長野のいろいろ その1

福寿草の里・・・松本市四賀 
懐古園の桜 布引観音・・・小諸市
懐古園 笠取峠・・・小諸市 立科町
筑摩神社・・・松本市         
法住寺虚空蔵堂・・・上田市丸子           
尖石遺跡・・・茅野市        
横谷渓谷・・・茅野市  参照: 温泉その10→横谷温泉
松本市内めぐり・・・松本市  
浅間温泉界隈・・・松本市  参照: 温泉その18→浅間温泉
牛伏寺・牛伏寺川砂防施設・・・松本市  参照: 温泉その13→崖の湯温泉     
出川・多賀神社・・・松本市










長野のいろいろ その2

長野のいろいろ その3





出川・多賀神社 
idegawa-tagajinjya 松本市出川町9-1

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槻井泉神社の湧水と欅

薄川・湯川の複合扇状地の先端に位置するこの地一帯は、豊富な湧水や湧泉がみられる。
この湧泉もその一つで、古来から人々に親しまれており、「清水」の地名もここに由来する。
江戸時代からこの水を利用して、染色・製紙業が起こった。

ここにある槻井泉神社は、元慶五年(881)に従五位の下を授かった延喜式外の槻井泉神社との伝承があるが、定かではない。
泉のほとりにある老樹はニレ科のケヤキで、目通りで幹囲は四・八メートルである。
ケヤキとしては格別巨木とはいえないが、季節の折々の美しい装いは一体に静寂な佇まいを醸し出している。
                                                     案内説明より

近年に整備された泉で、整備前はもっと薄暗く建物が密集していた。
泉の前には東信製紙(株)の関連会社の中信パルプ(株)があり、一時泉が枯れたとの情報があった。
会社の移転や廃業で広く明るく整備されたのでしょう。
女鳥羽川に事業排水が流れ川が茶色になっていたことを思い出す。
前記の東信製紙(株)の跡地はセイコウエプソン松本事業所となっている。

時計博物館振子時計は日本一

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  多賀神社
御祭神 伊邪那岐大神・伊邪那美大神
合祀神 建御名方大神・菊理媛大神

当社は滋賀県犬上郡多賀町に鎮座の多賀大社(旧官幣大社)より御分霊を勧請し御奉斎申し上げたことによる。
現在の御社殿の創建年代は詳ではないが古い彫刻及び古い民間信仰の宝物などが保存されている。

当社の御祭神は万物の生みの祖神として、生命の祖神、ひいては「延命長寿」の信仰が根強く、
お多賀様と親しまれて松本市民およびその近郊からの参拝祈願者が多い。
御祭神の御神威は産霊の力を永遠に顕現され生成化育を実現せられる祖神様ありますので、
寿命守護・除災開運・交通安全・産業繁栄・家運隆昌・縁結達成など生活を営む上に福徳を授け給う
広大無眼のその御霊徳を称えられ多賀信仰は老いも若きも、その胸の奥にたえざる生命を持ちつゞけているのであります。

                            案内説明より

境内樹木

境内樹木

岩石積 何の神事物かは分らない横の石碑には○○紀念と刻されている
裏面には明治三十七八年十月興 石積石師 上条○○と読める 三十七八年とは? 

社務所 授与所

拝殿

拝殿

舞殿 奉納絵馬

舞殿 神号扁額

舞殿

吽形狛犬 昭和二年八月

阿形狛犬

鳥居 社神扁額

明神両部鳥居

定書

神橋

手水舎

奉納燈籠 文政十一戌子年七月吉日

道祖神石塔

社務所別館

祭館

中央・風の神 左・痘瘡の神を祀る

御神木

御神木

合祀殿 
山神社・秋葉社・蚕王社・神宮寺

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市内の神社・・・・・四柱神社 松本神社 筑摩神社 惣社 多賀神社                     

旧開智学校

松本城

あがたの森公園(旧制松本高等学校)

掘割と湧水

城下町あれこれ


 

天守二階 鉄砲関係の展示品

   松本城の沿革
江戸時代の末には全国に百八十六城の城郭が存在していましたが、明治維新を迎えると、旧物破壊の風潮が起こり、
多くの城が失われました。
松本城もその波に洗われ、御殿はもちろんのこと、城門・城塀や多くの櫓が壊されたり売却されました。

その他にも土塁や石垣も崩され、水堀も次第に埋立てられました。
総面積三十九万平方メートルといわれた広い城郭は、内堀を除いて外堀・総掘はその多くが埋められました。
天守も一旦は二百三十五両余りで売却され、取り壊し寸前になった。

しかし幸いにも市川量造氏等の奔走によって買い戻されました。
その後次第に城郭保存の風潮が高まり、昭和四年三月国宝保存法が施行されてから昭和二十年までに、
全国で二十二城が国宝に指定されました。

松本城は昭和五年に史跡、昭和十一年に天守が国宝に指定されました。
しかし第二次世界大戦で名古屋、大垣、和歌山、岡山、福山、広島の六城は天守を失い、松前城は火災をうけました。
このため現在文化財保護法による国宝や重要文化財の天守は、わずか十二城にすぎません。

国宝としては、松本城、犬山城、彦根城、姫路城,、松江城の五城
重要文化財として、弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の八城
                                                         案内説明より





福寿草の里 matumotosisigatiku-fukujyusonosato

松本市四賀観光協会
長野県松本市会田1001-1
Tel: 0263-63-3115





懐古園の桜 komorojyosi-kaikoen

布引観世音 (牛にひかれて善光寺参り) 小諸観光→見どころ→寺社

むかし、信心のうすい老婆が住んでおりました。
この老婆が千曲川で布を晒しておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。

老婆は驚いて、野を越え、山越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気が付いてみますと善光寺の境内まで来ておりました。
老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、
牛は金堂の辺りで、突然姿を消してしまったのではありませんか。

驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。

日も暮れるころ、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまずいて、
菩提心を起こし一夜を金堂にこもって罪悪を詫び、家に帰ってまいりました。

ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹き付けられているではありませんか。
老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが、断崖絶壁のことでとるすべもありません。

一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。
この布引山の断崖のは今も白く布の形をした岩肌が眺められます。

布引観世音菩薩が、牛に化して信心のうすい老婆を、善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化をしたのだそうです。
この話は、信濃四大伝説の一つとして、今の語り伝えられております。
                                                        小諸市 案内説明より

小諸なる 古城のほとり  歌碑

小諸城址より千曲川

山本勘助が愛用した石らしい

重要文化財 宮殿

この観音堂の岩屋内に安置されており、正嘉二年(1258)に建立。

和風建築のひな形ともいうべきもので、鎌倉時代の様式をよく現した重要な建築物である。
昭和11年9月国宝に指定、現在は重要文化財となっている。

布引山頂?

信濃名族 滋野遠江守光経墓?

仁王門

亀岩?

