長野のいろいろ その2


安曇野・・・大王わさび農場  穂高神社  碌山美術館
善光寺   
海野宿    長久保宿・和田宿
高遠城址のコヒガン桜と大奥絵島墓所
千曲川 犀川 篠ノ井線
上高地  参照: 温泉その4→白骨温泉
上高地・乗鞍高原  参照: 温泉その5→乗鞍高原温泉
信州の鎌倉  参照: 温泉その6→別所温泉
地獄谷野猿公苑・松茸三昧・生島足島神社  参照: 温泉その7→渋温泉
生島足島神社その2  参照: 温泉その17→鹿教湯温泉
上林温泉 豪雪の館  参照: 温泉その15→上林温泉
中山道 望月宿・茂田井間の宿・芦田宿  参照: 温泉その7→あさしな温泉
真田家 上田城跡 松代城跡  真田家菩提寺長国寺

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安曇野 azumino






大王わさび農場

水車小屋

わさび田

遮光ネット風景

苗の植え付け

斜めに掘られたわさび田水路

主水路の高低水位造作堰

ニジマスの池

双体道祖神と観世音菩薩石仏

水辺の花菖蒲

昭和天皇皇后立ち寄り茶室

信州わさび栽培に功績のあった二組の深沢夫妻胸像

大王神社拝殿

その昔、桓武天皇(785~805)の頃、魏石鬼八面大王という世にもすぐれた怪力無双の首領が、
この地「安曇野」を治めていました。
全国統一を目指す中央政権は、東北に侵略を進めるにあたって、信濃の国を足掛かりとし、
たくさんの貢物や無理難題を押し付け住民を苦しめました。

大王は坂上田村麻呂の率いるすぐれた武器を持つ軍勢に刃向かうつもりはなかったものの、
戦いは大刃や矢を持つ男ばかりか、女、子供まで巻き込み次々と村々は焼き払われていきます。
追い詰められた大王は、わずかばかりの部下を伴い有明山のふもとの岩屋にこもって力の限り戦いましたが、
ついに山鳥の三十三班の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。

八面大王はあまりにも強かったため再び生き返らぬようにと遺体はバラバラにされて埋められました。
当農場の一角には胴体が埋められたと言われており、現在は大王神社として祀られています。

「大王農場」の名前も、この故事にちなんでつけられたものです。
そこで大王が住んだと言われる有明山の山麓、宮城の岩屋をここに再現し、
天高く積み上げられた築山を「大王さまの見張り台」と名付けました。
頂上からは、わさび田と北アルプスが一望できます。
                                                案内説明より

拝殿の大わらじ

大王神社

大王窟 (宮城の岩屋)

大王窟内

見張り台の築山

萬緑の湧水

わさびを持つ少女像?

農場からの常念岳

駐車 入場ともに無料です

人気のわさびソフトクリーム

わさび田堤の樹木

大王わさび農場

長野県安曇野市穂高1692
Tel: 0263-82-2118
入場料: 無料
休日: 無休
開場時間: 3月、4月:9.00~17.20  5月、6月、9月10月:8.30~17.20  7月、8月:8.30~18.00  11月~2月:9.00~16.30

開運洞宝船

水神の祠?






穂高神社

穂高神社拝殿

穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき安曇野市穂高にあります。
そしてその奥宮は穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の山頂に祀られています。

穂高見命は海神族の祖神であり、その後裔であります安曇族はは、もと北九州に栄え主として海運を司り、
早くから大陸方面とも交渉を持ち、文化の高い氏族であったようです。

醍醐天皇の延長五年(927)に選定された延期式の神名帳には名神大社に列せられて古くから信濃における大社として
朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。
                                                    神社HP説明より

神楽殿

鳥居と大欅

穂高神社奥宮と明神岳

参考: 温泉と観光→温泉その4→白骨温泉→上高地

奥宮本殿

御船の龍頭鷁首

明神池

穂高神社賛歌の碑

ニノ鳥居

鳥居扁額

仁王石

保高大明神地内に、先年神宮寺これ有り候処、石川玄蕃の御代中におつぶし相成り、門前に仁王これ有り、
その後浅間村へ盗み取られ、その後、右跡へ古木を仁王と唱え居り候えども、歳来る故霊木に相成り、
四ヵ村一同談事の上、寄進にて牧村地内より大石を二つ引き当て、正月中より数日大勢罷り出で、二月八日引き付け立つる。

後日の為斯の如くに御座候。
依って件の如し。
文久二年(1862)壬戌二月  日

[穂高町穂高  二木家文書の釈文]                         案内説明より

石灯篭

石灯篭

御神木 大欅

昭和四十五年五月、川端康成、東山魁夷、井上靖の三巨匠がご夫妻共々で参拝の折、絶賛された。
この欅は、井上靖氏の小説「けやきの木」日本経済新聞に掲載の古樹である。

御神馬

唐鞍(奈良時代の馬の飾り)をつけた馬としては全国でも稀にみるもので、馬は純粋の木曽馬をモデルにしている

御神馬

阿形の獅子狛犬

孝養杉

穂高神社境内の神楽殿の横に、ひときわ目を引く杉の大木があり、名前は「孝養杉」という。
樹齢は五百年を越えているが、しかし伝承など詳しいことは伝わっていない。
また乾燥した地盤のために比較的大きくならず、頭の上の方は枯れ始めている。

名前の由来としては、穂高柏原在住の高木康江(すみえ)さんが大正十年あたりのまだ十代の頃に、
母親の病気平癒祈願のため、丑三つ時に白装束でお参りされて、母親の病気が良くなったといったことがいつしか
氏子の人たちから噂になり、いつのころからは定かではないが、人々から「孝養杉」と呼ばれるようになった。

穂高神社の資料館の御船会館にある、昭和初期に書かれた御船祭りの絵の中には、大きな杉の絵が描かれている。
地元では親孝行の思いが込められた木と大切にされています。

近年では、パワースポット、良い波動を持っている場所としてあがめられています。
                                                      案内説明より

阿曇比羅夫之像

安曇節保存の碑

若宮社

   御祭神 阿曇比羅夫命
天智天皇の命により水軍を率いて朝鮮にわたり、百済王豊璋を助け、六百六十三年八月二十七日白村江で戦死。
穂高神社御船祭りの起こりと伝えられている。

   相殿神 信濃中将
御伽草子の物ぐさ太郎で知られている。
文徳天皇の御代、甲斐・信濃の国司として両国を治め、穂高神社を造営し、百二十歳の春秋を送り、
延命長寿・財宝沢山・幸福自在の神として祀られ信仰をあつめている。
                                                    案内説明より 

天神社

享保七年(1722)壬寅秋、村山喜兵衛清政氏が文道の祖天神様を当社境内に勧請し、代々祭儀を厳修。
この処を天神原と呼び氏子崇敬者に親しまれ、丁度二百六十年を迎えた。
菅原社は菅原道真公を祀り、天神様ともいい、書道、詩歌、雷除の神様として参拝者が多い。

参集殿

塩の道道祖神群

双体道祖神

参考: 温泉と観光→温泉その4→白骨温泉→上高地






碌山美術館 rokuzanーbijyutukan

碌山美術館

本館展示室

労働者

湧水 杜江の水

ツタの絡まる教会風の本館

高村光太郎 詩碑

   荻原守衛
単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった。
工夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た。新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家は悲しく日本で不用とされた。単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きていた。

原始、  還元、   岩石への郷愁、   燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラック。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明けに見た。
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊っているのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。

粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、「寸分も身動きが出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして、
荻原守衛は血の塊を一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ   日本の底で・・・・・
                                            昭和十一年 高村光太郎

碌山美術館
長野県安曇野市穂高5095-1
Tel: 0263-82-2094
入館料: 大人 700円  高校生 300円  小中学生 150円

休館日: 5月~10月 無休
      11月~4月 毎週月曜日 祝祭日の翌日

開館時間: 3月~10月 9.00~17.10   11月~2月 9.00~16.10

文覚 1908

女 1910

デスペア 1909

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善光寺 zenkoji

善光寺 大門跡

大門常夜灯

藤屋旅館(登録有形文化財)旅館・レストラン・ウェディング等々

藤屋旅館脇の布袋様(善光寺七福神)

信濃善光寺名物八幡屋のトウガラシ
寺社の夜店で活躍

善光寺参道

善光寺参道の敷石は宝永四年(1707)、本堂が仲見世堂跡「地蔵菩薩」付近から現在地に移転竣工の後、
七年目にあたる正徳四年(1714)に完成しました。

本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため、
正徳三年、本堂前の敷石が腰村(現西長野)西光寺住職単求の寄進により敷設、
続いて境内入口の二天門跡から山門下までの二百十八間(397m)が江戸中橋上槇町(現日本橋三丁目)
の石屋香庄(大竹屋平兵衛)の寄進により敷設されました。

伝説によると、平兵衛は、伊勢の出身で江戸で財をなしたが、長男が放蕩で家に寄りつかなかった。
ある夜、盗賊が入ったので、突き殺すと、それがわが子であったという。
平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺に来て、諸人の難儀を救うため敷石を寄付した。

平兵衛は後に茂管静松寺で出家し、享保十一年(1726)に没した。
平兵衛の墓は、静松寺と善光寺境内に今でも残っている。
その後も平兵衛の子孫は、敷石の修理をしていたという。

敷石は、山門上が幅四間、山門下から二天門跡までが幅三間で、長方形の石が規則正しく敷かれている。
西長野郷路山産の安山岩製で総数七千七百七十七枚といいならわされているが、
現在およそ七千枚が敷設されている。

一部補修を受けているが、大部分は当初のままで、これほどの規模を持つ江戸時代中期後の敷石の参道は、
全国的にも稀である。
*(文中近世以前を江戸中期後と記した。)             案内説明より

長野市道路元標

宿坊 常円坊

大本願 本坊・事務所

浄土宗大本願 唐門

堂照坊

この名号堂は善光寺本堂を大御堂と申しますのに小御堂と呼ばれるもので、居並ぶ各坊を小御堂坊中といいます。
中でもこの御堂をもつ堂照坊は善光寺「山中最も歴史のある坊」と伝えられており、
鎌倉時代に至って親鸞上人が建暦二年三月から御逗留あらせられ、念仏勤行し善光寺本堂に毎日参詣された旧跡であります。

また聖人は当坊二十三世源阿坊を御供に霊山戸隠を歴覧され山中風越と云う地にて休息の節、
生い茂った熊笹の葉を採り、六字の名号を作られ、方便の権教は野外の草の如しとして百花百草凋落の後、
笹の葉独り雪中に鮮やかなるをたとえとして、末法の世には本師弥陀の名号がすぐれた救いの教えであることを説になりました。

