山陰山陽のいろいろ

鳥取砂丘・出雲大社&足立美術館  参照: 温泉その13→玉造国際ホテル
倉敷美観地区と下津井鷲羽山  参照: 温泉その13→玉造国際ホテル






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倉敷美観地区と下津井鷲羽山


倉敷美観地区   下津井鷲羽山

倉敷川河畔

倉敷川遊船

川船乗り場

大原邸 (重要文化財)

倉敷川より大原邸

有隣荘 大原家別邸

中橋

今橋

倉敷物語館

倉敷物語館  

倉敷物語館

倉敷物語館

みやざき地頭鶏(jidokko)「そのまんま」

大橋家住宅長屋門 (重要文化財)

大橋家住宅主屋通用玄関

三楽館 (旧倉敷郵便局)明治35年築

倉敷公民館

中国銀行本町支店 出張所
(国登録文化財)

井上家住宅 (重要文化財)修理中

本町商店街町並み

本町商店街町並み

倉敷川沿い町並み

星野仙一記念館 突き当り二階

倉敷山陽堂 His Master's Voice

倉敷民芸館


  大原邸 (重要文化財)
十九世紀前半の建築で、のちにに倉敷紡績などを設立する大原家の住宅です。
大橋家と共に倉敷隋一の実力者で、大橋家の建物と共に国の重要文化財に指定されています。


  有隣荘 (大原家別邸)
昭和三年(1928)の建築で、大原孫三郎が別邸として建てさせたものです。
白壁の町並みの中で、倉敷川向かいの大原美術館と共に独特な景観を形成しています。


  大橋家住宅 (重要文化財)
寛政八年(1796)に建築。
駅前通りの右側、美観地区から反対側に建てられている建物です。
大橋家は元々豊臣家に仕えていましたが、豊臣家滅亡後に倉敷に移住してきました。
水田、塩田で財を成し、その財力で豪華な屋敷を構えました。
重要文化財として、主屋をはじめ、長屋門、米蔵、内蔵等が現存しており、いずれも重要文化財に指定されています。


  倉敷物語館
「倉敷物語館」は、旧東大橋家(大橋家分家)住宅を倉敷市が改修したもので、平成二十一年四月に開館いたしました。
旧大橋家の建築年代は江戸期といわれ、格式ある造りの長屋門や土蔵は、当時の風情を現代に伝えています。

この「倉敷物語館」は倉敷美観地区の玄関口に位置し(倉敷駅から)、観光客と市民の皆様の交流活動の場として、
又倉敷美観地区の成り立ちや、倉敷市の文化・観光資源などを紹介する施設として活用されています。

ここ「倉敷物語館」で倉敷の魅力に触れていただくと共に、旅の良き思い出をつくっていただければ・・・・・と願っています。


  中国銀行倉敷支店 本町出張所
大正十一年(1922)の建築です。
大原美術館と同じく薬師寺主計の設計で、ルネッサンス風の銀行建築です。
現在も銀行の業務を行っている数少ない大正建築の銀行建築です。


  井上家住宅 (重要文化財 修復中)
正徳年間(1711〜1716)の建築といわれている。
本町通りに残る倉敷の古い町屋で三百年を経て、美観地区では最も古い建物です。
特徴は、二階にある七つの倉敷窓のすべてに防火用の土扉が付けられていることで、倉敷唯一の町屋です。
扉は傷みもひどく崩壊の危機にありましたが、修復が成りました。

現在井上家住宅は保存、修理工事のために平成二十四年十二月より六年の予定で工事に入ります。
そのために平成二十四年九月より修理完了まで公開を中止しています。


  倉敷民芸館
倉敷民芸館は古い米蔵を改装して昭和二十三年に開館しました。
美観地区の古民家再生の第一号です。
建物は「蔵」の用に徹して美しく建物自体が民芸品です。
館内は世界各国の民衆の間から生まれた工芸品が展示され、生活に密着した虚飾の無い美の原点を語りかけています。