白山社

藍染明王堂

宮殿から本堂

小諸城 三の門 懐古園銘額

道の駅 マルメロの駅ながと

道の駅駐車場から蓼科山を望む





筑摩神社 tukamajinjya

国宝御本殿とあるが旧国宝

拝殿

鐘楼 松本市重要有形文化財

本殿 国指定重要有形文化財

拝殿 長野県宝有形文化財

明神鳥居

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金峰山法住寺虚空蔵堂
 kinpozanhojyuji-kokuzodo

虚空蔵堂 (国指定重要文化財)

虚空蔵堂は入母屋造りで、桁行(正面)三間、梁行(側面)四間である。
奥行きが長い長方形となっているのは、本尊の安置されている内陣に参詣者の参拝する外陣がつけられているためで、
内陣と外陣の間は格子戸で仕切られている。

屋根はこけら葺きで、棟の両端に鬼面がつけられている。
堂全体は和洋で造られているが、懸魚などに見られるように禅宗様を取り入れているところもある。

この堂には、文明十八年(1486)に再建されたという棟札が残っており、室町時代後期に建立されたものと考えられる。
また、堂内の厨子も同時代に作られたものと推定され、虚空蔵堂とあわせて重要文化財に指定されている。
                                                          上田市教育委員会

参道の人家

山門

堂内の厨子

福一満 架け額

金峰山法住寺 本堂入口

山門の仁王像

仁王像と背中合わせの大黒天と??

スズメバチの空巣

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尖石遺跡 togariisi-iseki

遺跡の名称となった尖石

この石は、高さ1.1メートル、根本の幅1メートルで、先端の尖っているところから、「とがりいしさま」と呼ばれています。
古くから村人の信仰の対象とされたものらしく、いつ頃からか僧らによって石の祠が祀られました。
遺跡の名前もこの石の名前から付けられたものです。

この一帯は、明治二十五年頃桑畑にするために開墾され、その時、見慣れない土器や石器が多量に出土しましたが、
祟りを恐れて捨ててしまったと言われています。
また、この土器や石器は、大昔ここに住んでいた長者の遺したものであろうと、長者屋敷と呼びならわしていました。

そしてこの「とがり石」の下には宝物が隠されているとの言い伝えから、ある時こっそり村人が掘ったところ、
その夜たちどころに、おこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。
この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。

石質は八ヶ岳の噴出岩の安山岩で、地中に埋まっている深さは不明です。
右肩の樋状の凹みは磨り痕から人口のものと思われます。
縄文時代に磨製石斧を製作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代は石を重要な利器としたところから、
地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうとも言われています。
                                                
   尖石石器時代遺跡 (国指定特別史跡)
尖石遺跡は、縄文文化の宝庫と言われる八ヶ岳山麓を代表する大きな遺跡です。
この遺跡は明治時代から学会に報告され、古くから発掘調査が行われて、たくさんの土器・石器などが出土しました。
昭和十五年から全国にさきがけて、縄文時代の集落研究を目的とした発掘調査が始まったところです。

三十三か所の住居址、五十四か所の炉址などが発掘され、なお相当数の住居址が地下に眠っていると考えられています。
この尖石遺跡(約四万二千二百平方メートル)は昭和二十七年三月二十九日、国の特別史跡に指定されました。
                                                   案内説明より

遺跡の野原

遺跡の野原

尖石縄文考古館

特別史跡 尖石石器時代遺跡石碑

33号住居跡

尖石遺跡周辺からは、これまで219軒の住居址が発見されています。
まだ調査をしていない個所も多く、すべてを調査すると300軒を超える住居跡址が埋没しているのではないかと推定されています。

ほとんどが縄文時代中期(4000年〜5000年前)の約1000年の間に作られたものですが、
常に広い遺跡全体を利用していたのではなく、中期の前半には西にあった村が、
後半になると東に移って行ったことがわかっています。

この場所は、昭和二十九年に三笠宮殿下が調査された住居の跡で、33号住居址と命名されています。

与助尾根遺跡 竪穴式住居 (国指定特別史跡)  中央炉と屋根棟木組み

この遺跡は、昭和二十一年から二十七年にかけて調査され、縄文時代中期後半の竪穴住居址二十八か所が発見されました。
更に平成十年に試掘調査を実施したところ、十一軒の未調査の住居跡を確認し、多くの住居跡のある可能性も出てきました。

復元住居は、堀内捨己工学博士が設計した図面を基に、昭和二十四年に復元され、
その後何回も修復と建設を繰り返してきました。
現在ではそれぞれの研究に基づいて各地で様々な形の復元住居が建設されていますが、
ここでは学史を残す意味で従来通りの設計で建設を行いました。

与助尾根遺跡は、平成五年に尖石遺跡の一部として特別史跡の追加されました。
                                                       案内説明より

棟の通気口

児童の歴史遺跡学習

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尖石縄文考古館
長野県茅野市豊平4734-132
Tel: 0266-76-2270

入館料: 大人500円 高校生300円 小人200円
利用時間:9.00〜16.30
休日: 月曜日(休祭日、土曜日を除く)
     祝日の翌日(休祭日、土曜日を除く)
     12/29〜1/3

主要展示品及び収蔵品
国宝 縄文のビーナス 
国宝 仮面の女神 

布引観世音

小諸城址 懐古園
長野県小諸市丁311懐古園
Tel: 0267-22-0296

入園料: 大人 300円  中学生以下 100円
開園時間: 8.30〜17.00
休日: 無休(3月中旬〜11月) 12月〜3月中旬毎週水曜日  12月29〜1月3日





松本市内めぐり matumoto-shinaimeguri





松本神社 matumotojinjya

拝殿

当神社は郷土発展の神、縁結びの神として信仰され、松本城と特別な由緒関係のある神社である。
寛永十三年81636)松平(戸田)丹波守光重が播磨国明石に在城の時、
城内に叔父松平孫六郎(松平康直)の霊を祀り暘谷大神社と称した。
これを享保十一年(1726)丹波守光慈が松本に入封の際、今の松本神社の地に遷し祀った。

寛政九年(1797)丹波守光行は三河国田原に祀った戸田家の遠祖である一色兵部少輔の霊(片宮八幡宮)と
戸田宗光の霊(今宮八幡宮)の両社を松本に移し、暘谷大神社に合祀し、天保二年(1831)戸田光年は
松平康長(戸田康長 戸田松平家祖)並正室コ川松姫(母、於大の方)の霊を合祀して[五社]と称した。
即ち城主戸田家の祖廟を神斎したもので、家臣一同之を氏神とした。

若宮八幡宮は永正十六年(1519)松本城の開祖である島立右近貞永の霊(八幡)を祀り、
祠を城の戊亥の隅に営み、城の鎮護とした。

後大名持命(神田明神)倉稲魄命(稲荷社)を合祀し、大正三年(1914)五社境内へ遷宮した。
昭和二十八年(1953)五社と若宮八幡を合祀し[松本神社]と改称した。
                                                    案内説明より