その後聖人御発駕の砌参詣の道俗に此の心を教化あるべしとて笹の葉の形にかたどりて、
六字の名号を御染筆ましまして源阿坊に授興されました。

また、二十四世究阿坊上洛の折り聖の御坊をお訪ねいたしました時、
物語の間に聖人の御歯が落ちそれを形見に賜りたいと願いましたところ
「いつのまにかみに霜おきひとは落ち身にしみてこそ南無阿弥陀仏」という御歌を添えて御下賜なされました。

当名号堂には右笹の葉名号と、聖人の御歯とを今なお安置するものであります。
尚聖人は見真大師とおくり名を賜りました。
またこの御堂は庚申堂ともいい庚申尊像も祀られ家門繁栄の神ともいわれております。

                                                  案内説明より

仁王門

山号扁額

吽形像

阿形像

阿形像の足 踏み出そうとしている

三面大黒天
毘沙門天 大黒天 弁才天

三寶荒神

仲見世

世尊院釈迦堂

延命地蔵菩薩(旧如来堂跡 地蔵尊像)

善光寺本堂は、古くは「如来堂」と呼ばれ、皇極天皇元年(642)の創建から元禄十三年(1700)までの間はこの場所に有りました。
この地蔵尊は、旧本堂内の瑠璃檀(御本尊・善光寺如来様を御安置した檀)の位置に建てられています。


   世尊院 釈迦堂
釈迦涅槃像(青銅製重要文化財)
尊像は世尊院の御本尊で、院の小御堂釈迦堂に安置されている。
六枚の布団の上に頭部を北にして、西面右脇を下にした釈迦入滅の姿を示しており、右臂を屈げて頭を支えている。
螺髪が丸く高いうえ大粒で、髪際が著しく波形をしており、面相長目であることなどの特長に富む。

衣文は部分的に彫り込みが深く、その稜を高くしているが、形式化されているので、
造られたのは鎌倉時代の末期に近い頃のものといわれている。
全長1.66m、重さ約487㎏である。

釈迦涅槃図は古来から多く造られているが、彫刻でこの尊像のように等身大の大きなものは全国でも五指を数えるに過ぎない。
まして銅像であるものは、この尊像が唯一躯という極めて貴重なものである。


   六地蔵菩薩
六地蔵は、我々衆生が輪廻を繰り返す六つの世界(六道)に現れて、迷いや苦しみから衆生を救って下さる菩薩です。
向かって右から、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の地蔵菩薩です。

地獄界の地蔵菩薩が蓮台から片足を踏み出しているのは、
一刻も早く衆生を救いに行こうというお気持ちの顕れだといわれています。


   濡れ仏(延命地蔵菩薩)
濡れ仏(重要美術品)
享保七年(1722)に完成した、高さ約2.7mの延命地蔵菩薩坐像です。
六十六部(日本全国を行脚する巡礼者)の供養のため、法誉円信が広く施主を募って造立したものです。

江戸の大火の火元として処刑され、後の歌舞伎や浄瑠璃の題材となった「八百屋お七」の冥福を祈り、
恋人吉三郎が造立したという伝説もあります。

                                             案内説明より

六地蔵菩薩

濡れ仏(延命地蔵菩薩)

天台宗 大勧進

善光寺山門

山門扁額 鳩が4羽or5羽

鐘楼

香炉

手水舎

本堂(国宝)

善光寺本堂は、皇極天皇元年(642)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は宝永四年(1707)の再建です。
間口は約24m、奥行きは約54m、高さは約26mあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。

本尊を祀る仏堂に、参詣者のための礼堂が繋がった特殊な形をしており、
棟の形が鐘を撞くT字型の道具・撞木に似ていることから「撞木造り」と呼ばれます。

国宝建築物の中では東日本最大、檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物です。
床下には約45mの暗闇の回廊があり、秘仏の御本尊・善光寺如来様と結縁する「お戒壇巡り」をすることが出来ます。


   山門(重要文化財)
寛延三年81750)に完成した、二層入母屋造りの門です。
間口と高さは約20m、奥行きは約8mあり、屋根はサワラの木の板を重ねた栩葺きです。

上層には仏間があり、文殊菩薩像・四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)・四国八十八か所尊像などが
安置されています。

楼上に懸る「善光寺」の額は、輪王寺宮公澄法親王の御筆によるもので、
字の中に五羽の鳩の姿が見えることから「鳩字の額」と呼ばれています。


   石造 宝篋印塔(伝 佐藤兄弟供養塔)
この地方で最古の逆修供養塔です。
西塔には応永四年(1397)の銘が入っています。

古くから、源義経の忠臣佐藤継信・忠信兄弟の供養塔と言われ、
若くして戦死した二人を供養するため、母親の梅唇尼が善光寺に参詣して建てたと伝えられています。


   鐘楼(梵鐘:重要美術品)
現在の鐘楼は嘉永六年(1853)の再建で、六本の柱をもつ珍しい形式です。
柱の本数は「南無阿弥陀仏」の六字名号に因むといわれています。

梵鐘は寛文七年(1667)鋳造の名鐘で、毎日時の鐘として用いられています。
平成八年には「日本の音風景百選」に選ばれ、平成十年二月七日の長野冬季オリンピックでは、
この鐘の音が開会の合図として全世界に響き渡りました。
                                             案内説明より


訪れた日は平日にもかかわらず多くに参拝者で賑わい仲見世など歩くのに肩が触れるようであった。
本堂の戒壇廻りは一昔前に経験しているので今回は遠慮した。
手元の明りが無く暗闇の恐怖を味わったのは初めてだった(現在では携帯を取り出す人がいるらしい)。
今まで記憶のさだかでない時を含め五回目の参詣となるが、ノン・アルコールは(不謹慎でしたが)久しぶりです。

本堂の説明にもあるように十数回の火災にも御本尊を守ることが出来たのは奇跡というほかはない。
ただ、秘仏ということで誰も拝んだことがない、見たことがないとのことで、証明するすべがないという。
つまり本当に一光三尊阿弥陀如来御本尊がいらっしゃるのかとの疑問は誰しも思い浮かべることであろう。

木彫仏なり金銅仏なり、そのもののを信仰する対象ではない以上、秘仏だろうが何であろうがあまり重要ではなく、
秘仏を基にその前立ち本尊を信仰の対象にしているとも見えることには、少し違和感を覚える。
秘仏そのものが偶像崇拝の元凶ともとられかねないとの思いもしている。
まさに、「イワシの頭も信心から」が信仰の神髄と思われてならない。、

以上は思いを書き連ねたのであって、人それぞれの心で生活の中に取り入れていくことが大切だと。
もっとも自身、仏様の前、お巡りさんの前や御婦人の前では理由は異なるが立ちションしたことがない小心者である。

宝篋印塔 石造





海野宿・・・東御市(旧東部町)

海野宿 下の常夜灯(昭和の新設)

上の常夜灯

宿場用水

本陣跡

本陣跡の石碑

漆喰のうだつ(袖うだつ)

海野格子

養蚕の気抜き小屋根

本うだつ

素封家別宅門

北国街道海野宿案内板

海野宿は、寛永二年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。
北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で、佐渡で採掘された金の輸送や、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、
江戸との交通も頻繁で、、善光寺への参詣客の往来も多くありました。

田中宿に隣接して海野宿が置かれたのは、旅人の往来が激しかったこともありますが、
ここ海野の集落は中世における東信濃隋一の豪族・海野氏の支配地であり、
それと共に依田窪方面(長門町依田窪)や松代(長野市松代)からの道、祢津(東御市祢津)からの道が集結する
交通の要衝にあたり、毎月六回もの市が開かれていた交通・商業の中心地であったためです。

初めは田中宿のあいの宿として問屋だけが置かれ、公道の輸送を任務としていました。
伝馬の仕事は半月交代で務め、人足二十五人と二十五頭の馬が常備されていました。
宿場の東と西には桝形が置かれ、東の桝形には番屋場置かれていました。

延長約六町(650m)、街道の真ん中に用水を引き北屋敷、南屋敷の両側に家並みが続き上宿・中宿・下宿に分かれていました。
寛保二年(1742)の大洪水によって田中宿が大きな被害を受けたため、本陣は海野宿に移され、
享和三年(1803)の記録によれば、伝馬屋敷五十九軒、旅篭屋二十三軒あって、大変なにぎわいを呈していました。

しかし明治時代に入ると宿場の機能は失われ、本海野の人々は宿場時代の広い部屋を利用して養蚕・蚕種業をはじめました。
特に蚕種は広く関東地方から外国にまで売り出され、「宿場から養蚕の村へ」と移り変わり、実に活況を呈しました。

この養蚕最盛期の明治・対象の時代に建てられた堅牢な蚕室造りの建物と、
江戸時代の旅篭屋造りの建物とが良く調和して現在まで残されてきました。

昭和六十一年には歴史的な家並みであるとして、「日本の道百選」の一つに選ばれ、
続いて昭和六十二年四月には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けるに至りました。

こうして、海野宿は現在もその歴史の香り高い街並みが美しく残されています。
                                                       海野宿案内説明より

伝馬塩くれの石

小林一茶句碑

屋号

茅葺き覆い屋根

白鳥神社拝殿

白鳥神社は、平安時代にすでにこの地に鎮座していたことをうかがわせる記述がある。
それは、「源平盛衰記」に記されている源(木曽)義仲公挙兵のくだりにある。
義仲は、治承五年(1181)海野氏を中心に白鳥河原で兵をあげた。

この白鳥河原こそ白鳥神社に起因する場所であり白鳥大明神そのものである。
これが史書の白鳥神社の初出ではあるが、白鳥神社の創建がいつ頃であるかは明確ではない。
しかし、ここ海野の地は、奈良時代に海野の郷と云われ、この地から献上された品が東大寺正倉院御物として残っている。
このことから、白鳥神社の創建は奈良から平安時代にかけて鎮座されたと推測できる。

白鳥神社は、日本武尊(景行天皇第二皇子)、貞保親王(清和天皇第四皇子)、善淵王(貞保親王孫、滋野氏氏祖)、
海野広道公(海野氏氏祖)の四柱を御祭神として祀っている。
日本武尊は征西、東征と奔走され、この東征の帰り道にここ滋野の地に御滞在になったと伝えられている。
その後、日本武尊は伊勢の国で亡くなられ、白い鳥に化身なされたと伝えられる。

滋野(海野)の地にもこの白い鳥が舞い降り、滋野の民はその地に御宮を立て日本武尊を祀ったと伝えられ、
第十四代仲哀天皇の二年、勅命により白鳥大明神と御諱号されたと伝えられている。

貞保親王は眼病を患い、祢津山の湯で養生され、また白鳥大明神で祈願され、平癒されたと伝えられている。
このように、白鳥神社は、日本武尊と海野氏の氏祖をお祀りしている神社です。

