長野のいろいろ3



大町市 国宝仁科神明宮 源華山盛蓮寺  
中野市 高野辰之記念館
   中野市 中山晋平記念館
青木村 国宝大法寺三重塔   小布施町 岩松院 北斎館 高井鴻山記念館 中島千波館 浄光寺 小布施のいろいろ 
茅野市・諏訪市・下諏訪町 信濃一之宮諏訪大社上社・下社・高島城   参照: 温泉その17→上諏訪温泉しんゆ
諏訪市 片倉館千人風呂  参照: 温泉その10→上諏訪温泉
佐久市 旧中込学校 五稜郭・龍岡城跡 ピンコロ地蔵成田山薬師寺


 


ピンコロ地蔵・真言宗智山派成田山薬師寺

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旧中込学校  国指定重要文化財 (昭和四十四年三月十二日指定)

旧中込学校は、明治八年四月に着工し同年十二月二十五日に総工費六千九十八円五十一銭八厘をもって完成され、
当時は「成知学校」と呼ばれていたが、翌年中込学校と改称された。
設計者は明治二年二月から六年六月までアメリカに学んだ佐久市石神出身の市川代治郎氏で、
建物の内外に欧米風が多く取り入れられ、ギヤマン学校として広くその名を知られ、見学に訪れる人が後を絶たなかったと云う。

現在日本に残っている洋風の学校建築では最古のものであり、昭和四十四年三月十二日、国の「重要文化財」に指定され、
さらに敷地は同年四月十二日国の「史跡」に指定された。
昭和四十六年八月一日から、国・県の補助を得て解体復原工事に着手し、
総工費四千七百三十五万円をもって四十八年六月三十日に完成した。
建物はいったん解体し、組み直したが構造形式の踏襲はもちろん後世の改変部については資料に基づき
可及的当初の形式に復旧整備した。

                          案内説明より

旧中込学校






旧中込学校 
 
長野県佐久市中込1877-1

五稜郭展望台へ
県道120号 1㎞程北上看板あり右折 普通車・軽自動車登坂可 ロングホイール、シャコタン車無理

足元が滑りやすい

不動堂

ぴんころ地蔵尊(延命地蔵尊)

山門左手前にぴんころ地蔵
長蛇の列をなす時も多いと聞く

摩利支天像

手水舎

不動堂内陣

不動堂扁額

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佐久市 
 
旧中込学校 五稜郭・龍岡城跡  ピンコロ地蔵・成田山薬師寺

旧中込学校資料館






龍岡城五稜郭
  
長野県佐久市田口3000

  ぴんころ地蔵尊(長寿地蔵尊)

信州(長野県)佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として知られています。
住みやすい風土と、千曲川の清流、その水を使って育てた佐久の鯉、新鮮な果実・野菜などの食物と、
昔ながらの勤勉さ、信仰の深さが健康長寿の秘訣とされています。
健康で長生きし(ぴんぴん)楽に往生(ころ)を願ってここに長寿地蔵尊として『ぴんころ地蔵』が建立されました。
毎月第二土曜日を縁日とし、健康長寿だけでなく子供たちの健やかな成長、家運隆盛などの功徳が得られるとされています。

                                             案内説明より

山号標

本堂扁額

本堂(薬師堂)





国宝 
仁科神明宮 nisinasinmeigu

成知公園 小海線蒸気機関車C56101
昭和十年~昭和四十八年

小海線気動車(ガソリン)
昭和初期~昭和二十年頃まで

龍岡城五稜郭  国指定史跡

信濃に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、寶永以来百六十年間三河に本拠を持ち、
佐久郡には陣屋を置いて、領内二十二ヶ村の統治を続けてきたが、
十一代松平乗謨になって、幕末激動の情勢に応じて信濃に居館を移すことを計画し、
元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工し、地字名をとって龍岡城と称した。

用地一万余坪は田野口村より、石材・木材などは領内より献納、総費用四万円余であった。
藩主・乗謨は学才識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、
佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、又、賞勲局総裁などを歴任した。

龍岡城築城にあたっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。
そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中に於いてだだ二つの貴重な様式城郭である。
廃藩後の明治五年、城は取り壊しとなったが、さいわい濠と石塁、建物の一部大台所を残している。
そのほか大広間、書院、東通用門、薬医門なども当地に分散残存している。
松平乗謨は田口藩最後の藩主で、明治初年大給恒(おぎゅう ゆずる)と改名した。

                            案内説明より

殆ど小学校敷地

展望台より

大手門跡

堀の幅は狭く土塁の高さも低い

濠の現状と本丸御殿配置図

山門 龍岡城五稜郭東門移築

回向柱

山門扁額

参道中央右側の駐車場
地蔵が安置されて当初は路駐

成田山薬師寺参道 門前市

参道に山門市場門がある

鋭角と鈍角の本丸石垣

拝殿

本殿と釣屋 右端中門(共に国宝)

仁科神明宮は仁科御厨鎮護のために勧請されたのであるが、その創始の年代は明かでない。
現存の社殿は、寛永十三年(1636)、松本藩主松平直政が式年造営を奉仕、藩士池田吉久を奉行とし、
大工金原周防をして造替せしめたものである。

社殿は本殿と中門と、両者を連絡する釣屋とから構成されている。
本殿は、桁行三間、梁間二間の神明造で、破風板がそのまま伸びて千木となり、破風板に鞭懸があり、
妻には棟持柱があるなど、構造手法に古式がうかがわれ、細部は大体室町時代の様式を傳えている。

これは文献の示す上では、少なくとも永和二年(1376)以来二十年目毎に式年造営が行われ、
工人が世襲的に奉仕したためであろう。
寛永の造営後十数回の修補を受け、昭和十四年保存法による解体修理が行われた。

本殿は、神明造の原型式を濃厚に保存している点、建築史上貴重な遺構である。
また、修理を含む年式造営の棟札が保存されているが、明治以前のものが二十七枚もあるとは珍しく、
これら棟札は文書にして重要文化財に指定されている。

昭和十一年九月十八日、旧国宝に指定され、昭和二十五年八月二十九日 文化財保護法の施行により、
重要文化財の指定とみなされていたのを、昭和二十八年三月二十九日、文化財保護法第二十七条第二項の規定により
「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝」として、新たに国宝に指定された。

                                                案内説明より

左奥から本殿 拝殿 神門

拝殿扁額

檜皮葺屋根

破風板と千木と鞭懸り

駐車場 であいの館(資料館)

田口招魂社

台所 ウィキペデア画像より

社務所

社殿

一ノ鳥居

二ノ鳥居と石段前三ノ鳥居

宝物収納庫 大人300円 小人150円

仮宮

神楽殿

手水舎

三本杉

根本が癒着した三本の杉の木「三本杉」のうち、真中の木が昭和五十四年三月三十日
突風により倒伏してしまったので、その根元の部分を元の位置に復元保存しているものです。
(周囲五メートル余、高さ五十メートル余、樹齢推定八百余年)


仁科神明宮
長野県大町市社宮本1159
Tel: 0261-62-9168

二代神木?

孫木

初代神木

仁科神明宮社叢は南に面した山の斜面にあって、南側は道路を隔て田畑に接しているが、他三方は直接山林に接している。
入口に近い部分と社殿周辺に特に老巨木が多く、その大部分は杉と桧であるが、
ほかにアカマツ、クリ、コナラ、ツガ、モミ等の大木も混じっている。

境内に入ってすぐ左に、周囲5m、高さ50mを越える二本のスギの大木があるが、
昭和五十四年の突風により真中の一本を失うまでは、三本杉と呼ばれる美しいものであった。

また、拝殿右横にのこる切り株は、かって「仁科神明宮の大杉」として国の指定を受けていた杉の大木の名残で、
根周り15m、目通り9mを超える巨木であったが、昭和五十五年枯れ死したため伐採し、後に指定解除となった。
このほかにも、周囲2mを超える大木が数多くあり、また、林床木や羊歯などもよく育ち、他に類例を見ない美しい社叢となっている。

                                             案内説明より

境内社

境内社 手前北野社(天満宮)

神内の池

真言宗 源華山盛蓮寺

山門と奥本堂

盛蓮寺は、もと高野山遍照光院の末寺であったが、いまは京都智積院の末寺となっている。
寺伝によれば本寺はかって東方山中の宇堂平にあったが、のち閏田東方山中の宇山寺に移され、
七堂伽藍を備えた大寺として栄え、清滝山盛蓮寺と号していたものを、
さらに鎌倉時代中期に時の領主仁科盛遠によって現在地に移され、以来仁科氏の祈願時であったと云う。

観音堂の建立については、古文書に文明二年(1470)と伝えており、様式手法上もその頃とみてよい。
盛蓮寺観音堂は、桁行三間、梁間三間の寄棟造であるが、極めて短い箱棟を載せているので、宝形造に近い姿となっている。
昭和四十年の解体修理によって建立当時の状態に復元されたが、屋根は保存上茅葺屋根形銅板葺としてある。

軒は一重で繁垂木とし、茅負、哀申を置く。
四周に縁束兼ねた軒支柱立てまわしてでの多い軒を支えている。
側柱は大面取りの角柱で、面取り幅は柱幅の約1/7.5に当り、これは鎌倉時代の面幅に近い。

柱間は、正面中央間を両開き桟唐戸、側面前端間を片引き戸板とするほかは、総て竪羽目板壁とする。
堂内部は円柱を立て、前一間通りを外陣とし、奥二間通りを内陣として、境には中敷居を入れて中央に引違格子戸、
両脇間には片引き板戸を建てる。
内陣には来迎柱を立て来迎壁を設け、須弥壇を付ける組物は内外共に三斗組となっている。
なお、観音堂本尊の如意輪観音坐像は、鎌倉時代の造像とみられるが補修のあとが著しく、
当初の像容が損なわれていることが惜しまれる。


盛蓮寺は仁科神明宮から1.5㎞位の所にある。
神明宮前道路辻には案内板が立っているが、山中腹沿いの道でその後の案内板が無く解りづらいかもしれない。
ただ近くにあるという感を頼りの見当付が必要です。
県道にいったん出てから大町方面に進み盛蓮寺の看板のある交差点を進む方がわかりやすいと思う。

観音堂は板戸や梁などに小穴や大穴が開いていて虫食、鳥害の痕と思われる。
補修の関係で茅葺きから銅板葺に変えられたとあったが、その美しさは変わってはいないと思う。
趣きの点では残念な気もするが、山里のお寺のことを考えると補修費用も大変なことでしょう。

重要文化財指定で補助金も出るのでしょうが、なにせ国のやることですから、あれやこれやの手続きがあり、
補修もままならないのでしょうから。
本当のところは国の方から銅板葺の件は言い出したのではないでしょうか

観音堂に安置されている観音像は他の如意輪観音と同じく坐像ですが、
右足を立て足裏を合せて座るいわゆる輪王坐ではなく左足を立て足裏を合せない坐像で、珍しい姿といわれている。

盛蓮寺には常住の住職が絶え、現在(平成24年)上田市の別所温泉に近い同じく真言宗の 獨股山前山寺の住職に
兼任をお願いしているという。
山塊二つ越えての赴任には年齢は判りませんが、大変なことだと思います。


前山寺参照: 旅行見聞録→温泉と観光→温泉その6→別所温泉

                                             案内説明より

観音堂 左側面より

観音堂正面(重要文化財)





国宝
 大法寺三重塔 daihoji-sanjyunotou

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客殿(大日堂)

あいうえお

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三重塔 背面45度

大法寺三重塔は「見返りの塔」という名で
親しまれている。
この名は、塔があまりにも美しいので
思わずふり返るという意味から
つけられたのであろう。
ではどうしてこのとうはうつくしいのであろうかか、その秘密を探ってみることにしたい。
それがまた、この塔が「国宝」に指定されている理由をあきらかにすることにもなろうと思われるからである。

この塔をよく見ると、初重が特に大きいことに気がつかれるでしょう、初重の大きさがこの塔の最も大きな特色である。
これは、二重、三重で組物を三手先という一番正規な組方としているのに対して初重だけは、少し簡単な二手先にしたので、
その分だけ平面積が大きくなったからである

このようなやり方は、この塔のほかには奈良興福寺三重塔があるだけで、きわめて珍しいことです。
塔の姿が平凡になりがちであるが、こうすると形に変化がつき、
落ち着いた感じが生じてくる真に巧いやりかたと言わなければならない。
このように独特の意匠が用いられているので、かえって、細部ではほとんど特別な考慮がなされていない。

この塔は、墨書によって正慶二年(1333)に造営中であったことがわかっている。
これはちょうど鎌倉時代から南北朝に移る過渡期にあたっている。
この頃には、装飾的な彫刻を各所に付けるのが通例であるが、この塔では初重中央部の簡単な蟇股以外、
細部の彫刻は一切用いてはいない。

しかしそれらに見られる手法は生真面目であるだけに、正規のものであって、地方的なくずれが少しも見られない。
組物内部に書かれてあった墨書によると、天王寺大工四郎某のほか、小番匠七人が来ている。
天王寺とはおそらく今の大阪の四天王寺であろう。
地方的なくずれが全くないのも、このように中央の工匠によって造営が行われたからであろう。

なお、この塔の美しさを論ずるにには、周囲の光風との調和を見落とすことが出来ない。
信州塩田平を見下ろすことのできる丘の中腹に立っているこの塔は、その周囲をゆっくり歩くにつれて、
様々な角度から眺められ、このように平地を見下ろす台地に建てることは、
中世の山地寺院では典型的なやりかたではあるが、建築の美しさも確かのこういう配置の妙によって、倍加されている。

「見返りの塔」 の名のある通り全体の形が上品で美しく、初重の彫刻と内部の装飾は見事で、
わが国三重塔の中で屈指の名作である。

                                            案内説明より      、

正面

扁額

初重の木組み

三重塔説明板

大法寺 観音堂

大法寺は天台宗の寺です、古くは大宝寺とも書かれていた。
至徳三年81387)祐照法印が書き、近世になってから書き写しした「一乗山観院霊宝記」という記録が寺に所蔵されているが、
これに拠ると寺は奈良前期の大宝年間(701~704)藤原鎌足の子の僧、定恵によって創設された。