本殿

手水舎

若宮八幡社

本殿

御神木

暘谷水神

平成二十二年三月、松本神社境内における井戸湧水にともない、ここに水神様を勧請いたし、
社殿造営にあたっては境内に建立されていた享和元年(1801)弥勒院別当観阿奉納の祠(石室)を移転して
台座石上に鎮座奉りました。

なお、当松本神社(旧五社)は、昔から暘(陽)谷様の別称で地域の人々に親しまれてきましたが、
これにちなみ、水神の湧き出るこの地をつかさどる暘谷水神としてお祀りしてあります。

南正門

西門

松本神社前湧水

松本神社境内御神木

伐採することなく拡張された道路





四柱神社 yohasirajinjya

恵比寿神社(境内社)
御祭神 大国主命、事代主命

四柱神社 拝殿

御祭神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、
天照大神(あまてらすおおかみ)

古事記の巻頭に「天地初発の時、高天原に成りませる神の御名は、天之御中主神、次に高皇産霊神、次に神皇産霊神・・・・」
と記されており、わが国の歴史の上で最初に出現された神様です。
造化の三神とも申し上げるこの神々の御力によって、天地万物が生成されたと言われております。

天之御中主神は御名の示します通り、天の中央に坐す主の神として、産巣日神(産霊神)の御はたらきを統一される神様です。
高皇産霊神・神皇産霊神は宇宙創造の根元の神様で、
御神名の「ムスビ」は実を結ぶ、苔がむす等と同様、生産し、果実し、調和させる御力を示します。

天照大神は、この造化の三神の御神意を地上に顕現される神様で、
伊勢の神宮、宮中の賢所に奉斎される最高至上の大祖神様です。

このような大変に高い御神徳の神様をお祀り申し上げる等四柱神社は、
すべての願い事が相叶うという意味から「願い事結びの神」として全国各地より御崇敬をいただいております。

明治天皇御親政に当り、惟神の大道を内外に宣布し給う思召しを以て、
明治七年二月筑摩県庁の所在地である松本に神道中教院(宮村町 長松院跡、後神道事務分局)が設立され、
院内に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の大神が奉斎されてきましたが、
新たに一社を興し、四柱神社として明治十二年十月一日、現在地に厳かに鎮斎され、隣接して神道事務分局も新築されました。

その経費は、中南信全域(旧筑摩県)の神職、県庁、その他諸官衛・一般篤志家の浄財と奔走によりました。
翌十三年六月、当地方に初めて行幸があり新築新装になったばかりの神道事務分局を行在所に定められ、
同月二十四日松本に陛下をお迎えしたのでありました。 

この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治二十一年一月四日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されてきましたが、
大正十三年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建されました。

ちなみに、前述の由縁によって「しんとう」(神道)の呼び名で広く親しまれています。
加えて当神社例祭も“神道祭”と呼ばれ、松本平を代表する盛大な秋祭りとして斎行されています。
                                                             案内説明より                                             

本殿

本殿

松本市招魂殿

御祭神 旧松本市内出身戦没者の英霊

西南の役、日清、日露の戦役において、国家のために殉難された旧松本市内出身者の神霊を、
靖国・護国の神と称え斎き祀るべく大正八年に創建されました。

その後、幾たびかの各戦役戦病死者の神霊の合祀を重ね、大東亜戦争に至るまで国難に際して、
ひたすら国を守るために尊い生命を捧げられた千三百六十三柱の御英霊をお祭り申し上げております。

電気の燈火市内で初めてここにともるの碑

神社前の石橋





惣社 
soza

惣社 拝殿

桓武天皇の延歴年間(782〜805)に信濃の国府が小県郡から筑摩郡に移されると、
天地地祇六所の明神及び信濃国中の主な神々を合せ祀る「信濃総社」がこの地に創建され、
歴代国司(信濃守以下)の奉祭するところとなった国司は赴任に際し、まず総社に参拝し、
着任を報告、任期中の無事平安を祈り、年間の重要な神事はみなこの神社で行われた。

鎌倉時代を迎えて国府が衰退すると、総社の奉祭も衰え祭神にも異説を生じたが、社殿は西面して旧地にあり、
樹齢数百年に及ぶ欅の大樹の間に鎮座している。
総社は国府に近くあるを通例としているので、この社の西方にあって六丁四面乃至八丁四面の国府がおかれたと推定されるが、
発掘調査なく政庁はじめ付属建物の遺物の遺構は確認されていない。


惣社とあるのは総社の転で同儀で、他国の場合「ソウシャ」・「ソウジャ」と発音するが、当社の場合は「ソウザ」という。
現在神社名を伊和神社と称しているが、これは中世折野氏が播磨国姫路の総社の祭神伊和大明神(大国主命)
を移したと云う伝承によりこの社名を生じたものである。

松本城主水野家編纂の「信府統記」には「惣社六社大明神」とあり、その解説に本社は源頼光、末社は渡辺綱、坂田金時、
卜部季武、臼井貞光の頼光四天王に、一人の武者を加えた五社で、その創建は室町時代の永正年間(1504〜1520)で、
山家の郷の地頭折野薩摩守が姫路の総社伊和大明神を勧請したとあるが、この伝承には根拠がないが。
しかし折野氏の本社再興を語るものであろう。

享保年間(1716〜1735)再再興の際の鳥居の額に「正一位惣社岩大明神」とあるのはそのためである。
また、元禄十一年(1698)「岡田組惣社村道法 神社佛閣之覚」には「惣社宮六社大明神」とあり、
惣社の宮と呼ばれていたことがわかる。

社叢の欅の大樹は、県下有数の大樹で昭和十二年に長野県の天然記念物に指定されたが、
昭和二十五年「文化財保護法」の施行による県条例の改正により解除、現在は松本市の「天然記念物」に指定されている。

この欅は天然記念物として重要なばかりでなく、当社創始の古さを語るもので、
信濃惣社の環境を整えるためにも重要な存在である。
                                             案内説明より

幣殿?

