成田山新勝寺

安房小湊山誕生寺その1   安房小湊山誕生寺その2

香取市 伊能忠敬旧宅・記念館  観福寺  法界寺  薬王院

香取神宮  諏訪神社  八坂神社  佐原山車会館  佐原町並み

安房国一之宮 洲崎神社

安房国一之宮 安房神社

千光山清澄寺

乾坤山日本寺  金谷神社

天津神明神社

上総一之宮 玉前神社


  水守り不動尊
この庭園を守護していただくために成田山のご本尊のご分霊を勧請したものです。
米屋創業九十周年の時に発願し、平成四年四月に真言宗中興の祖・興教大師八百五十年遠忌を記念して建立ししました。
開眼の大導師は成田山中興第二十世貫主・鶴見照碩大僧正であります。


  諸岡長蔵胸像
米屋創業者・諸岡長蔵は、明治三十二年に成田山の門前に羊かん店を開業しました。
幼少より成田山を尊崇し、また広く社会のために奉仕活動を続けて、昭和三十九年五月には成田市名誉市民に推されました。
胸像は芸術院会員・朝倉文夫先生の作になるものです。

                          案内説明より

不動の大井戸 湧水洗心

水守不動尊

成田不動尊遷座之旧跡記念碑

米屋創業者 諸岡長蔵像

米屋製造工場

成田羊羹資料館

米屋本店

石庭

石庭

  三橋鷹女の像
女流俳人・鷹女は、明治三十二年(1899)に成田町成田(現 成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生まれました。
本名を三橋たかといいます。
成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現 成田高等学校)を卒業しました。

大正五年(1916)に上京、大正十一年(1922)に歯科医師・東謙三(俳号剣三)と結婚、夫と共に俳句にいそしみました。
初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」等に属しましたが、後には永く結社拠らず、独自の句境を築きました。

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり  白露や死んでゆく日も帯締めて  甲中一顆の雹を啄み火の鳥や

等の句はよく知られているところです。
昭和四十七年七十三歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)

このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民並びに多くの賛助者の協力によって、
彼女の姿を故郷の地・成田によみがえらせたものです。

                                案内説明より

三橋鷹女像

うな重(並)

うなぎ 川豊

駅から表参道へ

京成電鉄成田駅

JR成田駅

大黒屋旅館

食品乾物の齋藤商店

うなぎ・天ぷら 食堂三はし






成田山 新勝寺


成田山新勝寺その2・・・参照: 千葉のいろいろその2

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信徒会館

門前の商店街






千葉のいろいろその1

  

総門

山門(仁王門)

本堂

山門金剛力士像 (阿形)

山門金剛力士像(吽形)

総門山号扁額

三重塔

釈迦堂

香炉

大師堂

弁財天堂

手水舎

光輪閣

光輪閣四脚門






安房小湊誕生寺

日蓮宗小湊山誕生寺 総門

創建 建治二年(1276) 開基 日蓮聖人  開山 日家上人

誕生寺はそのはじめ文永元年(1264)聖人自ら母梅菊女の病気平癒を記念して建てられた荘厳道場堂に濫觴し、
建治二年(1276)直弟子日家上人これを聖人生家の地に移して高光山日蓮誕生時と呼ばれたことが始まりです。

その後明応二年(1493)日孝上人が水戸藩徳川家の帰依をうけ、七堂伽藍を整えられたが、宝暦年間大火があり、
仁王門(山門)を残し悉くが焼失した。

雨落ち十八間四方総欅造りの祖師堂は天保三年(1832)より十年間の歳月をかけて完成し、
内陣中央に日蓮上人像が安置されている

日蓮聖人はこの地安房小湊に生まれ(1222)ました。
聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海人が子なり」(本尊問答抄)といわれ、
聖人没後五十年頃の聖人伝(本問宗要抄)には
「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。

誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治二年(1276)開創され、
日蓮上人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖とし、聖人誕生の地に建立されました。

しかし、明應七年八月(1498)、大地震大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、
祓崎の南端から現在の地に移りました。
延宝八年(1680)の記録「誕生寺寺法」によれば、境内敷地は南北三十二町(3488m)、東西二十町(2080m)とありますから、
関東屈指の大寺であったことがわかります。

天正八年(1580)里見安房守義頼が四十石の田畑及び寺面海上十石(約9900㎡ 1町歩))を、
さらに慶長九年(1604)市川の地二十石を重臣正木太夫頼忠より寄進しています。
そして慶安元年(1648)徳川三代将軍家光公が御朱印によりこれを認められました。
現在の特別記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものであります。

この頃の小湊村は、七十石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、
人口もこの地方では最も大きな港町であったと云われています

しかるに元禄十六年十一月(1703)房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前人家百余戸が流出し、
僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞われました。

勿論当山の被害は甚大なものではありましたが、幸い水戸藩三代綱条公が前代德川光圀公の追善のため
七堂伽藍を一基建立され、旧状に復することが出来ましたが、
それも束の間、宝暦八年(1758)大火により三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)を悉くを焼失しました。

現在の祖師堂は天保十三年(1842)に、総欅造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の
全国勧募により完成したものであります

また、明治に入り東宮殿下(大正天皇)御平癒の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により
有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立(明治二十三年)されて、後皇室との御縁も結ばれました。

そして今は、長い間海辺特有の風雨に耐えて損傷甚だしい諸堂宇を、五十万人講全国勧募により、
遂次再建整備しつつあるところであります。
現に本師殿宝塔及び宝蔵の新築の建立、庫裡の改修、廻廊門塀等の諸工事を進行中であります。
堂塔二十余、境内二万坪、日蓮宗大本山である

                                             案内説明より

山門

本堂

山門山号扁額

祖師堂

祖師堂正面唐破風

祖師堂大屋根の懸魚 鰭無

井桁に橘 日蓮宗寺院定紋

宝塔

鐘楼と梵鐘

香炉

手水舎

山門仁王像 吽形

誕生寺の七堂伽藍は、江戸中期の宝暦八年(1758)の大火によって、
仁王門(山門)を除くほかの建物はすべて焼失してしまいました。
焼失を免れた現在の仁王門は、江戸前期の宝永三年(1706)二十六世大中院日孝上人の代に
水戸德川家の助力を得て建立されたと伝えられるものです。

江戸中期の寛政三年(1791)の銘を持つ「誕生寺絵図」の中に見られる仁王門が相当すると考えられます。
間口約14.8m、奥行き約5.8mの五間三戸瓦葺重層門は、千葉県内では最大規模のものです。
軸部は白木造り(ケヤキ)、組物は下層では和様三手先、上層では唐様三手先、
中備はいずれも本蟇股と支輪に波・雲の彫刻が用いられています。

上層に見られる般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられ、
正面左右の脇の間には上総国の仏師松崎右京太夫の作と伝えられる仁王像が安置してあります。

創建当時の様子をとどめた絵様及び彫刻など、様式的にも、歴史的価値の高い貴重な建物です。
                                                                  案内説明より

山門仁王像 阿形

享保十五年(1730)
上総国上野村植野の住人
大仏師 松崎右京太夫作

修復
昭和五十年七月
大仏師 松久朋田琳

誕生堂  昭和五十八年四月再建

堂内中央に日蓮上人御幼少像 妙白、妙蓮ご両親像の一木三体の坐像が奉安されています。

   日蓮聖人幼少立像
この銅像は日蓮大聖人が善日磨と称していた十二歳の折、修行出家のため安房国千光山清澄寺に登られて時の御姿です。
昭和十年六十七世日誇上人代に建立されました。

日蓮上人幼少立像

龍王堂

布教殿堂

早咲き桜

浄行菩薩立像

   萬病守護浄行菩薩縁起  (文が現代風ではないので漢字の意味を拾い出して認知する)

ここに御祀る申し上げる浄行菩薩は、お釈迦様が久遠と言う果てしない遠い遠い昔、
苦行の結果御悟りを開き給い佛蛇になられた時の温弟子で、
六萬恒河沙と云う数に現すことが出来ないほどの沢山の大菩薩の御弟子の中で上座に位し、
三名浄行菩薩と号して能く唱え導きの師であります。

「浄行は浄を表す」 [五住の垢累を超るが故に浄行と名く」とあり、「煩悩無数誓傾断」所謂無数の煩悩を断ち切る誓願と
苦の衆生が迷信に依って本心を失い、身病心病を発し、六根清浄に非る顛倒の衆生を救うの誓願をお釈迦様に立させられました。
之が浄行菩薩であります。

経には「百八の重病恒常相纏う」と説給へと
水は能穢れを洗浄るので、浄水をそそいでこの菩薩を信仰し恭敬の心を持つなら衆の病は治らぬということがありません。

「所願慮しからず亦現世に於いて其福報を得ん」と説かれているので、浄行菩薩を渇仰する者是の菩薩に信を入れて、
六根清浄を祈願するに協ずと云う事がありません。
                                        案内説明より

千葉のいろいろへ

千葉のいろいろへ

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香取市佐原

伊能忠敬旧宅・記念館  観福寺  法界寺  諏訪神社  八坂神社  佐原山車会館  佐原町並み  香取神宮





伊能忠敬旧宅・記念館
 

佐原公園の伊能忠敬銅像

測量中の忠敬像

伊能忠敬記念館

  伊能忠敬 (佐原公園 伊能忠敬銅像説明文)
伊能忠敬先生は、延享二年(17459一月十一日、今の千葉県山武郡九十九里町小関で生まれましたが、
十七歳の時佐原の伊能家の養子となり跡を継ぎました。
以後伊能家の当主として三十年余りこの佐原の町でくらしました。

そして、寛政六年(1794)五十歳で家長を実子長男景敬に譲り江戸に出て西洋流の天文学を学び、
五十五歳の時から江戸幕府の命によって、何回も測量旅行に赴き、
十七年もかかって、全国の海岸線を測量して精密な地図をつくりました。
忠敬は測量旅行のたびごとに、その地方の地図をつくり最後にその総まとめとして日本全図をつくりはじめました。
文化十五年(1818)四月十三日、江戸に於いて忠敬は亡くなりました。
享年七十四

忠敬の偉業は弟子たちの協力によって、その三年後に完成しました。
日本の国土の正確な形は、伊能忠敬によって初めて明らかにされました。
この銅像は、忠敬先生の測量中の姿で、大正八年(1919)に建立されました。
台石の文字は、漢学者・塩谷時敏先生が書かれたもので、
「仰いでは斗象を瞻、俯しては山川を畫く」(あおいではとしょうをみ、ふしてはやまかわをえがく)とあり、
意味は「天体の観測を行って、りっぱな地図をつくった」ということで、忠敬先生の功績を讃えています。

江戸幕府直轄事業旗

記念館フロントホール展示品

台所 炊事場

書院の間

伊能忠敬旧宅 (国指定史跡)

伊能家家訓三ヶ条

  伊能忠敬と伊能家
伊能忠敬は(1745~1818)は1745(延享二年)年に上総国山辺郡小関村に生まれ、十七歳で佐原の伊能家に婿養子となり、
家業である醸造に励み、村の村方後見を務めました。
五十歳で江戸に出て幕府天文方の髙橋至時に師事し、五十五歳から全国測量を開始しました。

忠敬の測量の観測は、地球の大きさに興味があったためといわれています。
南北の長い距離を測り、その場所の北極星の仰角の差から一度の距離を求め、360倍が地球の周の長さというわけです。
その長い距離に為に江戸から蝦夷地が選ばれたのである。
第一回の蝦夷地(北海道)から第十回の江戸府内に及ぶ日本全国の海岸線・街道の測量は十七年に及び、
文政四年(1821)に大日本沿海奥地全図(大図214枚、中図8枚、小図3枚)と第日本沿海実測録(14巻)として完成しました。

ここには、忠敬が生活した旧宅が公開されており、測量に使用した器具や地図などの資料は伊能忠敬記念館に展示、
保存されています。
また市内には、伊能忠敬銅像(大正八年 佐原公園内)や忠敬の墓(観福寺・市指定史跡)があります。


  伊能忠敬旧宅  国指定史跡
店舗・正門・炊事場・書院・土蔵からなります。
伊能忠敬が十七歳で婿養子に入り、主な家業である酒造業を営んだ家です。
昭和二十年代まで伊能家の住居として使われ、伊能家資料を守り公開していた場所です。

江戸時代当時から比べると、家の規模が縮小していますが、商いを行った『店舗』は土蔵だった建物を店に造り変えています。
そのため、帳場奥の座敷は七畳半が二間という形になっています。
また旧宅奥にある『土蔵』は、観音開きが普及する以前の、扉が引き戸形式の残る佐原でも数少ないもので、
これら江戸時代の雰囲気がよく残っています。 

  伊能家 家訓三ヶ条
一、 仮にも偽をせず孝弟忠信にして正直たるへし
一、 身の上の人はハ勿論身下の人にても教訓異見ありは急度相用堅く守るへし
一、 篤敬謙譲とて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

      亥 九月廿一日

  東日本大震災後の修理・補強

  店舗の補強・修理・屋根葺き替え
店舗は震災以前から公開していましたので、今後も公開するする為にお客様の安全を確保することが必要となりました。
店舗は開口部が多く、壁で補強することが困難なであったので、鉄骨で補強を行いました。
鉄骨が露出している部分がありますが、これも安全確保のための処置です。

文化財は、部材のみならず、その工法を含めて価値のあるものです。
そのため、震災で落下した瓦についても、従来の土葺という工法で葺き、落下防止のために、瓦を銅線で結びました。
文化財の保存と、安全性を確保するための工夫を施しています。


  炊事場の補強・修理
炊事場も公開を続けるために、耐震補強を施しました。
炊事場も店舗と同様に開口部が多く、壁で補強することが困難なので、鉄骨で補強を』行いました。
造作で隠れる部分がほとんどないので鉄骨の多くが露出しています。
これも、安全のためにとられた処置であります。


  書院 解体修理・耐震補強・
書院は震災で家屋が傾いたので、部材の多くを分解、調査し、しかるべき修理方針のもとに組み上げる、
半解体修理を行いました。
正門、炊事場を含めた店舗と土蔵については、すでに、半解体修理を行っていましたが、
書院は、今回初めて大がかりな修理を行いました。

書院も公開を続けるために、耐震補強を施しました。
書院は鉄骨ではなく木材で補強を行うことができました。
天井裏と床下には補強材を入れ柱を固定し壁は合板を入れ補強をしています。
補強後、天井と床をつけ、壁には壁土塗ったので、補強材は見えませんが、安全は確保しています。

文化財の修理は、使える部材は残すように行っています。
部材そのものが文化財としての価値があるのです。
書院の壁の多くは補強のために解体しましたが、垂れ壁は残せるものは残しています。
柱も使える部材は残し、新材でつないでいます。瓦も修理前に葺いてあった瓦を残した部分があります。

                                      案内説明より

店舗

座敷

書院座敷

書院座敷

武具・捕具等吊り具

測量 この一歩から記念碑

土蔵

屋敷川





観福寺 伊能家菩提寺 伊能忠敬墓所

弘法大姉修行像

観福寺樹叢

石段参道

六地蔵

山門扁額 山号

山門 脇塀付四脚門

厄除大師 牧野観福寺 寺標

観音堂 本尊聖観世音菩薩

毘沙門堂

本堂(護摩堂)

庫裡正門

庫裡通用口

庫裡長屋 埋門

本堂 唐破風向拝彫刻

本堂 唐破風向拝 蟇股彫刻

手水舎

青銅製 宝塔

案内・祈願受付所 (薬師堂)

不動堂

大師堂

鐘楼

大師堂 扁額

納骨塔

檀家墓地

戦難・戦病・戦没 三菩提石塔

本堂前枝垂れ桜

 真言宗豊山派 妙光山観福寺
真言宗豊山派の巨刹で、川崎大師・西新井大師・とならび、
日本厄除大師(関東厄除け三大師)の一つに数えられる上総の名刹です。
本尊に祀るのは平将門の守護仏である聖観世音菩薩(聖観音)で、
寛平二年(890)に堂などが建立されたことが起こりと伝えられています。

古くは千葉氏の祈願所として歴代武将が厚く帰依し、近世に入って佐原の伊能家一族の帰依をうけるようになりました。
江戸時代を通して末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として寺領三十石を有し、幕府から七年に一度の年始独礼の拝謁を許されました。
由緒正しき故に、僧侶の叙任や法衣の色の許可を与える権限を持つ院室兼帯の寺院とされた一方で、
本山での修行に入る前の基礎的な教育を施す地方林壇所として学徒の教育にあたり、
更には大師信仰の中心となって庶民の信仰を集めました。


  観福寺厄除弘法大師縁起
當山「厄除弘法大師」は自ら御彫刻遊ばされたる霊像にして、日本厄除三大師のと称し祀る。
今其縁起を案ずるに、
「人王五十二代嵯峨天皇の御宇(御代) 弘仁六年(815)大師四十二歳の御厄年にあたらせられ
親(自ら)ら御像三体を彫刻して 其一つを禽獣草木の厄を除かんがために山城国大倉村大蔵寺に 
其一つを一切魚鼈(ぎょべつ)を救わんがために武州河原の平間寺に 
其一つを庶民の災厄を除かんがために京都嵯峨の大覚寺に留め給う。
 
茲に当山三十三世鏡覚(けいがく)和尚嵯峨の院を訪へり。
院の阿闍梨(師範僧)は當山三十世三等和尚の法弟なり 阿闍梨 鏡覚和尚に告げて曰く 
我が法兄三等和尚東国庶人結縁の為に新四国霊場を開創せらされたと聞き我喜びに堪えず 
乃ち心経殿安置の厄除弘法大師の御像を付属し且つ曰く 之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべしと 
鏡覚和尚恵頓首して之を受け奉侍して郷に帰り山内の宝殿に安置し 奉れり」

とあります。

現在の住職によりますと、弘法大師自ら彫刻した三体の仏像の内、大蔵寺の霊像は西新井大師に、
平間寺の霊像はそのまま平間寺(川崎大師)にそして大覚寺の霊像が観福寺に伝わっていることから、
この真言宗の三つの御寺が日本厄除三大師、あるいは関東厄除三大師とされているとのことです。

まお、関東厄除三大師に似た「関東の三大師」と呼ばれる御寺もありますが、
こちらは弘法大師ではなく厄除け大師とも呼ばれる元三大師(良源 慈恵大師)を祀る
佐野厄除け大師、青柳大師、川越大師の天台宗の寺院を指す場合が多く、関東厄除け大師とは全く別のものであります。


  境内の現在の建築物
本堂: 文化八年(1811) 鐘眞和尚により再建
大師堂: 文化十二年(1829) 秀珍和尚により建立される 堂内には弘法大師・空海像を安置
観音堂: 元禄年間(1688~1704) 春海和尚により建立される 観福寺御本尊・聖観世音菩薩を安置
不動堂: 文化十五年(1818) 快恵和尚により再建される 身の丈五尺 台座身の丈八尺の不動明王を安置
位牌堂: 文化年間(18041818)に建立される
鐘楼: 文化八年(1811)に建立される
毘沙門堂: 平成七年(1955)に建立される