下って平安初期の大同年間(801~810)坂上田村麻呂の祈願で、
僧義真(初代天台座主であった)によって再興されたとなっている。

   大法寺観音堂
このお堂の本尊は十一面観音菩薩立像で、脇侍の普賢菩薩とともに重要文化財の指定を受けている、
平安時代中期の作である。
桂の一木造りでお丈は171センチメートルで信州の古い仏像の一つである。

お厨子も重要文化財で禅宗様式で作られ、棟の鯱は我が国最古の鯱であり、須弥壇も重要文化財で鎌倉時代の作である。

   重要文化財 木造十一面観音立像
一木造、彫眼である。
観音堂の本尊であり、切り株に蓮弁を陰彫した台座の上に立っている。
像の高さ171㎝、卵形の顔にふっくらしたほほで、古風で優雅な像である。
つくられた年代は資料がないのではっきりしないが、優しい表情に衣文を刻んだ刀法から見れば、藤原中期頃の作とみられる。

信州の古い仏像の一つであり、カツラの木に彫ってある。
カツラの木を使った作像は中央の仏像には数は少ないが、東北から関東に多くみられる。
信濃にも平安、鎌倉に製作された仏像が現在いくつか残っているので、このころはカツラの木が多くあったのであろう。

   重要文化財 木造普賢菩薩立像
一木造、彫眼である。
本尊の十一面観音の脇侍仏で、十一面観音に似た仏像である
像の高さは107㎝、本尊の十一面観音立像と同じくカツラの木に彫ってある。
おそらく同じ時期に造られた仏像で、頭の頂の高いモトドリが目立つ。

   重要文化財 大法寺厨子及び須弥壇
観音堂内に置かれた厨子で、中には本尊の十一面観音を安置している。
造られた年代は明かではなく、塔と同時ではないかとの見方がもあるが、資料がないので何とも言えない。
むしろ、塔創建より下って、室町時代に入ってからの製作とみるのが妥当であろう。

真反りの軒が強くはね上がり、軒裏の詰組に特徴があり、扉は桟唐戸の禅宗様式の厨子である。
また、棟の両端に食いついた木彫りの鯱は珍しい例で、日本最古の鯱である。

厨子を置く須弥壇は、厨子と同時代のもので、高欄の束に蓮の彫模様があり、格狭間の形式など鎌倉時代の様式を伝えている。

                                             案内説明より


観音堂扁額

天台宗 一乗山大法寺 本堂





小布施町 
岩松院 葛飾北斎天井画 

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青木村観光協会
長野県小県郡青木村大字田沢111
Tel: 0268-49-0111

六地蔵菩薩立像

五百羅漢像

曹洞宗 梅洞山岩松院

開創は文明四年(1472)雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、開山は不琢玄珪禅師です。
本堂は136.5坪、その他庫裡、鐘楼、坐禅堂、、仁王門がある。
御本尊は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期(慶長~元和)の作と云われている。

岩松院本堂

本堂拝観料自動販売機

小林一茶と蛙合戦の池

本堂裏 この先に蛙合戦の池があるが工事中につき通行不可で見ることは出来なかった。

寺の桜の花見時になると、裏庭の小さな池に、大人の手のひら大の蟇蛙がいづこともなく集まってくる。
メスが産卵するのをオスが手伝うためだが、メスが少ないために、奪い合いとなって合戦が始まる。
一年の内の約5日間、昼夜の別なく、蛙が入れ代わり立ち代わり、くくみ声をあげての戦いは静かな山寺の春の風情でもある。

俳人・小林一茶(1763~1827)は文化13年4月20日に当地を訪れ、この合戦を見て「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」と詠んだ。
病弱な初児・千太郎への声援の句であるが、その願いもむなしく千太郎は一ヶ月足らずで他界した。
一茶54歳の時であった。
                                           案内説明より

本堂扁額

鐘楼

十一面観音菩薩

山門と仁王像

山門扁額

山門側の蛙合戦池パートⅡ

山門 大黒天(大黒)像

山門 聖観世音菩薩

葛飾北斎(1760~1849)最晩年の作と云われている。(諸説あり)
間口6.3m、奥行5.5mの大画面を12分割し、床に並べて彩絵した後、天井に取り付けられた。

鳳凰図は朱、鉛丹、石黄、岩緑青、花紺青、べろ藍、藍等の顔料を
膠水(にかわ)で溶いた絵具で彩色され、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね
金箔の砂子が蒔かれている。

画面には絵皿の跡など製作時の痕跡が残っている。

本堂天井絵 「八方睨み鳳凰図」

福島正則公霊廟

元亀~天正年間の戦国武将福島正則公は尾張国二つ寺村(愛知県美和町)に生まれ、
加藤清正とともに豊臣秀吉子飼の武将として活躍。

その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、戦功により安芸、備後二国で
49万8千余石を領する大大名となった。

元和五年(1619)、嵐による損壊の広島城の石垣修理が武家諸法度に違反したとして、
信濃国川中島2万石、越後国魚沼郡2万5千石の計4万5千石に減封となった。
この時の城明け渡しは、後世に伝えられるほど見事であった。

高井野村に屋敷を構えた正則は松川の治水事業などに取り組んだが、
寛永元年(1624)七月十三日、六十四才でこの世を去った。
その際幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。

正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号を付けた。
霊廟には遺骨を埋葬し、高さ約2.5mの大五輪塔を建立し、「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」の戒名を台座に刻む。
遺品には、左遷状や太閤葬儀行列長などの文書、観音像、大槍、馬具、日用の什物などがある。


曹洞宗 梅洞山岩松院
長野県上高井郡小布施町雁田
Tel: 026-247-5504

福島正則公肖像画 (岩松院所蔵)

福島正則公五輪塔墓

左 吽形像

阿形像

庫裡





北斎館 葛飾北斎肉筆画の世界

上町祭屋台 北斎館HPより

この祭屋台は、文化二年(1805年)高井鴻山が私財を投じて建造したもので、
二輪の台車付き二階建ての構造は東町祭屋台と同じ様式ですが、全体が少々大きく作られていることと
二階が飾り屋台として仕立てられ、そこに中国の名作『水滸伝』にちなんだ軍師皇孫勝が呪文を唱え
海から応龍を招き自在に操っている場面を彫刻し飾っています。
ちなみに応龍像は、江戸の人形師松五郎の作で、いずれも北斎のデザインと指導による世界で唯一の立体彫刻です。

台車は二輪で、前後左右に引き手や押し棒、梶棒を備え、屋根は唐破風の二階建ての屋台を載せています。
唐破風の屋根は数個に分割され枡形組みも一組ずつ分解できるようになっており、構造は釘一本使用しない組み立て式です。

一階は、笛、太鼓、鉦、三味線などの噺子方が入るところで周囲の窓に御簾を下げ、周囲に疑宝珠付の欄干をめぐらせてあります。
二階天井絵はもちろん北斎筆、「怒涛図」で男浪、女浪の二図に分けて描かれています。

                                             北斎館HP説明より
東町祭屋台 (北斎館HPより)

この祭屋台は、文化三年(1806年)に町中の寄附によって造営されたもので小布施町に保存されている祭屋台で
最も古い様式を残しています。

台車は二輪で、前後左右に引き手や押し棒、梶棒を備え、屋根は唐破風の二階建ての屋台を載せています。
唐破風の屋根は数個に分割され枡形組みも一組ずつ分解できるようになっており、構造は釘一本使用しない組み立て式です。
一階は、笛、太鼓、鉦、三味線などの噺子方が入るところで周囲の窓に御簾を下げ、
周囲に疑宝珠付の欄干をめぐらせてあります。

二階は四本柱の吹き放ちで、舞子が舞うところで手摺付の舞台になっています。
銘文によると彫刻師は善光寺山門の彫刻も手がけた高井(高山村)の名工、亀原和田四郎です。
屋台の建造は、越後国浦原郡角海邑(現新潟県)大工棟梁栄太郎です。

建築彫刻は一階腰羽目、二階欄間、二階妻虹梁、唐破風懸魚、木製素彫りに胡紛下地に極彩色仕上げで
波濤や仙人、唐子を立体的な両面彫り篭彫りで現しています。
天井絵は天保十四年(1843)に屋台を改造したときに高井鴻山が葛飾北斎を小布施に招き「龍図」と「鳳凰図」を描かせたものです。

                                             北斎館HP説明より

北斎館入館口

小布施町は、江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)が晩年に逗留し、画業の集大成をはかった特別な場所です。
北斎は80代半ば、地元の豪商・高井鴻山(1806~1883)の庇護のもとに、
岩松院や東町・上町祭り屋台の天井絵を描き遺しました。

当時の小布施は、繁栄を誇り、北斎をはじめ当時の文人たちを引き付ける魅力のある町でした。
北斎館は、これらの天井絵を置く二基の祭り屋台と、長く大切に受け継がれた肉筆画をもって、昭和51年11月に開館しました。
肉筆画を中心に、版本や錦絵など、北斎の画業を広くご覧いただけます。
                                                   案内説明より

一般財団法人 北斎館
長野県上高井郡小布施町小布施485
Tel:026-247-5206

北斎館説明でもあるように版画ではなく肉質がを中心に展示しているという。
その展示画の多さに80歳を超えた北斎のエネルギッシュな体力には脱帽したい。
また、その晩年の作が長く地元に残ったことは、それにも増して驚嘆する。

美術画の撮影は保存上出来ないので北斎館HPから頂いた資料を載せている。

屋台天井画 鳳凰 北斎館HPより

屋台天井画 龍 北斎館HPより

屋台天井画 女波 北斎館HPより 

屋台天井画 男波 北斎館HPより

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高井鴻山記念館 takaikozan-kinenkan

   高井鴻山(文化3年~明治16年/1806~1883)
高井鴻山は幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学の教え知行合一の精神で
“国利民福”の信条をつらぬいた人である。

15歳から16年間、京都や江戸への遊学で、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修め、自由で幅広い人脈を築いた鴻山は、
父の死により高井家の当主となってからも、学問思想に情熱を傾け、佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や
文人たちとの交流において、鴻山もまた日本の行く末を憂い、巨万の財力を惜しみなく使い幕末の変革に関わったのである。

また江戸の浮世絵師葛飾北斎など多くの文人墨客を招き、小布施を文化の香り高い地に育み、飢餓には窮民を救い、
維新においては教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に専念したのである。

   高井家
高井家は、元和年間(1615~1624)に浅間山麓の市村より移住。
その後、六斎市を背景に北信濃きっての豪農商となり、飯山藩や京都・九条家などの御用達を勤め、
小布施を拠点に、信州はもとより江戸・京阪、北陸、瀬戸内海までも商圏とする大きな商いを展開した。
そして、築いた巨万の財を惜しみなく困窮者の救済に当てた。

鴻山の祖父は、天明の大飢饉に蔵を開き窮民を救ったので、
その功績が幕府に認められ「高井」の名字と帯刀を許されたのである。
このように高井家は、大事業家であると共に、慈善家としての家風も受け継ぎ、庶民のリーダーとして社会に深く関わってきた。
この家風は、鴻山の生き方の根底になっていたといえる。
                                           案内説明より

高井鴻山記念館

この記念館は、高井鴻山の隠居宅翛然楼を主として、現存する邸宅の一部を修復したものである。
高井鴻山は高井家(市村本家)に生まれ、名は健、字を士順、通称三九郎といい鴻山と号した。

鴻山は広く学問を修め、特に漢詩・書画に優れ訪れる文人墨客が相次いだ。
中でも江戸の浮世絵師葛飾北斎を招いて、この地に多くの傑作をとどめさせている。
幕末維新期には、巨万の家産を傾け、国の安泰と郷土の平和をはかり奔走した。
しかし中央からの再三の要請にもかかわらず、自ら政治に参画することを好まなかった。
晩年は教育指導者として名をなした。

もと高井家屋敷は、間口三十間(54m)、奥行き八十間(144m)の広大な敷地に、本宅をはじめ蔵などが軒を連ねていたが、
明治十一年の火災その他の事情で多くを失った。
現存する翛然楼を中心とした簡素なたたずまいは、文人であり経世家としての鴻山をよく語るものである。


   翛然楼
この建物は、鴻山の祖父作左衛門(1753~1826)の時代に建てられたものと云われ、
鴻山はこれを「翛然楼」と名付けて書斎として使用していた。
「翛然」とは「物事にとらわれず思いのままに進退する」という意味がある。
中国明時代の文人、陳文燭の書斎「翛然亭」にあやかって名付けられたものと推察される。

鴻山はここで、書画や読書に専念し、あるいは葛飾北斎をはじめ、訪れてくる文人墨客と語り合い、
また佐久間象山ろ幕末の志士たちと国事を論じたのである。


   碧漪軒
碧漪軒は、天保十三年(1842)江戸からはるばる鴻山のもとを訪れた浮世絵師葛飾北斎のために、建てられたものである。
「碧漪」とは、青いさざ波という意味である。
室内の床の間落とし掛け上部の壁は、貝殻の付着した舟板が用いられている。

北斎はここに滞在して構想を煉り、絵の製作に当たったといわれている。
建てられた当時の場所は明かではないが、「碧漪軒」と書かれた額が残されている。 
                                                         案内説明より

翛然楼

碧漪軒

文庫蔵

鴻山は京都や江戸での修学時代はもとより、小布施に帰ってからも書物の収集に務め、学問の励んだ。
鴻山の収書は、国学・漢学をはじめ、蘭学・歴史・地理・化学・本草学・生理学・天文学・数学など、
学問のあらゆる分野にわたっている。

この庫は鴻山の書斎「翛然楼」に隣接し、文庫蔵として使用されていたものである。
ここには、万巻の書物が満たされていたと伝えられているが、明治十一年の火災やその他の事情で、一部を残して散逸した。