本殿

境内の大欅

旧天念記念物のケヤキで、推定年齢千年といわれる。
周囲十メートル、右は周囲八メートルで、神社の古さを物語っている。
なお、左奥に六メートルのケヤキがあり、
他に明治十八年枯れて伐採された拝殿付近の大ケヤキは根回り十三メートルもあったとの記録がある。

一対の常夜灯と狛犬
常夜灯は弘化三年丙午(1846)六月

境内社

鳥居の伊和神社扁額





旧開智学校 kyu-kaitigakko

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旧開智学校 国指定重要文化財

この校舎は明治九年(1876)、松本の大工棟梁立石清重により建設されました。
明治の文明開化を象徴する建物のひとつです。
擬洋風の建物で、洋風と和風の技巧がほどこされており、あちこちに見どころがあります。
それとともに、校舎建築に係わる重要な資料、学校の歴史を物語る教材など多くの貴重な資料も併せて紹介しています。

   重要文化財指定
開智小学校本館は、昭和三十六年三月二十三日付で国の重要文化財に指定されました。
現在この校舎には、明治二十九年頃には玄関部が改築されましたが、
そのほかの部分は、新築された当時の様式をよく保存したままでした。
昭和三十八年に廃校になるまで、実際に教育活動が行われていました。

当初はこの校舎から逆L字型に教室棟がつながっていましたが、
明治二十九年の女鳥羽川洪水の水害による改修と昭和三年の改築により、構造と規模が全面的に変更されたため、
教室棟は文化財指定から除外され、昭和三十八年の旧開智学校廃校の際に取り壊し、撤去されました。

また、女鳥羽川の拡幅工事や周辺環境が文化財の保存上好ましくないなどの理由から、現在地に移築し、
明治九年建築当時の様式に復元されることになりました。

みどころ

   八角塔
明治の学校建築のシンボルです。内部に時報用の鐘がつられています。

   二階建車寄せ・玄関
校舎の最も特徴的な部分です。
龍の彫刻は、日光東照宮の龍をまねて彫られたと言われています。
「開智学校」の表札をもつエンジェルは、当時の東京日々新聞の見出し意匠の影響を受けているのではないかと言われています。
「露台」と呼ばれる部分はバルコニーのように見えますが、人が出て立つことが出来る構造にはなっていません。

   白漆喰仕上げ大壁
柱が外に見えないように壁でおおうものを「大壁」といいます。
四角の灰黒色の漆喰は化粧石を貼ったように、また、下部の漆喰もレンガを積んであるように見えるように塗られています。

   寄棟桟瓦葺きの屋根
一枚の瓦が隣の瓦と重なる瓦を「桟瓦」と言います。
両端に取り付けられている銅版包み多段型棟飾りは、木型を銅版で包んでいます。

   天井
この校舎の天井は和紙を貼り重ねてあります。
見上げると表面一枚分しか見えませんが、質や厚さの異なるわしが五層に貼られています。
層によって糊の塗り方や貼り方を変えるなど、伸縮する紙の性質を考慮し、丈夫な構造になっています。

   古材転用
建築木材には全久院という廃寺の古材が転用されいる部分がたくさんあります。
講堂の間仕切り部分の柱や中央廻り階段の丸柱がそれに当たります。

   ガラス
新築当初、校舎に使われたガラスはすべて舶来品でした。
この校舎には当時のものと考えられるガラスが数箇所残っています。
初期の製法のため気泡が所々に入っていたり、ゆがんでいるのが特徴です。
もし、ガラス越しの景色がゆがんで見えたら、それは百三十年前のガラスと思ってください。

   彫刻
多彩な彫刻も校舎の特徴の一つです。
二階の廊下間仕切り部分の桟唐戸は、校舎に見られる扉彫刻の中で最も古いものです。

   ふしぎなドア
二階の第十一展示室の奥にドアが一つありますが、訳あって「〆切」になっています。
旧開智学校のフシギがつまっているのですが、そのフシギの答えはこのドアの東側にあります。
                                                    案内説明より

現開智小学校

回転階段

アップライトピアノ 大正七年
Nishikawa&Son

オルガン
松本楽器製造所

教室

露台と開智学校のエンジェル

玄関

校舎内から玄関

龍の彫刻

廻り階段

踊り場付階段

校訓 親愛・公正・剛毅の扁額  
東久世道禧銘

明治十三年六月松本御巡幸之図

明治天皇御休息の室

この部屋は、明治十三年六月二十五日、明治天皇御巡幸の際、天皇・皇后の便殿、すなわち休息室として使われました。
竹編された床には金屏風と椅子が用意され、ここでしばらく休息した後、構内に陳列された物産や古器物、
生徒たちの書画などを見られました。
また、生徒たちの体操も予定されていましたが、雨天のため中止されたと『松本郷土訓話集』に記されています。

巡幸後は、明治天皇の肖像銅版が架けられ「玉座室」や「御真影室」という名称で特別な部屋として位置づけられていました。
御巡幸の記念として「明治天皇駐蹕遺址」碑が校舎南側にあります。

この他に開智学校以外の巡幸先であった、国宝松本城二の丸御殿跡、日本銀行松本支店東側、四柱神社境内、
出川の中田家にも記念碑がたてられています。
                                             案内説明より

現六月二十五日と
明治四十年同日の生徒日誌

謄写版と達磨ストーブ

寺子屋天神机

士農工商という身分制度がかたく守られていた江戸時代、武士と庶民の受ける教育ははっきりと区別されていました。
武士は藩が設立した藩校で学び、武士の中でも身分の低い足軽や徒士などは、個人が経営する私塾で勉強しました。
一方、庶民の子供は寺子屋で勉強しました。

江戸時代には全国各地に広く普及し、明治維新後に小学校が発足するとき大きな土台となりました。
江戸時代末期、松本地方には寺子屋、私塾が合わせて六百程あり、全国で最も寺子屋が普及していた地域でした。
明治六年に開智学校が開校した時、全国では稀なほど大勢の生徒がいる小学校として始まったのは、
このような土壌が背景にありました。

明治六年十一月、筑摩県が県下学校の設立を一括して文部省に申請した伺いです。
全国を七つに分けた大学区の内筑摩県は第二大学区、中学区では第十七番から二十番までに属していました。
開校当時33人の教員と、1051人の生徒がいたことが記されています。
当時、全国の小学校の平均が、教員2.03人、生徒91.24人であったことからも大規模の学校であったことがわかります。、

上板の落書きと墨あと

寺子屋百性往来教本

明治八年太政官布告(学制布告文)

開智学校生徒心得二十条

寺子屋之絵図

校章 校歌 校訓

女鳥羽川河岸の開智小学校

旧山辺学校 明治十八年建築 
長野県宝

現山辺学校歴史民族資料館
松本市里山辺2932-2

旧岩科学校 明治十三年建築
重要文化財

現教育資料館(開智学校姉妹校)
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
Tel: 0558-42-1881

旧開明学校 明治十五年建築
重要文化財

現教育博物館(開智学校姉妹校)
愛媛県西予市宇和町卯之町3-110
Tel: 0894-62-4292

開智学校跡の石碑

中央図書館に映る開智学校

開智学校横の大門沢川

旧司祭館

松本城周辺に都市計画街路拡幅事業に関連して松本カトリック教会は、施設の再配置を計画し、
旧司祭館の取り壊しを予定したが、貴重な文化財の保存を決意、平成元年十月旧司祭館を市へ寄贈した。

松本市は、この建物の文化財としての価値を認め、保存のための移転復元事業を進め、
移転先を重要文化財・旧開智学校のある開智公園に定め、平成二年十月解体工事着手、翌平成三年三月復元工事に入り、
同年十月竣工した。