  観福寺の寺宝 国指定重要文化財
円形の銅造鏡板を光背とした一体型懸け仏であり、現在四体の仏様を安置しております。四体とも元は香取神宮の神宮寺(金剛宝寺)で本地仏として祀られていました。
明治の神仏分離令によって香取神宮の手から離れたものを、さわらの篤志家の人々によって当寺に寄進されたものです。

その内、十一面観音坐像と釈迦如来坐像の光背には弘安五年(1282)の造像銘があります。
地蔵菩薩の光背には延慶二年(1309)の造像の銘が陰刻で刻まれています。
後の一体は薬師如来坐像で現在造像の年代は判明しておりません。

秋色の生垣花壇

伊能忠敬の墓 観福寺境内

忠敬墓近くの宝篋印塔と五輪塔募


  伊能忠敬の墓
伊能忠敬の墓は本堂から少し上ったところにある。
案内板があるので解り易い。
二つの墓石が並んで建っているが、伊能家の墓であることから養家娘(妻)の墓であろうと思う。
それぞれの墓石には 「有功院成裕種徳居士」 「研心院妙唱日鏡大姉」と刻まれている。
墓石文字は法名と同じと思うがなんとなく婿養子の立場を表しているような意味ともとれる。

忠敬の死後に授けられたものか生前に授けられたものかはわからないが、死後だとするとその意味が強くなる。
「良きことをしました、豊に財を成し家の家系を守り、世に徳のある伊能家を知らしめました」と。
深い意味を知らない私でも容易に思い浮かぶ字の並びです。
もっと奥深い意味があったとしたらそれは私の勉強不足です。 

観福寺墓地には多くの大きな墓石が並んで建っており、外の寺では多くは見ない宝篋印塔型や五輪塔型の墓が特に多い。
これらから見ると江戸時代の佐原の町がいかに交通の要所として、農産・海産物の流通で潤っていたかが解る。
江戸時代の流通の基幹が舟運であったことは、全国の津々浦々に財を成した者が多く、
贅を尽くした建物や庭園、絵画などの芸術品を生み出したことでも文化の中心で有った事であろう。
武士の世とはいえ、その実態は農工商に育まれた底辺の広がりに負うことが大きい。


   伊能忠敬 (墓所説明文)
延享二年(1745)、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)に生まれ、
十七歳の時佐原村のいのうけの婿嗣子となった。
以後、三十年余りの間佐原の名門伊能家の主人として、また、村の名主、村方後見などの役について働いた。
隠居後、五十歳で江戸に出て、幕府天文方高橋至時から本格的に西洋流の暦学を学び、
幕府の命によって千八百年から十七年間、全国の海岸線を実測して精密な地図をつくった。

これによって、日本の国土の正確な形と地理上の位置が初めて明らかにされた。
文正元年四月十三日(1818年517日)、江戸八丁堀亀島町で死去。
享年七十四
遺言により遺体は浅草源空寺の高橋至時の墓側に葬られた。
佐原観福寺の伊能家の墓所には遺髪と爪が埋められている。

                                        案内説明より

多くの立派な墓が多い

伊能忠敬の墓 左側

花挿しの家紋 左違い鷹の羽

伊能家の墓





浄土宗 理智山法界寺

法界寺 棟瓦の寺紋(三つ葉葵紋)

  浄土宗 理智山法界寺
天正十一年(1583)に旭蓮社天誉上人により開山されたと伝えられている。
境内に釈迦堂(呑龍堂)と呼ばれる御堂があるが、浄土宗の僧「呑龍上人」とは同時代に生きたので、
何かの関係があると思われる。
呑龍上人は德川家康と関係が深く、その命により関東各地に足跡を残している。
天正十一年は織田信長、北条氏政が健在であり、德川家康が関東に威を張ることは全くあり得ない。

本堂やその他の建立物に三つ葉葵の紋が表されているが、これが寺紋とするとかなり濃密な関係があったと思われる。
よって、その関係ができたのは家康が関東に移ってからのこととなるので、
開山された上人と呑龍上人(源蓮社然誉上人)は師弟か兄弟の関係とみられる。

境内には一基の石灯籠が設置されているが、そこには次のような文字が陰刻されている

奉盧石燈籠
武州(武蔵国)東叡山(寛永寺)
大猷院殿〇〇尊前
慶安五壬辰年四月二十日
従五位下 仙石越前守
源朝臣 正俊

○○は文字が刻印されていた形跡は見られるが判別しがたい。
何かの理由で消刻されたのかもしれませんが、法界寺ではその文字が何かはわかると思います。
単なる空欄である可能性もありますが、文字並びが不自然ですね。

大猷院殿は徳川家光の法名・大猷院贈正一位大相国公のことと思いますが、思うと云うより確実でしょう。
この時代この諡は家光のみのものですから。
かの元禄赤穂事件の長矩室搖泉院も当初は落飾して壽昌院と称したが、五代将軍綱吉の生母が桂昌院と称したので、
はばかって搖泉院とかえたくらいですから、ましてや将軍の諡ですから。

ただし、東叡山・大猷院殿尊前とあるのは家光公の一周忌にあたる慶安五年四月二十日に奉納されたのであろう。
そして日光輪王寺境内にはまだ廟所は完成しておらず、寛永寺に仮奉られていたことを示している。
よって輪王寺の大猷院が完成し、遷座してからこの燈籠は刻字の上から不要となりその後法界寺に縁あったものと思われる。

従五位下 仙石越前守正俊は、思い当たるのは信濃国の小諸城主、後上田城主となった仙石氏のみではあるが、
信濃国と下総国との間に特別の関係があったとも思えないが、この佐原が天領であった時なのかとも思う。
又は仙石正俊とは関係なく、寛永寺と幕政のみの動きであったのかもしれない。

これらの関係から法界寺には徳川歴代将軍の位牌が奉られている。
現在の本堂は享保四年(1721)に五年の歳月を費やし完成したものである。
入母屋造の十間四面正方形で、平入り唐破風の向拝を設けている。
本尊は阿弥陀如来立像

本堂前に朱柵で囲まれた池があり、中央に石板仏が置かれている。
仏像と台座は一体のものではなく、仏像のみが壊れたか捨てられていたものを他の石を台座として祀っている。
像の形から見ると、上半身のみで坐像としてではなく、立像の上半身のみを台座にのせてある。

信仰篤い人が破壊あるいは遺棄された像を見つけしかるべきところに安置したものであろうか。
証拠と云っては断定できないが、御姿から想像するに不動明王立像であったようにみえる。
薄くはなっているが光背の火焔と不動剣、持っていたのであろう左手の羂索が想像できる。
法界寺は浄土宗の寺院で改宗はしていないようなので堂外のこの地に奉られているのでしょう。                    

鬼瓦

燈籠 東叡山 大猷院尊前

庫裡

朱柵に囲まれた池(安全柵?)

池の中の仏像 不動明王?

客殿と記してある

本堂 唐破風向拝

釈迦堂(呑龍堂)

山門 (薬医門)と寺標

山門扁額 山号額

本堂





諏訪神社

告定 全く読めない

一之鳥居 

二之鳥居

南参道鳥居 駐車場よりの参道

諏訪神社寺紋 梶の葉
(諏訪大社上社寺紋)

梶の葉・花・実

御輿倉の御輿

参道

石段参道

手水舎

拝殿

拝殿唐破風向拝

本殿

狛犬

向拝彫刻

向拝柱彫刻

諏訪神社横の住宅表札

狛犬


  諏訪神社  御祭神 建御名方命
諏訪神社御祭神は大国主命の御子にして、大国主命と共に日本建国創業の昔、土地を拓し荒ぶる者どもを平定し、
医薬を施し民衆を御神徳により導くなど、国土の経営、民生の安定に御功績のあった神であります。
遠き昔より産業開拓の神、知恵の神としてまた、近年進学の神様としても尊崇されております。

此の地に諏訪大神が鎮座したのは、天慶の乱(平将門の乱 藤原純友の乱)に大神惟季なる者、
伊予国に藤原純友を伐った功績により下総国大須賀荘領主に任ぜられ、領内鎮護の神として信濃国諏訪大社より勧請した。
その後、二十余代を経て、天正年間(1573~1593)領内の農民を率い佐原を開発するに際し奉遷、
此の地にて佐原の守り神と仰いだものであります。
現在の社殿は嘉永六年(1853)に造営したものである。

                                       案内説明より

境内社

金刀比羅神社鳥居

松尾神社

金刀比羅神社社殿

金刀比羅神社 神額

土盛稲荷神社

土盛稲荷神社 神額

稲荷社

三峯神社

三峯神社社殿

諏訪神社境内より佐原の街

末社 天満宮 神明宮等々

社務所の池





八坂神社





佐原山車会館

参道

手水舎

拝殿

拝殿千鳥破風向拝棟

拝殿扁額

八日市場口参道鳥居

本殿


  八坂神社  御祭神 素戔鳴尊
寛永十四年(1637)に八坂神社奥宮より遷座された。
八坂神社奥宮は市内諏訪上字天王宮に鎮座している。
例大祭(祇園祭)は毎年の七月十日、御輿神幸・山車巡行は七月十日以降の金・土日曜日に行う

御輿(市指定文化財)
江戸時代中期の製作にであり、市内に現存する御輿の中でも古いもので、佐原の代表的な美術品である。
現在山車会館内にて展示されている。

祇園祭山車巡行
八坂神社氏子中を本宿惣町といいます。
本宿惣町十二町内の内、十町内に十台の山車があります。その山車祭りは、国の「重要無形民俗文化財」に指定されており、
山車を飾る彫刻の見事さと、大天井に鎮座する大人形の勇壮な様は見る者の心を奪い、
山車ともう一方の主役お囃子(下座連)は、日本の祭りばやしの中でひときわ秀出したものです。
山車の夜間巡行は山車の灯かりが川面に揺れて雅で美しい。

                                        案内説明より

御神木

浜宿口参道鳥居

境内社

琴平神社

水天宮

佐原に残る彫刻


  山車と飾り物
山車とは、祭礼に曳く山・鉾・人形・鳥獣・草木などを飾った屋台のことで、語彙から『出し』の意と解され、
出しの部分に神が降り立つ、神の依り来る目標(依代)とされております。
山車は、欅を主な材料として作られ、高欄を配し、四方を新しい藁で作った注連縄や天幕でめぐらされています。
これは、山車が宮座を現しているためです。

床(一般に大天井と呼んでいる)には、飾り物が飾られます。
この飾り物は、古くは風流物として年々新しく作られましたが、幕末になって、
江戸の職人による豪華な人形が造られるようになって一定しました。
山車は、それぞれの町内により、四方同型造りとか、枡型造りとかが施されております。


  鯉の飾り物
この鯉は八日市場区の山車飾り物として、本祭り、準本祭りの時に限って製作され、
本宿惣町を三日間泳ぎ廻り、祭礼終了と同時に取り壊されるのが習わしとなっている。
鯉が町内民芸として山車の飾り物として乗ったのは文久年間(1861~1863)からと云われているが、
その由来については数々の説があるが定かではない。

材質は木材、竹、その年に収穫した麦藁を主に使用し、町内各戸の協力により皮むきされた麦藁で仕上げる。
完成まで三十日を要するが主要部分の製作にあたっては世襲によって受け継がれ、現在まで至っている。
全長7m、周囲3m
昔から鯉が山車に乗った年は大水害に見舞われると云い伝えられて来たが、
治水事業の完備した現在ではこれも伝説化しつつある。


  御輿
ここに展示されている御輿は、江戸時代中期の製作で美術的にも優れ、
佐原の現存御輿中最も古く、市の文化財に指定されています。


  日本武尊山車と日本武尊
明治の初め横宿町が町内の争いにより南横宿と北横宿とに分裂してしまいました。
明治八年八月、市内船戸の棟梁・杉崎与吉氏により総欅白木造りで実に図の良い山車が完成、
彫刻は東京の岩上政吉氏(号・塙正明)の作、額(愛国)は市内中宿出身の書家・柳田正斉氏の書で漆仕上げになっております。
飾り物は、東京日本橋人形町の鼠屋(福田萬吉氏)のさくです。

当町の飾り物のその表情は第十二代景行天皇の第二皇子(小碓命・九州の熊襲征伐の後日本武尊となる)日本武尊が、
東国遠征の際、相模の国走水(現在の浦賀水道)より上総の国・君不去(現在の木更津)へ渡るとき大時化に合い、
妃・弟橘姫が海神の怒りを鎮めるため、荒海に身を捧げ一行を救った。
その帰途足柄山の坂本で姫を慕い「吾妻はや」(後東国のことをあづまと呼ぶようになる)と嘆いている御姿であります。


  伊邪那岐尊山車と伊邪那岐尊
昔から関東一と謳歌されてきた佐原の祭り、山車誕生の歴史は古く、田宿区の山車は嘉永四年(1851に製作されたものである。
山車は漆塗りで、天井には漆蒔絵が施してあり、まわりの彫刻は、唐子遊びの図柄で、
中国の子供たちの遊びを浮き彫りに表現した芸術品で、往時を偲ばせる。
彫刻の製作は、安政三年(1856)丙辰年霜月吉辰(十一月吉日)、
製作者は飛騨国・後藤甚五郎正満、四十五世後藤茂右衛門正道、十代彫り物工・藤原正忠彫茲之と記されている。

山車の飾り物は、初めは九尾の狐で、狐の化身であるお姫様と、狐を退治に赴いた上総之助、三浦之助の物語的な三体飾りで、
明治四十二年まで続いた。
現在の飾り物は、明治四十三年、当時の流行と時代を反映して、物語的な数体の人形を改め、
歴史的人物一体とし、肇国の神である伊邪那岐尊に改作したにである。
製作者は、当時人形作りの名人と言われた東京根岸の面六の作品である。 


  佐原の祭り
佐原には、本宿八坂神社の祇園祭りと、新宿の諏訪神社の秋祭りがあります。
祭りの始めごろは、花笠や花万燈が御輿について行われておりましたが、山車を引くようになり、
享保六年(1721)には、山車番組を組む程になりました。

江戸時代末期には、赤松宗旦が利根川図誌に、「この両祭禮、至って賑はしく、何れも二重三重の屋台十四、五輌づつ
花をかざり、金銀をちりばめ錦繍の幕を懸け、囃子ものの拍子いとにぎやかに、町々をひきまわる。
見物の群集人の山をなし、まことにめざましき祭りなり」
と書くほど、盛んになりました。

祭りは、その年の米作の豊凶によって就行が決められました。
昔は必ず山車が行列を組んで、町中を練り歩きましたが、今は例祭には町中を自由に引き回し、
本祭には山車番組を組んで町中を練り歩きます。


  佐原の祭りを支えた力
佐原は、江戸時代に利根川水運の重要な河港として栄え、十八世紀の後半には戸数千三百軒余、
人口五千人を越える関東でも有数の町となりました。
米穀などの集散はもとより、醸造業も盛んで、最盛期には酒造家三十五軒、醬油醸造家十四軒を数えるほどでした。

明治に入ってからも佐原の経済活動はめざましく、明治十三年の郵便為替取扱高は一万三千二百円で県下第一位、
人口は約七千人で、飯沼町(現在の銚子市)についで第二位でした。
また、江戸時代の佐原は自治の気風が強く、地頭(村を治める旗本)がたびたび祭りを禁止しても、
いつも町民は団結してそれをはね返しました。
佐原の祭りは、このような町の経済力と町民の自治精神によって支えられ、発展してきたのです。 


  佐原囃子
山車には、大太鼓一名、小太鼓一名、大鼓一名、小鼓四~五名、笛四~五名、すり鐘一名で編成した下座連が乗り、
囃子を奏でます。
佐原囃子は、里神楽囃子を基に、江戸時代に発達したもので、千葉県無形文化財に指定されています。
昔は農家の長男に限って伝承されてきましたが、今は広く愛好者によって受け継がれています。

佐原囃子の曲目は、役物、段物、端物に大別されています。
役物では、山車の引き出しと、引き仕舞に奏される「さんぎり」・「馬鹿囃子」、曲り角通過時には「はな三番叟」が奏されます。
段物とは、大太鼓の入らない荘重な曲で、「吾妻」・「八百屋」・「お七」・「神田」などです。
流行歌、民謡など歌のある曲を端物といい、「あんば」・「大漁節」・「船頭小唄」・「ラッパ節」等がよく奏されます。


  人形師
佐原の山車人形は、昔は町内で工作の上手な人が工夫を凝らして作っていました。
明和七年(1770)の伊能家文書に、「寺宿・きくこねこ、下仲町・とら、浜宿・たかつ桜、田宿・こいのたきのぼり、
上仲町・舟屋台、八日市場・御神楽、川岸・みこまい、橋本・かさぼこ、荒久・すもふ、下寺宿・さるのだし」と書かれています。
今でも仁井宿の鷹や八日市場の鯉の飾り物に、この遺風が残っています。
江戸時代の末になると、江戸の人形師により飾り物が作られるようになり、
その後各町は、名人上手と名の高い人形師に製作を依頼して、豪華さを競い合いました。


  笛造師
お囃子の中の花形ともいえる笛の多くは、下座連の中の笛の名手として名をはせた人々が作りました。
大戸の鈴木屋、大崎の鈴木寛治、椿荘次、先代の菅井與左衛門、篠塚初太郎等です。
今でも笛作りに励んでいる舟戸町の岡野全一郎は、従来、口伝で伝承されていた佐原囃子を音符化して、
「佐原囃子集成」を作った編者の一人で、佐原下座連の結成にも力を尽くした笛吹きの名手でもあり、
作った笛は、遠音「に響くと云われています。
笛は、篠竹に穴をあけ、律をとって作ります。
音の微調整の後、漆(又はカシュー)を塗り、籐を巻いて仕上げます。


  太鼓師
お囃子の中の太鼓は、大太鼓、小太鼓、大鼓、小鼓と、さまざまな種類があります。
佐原の太鼓は、江戸時代から谷中で造られており、今も東太鼓店と松本太鼓店があります。
太鼓は、欅の木のなかっをくりぬいて造った胴に、牛皮を一杯に張り上げて、鋲を打って造ります。
太鼓の音色は、皮の質と張り具合によって決まります。


  宮大工
神社や寺院を主に手掛ける大工棟梁を宮大工と呼んでおります。
山車は本来移動する宮座ということで、江戸時代には宮大工が制作にあたりました。
寺社建築は、材料に欅や樫などの堅木を使うので、特に、道具は優れたものが求められました。

岡野家は、十五代も続いている宮大工です。
とくに、、五代岡野治富は宝暦五年(1755)に、十代岡野重好は天保十一年(1840)に、
香取神宮宮司より兵部職の称を授けられています。
この岡野重好は、上中宿山車を嘉永二年(1849)、寺宿山車を嘉永三年(1850)、
仁井宿山車を嘉永五年(1852)に製作しています。
明治年代になってからは、山車の製作は町内出入りの大工棟梁によって造られるようになりました。


  彫刻師
佐原の山車を彫り物で飾るようになったのは、嘉永年代(1850年代)の頃からです。
山車の彫刻を担った彫刻師のほとんどは江戸の職人でした。
江戸時代の彫刻師としては、後藤茂右衛門正綱、後藤茂右衛門正忠、立川録三郎、石川藤吉、石川常治郎、
石川虎次郎、石川三之助らが、佐原の彫り物を彫っております。
明治時代には、小松重太郎、後藤直政、大正時代には、後藤桂林らが名作を遺しております。

                                            案内説明より

彫刻展示

彫刻展示

日本武尊山車

日本武尊

伊邪那岐尊

伊邪那岐尊

山車正面扁額彫刻

鯉の飾り物

御輿

山車に施された彫刻

佐原山車会館



                                           





佐原の町並み

中橋

共栄橋

忠敬橋

樋橋(ジャージャー橋)

とよはし(ジャアージャー橋)

小野川遊覧船発着所 伊能家前

小野川柳並木

川面階段

遊覧船発着所?

