中山道てくてくその1


中山道てくてくその1
日本橋~御茶ノ水     御茶ノ水~巣鴨 
巣鴨~板橋         板橋~浦和
中山道てくてくその2
浦和~大宮         大宮~上尾
上尾~桶川         桶川~鴻巣
中山道てくてくその3
鴻巣~熊谷         熊谷~深谷
深谷~本庄         
中山道てくてくその4
本庄~新町         新町~倉賀野
倉賀野~高崎

いちこくはし

迷い子石標

日本橋魚市場跡石碑

日本橋と 首都高速道路

東京市道路元標と三越新館

道路元標

日本橋

構造 形式
石造二連アーチ橋高欄付(青銅製照明灯を含む) 付東京市道路元標 一基

所有者
国(建設省)

指定年月日
平成十一年五月十三日 指定(建第二三六二号)

指定の意義
明治を代表する石造アーチ道路橋でもあり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。

また、土木家、建築家、彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、
ルネサンス式による橋架本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。

建設省国道に係わる物件で初めての重要文化財指定

常盤橋門跡

此処は江戸城大手外郭の正門にあたり江戸初期には浅草口または大手口といわれ奥州街道に通ずる重要な場所でしたが、
其の後門が設けられて常盤橋御門と呼ばれるようになりました。

此の門は石塁で桝形を築き正面には冠水門(かぶき門、)ここより入って右側の石塁にわたり矢倉大門があり、
これ等を通って郭内に入るように造られ寛永年間を初め数度の改修築を受けました。
又、常盤橋は浅草橋とも大橋とも呼ばれ木造でしたが、明治十年現在のような様式石橋に架け替えられました。

明治維新後、門はその大部分を取り除かれ残った桝形の一部及び常盤橋なども、
大正十二年の関東大震災によって相当の被害を受け、昭和八年財団法人渋沢青淵翁記念会の御好意により復旧整備のうえ、
東京市の公園として公開されました。

現在は文化財保護法により史蹟として保存されております。
                                                            案内説明より

発句也 松尾桃靑 宿の春   桃靑

松尾芭蕉は、寛文十二年(1672)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。
以後延宝八年(1680)三十七歳までの八年間、ここ小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大船町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)
の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。

当時「桃靑」と称していた芭蕉は、日本橋魚市場にまぢかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、
延宝六年には俳諧宗匠として独立した。
その翌年(延宝七年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠みあげたのがこの碑の句である。

碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。

日本橋を北にわたった東側に魚市場があった。
河岸には魚を満載した船が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わった。

この絵の右側すなわち北側二筋目の通りが、芭蕉の住んでいた小田原町で、そこにも魚屋が並んでいた。
芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである。
                                                              案内説明より

日本銀行本店 本館 新館 

日本橋に青空を キャンペーンバス 

東海道名所絵図

昌平橋

神田~御茶ノ水駅の煉瓦積高架
旧万世橋駅辺り

江戸総鎮守 神田神社 社殿

社伝によると天平二年(730)、武蔵野国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町)に創建されました。
延慶二年(1309)、東国の英雄で庶民たちに仰がれた平将門が合祀され、
太田道灌・北条氏綱といった名だたる武将によって手厚く崇敬されました。

慶長五年の関ヶ原の戦いで、当社では徳川家康公の戦勝祈願をし御守りを授与したところ見事に勝利を得ました。
これ以降、家康公の合戦勝利に因み縁起の御守り『勝守(かちまもり)』を授与するようになり、
現在でも多くの参拝者に授与しております。

江戸幕府が開かれると幕府の深く尊崇するところとなり、
元和二年(1616)江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し幕府により社殿が造営されました。
江戸時代を通じて江戸総鎮守として歴代の将軍はもとより江戸の庶民たちにも崇敬されました。