旧司祭館は、明治二十二年松本カトリック教会神父クレマン(フランス人)により、旧藩政時の武家屋敷跡(丸の内九番三十二号)
地に建築された西洋館で、アーリーアメリカン風の建築様式を伝え、
各部屋には暖炉を配し、一・二階ともベランダを備え、外壁に下見板張りを施すなど、随所に西洋館の特徴を表している。

新町名は開智学校に因む

市民プール跡の駐車場 

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旧松本高等学校 (あがたの森公園)

旧制松本高等学校本館 (重要文化財)

旧信州大学文理学部
大正八年に創立開校された旧制松本高等学校の本館と講堂です。
戦後の学制改革により信州大学文理学部の校舎となり、昭和四十八年三月まで使用されていた。

この両建築は、大正期の旧制高等学校の木造洋風建築の作例としては規模も大きく保存状態も良好である。
また、この建物は西洋建築様式を簡略化して木造建築に応用した代表例である。

   本館
木造二階建、屋根瓦葺寄棟造、玄関周囲に切妻破風及びマンサード型破風を付す。
大正九年建築

  講堂
木造平屋建て一部二階建て、屋根銅板亀甲葺、切妻造、屋根の一部に小塔及び』切妻破風付す。
大正十一年建築
                                                    案内説明より

講堂

本館棟とコの字の校舎と中庭

講堂内部
サイトウキネン松本の会場の一つ

講堂ステージ

講堂バックヤード

石門柱

旧制松本高等学校には大正八年開校以来、出入り口の門は五個所ありましたが、
戦後の学制改革により正門を除き解体撤去され講堂北側に野積みされていました。

校舎保存整備委員会の復元したらという意見を基に、ここ中庭の出入り口に設置しました。
往年のものに近い仕上がりになっています。

ヒマラヤスギの並木

並木右側 旧制高等学校記念館

旧校舎、グランドがあがたの森公園として開放されている

昼暗い並木下

現施設  あがたの森文化会館 あがたの森図書館 旧高等学校記念館

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掘割と湧水

片端堀の北門大井戸  堀埋立て後、片端掘湧水跡に掘られた井戸

井戸脇の三夜稲荷大明神と
御嶽講の記念石碑?

明治の花月ホテル 松本写真集より

松本ホテル花月
右横に暗渠から解放される

堀末端の放流入口

浮かんでいるのではない

堀端の割烹「かき船」

井戸から片端掘

水面に近い民家

花月横の流路

またまた暗渠流路

上土町から縄手通りまでの流路

暗渠の解放部

洋菓子店スヰト (スイート?)地下
こ辺りで迷走して縄手通りを横切り女鳥羽川に放流

放流口

萬年山瑞松寺 源池井戸前

山門扁額

湧水  (環境省 平成の名水100選認定  松本城下町湧水群)

源池の井戸

採水中

井戸水 流水路

流水路途中の湧水徳武の井戸

水量が増した流水路

稲荷神社

真綿稲荷大明神 扁額

中町 「蔵の井戸」 

西堀公園の井戸

慈母観世音菩薩立像

大名小路の井戸

東門の井戸

西堀公園の井戸 水質掲示

松本神社の井戸

水質検査書は各湧水井戸に掲示されている





城下町あれこれ

JR松本駅

旧駅舎表札

JR松本駅は、明治三十五年六月十五日篠ノ井線西条〜松本干開通により開業し、
昭和十七年四月一日に改築されて二代目駅舎は昭和二十二年二月四日火災により焼失しました。

戦後の資材不足のなかで、二十三年四月二十八日に再建された駅舎の落成を記念して、
当時南安曇郡豊科町在住の曽山環翠先生の揮毫木彫により制作された表札が駅玄関に掲出されました。

その後、松本市が昭和五十三年やまびこ国体の主会場に選ばれるにあたり、老巧駅舎の改築が駅ビル方式により決定し、
昭和五十二年九月一日旧駅舎が取り壊された時、この表札はその使命を果たし外されました。

このたび、市民の皆様のご要望により駅のシンボルとして掲出されたものです。
                                                       案内説明より

駅前

PARCO 旧生安寺跡?

花いっぱい運動発祥の地記念 
花時計公園

花いっぱい運動
発足五十周年記念植樹(1952発足)

街道追分 牛つなぎの石

永禄十一年(1568)一月十二日、本町と伊勢町との辻角に建つ「牛つなぎ石」に越後の武将上杉謙信公の
義侠心に依る塩を積んだ牛車が塩の道(千国街道)を通りたどり着いたと伝承されております。

当時松本地方は甲州の雄武田信玄公の支配下にあり、この武田方と敵方にあたる今川・北条方は
太平洋岸の南塩の道筋を封じ、甲州・信州の民人を困窮させた。

これを知った謙信公は武田方とは敵対関係にありましたが、日本海岸の北塩を糸魚川経由で松本方面に送りました。
この日を記念して上杉謙信公の義侠心を讃え塩に対する感謝の日として初市の日(塩市)になったと伝えられております。

塩は明治三十八年(1905)国の専売となったため、又当時松本地方は飴の生産日本一を誇っており、
市内の飴屋さんが塩俵にちなんだ飴を作り、爾来飴市の方が通用するに至りました。

昔日は一月十日・十一日の初市に行っておりましたが、近頃はこの日に近い一月の第二の土・日に再されます。
子供は専らダルマを売り将来の商人の原点を学びます。
                                                 案内説明より

同心横丁の石碑

松本城大手門跡の桝形

特急あずさと特急しなの

高尾〜松本間普通電車

松本電鉄島々線車両

縄手通り シンボルかえる

その昔(江戸時代)、「縄手」は松本城の堀と女鳥羽川の清流に挟まれた“縄のように細く長い土手”でした。
明治十二年に四柱神社が建立され、縄手はその参道として発展してきました。

車馬通行止め(今でも歩行者天国)の通りは、祭り事にはずらりと露店が並び、
通りに沿って流れる女鳥羽川の水辺では、「河鹿蛙」が美しい鳴き声をかなでていました。
境内から流れる太鼓の音、アセチレンガス灯の臭い、啖呵売の声、金魚すくいに打ち上げ花火など、
独特の情緒がただよう通りでした。

しかし、いつの頃からか、川が汚れ河鹿蛙は上流に追いやられ、通りも活気を失った時期がありました。
昭和四十七年「かえる大明神」を祀り、もう一度、水清く・活気ある通りにカエようと新たな取り組みが始まり、
以来「かえるの街」として、市民や旅の人々がホッと出来る通りとして現在に至っています。
                                                  案内説明より