中村屋商店

中村屋商店

正文堂

文明堂

並木仲之助商店

並木中之助商店

木の下旅館

三菱館

三菱館

福新呉服店

中村乾物店

中村乾物店

清座

清座

正上醬油店

正上醬油店

正上醬油店

旧油惣商店

宮定

宮定

金清

金利

植田屋荒物店

植田屋

小堀屋本店 別館

小堀屋本店 蕎麦処

東薫酒造(株)

醸造元販売

東薫醸造元

通用門?

上宿山車蔵


  上宿区の山車
この蔵に納められている総欅造りの山車は、昭和五十三年、三代目として区内の大工により建造されました。
大天井を飾る人形は、名将「源義経」のひよどり越え思案の姿を現しており、四代目人形師「面六」の製作です。
山車を取り囲む彫り物は、初代から百五十年以上受け継がれており、当時の豪華絢爛さを今に伝えるものとなっている。

正面中央には松と鶴を配した玉すだれ、その上部の扁額には源義経に因む「知勇」の二文字が、
鎌倉鶴岡八幡宮宮司の筆により書かれ、周囲を雌雄の龍と小龍が囲む彫刻となっている。
また、四隅の柱には擬宝珠が飾られ、像鼻などには彫金が施されている。
この豪華な山車が曳廻される勇壮な佐原の大祭は、平成十六年二月、文化庁により国の重要無形民俗文化財に指定された。

山車蔵の概要: 鉄骨造 間口7.1m 奥行7.3m 高さ8.6m


  佐原の町並み
利根川図誌(安政二年 1855)に「佐原は、下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す。
橋の名を大橋という。
米穀諸荷物の揚げさげ、旅人の船、川口より此処まで、先を争い、両岸の狭きをうらみ、
誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記してある。
江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれ、この周辺の町並には、
国指定史跡伊能忠敬旧住宅や県指定有形文化財小堀屋本店店舗、正文堂書店店舗をはじめ、土蔵造りの古い商家があります。
また、関東三大祭りの一つとして数えられる「佐原まつり」は、豪華絢爛を競い、
山車で奏される県指定無形民俗文化財佐原囃子は水郷情緒を代表するものです。


  宮定  寄棟妻入り 明治二十六年築 創業文化四年(1807)
創業者の宮澤定七の名をとって「宮定」とした。
現在の当主は七代目。
代々魚問屋、蒲鉾の製造・販売を業としてきたが、現在は、割烹として営業している。
寄棟で瓦を道路側に葺き下ろし連続した町家の景観を形成する。
左の水路は江戸時代の農業用水路、小野川上流の関で水を揚げ、本宿から新宿に「樋橋」で通水した。
右の切妻平入り総二階の建物は、平成に外観を修景して町並み景観を整えた。


  金清  寄棟妻入り二階建 大正十三年(1924)築  土蔵 切妻平入り 文政中期(1820年代)築  創業明治後期頃
本来の屋号は「新仁衛門」。
「金清」は、昭和三十二年頃まで営んでいた和服の仕立て屋・裁縫教授所の屋号である。
現在は会計事務所となっている。
寄棟総二階造り、二階窓は出格子で特殊な屋根形状となっている。
一階は、道路に面した細長い土間があるのみで座敷として使われており、明治末から大正期の新しいタイプの町家である。
奥の土蔵は、元伊能茂左衛門家の土蔵で、醬油蔵であった。
左隣には、元伊能家の四軒長屋が道路沿いにあった。


  金利  切妻平入り 明治後期築  土蔵切妻平入り  創業天保二年(1831)創業者金田利兵衛
佐原の里歌に「佐原名物、御酒に醬油、味醂に奈良漬、島の瓜」と謡われ、奈良漬の製造を行っていた。
島の白瓜と味醂粕の奈良漬は、佐原で開発され各地に移出され、江戸後期から昭和初期にかけて全盛を極めた。
明治初期には米穀類卸商人としても上位をしめている。
建物は、切妻平入り二階建て、裏に昭和期に平屋部分を増築している。
敷地奥には土蔵を配している。
店舗脇の小さな小屋は、付属屋を思わせる厠で平安時代?のものです。


  樋橋(ジャージャー橋
樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋を造り小野川に架けられたものです。
もともとこの橋は、人を渡すために造られたものではなく、
後に大樋を箱型に造り、丸太の手すりをつけ板を敷いて、人が渡れるようになりました。 
橋の名は、大樋で造られたので樋橋(とよはし)といい、
また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。
昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。


  植田屋荒物店  切妻平入り 明治二十六年(1893)築  土蔵切妻妻入り 明治元年築  創業宝暦九年(1759)
初代辻仁兵衛は、近江蒲生の出で現在八代目となる。
屋号「植田屋」 かって荒物と畳表の卸業が主で、「大分県から産地直輸入畳表」と書かれた奇妙な看板を見ることができる。
明治二十五年大火後に平屋の店舗を、その後奥に二階建てを増築して店舗兼住宅として使用した。
土蔵は、大火前の建物で一般公開されており、叉首組構造の大きな棟木を見ることができる。
この棟木は六間の長尺で、搬入の際大変であったと聞く。


  正上醬油店  妻入り平入り 天保三年(1832)築  土蔵 寄棟妻入り 明治元年築  創業寛政十二年(1800)
天保三年からは醬油業を営んでいる。
幕末の重要な店舗・袖蔵・小野川のだしは、佐原を代表する大店の構えを示している。
店舗は、通りより三尺内側に揚げ戸(鐙戸)を建込み、奥の住宅との境には千本格子障子を嵌めている。
二階正面には繊細な格子窓を組み、屋根は軒先を大きく張り出した品格ある建物である。
奥座敷には、さび壁、曲り戸(カラクリ戸)など匠の技が光っている。
袖蔵は家財や文書を収納している。


  福新呉服店  切妻平入り 明治二十八年(1895)築  土蔵 切妻平入り 明治初年築  創業文化元年(1804)
明治二十五年の大火後、前・側面を厚塗り壁の周囲に、更に壁を廻らして防火構造に改築した。
昭和初期に洋風を意識して下屋をテラスにし、高欄を配して透かし看板をつけ、
また、窓には小割のガラス戸を嵌め、周囲を銅版で飾り立てた。
道路に面した二階建ての店舗と奥の平屋・中庭・土蔵と連なる建物配置は、佐原で見られた商家の屋敷です。


  木の下旅館  切妻平入り  明治三十四年(1901)築  創業明治三十四年
初代船宿。
利根川や小野川沿いには江戸時代から舟運の舟人や行商人、観光客が泊まる宿がたくさんありました。
木の下旅館はには旅芸人も宿泊し、その当時の記念品(絵、色紙等)が今でも残り展示をしています。
建物はガラス窓が普及した明治末の特徴が見られます。
一階の格子窓下には大正期と思われるタイル張りが、右の壁には鉄板の道案内と天水桶が懐かしさを感じさせます。
地図には郵便局と警察署が旧位置で描かれています。 

                                        案内説明より     

収蔵山車 源義経

水天宮社殿





香取神宮
    奥宮  境内社  神道流飯篠長威斎の墓

練習艦かとりの錨

神饌殿

御砂盛

左随身

右随身

楼門吽形狛犬

楼門阿形狛犬

さし石

宝物館

香取文庫

祈祷受付 待合所

祈祷殿 旧香取神宮拝殿

二之鳥居

三ノ鳥居

社号標

告定

参拝 歓迎されております

灯籠が並ぶ参道

神之池

神徳館

神徳館 扁額

左右の狛犬

石段参道と総門

総門蟇股色彩彫刻

手水舎

香雲閣

髪塚

3.11 震災で倒壊した燈籠


  香取神宮  御祭神 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
経津主大神は、天照大御神の御神勅を奉じて国家建設の基を開かれ、国土開拓の大業を果たされた建国の大功神であります。
故に昔から国民の崇敬非常に篤く、国家鎮護、国運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれております。
御創祀は神武天皇十八年(記・紀記述年代では紀元前643)と傳えられ、
現在のご社殿は元禄十三年(1700)の御造営にもとづくものです。
明治以降は官幣大社に列せられ、毎年四月十四日の例大祭には宮中よりお使いが参向される勅祭の神社でありま。


 古事記の神代の話
神代の話の内容は、天照大御神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国(葦原中国)を治めようとしましたが、
国のいたるところで荒ぶる神々が争い、乱れていました。
大御神は八百万の神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)が優れた神であるということで葦原中国に遣わされました。
天穂日命は、出雲国を治めていた大国主命(おおくにぬしのみこと)に従ってしまいましたので、
再び天稚彦(あめのわかひ)を遣わしました。

天稚彦もまた大御神に忠誠心を持てなく、顯國玉神(うつくしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、
自ら国を乗っ取ろうと野心を抱きましたが、亡くなってしまいました。
このようなことが二度も続いたので、大御神が再び八百万の神に慎重に相談させると、
神々が口を揃えて遣いには経津主神こそふさわしいと申し上げました。

そこへ武甕槌神(たけみかずちかみ・鹿島神宮の御祭神)が自ら申し出られましたので、共に出雲国に派遣されることになりました。
経津主・武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)にお着きになって
十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると、大国主神は出雲の神々と相談なされ、
大御神の御命令に全く異議はありませんということで、出雲国をお譲りになりました。
二神は平国の広矛(くにぬけのひろほこ)を受けとり、葦原中国を平定して、大御神の元へ復命されました。

ちなみに、武甕槌神は出雲国の神々でただ一人国譲りに反対なされた大国主神の子・建御名方命(南方刀美命とも)と争い、
これを信濃国の諏訪の地に敗走させ諏訪の地に留まることを条件に許した。
諏訪の地で神となった諏訪の大神(建御名方命)はその後、留まるとの約束を破り諏訪を離れ全国津々浦々まで鎮座し、
この香取神宮のお膝元の佐原にも鎮座して、佐原の大祭に崇められるほどになった。
また、香取神宮境内には末社として諏訪之社とした祀られている。

全国の諏訪神社(建御名方命を祭神とする神社)は約6000社と云われ香取神社のそれは約400社、
争いに勝った鹿島神社のそれは5~600社と云われている。
この事は何を意味するかは分かりませんが後の世の判官びいきとは違います。
建御名方命は伝える所では、ただ争いに負けただけです。
考えられるとすれば、後ろ盾があまりにも偉大過ぎて勝つことは既成事実で、初めから解っていただけのことなのです。
記・紀の記述は御天照大御神の子孫によって成り立っていることに因ります。
勝てない相手にでも勇敢に立ち向かった諏訪の大神を、わが身に置き換えた地方の郷士が多かったのではないのでしょうか。


  香取神宮の森 千葉県天然記念物
この地は古くから信仰の場として保護されてきたため、目通り幹廻り3mを越える杉をはじめ、
イヌマキ・モミなどの巨樹が林立しており、落ち葉に埋もれた古道や古井戸は往時の景観を偲ばせている。
また森の全景が亀に似ていることから亀甲山と称されている。
神宮の森の高木層は杉で占められているが、亜高木層にはスタジイ・シラカシ・シロタモなどの常緑広葉樹が多くみられる。
草木層にはアスカイノデ・フモトシダ・イワガネソウ・ベニシダなどのシダ類をはじめとして
リュウノヒゲ・ヤブラン・フウランなどの草木類が数多く自生している。
杉の老齢林としては県下でも有数であり、学術的にも貴重なものである。


  黄門桜
この黄門桜と名付けられた桜は貞享元年(1684)水戸藩主徳川光圀公が参拝の折植樹、奉納されたと伝えられる。
幕末に至り、水戸藩九代藩主・斉昭公が参拝して次の歌を詠んでいる。
「恵みある風にしられていちじるし 香取の宮の花の盛りは」


  御参拝記念植樹
昭和四十八年九月十一日、天皇陛下 皇后陛下(昭和天皇・皇后)御親拝の折に楼門前に御植樹なされました。
同じ場所には、常陸宮殿下の御植樹なされた松もあります。


  練習艦「かとり」の錨
海上自衛隊練習艦「かとり」は、昭和四十五年建造され、平成十年三月二十日に除籍になるまでの二十八年間、
毎年海上自衛隊幹部候補生を乗せて世界の海で航海訓練を行い、
世界各国を歴訪して友好と親善を深め、幾多の幹部自衛官を輩出した。
ここに展示した錨は、去る平成十年七月に除籍後広島で解体する際記念として、
「かとり」命名の由緒の深い香取神宮に奉納されたものである。


  三本杉
後冷泉天皇の御宇(御代 1045~1068)、源頼義公(源義家の父)が参拝し、「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つを願、
成就せばこの杉自ら三岐に分れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に分れた、以来この杉を三本杉という。
源頼義が参拝した年月ははっきりしてはいないようだ。

都に住む頼義が東国に来たとすれば、当然陸奥国の討伐(前九年の役)に陸奥守として赴任した折であろうと思われる。
その時に祈願したであろう杉は幼杉や小杉ではなく御神木にも匹敵するくらいの大杉であったと想像できる。
祈願の対価としての杉の姿であろうから歴史のある香取神宮の中でも優れた巨樹に違いないのである。
三本杉がその杉だとすると、樹齢は二千年近くを数えることになる。
御神木の樹齢が千年余りとの説明があるので、伝承の繫ぎを考えると二代目の杉なのでしょう。


  御神木  樹齢千余年と伝えられる(現在の推定樹齢ではない) 目通り廻り約7.4m
落合直文(明治初・中期の歌人)はこの杉を仰ぎ見て次の歌を詠んでいる
「このめぐり いくさからりと四人して いだけどたらず 神のふる杉」


  さし石
昔から若者たちが力競べに用いた石で、競い方としては、肩上げ両ざし(両手で頭の上に差し上げる)、片手ざしなどがある。
この力石には差し上げた者の名を刻んで奉納したものである。


  木母杉
貞享元年(1684)水戸藩二代藩主徳川光圀公が参拝の折、四丈五尺(約14m)余の老杉のあるのを見て、
この宮地(境内)の多数の杉の母であろうと「木母杉」と名付けたと云われている。
この杉は現在枯れていて、樹株に寄生した椎樹のみが残っている。


  下総国式内社の碑
「延喜式」記載の下総国の式内社十一社と「三代実録」記載の子松神社の所在地を、清宮秀堅(1801~1879)が調査し石碑とした。
上段の「本朝正祀一州古祠」は神祇・伯資訓王の篆書体の陽刻額である。


  香雲閣
明治二十九年に建立された。
大正天皇東宮殿下(昭和天皇)の御時、東宮殿下香取神宮御参拝の節、当香雲閣で御休憩遊ばされました。


  要石
古くから伝えられた話として、香取・鹿島の二柱の大神は天照大御神の大命をうけ、葦原の中国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。
しかし、この地方はなお漂える国であり、地震が頻発し人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れ騒いでいると云われていた。
大神たちは地中に深く石の棒を差し込み、鯰魚の頭と尾を押え地震を鎮めたと伝わっている。

香取神宮の要石の上端は凸形、鹿島神宮のそれは凹形で地上に一部だけを現し、深さ幾十尺とされている。
貞享元年(1684)三月、德川光圀公が香取神宮に参拝の折、これを確かめようとして掘らせたが、
石の全体を見ることができなかったと伝わる。

                                             案内説明より

下総国式内社の碑

社務所

拝殿 

拝殿向拝彫刻

拝殿鏡

三本杉

御神木

巨樹倒木切株

黄門桜

昭和天皇・皇后記念樹

社殿扁額

楼門

楼門 拝殿側から

本殿

本殿棟の千木 

奥の参道

要石

一之鳥居

御札授与所

胴のみ修復された灯籠





香取神宮奥宮

香取神宮 奥宮社号標

参道 鳥居

奥宮

奥宮社殿

香取神宮 奥宮

香取神社旧参道脇に御鎮座しています。
御本殿に経津主大神の和御魂を御祀りするのに対し、
奥宮には荒御魂を御祀りしております。
これは大神の大いなる御働きの一つで、「心願成就」に霊験あらたかであります。
現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮の御遷宮の折の
前宮の御建材により建築したものです。

神道流始祖 飯篠長威斎の墓


  天真正伝神道流始祖 飯篠長威斎の墓 (千葉県指定史跡)
天真正伝神道流(香取神道流)は、室町時代に形成され、以来、鹿島神道流などが誕生し、
わが国最古の権威ある流儀として知られている。
始祖である飯篠長威斎家直は、南朝・元中四年(1387 北朝・嘉慶元年)旧飯笹村(現在の香取郡多古町飯篠)に生まれ、
後に、旧丁子村山崎(現在の香取市丁子)に住み、香取神宮境内の梅木山不断所で、剣法の奥義を極めたと伝えられている。

一時、室町幕府将軍・足利義政に仕えたが、帰隠し、長享二年(1488)四月十五日没した。
享年百二
墓碑は緑泥片岩で造られており、上部が欠けている。
高さ91㎝、幅49・5㎝で、「飯篠伊賀守長威大覚位」と陰刻で彫られている。

                                            案内説明より

雨乞塚

雨乞塚

ここは聖武天皇御代 天平四年(732)
この地が大旱魃の時ここに祭壇を設け、
雨乞いをした処です。





境内の摂社・末社

護国神社参道

護国神社社殿

摂社・鹿島新宮

摂社・匝瑳神社

摂社 匝瑳神社 香取大神の親神二柱

御祭神 磐筒男神  磐筒女神



摂社 鹿島新宮

御祭神 武甕槌大神

末社・押手神社 

末社・市神社  末社・天降神社

末社・諏訪神社

押手神社  御祭神 宇迦之御魂神

市神社  御祭神 事代主神
天降神社  御祭神 伊伎志邇保神

馬場殿神社  御祭神 建速須佐之男命

諏訪神社  御祭神 建御名方命

桜大刀神社  御祭神 木花開耶姫命

六所神社  御祭神 
        素戔鳴命、大国主命、
           伊邪那岐命、 伊邪那美命
        天神、雷天神

末社・馬場殿神社

末社・桜大刀神社

末社・六所神社(六柱神社)

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香取市佐原へ

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日蓮宗 小湊山誕生寺 その2

総門(薬医門)と寺号碑

山門(仁王門)扁額

総門棟梁彫刻

奉納燈籠

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

山門(五間三戸二重門)