明治時代に入り東京・皇城の守護神として准勅祭社・東京府社に定められ、
明治七年(1874)に明治天皇が親しくご参拝になりました。
昭和二十年、東京大空襲が神田・日本橋界隈を直撃しましたが、
社殿はわずかな損傷のみで戦災を耐え抜き戦災で苦しむ人々に勇気と希望を与えました。
                                                             案内説明より

銭形平次 石碑

子分 八五郎

隋神門

四方の睨み彫刻

狛犬

江戸神社本社神輿

この神輿は昭和三十三年五月に鳥越鹿野御輿製作所に於いて、名人鹿野喜平一生一代の作であります。
精巧と華麗さを誇りその大きさは公称台輪四尺三寸、重量千貫で現存日本一の大御輿です。    案内立札書きより

「力石とは」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、
会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、
若者たちが力試しに用いたと記録されていいる。
古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。

境内のある「力石」の由来は詳らかではないが、
江戸・東京の若者たちの生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な史料である。
本力石は、その銘文から文政五年(1822)十二月に、
神田仲町二丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとされる。
                                   案内説明より

力石

湯島聖堂

孔子銅像

入徳門

大成殿

杏壇

美しい枝の楷の樹木(楷書の語源)

龍水の守り 火除け雷除け

湯島聖堂と孔子

「孔子」は2500年ほど前、中国魯の国(今の山東省曲阜市)昌平郷に生まれた人。
その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えました。

儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄三年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建て、
自らも「論語」の講釈を行うなど学問を奨励しました。
平成二年(1990)聖堂は創建300年を迎えています。

 昌平坂学問跡

寛政九年(1797)幕府は学者の敷地を拡げ、建物も改築し、孔子の生まれた地名を取って「昌平坂学問所」を開きました。
学問所は、明治維新に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。
昌平とは孔子が生まれた中国の地名です。

 近代教育発祥の地
明治維新により聖堂は新政府の所管となり明治四年に文部省がおかれたほか、国立博物館(今の東京上野)、
東京師範学校(今の筑波大学)、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)等がおかれ、
聖堂は近代教育発祥の地となったのです。
                                                          案内説明より

総武線 中央線 丸ノ内線の立体交差
 外堀の下には千代田線が通る

聖橋から御茶ノ水駅

電熱線なら何でもの秋葉原の坂口

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街道てくてく


慶喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、
その後小日向第六天町(現文京区小日向付近)に移った。
その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(現在の山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされる。

                       徳川慶喜巣鴨屋敷跡

                       徳川幕府十五代将軍徳川慶喜{天保八年(1837)~大正二年(1913)が
                       この巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(1897)十一月、
                       慶喜六十一歳のことであった。 

                       大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。
                       翌年三月には皇居に参内、明治三十五年には公爵を授けられるなど
                       復権への道を歩んだ。

                       巣鴨邸は、中山道に面して門があり、庭の奥は故郷水戸にちなんだ梅林になっており、
                       町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。





日本橋~お茶の水





御茶ノ水~巣鴨

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聖橋は、東京市により関東大震災の復興橋梁として、
総工費72万4807円で2年8か月の歳月を要して昭和2年7月に完成した。
神田川の美しい景観の中にあってこの橋のデザインには、特に気を使い、
橋長92.47m、幅員22mのモダンなアーチ橋が架けられた。

橋名の由来は、北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所「湯島聖堂」と、
南側にある国指定の重要文化財でビサンチン風の建物「日本ハリスト正教会復活大聖堂」
(通称ニコライ堂)の両聖堂にちなんでいる。

聖橋は、近くの鋼ラーメンの御茶ノ水橋、アーチの昌平橋、万世橋とともに、
「東京著名橋」に選定され、神田川の名所となっている

聖橋

兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨き粉を売り出した。
大評判になり、客が多数集まり祭りのようににぎわった。(御府内備考による)

享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前の守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、
屋根は茅葺きを禁じ瓦で葺くことを許した。
江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それから中山道は板や茅葺きの家が続いた。

その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目立っていた。
『本郷も かねやすまでは 江戸の内』と古川柳にも歌われた由縁であろう。

芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。
時の町奉行は、本郷は仮名で、芝は漢字で、と粋な判決を行った。
それ以来本郷は仮名で「かねやす」を書くようになった。

旧加賀屋敷御守殿門(赤門)

文政10年(1827)加賀藩主前田齊泰にとついだ11代将軍徳川家の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、
重要文化財に指定されています。

東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、一般に「赤門」として周知され、東大を象徴する門として今日まで親しまれている。
正式には「旧加賀屋敷御守殿門」である。
明治36年(1903)医科大学の校舎建設のため、門を本郷通りに向かって15メートルほど移動して、現在地に位置する。

同様な朱塗りの門は、震災や戦災の影響などから他に現存していない。
昭和25年(1950)8月、国の「重要文化財」に指定登録された。

この門は、形式は三間薬医門で、屋根は切妻本瓦葺、左右脇に腰縦羽目板張り(明治以降昭和36年(1961)までは腰海鼠壁)
本瓦葺の「繁塀」(左右各十二尺)と、唐破風造本瓦葺「番所」(左右各桁行三間、梁間二間)がついてある。

番所とは、武家屋敷の警備や見張りなどの役目にあたる番人が詰めた施設である。
江戸城(現在の皇居)にも警備のため各門に設けられた御門番所が残されている。

赤門の屋根瓦の大棟には「三つ葉葵」、軒丸瓦等には「梅鉢」、大棟の鬼瓦には「學」の文様が見られ、
徳川家と前田家、そして東京大学の歴史的な関係性が重層的に垣間見える。

明治10年(1877)に創立された東京大学は130周年を迎えるが、赤門も建立されて180周年である。

加賀前田家 梅鉢紋

赤門 裏唐屋根は朱塗ではない

東京大学構内

懐徳館 庭園

懐徳館庭園は、旧加賀藩前田家が明治43年の明治天皇行幸に合わせて洋館(懐徳館)と和館別館を建てた際に整備された。
造園は、前田家の庭師である二代目伊藤彦右衛門が担当した。
大木巨石を運搬し山を築き、水道の水を引いて山中より滝を落とし、渓流の流末からさらに流水を循環させた。

庭池には、鴨川河鹿数十匹を京都より持参して放し、また2万匹の蛍を庭にはなったなど力を尽くした。
その完成までに総勢1万9千人を要し、経費は当時の金額で6万余円であった。

大正15年、建物と庭園は本学に寄贈されたが、のちの空襲により多くの被害を受けた。
しかし庭園は昭和26年、懐徳館の再建とともに構内及び植物園から移植し、修復された。

現在、カジノキは赤い実をつけてアーチをつくり、ヒマラヤスギやイチョウの巨木も見える。
春の芽吹き、秋の紅葉、冬の落葉と四季折々を楽しみ、また小鳥のさえずりも耳に優しい日本庭園である。

和順山 法真寺

本堂

腰衣観世院菩薩と一葉塚

樋口一葉は(1872~1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
「上杉の隣は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜色々植えわたしたれば、此方の二階より見下ろすに、
雲はたなびく天上界に似て、腰衣の観音さま濡れ仏にておわします。
御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・・・・」

文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音さまである。
此方の二階とは境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。

樋口一葉は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳から9歳)住んだ。
一葉家にとっても最も豊かで安定した時代であった。

一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現西片1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。
その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。
「桜木の宿」は法真寺に向かって左手にあった。

追分一里塚跡

一里塚は江戸時代日本橋を起点として、街道筋に一里((約4㎞)ごとに設けられた塚である。
駄賃の目安、道程の目印、休憩の場所として旅人に多くの便宜を与えてきた。

ここは日光御成り街道(岩槻街道)との分かれ道で、中山道最初の一里塚であった。
18世紀中ごろまで榎が植えられていた。

たびたびの災害と道路の拡張によって昔の面影を留めるものはない。
分かれ道にあたるので追分一里塚とも呼ばれてきた。

ここにある「高崎屋」は江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。

高崎屋 ワイン&リキュール

南縁山 圓乗寺

本尊 聖観世音菩薩

八百屋お七の墓

お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ語られて異説が多い。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。
天和の大火(天和2年12月 1682、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、
菩提寺の圓乗寺に避難した。