その後、海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けることとなった。
そして、真田氏が上田の地から松代に移封して後、白鳥神社を分社して、海野神社と敬称している。
明治十三年、郷社に列格し白鳥神社となっている。
                                          神社説明より



木曽義仲挙兵の地(海野白鳥河原)

治承五年(1181)義仲二十七歳の六月、後白河法皇の第二皇子高倉宮以仁王の令旨に応じ、平家追討のため、
大豪族海野氏の根拠地であるここ海野郷「白鳥河原」に挙兵した。

馳せ参ずるもの、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、
根井小弥太、楯六郎親忠の武将を中心に、信濃・西上野の将兵約三千余騎が集結した。

白鳥河原で挙兵した義仲は、まず平家の先鋒越後の城氏の大軍約六万余騎を横田河原にて撃破し、
つづいて寿永二年(1183)五月、越中と加賀の国境砺波山の倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破り、
北陸道越前・近江を制圧し、同年七月京都入京をはたした。

翌年の寿永三年(1184)一月、征夷大将軍に任じられたが、その十数日後、宇治瀬田の戦いで敗れ近江粟津の地で戦死した。
この間、海野氏九代の将、海野弥平四郎幸広は、義仲の軍に従い活躍したが、寿永二年十月備中水島の戦いで戦死した。
また、海野太夫房覚明も、義仲の右筆として活躍した。
                                            案内説明より

白鳥神社 本殿

御神木 樹齢700年 目通り7.4m

手水所

神社前の千曲川河原

稲荷神社

新海神社

新海神社 覆屋

狛犬

恵比寿 大黒

媒(仲立ち)地蔵菩薩像(縁結び地蔵)

馬頭観音 庚申塚 百万遍供養

海野宿歴史民族資料館

海野宿資料館 東御市観光協会

入館料: 一般200円  小中学生100円
開館時間: 9.00~16.00 
        5月~9月 9.00~17.00
休館日: 12月下旬~2月末日

長野県東御市本海野1098
Tel: 0268-64-1000

当資料館は、江戸時代(1790年頃)に建てられた旅籠屋造りの建物で、玄関を入って右手には馬屋・台所、
左手には当時帳場があった店の間から始まり、表座敷・中座敷・奥座敷へと並んでいます。

二階は出桁造りで、壱の間から参の間までの大部屋が続き、旅人たちの多くはこのような相部屋で泊まったものです。
裏庭には、風呂場・味噌蔵・白壁の土蔵・地下室の桑屋・養蚕関係の展示室などがあり、
海野宿特有の旅籠屋造りと明治以降の養蚕農家を兼ね備えた建物です。


海野宿は、北国街道(善光寺街道)の宿場町として江戸との交通が盛んで、中央の文化が早くから入り込み、
そのため各地の文化が開け、学問を尊重する気風や、農業の傍ら琵琶に興じ、謡曲に親しみ、俳諧が盛んな地域であった。

明治時代になると各家々では養蚕、蚕種業を始めた。
小雨量、乾燥地であるこの地は養蚕に適し、その中でも本海野は蚕種製造が盛んで、
明治元年の記録によれば十八軒、一万枚以上の種紙を売り出していた。

裏庭にある物置では養蚕、蚕種、製糸を三室に分け、
蚕の飼育から繭、絹糸として使われるようになるまでの過程を分かりやすく展示している。

当地出身の宮坂友作氏は桑の葉が自動的に送り出されていく桑切り機を発明し、全国に売り出され好評を得た。
当時の農機具も保存されており、農具の移り変わりの姿を知ることが出来る。
                                                           資料館説明より

入館案内

養蚕のための気抜き小屋根

この小屋根は資料館の大屋根の上に載っていたものを取り外してここに移したものである。
明治時代に入り、海野は宿場町から養蚕の町へと変わってきた。

蚕を飼育するためには保温を必要としたため、火を焚いて室内を暖め煙出し用の気抜き窓が大屋根の上に設けられたが、
これが小屋根、櫓とも呼ばれた。
この格子気抜き窓は下から紐で操作すれば窓を開閉できる仕組みになっていた。


人が本格的に蚕を飼育するようになったのは、江戸時代からのようである。
長野県では上田地方が最も早くから発展し、特に明治初期から大正初期にかけては生糸が輸出品の大半を占めるようになり、
蚕業は大変盛んであった。

海野宿は明治になって宿場が廃止され、蚕業へと転換していった。
特に海野の矢島行康翁は、「蚕業は治国の大業なり」と養蚕に力を注ぎ、地元はもちろん、
国にまで働きかけたので当地は蚕業では屈指の村となった。

現在残っている海野宿の町並みも蚕業のおかげと言っても過言ではない。
                                                    資料館説明より

小屋根の内側 縦格子の気抜き

資料展示室

手動式消火ポンプ車

海野火消纏

人力車 海野祭りに使われる?

囲炉裏部屋

馬具 鞍・鐙等

馬屋

寛永二年に海野宿が設けられたときは、人足二十五人と二十五匹の馬が常置され、馬は家族と同じように大事に飼われていた。
この頃の駄賃は海野より上田まで旅人を乗せて二十四文であった。
弘化三年(1846)には伝馬屋敷が五十九軒も並び駄賃は上田まで八十九文となっていた。

州浜雁金家紋入り陣笠と陣羽織

白鳥神社神官(石和氏)が
京都に免許状受領の際に用いた。

左は裃で、武士のみが着用されたが
幕末になると町人も着用するようになった。

雷電為右衛門の奉納文書

雷電為右衛門 白鳥神社に四本柱と土俵を奉納する。
文化五年(1808)為右衛門は白鳥神社の祭礼相撲が滞りなく行われることを保証した文書を与え、
続いて文化十二年四本柱の土俵を奉納したが、これはその時の(文化五年)保証文書です。

本堂

鐘楼と梵鐘

海野宿にある興善寺への道しるべ

海野氏菩提寺 興善寺

海野支族真田氏家紋 鬼瓦 本堂

海野氏家紋 本堂

釈迦如来 脇侍文殊・普賢菩薩

庫裡 香積䑓

歴代住職・関係者の墓

無量寿の松

曹洞宗 瑞山寺 興善寺

三門

海善寺 廃寺跡発掘の石塔基礎石



興善寺は、永正三年(1506)前開山太路繁遵大和尚(本寺 萬松山可睡斉の五世 静岡県袋井市久能)
開山林英宗甫大和尚を稱し開創された。

然し開基は海野氏三代幸明公瑞泉院殿器山道天大居士を奉じ興善寺を建立する。

海野氏は、真田氏の本家にして、凡そ千百年前(平安朝初期)清和天皇の孫、善淵王が海野の荘を統治し、
二十八代海野小太郎幸義公(真田幸隆の兄)は天文十年、武田信玄の信濃侵攻により、
神川に於いて戦死し海野氏は滅亡する。(真田幸隆は真田昌幸の父)

当寺は、宝暦十四年(1764)全焼し、その後明治四年に再度全焼に遭い、宝暦年間迄ありし山門を今時再建した。

                                                     興善寺沿革説明より

墓所 

墓石 法号瑞泉院殿器山道天大居士

庚申供養塔  明和四年九月

干支の庚申(かのえさる)にあたる日に行われた信仰行事の記念塔。

寺社の境内や、村の辻などに安置され、道祖神、地蔵尊、二十三夜塔などの石神と同じく、
村人の苦悩を癒し、種々の願いを聞いてくれるものとした、親しみのある信仰の石神である。

貴重な文化財として保存、後世に残すため、当寺内よりここに移築した。

台座には三猿が彫刻されている。

御座石

往古よりの伝承によれば、今より凡そ千百年前(平安朝初期)海野氏の祖善淵王が、
海野白鳥荘に住し、格別に愛されたこの石の上に御座し統治され、
古来より里人が大切にされ、今に伝えられる由緒のある石であります。

曽根区 土屋俊一郎氏の畑に保存されていたものを氏の寄贈により、当寺に移し安置した。

石徳五訓の書 石碑

奇形怪状無言にして能く言うものは石なり
沈着にして気精永く土中に埋もれて大地の骨と成るものは石なり
雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜるは石なり
堅質にして大廈高楼の基礎たるの任務を果たすものは石なり
黙々として山岳庭園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり

永平泰禅 九十四翁

本うだつ町並み

袖うだつ町並み

まゆ箱

つるべ井戸






長久保宿・和田宿

山号 扁額

酒・大蒜飲食しての入山は不可

発色の良い南天

境内の仏像 

開基清和天皇六孫海野幸明公墓所の碑

瑞泉院殿まで判読以下欠落

旧中山道 和田宿

この道は、江戸時代の中山道である。
和田宿は慶長七年(1602)中山道の設定により開設された。

下諏訪宿まで和田峠越えの五里余(約20㎞)の道筋は、慶長十九年(1614)ごろ完成したと云われる。
名称は、はじめ「中仙道」であったが、東山道の内の中筋の道ということで、享保元年(1716)に「中山道」と改められた。

中山道は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで六十七宿であるが、
京都までの六十九宿、百三十二里十町(約520㎞)を言う場合もある。
一日七里(28㎞)とすれば、十七日の行程である。

木曽路を通るので「木曽街道」とも呼ばれた。
信濃には二十六宿が置かれた。
和田宿は、江戸板橋宿から二十八番目の宿場である。

宿成立以前から人家のあった中町・下町を中心に、上町が、さらに周辺の雨原・細尾・鍛冶足・久保などから人を集めて宿を構成し、
さらに正徳三年(1713)には下町に続く追川越えの橋場・新田を宿場に組み入れている。
宿場は、幕府の公用旅行者の継立業務を取り扱うところであったが、
参勤交代で中山道を通行する三十四家の大名や、一般旅行者が休泊する場所でもあった。 

天保十四年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると宿の長さ七町五十八間(約870m)、人数五百二十二人、家数百二十六軒、
内本陣一軒、脇本陣一軒、問屋二軒、旅籠二十八軒(大12、中4、小12)となっている。
問屋、本陣、脇本陣、木問屋などは中町付近に集中し、それらを中心に上町や下町まで旅籠屋や伝馬役、歩行役を勤める家、
茶店、商家などが並んでいた。
それらの多くの家が農業を兼ねていた。

和田宿は下諏訪宿まで中仙道隋一の長丁場であるうえ、上り二里半、下り二里半という和田峠の難所をひかえ、
継立にあたる伝馬役、歩行役の苦労は並大抵ではなかった。

天保三年(1832)に和田宿で動員した人足は、延一万七千七百五十九人、馬は延七千七百四十四匹にのぼっている。
文久元年(1861)十一月の皇女和宮通行の際は、四日間に延八万人が通っている。
その後も幕末まで大通行がしばしばあった。