山門内境内より

  山門・仁王門 二重門  千葉県指定有形文化財
総門からの参道を進んで階段を上がると、「小湊山」(六十七世貫首今井日誘上人の書)と書かれた
大きな扁額が掲げられた二階建の門があります。
この門は、中央は通路となっていますが、その左右には仁王像を安置しており、仁王門といいます。

仁王は金剛力士ともいい、本来は金剛杵という武器を執り、いつも釈尊の身近にあって護身を役目としていました。
そこから転じて寺院の守護神となったのです。
力士といわれるように上半身は裸で筋骨隆々とし、口をカッと開いた阿形、キリリと結んだ吽形の両方ともに、
悪鬼が寺院に入って来ないよう威嚇する表情や姿をとっています。
奈良東大寺の南大門に安置される仁王像は代表的なものです。

さて、誕生寺は元禄十六年(1703)の大地震・大津波によって地元の市川や小湊の村とともに大被害を被りましたが、
貫首であった日孝上人は早速諸堂の復興に取り掛かり、水戸德川家の助力により仁王門が竣工したのは
宝永二年(1705)のことです。
江戸中期の寛政三年(191)の銘を持つ「誕生時絵図」中に見られる仁王門が現在に伝わるものと考えられます。

間口約十四・八メートル、奥行約五・八メートルの五間三戸瓦葺重層門(二重門)で千葉県内では最大規模のものです。
軸部は白木造(ケヤキ)、組物は下層では把和様三手先、上層では唐様三手先、中備はいずれも本蟇股、
装飾は虹梁の絵様及び蟇股支輪に波・雲の彫刻が用いられています。
上層に見られる般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています。
創建時の様子をとどめた絵様及び彫刻など様式的にも歴史的価値の高い貴重な建造物です。

その後、復興された諸堂は宝暦八年(1758)の大火によって焼失しましたが、仁王門は唯一災禍を免れました。
この宝暦の大火については、不思議なことが伝えられています。
諸堂を舐め尽くした炎が仁王門に迫ったとき、門の後ろ側にある般若の面が炎を吹き返し、
そのために延焼せずにすんだというのです。、

仁王像は、誕生寺のある安房国の隣国上総国上野村植野(勝浦市)の仏師松崎右京大夫法橋の作であるといいます。
仁王門の完成に続いて、享保十五年(1730)に製作されたものです。

仁王像は、雨にこそ直接さらされることはありませんが、お堂の中に安置される仏像とは異なり太平洋からの潮風にふかれて
彩色が痛みやすく、しばしば塗り替え修理が行われて来ました。
最近では、昭和二十年代末に、さらに同五十年にも著名な仏師であった松久宗琳氏の手によって行われました。
五十年の時は、祖師堂に像を運んで作業が行われたそうです。

この度の五十万人講による復興事業では、まず仁王門の改修が八ヶ月の工程を経て平成三年十二月に終了しました。
そして、平成四年の一月からは仁王像の塗り替え修復も始まり、
五月の落慶法要を前にして四月に完成し、面目を一新しています。

                                        誕生寺案内説明より

祖師堂棟隅の小屋組隅木

祖師堂向拝柱獅子頭と獏の彫刻

祖師堂向拝龍の彫刻

祖師堂向拝虹梁

祖師堂

祖師堂三手先木組 虹梁彫刻

屋根 鯛の置物

大棟鬼瓦と懸魚

向拝唐破風

唐破風鬼瓦の寺紋

祖師堂 妻側より

祖師堂喚鐘(半鐘)

香炉

水鉢

本師殿宝塔

   祖師堂 日蓮大聖人
誕生寺で最も大きく中心となるお堂が祖師堂です。
このお堂は、名称のとおりに祖師、すなわち日蓮宗の宗祖日蓮聖人をお祀りするお堂です。
誕生寺は度重なる 災害でしばしば諸堂を失いましたが、その度に復興されて来ました。
現在の祖師堂は、宝暦八年(1758)の大火によって焼失した後復興されていなかったも のを、
十万人講という信徒の人々の浄財によって足掛け十一年という期間をかけ天保十三年(1842)に上棟、
弘化三年(1846)に落慶したものです。

入母屋総欅造り、瓦葺、屋根雨落ち十八間四面、高さ九十五尺(約29m)。
堂内に五十二本の欅の柱と用材は江戸城改築用として、仙台藩伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し
これを譲り受けたものです。

さて、日蓮聖人像は、お堂正面奥の丹塗りの須弥壇(しゅみだん)の上、
金箔仕上げの立派な御宮殿(ごくうでん・お堂の形をした厨子)の中に安置されてい ます。
この御宮殿は明治皇室大奥の御寄進によるものです。
堂内右側の天井に南部藩の忠臣・相馬大作筆による天女の絵が描かれています。
堂内の天蓋などの仏具類は、明治天皇御生母・中山慶子一位の局や
大正天皇御生母・柳原愛子一位の局による御寄進です。

足を組んで坐り両手には法華経を開き持つという、読経のお姿です。
袈裟・衣は一般のお像のように彫刻されているのではなく本物をお着せしています が、
その下は実は一糸まとわぬ裸形なのです。
つまり、最初から袈裟・衣をお着せするように造られた像であるという訳です。
これは、生ける日蓮聖人が今ここ にいらっしゃるようにお仕えするという、生身の日蓮聖人像なのです。

新本堂の建立など五十万人講復興事業が進む中で、
締めくくりとして日蓮聖人の尊像の修復に取り掛かったのは平成三年四月のことです。
すると、思ってもみ なかったことに、尊像の胎内から多くの納入品が発見されました。
納入品は、誕生寺第四世貫首日静聖人の願文をはじめとして法華経の写経、甘草・胡椒の薬草 など、
また江戸時代に修理が行われた際に納められた願文の写経等です。
この発見によって、貞治二年(1363)に造立された生身の尊像であることが明らか になりました。

津波や地震、火災など、六百余年の間幾多の災害を乗り越えてきた誠に尊いお像であったのです。
そして、復興事業の完成を祝うかのように、尊 像自ら本当のお姿を顕わされたのです。
十二月も押し詰まったころ、日蓮聖人のお像のお住まいというべき御宮殿・須弥壇と共に完全修復を終えた尊像は、
再び 祖師堂に安置されました。

今から776年を溯る貞応元年1222)二月十六日、日蓮聖人は小湊の地でお生まれになりました。
誕生寺ではこの日を記念して、聖人に報恩感謝の誠を 捧げる日蓮聖人誕生会を毎年盛大に行っています。
生身の尊像の修復成った平成四年の誕生会は、例年にも増して意義深いものと言えましょう。


  本師殿宝塔  釈迦牟尼(釈迦如来)
祖師堂の裏手にまわると、インドの仏舎利塔に日本の五重塔などに見られる屋根・相輪(そうりん)をのせたような建物が
連なっているのが目に入ります。
これが釈尊をお祀りする本師殿宝塔(ほんしでんほうとう)です。
この度の誕生寺復興五十万人講の中心事業の一つとして、昭和六十一年十月十六日に起工式を行い、
同六十三年五月六日に入仏開眼式をして完成しました。
インド砂岩の薄い赤茶色をした塔身、そして金色に輝く相輪の先端までの総高は25.9mにもなり、
祖師堂の屋根よりも僅かに高くなります。

本師殿宝塔とは、法華経に説き示された久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼仏(釈尊)をお祀りする宝塔です。
インドに生まれた生身の釈尊は八十才で入滅されましたが、
釈尊の本身は限りない過去から永遠に私たちに法華経をお説きになっているのです。
そして、この釈尊こそが、私たち一切衆生を救い導いてくれる本当の師なのです。
日蓮聖人が「一閻浮題(いちえんぶだい)の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる宝塔」
『宝軽法重事(ほうきょうほうじゅうじ)』とお述べになった宝塔が、本師殿宝塔として姿を現したのです。

安置される釈尊像は、あくまでも柔和で穏やかな面相で合掌し、蓮台の上に結跏趺坐(けっかふざ)されています。
光背には、八人の天女たちが妙なる音楽を奏する様が彫刻されています。
そして、仏体は経典に示されているように、全体が金色に輝いているのです。
総高は約3mにもなりますが、小湊弁才天像などを彫った仏師西村房蔵氏が精魂を傾けて作成しました。

釈尊像の背後には、日蓮聖人ご真蹟の曼茶羅本尊を板に彫刻して掲げています。
この曼茶羅本尊は、聖人が入滅された時に枕頭に掲げられたもので、
「臨滅度時(りんめつどじ)の御本尊」と呼ばれているものです。

釈尊像を囲む壁全体には、信徒の方々が供養のために「妙法」と書写した散華(さんげ)が収められるようになっています。
総計三十三万枚の華が雨のようにふりそそぐのです。
これは、法華経が説かれる前兆の1つである雨華瑞(うけずい)の様相を現しています。

釈尊像は、日蓮聖人の尊像を安置した宮殿の背面の壁に向かい合っています。
この壁には、清澄山から切り出された樹齢3百余年の杉の柾目板を用いて、
釈尊が常に法華経をお説きになっている霊鷲山(りょうじゅうせん)が描かれています。
「散華霊鷲山」と題されたこの絵の筆を執ったのは、石川響画伯です。
インドへの取材旅行を重ねて完成されました。
釈尊像の真下には、信徒の方々の写経を収める輪蔵があることも、忘れてはなりません。


  本師殿宝塔 二天像  持国天 毘沙門天(多聞天)
釈尊をお祀りする本師殿宝塔の内陣には、ガラスを嵌め込んだ大きな厨子が釈尊をお守りするように左右に安置されています。
向かって右側の厨子にお祀りされるのが持国天(じこくてん)、同じく左側が毘沙門天(びしゃもんてん)です。
この二天王は、四天王の中の二天です。

四天王は、欲界の六欲天のうちの四天王衆天の主で、須弥山(しゅみせん)の中腹に住み四方の世界を守護する神で、
須弥山の頂上の宮殿に住む帝釈天(たいしゃくてん)に従い、また八部衆を従えています。
須弥山の東面に住み東方を守る持国天、南面に住み南方を守る増長天(ぞうちょうてん)、
西面に住み西方を守る広目天(こうもくてん)、北面に住み北方を守る多聞天(たもんてん)をいいます。
このうち多聞天は、梵語を音訳して毘沙門天とも呼ばれます。

四天王は、釈尊が霊鷲山で法華経を説かれたとき、聴衆の中に加わっていることが序品に記されています。
日蓮聖人が書かれた曼茶羅本尊にも、法華経の世界を守るようにして四方に勧請されていますから、
法華経が説かれる場の守護神として重要な位置を占めていることは明らかでしょう。
本堂に安置されているご本尊の諸尊像中にも、四天王がお祀りされています。

四天王は揃ってお祀りされることが一般的ですが、毘沙門天のように単独でお祀りされることもあります。
特に持国天と毘沙門天は、薬王菩薩(やくおうぼさつ)と勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)の二聖、
鬼子母神十羅刹女とともに五番善神(ごばんぜんじん)に数えられる二天として、日蓮宗では篤く信仰されています。
日蓮聖人は、五番善神が法華経の信仰者を守護することについて「陀羅尼品(だらにほん)と申すは、
二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり」(『日女御前御返事』)と示されており、
祈願の法要では陀羅尼品に説かれる五番善神の咒(陀羅尼)が繰り返し読誦されます。

誕生寺の二天像は、等身大の大変立派なもので、乾清太郎の作になるものです。
明治二十八年(1895)五月に奉納され、本師殿宝塔が建立される以前は、
祖師堂の日蓮聖人を安置したご宮殿の左右にお祀りされていました。
施主は、持国天が柳原愛子(やなぎわらなるこ)局、毘沙門天が園祥子権典侍と、皇室の女官がたです。
柳原局は、大正天皇のご生母で、後に正二位に進まれ二位局と称せられました。


  奉納水鉢(祖師堂前の一対の水鉢)銘
明治二十五年五月吉日 当山六十一世 日良
鋳物師 東京本所区 中村惣左衛門
発願人 東京 西川佐野代
千種 任子  園 祥子  小池 道子  中山 慶子  髙倉 壽子  柳原 愛子

                                        誕生寺案内説明より

本堂

本堂扁額

境内 誕生寺略縁起

  小湊山誕生寺縁起
千葉県が生んだ世界の偉人日蓮聖人は、貞応元年(1222)二月十六日小湊で生まれました。
聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海人が子なり」(本尊問答抄)といわれ、
聖人歿後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」と記されています。

誕生寺は隣村上総興津の豪族・佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治二年(1276)開創され、
日蓮上人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖とし、聖人誕生の地に建立されました。
しかし、明應七年(1498)八月、大地震大津波があり堂宇坊舎ことごとく流失しましたので、
祓崎の南端から現在地に移り再建されました。

延宝八年(1680)の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(約3491m)、東西二十町(約2182m)とありますから、
関東屈指の大寺であったことがわかります。
天正八年(1580)里見安房守義頼が四十石の田畑及び寺面海上十石を、
更に慶長九年(1604)市川の地二十石を里見氏の重臣・正木太夫頼忠より寄進されております。
そして慶安元年(1648)江戸幕府三代将軍徳川家光公が御朱印によりこれを認められています。
現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものであります。

この頃の小湊村は、七十石の御朱印地、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、
人口もこの地方では最も大きな港町であったと云われています。
しかるに元禄十六年(1703)十一月、房総沖を震源地とする大地震大津波により、
支院十坊、門前の人家百余戸が流出し僧、俗四百八名が溺死する大災害に見舞われましたが、
幸いにも水戸藩徳川家三代綱条公が二代徳川光圀公の追善の為七堂伽藍を一基建立され、
忽ち旧状に復することができましたが、それも束の間に宝暦八年(1758)大火により、
三光殿(釈迦堂 祖師堂 本堂)を悉くを焼失しました。

現在の雨落(屋根平面)十八間(約33m)四面、総欅造りの大祖師堂は天保十三年(1842)に、
又総桧造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。
又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)ご惱平癒(病平癒)の御祈願所となり、
同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立(明治二十三年)されて、
御皇室とのご縁も結ばれました。

そして現在、長い間海辺特有の風雨に耐えて損傷甚だしい諸宇堂を、五十万人講の全国勧募により、
逐次再建整備しつつあるところであります。
現に本師殿宝塔及び宝蔵の新築、祖師堂の大改修、新宝物館の建設等は終わり、
引き続き新本堂の建立、庫裡の改修、廻廊門塀等の諸工事を進行中であります。
願わくは当山に詣でる有縁の方々が、聖人誕生の霊場を顕彰するこの百年に一度の浄業に五十万人講の一人として
結縁下さることを願ってやみません。


  本堂
平成三年十月建立されました。
間口七・八間(約14.2m)奥行八・八間(約16m)の単層入母屋本瓦葺の建物です。
正面奥に貞享元年(1684)の十界本尊木像(大仏師・左京法眼康裕作)を安置しています。
内陣の格式ある折り上げ格天井に仏教植物の天井画(石川響画伯筆)八十二枚を掲額しています
外陣右側に日家、日保上人像並びに歴代の位牌を奉安している。
本堂背面は永代納牌所となっています。


  本堂内陣
木の香も新しい本堂にお参りすると、正面奥に一段高まった所があります。
これは須弥壇(しゅみだん)といい、その上に安置されている仏像群がご本尊です。
日蓮聖人は法華経信仰のご本尊として大曼茶羅(だいまんだら)を書かれました。
この大曼茶羅は、専ら文字によって書かれたものでしたが、後世になると文字の部分を絵画化した絵曼茶羅や、
仏像彫刻とすることが行われるようになりました。
多くの寺院にご本尊として安置されているのは、この大曼茶羅の主要部分を仏像彫刻としたもので、
誕生寺本堂のご本尊も同様です。

ご本尊の最上段の中央にあるのが、髭題目と呼ばれる独自の筆法で書かれた南無妙法蓮華経の題目宝塔です。
お題目の筆跡は、二十六世貫首の大中院日孝上人のもの。
その左右、蓮華の花を象った蓮台に坐られているのは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ・釈尊)と多宝如来(たほうにょらい)です。

釈尊は、インドの霊鷲山(りょうじゅうせん)で久遠の昔より法華経をお説きになっています。
多宝如来は、釈尊の説かれた法華経が真実の教えであることを証明する仏さまです。
手前に立たれている菩薩は、
上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩。
この四菩薩は、末法に法華経を広めることを釈尊から命じられた菩薩たちの代表です。
獅子に乗っている文殊(もんじゅ)菩薩、象に乗っている普賢(ふげん)菩薩は、
釈尊に近侍する菩薩として釈迦三尊という形で一般的に知られています。

その両脇には火炎を背にした不動明王、三目と六本の腕を持った愛染(あいぜん)明王、
四隅には広目天(西方)・持国天(東方)・増長天(南方)・多門天北方)の四天王が
法華経が説かれる場を守護するように囲んでいます。
そして、一番手前には日蓮聖人が坐られているのです。

ご本尊は、老朽化して取り壊した旧本堂から、この度、新築成った本堂に還座したものです。
水戸光圀の寄進であるといわれてきましたが、調査によって貞享元年(1684)七月
大仏師左京法眼(さきょうほうげん)康祐の作であることが明らかになりました。
この康祐は、京都の七条仏所大二十六代の正統仏師です。
それぞれの像に洗練された彫刻技術を発揮しており、誕生寺のご本尊として誠にふさわしい荘厳な仏像に仕上げています。

                                         誕生寺案内説明より

奉納燈籠と松の巨樹

「蘇生願満」の大燈籠

  蘇生願満の大燈籠
平成三十三年宗祖日蓮大聖人御降誕八百年を迎えるに当たり、誕生寺では平成二十二年より立正安国の祖願成就に向け、
この世の中を蘇生らせるべく、「蘇生の灯」たる石燈籠の建立を進めてまいりました。
然しながら、奇しくも平成二十三年三月十一日、未曽有の国難ともいう東日本大震災に遭遇いたしました。
想うに、今こそ人類の全てが自らを省みて「蘇生の灯」を一人々々の心に燈し、この世の中を照らし、
祖願にお應えする時が来たと思います。
依って、「蘇生満願の大燈籠」を、当山総門の傍らに建立し、
献灯御芳名の方々の末永き御安泰と御健勝をお祈りしたしたいと存じます。
志ある皆様のお力添へを願ってやみません。
     大本山 小湊 誕生寺  八十四世不自惜院日命


  誕生堂
日蓮聖人のご幼像といえば、まず祖師堂手前の左手に安置される銅像のお姿が思い浮かびますが、
誕生寺には聖人誕生の霊跡にふさわしくご幼像をお祀りするお堂があります。
総門を入って間もなく、参道左手の階段を登ったところにあるお堂がこれです。
「誕生堂」と揮毫された大きな扁額が掲げられています。
現在のお堂は、従来のお堂を昭和五十八年に大改修して面目を一新したものです。

日蓮聖人が安房小湊の地に誕生されたのは、鎌倉時代も半ばの貞応元年(改元前の昇久四年、1222)のことです。
誕生については、次のように伝えられています。
この年の二月、小湊では、季節外れの蓮華が咲き、普段は海深くすむ鯛が海面近くに無数に集まり、
人々はなにか良いことがおこる前触れであろうと話し合っていました。

