の儒学者であった佐久間象山の作である。
象山は西洋の学問を学び、進歩的な考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた。

この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、
日本全土に壮観を呈しその名声は印度・中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云っている。

当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中であったので、
深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志操は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。

この賦は象山五十歳(万延元年1860)の作と云われ二年後の文久二年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。
象山は蟄居赦免となり翌年京に上り公武合体開国論を主張してやまなかったが、
一徹な尊皇攘夷論者によって刺され元治元年(1864)七月十一日五十四歳の生涯を閉じた。

この碑は遺墨を素に門弟勝海舟の意によって同門の小松彰によって建てられた。
碑陰記同門の北沢正誠文で書は日下部鳴鶴である。
明治十四年十一月十五日と刻まれている。
この碑の下に挿袋石室が埋蔵されている。
                                              案内説明より

飛鳥山碑 東京都有形文化財

飛鳥山公園の歴史

飛鳥山公園は、明治六年(1873)に定められたわが国最初の公園の一つです。
この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。

このあたりは、古くから人が住んでいたらしく先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、
弥生時代の人々の生活の跡が多数発見されています。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在展望台のあるところ)に
飛鳥明神の祠が祀られていたからだと伝えられています。

江戸時代中頃元文二年{1737)德川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し、荒れ地を整備して、
たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名になり、飛鳥山の回りには茶屋なども出来ました。
その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれています。
この碑文はとても難解で読み難く、すでにその当時から読み難い石碑の代表とされていました。

飛鳥山のお花見は、向島と共に仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような仇討の場面の趣向や、
変装などのために大変なにぎわいを見せていました。
また、東側の崖(京浜東北線)からは、カワラケ投げも行われ土皿を風に乗せて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、
明治の末になってからは危険防止のため禁止とされました。

この山は、東から西へのなだらかな斜面でしたが、道路拡張のためにせばめられ、
前に中央部につくられた広場の跡地に噴水ができ、夜は五色の輝いています。

                                                  案内説明より

桜賦の碑

都電 6080

昭和53年まで都電荒川線を走っていた車両です。
荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。

明治44年8月、大塚⇔飛鳥山上の間2.45㎞の開業が始まりで、その後王子を中心に
早稲田、三ノ輪、赤羽を結ぶ路線が完成し昭和17年当時の東京市に譲渡されました。

この車両は6000型と呼ばれており戦後初めての新造車両で展示車両は昭和24年に製造されたものです。
青山、大久保、駒込の各車庫を経て昭和46年3月荒川車庫の配属となり現役を退くまで都民の足として活躍しました。
北区では都電ワンマン化を機会に交通局から譲り受け子供たちの施設として設置したものです。

   蒸気機関車 D51型853
製造 昭和18年8月31日  廃車 昭和47年6月14日  走行距離 194万2471㎞  機関車重量 約70t
シリンダー直径 55㎝  常用蒸気圧 15㎏/㎠(1470kPa)  最大馬力 1280(950kW)

   中央広場野外舞台
舞台 木製  観客席 コンクリート平段
舞台上は天気も良いことで、信濃筑摩郡の民話「物ぐさ太郎」独り(5人)舞台で静かな観客席でした。

                                                案内説明より

SL D51853

中央ステージ

王子駅界隈
王子神社 鳥居

御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、
速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、
総称して「王子大神」とお呼び申し上げます。

紀州(和歌山県)熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、
近年、世界遺産に登録された熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。
創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、
古くから聖地として崇められていたと思われます。

その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、
熊野にならって景観を整えたといわれます。
それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。
戦国時代、当地の領主となった小田原北条氏も当社を篤く崇敬し、朱印状を寄せて社領を安堵しております。

徳川時代に入ると初代家康公は天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。
二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。
三代家光公は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、
林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。

その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と
造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。

特に八代吉宗公は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、
元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。
これが今に残る花の飛鳥山(現飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。

明治元年、明治天皇は新たに首都となった東京を守護し、万民の安寧を祈るため、准勅祭社を定めました。
当社もこの東京十社に選ばれ、以来、東京の北方守護として鎮座しております。
 
戦前は「太田道灌雨宿りの椎」と伝えられる巨木を始め、多くの樹木が茂り、勝海舟も修行したと伝えられますが、
戦災で東京都指定天然記念物の大イチョウを残し、ほとんどを焼失したことは誠に残念なことです。
戦後は氏子一同、復興に努め、昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、
黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りとして社殿を再建、境内を整えて現在の景観となっております。

                                                HP案内説明より

樹間から本殿を見る

拝殿

音無川(石神井川)親水公園

音無川より王子神社への石段

音無川

手水舎

王子 扇屋 卵焼き

厚焼き玉子 ハーフ&ハーフ

関神社と毛塚

   「髪の祖神」関神社由来  御祭神  蝉丸公神霊 逆髪姫神霊 古屋美女神霊

「これやこの 行くも変えるも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関」
この和歌で有名な「蝉丸公」は延期帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり、
また髪の毛が逆髪であるゆえに嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し、
髪を整える工夫をしたことから、「音曲諸芸道」の神並びに「髪の祖神」と博く崇敬を集め、「関蝉丸神社」として、
ゆかりの地滋賀県大津の逢坂山に祀られており、
その御神徳を敬仰する人たちが「かもじ業者」を中心として江戸時代に王子神社境内に奉斎したのが、当関神社の創始なり。

昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・
演劇・芸能・美容師」の各界に呼びかけ浄財を募り昭和三十四年五月二十四日当社を再建した。

   毛塚由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、貧女自らの髪を切り油に変えて献じた光が、
大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、
毛髪最古の歴史なりと長く言い伝えられる由縁である。

毛髪を取り扱うことを生業とするものは毛髪報恩と供養のために、
昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し長く報恩の一助とする。

   王子神社の大イチョウ (東京都指定天然記念物)
音無川(石神井川)左岸(上流側から見て左)崖線の肩の部分に一際高くそびえ立つ大イチョウです。
幹回り5.2m 樹幹の先端部は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にはほぼ自然な樹形を保っています。

王子神社の創初については、飛鳥環間公園内にある「飛鳥山碑」に書かれています。
其れによれば、元享年間(1321~1324)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、
その頃にこのイチョウが植えられたとすると、六百年近い樹齢と考えられます。

戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りをしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、
このイチョウは生き延び、今も高台から東京の町の移り変わりを静かに見つめています。

   扇屋 卵焼き (王子神社下音無川沿い王子駅脇)
扇屋の歴史は1648年(慶安元年)の徳川家光の時代から。
現在では15代目・武利が屋号を守っています。
落語の「王子の狐」の舞台も、この扇屋。 
また、当店名物「釜焼玉子」は料理屋のお土産の始まりとも言われています。 
明治天皇も休息のため過去に2度御来店されました。

江戸時代の王子は、王子稲荷参詣や滝浴みなど観光地として大変賑わっていました。
音無川付近には、観光客を見込んだ料亭が軒を連ねていたそうです

その中でも特に美味しいと評判だったのが、料亭「海老屋」と「扇屋」。
江戸時代の料理屋番付図を見ると、西の「大関」と「小結」にそれぞれの名前を見ることができます。
「海老屋」は扇屋の兄弟が出していた店ですが、今では扇屋だけが残っています。

現在料亭として営業いたしておりませんが、料亭のあった一角で口伝による伝統を引き継ぎ卵を焼いています。
甘みの強いいわゆるジューシーで軟らかく、冷蔵庫で保存してもおいしく味わえます。
写真の様な出店で販売のみの営業です。
ラップをかけて20~30秒ほど温めるだけでとおいしく、熱々にしないほうが良いのかもしれません。
慶安戌子年創業と篆書体?で書かれた「割烹 王子扇屋」の案内リーフには扇屋の歴史が述べられています。
慶安と言えば、あの由井正雪・丸橋忠弥の活躍した?時代です。

   王子扇屋の沿革
扇屋は慶安元年三代将軍徳川家光の時代に初代弥左衛門が農業のかたわら「農間煮売商人」の看板を掲げて
掛茶屋をしていたのが始まりで、それから数えて現当主で十五代になります。

江戸時代になると文人墨客の筆や「江戸名所図会」、「江戸砂子」、江戸土産、錦絵などに書かれるようになり、
又文化文政の頃蜀山人が随筆に「王子の茶屋は茶めし、田楽のみにて青魚に三葉芹の平皿盛りたるのみなりしに
今日扇屋、ゑびやなぞと言う料理出来てその余の茶屋も其の風に学ぶこと、なりぬ」と書いてあります。

文化文政王子稲荷社の最も栄えし頃当店も飛鳥山の桜、滝野川の紅葉などと共に江戸っ子の遊山行楽の場所として
大いに繁栄し宏壮の店舗となりました。
江戸名所図会には「料理店の亭造壮麗にして後亭の前には鮫潔たれ音無川の下流をうけ生州をかまう。
此の地はるかに都下を離る、と云えども常に王子稲荷へ詣ずる人ここに憩い
終日流れに望んで実に宴会に冠たれり」とあります。

武江年表によると扇屋の開店は寛政十一年となっていますが、料理屋となったのがこの頃で
「江戸時代一流会席番付」や料理席献立競」には八百善、平清、酔月楼、扇屋と一流の店となりました。

「寝ぬ夜のすさび」と云う古書には、料理屋の折詰は扇屋より始まれり と書かれてあり、
面白い事には有名な落語「王子の狐」他色々の話題に扇や名物玉子の釜焼折詰に
江戸時代のこと故硫黄のついた「つけ木」さし添えて狐に化かされないまじないにしたと云うことであります。

明治七、八年に明治大帝(明治天皇)岩淵一帯機動演習と印刷局抄紙部王子工場に行幸あらせられた時と
二回大帝御休息の栄を賜り、昭和戦争(支那事変・太平洋戦争)後飛鳥山と権現山(王子神社)との谷間を流る
音無川を庭園の内におさめ、眺望都下隋一の現在の店舗に移しました。

 いざあけん ゑびや扇屋 とざすとも 王子の狐 かぎをくわえて    蜀山人

   扇屋も 地神の加護で 繁昌し 扇屋へ馴染に なった三ノ午    柳多留  文政十一年作

                                               案内説明より

王子神社の銀杏 東京都天然記念物

王子稲荷神社門

神社参道鳥居

社殿

社務所

稲荷保育園の砂場 旧手水舎

平日(保育園開園日)はここを登る

坂の途中に稲荷神社

神社資料館

神楽殿

各所にあった燈籠群

狐の親子?

王子駅近くの歴史ある専門学校

東屋