この年の3月11日東日本大震災で好文亭は被害に遭う

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歌碑 右諦如法師 左稱佛法師

歌碑 右理然法師 左藤原時朝





偕楽園
 
   参照: 温泉その17→五浦観光ホテル

映画桜田門外の変 オープンセット

境内社 四柱合祀之社






茨城のいろいろ


偕楽園・・・・・水戸市   

古河総合公園・・・・・古河市
古河公方館跡 古河公方義氏墓所 鷹見泉石邸

鹿島神宮 沼尾神社 坂戸神社 塚原卜伝の墓 息栖神社



芝前門 

偕楽園 史蹟・名勝

偕楽園は「民と偕に楽しむ」遊園として水戸第九代藩主徳川斉昭{(烈公)寛政十二年(1800)~万延元年(1860)}が、
自ら造園計画の構想をねり創設したものです。
特に好文亭については、烈公が自らその位置を定めたと言われております。

天保十二年(1841)から造園工事を行い、翌十三年に本園・桜山及び丸山が開園されました。
当時の本園には梅を中心に竹・霧島つつじ・宮城野萩などを、
飛び地になっている桜山と丸山には桜を植え、周辺の湖水(主に千波湖)と四周風景を採り入れ自然との調和をはかり、
四季の風情や明暗に富んだ趣のあるつくりでその規模は広大なものでありました。

明治六年(1873)常磐神社{祭神 第二代藩主德川光圀(義公)と烈公}の建立に伴い、
その敷地として梅林の一部を割愛したため規模が縮小され現在に至っています。

大正十一年(1922)には国の史跡、名勝の指定を受け「常磐公園」とも称し、日本三公園の一つに数えられており、
春には約百種、三千本の梅の香りが満ちあふれます。

偕楽園 開園時間: 2月20日~9月30日 am6.00~pm7.00    10月1日~2月19日 am7.00~pm6.00

好文亭観覧時間: 2月20日~9月30日 am9.00~pm5.00    10月1日~2月19日 am9.00~pm4.30
            (12月29日~12月31日は休業日です)
観覧料: 大人190円  小人100円

表門 好文亭正門

御成門

孟宗竹林

東門 観光客正門

土産物商店街

常磐神社

御祭神 二柱  高譲味道根命 (德川光圀 義公)
           押健男國御楯命 徳川斉昭 烈公)

上の二柱を御祭神として、明治七年五月十二日に現在地に鎮座されました。
これ以前には偕楽園内の祀堂に祀られており、
明治六年に明治天皇より勅旨を以て「常磐神社」の社号を賜り県社に列格、
明治十六年には別格官幣社に昇格しました。
                                     案内説明より

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まちさんぽへ

八重旭

緋梅

梅林

末社 常磐稲荷神社

神楽殿

徳川斉昭 溶解炉

摂社 東湖神社

水戸の梅大使

菊の間

つつじの間

紅葉の間 御殿女中控えの間 

竹の間

梅の間 藩主夫人居室

南天の間

萩の間 御殿女中控えの間

桜の間 御殿女中控えの間

藩主の間

藩主斉彬公が好文亭に御成りの時、ここで文人、墨客、庶民などに接しました。
部屋は紗張戸を用い左右が透かして見えるように工夫され、特に床の間は設けず簡素に竹の柱だけが下げてあります。

西広縁

三間と六間の大塗縁の北側と西側各二枚の杉戸には、作詞作歌に便利なように、
四声別韻字真仮名平仮名を烈公が能筆の人に書かせ、辞書代わりにしました。
現在の文字は、東京芸術大学の先生が復元したものです。
天井は杉皮網代張り、仕切り戸は竹篭目紗張りで、ここに文墨雅人がよく集まり詩歌を作り書画をかいたりしました。

東広縁

楽寿楼

三階を楽寿楼と称します。
部屋は三室あり、南に面した八畳が正室で烈公が御出席されたところであり、
東南西方の勾欄に寄って四辺を眺めると遠近山河の景がここに集まる趣です。
竹の床柱は鹿児島市長から寄贈されたもので、西側の丸窓は富士見窓で烈公が作った陣太鼓の余材を用いたものです。