   井戸
小布施は扇状地形のため地下水位置が低く、井戸を掘ることが困難であった。
村内の井戸は数えるほどしかなく、住民は日常川の水をもちいた。

高井家の井戸は特に水量が豊かで「上町の井戸」と呼ばれ、事あるごとに付近の住民に利用された。
ある年、松川の洪水で用水が枯れ、住民が水に困っている時、この井戸水で風呂をたて、鴻山にすすめたところ、
鴻山は「皆が飲み水にも事欠いている時、自分だけ風呂に入ることはできない」と家人をたしなめたという。


   穀物蔵
高井家では、家業の主なものとして酒造りを行っていた。
屋敷内には、酒米のもみを収める穀物蔵が幾棟もあり、これは現存する中の一棟である。

高井家は九条家の御用達として、北信濃の諸藩へ取次金の貸し付けを行っていた。
飯山藩からはその返済として、大量のお蔵もみが納められている。
そのもみをもちいて酒造りを行った高井家は大きな富を得ていた。
                                                 案内説明より

井戸

高井鴻山記念館
長野県上高井郡小布施町大字小布施805-1
Tel:026-247-4049

入館料: 大人300円 高校生150円 以下無料
開館時間: 9.00~17.00
        4月~9月: 9.00~18.00
休日: 12月29日~31日

小布施観光文化協会

薬師堂

現薬師堂は、昭和21・22年の根本大修理の際発見された墨書や「お薬師さん」の胎内銘により、
室町時代初期の応永15年(1408)の建立が明らかとな り、国の重要文化財に指定されています。

茅葺き屋根の入り母屋造りで、天下屈指の最優秀作といわれる蟇股(かえるまた)や巻き込み渦文の多い木鼻、
外陣天井を化粧屋根裏とした手法等にすばらしい技術が見られ、特に板壁に残る極彩色の仏画、
内陣柱上の斗供(ときょう)などは優秀で室町時代初期の代表的な建築 と高い評価をいただいております。

2007年に茅葺屋根の総葺き替え工事を行い見事に修復されました。その翌年薬師堂は2008年で建立満600年を迎えました。


   回向柱
回向柱は本堂や諸堂建立落慶の時などに建て供養(法要)した証にします。
むかし、釈迦が入滅した後、その舎利(遺骨)を納めた塔を建てて供養したのが始まりです。

それが日本に伝わり、三重塔、五重塔、多宝塔の意味となり、五重塔を模して五輪塔が建てられました。
五輪塔を木で代用したのが角塔婆(回向柱)で、それが簡略化された年忌法要などに用いられる板塔婆となりました。

昨年(2007)茅葺屋根葺替え工事が終了したのと今年建立満六百年を記念して回向柱を建てました。
回向柱に書かれている字は、宇宙を構成している五大物質を表し、上から、空・風・火・水・地と薬師如来の種子が
梵字で書かれています。
その他、世の中が平和で参拝する皆様の健康や長寿を祈願した真言が書かれています。

                                             案内説明より

山門 阿形仁王像

仁王像 白く見えますが朱塗り

真言宗 浄瑠璃山浄光寺 山門

屋根葺き替え前の薬師堂

薬師堂 正面 回向柱

 

薬師瑠璃光如来十二神将

通称「お薬師さま」と呼ばれる薬師如来は詳しくは薬師瑠璃光如来と申し、
人々の寿命を延ばすことを本願とする二世(現世と来世)利益の仏様です。

「雁田の お薬師さん」は木造薬師如来坐像(長野県県宝)で、岩座の上に日光・月光両菩薩と十二神将に囲まれており、
胎内銘に応永十六年(1409)とあり、薬師堂 建立の翌年の作であることがわかっています。

心の病を癒し、身体の病を治す効験あらたかな 仏として崇拝を集める「お薬師さん」。
オンコロコロセンダリマ トウギソワカ(お薬師さんのご真言)息災延命、子孫繁栄、家内安全、当病平癒等々、
今日も「お薬師さん」に祈る人があとを絶ちません。

堂内はふだん暗闇ですが、縁側付近に近づくとセンサーライトでご本尊様を照らします。
とても優しいお顔をされておりますのでぜひ薬師如来様とご縁をお結び下さい。
2009年で造立満 600年を迎えました。
                                            案内説明より

参道 杉並木と乱積み石段

真言宗 浄瑠璃山浄光寺
長野県上高井郡小布施町雁田676
Tel: 026-247-3924



小布施町文化観光協会
長野県上高井郡小布施町小布施1497-2
Tel: 026-214-6300





浄光寺 薬師堂 (重要文化財





おぶせミュージアム&中島千波館

おぶせミュージアム&中島千波館は、人と地域と共存する小布施町の文化拠点として、
平成4年10月22日、中島千波の誕生日の翌日に開館しました。

この美術館は「潤いのあるまちづくり」を進める小布施町が、日常生活にやすらぎを与え自己向上のための自発的な行動を、
地域文化として大切にしていくことを一つの目的として設立した。

館内には日本画家の中島千波の作品を常設展示する「中島千波館」
小布施の伝統的文化財祭り屋台を展示する「屋台蔵」
各種展覧会のための「企画展示室」などがあります。

おぶせミュージアム・中島千波館  長野県上高井郡小布施町大字小布施595
Tel: 026-247-6111

入館料: 大人500円  高校生250円  以下無料
開館時間: 9.00~17.00 (10月~3月 9.00~16.00)  休館日: 12月29~31日 

小布施町文化観光協会
長野県上高井郡小布施町小布施1497-2
Tel: 026-214-6300





小布施町のいろいろ

神楽殿

皇大神社 (祭神 天照大御神)

拝殿

本殿

境内社(八坂神社 秋葉神社)

境内社(金刀比羅宮)

金刀比羅宮 宮前の井戸

場所ではなく行動です

訪れたときは休館日

街の美化運動 草花や芝生の手入れ

和歌の小路

和歌の小路沿いにある蓮田

大賀ハス (水生植物 スイレン科ハス属)

小布施にも古くから蓮が栽培されていました。
日当たりのよい池や沼・水田などに根付き、蓮根は食料として供されます。
蓮の花は赤・桃・白・黄色があり、7月~8月頃に開花します。
病害虫、凍害に弱く、株分け、植え替えは毎年3月~4月頃で、沖積土を好みます。

大賀ハスは2000年前の歴史をたどって生きながらえてきました。
古代ロマンの蓮と云われ、地域の皆さんに親しまれ、植栽管理されています。

長野電鉄 小布施駅

小林一茶の句碑
拾れぬ 栗の見事よ 大きさよ

栗菓子 桜井甘精堂本店

栗菓子 竹風堂本店

栗菓子 小布施堂本店

小布施駅栗菓子御三家CM看板

小布施堂 正門

この門は宝暦年間に、豪商ながら近在諸藩より家老待遇をうけた市村作左衛門(高井鴻山の祖父)が、
その格式によって建てたものです。
その後江戸末期には勤王の志士、文人墨客が多数この門をくぐり、天保13年には葛飾北斎がこの門をたたきました。
以後北斎の通算4年間にわたる滞在で、この門の中より数多くの名作が生まれたのです。


北信濃千曲川開運などで栄えた小布施町を訪れた。
山を東に背負い、西を流れる千曲川に下るゆるやかな傾斜地に町はある。
町歩きには自転車を御供にすると効率よく回ることが出来、レンタサイクルも整っていて天気の良い日は快適。

ここのレンタサイクルは傾斜地の事もあって、俗にいうワン・ツウ・スリーの三段変速自転車です。
以前、大仙市の角館駅で借りた自転車と比べると綺麗で整備も段違いによく、角館も見習ってほしいと思った。
それだけ近年観光に力を入れているだろう町の意気込みが感じられる。

町を回ってみて気がついた事は、観光資源が無かったであろうこの町を訪れた人に、
良い印象を持ってお帰り頂きたいとの思いが会話を通して其処彼処に見えた。
このおとずれた葛飾北斎ブーム?に頼り切ることなく、北信濃全域を巻き込んだ観光拠点を目指してほしい。

時間帯にもよると思いますが、観光客を100とすると、北斎館周辺が80%、岩松院が15%、その他5%の印象を受けた。
北斎館周辺駐車場は大型バスが数多く停まっていて、土産店も多く平日にもかかわらず賑わっていたが、
観光バスが町周辺を通行している姿をまったくと言ってよいほど見かけなかった。
つまり、観光バスは時間的制約もあり、短時間で小布施の雰囲気と買い物を積んで去っていくのでしょう。

今回訪れた経験から一部レンタサイクルを使い、休憩も入れると5時間かかったので、無理も無い事でしょうか。
三館共通入場券なるものが1000円で販売されていたが、これらを見るだけで2~2.5時間は間違いなくかかります。
とくに、おぶせミュージアムは北斎館から離れていて、約片道1000歩、時間で13~15分(還暦標準)で、往復となれば・・・・

温泉地目的の立ちより観光地で終わるのはもったいないと思うし、北斎頼みもいずれの日には脱却してほしい。
土地の匂いからきっと何かがあるはずと思った。

酒蔵元 桝一市村酒造場

酒蔵元 桝一市村酒造

鴻山、碧漪軒、白金、桜川
の銘柄酒を醸造販売

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唱歌 ふるさと(故郷) 高野辰之の故郷

高野辰之記念館

かって高野辰之が学び、教鞭を取った永江学校・永田尋常小学校の後身の永田小学校の跡地に高野辰之記念館があります。
敷地内には小川が流れ、辰之の銅像がたたずんでいます。
館内には、辰之が父にあてた書簡や編纂に携わった尋常小学校読本、尋常小学校唱歌などを展示しています。
音楽室に設置しているオルガンは誰でも弾くことが出来、「春の小川」などの楽譜も用意されています。

また周辺には、辰之の生家、菩提寺の天正寺、「朧月夜」の鐘がある真宝寺、斑川、
ふるさと橋などをめぐる遊歩道が整備されています。
辰之が目にした風景を眺めながら、故郷の原風景に触れてみてはいかがでしょう。

唱歌故郷「兎追い しかの山」にある兎追いは、自然豊かな山村の冬期間の子供たちも加わった村総出の行事でした。
作詞した高野辰之が、少年の日に友達との山で遊んだ情景を懐かしんで作ったものです。
高野辰之は明治9年にここ永江の里に生まれ、この里には眼下に斑川が流れ後方をなだらかな山に囲まれた、
棚田や畑が広がるのどかな山麓にあります。

清冽な水が流れる斑川、辰之生家から眺められる太平山等の里山が、「故郷」の舞台です。
今も山里を少し歩くだけで、辰之が生まれ育った頃の風景に出合うことが出来ます。


   国文学者 高野辰之博士
厳しい父のもとで躾けられた辰之は、農業の手伝いをする傍ら、
土蔵に隠れて本をむさぼり読むという向学の志にあふれた少年でした。
高等小学校を卒業後、母校の永田尋常小学校の代用教員を勤め、
その2年後には長野県尋常師範学校(信州大学教育学部)に入学しました。
この頃から、千首あまりの和歌を作っていたと云われます。

26歳のとき、上田万年文学博士(円地文子の父)を頼って上京します。
博士のもとで国語、国文学の研究に没頭し、やがて「文部省国語教科書編集委員」に選ばれて、
国文学者としての地歩を固めていきます。

国が初めて発行した国定音楽教科書「尋常小学唱歌」を編纂する一方で、「春が来た」「紅葉」「朧月夜」などの唱歌、
全国の校歌や中山晋平作曲の「飯山小唄」などを作詞します。
明治後期からは、「日本歌謡史」「江戸文学史」「日本演劇史」を次々と書き上げ、
これらは、高野辰之の三大著作として近代国文学に大きな功績を残しました。

大正14年に東京帝国大学から文学博士の学位を、昭和3年には帝国学士院賞を授与されています。

                                                 案内説明より

資料展示館

高野辰之博士銅像

小鮒釣りし かの川 (斑川)

兎追いし かの山 
(左から大持山、熊坂山、太平山)

朧月夜の鐘 (真宝寺)中央奥

高野辰之生家

今も縁者が居住しています

故郷歌詞石碑 (資料館)

紅葉歌詞石碑 (資料館)

朧月夜歌詞石碑 (故郷遊歩道)

春の小川 (故郷遊歩道)

親鸞聖人御像と庫裡

鐘楼 朧月夜の鐘といわれる

浄土真宗 斑尾山真宝寺 本堂

開基は鎌倉の武士、土屋五郎重行で、宗祖親鸞聖人越後流罪(1207)の折り弟子となり、法名を明慶とたまわる。
聖人が流罪を解かれて関東に赴くに供を勤め、師の命によって、太田の庄赤沼に留まって真浄寺を建立する。
川中島合戦が始まると、武田勢に追われて越後国にうつる。

東西本願寺分派の際、真浄寺十三代住職明勝は大谷派に属し、弟明玄は真浄寺の法宝物を分ちて本願寺派に留まり、
信濃に移って、水内郡落影村にしばらく居住した後、永江村古屋敷地籍に移り、真宝寺を建立した。

元禄年間(1688~1703)二十代善照が現在地に本堂を建立して今日に至っている。
内陣の造作には、すばらしいものがみられ、当時の信仰の深さがしのばれます。


   「朧月夜」の鐘
この梵鐘は、嘉永年間に鋳造された初代の鐘が戦時中供出され、戦後再鋳造された二代目です。
朝な夕な村人の生活の刻を知らせ、親しまれているこの鐘は、
高野辰之博士が大正三年に発表した、「朧月夜」の一節にある「かねの音」とされている。

                                                 案内説明より

曹洞宗 興龍山天正寺
高野辰之生家の菩提寺  辰之の墓は野沢温泉村にある

天正寺鐘楼

六地蔵尊

記念館前バス停留所 
車社会に有っても山里の公共交通手段は重要ですね

高野辰之記念館
長野県中野市大字永江1809
Tel: 0269-38-3070

開館時間: 9.00~17.00  (12月~2月 9.30~16.00)
入館料: 大人 300円  高校生 150円  以下 無料
休館日: 無休 ( 12月29~1月3日)
       12月~3月の祝日以外の月曜日)