その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。
やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛の会いたい一心で付け火をした。
放火の大罪でとらえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。
数えで16歳であったという。

三基の墓石のうち中央は住職が供養のため建てた。
右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。
左側のは近所の有志の人たちが、170回忌の供養で建立したものである。

金龍山 大圓寺

高島秋帆の墓

斎藤緑雨の墓

  秋帆、1798~1866(寛政10~慶応2年)。
長崎の人。
諱は茂敦、通称四郎太夫。 秋帆は号。 幕末の砲術家。

アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に様式砲術の採用を建議し、
1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で様式砲術演習を行った。
翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えにより投獄され、のち追放に処せられた。

ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命じられた。


  斎藤緑雨、1867~1904(慶応3~明治37年)。
三重県の人。名は賢。 別号を正直正太夫。
明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」 「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
かたわら種々の新聞に関係して文筆をふるう。
終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。
森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。
墓碑銘は幸田露伴書
                                         案内説明より

ほうろく地蔵尊

「八百屋お七」にちなむ地蔵尊。
天和2年におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、
火あぶりの刑を受けたお七を供養するために建立されたお地蔵様である。

寺の由来によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙をを頭にかぶり、
自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵さまとされている。
享保四年に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。

その後、このお地蔵さまは、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す、
霊験あらたかなお地蔵さまとして有名になった。
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある圓乗寺はすぐ近くにある。
                                       案内説明より

白山神社

孫文先生座石の碑 白山神社)内

地久山 天栄寺門前市場の碑

駒込土物店跡の碑

江戸三大青物市場跡の碑

駒込土物店跡  文京区指定遺跡 天栄寺周辺

神田及び千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
起源は。元和年間(1615~1624)といわれている。

初めは、近郊の農民が、野菜を担いで江戸に出る途中、天栄寺境内の「さいかちの木」の下で毎朝休むことを例とした。
すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。
土地の人々は、駒込辻のやっちゃ場と呼んで親しんだ。

又、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、
土のついたままの野菜である土物」が取引されたので土物店とも言われた。
正式名は「駒込青物市場」で、昭和4年(1929)からは「駒込青果市場」と改称した。

街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、
道路拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。





巣鴨~板橋

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醫王山 眞性寺
 地蔵菩薩坐像

芭蕉句碑

芭蕉句碑 裏面
芭蕉百年忌に建てられる。

 杉山杉風
萩植て ひとり見習ふ 山路かな    寛政五年癸丑 仲夏
                            棌茶庵梅人社中

何代目?かの継承句碑

芭蕉翁

志ら露も 古保連ぬ萩の う禰里哉

巣鴨地蔵通り商店街入り口 出口?

修復中の本堂

萬頂山 高岩寺 山門

聖観音菩薩立像(身代わり洗い観音)

巣鴨庚申塚 

見ざる言わざる聞かざる
猿田彦大神

庚申塚由来記

全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で文亀二年(1502)造立「、現存していれば区内最古の石碑。
昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の一つ手前の立場として上り、下りの旅人の往来が激しく、
休憩所としてにぎわい簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もした。

広重の絵にも描かれ、江戸名所図絵で見ると、茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいてにぎやかである。
ここに団子などを売る茶店もできて、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、
花の頃は、小林一茶も訪れて、

「ふじだなに 寝てみてもまた お江戸かな」の句がある。

都電 庚申塚駅

延命地蔵

巣鴨庚申塚より西の旧中山道沿いにあり、
街道での横死者や辻斬りの犠牲者や、
街道で倒れた馬の供養のために文政年間
(1818~1830)に建立されたものと伝えられる。