かえる大明神

通りのパフォーマンス

女鳥羽川の石垣 石垣〜コンクリート製ブロック〜自然石の石垣へ
護岸整備は松本城石垣を流用したような野面積

縄手通りの弁天食堂

ざるそば

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

松本市内めぐりへ

旧市役所跡に建つ市営住宅
旧市役所に似た外観

旧市役所 大正二年松本写真集より

旧松本駅 松本写真集より

旧松本駅フロントフロアー

歴代城主の家紋 

石川氏 笹竜胆(ささりんどう)  小笠原氏 三階菱(さんがいびし)  戸田氏 はなれ六星  松平氏 丸に三つ葉葵
堀田氏 黒餅竪木瓜(くろもちたてもっこう)  水野氏 丸に花沢潟(まるにはなおもだか)  戸田氏 再封入

石川氏を除くと親藩、譜代大名が城主となり中山道の関東最前線としての位置づけであったのだろうか?
その石川氏の思いはいかがったたのだろうか? 時の選択によっては徳川二百六十余年城主として存続していたのかも。

旧勧業銀行 (登録有形文化財)
ホテル&ブライダル 松本丸の内ホテル

大名町の老舗 鰹節店

ミニ松本城 青翰堂古書店

郷土料理居酒屋 しずか

テレビ信州 (日本テレビ系)

日本銀行松本支店

中町 民芸家具喫茶まるも

栗菓子の竹風堂 (小布施町)

漆喰海鼠壁土蔵

漬物の水城中町店

片端の井戸

井戸斜向かいの店
記憶では青果店があったような

本町から中町通り (善光寺街道)

道しるべ 野麦街道&善光寺街道

松本家具ショウルーム 株式会社中央民芸
松本民芸家具

洋菓子店SWEET 旧店名スヰト

中町 カレーのデリー (インド?)

土壁塗り工程 木舞掻き

荒打ち塗

むら直し 漆喰塗

中町 蔵の会館 蔵シック館

会館中庭

盆提灯 雛人形 五月人形などの専門店が多い  江戸時代町名:生安寺小路 旧高砂通り

本町と駅前通り角の恵比寿像

駅前通り 倉惣茶店
この辺りに松本卸売市場があった

市内唯一の井上百貨店

旧国立蚕業試験所角の道祖神
旧四谷町

天然温泉が特徴のチェーンホテル
ドミーイン松本 梓の湯

女鳥羽川沿いの市立時計博物館

飛騨・長野方面への新道

駅前バスターミナル

国府町交差点

冷やしシャンプー始めましたぁ〜

新道脇の平成の道祖神

旧開智学校跡石碑

旧神明町

神明町の由来 神明宮

田内屋うどん店
松本では田内の屋号は豆腐店で決まり

木工日用品なども展示

古趣なる建物外観 LABORATORIO

内部は現代に改装 カフェ&レストラン

駅前の土産物店は消えた

頑張っている松田屋土産店

大手門の井戸

日の出町の泉井戸 薬祖水

日の出の井戸 薬師堂

伊織の井戸

貞享三年(1686)松本領の安曇、筑摩両郡で起こった農民一揆(貞享騒動)は、
時の領主水野忠直の悪政に対して多田加助ら安曇・筑摩の村役人層が中心になり年貢の軽減を要求し起こされたもので、
多田加助ら八人ははりつけ、その家族など二十名は獄門の極刑に処せられるという悲劇的な結果に終わった。

こうした一揆の推移の中で藩士鈴木伊織は深く農民側に同情し、
入獄中の農民の助命を計り、又その救済に大奔走したと伝えられている。

元禄三年(1690)鈴木伊織の死亡の際「伊織死亡候につき同家へ悔みに参ること不罷成候」と云う高札が出されるほど鈴木伊織は農民に信頼され慕われていた。

鈴木伊織の墓

地蔵清水の井戸

名も無き湧水 旧日の出町

妙勝寺の湧水

手水舎

松本カトリック教会

裏町辺りの土蔵

割烹松本館 営業中?

旧念来寺の鐘楼 妙勝寺境内

旧餌差町 石材店が多い

旧片倉製糸松本製糸所
現片倉工業梶@カフラス

松本製糸所当時の社屋

製糸所跡地のショッピングモール

旧片倉製糸 蚕種普及団跡

旧片倉製糸 蚕業試験所

旧片倉製糸蚕業試験所 現片倉工業生物化学研究所 建物は板壁で蚕業試験所当時のもの

一位の生け垣 樹齢100年以上?

五介の松

明治六年片倉市助は政府の蚕糸立国の方針にこたえて長野県諏訪郡川岸村に座繰製糸を開始しました。
これが片倉工業の芽生えでありました。
明治二十三年片倉市助三男の今井五介(今井家養子)は松本製糸所初代所長として着任し、
この工場を日本一の製糸工場に創り上げ、後に社長として活躍されました。

この松は五介翁がその時松本製糸工場賓館庭に植えたもので、昭和五十五年頃まで工場内にありました。
カタクラモール開店三周年に当り記念樹として移植したものであります。
                                                案内説明より

金峰山大松寺 山門

本堂

大松寺 六地蔵尊

縄手通り喫茶コマツ
歌手美川憲一と縁があったような店

喫茶コマツの七夕人形
着物かけ形式





松本城

松本市内めぐりへ

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松本城 二の丸南西より

二の丸北西より 埋門朱橋

本丸北東より

現在の入口 外堀

本丸入口 高麗門

黒門 桝形 本丸入口&料金所

本丸 野面積み石垣

松本城

天守: 五重六階本瓦葺  城主石川康長  乾小天守: 三重四階本瓦葺  城主同  渡櫓: 二重二階本瓦葺  城主同
辰巳附櫓: 二重二階本瓦葺  城主松平直政  月見櫓: 一重地下一階本瓦葺  城主同

上記五種の建物は天守を中心に北には乾小天守を渡櫓でつなぎ、
東には辰巳附櫓と月見櫓を付属させたいわゆる連結複合式と呼ばれる独特の様式で、
その外壁は各重とも白漆喰の大壁ではかまには黒漆塗りの下見板を張ってある。

月見櫓は天守建築にはめずらしい殿舎つくりで三方に朱塗りの回廊を巡らしている。

国宝指定: 昭和十一年四月二十日(国宝保存法)  昭和二十七年三月二十九日(文化財保護法)

   松本城と城下町
松本城はもと深志城と呼ばれ、中世には信濃国守護職小笠原氏の一支城であった。
そのころすでに今の二の丸東側には市町が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。

本格的な近世城つくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、
豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。
天守を建てたのは二代康長の時で1593〜94年と推定される。

三重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。
この広さはおよそ三十九万平方メートルで、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き、
外郭には城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地とした。

総延長三・五キロの塁上には隙間なく土塀をかけ、前面は完全囲繞の水堀で、
厳重な城門を構える虎口(桝形と馬出し)だけが城内への通路である。

城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。
城下の町筋は格子状のものより鍵の手や丁字型交差が多い。