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東日本大震災(3.11)にあって、被害に遭われた人々、自己に故なく外部要因により住まいを追われた人々。
思い起こすように高野辰之の詩が日本中を駆け巡り、絶望感に並び立ちその心を支えたことでしょう。

故郷を離れて望郷の思いを直接にも間接にも心にしみるし、目も潤む。
この詩の心髄は三番目の歌詞にあるのではないでしょうか。
この心情は島崎藤村のヤシの実にもあり、作曲者も調子をも変えてでもその意味を強調したかったことでしょう。

志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと





劇中歌 カチューシャの唄 中山晋平の故郷

中山晋平記念館
長野県中野市大字新野76
Tel: 0269-22-7050

開館時間: 9.00~17.00 
(12月~2月 9.30~16.00)
入館料: 大人 300円  高校生 150円 
休館日: 無休 (12月29日~1月3日)
       ( 12月~3月の祝日以外の月曜日)

背くらべ歌碑


  中山晋平
中山晋平は、明治二十年三月二十二日、長野県下高井郡新野村(現中野市大字新野)に生まれました。
新野は、なだらかな丘陵地に広がる集落で、北に高社山、西には北信五岳と呼ばれる山々が連なり、
夕暮れ時、夕日に照らされて、周囲の山々のシルエットが眺められます。

中山晋平は、このおおらかな自然の懐で伸び伸びと少年時代を過ごしました。
小学生時代から秋祭りの笛の名手として音楽の才能を開花させていきました。
口ずさむと懐かしく、ほのぼのと心温まる中山メロディの源流には、生まれ育ったこの故郷の情景が有るのです。

高等小学校卒業後、一時代用教員として小学校に勤めた晋平ですが、音楽の夢をかなえるために上京しました。
早田大学教授であり、新劇界で注目されていた島村抱月のもとに書生として住み込むと同時に、
東京音楽学校(現東京芸術大学)に通い始めました。
晋平が初めて世間の脚光を浴びるのは、大正三年のことです。

島村抱月が女優松井須磨子らと旗揚げした芸術座の第三回公演、トルストイ原作の「復活」の劇中歌として
「カチューシャの唄」を作曲したことからでした。
歌は大ヒットし、その後作られた「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」とヒットを重ね、流行作家としての道を歩むようになります。

「船頭小唄」「波浮の港」などの歌謡曲、「証城寺の狸囃子」「シャボン玉」「背くらべ」などの童謡から新民謡、校歌など、
晋平が生涯を通して作曲した作品は、およそ三千曲になり、そのメロディは今もなお色あせることなく、人々に歌い継がれています。

歌うことに馴染みがなかった庶民に歌うことの素晴らしさを教え、元気づけたのは中山晋平なのです。
日本の伝統的な旋律とリズムが織りなす作風は、広く大衆に愛されたことから、“日本のフォスター”とも呼ばれています。

中山晋平記念館は、生誕百年を記念して生家の隣に昭和六十二年七月に建てられました。
正面ゲートにはカリヨンが配され、晋平メロディを奏でています。
館内には、晋平の偉業を伝える資料のほか、年譜や生前愛用した遺品などを展示しています。

第一展示室では、島村抱月、野口雨情、北原白秋、西条八十、相馬御風らゆかりの人々との交流を紹介しています。
また、晋平が愛用したオルガンやピアノの伴奏で唄うこともできるようになっています。
ふと口ずさめば、幼かった頃が鮮やかによみがえる童謡の数々がそこにはあります。
晋平メロディには世代を超えて共感できる思い出があります。
第二展示室ではリスニングコーナーを設置して、晋平メロディの数々をテレビ映像と共に楽しめるようになっています。

中山晋平の作品には、上記の作品のほか「肩たたき、兎のダンス、雨降りお月、あの町この町、てるてる坊主、砂山、
東京音頭、東京行進曲、毬と殿さま、鉾をおさめて、紅屋の娘、銀座の柳、出船の港」など多くの作品が知られています。

                                          案内説明より

中山晋平生誕の地記念碑

松井須磨子カチューシャ像

証城寺の狸囃子の像

唱歌シャボン玉の像

中山晋平記念館

中山晋平銅像

中山晋平生家 現在も中山氏が住む





信濃一之宮諏訪大社下社・上社 高島城

上社本宮(鷲峯山法華寺)  上社前宮  上社木落し坂  下社春宮(万治の石仏)  下社秋宮  下社木落し坂  

下諏訪宿(本陣 脇本陣 橋本政屋 魁塚 慈雲寺 来迎寺)  歌人島木赤彦   高島城(上諏訪間欠泉)  





上社本宮
(鷲峯山法華寺)

法華寺は、諏訪大社上社のすぐそばに佇んでいます。
立ち寄られる方は少ないものの、実は「赤穂浪士」の事件や「本能寺の変」にもかかわる舞台となった場所。
諏訪大社上社に参拝の折には、ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

元禄十五(1702)年十二月十四日、赤穂浪士大石内蔵助らの吉良邸襲撃によって打たれた吉良上野介義央の養子、
左兵衛義周は、高島藩に流罪となり、南之丸で三年を過したが、病弱のため二十二歳で亡くなりました。
諏訪市中洲の法華寺が遺骸を引き取り墓を建てたものです。
平安時代建立の法華寺は、諏訪大社上社の神宮寺に準ずる地位にあり、織田信長も武田氏征服の途次に滞在、
多くの貴重な文化財があったが、平成十一年に焼失、現在は新しい本堂が建てられています。

鷲峰山(しゅうぶせん)法華寺は、元々、天台宗の寺であったが、鎌倉時代に領主・蓮仏入道盛重が中興し、
建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたといい、諏訪大社上社神宮寺であった法華寺は、
往時は七堂伽藍が揃った規模の大きな寺院であったといわれる。
甲斐武田氏追討のために高遠城を落した織田信長の嫡男・信忠の率いる軍勢は、天正十年(1582年)三月三日諏訪に入り、
武田氏が崇拝していた諏訪大社上社本宮を焼き討ちにし、上社本宮の社殿等は全て灰燼と帰してしまうが、
その際、隣接する法華寺は類焼を免れている。

三月十一日、織田の軍勢に追いつめられた武田勝頼・信勝父子が田野の地で自害し、甲斐武田氏が滅亡すると、
十九日に信長自らが上諏訪に入り、しばらくの間、この法華寺に本陣を置いた。
盟友であり、武田氏討伐戦に加わっていた家康公は、信長と会見すべく、この法華寺を訪れている。
法華寺には信長の諸将が集結し、信長はここで論功行賞を行ない、
武田氏滅亡後の知行割をして甲斐・信濃両国などの支配を定め、家康公には信長より駿河一国が与えられている。

なお、一説では、この時、信長の家臣である明智光秀は信長の怒りに触れ、居並ぶ諸将の面前で、
欄干に頭を押し付けられて殴られるという辱めを受けたといわれる。
この後、信長は 四月二日に諏訪を発ち、翌日、甲府入りしているが、十日には甲府を出発、家康公の歓待を受けながら、
居城である安土城へと東海道を帰っていった(四月二十二日安土着)。
しかし、それから 二ヶ月も経たない 六月二日未明、信長は京都本能寺において光秀にあっけなく殺されてしまう(本能寺の変)。
ここ法華寺での信長の光秀に対する処遇がその原因の 一つであったともいわれている。

また、法華寺には、忠臣蔵・赤穂義士の討入で有名な吉良上野介義央の外孫で、
のちに養嗣子になった義周の墓がある。
義周は討入の翌年、元禄十六年(1703) 二月に、赤穂の浪人が討入った折に防戦につとめながらも、
その働きが武士らしくなかったとして幕府より咎めを受け、領地を召し上げられ、
江戸時代、流刑の地となっていた諏訪の地へ流されることになった。
諏訪高島藩にお預けの身となった義周は、高島城南の丸におかれたが、
三年後の宝永 三年(1706) 一月二十日に病気のために死去、幕府の検死後、
断絶した吉良家に義周の遺骸を引き取る者はおらず、幕府より死体取り捨ての沙汰を受け、
この法華寺に土葬されたとのことである。

                                     ホームタウンすわ 法華寺説明文より


  吉良義周公に捧ぐ  
義周公は未だ赦されず、一人寂しくここに眠る。
公は上杉綱憲(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、五歳にして上野介の嗣子として吉良家の人となった。

名門(足利家)の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。
元禄赤穂事件である。
世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先で次々に肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。
公よ、あなたは元禄赤穂事件の最大の被害者であった。

しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主諏訪忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、
また当法華寺十一世春厳和尚の温かいご配慮に、我ら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
公よ、安らかに眠りたまえ。

                               法華寺 愛知県幡豆郡吉良町告知板より
 

吉良義周の墓

法華寺参道横の神社

吉良義周墓標 
宝永三丙戌天 法名室燈院殿岱岳徹宗大居士 神儀正月廿日

吉良左兵衛義周墓所の案内

山門

本堂

本尊 釈迦如来
脇侍 普賢菩薩 文殊大聖(菩薩前姿)

修理中 四脚門と弊拝殿

修理中の拝殿

参拝所

重塀付薬医門

諏訪大社上社本宮鳥居

銅製狛犬と御神灯

銅製狛犬と手水舎

勅願殿

宝物殿

参集殿

授与所

本宮一之御柱

神明湯手水所

社務所

交通安全祈願殿


  信濃國一之宮 諏訪大社 上社本宮
我国最古の神社の一つであり、信濃國の国造りをなされたのち、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになり、
信濃國一之宮として皇室武門および一般の信仰が厚く、全国一万有余の諏訪神社の総本社です。

幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪造りという独持の様式。
徳川家康が造営寄進したと言う四脚門など貴重な建造物が数多く残っております。六棟は国の重要文化財に指定。
JR中央線上諏訪駅から東南へ六キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座しております。

諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、
本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。
中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。
また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されておりま す。

境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。
本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。
軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、
諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっております。

本宮の昔の建物は極彩色が施されておりましたが、天正十年(1582)に織田信長の兵火のため、
山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しました。
この時まず仮殿が作られ順次再建され社殿は元和三年(1617)に完成しました。
その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改が計画され、立川和四郎二代目富昌が上社棟梁と共に事に当り、
天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物と言われえております。
尚旧殿の拝殿は嘉永二年(1849)に郡内の富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、
桃山時代の代表的建造物として重要文化財に指定 されております。

本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、
国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。
神楽殿は文政十年(1827)の建立で、色々な神楽が連日行なわれていたようですが、
残念なことにその神楽は現在絶えております。
中にある大太鼓は江戸時代のもので、唯今では大晦日のみ打つことにしております。



 御柱(本宮一之御柱)
長さ五丈五尺(約17m)、直径1.2m(目通り)の樅の木である。
御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である。
上社綱置場(御柱置場)より二十数キロの行程を数千人の氏子の奉仕により曳行されるので、裏側は擦り減っている。
茅葺の御宝殿と共に寅歳と申歳の七年目毎に建て替えられる御神木で、神域の四隅に建立される。
御柱は天下の奇祭として有名であり、次回の御柱大祭は平成二十八年丙申歳に行われる。


  勅願殿
勅願とは天皇の祈祷という意味である。
当社の場合この建物は御祈祷を行う場所である。

建立は元禄三年(1690)といわれ、建物の配置は諏訪大神の御神霊が宿る守屋山(御神体山)に向かい建てられ、
古図には祈祷所と記されている。
弊拝殿が大社の恒例祭典や重要神事を斎行して、国家安泰並公事の祈願を執行する場所であるのに対して、
勅願殿は個人私事の祈祷を行う場所である。


  高島神社
御祭神 諏訪頼忠公  大祝中興の祖・諏訪藩祖
      諏訪頼水公  大祝高島藩初代藩主
      諏訪忠恒公  高島藩二代藩主
例祭日 九月二十三日
(本来の例祭日は九月二十三日ですが、最近は八月十二日に神裔の御参列のもと例祭を執行している)
諏訪氏は当大社の御祭神・諏訪大神の子孫で、上社最高の祀職大祝となり、さらに藩主として政治を行った。
この祭政治一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。
御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている。


  雷電為右衛門
江戸幕末に信州小県郡大石村(現東御市)が生んだ名力士で、
茅野市出身の彫刻家、故矢崎虎夫氏の文部大臣賞受賞作品。
モデルは横綱柏戸と佐田の山及び富士錦である。
勝負に強い御神徳を仰ぎ、当大社に奉納された。

                                    諏訪大社HP及び案内説明より

高島神社

境内神前相撲所

雷電為右衛門の像

境内摂社 早水社

絵馬堂

東門廻廊と境内社(大国主社)

東参道手水舎

東御門神橋

東参道鳥居

東参道御門

本宮二之御柱と大欅

勅使殿

五間廊

神馬舎(駒形屋)

神馬舎 絵馬神額

神楽殿


  諏訪大社上社本宮幣殿等六棟(国指定重要文化財)
この建築は天保六年(1835)に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人。
江戸幕府から内匠の称号を許された名匠、二代立川和四郎富昌の作である。
拝殿と幣殿をつづけ本殿を設けない諏訪社様式で、安定もよく彫刻も美しく冨昌の代表作であり、
また、左片拝殿に見る蟇股から脱化した粟穂に鶉の彫刻は写生に徹した冨昌の至芸である。


  東参道神門(入口御門)
文政十二年(1829)建立。
上社宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八が構築し、巧緻な彫刻が施されている。


  額堂(絵馬堂)
全国の崇敬者から寄進された絵馬や額を納めており、別名「絵馬堂」とも呼ばれている。
その昔人々は願い事をする際に神が乗るための馬を奉納し祈りを捧げていた。
やがて時代とともに形式が変わり、現在のように馬の絵を描いた木札を奉納するようになった。


  メド梃子
この「メド梃子」は、平成二十二年庚寅歳に執り行われました。
諏訪大社上社式年造営御柱大祭の「本宮一之御柱」に使用されたものです。

御柱の面から長さ5m、直径25㎝余で、材質は楢の木を使用しています。
取付角度は、八十度、左右のメド梃子にそれぞれ七人の若者が乗り、
先端に付けられた「命綱」によってバランスをとりながら曳行します。