  倉敷館 観光案内所 (旧倉敷町役場)
大正六年(1917)に倉敷町役場として建てられた洋風木造建築です。
現在倉敷観光案内所として観光ガイドや観光施設などの紹介を行うほか、
無料休憩所として自動販売機やコインロッカー、トイレの設備があります。
この建物は国登録有形文化財に指定されています。
また、倉敷川川船遊覧チケットもこちらで販売しています。

                                            案内説明より

倉敷館 旧倉敷町役場 
(国登録有形文化財)

倉敷市観光休憩所 バス駐車場横
倉敷市立自然史博物館

大原美術館本館

大原美術館分館

新渓園

新渓園庭園

新渓園庭園

新渓園庭園

新渓園庭園

蔦塀

クラボウ倉敷本社工場跡地
(株)倉敷アイビースクエア

工場跡地 倉敷アイビースクエア アイビーショップ 倉紡記念館 児島虎次郎記念館 クラボウ本店

  新渓園
明治二十六年、倉敷紡績の初代社長大原孝四郎氏の別荘として建設されたもので、和風建築として高く評価されました。
その後、広く一般に開放されて、市民の憩いの場として親しまれています。
現在は「敬検堂」、本格的な茶室を備えた「遊心亭」があり、広く市民に開放され、茶会の名所にもなっています。


  倉紡記念館
クラボウは明治二十一年倉敷紡績所として創立され、初代社長に大原孝四郎が就任しました。
翌明治二十二年、江戸時代の倉敷代官所跡地に当時としては最も近代的な紡績工場が操業を開始しました。
倉紡記念館は、昭和四十四年、クラボウの創立八十周年の記念事業の一つとして建設されました。

明治創業期に建てられた工場は、その後現在の倉敷アイビースクエアとなり、
当時の原綿倉庫が倉敷の街並みに合わせて改造され、記念館として生まれ変わりました。
ここには我が国紡績産業の時代の移り変わりを背景に、クラボウの歩みが、写真・模型・文書・絵画などによって綴られています。
歴史を顧みることは未来への礎・・・・と創業以来クラボウにつらぬかれているこんな考えが生んだ記念館です。 

                                              案内説明より

浄土宗 誓願寺山門

本堂

誓願寺山門の菊紋瓦

飛梅天満宮

本堂

大師堂

大師堂 龍の彫刻

真言宗 寶壽山観龍寺

大日如来石像

鐘楼 梵鐘

左客殿 右庫裡

妙見宮

  浄土宗 誓願寺
美観地区から入った本通り沿いに位置する『浄土宗 誓願寺』は、 1849年(嘉永2年)に建立されました。
本堂は、倉敷で最も古いとされています。
天皇所縁の菊の瓦紋が目印の門構えをくぐり、まっすぐ進むと 今度は寺名である“誓”の文字が瓦に彫られています。
その名の由来は仏様の誓いである「皆を救う」という浄土宗の 教えからだそうです。

もともとは中国の和尚に端を発し、その一説から岡山出身の法然上人が43歳で“南無阿弥陀仏”を 唱えたのがはじまりとなり、
この地に浄土宗が根づきました。
ここに佇んでいるとその荘厳な雰囲気に心が洗われます。
日頃はつい、自分が自分がとなりがちですが、自然や家族等の「おかげがあって生きている」ということを気づかせてくれ、
競争心や計算する心、我先にという気持ちが薄らいできます。

観光地でない為、境内は一般公開はされていません。


  真言宗 宝寿山観龍寺
真言宗 御室派の寺院、別格本山
約千年前、寛和元年(983)堯勢津師により、現倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭寺院として開創しました。
当時は北斗山宝積院と称していました。
室町時代に、現在当山駐車場となっている地へ移転しています。

寛永元年(1624)現在の地に再移転し、宝寿山観龍寺と改称しています。
江戸中期の千七百四十年代に二度にわたり伽藍焼失ししましたが、
本堂は寛延二年(1748)再建以降次第に伽藍を整備し現在に至っています。

  備中西国札所御詠歌
つみもかも 消えよと祈る 観龍寺 遠きくにより まいる身なれば

  倉敷騒動史蹟
慶應二年(1866)四月十日、立石孫一郎が率いた長州からの一隊は倉敷代官所を襲撃した。
一隊はここ観龍寺に陣屋を設けて戦時物資を調達した。
当山山門左側の小門の鴨居に残された槍の突き跡は倉敷騒動の史蹟として現存している。