楽寿楼とは『論語』の知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ 知者は動き 仁者は静かなり 知者は楽しみ 仁者は寿し
すなわち、楽は水を表し、寿は山を表しているので、楽寿楼とは山と水の眺め双方を兼ねた山水双宜の楼を意味しています。

楽寿楼から庭園と千波湖

手動配膳エレベーター

好文亭入口の井戸

茶室 非公開

待合所

この待合は茶席に招かれた客が席の準備ができるまで控え待っていたところです。
室内は、茶説、茶対、巧詐不如拙誠の三つの刻版が揚げてあって、
これはいづれも烈公の茶技に対する教訓の言葉が彫ってあります。
なおこの腰掛待合というのは全国的にも極めて珍しいものです。

御幸の松

左近の桜

仙奕台

神社境内で披露 周防猿回し

好文亭表門

好文亭中門

好文亭

創建 天保十三年(1842)七月 水戸藩九代藩主徳川斉昭 
好文亭: 381.72㎡   奥御殿: 338.35㎡   太鼓廊下: 18.88㎡

徳川斉昭公が詩歌管弦の催しなどをして、家中の人々と共に心身の休養をはかるために、天保十三年に建ててものです。
三層の好文亭と北につながる奥御殿からなり一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます。

好文というのは梅の意味で、「学問に親しめば梅が聞き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という
中国の故事にもとづいて名付けられました。

建物は、好文亭(楽寿楼、藩主の間、広縁など)と奥御殿(松の間、梅の間、竹の間など九室)の二つに分かれていて、
太鼓橋廊下で連絡してあり総面積は770.15㎡あります。
奥御殿を設けた理由は万一城中に出火などがあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、
当時藩中は倹約令により管弦などが禁止されていたので城中の婦人たちのため遊息の場所としたという配慮があったようです。

現在の好文亭は戦災で焼失しましたものを、昭和三十年から三ヶ年を要して昭和三十三年にもとの姿に再建したものです。
またその内、奥御殿と太鼓廊下は昭和四十四年九月落雷により焼失しましたので復元工事に着手し、
昭和四十七年二月完成したものであります。

南門

開かずの門?

好文亭遠景

松の広場

烈公梅 斉昭公生誕200年記念

東湖神社  御祭神 藤田東湖命
合格祈願、学業成就、事業繁栄

斉昭公に仕え、公を助けて藩政改革や兵器軍艦建造に活躍。
海防策を進言する等、幕府から注目されました。

天保の改革、藩校弘道館の創建をはじめ斉昭公の片腕として活躍し、
薩摩の西郷隆盛や越前の橋本景岳など天下の志士から景迎されました。

『弘道館記』の草稿を起草し、『回天詩史』『常陸帯』『弘道館述義』や
『文天祥正気ノ歌ニ和ス』(正気の歌)など、水戸学を代表する文献の作者です。

知足の蹲踞

この「知足の蹲踞」は石庭で有名な京都竜安寺にあって、
德川光圀公寄進のものと伝えられます。
光圀公は御生涯を大日本史編集事業に尽くされと共に、多くの古書を校訂されました。

特に太平記については竜安寺本を借覧されると共に、
九種の異本を集めて「参考太平記」を出版されました。

「吾唯足りるを知る」とは藩主ご引退に際して建てられた「梅里先生碑」の文中
「有れば則ち有るに隋って楽胥し、無ければ則ち無きに任せて晏如たり」と一口して、
御生前の人となりが偲ばれ誠に崇高な文章であります。

北原白秋五十歳梅の間を見ての短歌

梅の間よ 今は眺めて しづかなり
  一際にしろき 梅の花見ゆ

春早く ここに眺むる 誰々ぞ
  一樹のしろき 寒梅をあはれ

御膳運搬装置

御膳を運ぶのに階段を上下しなくてもすむように、
この装置が利用されていました。
今日のエレベーターの先駆ともいうべきもので、
烈公の創意によるものと伝えられています。

左近桜

烈公夫人登美の宮が降嫁の折に仁孝天皇から賜った左近桜は、枯れ死してしまいました。
そこで、昭和三十八年京都御所紫宸殿の左近桜の根分けを宮内庁にお願いし、
頒与を受け植えたのがこの桜です。