居住区分は厳格で士と町人の混在は全くなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、
町人地は親町三町、枝町十町、二十四小路にランク付して、身分と職業によって住まわせた。
                                                         案内説明より

乾小天守二階 丸不太柱

乾小天守は天守の北側に位置するに、乾と呼ばれるのは、北は叛く、敗れるなどの意があり、忌み嫌われたからである。
三重四階の櫓は、天守と渡櫓で連結している。
乾小天守は天守と構造が異なり丸太柱が使用されている。

一階・二階の十本と三階・四階の通し柱十二本は丸太柱である。
用材はツガ・モミ・アスヒで、表面仕上げは手斧はつりである。
なお柱間は江戸間(六尺=一間)である。
                                                 案内説明より

天守二階より乾小天守

天守六階より乾小天守

縦格子窓

矢狭間

鉄砲狭間

松本城天守が築造されたのは、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦以前である。
そのため武装強化に意が用いられている。

弓や鉄砲を発射する狭間の数が多いのはその現れである。
小さい方形のものを鉄砲狭間、長方形のものを矢狭間と呼び、内側が広く外側が狭い。
蓋のない初期的構造である。
    矢狭間 60ヶ所  鉄砲狭間 55ヶ所

天守一階 角柱

松本城天守は天守と乾小天守が渡櫓
で連結し(連結式天守)、天守と辰巳附櫓・月見櫓が複合(複合式天守)しているので、連結複合式天守と呼ばれる。

渡櫓二階の床面と乾小天守の床面には高低差がなく平らであるが、天守床面とは大きな段差があって大変接続が悪い。
南に向かって狭い三段の階段」(1m)を下りたところが、天守一階の武者走(入側)で、天守一階の床面はそれより50p高く、
渡櫓一階は入側より1.4m低い不思議な構造である。
                                                  案内説明より

階段 一階〜二階

天守二階

天守一階床

石落

石落

天守三階

懸魚芯材

松本城の千鳥破風と入母屋破風には「かぶら懸魚」を取り付けてある。
この懸魚芯材は、辰巳附け櫓のものです。

材質はヒノキで創建当時のものと推定されています。
芯材の下げ苧(麻)を細かく釘止めしてから、白漆喰を塗り重ねて仕上げています。
上部の「六葉」と「樽の口」は黒漆塗りで仕上げています。

    天守三階
この階は天守二重の屋根裏に設けられていて窓がなく、外からは五重に見え、内部は六階となっている故の階です。
明かりは南側千鳥破風の木連格子からわずかに入るだけです。
そのため当時は「暗闇の重」と呼ばれていました。
外部からはこの階がわからないので有事には「武者溜」に当てる、との説もありますが普通には倉庫であったと思われます。
この階から四階への階段は対角線の位置に二ヶ所あります。
                                                案内説明より

天守二階より埋門朱橋

天守四階

天守四階は、三階までの各階とガラリと室内の趣が異なっている。
柱が少なく天井が高いうえに、四方から外光が入るので明るく広々とした感じをうけます。

柱・鴨居・長押などはすべて鉋仕上げで、鴨居の上には小壁もあり居室風に設えている。
敷居がないので建具は道いられていなかったが、幕や屏風で仕切れば入側と二つに部屋に分かれる。
有事の際、六階と共に城主の御座所に当てられた場所と考えられています。

御簾の東側

城主御座所

階段 四階〜五階

松本城天守の階段は、一階から六階までに七か所設けられています。
その位置がお互いにはなれているばかりではなく、恕の階段の勾配が急で(55〜61度)、
特に四階から五階へと登る階段は蹴上げが約40pあり最も険しい。

五階

破風格子窓

階段 五階〜六階

最上階

最上階より埋門朱橋

東面 美ケ原方面 

南面 市街地方面

西面 北アルプス方面

奉鎮祭二十六夜神 天守最上梁

   守護神二十六夜社勧請の謂れ
天守六階、小屋梁の上に二十六夜社を勧請したのは元和四年(1618)である。
この年の正月、月令二十六夜の月が東の空に昇る頃二十六夜様が天守番の藩士井川八郎三郎の前に美婦となって現れ、
神告があった。

「天守の梁の上に吾を奉祀して毎月二十六日には三石三斗三升三合三勺の餅を搗いて斎き、藩士全部にそれを分ち与えよ、
さすれば御城は安泰に御勝手向きは豊かになるぞ」。

翌朝このことを藩主に言上し、翌二月二十六日に社を勧請し、以来明治維新に至るまでこのお告げを実行してきた。
お陰で松本城天守は多くの危難を乗り越え無事今日に到っている。

辰巳附櫓二階梁組み

天守の辰巳(南東)にあたり、隣接している月見櫓とともに松平直政によって寛永年間に増築されました。
櫓西面の北から二本の柱は天守の柱に添えられていて、付設されたことがわかります。

窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった窓を花頭窓といいます。
禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国におこり我が国へは鎌倉時代に入った。
それがのちに城郭建築にも広がりました。

松本城では乾小天守四階に四か所、辰巳附け櫓二階に二か所設けられています。
窓の内側には、引分けの板戸が付き、下の敷居には水きりの小穴が開けられています。

花頭窓

二階から内堀の白鳥

月見櫓

北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、周りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など、
書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、
平和な時代に作られたことがよくわかる。

この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、
寛永年間に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓をもつのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体になっているのは、松本城だけである。

朱漆塗りの回廊

現在回廊は立ち入り禁止

月見櫓地階 見学出口として使用

石落外観

矢狭間 鉄砲狭間外観

本丸 清正公駒つなぎの桜

熊本城主加藤清正は、江戸からの帰りに松本城に立ち寄った。
城主石川玄蕃守康長は、遠来の客を手厚くもてなした後、騎馬二頭を引出し、
「土産にどちらでもおきに召した方を一頭差し上げましょう」といった。

清正は志のほどを感謝して「貴殿の目利きで取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。
二頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」
といって二頭を頂戴して帰ったという。

これを伝え聞いた人々はさすが清正公と感じ入ったという。
この時駒をつないだのがこの桜の木だと伝えられている。

本丸北門 常時閉鎖

本丸塁の大樹

サイトウキネンフェスティバル松本
記念植樹 小沢征爾

姫路市・松本市姉妹提携記念植樹

戊辰の役出兵記念石碑

埋門より天守方面内堀

本丸北門 内堀外より

若宮八幡宮跡

二の丸裏門橋

右本丸堀と左二の丸堀

高麗門

太鼓門

玄蕃石 

二の丸内側より太鼓門

城の入口を固く守るためには様々な工夫がなされている。
その典型的なものが桝形門で、石垣・土塁を四角に囲って、外と内に門を二重に構えたものです。
松本城には、大手門・太鼓門・黒門の三つの桝形門がありました。

太鼓門は、天守築造後の文禄四年(1595)頃に石川康長によって築造され、
それから二百七十余年後の明治四年十一月、旧物破壊の風潮に中で取り壊されたままになっていました。