  妙見宮
観龍寺の旧名は、北斗山宝積院といいます。
北斗とは星の帝王である北極星乃至北斗七星を指しています。
密教では妙見菩薩と呼び、平安時代から星祭や星供の本尊として、各地で修法や祈祷が盛んに行われました。

倉敷村の黎明期、村の鎮守に選ばれたのが境内宮の妙見宮であり、当寺を離れ、この山の東の嶺に遷宮(文禄三年 1594)した。
その後、寛永五年(1628)当寺は正式に妙見宮の別当寺に任ぜられました。
当寺は神仏の区別なく爾来三百年、当寺住職が全ての祭祀祭礼を司っていた。
明治二年(1869)神仏分離令により妙見宮は当時に戻った。

鶴形山とは昭和以降の呼称であり、元は妙見山と呼ばれていた。
平成十七年完結の新修倉敷市史により神仏分離とその後の不明確な歴史記述が是正されました。
それは、明治時代になって新設された阿智神社(宗像三神)と当妙見宮の関連性はないこと。
さらに妙見山という旧称の通りこの山の元来の祭神は妙見宮であると確認されたことである。

  百福荘厳身の書石碑
百福荘厳身の書石碑は寂厳和尚佛典に寫して撰んで書いた句を直寫したものであります。
百は多く、福は善の意味で、多くの善事を行へば身を荘厳にするとの教えでそれが即ち仏であります。

寂厳和尚は元禄十五年(1702 元禄赤穂事件)九月十七日、
今から約三百年前に備中足守藩木下家家中の安富家に生まれました。
十一歳のとき近在宮内村普賢院で僧となり、十六歳のとき京都で修行し後帰国した。
倉敷在沖の円福寺の住職になったこともあります。

三十五歳のとき再度京都に上がり真言宗五智山の曇寂師に師事し梵語学と密教の奥儀を極め、
さらに諸国を巡錫すること数年四十一歳の時に備中国連島村の宝島寺の住職となり、
在職二十五年わたり学徳を慕って全国から来参するものが日々絶えなかった。

六十六歳の時倉敷観龍寺の末寺である玉泉寺に隠居し、悠々翰墨を楽しんだが、
俄かに病み明和八年(1778)八月三日七十歳を以って入寂されました。
遺書に因り足守遠島倉敷縁地を一望し得る遠島山嶺の最高大平山に葬りました。

因みに寂厳は越後国出雲崎の良寛、大坂の慈雲と並び三筆として有名な書僧であります。


  阿智神社 倉敷総鎮守 祭神宗像三女神(多紀理毘売命・多岐津比売命・市寸嶋比売命)
創祀は応神朝期に遡り、まだ当地が海島であった頃、阿知使主の一族が朝鮮半島より帰化し周辺に住みついたと云われ、
水夫漁民の祖神、海上安全の守護神として祀られる。
周辺は阿智潟と呼ばれる海域であったが、江戸初期には陸化し、倉敷代官所が置かれ旧倉敷村の氏神として
歴代代官の崇敬厚く、石燈籠をはじめ数多くの寄進を受けていた。

当時妙見宮と称され、観龍寺が別当を務めていたが、明治二年神仏分離令にともない現社となる。
明治四年郷社、明治四十三年近隣十二社を合祀、昭和十七年県社となる。

                                             案内説明より

淡島大明神

百福荘厳身の書石碑

観龍寺山門

阿智神社 参道





下津井鷲羽山




倉敷美観地区

四国坂出事業所群

讃岐 屋島遠望

日本初の国立公園として知られる瀬戸内海国立公園の代表的な景勝地で、
鷲が羽を広げ様子に似ていることから「鷲羽山」と名付けられました。
海抜133mの山頂「鍾秀峰(しょうしゅうほう)」からは、波静かな海上に点在する大小50余りの多島美と雄大な瀬戸大橋の姿を
存分に楽しむことができます。
特に夕景の美しさは格別で、「日本の夕陽百選」に選定されています。

                                           案内説明より

鷲羽山展望所 瀬戸大橋

与島 

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