御幸の松

この松の由来は明治二十三年明治天皇皇后両陛下が本県に行幸啓されたのを記念して
植栽したものですが、昭和四十八年松くい虫の被害を受けて枯れてしまいました。

現在の松は昭和天皇皇后両陛下が昭和四十九年本県開催された
第二十九回国民体育大会に御臨席されたおり、
本園にお立ち寄りになられたことの栄誉を永く記念するため、
宮内庁の了承を得て植栽したものです。

仙奕台

仙波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出た大地を仙奕台と称します。
四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋、文雅を楽しんだところです。

奕は囲碁を意味しており、石でできた碁盤や将棋盤、
琴石は当時のものでその優雅さを表しています。

南崖の洞窟

この洞窟は今から約三百三十年前の第二代藩主光圀時代から
第九代藩主斉昭時代にかけて「神崎岩」と呼ばれた石を採掘した跡の一つです。

洞窟は延長150mに及び、この岩は笠原水道の岩樋、
好文亭の井戸筒及び吐玉泉の集水暗渠等に使用されました。

正岡子規の句碑

子規の句碑

崖急に 梅ことごとく 斜めなり

この句は、
明治時代の代表的な俳人である正岡子規が
偕楽園を訪れた際、
南崖の梅を詠んだものです

德川光圀(水戸黄門)像

桜田門

江戸城の内堀りに造られた門の一つです。
桜田濠(国会議事堂側)と凱旋濠(日比谷側)の間に位置します。
手前にある小さな門が「高麗門」と内側の大きい門が「櫓門」の二重構造になっています。

門の間のスペースは「桝形」となっており、城が攻撃を受けた際の兵の待機場所であり、
攻められたときには敵兵を引き入れる場所ともなります。

実は「桜田門」はふたつあります。
一般的に呼ばれる警視庁前の桜田門は「外桜田門」、もうひとつの「内桜田門」は別に「桔梗門」と呼ばれています。
昭和三十六年に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財建造物に指定されました。

現在でも国内外の多くの観光客が訪れる名所・旧跡のひとつです。

彦根藩井伊家上屋敷表門セット

安芸広島藩浅野家上屋敷

豊後杵築藩松平家上屋敷

出羽米沢藩上杉家上屋敷

カメラ台とセットの裏側

SL D51515の展示

皇居 桜田門

オープンセット 桜田門

白難波

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古河総合公園

アーモンド 

天津

寒緋

照手桃

古木と藤づる (中山台のブランコの木)

この大きな木は、通称ブランコの木と呼ばれています。

由来は、エノキからユリノキの大木へ垂れ下がる藤づるで子供たちがブランコをしたり、
木登りしたり、この木が子供たちにとって格好の遊び場所になっているからです。

樹齢については不明ですが、
昭和50年に公園が開園した時には、すでに自生していたようです。
藤はマメ科のつる性の落葉木で、このブランコ藤は野田藤という種類です。

四月下旬から五月上旬には、紫色の花を咲かせますが、高い木の上に咲きますので、
ブランコに座って見上げてみてはいかがっでしょうか。

たくさんの子供たちに愛されてきたこの公園の名物木を
皆様これからも大切に末永く見守ってください。


“ブランコに座って見てはいかがでしょうか”
近頃の公園施設にしてはなんとおおらかなことでしょうか。
何事も起らないことが最優先の(お役所的思考)のカッコ内が取れてなぜかにんまり。
公園が後からやってきたからでしょうね。

長塚節が若杉鳥子の写真に恋して歌を詠み、節の死後返歌を詠んだという。
両人とも郷里の同人詩人で、右が若杉鳥子の歌碑 左長塚節の歌碑

まくらがの 古河の桃の木 ふゝめるを いまだ見めども われこひにけり
暮れないの したてりにほふ 桃の樹の 立ちたる姿 おもかげに見ゆ   長塚節

み歌 われなき家の 文筥に 忘られてあり見は 人の妻
まくらがの 古河の白桃 咲かむ日を 待たずて君は かくれたまへり   若杉鳥子

園内でめでたく?寄り添う

松月院御所塚 古河市指定文化財・史跡

「御所塚」という名称が伝えられているところから、古河公方の墓と思われるが、人物を特定することはできていない。

塚にのこる二基の宝篋印塔のうちひとつは、「源氏車」の紋があることから、それを家紋とする榊原康政の娘(一説には養女)で、
五代古河公方義氏の孫義親の妻となった松月院殿真晃瑞公大禅定尼(元和五年没)の墓塔と推定されている。