五十人、五十匹の宿場常備の伝馬迄まかないきれない分は、元禄七年(1694)に定められた助郷制によって、
近隣の村から動員された。
幕末は特に出勤回数が多く助郷村の負担は大変なものであった。
                                                    案内説明より                                                 

和田宿道標

中山道和田宿資料館

和田宿本陣


この建物は中山道和田宿の本陣として、文久元年(1861)に建設された。
この年の三月には宿場の大半を焼失し、前の本陣もこの際灰燼に帰したが、
十一月の皇女和宮降嫁の宿泊地とされていた和田宿では、
この使役を全うすべく幕府の拝借金を得て、宿場の復興が行われその中心建物として再建されたものである。

本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者が生活する「居室棟」に別れており、
この建物は「居室棟」にあたる。

明治維新後は本陣の機能を終えて、役場、農協事務所として昭和五十九年四月まで使用されていた。
役場の新庁舎移転に伴い解体の運命にあったが、調査の結果和田宿における、重要な遺構としての価値が認められ、
昭和六十一年より解体修理が行われ、五年の歳月をもって、往時の姿に復元された。


   中山道和田宿本陣御入門
明治期に入って和田宿は廃止され、本陣座敷棟は、丸子町(上田市丸子町)龍願寺へ、
また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。

ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、
平成元年度、「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行百年記念事業の一環として、
日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。

居室棟・冠木門は旧位置に復元したが、御入門は、概に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。
また、座敷棟については同じく敷地などの関係から復元することはできなかった。
                                                         案内説明より

和田宿本陣  長和町のページ

開館時間: 9.00~16.30
休館日: 月曜日(祝祭日の時翌日)
       12月1日~3月31日
入館料: 300円(高校生以上)
       150円(小・中学生)
上記入館料で以下資料館観覧可
資料館「かわちや」・「羽田野」・「大黒屋」
和田黒曜石石器資料館

長野県小県郡長和町和田2854-1
Tel: 0268-88-2348

中山道和田宿本陣御入門

居室棟

居室棟 右縁側

居室棟 石置き屋根

問屋跡

河内屋 漆喰壁

和田宿旅篭 河内屋(国指定史跡)

文久元年(1861)三月十日の大火で焼失したが、その年の十一月、本陣、脇本陣などと同じく再建された建物である。
和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方であり、出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、
江戸末期の建築様式をよく伝えている。

昭和五十六年度、歴史の道整備事業の一環として「歴史の道資料館」として復元したものである。
総工費三千万円、延べ床面積四百二十二平方メートル。
 

かわちや出桁門

歴史の道資料館(かわちや)

羽田家住宅

文久元年の大火焼失後、和田宿町並みの中心部に建てられた平入り出桁の門付旅籠型の伝統的な遺構です。
明和二年(1765)以降同族の名主退役により明治維新までまでを務めた定名主羽田家の役宅である。

門、鬼瓦の六文銭の彫りはかって真田氏の給人の証であろうか。
勝手の側も表から裏へ九間半の通り抜けの土間は宿場建築の特徴である。

現在農家レストラン「かあちゃん家」を営んでいる。

羽田家住宅側面

出桁格子付窓

旧旅篭 大黒屋

文久の火災で焼失後建てられた旅籠「大黒屋」。
六間×七間の出桁造りで隣に並ぶ問屋と共に大型の建築物である。

安政年間以降昭和初年頃まで穀物商を営み、
戦後に奥座敷の床の間と勝手奥の小座敷壁面の帳箪笥などは採光のために取り払われ改造が加えられている。
また、明治時代に道路が堀り下げられたとき道路に合わせ町並みより奥へ移動したと云われる。

土蔵

脇本陣 翠川家 (非公開)

本陣に次ぐ格式をそなえ、本陣差し合いの際、一方の大名が休み泊まりました。
平素は上級武士などの宿泊所に当てられ、和田宿には翠川氏と羽田氏の二軒がありました。

文久元年(1861)三月十日の大で和田宿内百九戸を全焼した際、脇本陣も類焼しました。
同年十一月、皇女和宮降嫁の際和田宿宿泊のため、昼夜兼行で宿内復旧工事がなされ、この脇本陣もその時の建築です。

現存の建物は翠川家の御殿部分のみではありますが、上段の間、二の間、脇上段の間、次上段の間のほか風呂場、厠など
江戸末期の姿をよく伝えていて、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構です。

曹洞宗 信定寺

本尊は釈迦如来(鎌倉時代)。
戦国時代武田信玄が信濃に侵攻し、時の和田城城主大井信定は戦死をする。
その菩提を弔うために、和田城の麓に天文二十二年に建立され、寺号を信定寺とした。

德川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊まり摂関家二条家の祈願時となり、その後諸大名参詣した。
江戸時代十四代住職活紋禅師は松代藩真田家家臣、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来山するもの千余人と云われている。
佐久間象山と一対一で世界観を語ったという。
                                                案内説明より

鐘楼付山門

本堂

梵鐘 (鐘楼と梵鐘)

旧梵鐘は元禄三年の作造で、江戸時代までは三門の右側にあり、明治十九年に現在の場所に設置した。
昭和十七年戦時下で供出するまで、朝夕鳴り響く鐘の音は村の人々の心の拠りどころとなっていた。

新しい鐘のできるまで鐘楼の保存のため昭和四十四年に大修理を行い、昭和五十三年に新しい鐘をつるした。

山門を兼ねた二層の楼門は柱が細身で、やや腰高でなんとなくおぼつかない形におもしろみがあり、
又、鯱が逆立ちしているのが趣きがある。
平成十二年に大改築した。

扁額

魚鼓(魚形板)

虚空蔵堂

安永二年上の山にあったものを明治三十四年山門の左側に建立、昭和十年修築した。
平成十二年現在の位置に移転新築した。

   虚空蔵菩薩
この菩薩を念ずれば記憶もよくなり、忘れずに何でも願いをかなえてくれるとも言われている仏様です。
無病息災、商売繁盛、良縁結実、交通安全と寅年、丑年の守り神としてあがめられている。
                                                               案内説明より

聖観世音菩薩(風越観音)

長久保宿

長久保宿 旧本陣跡 表門

長久保宿は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、真田氏の配下で宿場成立後に本陣・問屋を勤めた石合氏、
問屋を勤めた小林氏が中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに設けられました。

しかし、寛永八年(1631)の大洪水によって流失したため、河段丘上のこの地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向「堅町」を形成し、
後に宿場が賑わうにつれ南北方向に「横町」を形成していき、L字型の町並みになりました。

長久保宿には最大で四十三軒もの旅籠があり、中山道の信濃二十六宿の中では、塩尻宿に次ぐ数をほこりました。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠・和田峠の難所を控えていたことや、
大門道、大内道、北国街道へ接する交通の要衝に位置していたこと。

そして、温泉場でもある下諏訪宿に宿泊した場合、日程的に好都合だったことが上げられます。
明治時代になっても宿場のにぎわいは続きますが、次第に幹線道路と鉄道が整備されると、中山道の交通量が減り、
農村へと姿を変えていきました。


長久保宿旧本陣跡

石合家は長久保宿創設当時から、江戸時代を通して本陣と問屋を勤め、
四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘が嫁いでいます。

当時の建物としては、大名や公家などの賓客が利用した「御殿」と呼ばれる座敷棟と、
幕末ごろの構築と推定される表門が現存し、ともに町文化財に指定されています。

御殿には、上段の間・二之間・三之間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下)・十二畳之間が残り、腰高障子や欄間、
書院造などの格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。
構築年代は詳らかではありませんが、江戸時代中頃の寛延二年(1749)の絵図面に現状と同じ間取りが記載されていることや、
細部意匠の様式から十七世紀後半と推定され、中山道中では現存する最古の本陣遺構であると云われています。

また、石合家には江戸時代初期からの古文書や、高札などの歴史資料が数多く保存されていて、
これらも町の文化財に指定されています。
                                                        案内説明より

旧本陣跡 高札場再現

石合家敷地内住宅

竹内家住宅(釜鳴屋)

釜鳴屋は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営んでいた。
この住宅の建立年代は江戸時代前期と云われているが、不詳である。
大きさは間口九間半(17.27m)奥行き十間半(19.08m)の正方形に近い形で、建坪約百坪(330㎡)、片側住居二列型の典型である。
「通り庭」(土間)は幅三間半(6.36m)で奥まで通し、その中に細長く板敷をとっている。
土間の上は、巨大な小屋組みが現れている。
屋根は当初板葺、昭和五十年葺き替えた。
屋根には「本うだつ」が上げられている。
「うだつ」については、多くの論考があるが機能については、防火のためと格式の表示の為との二論がある。
「うだつ」には、ここに見るような「本うだつ」と二階の軒下部分の「軒うだつ」の二種類がある。
竹内家には、笠取峠立て場図版木と、宿場札(長久保宿のみ通用する札)の版木も、町文化財として指定されている。
                                                       案内説明より

脇本陣跡

釜鳴屋

   問屋・小林家

「久右衛門」を代々襲名して、古くから宿場問屋を勤めてきました。
主屋は明治三年の大火で罹災し、再建されたものです。主屋が街道から後退して建てられていて、この地域では異例ですが、
もとからこの位置にあって、街道沿いには門長屋や人足溜りがあったと伝えられています。

天保期(1830~1844)と推定される「宿絵図」の<問屋・久右衛門>の屋敷構成は、伝えられている通り、
街道沿いに付属屋があり、主屋は後方にあります。
そして江戸側に門があり、間取りは現状とは異なっていますが、客座敷へ直接出入りできるようになっていたことも判ります。
建物の後方、南庭には大きな池も記されております。

現在の主屋は、「みせのま」や土間部分が改修されていますが、中廊下式です。
客座敷の部分を大切にした使われ方を踏襲し、再建にあたっては、その独立性をいっそう高めたものと見うけられます。

総二階建てで切妻造りの妻入り、出桁造りです
妻入りとしたのは、建物の短辺に梁を架けないと、総二階建てですから、いっそう棟の高い建物になるためと思われます。

正面は、玄関を改修、前面廊下を設けるなど、改造整備をしておられますが、
出格子を付けた二階部分は、良く旧状を伝えています。

後方の土蔵には、「享和三年(1803)、小林久右衛門墨済/棟梁  佐久郡柳沢(国)蔵」と記した棟札が残っております。
その内壁部は、谷文晁が描いたという恵比寿、大黒の壁画があります.
久右衛門は谷文晁に師事していたと伝えられています。

屋根には、旧主真田氏との関係が伺える「六文銭」の鬼瓦が見られます。
また、木を二つ並べた林の文字に因んで、佐久間象山が命名した『雙樹園』の書額が残されています。


   古久屋・羽毛田家

江戸時代天保年間頃の構築と推定される旅篭です。
この時期の標準的規模の旅籠建築として、唯一、現存する建造物で、表二階の好子や屋号看板がその風情を伝えています。


   辰野屋・竹重家

横町の長安寺参道南側に位置する大きな旅籠です。
出桁造りで総二階建ての母屋は、江戸時代末頃の構築と推定され、
壮大な建築構成と伴に、厳選された材料やその精密な加工性が、宿場の繁栄をしのばせます。
                                                               