乗り手を務める若者は、足掛けロープにつま先を懸け、片手で手掛けのロープに命を託し、
一方の手には「おんべ」を振りかざし祭りの音頭をとります。
「命綱」についた若者は、曳行中左右に振りながら、また障害物などが有ればそれを避けるためにどちらかに振り、
舵取りの役目をします。
油断のできない重要な役割を担っています。

当地区(湖南中洲御柱)は、四月の「山出し」、五月の「里曳き」とも同サイズのメド梃子を使用していますが、地区によっては、場所によって十二人乗り位の長いものを使用するところもあります。 


   出早社(境内摂社)
御祭神 出早雄命  例祭日 十月十五日
祭神は諏訪大神の御子神であり、地元の人々からはお諏訪様の門番神として崇められている。
また、古くからイボ石神としてして敬われ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習が残されている。 


  天流水舎
俗にお天水と称される。
どんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ、諏訪の七不思議のひとつにかぞえられている。
旱天の祈りにはこのお水を青竹に頂いて持ち帰り雨乞いの祭りをすると必ず雨が降ると云い伝えられている。


  神馬舎(駒形屋)
古くより諏訪大社の神馬の館で、明治以降は背に御幣を立てた銅製の神馬と木製の神馬が安置されている。
明治二十七年七月の大暴風雨により近くの大欅が倒れて神馬舎は倒壊してしまったのに、
神馬は前方二十メートルほど飛んで微塵も被害を受けなかった。
時恰も日清戦争の勃発したころであり、人々は諏訪明神が神馬に乗って戦場に向かわれたのであると云って
驚き懼れたと伝えられる。


  大欅と上社本宮二之御柱
大欅は樹齢約千年といわれる。
古くは贄・御狩りの獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ、境内最古の樹木の一つである。


  五間廊
現在の建物は安永二年(1773)の建造であり、廊下様式切妻造りである。
古記録には神長官・祢宜太夫・権祝・擬祝・副祝の五官着座のことが見えている。


  勅使殿
現在の勅使殿は元禄三年(1690)の創建であり、安政年間(1854~1860)に大修理をくわえてある。
切妻流れ正面大唐破風造りである。
中央の記録では、神門戸屋・帝屋とも書かれており、建武二年(1335)大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり、
社殿に布を敷いて其の上に五穀を供え、そこに大祝が着座したことが見えている。
また勅使参向の折には弊帛の授受が行われた所である。

元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。
当時の勅使殿は今の神楽殿の前あたりにあり、拝殿も性格をもっていた。


  諏訪大社上社本宮社叢(約11.5ha)
この社叢は落葉樹からなる自然林として多種多様の樹木と多くの美しい植物群落を同一箇所で見られる珍しいもので、
亡びつつある中部地方天然落葉樹林の林相の保存されている貴重な樹叢である。
クリ・カエデ類・フジキなど木本百六十余種、ヤマブキソウ・レンプクソウ・ミヤマイラクサなど、草木四百二十余種が生育している。

                                             案内説明より 

神楽殿大太鼓二基

諏訪大社上社本宮社叢社叢

メド梃子

天流水社





諏訪大社上社前宮

鎌倉道

諏訪大社上社前宮鳥居

鳥居と石造狛犬

手水舎

十間廊

内御玉殿

若御子社

神紋 榖の木(カジノキ)

境内巨樹

拝殿

本殿

水眼(スイガ)の清流

前宮一之御柱

前宮二之御柱

御神木

蓼科の山々


  前宮御柱
前宮一之御柱は長さ五丈五尺(約17m)、直径1.2m(目通り)の樅の木である。
御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である。
上社綱置場(御柱置場)より二十数キロの行程を数千人の氏子の奉仕により曳行されるので裏側は擦り減っている。
茅葺の御宝殿と共に寅西と申歳の七年目毎に建て替えられる御神木で神域の四隅に建立される。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり、次回の御柱大祭は平成二十八丙申歳に行われる。


  上社前宮本殿
前宮とは上社本宮に対し、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。
前宮の祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と、その妃八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)と古くから信じられ、
ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる。
古来より立ち入ることが固く禁じられ侵すときは神罰があると云われた。
四方には千数百年の歴史を有する御柱が七年毎に建てられ、
現在の拝殿は昭和七年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである。


  内御玉殿
諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。
「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように、諸神事にあたってこの内御玉殿のとびらをひらかせ、
弥栄の鈴をもち、真澄の鏡をかけ、馬具をたずさえて現れる大祝は、まさに御神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。

現在の社殿は昭和七年改築されたものであるが、
以前の社殿は天正十三年(1585)に造営された上社関係では最古の建造物であった。


  若御子社
諏訪明神と崇められる建御名方命の御子達を合祀しているといわれる。
諏訪大社関係には、きわめてすぐれた古記録、文書が多いが、その中で最も名高い文書に「諏訪大明神絵詞」がある。
室町時代に現されたこの文書の中に、正月一日、大祝以下の神官氏人はみな衣服をただして、
まずこの若宮すなわち若御子社を荒玉社と共に参詣したとある。
現在は諏訪神社の摂社となっている。


  十間廊
古くは「神原廊」と呼ばれ、中世まで諏訪の祭り政治の行われた政庁の場で、
すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。
毎年四月十五日の「酉の祭」には鹿の頭七十五が供えられたが、
これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿が入っていることから、諏訪の七不思議の一つにかぞえられた。
上段に大祝の座、つぎに家老、奉行、五官の座があり、下座に御頭郷役人などの座も定められ、
左手の「嵩神子屋」で演ぜられる舞を見ながら宴をはった。


  名水「水眼」の清流
古くから“すいが”と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔から御神水として大切にされた。
中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事を務めるのに用いたと記録されている。
この水眼の源流は、是より約一キロメートルほど登った山中にあるが、昭和五年に著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、
はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第二巻に取り上げられている。


  小町屋の中小路
小町屋集落は、前宮を中心として大まかに三本の道筋が通っている。
その真ん中を上がっていく道を中小路と呼んで、戦前までは一般の々人の前宮本殿への参詣道路であった。
中世の古文書資料などから想定されるところでは、この中小路の両側には、水眼の清流をはさんで、
前宮神殿に居館を構えた現人神の上社大祝に直属する家臣たちの屋敷地が建ち並んでいたと思われる。
また、精進潔斎し、穢れをとって前宮の神事や祭礼に奉仕する人たちの精進小屋なども設けられたところで、
景観は大事に保存したい。

                                          案内説明より

小町屋の中小路

前回の上社本宮四の御柱

御柱固定用杭

坂下より御柱メド梃子

前回の前宮四の御柱

坂下の川

坂上より


  上社本宮四の御柱 
七年(数え年)に一度の天下の大祭、諏訪大社御柱祭、四月に行われる「山出し」の最大の見せ場であり、
また、難所でもある「木落とし坂の地」です。
坂の長さ約36m、最大斜度は27度とまさに断崖です。
めどでこに大勢の若者を乗せて、木遣り一声、一気に急坂を下りると沸き起こる拍手と歓声。
木落としは男たちの度胸の見せ所です。
この御柱は前回、平成十六年の大祭に本宮四の御柱で曳行された御神木です。
次回平成二十八年の御柱まで設置しておきます。なお、危険ですので柵の中に入ったり御柱には乗らないでください。
怪我などをされても一切責任は負えません。


   上社前宮四の御柱
この御柱は前回、平成十六年の大祭に本宮四の御柱で曳行された御神木です。
次回平成二十八年の御柱まで設置しておきます。
この大木を地に着けて曳くので下になった方が擦り減って平らな面が作られています。





上社木落し坂





諏訪大社 下社春宮

下社春宮一の鳥居

下馬橋 下社では一番古い建築物

ニノ鳥居

御神灯

手水舎

拝殿


  諏訪大社下社春宮
弊拝殿・左右片拝殿 (国指定重要文化財)
諏訪大社は建御名方富命と八坂刀売命を祀り、上社は建御名方富命(彦神)を、
下社は八坂刀売命(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座される。

下社の中心となる建築は、正面中央にあり、拝殿と門を兼ねた形式の弊拝殿、その左右にある廻廊形式の片拝殿、
それらの背後にある東西宝殿からなる。
東西の宝殿は茅葺、切妻、平入りの簡素で古風な形式をもち、申・寅の七年毎に新築する式年替制度がとられている。
上記のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、またその弊拝殿と左右片拝殿に似た形式は、
長野県内の諏訪神をまつるいくつかの神社でも用いられている。

現在の春宮の弊拝殿は安永八年(1779)に完成したと考えられている。
大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁伊藤義左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(1747~1800)であった。
弊拝殿は間口の柱間が一間、奥行きが二間で、背後に壁面に扉口を設ける。
二階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造、平入りの銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつける。
左右の片拝殿は梁行の柱間が一間、桁行が五間で、屋根は片流れの銅板葺である。

弊拝殿の建築様式の特徴は各所につけられた建築彫刻の数の多さと、その躍動感にあふれた表現である。
正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹・唐獅子、唐破風内部の飛龍、一階内部の小壁の牡丹・唐獅子、扉脇の竹・鶏で
名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。

                                             案内説明より

拝殿唐破風の彫刻

春宮一之御柱

神楽殿

青銅製狛犬

奉納御神灯列

弊拝殿・片拝殿

末社・上諏訪社(祭神建御名方命)

摂社・若宮社

末社・子安社

春宮正面側の玉垣 


  神楽殿
御神前に御神楽を奉納するための建物で、落成は江戸時代前期天和年間(1681~1684)頃のものである。

 
   筒粥殿
下社特殊神事の一つである筒粥神事の神粥炊き上げが行われる建物で、
毎年一月十四日の夜から十五日早朝にかけて神職が囲炉裏を囲み一晩中葦筒を米と小豆の粥に入れて炊き込み、
葦筒四十四本の内四十三本は作物の豊凶を、残りの一本は世の中を占う。
土間中央の囲炉裏は江戸時代初期のものである。


  若宮社(境内摂社)
お諏訪様(建御名方富命)の御子神十三柱をお祀りしている。
十三の祭神は、建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)・伊豆早雄命(いずはやをのみこと)
妻科比買命(つましなひめのみこと)・池生神(いけのおおかみ)・須波若彦神(すわわかひこのかみ)
片倉辺命(かたくらべのみこと)・蓼科神(たてしなのかみ)・八杵命(やきねのみこと)・内県神(うちあがたのかみ)
外県神(そとあがたのかみ)・大県神(おおあがたのかみ)・意岐萩命(おぎはぎのみこと)・妻岐萩命(つまぎはぎのみこと) 


  子安社(境内末社)
御祭神 嵩志沼河姫命(こしのぬなかはひめのみこと)
お諏訪様の御母神である嵩志沼河姫命をお祀りする昔からのお産の守り神として親しまれ、
底の抜けた柄杓は水が通りやすいようにお産も楽にと願いを込めて奉納されたものである。 

                                             案内説明より

神紋 梶の花

川中島の浮神社

境内唯一の寺風建築

筒粥殿

願懸け中です

最後のひとまわり

万治の石仏


  万治の石仏
石には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光・心誉慶春」
また、胸には幾つかの謎の文様が彫られている。
向かって右から太陽、雷、雲、磐座(いわぐら)、月などで、これは大宇宙の全てを表し、右端には逆卍が刻まれている。
これは大日如来を教主とする密教の曼荼羅で、阿弥陀如来と大日如来を一体の石仏に共存させた「同体異仏」を信仰する
密教集団の弾誉上人を祖とする浄土宗の一派である。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば現世でこの身このまま成仏できると説き、民衆に即身成仏による仏としての自覚を与えた。
これは今までに例のない念仏思想で「仏頭授受」を伝えるものといわれている。
石仏は浄土宗の弥陀定印を結び、願主は浄土宗に帰依した人の法名で、兄弟かまたは師弟のつながりを持っていて、
その二人がこの石仏を造立したのではないかと推定されている。


  万治の石仏と伝説(南無阿弥陀仏 万治三年(1660)十一月一日  願主 明誉浄光・心誉廣春
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ、
傷口から血が流れ出したので、石工たちは恐れをなし仕事を止めてしまった(ノミの痕は現在も残っている)。

その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い材料があると告げられ果たしてそこに良材を見つけることができ、
鳥居は完成したと云うのである。
石工たちは、この石(万治の石仏原石)に阿弥陀如来を祀って記念とした。
尚、この地籍はこの石仏に因んで古くから下諏訪町字石仏となっている。


   万治の石仏のお参りの仕方
一 正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
二 石仏のまわりを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
三 正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する

                                           案内説明より

万治の石仏記念石碑

碑文 万治の石仏  揮毫 岡本太郎

万治三年敬虔な心の石工たちに刻まれてから
村人たちに阿弥陀様と親しみ崇められてきたが
近年画家の岡本太郎先生にその特異な石仏としての存在が評価され
世の注目を浴びるようになった。

石碑の裏には「峡の田に座して石仏のどかなり」 正人
の句が刻まれている。





諏訪大社 下社秋宮

神楽殿

弊拝殿

拝殿唐破風彫刻

拝殿唐破風彫刻

下社秋宮一之御柱

御神橋と鳥居

手水舎

手水舎蟇股鳩の彫刻

手水舎唐破風龍の彫刻

根入りの松

狛犬台座の刻文 一対で忠と孝

狛犬 青銅製としては日本一大きい

授与所

御柱曳跡痕

奉納 御神灯籠

参集殿

斎館

宝物殿


  信濃国一之宮 諏訪大社(秋宮) 御祭神 建御名方神 八坂刀売神
わが国最古の神社の一つであり、信濃国一之宮として朝廷や幕府の信仰が厚く、全国一万余の諏訪神社の総本社である。
御祭神は信濃国の国造りをなされ日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになられた。


   諏訪大社 下社秋宮弊拝殿 (重要文化財)
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。
二重楼門造りと呼ばれ二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。
この弊拝殿は諏訪高島藩の命により安永六年(1777)に起工、安永十年に落成した。