松月院は臨済宗円覚寺派の寺院であったが、現在では存在しない。
その所在地は当地より北に300メートルほどの所に比定されているが、当塚もその寺域の一角であったと想定される。
                                                           案内説明より

庚申塔

邪鬼と三猿

古河公方足利義氏墓所 県指定文化財

古河公方五代目足利義氏は天正十年(1582)十二月古河城で没した。
戦乱の中、葬儀は翌年正月に久喜(埼玉県)の甘棠院で行われ、その近くに香雲院という寺も建てられたが今は存在しない。

この墓所は義氏ゆかりの寺があった関係で遺骸ないしその一部が埋められたものと考えられる。
明治初年までは鎌倉円覚寺末の徳源院という義氏の娘、氏女の法号にちなんだ寺があったので「徳源院跡」と呼ばれている。

義氏の墓石はないが氏女とその子義親(天寿院殿)の宝篋印塔、七地蔵を刻んだ石幢
子孫の足利氏による「古河公方足利義氏公墳墓」の碑がある。                    案内説明より

足利義氏の墓

足利義氏の娘氏女の石塔

足利義親の石塔

足利義氏公墳墓 石碑

石幢

義親の法名 天寿院の銘

石塔群

菩薩石塔

天神橋 外見斜張橋

芋ころがし坂

鴻巣の一本榎の古木

館の掘割 整備復元

園内三本松?

藤棚 

若芽萌える柳

復元桃林

ハイマツ ハイビャクシン

胞衣(えな)の松 天神橋のたもとにある。

天神橋近くには天神様が祀られていたのであろうが、今は面影もない。
祠の近くには松の古木があったのでしょうか?
天神様にわが子の生育と行く末の望みを託し、
なおかつ、松の長寿にあやかりたいとの祈りが見て取れる。

今は何代目かの松の若木が植えられている。
白御影石に説明文と思える文言が彫られているが、読むことが出来ない。
公園管理者に善処を促したい。
雨の日にはもしかしたら読み取れるかもしれませんがね。

天神橋より御所沼

雑木林

古河公方館跡

室町幕府は地方機関として鎌倉府(関東府)を開設し、足利尊氏の息子基氏をその長官として鎌倉に派遣します。
これを鎌倉公方(関東公方)と呼び関東十か国及び陸奥・出羽の東北地方を統治します。
その補佐役である関東管領を上杉氏が務めました。

しかし、十五世紀中期の関東における動乱(永享の乱)により幕府と対立し、四代足利持氏は幕府と上杉氏に攻められ自害します。
その息子成氏はいったん許され鎌倉公方に復帰しますが、再び上杉氏をはじめとする反公方派と対立し(享徳の乱)、
鎌倉から古河へ座を移し、以後、五代百二十年余、歴史上、古河公方と呼ばれ当地に在城します。

成氏は古河鴻巣に館を築き、さらにその北西、渡良瀬川を自然の要害として中世古河城を整備しました。
ここは旧御所沼に突き出た半島の中ごろで、古河公方足利成氏以来の館のあったところで、鴻巣御所とも呼ばれていました。

成氏が鎌倉から古河に走ったのは康正元年(1455)で、
二年後の長禄元年(1457)には下河辺氏の築城した古河城を修築してここに移りました。

それから後、古河公方は成氏、政代、高氏、春氏、義氏に至る五代百二十四年の間、
古河は関東一円に重要な位置を占めていました。

ここにあった館は義氏の一人娘氏姫の代までありましたが、
古河公方の城跡が大正初期に渡良瀬川改修工事のため大部分が河敷となり、
この鴻巣御所跡は往時をしのぶ史跡として意義深いものがあり、館の西と東には当時の空堀と土塁を留めています。
                                                         案内説明より