以前はほかの場所にあったが、
都電荒川線が開通したのでこの場所にまとめた。

他には徳本名号塔や題目塔、庚申塚がある。

亀の子束子 西尾商店

いろいろな亀

種苗販売商店 野菜栽培の隆盛期

近藤勇 当初埋葬地

近藤勇 土方歳三 慰霊塔

亀の子束子 いろいろ

近藤勇と新撰組隊士供養塔 (南照山 寿徳寺 東京都北区指定有形文化財)

慶応四年四月二十五日、新選組組長であって近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で
官軍により斬首処刑されました。

本供養塔は没後の明治九年五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた長倉新八が発起人となり
旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ三・六メートルほどある独特の細長い角柱状で、四面のすべてにわたり銘文が見られます。

正面には、「近藤勇宜昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。
なお、近藤勇の諱である昌宜が宜昌とされていることについては明らかになっておりません。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。

裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月二十五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛
石工 牛込馬場町下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在わかりにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。

本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、
学術性も高く貴重な文化財です。

淑徳巣鴨中高等学校

宇喜多秀家(前田家縁者)の墓 

地蔵 庚申塔 石像群

東光寺

創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(1491)入寂した天誉和尚が開山されたといわれています。
当初は、船山(現板橋3-42)辺りにありましたが、延宝七年(1679)、
加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。

移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。
しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため、
現在では往時の姿をうかがうことはできません。

なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。
境内には、昭和五十八年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(1662)の庚申塔と、
平成七年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、
明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の墓などがあります。
                                                     案内説明より

如意山 観明寺

庚申塔

板橋宿本陣跡

文殊院

遊女の墓

板橋  
日本橋より二里二十五町三十三間

現橋本屋酒店は、板橋信濃守の子孫で、
上宿の名主で脇本陣を勤めていた。

石神井川改修により、遺構はない。

橋本屋酒店

縁切榎 

昔の榎は根元から榎と槻(欅)が双生していた。
これを榎欅(エンツキ)と重箱読みをし、エンキリに転化した。

榎のあった場所が「岩の坂」のために、
「縁(榎)尽(槻)る嫌な坂(岩の坂)と語呂合わせをした。
樹の皮を水か酒で飲むと別れられる事ができるといわれている。

嫁入り道中の時にはまこもを巻いたり、別の道に迂回した。
徳川家の高歌の五十宮(いそのみや)・楽宮(さざのみや)の行列はここを避けて通り、
和宮の折には榎をまこもで包み、その下を通って板橋本陣に入った。


*重箱(じゅうばこ)読み 重を音、箱を訓で発音するような読み方で、 訓・音読みは湯桶(ゆとう)読みという

氷川神社

当社は古来蓮沼村の鎮守で、御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。

慶長年間に現さいたま市の氷川神社から、
蓮沼村字前沼に勧請されたのが創建と伝えられています。

蓮沼村は、享保年間に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。
その時に、当社も新井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。

また、当社の別当寺であった南蔵院も、同様に移転したと伝えられています。
明治七年には村社に指定されました。
彼岸前の日曜日に行われる秋祭りの際には、湯花神楽が奉納されています。

南蔵院

志村一里塚

日本橋から3里目の一里塚が道の両側に残っている。
現在3代目の榎が植えられており、国の史跡に指定されている。
一里塚が完全な姿で残るのは稀で、都内では北区西ヶ原のものと2ヶ所のみである。

一里塚跡

一里塚跡

庚申塔と大山道道標

富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山へ通じる道です。
この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。

向かって左の道標(道しるべ)は、寛政四年(1792)に建てられたもので、
正面には「是より大山道 ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。
右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられて物で、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、
練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。

この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語るうえで貴重な存在であり、
昭和五十九年度に板橋区の文化財に登録されました。
                                                      案内説明より

清水坂

日本橋を旅たち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、
時代とともにその呼び名を変えてきました。
この坂は急で、途中大きく曲がっていて、
街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったといわれています。

坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、
そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、
休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。

この辺りは昭和三十年代頃までは旧街道の面影を残していましたが、
地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。

薬師の泉庭園  板橋区指定記念物

「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」の挿絵に描かれた薬師の泉は、
かってこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にありました。

江戸時代、初代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩をした際、大善寺に立ち寄り、
境内に湧き出す清水を誉めて、
寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。

この他にも、江戸時代の文献などには、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多くみられ、
この地が古くから良質の水を産する土地であったことを物語っています。

板橋区では、先の挿絵をもとに庭園整備を行い、
平成元年十二月に「薬師の泉庭園」を開園いたしました。

挿絵は、現在の東屋付近から見下ろした境内の風景を描いています。
画面左上に見える道は、中山道の清水坂です。
泉の水は、中山道を通る旅人の喉も潤していたのでしょう。

教育委員会では、この整備をうけて、同二年度、当庭園を記念物に指定しました。

船渡交差点 埼京線浮間船渡駅へ





板橋~浦和

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浮間公園の八重桜

浮間公園 浮間ヶ原桜草圃場

江戸寄りの船渡し場跡石碑

上方寄りの舟渡し跡石碑

木曾街道 蕨驛 戸田川渡場     英泉画

戸田の渡し

中山道は、木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。
街道として整備されたのは、慶長七年(1602)のことです。

宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところに位置していました。
この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。
これが中山道「戸田の渡し」です。

江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨塾の間にあり、交通の要害でもありました。
この渡しは、資料によると天正年間よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。

渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保十三年(1842)では家数四十六軒、人口二百二十六人でした。
その中には、組頭(渡船場の支配人)一人、船頭八人、小揚人足三十一人がいました。
船の数は、寛保二年(1742)に三艘だったものが、中山道の交通量の増加に伴って、天保十三年には十三艘と増えています。
また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、
戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。

天保三年(1832)には五軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。
これ等の渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六十九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。

やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治八年(1875)五月に木橋の戸田橋がついに完成。
ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。
                                               案内説明より

地蔵堂

戸田市最古の木造建造物。 
堂の軒下には、正徳3年(1713)の銘がある半鐘がかかっている。境内には庚申塔や板碑などがある 

庚申塔

蕨宿本陣

蕨宿は江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。
慶長十一年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣、問屋、名主の三役を兼ねたと伝えられる。
その後、その役は子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。

蕨本陣の建物は今は同家に残る本陣絵図面などによって知る以外にはないが公家大名などが休泊し、
文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折にはご休息の場所となり、
ついで明治元年(1868)同三年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。

現在岡田家には古文書古記録歴史的遺品など我が国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。

蕨宿の町並みは南北に約10町続き、用水を掘りめぐらして、宿の防備や防火に備えた。
本陣は戸田の渡しの川留などに備え、2軒置かれ西側の蕨宿名主を勤める岡田加兵衛の本陣を一の本陣または西の本陣、
東側の塚越村名主を勤める岡田五郎兵衛の本陣を二の本陣または東の本陣及び塚越本陣と呼んでいた。

通行の増加に伴い、一の本陣の南側に脇本陣も設けられた。
宿内は用水堀が囲み、防火機能を果たしていたが、享保10年(1725)の大火により、宿は大きな痛手を受けたこともあった。
しかし、中山道2番目の宿場として発展し繁栄していった。

歴史民俗資料館 分館

分館は、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用したものです。
敷地は。516坪(1705㎡)あり、建物は床面積95坪(313㎡)の木造平屋、寄棟造りで、
中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。


蕨市立民俗資料館 及び資料館分館(まなぶ→歴史・文化財→民俗資料館)
埼玉県蕨市中央5-17-22
Tel: 048-432-2517

入館料: 無料
利用時間: 10.00~16.00
休日: 月曜日(月曜日が休日の場合火曜日も休日) 祝日(4/29 11/3を除く)
     11/29~1/3

進徳脩業  青淵(渋沢栄一)書

大型ラヂオ スピーカーが大?