工匠は諏訪出身の初代立川和四郎冨棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻は中沢五兵衛につき、
いくつかの名建築を残した。
軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素朴の生地を生かして清楚である。
彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。


  神楽殿 (重要文化財)
御神前に神楽を奉納するための建物で天保六年(1835)に完成させた。
上社本宮弊拝殿を手掛けた立川和四郎二代目冨昌棟梁の五十四歳の作で、
父の建てた華麗な弊拝殿の前に荘重なものをつくってよく調和させ弊拝殿を引き立たせるところが賞賛されている。

彼は技をすべて父にうけ、天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、
幕府から内匠の称号を許されたほどの名匠である。
三方切妻造りと呼ばれる様式で、弊拝殿のような彫刻を見ることは出来ない。
正面の大注連縄はは御柱祭ごとに新しく奉製され、重量は約1トンである。


  御柱
御柱は寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建て替えられる御神木で、社殿の四隅に建立されています。
この秋宮一之御柱は長さ17m余、直径1m余の樅の樹で、霧ケ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、
数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり、次回は平成二十八丙申年に行われます。


  根入りの松
この杉の木は樹齢凡そ600~700年で、丑三つ時(夜中の二時ごろ)になると枝先を下げて寝入り、いびきが聞こえると云う。
子供にこの杉の木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まると云われている。


  狛犬復元
昭和五年十一月神恩報謝の為、丁丑(ひのとうし)同年会により奉納された狛犬は、昭和十九年九月、
二次世界大戦における物資不足に伴う金属回収の国策に従い供出した。
大戦後復元を試みるも巨額の資金を要するために実現の具体化はままならなかった。

しかし、神を敬する一念に終始された方々、特に黒部川第四発電所ダムやこの地を源流とする天竜川佐久間ダムの
関係者の尽力によりその問題が解決し、原作者である鋳物師清水氏に製作を依頼するに至った。

今日、鋳造完成により従来の威容を仰ぎ見ることができるようになった。
時に、皇太子殿下(今上陛下)御成婚・皇孫誕生の嘉年にあたり、国民の慶祝のなかその復元をみたのは意義深いものであり、
奉献者の御篤志に対して謝意を表わすとともに、祖国に本の繁栄を祈りそれをここに誌し、後世の民に伝えたい。
昭和三十五年十月吉日    (原文要約です)

                                                                                           案内説明より

長生橋

社務所参拝者控所

秋宮恵比寿社

恵比寿社 社殿

秋宮八幡社

八幡社 社殿

稲荷社

若宮社

皇大神宮社

手前から

鹿島社
佐々木巌流大社の境内に
宮本神社が祀られているような

子安社

賀茂上・下社

八坂社

境内社

千尋社

千尋社 社殿

御神湯(温泉)

神紋 梶の葉

さざれ石

霞ヶ城(手塚城)跡


  諏訪大社下社秋宮 恵比寿社
秋宮恵比寿社は諏訪大神の御父神・出雲大国主神と御兄・事代主大神をお祀り申し上げております。
この二柱の大神は農業・漁業の開祭、商工業の発展に誠にあらたかな神様であり,
又家繁栄の守護神として世に福の神大黒様・恵比寿様とその御神徳を称へ申し上げて
殊に諏訪大神と非常に御縁故の深い神様でありますので、
御本社出雲大社及び美保神社からはるばる御分霊をお受けいたしまして昭和二十三年十一月二十日御鎮座祭をいたし、
諏訪大社下社秋宮の末社として奉斎致しております。


  子安社  御祭神 高志沼河姫命
高志沼河姫命は諏訪大神(建御名方命)の御生母の神で、御本社は新潟県糸魚川の奴奈川神社である。
古来縁結び・安産・子育ての守護神として諏訪大神を補佐され、お子安様とも称され親しまれている。
底を抜いた柄杓は安産の祈願やお礼参りに奉納されたもので、水がつかえず軽く抜けるが如くに楽なお産ができるように
との願いが託されている。


  若宮社(境内摂社)
お諏訪様(建御名方富命)の御子神十三柱をお祀りしている。
十三の祭神は、建御名方彦神別命(たけみなかたひこがみわけのみこと)・伊豆早雄命(いずはやをのみこと)
妻科比買命(つましなひめのみこと)・池生神(いけのおおかみ)・須波若彦神(すわわかひこのかみ)
片倉辺命(かたくらべのみこと)・蓼科神(たてしなのかみ)・八杵命(やきねのみこと)・内県神(うちあがたのかみ)
外県神(そとあがたのかみ)・大県神(おおあがたのかみ)・意岐萩命(おぎはぎのみこと)・妻岐萩命(つまぎはぎのみこと) 


   さざれ石
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
国歌・君が代は日本国民の永久の幸せを祈る歌である。
平安時代前期に発見されたさざれ石は、石灰が雨水に溶解され粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)となり、
何千年何万年もの間に小粒な石を凝結して次第に大きな巌となり、苔生してくる石のことである。


  霞ヶ城跡(手塚城跡)
諏訪大社下社秋宮に隣接するこの地は手塚別当金刺光盛の居城跡です。
城主光盛は、源平合戦のおり木曽義仲に従い、寿永二年(1183)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な越中倶利伽羅峠の合戦に
源氏方で参戦した。
つづく加賀篠原の戦いでは、敗走する平家群の中にあって、
ただ一騎踏みとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及んだ。
この古式に則つた見事な一騎打ちは、武士道の鑑とされ、能「実盛」の題材となって今に伝えられている。

光盛について、平家物語によれば

光盛  かく申すは、信濃国諏訪郡霞ヶ城主手塚別当金刺光盛なり
実盛  仔細あって名のらじ、唯、木曽殿に首を取って見参されよ
光盛  あなやさし いかなる人に渡らせ給へば、みかたの御勢は、皆落ち行き候に、ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚え候
     名乗らせ給え
実盛  存ずる皆あれば、名乗ることはあるまじいぞ
     組もう、手塚


激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人である斉藤別当実盛であり、
義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られている。

斎藤別当実盛の像(聖天境内)

斉藤実盛館跡(熊谷市)

斎藤実盛開基の妻沼聖天山歓喜院





諏訪大社下社木落し坂

木落し坂 模擬御柱

坂上から

坂下から(望遠)

木落し神社


  諏訪大社下社 御柱木落し坂
諏訪大社の御柱祭は、七年目毎申・寅年に行います。
規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類なく、天下の大祭として知られています。
樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から引き出す「山出し祭」が御柱年の四月、
町内を曳行し建立する「里引き祭」を五月に行います。

曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場「木落し」です。
男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100m余り・傾斜角度45度近い崖の様なこの木落し坂頂上から、
一気に引き落とします。
落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱と共に転がり落ちます。

一帯を埋め尽くす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大歓声が沸き上がり、その豪壮さは筆舌に尽くせません。
「男見るなら七年に一度 諏訪の木落し坂落し」と唄われてきました。
この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱八本を三日にわたって行います。 


  木落社  御祭神 大山祇神(おほやまつみのかみ 山の神)
寅年と申年の七年毎に行われる式年造営御柱大祭は諏訪大社最大の神事であり、
中でも四月に行われる下社山出しではこの急坂で御柱を曳き下しその壮観さは言語に絶っします。
山出しの直前に御社殿を新築し祭事の安全を祈願しています。

                                          案内説明より 

木落し坂記念石碑

木落し坂の松 樹齢約200年





下諏訪宿

下諏訪宿本陣跡

下諏訪宿本陣 薬医門と木札

現在の玄関

本陣庭園

本陣庭園

明治天皇行幸行在所(仮御所)の間

重厚な土蔵

和宮様宿泊御用道具

脇床 天袋・地袋と置き違い棚

本陣滞在木札

米沢中将 泊
加賀宰相 旅宿
彦根少将 宿
仙臺中将 寓(休憩か宿泊予定)?
越前前中将室 休
尾張大納言 宿

この木札は当事者(当事藩)が用意するので書き方は色々有るらしい

明治天皇からの岩波家御下賜品

武田信玄書状と云われている

信州河中島の合戦の働きに依り云々
武田大膳大夫晴信入道信玄

曽根下野守昌清
永禄四年丙年十二月三日

永禄四年と言えば、
鞭聲粛々夜河を過る 
暁に見る千兵の大牙を擁するを 
遺恨十年一剣を磨き 
流星光底長蛇を逸す
の時のことである

聴泉閣かめや旅館

和宮宿御宿 上段の間

控の間 (庭園の間)

上段の間庭園 本陣と一体の庭園

杉板襖絵

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諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

脇本陣跡 御宿まるや

本陣と真向の位置にある


  中山道下諏訪宿本陣遺構
江戸時代中山道の大きな宿場として、また唯一の温泉場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半が
そのままここに残っている。
維新前は公卿や大名たちの急舶所になり、文久元年(1861)十一月には関東へ御降嫁の和宮様の御泊り所になり、
明治十三年六月二十四日明治天皇御巡幸のときには御小休所になった。


   姫街道(中山道)の由来
京都方と江戸方との政略結婚のため、代々将軍家あるいは水戸德川家に縁をもち、輿入れに向かう際中山道を通った。
江戸へは東海道を通るのが近道(東海道五十三次、中山道六十九次)であり、平坦で通りやすかったが、
途中の駿河国に薩埵峠(=去った)、縁切り坂(縁が切れる)があるのを忌み嫌ったものと伝えられている。
中山道にも縁切榎と云うところもあるが、容易く迂回又は隠すことができた。

その外、軍事上の問題から橋のなかった大井川で雨のため増水し、足止めに会うと予定通り進まず、
江戸にての婚儀の日取りに間に合わなければ大変なことになることから、中山道を通ることが多かった。
姫君輿入れは元和六年(1620)二代将軍秀忠の姫(五女)和子(東福門院)を後水尾天皇の中宮として入内したころから始まり、
幕末まで続いた。
江戸德川家歴代将軍に輿入れの際下諏訪宿を利用した姫君は以下の通り。

四代徳川家綱・・・・・顕子姫(伏見宮矢部卿貞清親王の娘
五代德川綱吉・・・・・信子姫(鷹司教平卿の娘)
八代德川吉宗・・・・・理子姫(伏見宮兵部卿貞政親王の娘)
九代徳川家重・・・・・比宮(伏見宮一品中務卿邦永親王の娘)
十代徳川家治・・・・・五十宮(閑院宮一品弾直仁親王の娘)
十一代徳川家斉・・・寔子姫(近衛経熙の養女) 島津出身
十三代徳川家定・・・有子姫(鷹司政煕の養女) 津軽出身
             寿明姫(一条忠良卿の娘
十四代徳川家茂・・・和宮(仁孝天皇の娘)


  皇女和宮と御降嫁について
和宮(親子姫)は弘化三年(1846)、仁孝天皇を父に、橋本経子を母に、第八皇女として生まれる。
兄は孝明天皇である。
喜永四年(1851)七月、有栖川宮熾仁親王と婚約が整う。
和宮六歳、有栖川宮十七歳であった。
安政七年(1860)二月、十五歳になる和宮が有栖川宮家へ輿入れすることになったところへ、
万延元年(1860年3月改元)、突然幕府から「将軍の妻として御降嫁願いたい」という強引な願書が届けられた。
当時の幕府は、日本国主権の所在があいまいになってきて、窮地に陥っていた。
「政治に関するあらゆる権限は幕府に委任されている」と解釈してきた幕府だが、
ペリー来航以来、アメリカをはじめ外国諸列強と開国条約を結ぶとこれが問題になった。

「外交権は依然として天皇にある。幕府の行為は越権である」という世論が次第に大きな波となってきた。
唱えた者たちは志士と称し、京都御所を背景に過激な論を唱え始めていった。
やむを得ず幕府は朝廷に懇願して許可を得るように努力した、勅許である。
「条約締結を行った幕府は日本国の主権であるはずにもかかわらず、天皇の許可を求めると言うことは外交権は天皇にあるのか」
と、国論が真っ二つに割れた状況を幕府は整合することができなかった。
そこで考え出されたのが『公武合体策』であった。

和宮は「天下大平のため誠にいやいやの事、余儀なくお受け申し上げ候」と。
『惜しまじな 国と民との ためならば 身は武蔵野の 露と果つとも』
こうして文久元年(1861)十月二十日、桂御所を発ち中山道をたどり江戸城へ向かった。
十一月五日、下諏訪宿に入り、本陣に宿泊した。
琵琶湖を離れ美濃路に差しかかったときの一首に、
『落ちてゆく 身と知りながら 紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ』と残した。

よくねんの二月十一日、婚儀の式は無事に終えた。
夫となる德川家茂は和宮と同じ十七歳であった。
はじめて家茂に会った和宮は、おもわず心が変化するのを感じる。
「夫となる人を憎しみとおす」と京都で固めた決意がもろくも崩れかけ、夫家茂は優しい男性であったのである。
同じ年ということもあり、時には兄のように、時には弟のような接し方をし、愛情がこまやかで、和宮の心はほぐれていった。

程なく長州藩は幕府に反旗を翻し、その討伐の軍が編成され、
その総大将を家茂が務め、大本営の置かれる大坂城に向かった。
家茂は和宮に「大坂から京は近い。何かお土産を買ってきましょう」と言い、和宮は「京の錦の布を頂戴しとうございます」・・・・
これが二人の永遠の別れの言葉となったのである。

家茂は大坂城で病を得て急死し、遺体と一緒に約束した錦の布が江戸城に着いたが、和宮は悲嘆になく崩れ、一首を詠んだ。
『空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も きみありてこそ』
家茂の亡き後仕立てることもなく徳川菩提寺に奉納され、のち法要の折の袈裟に仕立てられ空蝉の袈裟として伝えられている。

やがて鳥羽伏見の戦いが起こり、最後の将軍慶喜は朝敵となり、討伐軍が東海道を江戸の向かって進軍してきた。
この時和宮は必死になって新政府に嘆願書を書いたが、皮肉にも討伐軍総督は有栖川宮熾仁しんのうであった。
和宮の嘆願が功を奏し、会談がもたれ討伐軍による江戸城攻撃は中止となり、江戸の町は戦火を逃れることとなった。
かっての御所側の人たちからは「なぜそこまで德川をおかばいになるのでしょうか」と問うたところ、
和宮は「私は徳川の人でございますから」ときっぱりと告げたと云う。
明治十年(1877)九月二日、箱根にて病気療養中に死去した。