折しも十六日の早朝、貫名(ぬきな)重忠の家では、妻梅菊が産気付いています。
重忠は身を清め、昇る朝日に向かって一心に妻の安産を祈ったのです。
すると産室には香気がただよい、昼ごろには玉のような男の子が産まれました。
この時、貫名家の前庭からは清らかな泉が湧きだし、家人は早速産湯に使ったといいます。
この泉は、今も「誕生水」の井戸に名残を止めています。

これより先、梅菊は日輪が自分の懐に入る夢を見、その後、身ごもったのです。
重忠は、この吉日にちなんで生まれた子に善日麿(または薬王丸とも伝える)と名付けました。
この善日麿こそ、後の日蓮聖人です。
善日麿は、両親の愛情に育まれ、また周囲の人々にも暖かく見守られながら、慈悲深い子供へと成長していきました。
そして十二歳になった時、勉学のため親元を離れ、房総随一の山にある清澄寺へと登られました。

誕生寺にお祀りされる日蓮聖人のご幼像は、小型の座像で、
袍に袴を着して右手に中啓(ちゅうけい・扇の一種)を持ち帯刀しています。
現在は、お像の上から更に別製の衣を着せています。
お顔の印象は、銅像よりも少し年長に見受けられます。

誕生寺では、日蓮聖人誕生の聖日である二月十六日に聖人の誕生を記念し、報恩感謝のため誕生会大法要を行います。
この法要で中心となる行事がご幼像の徒御(とぎょ)です。
普段は誕生堂にお祀りされているご幼像が、聖人のご両親のお墓がある妙連寺から、
誕生の聖地である誕生寺まで輿に乗り大勢の僧侶や信徒を従えて行列するのです。
誠に誕生寺にふさわしい法要であるといえましょう。


  聖人の両親
日蓮聖人ご幼像をお祀りする誕生堂には、聖人のご両親もお祀りしています。
正面向かって右側の厨子に安置されているのが父上、左側の厨子が母上です。
お像の上から別製の衣を着せているため直接伺うことが出来ない部分もありますが、
父上はおごひげを蓄え烏帽子(えぼし)を被り袍に袴を着して大刀を帯びた武士の姿、母上も武家の女房の姿をされ、
共に合掌しています。

日蓮聖人のご両親がどのような方であったかということについては、明確には分かっていません。
父上は三国氏、あるいは藤原氏から出た貫名氏であるといわれ、遠江国に住んでいましたが
訳があって安房国に流されたと伝えられています。
聖人はご自身について「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子」(「本尊問答抄」)などとのべられていましたから、
父上が漁民であったことがわかります。
幼い聖人を勉学のため清澄寺に登山させていることから見ても、地元で荘官あるいは名主(みょうしゅ)などを務める、
ある程度地位のあった人でしょう。

聖人は、清澄山一の、さらには地元の人々の期待を一身に担って比叡山へと留学します。
そして、十年にも及ぶ研鑚から帰郷した聖人を迎えたご両親は、
我が子が師とも頼むべき立派な僧侶となったことに涙したに違いありません。
ところがその聖人が、法華経信仰のために、清澄寺そして故郷から追われようとは思いもしなかったことでしょう。

しかし、大変な驚きの中で、ご両親は聖人の最初の信仰者となられたのです。
聖人はご自身の名前からそれぞれ一字をとり、父上に妙日、母上に妙連と法名を授けられました。
ご両親の入信に、聖人はどんなにか心強く、また安堵されたことでしょう。
ご両親を、無間(むけん)地獄に堕ちることから救うことができたのです。
文永元年(1264)、父上の墓参りを兼ねて帰郷した聖人は、危篤となった母上を法華経の祈りによって蘇生させました。
病の癒えた母上は、その後4年間寿命を延ばされています。

ご両親の像は、十六世貫首の守玄院日領上人が、師範日祝上人への報恩謝徳のために造立しました。
二十六世日孝上人の「小湊山二十四境」に「薬王殿」(聖人の幼名は薬王丸とも伝えられます。)とあり、
また木版「小湊山絵図」には「たん生堂」が描かれていましたから、
ご両親像は日蓮聖人ご幼像と共にこのお堂にお祀りされていたものでしょう。
そして、元禄十六年(1703)の大地震・大津波、宝暦八年(1758)の大火にも失われることなく、現在へと伝えられたのです。


  日蓮大聖人五百遠忌報恩塔
波除け宝塔の右手には、もう一基大型の題目宝塔があります。
塔身は所々補修されていますが、頂部の側面を丸め高さ2.19m、幅59㎝、奥行き46㎝高さ28㎝と54㎝の二段の台石に載ります。
さらに高さ58㎝の台座の上に据え付けられていますから、総高は3.58mにもなります。

塔身の正面には南無妙法蓮華経のお題目に続いて「日蓮大菩薩」、その両脇に「五百遠忌」「報恩謝徳」と刻まれており、
日蓮聖人の五百遠忌に報恩感謝の誠を捧げるために造立された題目宝塔であることが判ります。
日蓮聖人を「大菩薩」と尊称することは、この題目宝塔に限らずしばしば見られます。
「大菩薩」は一般的な尊称ではなく、「大師」「国師」号などと同様に朝廷から賜ったものです。

南北朝時代の延文三年(1358)夏大旱魃があり、京都妙顕寺の大覚上人は時の後光厳天皇より祈雨の修法を命ぜられました。
大覚上人の修法は効験を顕わし、その功績によって日蓮聖人に「大菩薩」号、日朗上人・日像上人に「菩薩」号を賜わり、
自身は大僧正に任じられたことに始まるのです。

この宝塔が造立されたのは三十六世貫首円法院日融上人の代で、明和七年(1770)八月十三日とあります。
日蓮聖人が入寂されたのは弘安五年(1282)のことでしたから、五百遠忌ご正当は天明元年(1781)になります。
ご正当より十一年も早い造立に、五十年に一度の遠忌に巡り会えた人々の意気込みが感じられるようです。

造立の願主となったのは円信房日立上人で、「武州江戸鮫ケ橋」とあります。
鮫ケ橋は「さめがはし」と読めますから、鮫河橋でしょう。
これは江戸の山の手、現在の新宿区若葉の一画にあたります。
江戸時代、この地には誕生寺の末寺である法善寺(現在は千葉県夷隅郡大原町に移転)がありましたから、
日立上人は同寺の住職ではなかったかと思われます。

残念なことに、同寺には火災や移転の混乱などによって江戸時代の記録が伝わっていないため未詳です。
造立費用は、日立上人の主唱のもと多数の檀信徒によって寄進されたものでしょう。
宝塔は当初総門前の田町の辻にありましたが、昭和二年六月、
県道の拡張に伴い現在地へと移転されたことが台石に刻まれています。


  日蓮大聖人六百五十遠忌報恩塔
祖師堂手前にある二基の大きな石塔のうち、向かって右手は日蓮聖人六百五十遠忌報恩塔です。
塔身の高さ2.4m程で59.5cmに59㎝角、蓮華座などの台石の部分が1.32m、さらに基台が2.8mありますから、
総高は5.8m程にも達します。

塔身の正面には南無妙法蓮華経のお題目、右面に「勅諡立正(ちょくしりっしょう)日蓮大菩薩」、
左面に「六百五十遠忌報恩塔」と刻まれており、
日蓮聖人の六百五十遠忌報恩のために造立された題目宝塔であることが判ります。
塔身右面の「勅諡立正」は、五百遠忌・六百遠忌の宝塔には見られませんが、
これは日蓮聖人が立正大師(だいし)という大師号を勅によって、つまり天皇陛下から諡(おくりな)されたことを示しています。

「お大師さん」といえば弘法大師というように、大師は真言宗の開祖空海に限るのかといえば、そうではありません。
興教大師(覚鑁(かくばん)、真言宗)、円光大師(法然、浄土宗)、見真大師(親鸞、浄土真宗)、
承陽大師(道元、曹洞(そうとう)宗)など各宗の開祖や高僧がいます。

大師は、梵語シャーストリの漢訳です。
偉大なる師という意味で、釈尊の尊称として用いられましたが、
後に中国では専ら僧侶の中で特別な徳のある高僧の敬称または諡として用いられるようになりました。
中国天台宗の開祖である智顗を智者大師または天台大師と称しますが、これは私に敬称したものです。
その後、皇帝から勅号として贈られるようになります。

日本では、専ら諡号として没後に追贈されました。
貞観八年(866)清和天皇が勅して日本天台宗の開祖である最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師と追贈されたことが最初です。
日蓮聖人に立正大師の大師号が宣下されたのは、大正十一年(1922)十月十三日のことです。
日蓮宗をはじめとする日蓮聖人門下の宗派、各界で重要な立場にある聖人信奉者が、
一致協力して大師号降賜を請願した結果です。

六百五十遠忌の正当は昭和六年でしたが、誕生寺に宝塔が造立されたのは昭和十年四月、
六十七世今井日誘上人の代です。
同年二月境内に聖人ご幼少の銅像が完成、三月には貴賓殿が落成、
そして四月十五日から六月十日まで六百五十遠忌法要が盛大に行われました。


  鐘楼 梵鐘
仁王門をくぐり祖師堂に向かう参道の右手には、鐘楼があります。
建物は四十七世日濤(にっとう)上人の代、文化年中の建立と伝えますが、梵鐘は戦後の昭和二十四年に再興されたものです。
それ以前の梵鐘は、昭和十七年に戦時供出されて伝わっていませんが、
明治四十四年(1911)に貫首となった六十七世今井日誘上人の代に新鋳されたものです。

日誘上人の代より前には、江戸時代の梵鐘がありました。
この梵鐘の銘文は幸いなことに『小湊大観』に収録されており、
貞享四年(1687)九月、二十三世日近上人代のものであったことがわかります。
銘文の冒頭には「興聖院殿故拾遺中務大輔忠知朝臣華岳宗栄大居士は、蒲生の華冑なり」とあります。
これは伊予国松山城主の蒲生忠知(がもうただとも1605~34)のことです。

続いて「その後室清信女、彼及び一門の菩提の資糧として、梵鐘一口を鋳成し、もって安州小湊の霊窟に掛着す」とあり、
忠知の夫人が夫と一門の菩提を弔うために、鋳造して誕生寺に寄進する旨が記されています。
願主には「松寿院殿青山日縁」とあり、夫人の法名が記されています。

忠知は、織田信長次いで豊臣秀吉に仕え有力大名となった蒲生氏郷(うじさと)の孫です。
寛永四年(1627)兄の忠郷が没すると、跡継ぎが無かったために
出羽国上山(かみのやま・山形県)四万石から蒲生家を嗣ぎました。
この時、蒲生家の会津若松六十万石は収公され、代わりに伊予国松山二十万石と
先祖ゆかりの近江国蒲生郡日野四万石の計二十四万石が与えられました。
ところが、寛永十一年(1634)八月十八日、忠知は三十歳という若さで江戸藩邸に没し、
跡継ぎが無かったために蒲生家は絶家となったのです。

忠知の夫人は磐城平の大名内藤政長(1568~1634)の息女です。
夫の死後、落飾(らくしょく)して正寿院と号し、元禄十三年(1700)六月二十六日に没しました。
この正寿院が松寿院であることは、銘文から明らかです。

松寿院夫人については、供養塔があることが判明しました。
無縁墓地頂上の祖師堂よりにある石塔の一基がこれで、
台石を含めた総高は1.71m、塔身の正面に「松寿院殿青山日縁大姉」と刻まれています。
その左側面には「法華首題一万部書写之大行人」とあります。
題目一部の書写とは、法華経一部約七万字を経文ではなく題目の七文字によって書写することで、一部は一万遍となります。
したがって、一万部は題目一億遍の書写です。
毎日、日課として題目の書写を続けていたに相違ありません。
松寿院夫人は、寄進の丹精を凝らしたばかりでなく、大行人と称されるにふさわしい信仰者であったのです。

                                     誕生寺案内説明より

蘇鉄の植樹

槇?の植樹

誕生堂の石段と奉納燈籠

誕生堂

扁額

向拝龍彫刻

海老虹梁

鐘楼

手水舎

左 日蓮大聖人五百遠忌報恩塔 
右 諸国納骨供養塔

交通安全 車両祈祷所

交通安全祈祷殿扁額

小湊修学林

弁才天堂

弁天池

誕生寺境内墓地

鯛の浦の鯛供養墓

日蓮聖人幼少姿像

浄行堂

万病守護浄行観世音菩薩

  日蓮聖人御幼姿像
仁王門から参道を直っすぐに進むと、祖師堂へ至る中程左手に、高い台座に乗った銅像があります。
大きく広がった松の枝の間から、右手に数珠、左手に経巻を持つかわいらしい姿が見え隠れしています。
これは日蓮聖人がまだ善日麿(ぜんにちまろ・また薬王丸とも伝えます)と称していた少年の日のお姿なのです。

日蓮聖人は、貞応元年(1222)二月十六日に誕生され、大平洋の潮風をうける小湊の両親の膝元で成長されました。
そして、十二歳になると、両親の元を離れて清澄山に登られました。
清澄山は不思議法師の開創になると伝えられ、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が中興した天台宗の名刹です。
現代のような学校教育の制度が無かった時代には、寺院は人々にとって学校の役割をも果たしていましたから、
善日麿の登山も、初等教育を受けるためでした。
誕生寺の銅像は、この清澄登山前のお姿であったのです。

さて、この銅像の建立は、昭和十年にまでさかのぼります。
その二月十六日、日蓮聖人誕生の聖日をトして、
昭和六年に迎えた日蓮聖人六百五十年遠忌報恩の記念として発願されたのです。
当時の貫首は六十七世今井日誘上人です。
発起人には、神田八講や東京八講・関東睦などの信徒組織の代表六名が名を連ねています。
さらに、賛助員として六十四名の僧侶・信徒が助力をしました。

この銅像は、その後数奇な運命をたどることになります。
第二次世界大戦の激化によって、多くの金属製品と共に戦時供出されることとなったのです。
そして、戦争も終わったある日、偶然にもほとんど無傷で発見されたのです。
それは、一人の篤信者が、東京の両国駅で電車の窓から、構内に置かれていた多くの戦時供出品をながめていたときでした。
左手を欠いたお像が、そのなかにあったのです。
関係方面への働きかけが実り、誕生寺へとお像が還り、元のように安置されたのは、昭和21年8月27日のことです。
欠けていた左手も、修復されました。

清澄山には、聖人三十二歳、昇る朝日に向かってお題目を唱え立教開宗を天地に宣言する青年日蓮のお像があります。
一方、このお像は十二歳の少年善日麿、誕生寺にとって誠にふさわしいお姿であるといえましょう。


  日蓮大聖人御幼姿像銘板
日蓮宗祖勅諡立正日蓮大菩薩  六百五十遠忌御報恩記念建立
昭和十年二月十六日
発起人
本所緑町・・・山田 仙蔵
京橋銀座・・・小林 直
浅草千束町・・・藤田 順健
小石川富坂町・・・依田 作次郎
浅草小島町・・・保福貫彰
荒川尾久町・・・坂田 新太郎

小湊誕生寺六十七世 實心院日誘



  浄行堂
祖師堂の手前には勧募所など幾つか建物がありますが、その一つに左側の小さなお堂があります。
浄行菩薩をお祀りした浄行堂です。
お堂といっても覆い屋で、石造の浄行菩薩に直接お参りできるようになっています。
浄行菩薩は、一般的にはあまりなじみがない名前ですが、釈尊から末法の世の中に法華経を弘めることを命じられた
大変重要な菩薩です。

釈尊が法華経をお説きになったのは、霊鷲山です。
八十歳でご入滅される前の晩年八年間のことでした。
釈尊の説法の場に列なり法華経の教えを聴いた菩薩たちは、末法の世の中に法華経を弘めることを、
我こそはその任にあると釈尊に申し出ます。
ところが、釈尊はお許しにはなりません。

その時、地中から六万恒河沙という、それこそ無数の大変立派な菩薩たちが出現しました。
地涌の菩薩です。
この地涌の菩薩こそ、釈尊から末法の世の中に法華経を弘めることを命ぜられた菩薩なのです。
地涌の菩薩のリーダーは、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩の四菩薩です。

日蓮聖人は、この四菩薩について「釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし」(「開目抄」)
また「さればこの良薬(お題目)を持たん女人等をば、此の四人の大菩薩前後左右に立そひて、
此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ」(「妙法曼荼羅供養事」)と、
法華経のお題目を修行する私達を導いてくれる菩薩であると述べられています。

四菩薩には、それぞれ特長があります。
浄行菩薩について見ますと、「浄行」という名前は「浄」という徳(はたらき)を表しています。
汚れを洗い浄めるように、煩悩を超越するという徳を示しているのです。
このようなことから、浄行菩薩のお体を洗い浄めながら一心に祈願することにより、自らの身体の煩悩をも滅していただくのです。
特に、身体健全のご祈願をする方によって、熱心にお参りされるようになりました。

誕生寺の浄行菩薩像は、六十一世豊永日良上人の代、明治二十八年(1895)十一月に信徒の方によって奉納されたものです。
合掌し白衣観音のように衣を纏ってお立ちになった姿は、誠に柔和で慈悲にあふれています。
お堂には幾つもの手桶がおかれていますが、これはご祈願のお礼に人知れず奉納されたものです。


  弁才天祠と弁天池
仁王門から祖師堂へと向かう参道から右手を見ると、奇麗に整備された池があります。
ちょうど宝物館の右側です。
この池は弁天池といい、池辺にある小社には弁財天をお祀りしています。
この弁才天は誕生寺の鎮守としてお祀りされたもので、小湊弁財天といいます。

弁才天は、略して弁天ともいい、大黒天や寿老人・恵比寿などと共に七福神の一つに数えられ、
お正月の縁起物の宝船に乗った七福神の絵などにも見られます。
その姿は楽器の琵琶を抱えた天女に描かれていますから、中国、或は日本の神様の様に思えますが、
本来はサラスヴァティーというインドの女神で、河の神または農業神なのです。
そして学問・智恵・弁舌・音楽などを司る神となり、仏教に採り入れられました。
吉祥天と共に「金光明最勝王経」(きんこうみょうさいしょうおうきょう)などに説かれています。

小湊弁才天の尊像は、本師殿宝塔に安置する釈尊像を制作した西村房蔵氏が彫刻し奉納されました。
岩の形をした台座に腰掛けて琵琶を弾く、大変にふくよかで優しい姿です。
尊像そのものは、本堂の正面左側にある壇上の厨子に安置しています。
池辺の社は、別宮として幣束(へいそく)を安置していますが、
一間社持送破風造宮(いっけんしゃもちおくりはふうづくりみや)という建築形式をとった総欅造りです。
平成元年八月十日、すべての工事が完了して遷座の法要が行われました。

誕生寺に弁才天がお祀りされるのは、江戸時代に始まります。
元禄十六年(1703)十一月、大地震とそれに伴う大津波によって誕生寺は大被害を受けました。
弁才天が誕生寺にお祀りされたのは、この被害からの復興が進んでいた宝永4年(1707)のことです。
当時の貫首であった二十六世日孝上人は、
弁才天をお祀りするに至った経緯を「安房州小湊山鎮守弁天記録」一巻にまとめています。