                                                       案内説明より

小林家住宅(問屋)

問屋

羽毛田家(古久屋)

古久屋屋号

竹重家住宅(たつのや)

たつのや屋号

笠取峠・松並木

この峠道は、近世五街道のひとつ中山道の笠取峠である。
德川政権は、関ヶ原の戦いの後の慶長六年(1601)東海道に伝馬性を実施し、
翌七年には中山道などにも着手した。

慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置と共に街道筋に松や杉を植えて、
並木街道をつくらせた。
笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年慶長二年(1597)に設けられた芦田宿と、
およそ一里半(約6㎞)の距離を隔てた長久保(長窪)宿の間にある。

笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、
近隣の村人と共に峠道約十町(1.6㎞)にわたって植樹し、
その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。

歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。

永い歳月の間、風雪に痛み立ち枯れ、大正十三年(1924)の長野県の調査によると二百二十九本があった。
昭和四十九年(1974)長野県の天然記念物に指定された。
現在は、百十本である。

立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。

陶板浮世絵

松並木

句碑 「繕う多 道や春めく 人通り」

参照: 旅行観光見聞録→温泉と観光→その7→和田宿温泉ふれあいの湯 

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笠取峠公園案内板

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高遠城址公園
高遠コヒガンザクラ 

 
絵島配流地墓所
  高遠藩藩校 進徳館  高遠藩御殿医馬島家 

桜雲橋と問屋門のコヒガンザクラ (長野県天然記念物・高遠のコヒガンザクラ樹林)

この桜樹林は旧藩時代「サクラの馬場」の並木となっていたものです。
明治5年(1872)大きいものは切られたが、明治8年(1875)移植が行われた。
その後幾たびか補植され今日に至っていますが、いずれも同一種類のものの補植に限られました。

現在は50年以上の老樹230本余、30年以上のものは260本、この他に若木を交え約800本で、
このすべてがコヒガンザクラです。
このように若、老樹を交えた、しかも純粋に一種類だけの樹林は数が少ない。


   高遠町桜憲章 (伊那市高遠)
私たちが遠い祖先から受け継いできた、三峯川水系県立公園地内にある国の指定史跡、
「高遠城跡一帯に群生する長野県天然記念物コヒガンザクラ」の樹林を中心に、
町内各所に点在するコヒガンザクラの貴重な財産を、後世に継承するため、
適切な管理のもとに、保護育成する必要からここに桜憲章を制定する。

   桜精神
桜は、日本を代表する花であり、また高遠町のシンボルでもある。
桜を愛する心は、人を愛する平和の心の現れであって、
桜を愛することを通じて、すべての人間の友情の輪が広がるとともにその心が尊ばれる。
桜は、人の生活の中に育ち、人の心に様々な良い感化を与え、文学、学術、鑑賞及び自然科学的な考察の糧となり、
  人に重んぜられると共に人に愛せられる。
桜は、調和のとれた自然の中で保護育成され、十分な管理によってのみ子々孫々まで伝えられる。

桜憲章 一章~八章
                                                 案内説明より
                                                    

高遠城址 (国指定史跡)

「天下第一の桜」の石碑 (二の丸)

南アルプス 仙丈岳方面 

中央アルプス 木曽駒ヶ岳方面

本丸跡

   高遠城の戦い (古戦場跡)
天正十年(1582)二月、織田信長は、武田信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。
伊那口からの嫡男織田信忠率いる五万の兵の侵攻に、恐れをなした伊那谷の諸将は、
城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠城に迫った。

時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める軍事僧の耳を切り落として追い返し、
わずか三千の手兵を以って敢然とこの大軍を迎え撃った。
古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われているが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、
雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。

城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。
この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。
高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。


   本丸跡
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、
さらに、その外側に三の丸を廻らせた城郭三段の構えをもっていた。

天正十年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替り、
元禄四年(1691)からは内藤氏が廃藩まで八代、百八十年間にわたって城主であった。

江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守はなく、平屋造りの御殿や櫓、土蔵などがあった。
本丸御殿は政庁であると共に藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、
今では明治十八年(1875)ごろに移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、
幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。


   二の丸跡
本丸の東から北に廻っている曲輪で、外周は空堀によって防備を固めていた。
三の丸から北口の木橋(現在は土橋)を渡ったところから冠木門(棟門)、桝形、櫓門と続き、
門を抜けると広庭(武者溜り)となる。

出征の時などは、この広庭に集合して隊伍を整えたと言われている。
二の丸には時代によって変遷があるが、役所向きの多くの建物が建てられ、厩、土蔵なども置かれていた。

またこの二の丸で往時の姿を留めるものには土塁がある。
これは、東側曲輪端に高遠閣の裏手から南に向かって延びる土盛りで、深い堀切とともに城郭の姿をよく留めている。


   法幢院曲輪
二の丸から堀内道で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、
曲輪の東方には幅六メートル、長さ百七十メートルの馬場が続いていた。

かって、此処には法幢院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、
一般の人も参詣できるようにと、城の東、月蔵山の麓の龍ヶ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。

この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時には残雪が、紅葉の時には新雪が目にも清かに映える。

                                                          案内説明より   

二の丸跡 
(高松宮宣仁殿下御手植えの桜)

法幢院曲輪跡

問屋門と桜雲橋

新宿区長 記念植樹

白兎橋

文政の頃(1818~1830)、高遠で酒造業を営み、藩の仕送り役を勤める廣瀬治郎左衛門(1768~1843)は、その号を白兎と称し、
謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であった。
文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押し寄せた百姓らに与え、大事に至らせずに済んだという。
また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のため尽力した。
次郎左衛門の曾孫、省三郎は私有地となっていた法幢院曲輪を買い上げ、それを公園として寄付した。
その時、南郭へ通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号に因んで「白兎橋」と名付けたのである。


   問屋門
この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。
江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、
また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人を置いていた。
高遠の問屋は、二人の名主との合議によって町政にも参与していた。

昭和二十年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、
歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことが出来ない景観シンボルとなっている。


   新宿区 区長山本克忠記念植樹 (昭和五十九年四月二十日)
五街道整備当初甲州街道の最初の宿場は高井戸宿であったが、千住、板橋、品川に比べ日本橋からの距離が長く、
高井戸までの中間の地に宿場を開設することが各方面から求められていた。

開設前から中間の地として、青梅街道追分の地に便宜的に休憩所的な茶屋、旅篭、木賃宿があったらしいのではあるが、
正式に幕府から宿駅開設許可があり、甲州街道最初の宿場として新しい宿駅で新宿との名称を得た。

宿場開設にはそれなりの町屋の規模が必要になり、当時予定地にあったのは高遠藩内藤家の中屋敷であった。
幕府は内藤家より屋敷の一部を割譲させ、宿場町として発足した。

新宿駅を中心とした江戸府内側は内藤家の拝領地であったので、それを縁としてここ高遠に記念植樹したと思われる。

太鼓櫓

江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。
鼓楼は搦め手門の傍らにあって、楼上に三鼓を備え、常に番人を置いていて、
時刻が来ると予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。

廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設され時を報じていたが、明治十年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、
旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年(1943)まで続いていた。

戦後、太鼓は三の丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、
現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。


   新城(仁科盛信)神社・藤原神社
天保二年(1831)高遠藩内藤家七代藩主内藤頼寧は、家臣中村元恒の建議により、
天正十年(1582)高遠城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武田晴信(信玄)の五男、
仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀る崇拝した。

以前より城内には、先代内藤頼以が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、
廃藩後の明治十二年(1879)この神社を「新城神」と合祀して今日に到っている。

なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在、高遠町歴史博物館に保管されている。


   高遠閣 (登録有形文化財)
高遠閣は昭和八年当時、高遠城址公園内に会館を立て、町民の集会や観光客の便に供することが町の発展のため
有意義ではないかという愛町の思いから、東京高遠会の有志の発案により、日本画家池上秀畝氏、出版業矢島一三氏、
鉱山業廣瀬省三郎氏、弁護士小松傳一郎氏の四名の寄付により、当時の町長廣瀬常雄氏の協力のもと、
棟梁竹内三郎氏を中心に建築が進められ、昭和十一年十二月六日に完成しました。

この建物は間口十四間(25.4m)、奥行九間(16.4m)峯高十間(18.2m)、木造総二階建、入母屋造、
鉄板葺(建築当時はこけら葺)の大規模建物で、大正・昭和初期の稀有の建物として、
平成十四年八月二十一日に国の登録有形文化財として登録され、
長野県天然記念物桜樹林の中に高くそびえる赤い屋根の偉容は、
遠方からも眺められ史跡高遠城址(昭和四十八年国指定)のシンボルとなっています。

平成十五~十六年の二ヶ年に渡り施設の保存及び有効活用を図るため、構造補強、バリアフリー等の工事を行い、
平成十六年十月十一日に完成しました。

地域住民の各種活動の場として、史跡高遠城址を訪れる観光客の皆さんの休憩所などとして利用されています。

                                                     案内説明より

盛信神社・藤原神社

高遠閣

搦め手門跡

築城当初、表門である大手は城の東、裏門の搦め手は西にあった。
城は江戸時代になり、幕藩体制の基盤が揺るぎないものになってくると、本来有していた軍事的要素が弱まり、
権威の象徴としての城にかわっていきました。

また加えて、城下町の発達や、交通上からも、自然と西方の位置が便宜となったことから、
江戸時代初期に城の裏表口を変えたと言われている。

この堀に架かっていた長さ十四間、幅二間の橋を渡ると、冠木門、桝形に続いて、間口五間、奥行二間の櫓門があり、
これと隣接して番所が設けられ、厳重な警護がなされていた。

                                               案内説明より

空堀と土塁

高遠湖と南アルプス方面

高遠コヒガンザクラの若返りの成果

昭和三十四年四月日本風景協会徳川宗敬氏一行二十余名、高遠城址に来られ、
その中に植物学大家の本田正次博士に昭和二十八年より若返りの処置を施してきた理由を説明すると、
博士は園内の老木を見て 「これは君 桜の修正を巧みにとらえたものだ 君 怯ることなく続け給え」 と指示をうけたもので、
今ではこのように若芽の根が大地に入り、親木の上部は枯れて無くとも若木がこのように育ったものです。

この方法は高いところに芽生えた若木の根が親木の樹皮の中の水分で生きているのを見て、
これに壁土をつけてこの根を大地に誘導し土中に根を張るようにしたもので、この間およそ五ヶ年であります。