享年三十二 
静寛院宮贈一品内親王好誉和順貞恭大姉


  下諏訪宿本陣庭園について
この日本庭園は、中山道下諏訪宿本陣上段の間から眺められる名園です。
江戸時代、文久元年十一月五日にこの上段の間に御泊りになられ、
江戸德川家十四代将軍の御台所として嫁がれた皇女和宮様など多くの御姫様・参勤交代の諸大名・京都の御公家様など、
身分の高い方々のお疲れを癒された庭園であります。

この日本庭園は、小堀遠州の作によるものとされ、安土桃山時代より江戸時代初期にかけて完成をなされた庭園とされているが、
時代は定かではない。
池は心字に作られたいわゆる心字池で、逆L字形の池の中心部に滝を作り、池の右方に石橋を架け、
飛び石は連続して配置されている。
滝の石組が抜群に素晴らしく、飛び石と拝石のバランスも良く取れている。
中心部の池の滝から鯉が登りきると龍になると云われ、このことが世界を支配する、即ち皇帝になると云われ、
滝の下の石は鯉を表していると考えられ、鯉の滝登りを表現した滝であります

しかもこの滝は、珍しいことに陰陽石の滝であり、陰は女性の魂、陽は男性の魂が入魂された石組みが配備され、
子孫繁栄を表す非常にめでたい高貴な名園とされる謂れであります。
江戸時代末期、御公家様の参議右衛門督万里小路政房(享和二年~安政六年 1802~1859)は、この庭園をご覧になられ、
「豊なる 池のこころ(心字池))に すむ亀は けに萬代も屋春く 経ぬべし( けによろずよも やすくへぬべし)
と短歌を上段の間の次の間に残されました。

また、庭木、特につつじは初夏に、さつき・霧島など見事に咲き乱れ、秋には紅葉として目にも鮮やかに色付き、
中山道お通りなられて下諏訪宿本陣に御泊りなられた高貴な方々の旅の疲れを癒して差し上げたことでしょう。
現在、いわゆる本陣としての岩波家と旅館としての「かめや」に別れてはいるが、
本来の本陣は諏訪大社横の広大な地域を占めており文化財的には一体のものとして扱っている。

                                             案内説明より 

甲州道と中山道の合流地の石碑

中山道問屋場跡石碑

綿の湯モニュメント 湯玉


  神話と伝説 綿の湯
諏訪大社は、上社の本宮・前宮と下社の秋宮・春宮の総称です。
その昔、上社の地にお住いの諏訪明神・建御名方神の御妃八坂刀売神が、日頃お使いになっておられた御化粧用の湯を
綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。
その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。

神の湯ですから神聖で、やましいものが入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったと言い、
「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、
湯が湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。
下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。

松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水(定常)の連歌に
入込みに諏訪の湧き湯の夕まぐれ  曲水
中にもせいの高き山伏  芭蕉

入込みは共同浴場のことで、夕暮れの宿場の賑わいがしのばれます。
壁面の陶板レリーフは文化二年(1805)の木曽路名所図会に描かれた下諏訪宿の情景です。
石碑の揮毫は放送作家・作詞家の 永 六輔氏によるものです。

                                             案内説明より

綿の湯石碑  揮毫 永 六輔

上諏訪宿湯場陶板レリーフ





橋本政屋 甲州道中茶屋跡

  御神木  びゃくしん(檜科)

伝説の尾掛松(おかけまつ)
昔々諏訪の神様がこの松の枝に衣尾を掛け
出雲に出かけたと云い伝えられている
伝説の木です。


家の中は大変賑わっていたが、
枠に区切ってアクセサリーや珍物・美容
整体・占いなどのコーナーがあった。

日を定めてこのようなもようしを
行っているらしい。
興味のないものには入りずらいが、
入館料300円を払って入る。

駐車場は広いので催事以外のときは
止めやすい。

旧甲州道中町並み

座敷欄間龍の透かし彫り

座敷欄間冨士の透かし彫り

神棚

はし本屋号木札 ヤマキの看板  家紋丸に井桁との関係は?

偉い人のための書院

諏訪湖を借景とした庭園

旅衣装と持ち物など

半鐘 何処に在った物か分らないと云う

御神木 

通用門の暖簾

土蔵の主扉

主扉亀の鏝絵

主扉鯉の鏝絵

蔵上の龍の鏝絵 玉を抱いている

家の家紋

信州中南部に多い本棟造型式だが
切妻造りの平入りの外観で桁が長い

雀おどし

出桁の鯉の彫刻

家中より

橋本政屋正門 薬医門
旧高島城の城門を移築

青銅製軒下ガス灯明 現在は電気

出桁造り

外観

土蔵 白漆喰 海鼠腰壁





魁塚

魁塚(相良塚)

道路に面しているので解り易い
秋宮前から旧中山道を岡谷方面へ

塚としてはかなり広い

花が手向けられていた


  魁塚
ここは赤報隊隊長相良総三以下幹部八士、その他の墓である。
慶応四年(1868)正月、江戸城総攻撃のために出発した東山道(中山道)総督軍先鋒嚮導の赤報隊は、
租税の半減の旗印を立てて進んだが、朝廷議決一変し、その他理由により賊軍とされ、
朝廷側についた旧藩により討伐されることとなった。

その他の理由とは、勝手に朝廷を騙り民衆を惑わし世の中に不安と不信をもたらしたと言うものであった。
正に先駆けとして利用され、明治の世の素晴らしさを民衆に伝える役割が、朝廷によって反故にされ、
維新の世が約束できなくなった新政府の方便のための犠牲になった人たちであった。
その年の三月三日、捕えられた隊長相良総三以下八名が下諏訪のこの地で処刑された。

その後、明治三年元赤報隊同志の奔走によって刑場跡に墓が作られた。
その墓名を「魁塚」として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず、昭和御大典には御贈位の恩典に浴した草莽として維新史の上に大きく輝く人々である。
朝敵の汚名は晴らされたのであった。

墓石には相良総三を頂いて、左から金田源四郎、高山健彦、小松三郎、竹貫三郎、西村謹吾、大木四郎、渋谷総司
の八名が刻まれている

                                          案内説明より

相良総三の贈位石碑 正五位

渋谷総司の贈位石碑 従五位





臨済宗 白華山慈雲寺

法堂 坐禅堂

庫裡 客殿

客殿玄関

鐘楼 梵鐘

寺紋カジノ葉鬼瓦と懸魚

本堂屋根の武田菱

金剛力士像 吽形

金剛力士像 阿形

本堂

総門 四脚門

杉木立参道

山門 回廊付楼門 
総て解放されているので鐘楼門?

舎利殿?

本堂扁額

石庭

石庭と慈雲寺形灯籠

池と中島

飛び石

石庭


  臨済宗 白華山慈雲寺
白華山慈雲寺は正安二年(1300)一山禅師の開山で、信州触頭として重きをなした名刹である。
御本尊は「千手千眼観世音菩薩様です。
この観音菩薩様は、人々に救済の手を差しのべる慈悲の千本の手と人々を教え導く智彗の目を千個もち、、
人々の願いをあまねく叶えて下さる観音菩薩様です。

梵鐘は応安元年(1368)諏訪下宮大祝金刺豊久によって造られ、形、音銘ともに優れている。

楼門は安永八年(1779)大隅流の名匠村田長左衛門矩重の手になるものである。

天桂松は、戦国時代に当寺の住持(住職)・天桂玄長禅師の植えたものと伝えられる銘木である。
 

  慈雲寺本堂
慈雲寺は創建以来三回大火に遭っているが、文化三年(1806)に本堂、玄関、庫裡を再建した。
棟梁は上諏訪湯の脇の上原市蔵正房で、初代立川和四郎冨棟の直弟子として下社秋宮弊拝殿をはじめ
冨棟の造営した多くの寺社建築に加わっている。

本堂は入母屋造りで周囲に板縁を回し、内陣には臨済宗特色の通し須弥壇が付けられ、
室中と両脇間との境の中間には柱を立てず、内陣の欄間には梶の葉と武田菱の彫刻が付けられている。
規模の大きさと全体に木太い建築である点が特色で、外観は質素であるが、内陣の彫刻に大工の特徴が現れ、
江戸時代後期の臨済宗本堂の特色をなした建築である。


  慈雲寺型石灯呂
この石塔呂は、現在採石が禁止されている三銘石(奈良石・白川石・本御影石)の奈良石を、
特別の許可を得て採石し使用しています。
古来よりの技法であるノミギリ・石ノミ・石頭(カナズチ)による手彫りによる製作、型は石像美術の黄金期鎌倉時代の様式で、
例えば笠部のワラビ手と呼ばれる隅部に力ら強さを、下台・中台などの蓮弁や各座間は鎌倉初期の流麗さを表現しています。

そして、慈雲寺開山一山一寧国師七百遠年記念奉納の作として、国師遷化のおり後宇多上皇がその死を惜しみ
呈した詩文の一節「~金欄斜にかけ、慈雲坤維を覆う~」より袈裟の文様を意匠化した火袋に陽刻し、
下台腰部には羯磨(四個一組の法具)を陽刻することにより開山国師への報恩感謝と四弘誓願成就を祈念しています。
火上石には京都聖護院門跡本堂建て替えに伴い譲り受けた江戸時代初期の白川石の礎石です。

                                            案内説明より

庭園

延命地蔵大菩薩像

金毘羅権現堂  参道

金毘羅宮扁額


  海印寺高麗形創作灯篭 (設計 小口基實   製作 西村金造
灯篭は神・仏に火をささげるという意味で、本堂・塔など前正面に一基のみが古い形です。
韓国で最も古い寺である海印寺は、八万大蔵経の保存で有名である。
その願堂庵前に立っていて国の重要文化財になっている六角形の石灯篭(高麗時代 918~1392)を、
四角形大面取に創作したものである。

日本で最も古い春日大社にある灯篭の一つ「柚ノ木形」の源流と思われるものである(春日型燈籠)。
基礎の格狭間は飛鳥・奈良時代の手法を刻み、蓮弁は素弁の古い形式ですっきりと、竿は中節が無い韓国形ですっきりとし、
火袋は正面のみ四角窓の古式で、裏は円窓に復弁の蓮弁となり特に美しい形となっている。
笠はワラビ手のない薄手で軽やかで、上の宝珠は蓮の蕾の形となっている。


  日根野高吉供養塔
日根野高吉は豊臣秀吉の武将で、天正十八年諏訪の領主となり高島城を築いた築城の名手である。
慶長五年六月二十六日高島城で病んで没し、慈雲寺に葬られた。
享年六十二
鑑照院殿鉄叟玄心大居士

その子吉明は関ヶ原合戦後壬生(栃木県)にうつされ、後大分の国府に移されて二万石を領し、慶安二年、父の五十回忌にあたって五輪塔を立てて供養した。
諏訪にある五輪塔として、最も大きいものである。

                                   案内説明より

棟鬼瓦

庭園

天桂の松

海印寺高麗形創作灯篭

日根野高吉供養塔





浄土宗 引接山来迎寺

庫裡

庫裡玄関の童子と天邪鬼?

庫裡玄関破風の鳳凰

銕焼(かなやき)地蔵堂

来迎寺山門 薬医門

本堂

山門扁額 引接山

本堂扁額 来迎寺

本堂向拝・虹梁の彫刻

鐘楼 梵鐘

紫式部供養塔

和泉式部歌碑 善光寺百二十世智光書

地蔵菩薩像と「かね」の像

昔々、下諏訪の湯屋別当に「かね」という娘が奉公していた。
弁当を運ぶ途中、信仰の厚いかねはその飯を少し菩薩に供えていた。
ある時そのことを見ていた者から主人に告げ口され、怒った主人の妻に焼け火箸で兼の額を叩いた。
泣きながら菩薩のもとに来ると、菩薩の額から血が流れていたのを見たかねは水面にわが顔を映してみると傷が消えていた。
その後美しく成長したかねの噂は都のも聞こえ、帝に召し出されることになり、京に上った。
このときの「かね」が後の和泉式部であったという。

和泉式部はおすくい頂いた地蔵菩薩を我が守り本尊として大切にお祭りしていた。
和泉式部没後、最明寺入道(鎌倉幕府五代執権北条時頼)が和泉式部の草庵に泊まったおり、
安置されていた菩薩のお告げを聞き、縁ある下諏訪の地、来迎寺に御移しになられた。
この地蔵菩薩が今に伝わる「銕焼地蔵尊」であ

この地蔵尊は地蔵堂の厨子入りの秘仏で、例年四月二十四日に、御開帳供養が行われている。
総高67.5㎝ 御丈29.5㎝、温容すこぶる美しく華麗な作である。
当寺門前の石碑に見るように早くから厚い信仰に守られてきたものである。

                                            案内説明より

和泉式部歌碑

あらさら無 この世のほか能 於も悲てに 以ま飛とたひの 阿ふこともかな

あらざらむ この世の外の 思い出に 今一度の 逢うこともかな 





島木赤彦生家  墓地・津島神社・殿村遺跡

島木赤彦生家

土蔵

赤松の木

柿の木


  島木赤彦住居
赤彦は明治三十年久保田家の養嗣子となり、大正十五年三月死去するまでこの家を根拠に生活したが、
大正七年東京のアララギ発行所から帰郷以来ここで起居、自ら「柿陰山房」と命名した。
間口八間半、奥行五間半、士族の家造りとしても評価も高い。
書斎は西向き八畳の上座敷であったが、冬は寒く、夏は暑かったので、
大正十四年東南の一部に日当たりのよい書斎を新築した。
庭の赤松は樹齢三百年余り、目通り周二米、又門口の胡桃は樹齢百三十年余、ともに赤彦の特に愛惜した老木である。
なお津島神社前に歌碑、裏山の中腹に赤彦と夫人不二子の墓がある。