ドラセナの木

庭園

建築三神 (和楽備神社)

手置帆負命
八意思兼命
彦狭知命

和楽備神社

本陣跡

旧中山道

蕨市立民族資料館

蕨城址

蕨城址 石碑

石の上に亀が休んでいたが
築城時からの亀かはわからない

ニュートンのリンゴの木

成人式発祥の市の記念像

成人式は(成人の日)、今日、国民の祝日として定着していますが、
その起源は蕨町で行った第一回青年祭に由来するといわれています。

「青年式発祥の地像」は市制施行20周年と成人の日制定30周年を記念して、昭和54年1月15日に城址公園に建立されました。

蕨で第一回青年式が開催されたのは、終戦間もない昭和21年11月22日のことでした。
我が国が敗戦によって、世をあげて虚脱の状態にあり、混迷の最中にありました。
この当時何としても次代を担う青年たちには明るい希望を持たせ励ましてやりたいと、
時の蕨町青年団長高橋庄次郎氏が主唱者となり青年祭を企画したのです。

青年祭の中では、会場の蕨第一学校でテントを張り、復員してきた先輩たちを温かく迎えながら、自分たちの祖国を、
この町を平和で住みよい文化の高い町にしようと話し合い、最初のプログラムとして「成年式」が行われました。

今でも一般的な「成人式」とは呼ばず「成年式」と呼んで祝日を祝っています。
                                                       蕨市HP記述より

水盤

城址公園 水堀跡?

金亀山 極楽寺 

鐘楼

三重塔

弁天堂

修行大師像

仏舎利殿

地蔵石仏(子育て地蔵)

地蔵石仏(目疾地蔵)

寺内施設の大藤の棚

牡丹がいろいろ

さつき

宝篋印塔

はね橋

はね橋 (蕨市指定文化財)

飯盛り女や助郷・機織女工などが夜間に逃げださないように、昼ははね橋を仕掛け

夜は主人たちが綱を引いて橋を跳ね上げ鎖で縛り、
綱を持ち帰り、堀を越えることが出来ないようにした装置。

塀の中に堀があり、中央の板がはね橋の板かは?

辻(地区名)の一里塚跡の石碑

神楽殿 干支の絵馬(2008)

うさぎの手水舎

調神社旧本殿 (市指定有形文化財)

調神社は「延喜式」にみられる古社です。
この建物は江戸時代中期の享保十八年(1733)調神社本殿として建立されたものです。
形式は一間者流造りです。
屋根はもとこけら葺きであったと思われます。

規模は小さいが木割りは「匠明」という書物に記されているものと一致し、本格的な設計のもとに建立された本殿といえます。
また、各所にはめ込まれた彫刻も優れており、特にうさぎの彫刻は調神社と月待信仰の関係を知るうえで貴重です。

なを、現社殿が建立された安政年間までこの本殿が調神社本殿として使われていました。

祭神は天照大御神、豊受比売命、素戔嗚尊を祀っている。
調はみつぎ(租庸調)を意味し、ここに調の品物を集荷し、
東山道(旧街道 京、信濃から毛国を経て白河関に至る道でこれから先を道の奥すなわちみちのくと呼ぶ)を通って、
朝廷の送られていたが、宝亀2年(771)武蔵野国が東海道に属すと役目を終え、単に神社として祀られるようになった。

鳥居がないことでも有名で、中世に伊勢神宮の御調(みつぎ)の初穂を納める倉があり、搬入の妨げになる為と言われている。

現本殿は本殿、幣殿、拝殿が連続する複合社殿である。
江戸時代には月神社と呼ばれ、月天使の使い姫であるうさぎが狛犬の代わりに両側に鎮座している。
                                                         説明案内より

調神社本殿

池で遊ぶうさぎ

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湯島聖堂とニコライ聖堂を結ぶ聖橋