                                               案内説明より

藩校 進徳館 (国指定史跡)

学門 (表門)

進徳館は高遠藩内藤家八代内藤頼直が前藩主頼寧の遺志を受け継ぎ、藩士中村元起の熱望により
大学頭林復斎の助言を得て、万延元年(1860)三月郭内三の丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設した藩学校です。

頼直が「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先成るは無し」と
藩学校設立の趣意を説き、老職岡野小平治を文武総裁に任じ、中村元起、海野幸成を文学師範に命じて、
和学、漢学その他筆学、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術。柔術、後に洋学を講ぜしめた。

優秀なる教授を網羅して、進歩的な教育が行われ、多くの偉材を育成し、特に教育界に中堅人物を輩出した。
旧進徳館の主要建物は八棟造り、平屋茅葺きで現存するものは前通りの東西二棟と玄関及び表門で、
その他は明治四年(1871)閉鎖後取り払われた。

前通り西棟は聖廟、総裁、学監教授方師範詰所、教場、生徒控所などを含んだ講堂で、東棟は生徒控所であった。
進徳館は松代文武学校と共に信濃諸藩の藩学中その遺構を最もよく存するもので貴重な史跡である。

扁額 

式台玄関

五聖像檀 左から孟子・曽子・孔子・顔子・子思子

五聖像とは、儒学の祖である孔子と、孔子の更訂で四賢人と言われる孟子、曽子、顔子、子思子を彫刻して祀った像のことです。
江戸時代、儒学を教えた幕府直営の昌平坂学問所(東京都湯島聖堂)や各地の藩校では、
敷地内に廟を設け孔子を祀っていました。

進徳館でも、開校から二年後の文久二年(1862)、辰野村(現長野県辰野町)の小沢伝十が孔子像を献上し、
館内に聖廟が設けられました。
さらに三年後の元治二年(1865)、北福地村(現伊那市富県)の那須隆達ら四名の申し出により、四賢人の像が献上されました。

これらの像は昌平坂学問所の大成殿に祀られていた像にならったもので、江戸の絵師・野口幽谷が模写した絵を原図として、
松川村(現下伊那郡松川町)等の彫刻師が桂の材を用いて彫り上げたものです。
元治二年二月中旬、五聖像がそろって初めての釈奠の日(孔子を祀る典礼)には、藩主(代拝)、藩重臣、職員、
生徒らが参加して盛大な式典が行われました。

五聖像の座位は、孔子の生誕地・中国山東省曲阜にある孔子廟内大成殿の座位に従っています。
明治時代になり進徳館が廃校となった後も、五聖像は大切に守られてきましたが、経年による傷みから保護するため、
平成九年に高遠町歴史博物館へ収蔵され、平成十四年には伊那市有形文化財に指定されました。

                                                      案内説明より

参照: 湯島聖堂 (旅行見聞録→街道てくてく→中山道てくてく→日本橋~御茶ノ水)

教場裏縁側



絵島囲み屋敷と菩提寺墓所

絵島の囲み屋敷 門

絵島(江島)は七代将軍徳川家継の生母、月光院に仕えて大奥に入り、やがて出世して大年寄りとなり
大きな権勢を掌握するに至ったが、事件を起こした高遠に永々遠流となった。

絵島事件は、正徳四年(1714)正月十二日、月光院の名代で芝増上寺の前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途、
「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。
家宣の正室天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか死罪二名、流罪十名、
その他大勢の人々が罪に問われる当時としては非常に大きな粛清の嵐であった。

月光院の口添えにより減刑され遠流となった絵島は、最初この場所から四キロメートル上流の非持(伊那市長谷)の
囲み屋敷に入れられたが、享保四年(1719)この花畑の地籍に移された。
そして寛保元年(1741)四月、六十一才で病死するまでこの囲み屋敷で幽閉の生活を送ったのである。

この囲み屋敷は残存する古図により昭和四十二年ほぼ同じ地点に復元されたものである。

                                               案内説明より

忍び返し付板塀

屋敷裏側

はめ殺し格子戸

はめ殺し窓

有島生馬の歌石碑

物語 まぼろしなりし わが絵島
    墓よやかたよ 今うつつな里    十月亭

絵島(江島)墓所  蓮華寺

墓所 本堂裏最奥

七代将軍家継の生母月光院に仕え大奥の大年寄りとなった絵島は、正徳四年81714)絵島生島事件で罪を問われ、
高遠へ遠流となり一生を終えた。

流罪中絵島は心の安住を求め、法華経を信仰し当山住職の法話を聞き、お経を唱える毎日を過ごしました。
寛保元年(1741)「もし相果て候はば日蓮宗にて候」との遺言で当山に土葬埋骨された。

信敬院妙立日如大姉

永代供養墓 (女人(絵島)成仏像)

日蓮宗 妙法山 蓮華寺

鐘楼と梵鐘

庫裡

七面堂 (七面天女)

延宝八年(1680)当山二十一世日順聖人代に建立。
約三百余年前の建物である。

高遠城主鳥居忠則が徳川家継の追善のため、
廟所として寄進「巌有院殿正一位大相国」の位牌を奉安した当山最古の建造物である。

その後元禄二年(1689)日蓮宗守護神七面大明神を奉祀し、人々の信仰を集めた。
数回の修理を経て、昭和六十二年高遠町(現伊那市高遠町)町宝に指定される。
平成九年大改修復元工事をし現在に至る。

観音堂 (聖観世音菩薩)

墓所から見た高遠城址



高遠藩御殿医 旧馬島家住宅  県宝

馬島家住宅 (切妻 妻入り)

馬島家は享保年間より幕末まで高遠藩に勤仕した御殿医の屋敷である。
馬島氏は松本藩水野家に仕えた眼科医であったが、水野家改易(享保十年松本大変・水野様大変)にともない失業した。

その後、高遠初代馬島柳泉が享保十二年(1727)に高遠藩主内藤頼郷の眼科医として仕えて以来、
啜江・柳淵・柳軒・柳一郎と五代にわたって御殿医を勤めた。
馬島氏の子孫は明治以降もこの地で医院を経営した。

こうした藩医の屋敷が残っている事例は県内では他に例がなく、全国的に見ても珍しい。
この建物は「御家中屋敷絵図」や馬島家由緒書きなどから天保七年(1836)の建築であることが判断でき、
この頃の高遠藩の規模の大きな住宅の間取りを良く示している。

建物の特徴としては、玄関の間を診察室に使い、式台脇に小部屋があるなど一般の武士住宅と異なっている。
また、玄関寄付きまわりに当初の建具が残っている点があげられる。
武士住宅の規模としてみると、「御家中屋敷絵図」にある高遠藩士の屋敷二百六十一戸のうち
二十七戸以内に入る規模の大きさである。


水野家改易
享保十年(1725)、信濃松本藩水野家六代藩主水野隼人正忠恒が、八代将軍徳川吉宗拝礼の後江戸城松の廊下において、
長門毛利家世子毛利主水正師就に刃傷沙汰に及び所領没収となったが、家康生母「於大方」の実家である稀家により、
家名断絶は免れ、禁固刑の命令を受けた。

その後の水野家は旗本として、後大名として復帰し幕政にも係わる(老中)ようになる。、
約二十五年前の元禄十四年(1701)におこった「元禄赤穂事件」の余韻も残る中起きたこの事件は、
それと比べなんと緩やかな裁定となったこと。

時の幕府要人に水野家一門(若年寄 水野隠岐守忠定)がいたこと、被害者との面識がなく精神的または病的と思われたこと、
譜代大名であったことと、德川家外戚の家門であったことなどが影響したと言われている。

                                                 案内説明より

棟飾り

式台玄関

通用玄関土間

仏壇

神棚

雛人形展示

台所水回り

囲炉裏茶の間

囲炉裏の薪置場

漆喰と下板壁のツートンカラー

東側廊下の波打つガラス戸

屋敷内の祠

東側の中庭

四畳 茶室としても利用した

板葺石置き屋根の展示

ALWAYS 三丁目の夕日
      ロケ地の住宅となった

馬島家住宅平面図

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善光寺道七福神    案内説明より

川中島駅付近から妻女山方面?

しなの鉄道橋梁から犀川

姨捨から善光寺平と千曲川

善光寺平を雄大に流れる千曲川と山谷から流れ落ちるような犀川。
この合流地点付近の両川に囲まれた地帯が戦国の竜虎相対した川中島と呼ばれるところです。
左写真には遠く川中島方面と横方向妻女山が、左写真には縦方向からの妻女山と思える山が見えた。

姨捨からの風景は日本三大鉄道車窓景観(北海道根室本線・九州肥薩線)といわれている。
高速道路SAをよく利用するので景色は見慣れたものですが、鉄道となるとまた違った趣があります。
ここを蒸気機関車の時代はゆっくりと走っていたので、林の間間によく見ることが出来たのですが、
今の高速電車では瞬間に通り過ぎてしまうので、目的とするならば各駅に乗り下車するとよいと思います。

ところでこの川中島についてウィキペディアの信濃川項目の書き込みでは、本流千曲川の源流を関東山地甲武信岳として、
信濃川を日本最長の川(367㎞)としているが、千曲川の支流犀川については次の書き込みがある。

犀川は千曲川とここで合流するのであるが、合流地点から上流を比較すると犀川の方が延長・流量・流域面積で、
合流地点から上流の千曲川をともに上回っているとある。

つまり、信濃川河口よりの長さとしては本流の甲武信岳源流より支流の槍ヶ岳直下源流の方が長いと説明されている。
河川法によると本流の長さが川の長さとなるので先の367㎞となっているとのことである。
犀川が本流とした場合信濃川の長さは380㎞以上となり甲武信岳源流より長くなる。

車で千曲川の橋をしなの鉄道の田中駅付近で渡るのであるが、行程中に川中島から同程度の距離にある、
篠ノ井線田沢駅の犀川を通るとその流量の大きな違いに気づいていた。
少し下流の明科駅付近では高瀬川が合流するのでなお増すのであろう。

此のことは、善光寺平の地形にもよく現れていて、その流れにより大量土砂が裾花川付近から平野に流れ込み、
広大な扇状地を形成し、千曲川の流れを山裾に追い込んだ様な地形に見える。
名だたる善光寺は村の鎮守と同じように、水害をうけ難い犀川北部の扇状地の上に築かれたのであろうことが、
想像される。


信濃美術館

特別展として大原美術館絵画展を特設展示室で開いていた。
三展示室見学券を購入して入ったけれど、絵画を見る目のないものにとって物足りなさが残った。
これは入場する前から危惧していた問題であった。

では何故?と思い返してみると、とんでもない悪魔がささやいた事だった。
お前は人生終わりに近づいている、あの世に行って「絵画に興味も見る目もないのか」と云われてもよいのか。
で、押されるままに入場した、とこんなストーリーが組立可能だったことだ。