この記録によると、安房国長狭郡市川の出身で江戸に住んでいた瀧口政親が、
自ら信仰していた霊験あらたかな弁才天の尊像を誕生寺に奉納しました。
尊像は、丈は八寸ばかり、面貌はとても貴く、運慶の作であろうというものです。
日孝上人は、尊像を誕生寺の鎮守として宝塔の側に小さなお堂を建てて安置し、五月十八日に供養の法要を行ったのです。
この弁才天は、その後火災にあって失われましたが、旧八大龍王堂の脇にあった池には近年まで弁才天がお祀りされていました。
この度の小湊弁才天の勧請は、この様な由来によって五十万人講事業の一環として行われたものなのです。


  龍王堂
祖師堂の左手の回縁に沿って墓地との間を進むと、左側に小さなお堂があります。
これが龍王堂です。
正面の参道からは直接にお堂が見えませんから、ご存じない方もいるでしょう。
このお堂にお祀りしているのが、法華経の守護神八大龍王(はちだいりゅうおう)です。
八大龍王は、仏教を守護する天龍八部衆の一つである龍族で、難蛇(なんだ)龍王・跋難蛇(ばつなんだ)龍王・
沙竭羅(しゃから)龍王・和修吉(わしゅきつ)龍王・徳叉迦(とくしゃか)龍王・阿那婆達多(あなばだった)龍王・
摩那斯(まなし)龍王・憂鉢羅(うはつら)龍王の八王をいいます。

この八大龍王は、釈尊が霊鷲山(りょうじゅうせん)で法華経を説かれた時、その場に列なって教えを聞いています。
また、沙竭羅龍王の八才の娘が、法華経の教えを聞いてたちどころに成仏したという話は、龍女成仏として有名です。
日蓮聖人も、曼荼羅本尊の中に「龍神」「龍神王」「龍王」「大龍王」などと書き入れられています。
龍王は大海に住んで、雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられましたから、
一般には祈雨や止雨の祈願の神として信仰を集めています。

誕生寺のお像は、八王をそのままに表したものではなく、一王の姿をとったものです。
甲冑姿で、右手に宝剣、左手に宝珠をとります。
そして、左方には宝珠を捧げ持つ天女姿の妙鶴弁才天、
右方には法華経八巻を捧げ持つ老相の日昌尊者を従えるという、独特の形式です。

ところで、龍王堂は以前には現在の場所よりも右斜め後方にありました。
そして、お堂の右手には池が広がっていました。
昭和のはじめ頃のことです。
大雨の後に池の土手が崩れ、そこから大人の両手の握りこぶし程の石が現れました。
この石はちょうど蛇がとぐろを巻いた中から首をもたげたような形をしており、
発見した信者さんは「龍王さまの化身に相違ない」と早速に拾い上げたのです。
以来、お堂正面の八大龍王のお厨子の左側に安置しています。
大漁を祈願する漁師さんは、大祭の日には必ずこの石を撫でてお参りをしたそうです。

現在、かつての池は防災上の必要性から地下式の防火用水となっています。
その工事に伴って、お堂も今の場所に移転しました。

龍王堂では、正月・五月・九月の年三回、各十八日に八大龍王の縁日として大祭が行われています。
御宝前で法楽加持(ほうらくかじ)が行われた後、
参詣者は各々海上安全・大漁満足・家内安全などのご祈祷を受けてお札を頂くのです。
熱心な檀信徒に、小さなお堂は毎回一杯になってしまいます。

                                         誕生寺案内説明より






曹洞宗 乾坤山日本寺  
千葉県安房郡鋸南町鋸山

小湊修学林の赤石

龍王堂

日蓮大聖人六百五十遠忌報恩塔

駐車場より東口管理棟

大黒堂

大黒天(七福神のお姿です)

薬師如来坐像

大仏広場

薬師如来坐像 右側より

鋸山 お願地蔵尊

地蔵菩薩 錫杖、如意宝珠を持つ

菩提樹分木贈呈記念石碑

  大黒堂
弘法大師一夜彫刻爪彫大黒天を祀る。
大黒堂本尊の大国尊天は、当山にて、弘法大師御修行の折に彫刻された石仏で、秘仏とされており拝見することは出来ません。
尊像は開運厄除、商売繁盛、家内安全に御利益があると伝えられております。
御前立像は、現代の名工・渡辺貞光師に、江戸時代の版木をもとに製作していただきました。
従って御本尊の大黒天像は、御前立ち像とは異なったお姿の尊像で、大国主命に由来する以前の姿と思われます。
なお、この大黒堂は昭和十四年の大火によって焼失しました。
のち復興計画に基づいて平成十七年に再建された御堂です。


  薬師如来
薬師瑠璃光如来、大医王如来とも言われている仏様です。
病を癒し苦痛を和らげ、またそれらにより寿命を延ばす(延命)力を持つと云われています。
長寿延命は古代より人の願いであり、病気による恐怖や不安は人々の心にあり、
それらを救い出す病気治癒や延命仏は諸尊像成立の当初から成立したものと考えられています。
切実な現世御利益を願うためにいつの世も厚く信仰されている仏様です。

当寺薬師瑠璃光如来は、禅定印から左掌に薬壺を持つ穏やかで安心感を与えるお姿で坐しておられます。
この薬師瑠璃光如来さまは、宇宙全体が蓮華蔵界の浄土であること現わし、
人々の本性の限りない解脱自由と、世界平和万世大平の大象徴であります。
原形は天明三年(1783)に名匠・大野甚五郎英令を頭領として彫刻完成されましたが、
惜しくも江戸時代末期に、自然の風触と岩石の亀裂によって著しく崩壊し、その後荒廃にまかされておりました。

昭和四十年、二紀会審査員・(故)八柳恭次氏の指導を受けて復元工事に着手しました。
昭和四十四年六月に現在のお姿に彫刻再現されました。
名実ともに日本最大の磨崖仏であります。
像の大きさは以下の通りです

総高 25.55m  坐像高 21.30m  肉髻 1.20m  御顔 6.50m  螺髪数 608個  御耳 3.00m  胸巾 12.40m
御手3.60m  膝巾 16.00m  膝高 2.70m  円光背直径11.40m  上蓮弁2.75m  返蓮弁1.5m  框 1.2m

因みに東大寺大仏は
総高 18.03m  坐像高 14.98m  御耳2.54m  御手 2.56m  膝巾 12.08m  膝高 2.23m  螺髪数 966
高徳院大仏は
総高 13.35m  坐像高 11.30m  御耳1.90m  螺髪数 656


   菩提樹分木贈呈記念碑     日本寺殿   インド国副大統領 シャンカール・デアール・シャルマ
碑文には次の文字が刻されています。
釈尊成道に聖地、ブッタガヤの聖菩提樹の分木を日本寺に贈呈するに当たり、
インド国民と日本国民との間には、古来より強い友情の絆が有った事を申し上げます。
この分木には、世界が平和で繁栄しますよう、そして、釈尊の慈悲のみ心を忘却せず、
相互に理解しあえる世界でありますようにという、インド国民の願いが込められています。
日本とインドの友好親善の関係がますます深まりますことを祈念申し上げます。

                                  案内説明より

岩屋の千五百羅漢そのⅠ

日本寺鋸山登山道

百躰観音 西国三十三、坂東三十三 
秩父三十四観音の百躰を合祀

あせかき不動尊

千五百羅漢そのⅡ

岩屋観音安置

汗かき不動説明板

旧薬師如来彫刻建立頭領
大野甚五郎英令の墓

墓石碑

奉納造立 地蔵菩薩

奉納造立地蔵菩薩 為秋月桂林信女
日本橋 上総屋長右衛門の碑文 

岩屋 千五百羅漢そのⅢ

岩屋 千五百羅漢そのⅣ

宝篋印塔

宝篋印塔説明板

日牌堂

日牌堂説明板

岩屋 千五百羅漢そのⅤ

薜蘿洞

薜蘿洞説明板

奥之院無漏窟

奥之院無漏窟

奥之院無漏窟説明板

維摩窟諸仏

維摩窟岩窟の石像

維摩窟説明板

聖徳太子像 事件に遭って台座のみ
現在修復中とのこと

聖徳太子説明板

在りし日の聖徳太子像 日本寺HPより

頂上への石段

西口管理棟 ロープウェイ山頂駅へ

百尺観音

百尺観音広場より地獄覗き岩

地獄覗き岩 動物の横顔?

地獄覗き岩

覗き岩への道 滑りやすいです

垂直な石切り壁

頂上展望岩

急坂石段

覗き岩から東京湾 三浦半島

覗き岩から東京湾 三浦半島

覗き岩から東京湾と金谷漁港

西国三十三観音

西国観音説明板

岩屋 千五百羅漢そのⅥ

通天関
「巌狭く関を過ぎろうが如く 柳面すれば天に登るに似たり」と説明文にある

通天関 二天側より

獅子岩? 亀岩?

鉄平石の石段

なんでこうなるの!

二天を安置したことで二天門ともいう

大野甚五郎英令之墓説明板

  鋸山と曹洞宗・乾坤山日本禅寺
鋸山は、房総における名山です。
すぐれた風致景観の芸術的価値はもちろん、山中の地質や動植物は学術的にも貴重な存在である。
この鋸山中心部二十五ヘクタールは、聖武天皇の勅願により、神亀二年(725)六月八日、行基菩薩が開山したと伝える、
乾坤山日本寺の境内地で、十八勝、三十六景などの勝地秘境に富んでいる。

「だれもかも鋸山はめづらしと、来るたびごとに目をひきたててみん」(太田蜀山人)
自然の中にあって、ひときわ光彩を放っているのが千五百羅漢像で、日本寺の後背をなす中腹の至る所に、
数多くの石仏を安置している。
この石仏群を総称して東海千五百羅漢と言う。

羅漢建像の由来は、日本寺曹洞第九世・高雅愚伝禅師が安永九年(1780)六月八日に発願し、
安房・上総・江戸をはじめ各地の信者の浄財を基に建立されたものと云い、愚伝禅師は自ら伊豆の石山を尋ね、
石材を求めたと云い、上総国桜井(現 木更津市桜井)の大野甚五郎英令らがこれを彫った。
それらの像は奇岩、怪石、霊洞の間に安置されている。
その数と質は、羅漢尊者応現の道場として名高い中国・懐安大中寺の八百羅漢をしのぎ、世に羅漢山の別名がある。

昔中腹の岩壁に彫った大仏の復元工事は、県、町の補助事業で、昭和四十四年三月完了し、往時の威容が再現された。
像高・二十一・三メートルの日本寺大仏は、奈良の大仏より総て一廻り大きく、一大偉観と言えよう。
尚ここは南房総国定公園に指定されている。


                                        案内説明より

山門 山号扁額

吽形仁王像

阿形仁王像

参道入り口寺標

五町目  五合目?

弘法井 弘法大師手穿(掘る)の井

参道

参道 燈籠

山門 三間一戸八脚門

山門  内側より

行基椎樹

観音堂

観音堂扁額

心字池

心字池中島の石仏

心字池

吞海楼

羅漢道碑

乾坤稲荷神社

寄贈 桜・梅千五百本の記念碑

源氏不動 旗本・曽根懶斎寄進

八町目

経王臺碑

経王窟

夏目漱石・正岡子規 鋸山探勝碑

源頼朝手稙 頼朝蘇鉄樹齢八百余年

鐘楼

薬師堂

薬師堂

薬師堂から庫裡を望む

新造本堂参道 工事中

本堂と右庫裡

達磨石

達磨石

四方竹

四方竹

鋸山に遊ぶ 梁川星巌・詩歌碑

  乾坤山日本寺復興事業について御来山各位へのお願い
鋸山日本寺は正しくは乾坤山日本寺と号し、約千三百年前の神亀元年(724)、聖武天皇の勅詔と光明皇后の令旨を受け、
「日本国の平和と繁栄を祈る寺」として高僧・行基菩薩が開創された関東最古の勅願寺であります。
日本寺は当初法相宗に属し後天台宗、真言宗を経て江戸幕府三代将軍徳川家光公の時世に曹洞宗に改宗しました。

然るに昭和十四年十一月、登山者の失火によって惜しくも堂宇悉くと、貴重な国宝仏像など総てを鳥有に帰し、
更に日華事変に続く大戦勃発は当山を要塞と化し、ここに復興の気運を遅らせ、
今も焼残の野に空しく鳥虫を嘆かしめる惨状にあります。

方今人心の混迷、風教の頽廃は誠に憂慮すべきものあり、この秋に当って由緒正しき仏閣を復興し、
広く心ある者の修道を資け多く人心の帰すところを求むることは、極めて、緊要事であると申せましょう。
慈に、御来山各位の絶大な御理解を得て当山復興の大業を成就いたしたく偏にご協賛ご支援をお願い申し上げます。
   乾坤山日本寺 住職敬白


  日本寺の梵鐘
鐘楼の鐘は、初め下野国佐野庄堀籠郷(現 栃木県佐野市堀米町)の天宝寺(現 天応寺)の鐘として
元享元年((1321)寄進され、六十年を経て永徳二年(1382)鎌倉五山の一である浄妙寺に渡り、
のち江戸湾を渡って日本寺の梵鐘となった歴史的名鐘である。
日本寺に移った年代は不明である。

またその他の伝承では、鎌倉に在った鐘を小田原に在った後北条氏が天正十八年(1590)に持ち帰り、
戦鐘(陣太鼓)として用いたと云われている。
天正八年は秀吉による北条氏討伐の末期であり、鎌倉が戦場にもなった時であるので、如何にもとも思う。
その後、鐘の行方は途絶え、江戸期の天保九年(1838)になって明鐘沖(富津市と鋸南町境界沖)にて
漁師によって引き上げられ、日本寺に奉納されたと伝えている。


鋳工は、幾多の国宝や重要文化財の茶の湯釜を残した、佐野天命(佐野市天明町)の助光である。


  梁川星巌 鋸山に遊ぶ (碑文)
流丹万丈芙蓉を削る 寺はほうとうの第幾重にか在る 
地を捲くの黒風海角より来り 時有りて微雨山容を変ず
三千世界孤掌に帰し 五百の仙人一峰を共にす 
怪しみ得たり残雲の腥気を挟むを 老僧夜降す石潭の竜

梁川星厳は、幕末、江戸神田お玉ヶ池に玉池吟社を開き、江戸詩壇を風びした漢詩人。
美濃国(岐阜県南部)の人である。


  長谷川馬光句碑 (碑文)
引きおろす 鋸山の 霞かな

作者・長谷川馬光は、葛飾派・山口素堂の弟子で、二六庵竹阿の師である。
有名な信濃国柏原生れの小林一茶は孫弟子にあたる。
この碑の除幕式は、寛政二年(1790)四月一日に行われたが、一茶は師の二六庵竹阿が三月十三日、大坂高津に歿したので、
二六庵の号を継いで故師の代参として除幕式に列席した。
一茶二十六歳の春で、房州に足を入れた初めでもあった。


  漱石・子規 鋸山探勝碑
近代日本文学史上、燦然と輝く明治の文豪、夏目漱石と近代俳句の祖、正岡子規との友情の舞台が房州の鋸山です。
正岡子規が明治二十二年五月に詩文集「七草集」を親友の夏目漱石に示すと、漱石は丁寧な批評を寄せました。
「七草集」に触発された漱石は、同年八月房総を周遊し、漢文紀行「木屑録」を執筆して子規に届けました。
これを読んだ子規は激賞しました。
ともに詩文の友であることを確認し合ったのであります。
「木屑録」には、房州鋸山の絶景と悠久への思いが綴られております。
二年後の明治二十四年春、子規もまた更なる詩想を求めて房総を周遊し、鋸山山頂からの眺望を漢詩に詠んだ紀行「かくれみの」を書き上げました。
これを読んだ漱石は四季の着想の豊かさをたたえました。
以降、二人は生涯にわたって絆を深めてまいります。
のちに漱石は「こころ」などの作品に房州の自然や地理を取り込み、子規もまた房州の地名を織り込んだ俳句を数多く詠んでおります。
ここに二人の偉業と溢れる友情の証を末永く讃え続けたいと建立しました。

平成二十六年五月吉日  漱石 子規 房州鋸南顕彰会

                                           案内説明より

弘法大師護摩窟

護摩窟

護摩窟洞

天台(不動明王)石橋

不動滝

不動滝 不動明王

不動滝尊像

山頂より鋸山 山容

金谷漁港遠望

参道 供養塔

護摩窟尊像

参道 石窟

石窟尊像

石窟正面格子扉

通天窟

通天窟 唐屋根の天女彫刻

日本寺中興開山高雅遇伝禅師

永平寺開山 道元禅師

能登總持寺開山 榮山禅師

百躰不動尊石仏

旧参道

小林一茶句碑

日本寺境内案内図

  小林一茶句碑
阿羅漢の 鉢の中より 雲雀かな

作者小林一茶は、江戸後期葛飾派の俳人。
信濃国柏原に生まれる。
十四歳で江戸に出て、俳諧を二六庵竹阿に学んだ。
一茶は、いわゆる「一茶調」の独特の世界観で句を詠み、俳句を庶民の親しめるものにした事で有名である。

この「阿羅漢」の句は、一茶の「七番日記」と題する句帖の中の、日本寺と前書きのある句の最初のものである。

薬師如来と脇侍日光・月光菩薩
薬師如来守護 十二神将





金谷神社 
千葉県富津市金谷4020
  

鐡尊宮(てつそんぐう)として信仰の対象となっている円形の鉄の塊は、形状から大鏡鐡と呼ばれている。
直径160㎝、厚さ11㎝、重さ1571㎏で片面の縁には幅6㎝の枠があったと云われている。
現在、大鏡鐡と呼ばれているが、鏡でないことは明らかである。

社伝によれば、文明元年(1469)六月に金谷神社西方の海中より引き上げられたものと云われている。
鉄なのに錆びないということで不老の御利益を求め、信仰の対象になったという。
本来の使用目的・製作年代などは明らかではないが、形態は宮城県塩釜市の塩竈神社にある製塩で使用する
煎敖鉄鍋と類似していることから、製塩に使う鍋であると推測され、製作年代は中世以降と考えられている。

                                       案内説明より

金谷神社

向拝彫刻

向拝柱の彫刻

蟇股 彫刻

拝殿扁額

本殿

大鏡鐡収蔵屋

備前焼狛犬 江戸末期東京湾防備
の為備前藩がこの地に在ったという

浸食激しい石燈籠






安房一之宮 洲崎神社  
千葉県県館山市洲崎1344

大鏡鐡

矢大臣像

左大臣像

社務所

随身門

二之鳥居

子宝の蘇鉄 この蘇鉄は実が多く付く
事から子宝の蘇鉄と信仰されている

洲崎神社御由緒石碑

石之宮

金毘羅権現神社

四柱社殿 豊玉彦命・大山津見命
       須佐之男命・大物主命

神饌殿・御輿殿

稲荷神社鳥居

稲荷神社社殿

拝殿

拝殿扁額
松平定信揮毫社号扁額 (複製)