雪ふれば山より下りる小鳥多し障子の外に日ねもす聞ゆ  赤彦

島木赤彦 短歌

ある日わが庭の胡桃に囀りし小雀来らず冴えかへりつつ

庭の松四方ののびて土を這へり老いたるものに霜のさやけき

柿の実を摘むこと遅し故郷の高嶺に雪の見ゆる頃まで

島木赤彦墓地

久保田家墓地

島木赤彦の墓

夫人不二子の墓

墓地から見た諏訪湖

墓地

髙木津島神社

髙木津島神社拝殿

本殿 覆屋

拝殿社額

向拝鳳凰彫刻

蟇股の彫刻 社紋であろうか

神楽殿

御神木

楢柏(ならかしわ)の木

社殿 狛犬と御柱

岩本木外記念碑


  高木津島神社  御祭神  素戔嗚尊・牛頭天王
高木津島神社は、津島神社(愛知県津島市)の分社である。
津島神社は、わが国の神、素戔嗚尊とインド伝来の牛頭天王(祇園精舎守護神・薬師如来の化身といわれる)
とが習合した神を祭神とし、十二世紀末、疫病除け神社として建設した。
以後、織田氏(社紋 織田木工)・豊臣氏・尾張徳川家の庇護のもと、天王信仰の中心社となり、
多くの御師が各地で疫病除けの布教活動をし、分社をひろめた。

中世、高木村の記録に、現在地より北方に、寺(東照寺など)・社があったとあるが、社が天王社であったかは不明である。
平成十九年の神殿改修時、発見された神殿棟札に、宝暦四年(1754)の年号があること、
また、諏訪地方に散在する津島神社の多くの創建が、江戸時代初期、疫病流行時、
布教活動の神徳によると伝えられていることから、それらと期を同じく、三百年前の江戸時代初期に天王社が、
村の産土神社として創建されたと考えられる。

以後、拝殿を作り、神楽殿(舞殿)を造営、境内に薬師堂を併置(大正時代、現公民館の地に移す)し、
数々の神徳の伝承を残しつつ、村人崇敬、心の拠りどころの産土神社として神威発揚してきている。

明治四十一年四月、無格村社統合の政令により「大山祇神(山の神)・宇山の神鎮座」、「火産霊神(秋葉様)・宇秋葉山鎮座」、
彦狭智神(天狗様)・現公民館の地鎮座」を集め、神殿に合殿している。


  神楽殿
神楽殿(通称舞屋)は、天保四年(1833)、村人が虹梁を御射山より出材、
村の大工棟梁幸蔵・大工与右衛門・利右衛門によって造営した。
神楽殿であったが、村芝居舞台としてもよく使われ、花道、舞台幕なども残されている。
また、村寄合、若者寄合の場としても用いられ、五人組毎に叩き藁で編んだ敷物を一枚ずつ出した、
石製煙草盆を使ったなどの記録がある。

いろりが南・北二ヶ所にあり北のいろりで御湯立祭りが斎行された。
明治四十一年指定村社昇格後は、舞台は禁じられ神楽殿専用となったが、
太平洋戦争後は、再び村の演劇・映画会場となり、神事は行われなくなった。
昭和三十年代初め、境内を拡げるため西方に移動、生じた地下部分に社務所を作った。

以後、境内拡張により公民館庭へ移した神社の土蔵に入っていた祭事用具の置場、祇園祭催物会場として活用されてきた。
平成元年九月には、当寺隣にあった諏訪養護学校生のために、
小沢征爾氏とドストロボオビック氏による緑陰野外コンサートがここで催された。
平成十九年春、本殿天屋並びに拝殿の改修に併せ匠が施された。


  ナラガシワ(楢柏) ブナ科 コナラ属  目通り周囲 3.75m 樹齢 凡そ450年
この木は本州、四国、九州に分布している。
非常に珍しい樹種である。
諏訪地方でも何本かは確認されているが、周囲、樹齢とも第一位とされ、県下でも上位を誇る巨木である。
近年、著しく老齢化が進み、幹の空洞腐蝕による倒木の危険にさらされてきた。
里人たちの老木を守ろうとの熱い想いから支柱設置をはじめナラカシワ延命活動が展開されている。

樹齢から推して社殿の創建以前より自生していたものと推定され、
『産土の森』の代表樹として昔から里人たちに親しまれてきた巨木である。
子供たちの虫取りの格好の場所であったり、年寄りたちの木陰を楽しむ場所として、
古くから高木の里を優しく見守ってきた貴重な歴史的財産である。


  岩本木外顕彰記念碑
本名 岩本永正
明治五年十月二十七日高木に生まれる。
長じて島木赤彦と共に信濃教育界に尽力するかたわら正岡子規に師事する。
後、「信州に木外あり」と評された。
明治四十三年八月十八日死去
享年三十九


  殿村遺跡 復元竪穴式住居の経過と由来
ここは、北方の山城高木城主の居住地という伝承の小字地です。
すぐ北には、鎌倉時代の古寺跡という「東照寺」、諏訪神社領と伝わる「八貫」、
西には、近世、諏訪湖で漁労中事故死した人々を並べ回向した「回向坂」など、歴史的な小字名が多く残る地域の中心地です。
この周辺の畑からは、古くから黒曜石の矢鏃 ・土器・須恵器・古陶器片などが多数出土している。

すでに、八ヶ岳山麓で先住民住居跡が多く発見され、復元もされていることに刺激され、
諏訪湖周辺にもそれを見つけ出したいと、戦後間もない昭和二十三年、今井廣亀先生(当時、下諏訪中学勤務)と
下諏訪中学校生・高木区住民の協力で発掘が始まり、縄文中期と推定される住居跡二箇所の発見など、多くの成果を上げた。
引き続き、藤森栄一氏の指導を受けた諏訪地区高校生の協力もあり調査は進んだ。

こうした調査に協力したことで、考古学に興味を持った区民により「高木史話会」が結成され、
以前発掘されたものと同様の縄文中期の住居跡一つを自力で発掘しました。
それに周辺の山野から自ら調達した材料で、昭和二十九年家屋を復元した。
昭和三十年代から四十年にかけてこの地より山よりの畑地を造成し、まず「諏訪整肢療護園ができ、
続いて、昭和三十七年に本県最初の肢体不自由児のための学校「諏訪養護学校」が創設された。
この土地造成中、先住民遺物が多数出土した。

昭和四十七年度の発掘調査では竪穴式住居跡から、漁網のおもり、「紡錘形土錘」がたくさん出土、
古代の諏訪湖畔の漁労で暮らす先住民の暮らしを実証する貴重な資料の発見となった。
さらに昭和六十二・六十三年度には、この地より北側地域が住宅地として造成されて、土地区画整理組合事業推進のため、
大規模な発掘調査の結果、古い遺構群が見つかり、そこから集石墓群、カワラケ・陶磁器・石に経文を書いて(石経)
信仰をあらわしたものなど多数出土、字名に残る中世の寺「東照寺」の存在が実証されました。

このようにこの地域は、縄文時代・弥生時代、奈良・平安時代、中世の集落・寺院と墓跡など
長期にわたる遺跡が発見されている貴重な複合遺跡であり、その遺物など出土品は、諏訪湖博物館で所蔵展示されている。
ここに竪穴住居が復元されて六十年間、高木史話会の努力で歴史公園として環境整備が続けられ、
また、復元住居もほぼ十年毎に改修し、人々の古代への関心を呼び起こすものとして工夫、尽力してきました。

だが、いよいよ老朽化が進み、倒壊の危険も見られはじめたので、
平成二十五年夏、昭和二十九年発掘当時の状況を再確認しながら、なるべく近くの原材料を使い復元作業をし、完成させた。
自由に出入りし、古代人の生き様を味わうとともに、古代への憧れ、探求の思いを育てていただきたい。

                                          案内説明より

信州中・東地方で盛んなスケート





高島城 諏訪湖間欠泉

一之御柱 二之御柱

殿村遺跡 竪穴式住居

富士見櫓跡

石垣多聞跡

本丸堀・石垣

冠木橋と天守

本丸櫓門 冠木門跡

天守

天守石垣

川渡門跡に建つ旧三の丸裏門

高島城についての石版

高島城公園本丸庭園

高島城公園本丸庭園

高島城公園本丸庭園

松平忠輝館跡の碑


  高島城
天正十八年(1590)、当時の諏訪領主・諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国に移った後、
豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が諏訪に転封、二万七千石を与えられ諏訪の領主となりました。
高吉は安土城や大坂城の築城にも携わった築城の名手でした。

転封の翌年、天正十九年(1591)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工、
慶長三年まで七年ほどかかって高島城を築城した。
城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、
また「諏訪の殿様よい城もちゃる うしろ松山前は海」と歌われた名城です。

その後、関ヶ原の戦いで德川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、
慶長六年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となった。
以後、高島藩十代藩主諏訪忠礼に至る二百七十年の間、諏訪家の居城としてその威容を誇りました。
この間甲州道中や中山道を旅する人の道中記には必ずのるほどの当時の名勝であった。
しかし明治四年(1871)、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定し、
明治八年(1875)には天守の撤去が終了しました。

翌明治九年(1876)、本丸跡が高島公園として一般に開放されました。
諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和四十五年(1970)、天主閣が復興されました。
同時に、冠木門・隅櫓なども復興されたほか、当時の石垣も残るなど、今も往時を偲ぶことができます。
大手門より南側の縄張りがおおよそ昔のままの姿を残し、近世の城郭を考える上で貴重な資料である。
今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。

本丸庭園は天守閣復興と共に諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計により、
諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することと念願して、人字形の池に心を鳥で表わし、
滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。


  冠木門跡
冠木橋を渡ったところに冠木門があった。
冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、
高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付の門であったことがわかる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門あるいは高麗門に建て替えられ、名称のみが残されたものであろう。


  高島城本丸の堀と石垣
高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれ、
縄手(細く長い道)だけが城下町に通じていた。
天守の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。
衣之渡郭・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は、野面積みで、稜線のところだけが(隅石)加工した石を用いている。
地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。


  三之丸御殿裏門(御川渡門跡)
ここは、かって御川渡御門と呼ばれる門があった場所である。
城が湖に面していたころは、ここで湖の船に乗ることができた。
この門は三之丸御殿の裏門である。
三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。
また、藩主がくつろぐところでもあった(現在の高島一丁目八番付近)。
門は、昭和六十三年に所有者から市に寄贈され、この地に移築されたものである。


  本丸御殿跡
ここは、本丸御殿があった場所である。
家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下次・下段の間があり、
御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の回りの世話をする部屋が付属していた。
奥には藩主の私生活の場である御休息居間・御休息二之間・同三之間があり、
江戸城でいえば、大奥にあたる長局と呼ばれる部屋が隣接していた。
また、御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。


  高島城南之丸跡
高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。
松平忠輝(徳川家康六男)のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。
周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲まれ、唯一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。

忠輝は、德川家康の六男で越後高田六十万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(1615)
家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八姫(伊達政宗長女)とも離別、
伊勢朝熊で二年、飛騨高山で七年過ごしたのち、寛永三年(1626)から初代高島藩主・諏訪頼水が預った。

改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を断たれた寂しいものではあったが、
家臣は諏訪で抱えた者を加えると八十五人にもなり、大名の格式をもって生活した。
五十八年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。
天和三年(1683)、九十三歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。

その後、幕府の儀式を司る高家筆頭を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周が、
元禄赤穂事件の後の赤穂浪士吉良屋敷襲撃事件の評定によって、領地を召し上げられ、
元禄十六年(1703)に四代藩主・諏訪忠虎へお預けとなった。
高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、三年後の宝永三年(1706)に病没し、市内の法華寺に葬られた。
以後御数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。

舘の在った市役所の南ノ丸

祠があるが

諏訪護国神社

拝殿神紋は諏訪大社と同じく梶の葉紋

神楽殿

諏訪護国神社 二之御柱

唐破風向拝の彫刻

鳥居 狛犬 手水舎

上諏訪温泉間欠泉

温泉名: 上諏訪温泉足湯
源泉名: 七ツ釜配湯センター 混合泉
       (あやめ公園源泉・新三ツ釜源泉・新三ツ釜第二源泉)
泉質: 単純温泉
     低張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH 7.96  陽イオン 171.6㎎/㎏  陰イオン 313.5㎎/㎏
     成分総計 565.8㎎/㎏

源泉温度: 62.3℃

  七ツ釜の由来

この一帯は(間欠泉センター付近)、昭和十年代まで諏訪湖の中にありました。
厳寒期、諏訪湖の全面結氷しますが、
七ケ所だけは湖底から大量の温泉が湧き出しているため、
氷が張らず穴が開き、まるで釜のように見えたため「七ツ釜}と呼ばれていました。
この温泉を取り出したのが「上諏訪温泉」です。


  諏訪湖間欠泉
温泉掘削中の昭和五十八年に噴出した間欠泉は、
高さ50mまで自噴していましたが、次第に間欠泉の自噴間隔が長引くようになり、
やがて自噴が止まってしまいました。

現在はコンプレッサーで圧縮空気を送り、
上部の蓋状になった冷えた温泉を取り除くことにより、間欠泉を自噴させています。
地震など地殻変動が起こると、その影響により自噴の高さが上下しましたが、
現在は5m程の高さになっています。
あらかじめご承知のうえ、見学していただきますようお願いいたします。

                           案内説明より

七ツ釜源泉

上諏訪温泉足湯

温泉の神?

諏訪湖間欠泉センター
現在は入館料はいりません

現在の噴出口

華やかの頃の名残でしょうか

諏訪湖遊覧

諏訪湖

噴出

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諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

諏訪大社へ

茅野市観光協会
茅野市塚原二丁目6-1
Tel 0266-73-8550

諏訪市観光協会
諏訪市上川一丁目1662
Tel 0266-52-2111

岡谷市観光協会
岡谷市幸町8-1
Tel 0266-23-4854

下諏訪観光協会
諏訪郡下諏訪町3289
Tel 0266-26-2102

境内の巨樹

社殿背後の森