このストーリーが成立されるための絵画の印象がそこにはなかったことが原因と退場して解った。
それは私自身が絵を描くことがない人生をこれまで送ってきたことだった。
つまり、歴史に興味のない人がご当地川中島合戦の展示物を見学するのと同じことと思い至ったこと。

しかしながら、絵を見ることが嫌いなわけではなく、ただ、一枚の絵の前に立ち想像したりすることが出来ないだけ。
絵の中に立体感を見いだせない感性の問題だと。

その感性がないものには、写実的な絵画や彫刻などの直観的に理解できるものがいいと思った次第。

信濃美術館 東山魁夷館

JR長野駅

寿老人 刈萱山西光寺

長寿、財運、子孫長久の御神徳があり、中国、宋時代の人で、南極老人星の化身と言われ、南の方角を守る神です。
善光寺七福神でも一番南に祀られている長頭の老人で、右手には巻物をつけた杖を持ち、左手には宝珠を捧げています。

   浄土宗 刈萱山西光寺
草創正治元年(1199)と称せられ、刈萱上人(寂照坊等阿法師)の開基である。
その後、石憧丸(信生坊道念法師)が師の刈萱上人(実の父)を慕って、この寺に来り入寂したところで、
境内に父子両法師の墓があります。

刈萱上人とは筑前の国司、加藤左衛門重氏が遁世出家した姿で、石憧丸父子の物語はこの地で終焉しています。
また、境内の大蛇、小蛇の塚は昔旭山で松の木と間違えて樵に切断された大蛇の墓です。

朝日山大蛇の塚

千里御前、刈萱上人、石憧丸の墓

大黒天 

大黒天はもともとインドの戦の神でしたが、日本では大国主神と混同され、農産と福を授かる神となっています。
米俵の上に乗り、右手で打ち出の小槌を持ち、左肩に袋を背負っています。
元々この神社近くを通っていた西山街道(大町街道)沿いに祀られていましたが、現在地に移されました。
農産の神として新暦の8月20日には秋祭りが行われていますが、旧暦時代の月日を当てはめていて、季節感は無くなりました。

大国主神社

無人のスタンプ装置

紫雲山十念寺の大仏 阿弥陀如来

福禄寿

福(幸福)、禄(財運)、寿(長寿)を授けてくれる神です。
火除けの秋葉神社に祀られている三尺坊(天狗)は、福と禄と寿の御神徳があると言われ、福禄寿の化身とされています。
8月23日には秋祭りが行われています。

秋葉神社

弁天堂

インドの河の女神で、日本でも池や海辺に祀られている神です。
昔この辺りに池があったので、この地に祀られてと言われれます。
琵琶を弾く御姿であらわされ、学門や芸能の御神徳があり、花街だった権堂町の芸妓たちの信仰を集めました。
8月27日には施餓鬼会法要と弁財天祭が行われます。

前立ち弁天像?

浄土宗安楽山往生院得行寺(本堂

西宮神社

境内 豊田稲荷神社

恵比寿

右に釣竿、左手に鯛を抱えたお姿で、七福神の中では唯一日本独特の神です。
商売繁盛、家内安全、除災開運、五穀豊穣などの御神徳があります。
恵比寿の神社としては長野県下では最も古く、11月19日、20日のえびす講祭りは晩秋の風物詩で、
花火大会などが開催されています。
また年明けの1月19、20日には初えびす祭がおこなわれています。

藤屋旅館脇の布袋様

中国に実在した僧です。
お腹が大きい福々しい御姿で、
肩には大きな袋を背負っています。

像は太平洋戦争で撃沈された戦艦大和の
最後の艦長有賀幸作中将の生家(辰野町)
に伝わったものです。

世尊院釈迦堂 毘沙門天(多聞天)

仏法を守る四天王の一人で、北方の守神です。
善光寺七福神でも最北に祀られています。
甲冑をつけ、左手に宝塔を捧げ、右手に矛を持ち、両足で邪鬼を踏み押さえています。

平安時代の作で昭和42年に市指定文化財第一号になりました。
世尊院本尊釈迦涅槃像の左脇に安置(写真等不可)されており、御本尊と一緒の特別拝観日に御開帳されます。

布袋

善光寺撞木造りの屋根

和田村役場名残の役場鬼瓦
村役場使用で本陣は残ったと言う

和田宿旅篭「本亭」 現役営業中

家の土台が旧中山道の道跡
新道建設で削られました

現在の街道筋 うだつらしき商店





千曲川 犀川 篠ノ井線

姨捨駅スイッチバック

姨捨駅 旧国鉄三大眺望駅

筑摩山地を流れる犀川

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真田家六連銭
 上田城跡 松代城跡 長国寺       

南櫓石垣(打込み接ぎ 布積み)

南櫓

二ノ丸虎口櫓跡石垣?

二ノ丸土塁跡

本丸水堀

西櫓石垣 本丸側より

西櫓

西櫓 尼が淵より


  上田城の歴史
上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって天正十三年(1585)には一応の完成を見たものと考えられている。
この上田城はまもなく天下にその名を知られるようになった。
それはこの上田城に拠った真田氏が、二度にわたって徳川の大軍の攻撃をうけ、見事にそれを撃退してしまったからである。

最初の合戦は天正十三年に行われた。
攻め寄せた德川勢は七千余人、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。
しかし真田氏の巧妙な戦術によって、德川軍は思わぬ大敗となり、死者を千三百人余も出したと云う。
これに対し真田方の死者は四十人ほどであった。

二度目の戦いは、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に際してのものであった。
関ヶ原へ向かう途中、上田に押し寄せた德川本隊の秀忠軍は三万八千人という大軍でした。
これに対し、昌幸・信繁父子の率いる上田城兵は、わずか二千五百人ほどであった。
しかし、このときも德川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり
関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演じることになった。

上田城は、いわば地方の小城であった。
石垣も少なく一見したところ要害堅固な城と見えないようであった。
しかし実際は、周囲の河川や城下町をふくめた全体が、きわめて秀でた構造となっていたことが、
現在学術的研究によって明らかになってきている。
全国に数多い戦国城郭の中で、二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果を挙げた城は他に見ることは出来ない。

上田城はその後、德川軍の手で破却されたが、真田氏に代わって上田城に入った仙石氏によって復興された。
寛永三年(1626)に復興された上田城は、真田時代そのままであったとみてよく、
仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。

廃藩置県後、明治七年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治十二年、松平神社(現・真田神社)創建にあたり
本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで、明治二十六年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。
これが上田城跡の公園化への第一歩となった。
現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二ノ丸には土塁・堀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。


  上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)
上田城は、真田昌幸によって天正十一年(1583)から築城が開始された平城である。
城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、
他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極め堅固な防御陣地としている。
この上田城の特性は天正十三年(1585)と慶長五年(1600)の二度にわたる德川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、
真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。

しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、
寛永三年~五年(1626~1628)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成したものの、
櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。

本丸には天守は建てられず、七棟の二層隅櫓と二棟の櫓門が建てられたことが、
絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。
上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
現存する三棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入り口)に建つ一棟は(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、
本丸東虎口の二棟(南櫓・北櫓)は明治初期に民間に払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買戻し、
昭和十八年~二十四年にかけて現在の場所に復元したものである。

これら三棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和三十四年に長野県宝に指定された。
三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。
屋根は入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗の真壁となっている。
窓は白漆喰塗の格子窓で、つきあげ板戸が付いている。

なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治十年頃撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、
平成六年に復元したものである。
櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、両側に武者立石段と呼ばれる石積みが設けられ、
本丸大手口としての格式を示している。


  南櫓尼ヶ淵石垣
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
断崖中段に見える石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。


  本丸虎口櫓門の真田石
大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。
真田石は、真田信幸(後 信之)が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、
微動だにしなかったという伝承がある。
現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。


  本丸井戸(真田井戸)
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。
敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったと云う。


  水堀の水源について
千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、ほぼ平坦であるが、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっている。
従って、堀の水は城より約4㎞東を流れる神川から取り入れていました。
現在は、櫓下の芝生広場から地下水をくみ上げて、堀へ供給しています。

                                          案内説明より

西櫓入口側 非公開

本丸東虎口櫓門と南・北櫓

真田石

本丸井戸(真田井戸)

真田三代顔出し看板
三代 隆幸・昌幸・幸村の絵

浅間山の大溶岩

二の丸堀跡

真田神社

拝殿神額

本殿

御神木 真田杉切り株

社務所と守り札授与所

真田赤備え兜

狛犬


  流転の浅間大溶岩
この巨石は天明三年(1783)群馬県地方に大災害をもたらした浅間山大噴火によって、東御市の山腹まで押し出され、
その後の水害でさらに東部(地名 旧東部町)自動車学校付近まで流されてきたと推定される溶岩です。
昭和三十四年五月に当時上田市で建設業を営んでいた皆様により東御市から運ばれ、上田駅前広場の一角に据えられました。
平成十四年上田駅前再開発事業に伴い、この上田城跡公園に移設され、この地で落ち着きました。


  真田神社の由来
真田神社は戦国時代の天正十一年(1583)上田にこの平城を築き城下町をつくった真田父子を主神とし、
江戸時代に民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とする神社であります。
殊に十数倍の大軍を二回にわたり撃退して、日本一の知将と謳われた真田幸村(信繁)の神霊は、
今も知恵の神様として崇められている。


  御神木真田杉の由来
信州上田城は、信州真田郷の真田幸隆候の後継者真田昌幸公によって天正十一年(1583)に築かれ、
息子真田幸村(信繁)や城下の住民の活躍もあって徳川の大軍を二度にわたって退けた名城として、
歴史にその名をとどめていります。

かっての城址には老杉が林立しておりましたが、今は数本を残すのみとなりました。
そのうちの一本が大風などによって倒木のおそれがあり、伐採やむなきに至りました。
年輪を数えましたところ、四百五十年に及び、まさに築城当時より真田三代をはじめ、
仙石・松平とこの城の栄枯盛衰を見てきた老木であることが判明いたしました。

上田城と真田三代の歴史であり「心と魂」でありますこの杉を、
何かの形で後世に残そうとその切り株を「赤備え兜」で風雨から守り、御札、表札等各種木製品を記念に製作した次第です。
時あたかも、上田城本丸に鎮座し、代々の城主をお祀り申し上げます真田神社では平成の大修理に着手しております。
この時に当たり、御寄進いただきました篤信の方々や参拝の皆様に老杉の材をもって作りました品を
お分けすることにいたしました。

真田魂は故郷の大自然の知恵、人や命をすべて愛し助ける仁愛、逆境に立ち向かう勇気の「智、仁、勇」の三つと
その基となる「愛と和と義」の六連魂でできています。
長く城を見守りました大樹を以って作りました品にはこれらの真田魂が宿っております。
ご尊家の繁栄を御守りし、ご子孫の宝となると存ずる次第です。