本殿

参道石段 急な直段で疲れます。

厄祓坂碑

手水舎

安房一之宮 洲崎神社 御祭神・天比理刀咩命 相殿神・天太玉命 天富命

鎮座地
千葉県館山市洲崎の御手洗山に鎮座。御手洗山は標高110m、黒潮踊る太平洋を一望し、
冨士の霊峰、大島の御神火を指呼の間に望む風光明媚な山稜です。

御神徳
古来より伝承されている数々の御霊験から安産・航海安全・豊漁・五穀豊饒・
厄除開運・交通安全の守護神として、また源頼朝公の故事に倣い、
再起・再興の神様として信仰されています。

  洲崎神社御由緒
神武天皇の御世、安房忌部一族の祖・天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓され、
忌部の総祖神天太玉命の皇后・天比理刀咩命を祀ったのが洲崎神社です。
平安時代の延喜式神名帳に式内大社后神天比理刀咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されました。

平安時代末期の治承四年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総の地に逃れてきた源頼朝公は、
先ず当社に参籠し源氏の再興を祈願、寿永元年(1182)には奉幣使を派遣し妻北条政子の安産を祈願して、
広大な神田を寄進された。
以降関東武家の崇敬篤く、里見家七代里見義弘は社領五石を寄進された。
徳川幕府も朱印状で安堵しています。

神位は平安時代に正一位、鎌倉時代に元寇襲来の戦いに戦勝祈願の功により、勲二等に叙せられ、
明治六年(1873)県社に列せられた。
往時、別当寺(神社を管理監督する寺で財政的に支える役目がある)は養老寺など五ヶ寺を数えた。

室町時代には江戸城を築いた太田資長(道灌)が、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが、
神田明神の摂社八雲神社の前身と伝えられており、東京湾を挟み湾の西海岸に位置する品川、神奈川にも
御分霊を奉斎する神社が数社あります。
また、成田市に鎮座する熊野神社境内には、明和二年(1765)建立の「六十六社石碑」があり、
四方に一宮の社名が彫られ、安房国一宮として当社の社名が彫られていて、広く信仰されていたことがうかがわれます。

江戸時代後期の文化九年(1797)、房総の沿岸警備を巡視した陸奥国白河藩主・江戸幕府老中・松平定信が当社に参詣し、
「安房國一洲崎大明神」の扁額を奉納されました。


  洲崎神社本殿 (県指定有形文化財)
屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流を延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造で、
柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。
軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは珍しい点と言えます。
社伝では延宝年間(1673~1681)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、
支輪や虹梁・蟇股等の彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、
その後に大規模な修理が加えられていることがうかがい知れます。

そかし、本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。
とくに背面の竹に虎を配した彫り物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)頃の様式に従っているもので、
延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています。

尚、洲崎神社に伝わる「みのこ踊り」は二月初午と八月の例祭期間中に奉納されるもので、
弥勒踊りと鹿島踊りの二種類からなり、昭和三十六年六月千葉県指定無形民俗文化財に指定されました。


  洲崎神社自然林 (千葉県天然記念物)
洲崎神社裏の御手洗山の西側斜面は、神域として氏子の信仰が篤いため伐採されたことが無く、
自然林として保たれてきました。
この林は、シイが上木として目立つ下半部と、ヒメユズリハが上木として目立つ上半部に分かれています。
下半部では上の方から、第一層にスタジイが、第二層にヤブニッケイ、ヤブツバキが、第三層にトベラ、イヌビワが、
第四層にテイカカヅラ、ヤブコウジなどが優位に生えていて、スタジイの極相林のかたちを保っています。

極相林とは、環境条件に適合した安定状態の植物群落のことをいいます。
上半部では、ヒメユズリハが優位に生えており、おおまかにススキ草原からクロマツ林、
そしてヒメユズリハ林からスタジイ林という林の変遷過程を見ることができます。

                                        案内説明より





安房國一之宮 安房神社  
千葉県館山市大神宮589

一之鳥居 社号標・昭和八年建立
東郷平八郎元帥の揮毫

神饌殿

上之宮鳥居

境内巨樹

境内巨樹

樹幹元 

御神木 槇

御手洗池畔御神木 

伊勢神宮遥拝所

九之宮・御神仮殿 

二之鳥居

定書

社務所

手水舎

上之宮 拝殿 鉄筋コンクリート造り

上之宮 拝殿社号扁額

上之宮 本殿

上之宮 弊本殿扁額

下之宮 拝殿

下之宮 本殿

境内社 厳島神社

境内社 金毘羅神社

御神水霊社

大石 地下に続く巌
石碑は 日露戦没者供養碑

交通安全 車両御祓処

史料館

斎館

授与所

御手洗池

宝物殿?

  安房一之宮 安房神社
房総半島の南端・神戸郷に鎮座する、旧官幣大社・安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀咩を配祀として奉斎し、
摂社下之宮には天富命を祀っている。
延喜の制には大社に列せられ、名神祭に預る安房国唯一の由緒深き名社である。

安房神社の祭神・天太玉命は中臣氏の祖神・天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に奉祀し、
祭祀を司られた重要な神に坐し(あられ)ます。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命天児屋根命と共に大神の出御を祷り、
ついに再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのであります。
安房開拓の神として当社の下之宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられる。

天富命は四国の阿波國忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起こし、
最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって、
茲(此処)に本拠を定めて祖神・天太玉命の社を建てた後、次第に内地の方に進み房総半島に麻穀を播殖し、
その産業地域を拡められたのであります。

安房神社の御祭神は日本産業の総祖神として崇められ更に現在では家内安全、交通安全の守護神、厄除開運等、
関東地方隋一の神社として信仰が篤い。


  安房神社洞窟遺跡
昭和七年(1932)井戸の掘削工事の時に地表下一メートルほどのところで、偶然に洞窟が見つかった。
東北方向に開口部があるこの海食洞は、全長約十一メートル、高さ二メートル、幅一メートルの大きさで、
現在は再び地下に眠っている。
洞窟の発見直後の緊急発掘調査の結果、人骨二十二体のほか、貝製腕輪百九十三個、縄文土器、
古墳時代の土師器などが出土し、ここが古代の墓所であることがわかった。

人骨十五体には、健康な歯を故意に抜く風習である抜歯の跡があり、当時の風習を知るうえで貴重だが、
弥生時代とされる時期については再度検討が必要とされている。
人骨の一部は近くの宮ノ谷に再び埋葬され、忌部塚として祀られている。


  忌部塚の由来
忌部氏は、日本建国の古より祭祀・社殿の造営などをつかさどり大功のあった名族で、
天富命が率いる阿波の忌部は、房州に入植するや辺境の開拓に力を尽くして当地に農業魚用・建築時術をもたらし、
先住民と共に力を合わせて房総の地を切り拓かれた。

忌部塚に祀られている二十二柱の御霊・人骨は、安房神社境内の洞窟遺跡より発掘されたもので、
生存年代は弥生時代以前にさかのぼるものと云われている。
この二十二柱を忌部一族の遠祖と仮託して塚に祀り、房総開拓・隆盛の大功を偲ぶよすがとしている。
毎年七月十日には、報恩崇祖の誠を捧げる忌部塚祭が執り行われている。

                                    案内説明より

九之宮御神社殿

白浜神社  下立松原神社  日吉神社
八坂神社  犬石神社  熊野神社
相濱神社  布良崎神社  洲宮神社

祭事に使われていた社殿ではあるが、
現在はその祭事も行われていない





日蓮宗 千光山清澄寺  
千葉県鴨川市清澄322-1

門前燈籠

清澄モリアオガエル生息池

清澄寺入口門 現代版冠木門

山門(仁王門) 三間一戸八脚門

仁王門 吽形像

仁王門 阿形像

山門 表寺号扁額

山門 裏山号扁額

香炉

奉納燈籠 江戸講 十三講

参道石段

本堂

本堂向拝

本堂向拝 彫刻

向拝柱 木鼻獅子と獏

  千光山清澄寺由緒
宝亀二年(771)創建  開基 不思議法師
清澄寺は天台宗の寺として開創され、平安時代に至って、慈覚大師円仁が僧坊十二坊、祠堂二十五堂を建立し、
房総第一の大寺となりました。
江戸時代の初期、仲恩房頼勢法師が徳川家康公の帰依を得て再興し、これより真言宗に改宗、中興となられました。
寺格式十万石格、朱印五百石を賜り、本山格の寺となりました。
また、京都伏見の門跡寺院・醍醐寺三宝院の別院となったため、菊花の御紋章を許されました。

本尊の虚空蔵菩薩は、智慧(仏の知恵)福徳の菩薩として名高く、その像は、日本三大虚空蔵の一つです。
日蓮宗の開祖・日蓮聖人は、天福元年(1233)五月十二日十二歳の時生誕地小湊からこの寺に入り、
道善法師に師事し、出家得度しました。
勉学修業に励んだ聖人はさらに諸国に出て、各宗の奥儀を学び、
建長五年(1253)四月二十八日三十二歳の時当山旭の森で立教開宗の第一声をあげました。
聖人ゆかりの当山は、昭和二十四年四月、日蓮宗に改宗しました。


  清澄寺本堂(大堂)
千光山清澄寺は、宝亀二年(771)不思議法師が自ら刻まれた虚空蔵菩薩の御像を祀って開基・開山され、
その後平安時代に慈覚大師が来って僧坊・堂宇を建立整備して開創された房総第一の天台宗の大寺でありました。
その後約八百年を経て江戸時代の初期徳川家康公の帰依を得た仲恩坊頼勢法印が恩賞として賜った
十万石の格式・五百石の朱印・醍醐寺三宝院宮別院の称号(門跡寺 このため菊花御紋章を許される)及び
本山格式などを背景に再興し、その時以来真言宗智山派の法脈に属して約三百八十年続いてまいりました。

しかし大正年代に入ると廃仏毀釈の嵐の余波とこの地を襲った台風の為、
衰微の極みに達していた当寺の起死回生をはかるには日蓮宗に転宗帰属する以外に道無とする機運が昂まりました。
幾多の困難や曲折を凌いで遂に改宗の大事が決定し、昭和二十四年二月十六日を以て
宗祖日蓮聖人出家得度・立教開宗の霊跡、日蓮宗大本山清澄寺となったのであります。
本堂正面には智慧福徳願望成就の利益をお授け下さる名高い虚空蔵菩薩の尊像が安置されています。


  清澄のモリアオガエル (千葉県天然記念物)
モリアオガエルは、日本特産のカエルで、本州、四国、九州の山地に分布しています。
体長は五~九センチメートルで、体の色は保護色ですが、ふだんは緑色か暗褐色で、美しい不規則の斑文のあるものもいます。
普通は樹の上で生活していますが、繁殖期の五月から七月初旬には、池や水たまりの上に差し出した枝などに集まり、
深夜雌一匹に雄数匹が加わり、淡黄色の卵とともに、ニカワ状の物質を排出し、
後脚でかきまわし泡状の大きな卵塊をつくりあげます。

千葉県では、清澄山から鹿野山を結んだ線上に分布し、清澄ではこの池の周辺に生息しています。
この生息地は千葉県内の代表生息地として昭和四十年四月二十七日千葉県天然記念物に指定されました。

                                          案内説明より

報恩殿

報恩殿扁額

観音堂 十一面観音菩薩

観音堂扁額 読めないが観音堂?

中門 四脚門 宝物拝観の木札がある
閉門していて公開はしていないようだ

中門

中門内の建物 宝物殿?

中門内の建物

「あいさつ」と「喜び」の童子像

梵鐘

梵鐘銘

自真言宗智山派
轉宗日蓮宗之砌
昭和二十四年四月二十八日
身延山管長

真言宗智山派より日蓮宗に改宗し
清澄寺に贈られた?梵鐘

中門扁額 〇祥道場 〇が読めない

道善阿闍梨之墓碑

道善阿闍梨之墓

道善阿闍梨之墓

道善阿闍梨供養塔
建治二年丙子三月十六日銘

弘法大師一千年遠忌供養塔

練行場

練行場 道場碑

日本山妙法寺 清澄山道場

大杉幹の樹勢回復処置?

大杉 樹幹元

旭ヶ森への石段

立教開宗 南無妙法蓮華経

日蓮聖人像

旭ヶ森のお堂

神社風ですが屋根が宝形造りです

梵鐘

鐘楼

祖師堂

祖師堂

清澄の大杉(千年杉)

信育道場

  清澄寺中門
この門は、「中門」と呼ばれ、清澄寺縁起によりますと、正保四年(1647)に創建され、天保八年(1837)に改修されています。
構造形式は、一間一戸の四脚門で、屋根は茅葺の切妻造りです。
主柱は冠木をもってつなぎ、主柱上には平三斗を置き、実肘木で妻虹梁をささえ、その上に背の低い大瓶束を立て、
更に平三斗を置いて棟梁をかけ、正面冠木の上の虹梁中央ののみ本蟇股を置いてあります。

主柱の左右に袖板を付け、正面右側にのみ通路用の小さな扉が付けてあります。
軒は二軒に旁、妻軒については、深くしてあり耐湿、防風への効果を考慮していることがうかがえます。
様式は、和様を主とした折衷様式で、江戸時代初期の建築物としては、彫刻などの装飾も少なく簡素な美しさがあります。

この美しさは、天保年間の改修の際も損なわれることもなく残ってきました。
昭和三十九年四月二十八日に、千葉県指定有形文化財に指定されました。


  清澄の大杉(千年杉)
杉は、本来わが国特産の植物で、その分布は本州、四国、九州から南の屋久島に自生すると云われています。
巨大な杉は、楠同様、御神木として寺社の境内に多く見受けられます。
この大杉も、樹齢は不明ですが「千年杉}と呼ばれ、一千年をこえる清澄寺の歴史を物語る霊木とされています。
樹容は、根回りの太さ十七・五メートル、目通りの太さ十五メートル、樹高約四十七メートルです。

この大きさは国の特別天然記念物に指定されている高知県大豊町八坂神社の「杉の大スギ」と、
岐阜県白鳥町の「石徹白の大スギ」に比べても勝るとも劣らないものであり、植物学上も貴重なものとして、
大正十三年十二月九日、国から天然記念物に指定され、その保護がはかられています。
昭和二十九年の台風により、隣に並び立っていた杉が倒れた時、南側に出ていた大きな枝が折られ
樹容を損ねたしまったことは惜しまれます。
中心部は腐朽し、基部には空洞があり、祠となっていますが、老大木としては樹勢も良好です。

                                      案内説明より





天津神明神社  
千葉県鴨川市天津2950

盛砂用の砂?

近代戦没者の慰霊碑
慰霊碑は総理大臣田中角栄の揮毫

宮川に架かる神明橋(御神橋)

一之鳥居

二之鳥居

三之鳥居

手水舎

社殿 拝殿

拝殿 社号扁額

幣殿・本殿

社殿内扁額

狛犬

兼務社遥拝所 兼務、諾冉神社?

狛犬

長神社

長神社 恵比寿と大黒

長神社 恵比寿・大黒

春日神社

伊弉諾・伊弉冉を祀る諾冉神社鳥居

マルバチシャの木

マルバチシャの木

  神明神社
当神社の祭神は天照皇大神、豊受大神、八重事代主神、大山祇大神など七柱の神が合祀されています。
むかし、「天孫降臨」にあたり、八重事代主神が海路当地に来て、東方鎮護の神として鎮座されたので、
人々はこれを喜び「庤明神」と尊称しました。
治承四年(1180)源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れてきたとき、伊勢神宮に源家(源氏)再興を祈念し、
祈願が成就したなら、安房国に御厨一処を寄進しますと礼誓しました。

その甲斐あって宿願が成就し、寿永三年(1184)当地に御厨を新設し、
伊勢より迎えた神霊と、以前より鎮座の庤大神とを相殿に祀りました。
それから、「房州伊勢の宮」と尊崇され今日に至っています。

境内東の山はすぐれた極相林(最終的に安定した植物群)として町の指定文化財になっています。
山頂には伊邪那岐(伊弉諾)・伊邪那美(伊弉冉)の神を祀る諾冉神社があります。
境内の「まるばちしゃの木」は亜熱帯性落葉喬木で、千葉県指定天然記念物になっています。


  天津のまるばちしゃの木 (千葉県指定天然記念物 昭和十年十一月十二日指定)
まるばちしゃ(ムラサキ科)の木は、日本から台湾、中国中南部にかけて自生する暖地性の落葉小高木です。
わが国では、房総半島南部や紀伊半島、四国、九州、沖縄の沿岸地に稀に見られ、
千葉県が世界的な分布の北限となっています。
県内でも数が少なく、当地のほか、実入地先(当地から一キロメートルほど東の海岸)や小湊海岸地区以外では
ほとんど見ることができません。

ここに生育する四本は、北限地の古木として価値が高く、このように大きな個体は大変珍しいといえます。
初夏、枝先に白色の小さな花が密集して咲き、秋には直径二センチほどの実が黄色く熟します。
種は繊維に包まれており朝顔の種ほどの大きさです。
この木については、見慣れない珍しい木の愛称でもある「なんじゃもんじゃ」の呼び名もあり、
神明神社の神木として信仰されております。


  長神社
御祭神 八幡神(第十五代天皇応神天皇・誉田別命 ホンダワケノミコト)
      稲荷神 (宇迦之御魂神 ウカノミタマノカミ)
      山神 他多数の神を合祀
長神様には八幡神、稲荷神、山神など、多数の神様が合祀されています。
八幡神は春日神(天児屋根命 アメノコヤネノミコト)とともに、神明(天照皇大神)の側に仕える神であり、
境内東側の最奥には春日神も祀られています。
また、稲荷神は商売繁盛、五穀豊饒に御利益のある神様とされ、むかしより地域の商人、農民たちに篤く崇敬されてきました。


  春日神社
御祭神 春日神(天児屋根命 アメノコヤネノミコト)
      住吉三神  底筒男命 ソコツツノオノミコト 中筒男命 ナカツツノオノミコト 表筒男命 ウワツツノオノミコト
                         
境内東側の最奥にあるお宮が春日神社です。
ここには、春日神(応神天皇 誉田別命 ホンダワケノミコ)とともに神明(天照皇大神)の側に仕える神です。
八幡神も、境内西側、手水舎の裏手におわします長神神社に合祀されております。
境内とは別の場所にも、当社から西側に八幡神社、東側に春日神社が御鎮座されており、
一説には当社に添って創建されたとも云われています。

また、以前は境内西側に御鎮座坐されていたと云われる住吉三神も合祀されています。
住吉三神は金毘羅神とともに、海上交通の神様として古くより主に漁民たちに尊崇されてきました。
「住吉信仰」の中心は難波の住吉大社(大阪市)で、
かっては中国・朝鮮からの文化伝来航路を守る神様としてしたわれました。
やがて、それが広義的な海上交通へと一般化され、全国各地へと広まっていったものと考えられています。
実入地区にも住吉神社が御遷座されております。


  戦没者慰霊碑碑文
終戦以来二十有余年、国の再建もでき経済の繁栄と生活の安定がなされた今日、
日露戦争以後いくたの祖国の危急に際し尊い身命を捧げられた英霊に対する感謝と追慕から、
建碑の気運が大きく高まりここに町並びに天津地区の議会議員、町内会長、各種団体長、郷友会役員が建設委員会を結成、
推進母体となり、広く町民各位の協力を得て、この碑を建立し、その殉国の至情を留めるとともに、
ご冥福と平和を永久に祈念するものである。