その後第二次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門の復興などを経て、
平成十一年三月、百二十八年ぶりに太鼓門桝形が復元されました。

この門の名称の由来となった太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、太鼓や鐘が置かれてさまざまな合図が発信され、
また櫓門の脇には、築造者の官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃石」を控え威風堂々とした桝形門を形造っている。
一般に城の重要な門には、威厳をそえるため巨石を据えることが多かった。
この玄蕃石も同様な意味を持つものです。

石川康長の頃には天守を中心として本丸二の丸(内曲輪)を「御本城」として整備拡充し、
三の丸(外曲輪)には武士を集住させるための武家屋敷は建設途中であり、五ヵ所の城戸(柵門)はいずれも櫓門に変えられたが、
大手門が桝形門に整えられたのは、康長の改易後に入封した小笠原秀政の治世下と考えられている。


   太鼓門礎石   寄贈者 飯森福太郎・秀男  寄贈年月日 昭和四十八年八月十日

江戸時代飯森家は中町の肴問屋で藩の賄い御用を勤めていましたが、
維新廃城の際、その記念として太鼓門の礎石二個を貰い受け、鏡柱の礎石一個だけ自宅に運び、土蔵の前に保存してありました。

昭和四十八年八月邸宅改築の際、搬出が可能になったのを機に、
将来松本城の諸施設復元の資料に資することを願って寄贈されたのであります。

なお、その由緒については、昭和初年の松本記念館主事 新井明八氏、
学務課長 原嘉藤氏の松本市教育長宛の礎石の考証もあり、その由来は確かなものであります。
                                                    案内説明より

太鼓門への石段

太鼓門礎石

太鼓門絵図 

太鼓門桝形構造絵

内堀旧状石垣復元工事

二の丸御殿跡

二の丸御殿は初め藩の副政庁として造営されたが、
享保十二年(1727)本丸御殿焼失後は正政庁となった。

廃藩後、一時筑摩県庁舎として用いられたが明治九年(1876)六月焼失した

二の丸御殿発掘平面復元

松本城保存の功労者 レリーフ

   小林有也
小林有也は大阪(和泉国泉北郡伯太村)の出身で、安政二年(1855)藩の江戸屋敷で生まれた。
初代松本中学校長として来任し二十九年間子弟の教育に尽くした。
その間、荒廃した天守を憂い、明治三十四年(1901)天守閣保存会を起こして修理にあたり(十二年間)
天守を倒壊の危機から救った。

   市川量造
市川量造は信濃国松本の人、弘化元年(1844)北深志町下横田で生まれた。
明治五年(1872)松本城天守が二百三十五両余で競売されたのを憂い、
幾多の困難を克服して天守を買いもどし、その保存に貢献した。

修復まえの傾いた松本城 貞享騒動 多田加助の怨念とも伝えられる

亀の泉

中村眼科の井戸

源池湧水水源井戸

松本市の東方、女鳥羽川と薄川との中間に位置し、両河川の複合扇状地にあたる。
この付近一帯はいたるところに湧水が見られる。
この湧水は水量も豊富できわめて清浄であり、四季を通じて水温の変化も少なく古来より飲用水に利用されてきた。

松本市ではこの地にさく井(深井戸)による湧水を求め、これを水道水の水源(源池水源地)とし、
昭和二十三年十二月より給水を開始して現在に至っている。
                                              案内説明より

源池水源井戸群

松本水道局源池水源地

水源地井戸採水地

水源地公園湧水

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

源池水源井戸群

女鳥羽の泉 酒造蔵の湧水

槻井神社

槻井神社湧水

清水村の道祖神

神木の欅

御嶽山神社講石塔

鯛萬の井戸

東門の井戸

辰巳の井戸

辰巳の御庭

生安寺小路の「種の鶴新」
通信販売もやっている

生安寺小路先の桜肉の三河屋

本棟造の飾り棟「すずめおどし」
信濃中南信に見られる

東京電力松本電力所
犀川水系発電所送電管轄?

中部電力松本営業所

松本市美術館 旧松本警察署跡地

十王堂 閻魔王と地蔵菩薩

十王堂横を流れる女鳥羽川

十王堂 閻魔堂

松本城主石川氏が築城にあたり東西南北の地に城下町の鎮護と各地への里程の基準とするために十王堂を設置した。
堂内には閻魔王を始めとして秦広王・初江王・宋帝王・伍官王・変成王・泰山府君王
平等王・都市王・五道転輪王の十王像がある。
その他、奪衣婆像と懸衣翁像がある。

創建当初山家小路(餌差町)十王堂は現在地より西にあった。
明治四年の廃仏毀釈によって破壊されて廃墟となっていたが、昭和十一年に現在地に再興された。
現存するのは、ここ餌差町の十王堂のみである。

   餌差町
餌差町は城下の東の出入り口にあたり、町の東端には木戸と十王堂が置かれ、町番が木戸を守っていた。
百性や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。
町名の由来はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことによる

石材店が多い餌差町通り

レストラン「ヒカリヤ」
手前ヒカリヤニシ 奥ヒカリヤヒガシ
善光寺街道(東町)にそって両レストランは並んでいるので店の構えは東西ではなく南北となっている。
敷地内のそれぞれの建物の相対的位置が東西に配置されているのだと思う
ニシがフレンチレストラン、ヒガシが日本食レストラン。

味噌・醤油・漬物の藤林屋
味噌造りの麹販売

正行寺本堂

裏町 松本歌舞伎町?旧三業地

ヒカリヤヒガシ

商家 光屋の海鼠壁土蔵造

旧松岡病院  かわかみ建築設計

木曾屋 豆腐味噌田楽が伝統

翁堂和洋菓子本店

東門馬出堀の揚土場(上土町)

東門馬出跡付近

東門総堀跡埋立地

花いっぱい運動発祥の地記念石碑
世界大会も数回開催されている

千歳橋のレリーフ
花いっぱいの石碑は橋の脇にある

千歳橋のガス灯風照明

伊勢町通り

薬の田多井薬局

居酒屋養老乃瀧 食文化会館

居酒屋養老乃瀧本店跡 緑町

松本の南入口博労町(馬喰町)

博労町 茶の堤治(創業文化十二年)

デンオンではなく今はデノン

KATASE洋品店 旧店名カタセ

ヤマダ洋品店 旧店名ヤマダドレス

素早く動き回り頑張って支度中

此方もせっせと頑張って
松本山雅FC

縄手通り SWEET 旧店名スヰト

縄道から転じて縄手となった。
縄は「真っすぐ」の意味を持ち通りの形から町名となった。
三の丸堀(総掘り)と女鳥羽川との間の道で、松並木の続く縄のような道であったと云う。

千歳橋城より橋詰の松本市道路元標

格子窓

北面 筑摩山地方面

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