  真田赤備え兜
二度にわたり德川の大軍の攻撃を退けた真田の「知勇」は天下にとどろき、大坂の陣において武具を赤で統一した
「真田赤揃え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。
幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称されました。
自らを信じる道を民と共に歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、
真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」が御守りしています。

                                        案内説明より

上田城跡  





松代城跡

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松代城跡

本丸石垣 野面積

本丸石垣 打込み接ぎ

太鼓門と前橋

太鼓門 高麗門

太鼓門 桝形と櫓門

本丸石垣武者走り


  松代城(海津城)跡
松代城は、永禄三年(1560)頃、甲斐の武田信玄(晴信)が越後の上杉謙信(長尾景虎)との「川中島の戦い」の際に築いた
海津城がその始まりといわれている。
元和八年(1622)真田家初代真田信之が上田城から移封されて以降、明治四年(1871)の廃藩置県までの約二百五十年間、
松代藩真田家の居城となった。
廃城以降、建物は取り壊されたものの、昭和五十六年に真田邸と一体のものとして国の史跡に指定されました。
平成十六年に第一次整備が完了し、太鼓門、北不名門、堀、土塁などが復元された。


  太鼓門前木橋
太鼓門表門(橋詰門 高麗門形式)の前には橋が架かっていました。
内堀の調査では、堀の中から三十本以上の折れた橋脚を発見しました。
橋脚の形状や打込まれた層位置の違いから、橋の架け直しが四回以上行われたことがわかりました。
このことから、災害の度に橋が崩落・破損したという当時の資料記載が付けられました。
発見した橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに前橋(門の前の橋 橋詰門)を忠実に復元しました。


  太鼓門
太鼓門は本丸内では一番大きな門でした。
本丸大手(正面)の虎口(城郭の出入り口)は、桝形に石垣をまわし、
二層の櫓門(太鼓門)と桝形、橋詰門(高麗門)の三つで構成されています。
このような形を桝形型式と言い、本丸を厳重に守っていました。
良好に残っていた門の礎石をそのまま利用し、
絵図面などから、板葺(栩葺 1㎝以上の厚さの木板)で切妻屋根の姿を忠実に復元合いました。

                                     案内説明より

隅櫓跡

隅櫓展望台

東不明門と東不明門前橋

海津城跡の石碑

本丸井戸あと?

本丸公園

北不明門 高麗門

北不明門 櫓門

本丸石垣


  東不明門と東不明門前橋
本丸東側には「東不明門」と呼ばれる櫓門がありました。
当時の門の礎石は保護のために地下30mに埋設し、レプリカの門礎石で実際にあった位置を示しています。
通常この門は閉じられており、太鼓門の前橋などが崩落し利用できなくなった時などに通用門として門が開かれたようです。
また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかっています。
※ 東不明門と称するこの橋は、管理用として整備したもので、資料などに基づく復元ではありません。


  北不明門
本丸の裏口に設けられた門です(太鼓門と同様に櫓門と高麗門によって桝形を形成する桝形門です)。
十八世紀中ごろに行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから、『水之手御門』と呼ばれることもありました。
絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用し忠実に復元しました。
櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な(江戸期以前)様相を残した松代城の特徴的な門です。

                                              案内説明より 

本丸石垣と赤松





曹洞宗 真田山長国寺

長国寺山門

本堂

本堂扁額

寺紋 六連銭(六文銭)

坐禅堂

放光殿 釈迦如来坐像

梵鐘

六地蔵尊


  曹洞宗 真田山長国寺
長国寺は真田三代初代真田幸隆が真田郷に伝為晃運を開山として長谷寺(ちょうこくじ)を開基、建立した。
関ヶ原合戦の後、上州沼田より上田に入城した二代昌幸の長男信幸が元和に八年(1622)配置換えで松代に移封されると
長谷寺の住職を開山とし松代にど同音の長国寺(ちょうこくじ)を建立した。
松代藩真田家初代信之(信幸改名)は長国寺を菩提寺とし、藩政時代を通して長国寺を支えた。


  坐禅堂
坐禅堂は昭和三十九年、当寺三十八世 大岳亮孝代に、長国寺ゆかりの更埴市岡地(現千曲市)の華厳寺本堂を移築し、
昭和五十五年衆寮部分を増築した。
中央に宝冠文殊菩薩が祀られている
坐禅堂(僧堂)は禅寺七堂の一つで、選佛場、雲堂などともいい、修行の根本道場である。


  放光殿
放光殿は昭和三十五年当寺三十八世 大岳亮孝に代に、戦没者慰霊堂として建立された。
堂中央奥には釈迦如来坐像が祀られている。
殉国英霊と共に外地開拓団殉難者の英霊も祀られている。


  長国寺庫院
長国寺庫院(庫裡)は、明治五年(1872)に焼失した庫院(台所、寺務所、応接間、廻廊などをそなえたもの)の復元を期して再建したもので、平成五年十月に完成した。
明治五年に焼失した古庫院は、天保六年(1835)、二十四世白翁一圭和尚の代に完成したものであるが、今回再建した新庫院は、その古庫院に、時代の相違にもとづく余儀ない若干の設計変更を加えはしたものの、同じ建坪で、特に北側(本堂の前庭)からの外観は、古庫院の完全な復元をこころみた。

設計変更を加えた主な部分は、次の五点である。
一、 別棟だった浴室を広庭(土間)においた。
二、 庫院中央を縦断する廊下を新設し、外縁(ぬれ縁)を廊下にした。
三、 庫院中央にあった納戸を、新設した廊下に添う押入れにした。
四、 上記三点の変更にともなう間取りの若干の変更。
五、 厨房の設備を消防法によって近代化し、照明器具と浴室・便所等の設備も近代化した。
   また、建物の東側と南側にはサッシを使用した。 

                                           案内説明より

庫裡

恩田木工民親の墓

真田家ゆかりの墓

本堂屋根上の六連銭と鯱

開山堂(松代三代真田幸道御霊屋)

松代真田家祖真田信之御霊屋門

真田信之御霊屋

松代真田家四代信弘御霊屋門


  恩田木工民親の墓
恩田木工民親(享保二年~宝暦十二年 1717~1762)の墓は、高さ240㎝の宝篋印塔で、
正面に「玄照院鐡翁道関居士」、左の側面に「宝暦十二年壬午載正月上六日」、
右の側面には「俗名恩田氏民親墓」と刻まれている。
民親は、松代藩家老職恩田木工民清の子に生まれ、幼名佐吉のち靱負(ゆきえ)と称した。

当時の松代藩財政は非常に苦しく、領民もまた困窮し、百姓一揆が起こる状態であった。
家督を継いだ若き六代藩主真田幸広は、こうした状況を打破するため宝暦五年(1755)、民親を家老職勝手係りに抜擢した。
民親の施政方針は「うそを言わないこと」 「倹約すること」 「贈収賄をしないこと」 
「賭博行為も営利が目的でなく、ただ一時の娯楽としてなら良い」などであった。

改革の主なものは、年に一度の納税法を月割納めに改めて納税しやすくするとともに、滞納を整理し、
さらに領民の収入を増やすため山野荒地の開墾、養蚕の奨励など殖産興業にも力を注いだ。
また、神仏崇敬思想の普及にも努力した。
民親の業績については「日暮硯」(ひぐらしすずり)に詳しく書かれている。
宝暦十二年病気のため死去。
享年四十六。


  長国寺開山堂 (長野県宝)
この開山堂は、松代藩真田家三代真田幸道(初名信房 法名真常院殿全山一提大居士)の御霊屋として建立されたものである。
幸道は享保十二年(1727)五月死去したが、その後まもなく、長国寺境内裏手の真田信之の御霊屋の脇に
建立されたものであるが、明治五年、長国寺の伽藍諸堂が焼失し、明治十九年本堂再建の祭、
幸道の御霊屋を本堂後ろに引き移して
開山堂のあてたものである。

堂は方三間の宝形造、桟瓦葺きで、元々廻縁向拝付であったが、今は撤去されている。
正面中央に桟唐戸をつり、他は縦桟の舞良戸は羽目殺しとし、円柱に組物は出組詰組、
軒は二軒繁棰木で、装飾は外部の頭貫と内法貫の間に唐草の透かし彫りを入れるだけで極めて簡素である。
内部は内陣外陣の仕切り、陣境に格子戸を入れ欄間に高肉彫の彫刻を入れ、
奥に禅宗様仏壇をおくなど、信弘の御霊屋と同じである。


  真田信之御霊屋 (国指定 重要文化財)
この御霊屋は松代藩真田家初代真田信之の菩提のため没後二年目の万治三年(1660)に建立されたもので、
宝殿と表門からなっている。
宝殿は桁行三間、梁間四間の入母屋造りで正面に千鳥破風をつけ、軒唐破風の一間向拝を設け、
四面に縁をめぐらし高欄を設けている。
内部は畳敷き、格天井を張り、中央に格子戸を入れて、内・外陣を仕切り、内陣奥に禅宗様仏壇を置いて位牌を安置する。
建物外部には、獅子と霊獣、唐草、竜、りす、ぼたん、鶴に松などの彫刻、塗金の透かし彫りの唐草、六文銭などが施されている。

内部も欄間には、鳳凰の彫刻を入れ、壁天井には花鳥を描き、柱貫・組物にもすべて極彩色を施した豪華な意匠からなっている。
表門は切妻造り、杮葺きの四脚門で、棟木は中央に六文銭を刻んだ板蟇股を入れている。
この御霊屋は、地方藩主のものとしては比較的規模も大きく、かつ豪華で時代も古く、霊廟建築の遺構として甚だ価値が高い。


  真田信弘御霊屋 (長野県宝)
松代藩主真田家四代真田信弘の御霊屋で、元文元年(1736)信弘氏後ただちに建てられたものである。
方三間の宝形造杮葺きで、四方に縁を廻らし、擬宝珠高欄を付し、正面中央に桟唐戸をつるし、
他の三方を縦桟の舞良戸の羽目殺しにしている。
組物は、出組・詰組で、軒は二軒繁垂木、装飾は外部の頭貫と内法長押の間を唐草の透かし彫り(彩色)で飾るほかは、
至って簡素である。

内部は梁行の心に半柱を入れて、内、外陣境をつくり格子戸を入れている。
柱筋でないところに間仕切りを設けるなど信之御霊屋と時代的相違を示している。
欄間は天人の高肉彫(彩色)の彫刻で飾り、天井は格天井である。
現在は、歴代藩主夫人などの位牌が置かれている。表門は禅宗様を取り入れたこけら葺きの四脚門である。

                                           案内説明より

真田信弘御霊屋

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