昭和四十九年七月吉日

                                         案内説明より





上総一ノ宮 玉前神社  
千葉県長生郡一宮町一宮3048

舞殿

奉納水鉢 日露戦勝祈願戦勝記念?
明治三十九年丙午歳一月上浣(上旬)

本殿

仮拝殿 拝殿平成の大修理中

四之鳥居

授与所

総合案内・土産処

  上総一ノ宮 玉前神社由緒
創始は古く詳らかではありませんが、延喜式神名帳では名神大社として重きを置かれ、
また上総国一之宮と称されて平安時代にはすでに日本の中でも重要な地位を占める神社とされてきました。
明治四年には国幣中社に列せられています。

昭和二十三年には当時皇太子殿下であられた今上陛下が御参拝になり、昭和二十八年には昭和天皇、
平成四年には今上陛下より弊饌料を賜りました。
また古くは平安時代末期、関東平氏の上総権介平朝臣千葉広常をはじめ、
鎌倉の源頼朝が妻・北条政子の懐妊に際して安産祈願の奉幣を納めました。
時代は下って江戸開府した徳川家康が神田十五石を寄進するなど、武門の崇敬者も多く篤いものでした。


  御祭神 玉依姫命(玉依毘売命)
玉依姫命は海(龍宮)よりこの地にお上がりになり、姉神・豊玉姫命(豊玉毘売命)より託された
鵜茅葺付合命(ウガヤフキアエズノミコト)をご養育、後に命と結婚されて初代天皇・神武帝をお生みになられました。
御祭神が私たちの生活全般をお守りくださるのはもちろんですが、
わけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、
また、「龍宮」の意味する豊かさや喜びをもたらし、男女をはじめ人のご縁を結ぶ神として古くより信仰された来ました。


  玉前神社社殿 (千葉県指定文化財) 社殿棟札 貞享四年三月・貞享四年八月在銘
玉前神社は、玉依姫(玉依毘売命)を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、
「三代実録」にも記録される由緒あり神社である。
鎌倉時代には上総一ノ宮としての格式を保っており、北条氏、里見氏の天正の変で罹災し、
天正十年(1582)里見義頼により再建されてと伝えられている。

現在の建物は、江戸中期の貞享四年(1687)に、本殿が大工棟梁・大沼権兵衛、拝殿と幣殿は井上六兵衛によって竣工された。
本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母屋造りである。
正面に高砂の彫刻があり、左甚五郎の作とも云われています。
棟札は大きく、表には奉造営・貞享四年三月十三日大工棟梁大沼権兵衛とあり、裏面には近郊十三ヶ村の名が記されています。

拝殿は、桁行五間 梁間二間の入母屋造りで、正面に唐破風向拝を付ける。
幣殿は、本殿と拝殿を繋ぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。
全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年(1800)に現在に見られるような銅板葺に改められている。
県内でもあまり例を見ない様式を残す社殿は、社格とその歴史を今に伝えている。


  玉前神社御祭礼  九月十三日 御祭礼と神幸祭
大同二年(807)に始ったと伝えられる上総十二社祭(県無形民俗文化財)は当地方で最も古い浜降神事です。
「上総の裸祭」ともいわれ、御祭神由縁の釣ヶ崎海岸に十二柱の神々が集われる壮大な祭儀です。
裸の男たちが御輿を奉じて九十九里浜を疾走します。


  玉前神社文化財
梅樹双雀鏡…国指定重要文化財
玉前神社社殿・・・県指定有形文化財
上総神楽・・・県指定無形民俗文化財(三百年の伝統を持ち現在年七回の神楽を奉納している)


  玉前神社社殿平成の大修理についてのお願い(平成二十六七)年修復工事進行中)
現在の社殿は貞享四年(1687)に建立され、度々の修理を付しながらも、当初の姿を保ち平成八年には
千葉県有形文化財に指定され、その保持の重要度も一層増してまいりました。
大正年間の大修理後から八十有余年が経過し、社殿の歪み・腐蝕・漆塗の激しい剥離剥落、
本殿屋根銅板葺の老朽化や境内諸処の傷みが進み心痛の極みでございましたが、この機を会し社殿修理工事と、
工事期間中の祭典・祈祷を行う仮殿(参集殿)建設工事を主とする境内整備事業を執り行いたいと存じます。

これらは皆さまのご協力なくしては決して叶わぬ大事業であり、多大のご負担をおかけいたしますことを誠に心苦しく存じますが、
当社の長い歴史の中で今この時に巡り会い、この大事業を成し得ることを慶びとして
心血を注いでこの記念事業遂行に全力を尽くしてまいりたいと存じ、ここに奉賛会を結成する次第となりました。

各位におかれましても、ご芳名が永代に残る大事業となります。
多少にかかわらずお気持ちを賜りますれば幸いに存じます。

                                          案内説明より

招魂殿

西参道鳥居

十二神社 社殿

上総一ノ宮 桜開花宣言木

祭事蔵

足裏按摩(整体)の道

三峯神社

報恩碑

上總權介平朝臣廣常公顕彰碑

境内巨樹

境内巨樹

境内巨樹

境内御神木 銀杏

松尾芭蕉句碑

御神水取水処

さざれ石

珍しい石塔

御神木 親子銀杏 子宝・子授けのイチョウ

神域樹木

  招魂殿
大正十二年に建立された。
日清・日露戦争以降第二次世界大戦までの一宮出身三百二十五柱の戦没者をお祀りしております。
例祭は四月十三日に行われています。
右の「勇死救亜洲碑」は英霊顕彰の為、昭和三十一年に建てられたもので、三百二十五柱の氏名を刻し、
一宮藩の後裔で当時千葉県知事であった加納久朗氏篆額(篆書体で書かれた額)がある。


  玉前神社末社 十二神社十四柱由緒
御祭神・・・・・旧御鎮座地・神社名
軻愚突智命・・・・・宮の後・愛宕神社
誉田別命・・・・・陣屋内・八幡神社
事代主命・・・・・上宿・三島神社
白山比売命・・・・・上宿・白山神社
大山咋命・・・・・下村・日枝神社

大山祇命・・・・・柚の木・山神神社
木花開耶姫命・・・・・細田・浅間神社
八衢比古命       仝
八衢比売命・・・・・道祖神・塞神社
久那斗命         仝
大物主命・・・・・内宿・蔵王神社
少彦名命・・・・・関東台・粟島神社
櫛御毛野命・・・・・陣屋・熊野神社
罔象女命・・・・・下の原・水神社

一宮町内の邑々に昔から祀られ信仰をあつめていた神々が、明治初年政府の命により玉前神社に合祀され、
十二神社として現在に至っています。
例祭は「愛宕さん」と親しまれ、その火伏の御神徳と共に親しまれ賑わっています。
平成六年十月、氏子をはじめ御崇敬の方々のお力により社殿の改修、御輿の修理が見事に行われました。


  松尾芭蕉句碑
この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。
「はせお」とは芭蕉のことであり、元禄元年(1688)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。
左には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」の句を発句とする表十句を刻んである。

背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金並みの芭蕉景仰の漢文銘画あり、
左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主千丁 河野五郎兵衛 とあり、
上総千町村(現 茂原市千町)の俳人起名庵金波 河野五郎兵衛」一門によって建てられたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(1804)岡山の井出家に生まれ、俳句を学び起名庵を創始した。
嘉永五年(1853)千町村の河野家の養子として迎えられ、明治二十年八十四歳で没した。


  千葉広常公顕彰碑(碑文)
上總權介平朝臣廣常公顕彰碑
  敬白 
上總國一宮寶前立申所願事
一  三箇年中可 寄進神田二十町事
一  三箇年中可 致如式造榮事
一  三箇年中可 射萬度流鏑馬事

右志者為前兵衛佐殿下心中祈願成
就東國泰平也如此願望今一々圓満
者彌可奉崇神威光者也仍立願如右

  治承六年七月日
  上總權介平朝臣廣常


  玉前神社樹木 槇の群生 
当神社の境内に槇の群生がある。
槇はマキ科の常緑高木で、九十九里海岸平野の気候風土に適し、当地域の特産である。
境内には、槇をはじめ数種の樹木がみられるが、槇は本殿裏から西側にかけて大小二十数樹が群生し、
他の神社では見られない光景である。

樹高およそ二十メートル、目通り周囲三メートル前後の巨木も十数樹を数え、鬱蒼として壮観であり、
特に境内東側の槇は最も大きく、樹高二十メートル、目通り周囲三・二六メートルに達する。
槇の種類は県の木と同種の「イヌマキ」である。


  子宝・子授けのイチョウ
雄株(右側)と雌株(左側)の真ん中に実生の子供イチョウが育っています。
雄株→雌株→こどもの順に両手で触れて子宝を願うと良いといわれています。

                                             案内説明より

上総一之宮玉前神社

社号標

一之鳥居狛犬

一之鳥居狛犬

斎館

五葉松


二之鳥居

二之鳥居狛犬

二之鳥居社号扁額

二之鳥居狛犬 新しい狛犬です

手水舎

龍の水口

千葉のいろいろへ

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玉前神社門前   天台宗 玉崎山観明寺





玉前神社門前

角八本店  みかん大福 いちご大福長生ゼリー 九十九里煎餅 どら焼き

あづま味噌 営業はしていないようです

大きな味噌工場であったようです
駐車場も工場の敷地だったと思う

国幣中社玉前神社参道 石碑

JR上総一ノ宮駅

かねきち 弘化四年京都嵯峨御所御墨付 陛下献上和菓子 上総の月 
豆大福 いちご大福 九十九里最中 さざれ石

玉前神社門前通り

赤七屋 軽食・甘味処 かき氷 おでん コーヒー 紅茶 ケーキ





天台宗 玉崎山観明寺  
千葉県長生郡一宮町一宮3316

金銅造 地蔵菩薩坐像

庫裡

七福神の内 左寿老人と右福禄寿

山門 門扉無四脚門

山門 桁木と棟木と蟇股

山門 六地蔵

本堂

本堂 山号扁額

本堂 回廊と火頭窓

鐘楼

経堂

經堂扁額

玉崎山観明寺と号し、天台宗に属する寺院です。
本堂には御本尊の十一面観音を安置しお祀りしております。
天平六年(734)、行基上人により開基・開山されたと云われています。
その後慈覚大師により寺の隆盛をを得て、中興開山されたと云われています。

江戸幕府開府以降御朱印十二石の領地を与えられ、玉前神社の別当寺として地域の信仰を集めてきました。
神仏分離令後の明治二年の分限書に「玉前神社一宇 但神主方支配仕候 毎年祭例二八衆僧立会法要仕候」とあります。
平安時代中期より千年以上にわたって別当寺の地位を築いてきました。


  観明寺本堂
観明寺の旧本堂は、九間四方の入母屋向拝大破風付の壮大な建築物でした。
この建物は当寺三十世住職・俊榮が宝永六年(1707)に六十万人講を興し本堂の造営を志しました。
そして十一年後の享保三年(1718)三十二世住職・智海の代に、それまでに海岸に漂着した木材を使って建築しました。
然しながら、第二次世界大戦中に寺は荒廃し、取り壊しの憂き目を見て現存してはおりません。
まさに戦争は寺の荒廃もさることながら人心の荒廃にもつながるできごとでした。

現在に見る本堂は、四十五世住職・亮俊が再建を発願し、檀家信徒を募って昭和四十三年に完成しました。
間口七間、奥行六間半、破風造りで鉄筋コンクリート造りです。
堂内には、旧本堂に在った欄間を収めております。
この欄間には「地獄極楽図」(房州の井上円徹作と言い伝えられています)が彫刻されています。

「房総志料続徧」には「欄間彫刻、地獄・畜生左、天道・人道中、内に白衣観音の像一体、修羅・餓鬼みぎ、
内に地蔵尊・小児、左の中より右へ焔魔大王、左方隅脱衣婆、火の車の様子、釜の中より血の煮えこぼれるありさま、
誠に肝に銘じ、肌寒くなる程恐ろしく思わる。
其余、臼にてつかまるもの、あたまへ釘をうたるるもの、目も当てられぬ次第なり」
とあるように、その写実的な図柄は、地獄餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道情景を巧みに描写しています。
これは、訪れる人々の洗心の糧として貴重なものになっています。

また、この欄間は享保三年(1718)本堂の再建に際して用いられたという
九十九里浜漂着の楢材の厚板に彫られています。
本堂正面に三分割され、中央が縦一メートル、横四・五メートル、左右はそれぞれ縦一メートル、横二・七メートルあり、
極彩色の一大彫刻絵図です。
昭和四十三年、新本堂再建に際して彩色なども修復しました。


観明寺所蔵古文書 絵画

  正木時通制札一葉(古文書)
制札
一  狼藉之事
一  喧嘩口論之事
一  在宿中各別之事
右観明寺御門前、守護不入(守護の支配や租税を免ずる)の上、毛頭此制札の面に背くべからず。
万一違犯の輩に至る者、罪科に処すべきの状、件の如し
甲子極月十三日   永禄七年甲子(1564)十二月十三日
                        時通 花押
戦国時代中期の永禄七年(1564)
安房里見義弘麾下の勝浦城主・正木時忠父子は里見氏に背き、この年の暮れ、一宮城を攻め落としました。
正木時通がこの制札を立て、治安維持につとめたときのものである。


  釈迦涅槃図一幅(絵画)
釈迦が沙羅双樹の下で入滅するときの様子を描いたものです。
縦二百三十八センチ、幅百六十センチの大作で構図、描写が優れています。
万木城(千葉県いすみ市万木)主の家臣・高木乗員が室町中期の有名な絵師・兆殿司の描いた涅槃図を
江戸初期に狩野守景に模写させ、元文三年(1738)乗員の子孫が奉納したものと云われ、
毎年三月十五日の経堂祭りに掲げられます。


  豊臣秀吉禁制一葉(古文書)
禁制
一  軍勢甲乙人等乱暴狼藉事
一  放火事
一  当寺中門前百姓等に対し非分の儀懸け申す事
右条々堅く停止せられ訖ぬ若し違反の輩においては忽ち厳科に処せられるべき者也
             天正十八年六月     秀吉朱印
豊臣秀吉が相州小田原城を攻囲中、本田忠勝(本多忠勝)等の別動隊は房総へ攻め入り、
一夜にして房総四十八ヶ城を攻略し、一宮城もその折に落城した。
同年八月、内藤四郎左衛門正成が一宮城代となりました。
この禁制は、治安維持のために立てられた高札です。


  観明寺山門
天台宗上総五山の名刹、玉崎山観明寺の山門(四脚門)は江戸時代初期の建築であろうと云われている。
四脚門は四足門(よつあしもん)または山門という。
建築様式は切妻型、屋根は箱棟です。
二軒繋垂木・頭貫虹梁(梁の一種)・妻虹梁で組まれ銅板葺ですが元は茅葺であったと云われています。

主柱は角柱で、蟇股は四脚門前後に備えられ枡組と共に桁を支えています。
正面の蟇股は沢潟(おもだか)の家紋が彫られ、背面の蟇股卍・巴の寺社の門が表裏に彫られ
神仏混淆(神仏習合)の時代を物語っています。
沢瀉の門は堀氏の用いた家紋であり、領主・堀外記は寛文十二年(1672)から三十余年
一宮本郷とその周辺の村々を支配していました。

延宝の頃に領主から寄進されたものと思われます。
多少傷みはしていますが重量感に富んで現存の建築物では一宮町内最古のものであろうと云われています。


  経堂
経堂は、寛文六年(1667)に建立されました。
釈迦石像を安置し、一切経が奉安されておりました。
近年老朽化が激しく、一宮町在住の遠藤満津夫氏の発願により、平成五年に改築しました。

三月十五日は、俗に経堂祭りと称して、境内に植木市などが立って賑わいます。
また、堂内には、涅槃図の大軸(2.77m×1.96m)を掛け、釈迦入滅(二月十五日)の日を追悼する涅槃会法要が営まれます。
この涅槃図は、天文三年万木城主が両親の菩提を弔うため、狩野守景に古画を複写させて寄進したものと伝えられています。


  地蔵菩薩坐像 金銅造 町指定文化財
総高1.5m、像高1mの青銅で造られています。
像立は、東栄寺・安養寺・西福寺の四ヶ寺により、正徳五年(1715)五月武州(現 東京都・埼玉県・神奈川県の一部)
神田在佐々木石見作との銘がある。
その後享和二年(1802)四月に修造再建されており、「再建作上総国夷隅郡内野住人・鋳物御大工藤原政行の刻銘があります。
三十八世・権大僧都堅者圓海の頃のことです。

初鋳の際の製作年月、製作者、寄進者等の刻字は薄れていて、
その空間を埋めるように再建時の寄進者名、願主(惣行人中、世話人関ノ与右衛門)名等がはっきりと刻まれています。

                                       観明寺HP 案内説明より



水屋鞘堂

水屋(手水舎)

境内歌碑

弁天堂

弁天堂扁額

弁才天を祀る祠

金毘羅堂と鳥居痕
貫と島木が取り外された鳥居柱

金毘羅堂向拝彫刻

金毘羅堂 虹梁と向拝柱木鼻

本堂前の剪定樹木

  水屋・金毘羅堂
金毘羅堂は、江戸時代中期、町内上宿に住む信者・斉藤伝九郎という人が、
海難守護・大漁祈願の為四国讃岐の金毘羅大権現の御分霊を勧請したのに始まっています。
斉藤伝九郎は始め自宅の神棚に安置して信仰していたが、その後愛宕山安養寺に移し奉安した。

明治維新前には玉前神社境内に御堂があったが、神仏混淆(神仏習合)の禁止令により玉前神社を離れ
現在地に愛宕山から安養寺を移し仮堂とした。
後に明治十二年(1879)現在の姿に近いお堂が建立された。
建物の大きさは、正面三間、側面四間入母屋造りである。
創建当時は、向拝が無く、屋根は茅葺でしたが、明治十三年に向拝が付けられ、瓦葺に改修しました。

階段前に建つ御影石に柱に天保八(1837)丁酉(ひのととり)年十二月の彫刻があり、
元来鳥居であったものが横木を取り除いたもので神仏分離を物語る証として興味深い。
平成七年信者の協力により老朽化した御堂を昔の姿そのままに大部分を残して改修された。
この改修の時、天井から延享五年(1748)の墨書が発見されている。
正月十日の初金毘羅には大漁祈願・家内安全・商売繁盛の護摩札を受ける信者や参詣人で賑わいます。

水屋は安永八年九月(1779)の製作で金毘羅堂とともに明治十二年階段下に移転した。
四本の柱に彫られた浮き彫りの上り竜・下り竜は見事であるが、作者は不明である。
水屋石の彫刻も精巧なものであります。
平成八年御堂の改修後は現在地に移転し、屋根を旧来の瓦葺入母屋造りから杮葺きに葺き替えました。

                                             案内説明より

水屋 柱の彫刻

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