旧中山家住宅 県指定有形文化財

この民家は、もと茨城県岩井市大字辺田の中山氏所有であったが、氏の寄贈により当地に移築したものである。
中山家は、武士の出身で、江戸時代初期、辺田村に移住し帰農したと言われ、代々辺田村の組頭などをつとめた旧家である。

この住宅は、猿島地方に多くみられる直屋(すぐや)といわれる形で、
平面は東側の広い「どま」と、中央の無目(溝なし)の敷居に分けられた「ひろま」と西側の前室のある「ざしき」と、
その裏の「なんど」からなり、桁行九間半梁間五間半の大型農家である。

住宅建築年代については確証を欠くが、今回の解体修理中に発見された床板裏面の墨書に「延宝二歳寅二日・・・・」
とあったことから延宝二年(1674)に建てられた可能性が強い。

その後、幾度かの改造及び補修を経てきているが、幸い軸部は当初の状態で残存し、
保存状態も良好で猿島地方の大型農家の典型として、昭和四十八年茨城県の文化財指定を受けている。

なお、移築にあたっては建築当初の型に復元するという方針で行った。                案内説明より

正面外観

土間

広間

手動式農機具

電動式農機具

中山家住宅

馬屋

旧飛田家住宅 国指定重要文化財

この民家は、もと茨城県久慈郡金砂郷村大字岩手の飛田家の所有であったが、事情により当地に移築したものである。

建築年代は、飛田家の初代夫婦のものと思われる位牌には延享元年(1744)及び寛延元年(1748)の没年が記されており、
それに構造手法などを考え合わせると、十八世紀前半と推測される。

この住宅は、東北から常陸地方北部にかけてよくみられるいわゆる曲り屋で、土間の「うまや」部分が突出しL字型をなしている。
居室の方は、土間に続いて、まず広い「板の間」があり、その片隅には小さな「へや」が設けられており、
さらにその奥には前室のある「ざしき」が並ぶ形式である。

建設後は何回もの改造及び補修を経てきているものの、構造、平面などにはそれほどの変化はなく、よく旧態を残している。
また現在茨城県下でよく知られる曲り屋形式の中で、最も古いものとして、昭和四十三年国の文化財指定を受けている。

なお、移築にあたっては建築当初の型に復元するという文化庁の方針で行った。        案内説明より

住宅裏

足踏み式水車と大八車

板の間

ざしき

飛田家住宅

東北関東震災のために
桃祭りは中止 で、寂しいお祭り広場

富士山? 
緑の雪が目に優しい富士見塚

沼越しに見る館跡辺り

雪華園 

雪の結晶観察で有名な古河藩主 土井利位(どいとしつら)の雪華図説に由来。

   雪の殿様 土井利位
江戸時代末の古河藩主で、幕府老中として知られる土井利位は、
寛政元年(1789)五月、土井利徳の四男として、刈谷(愛知県刈谷市)に誕生しています。
刈谷藩の土井家は、その始祖土井勝利の次男利長にはじまる分家でした。

「部屋住」のみのゆえか、少年時代の利位を知る文書、記録といった手がかりは、今までほとんど伝えられてきておりません。
嫡子でなかった利位に大きな転機が訪れたのは、彼の二十五歳の時でした。
本家にあたる古河藩主土井利厚の養子に迎えられたのです。
後に、雪の結晶研究や書画などに発揮される彼の豊かな学問・芸術への資質は、この時を境に開花することとなりました。

文政五年(1822)三十四歳のとき、利位は、養父利厚の死去にともない古河藩八万石を襲封、
以後、天保五年(1834)から天保八年まで大坂城代を、同年京都所司代、翌年には老中と、幕府の要職を歴任しています。
政治家としても、利位は、江戸幕府財政の立て直しなどに大きな功績をあげています。

嘉永元年(1848)七月二日病没、土井家菩提寺であった浅草誓願寺に葬られました(古河正定寺に土井家宝篋印塔として改葬)。
享年六十歳 (法号簡廉院殿敬譽剛義温翁居士)。
                                        古河歴史博物館資料より

古河歴史博物館
茨城県古河市中央町三丁目10-56
Tel: 0280-22-5215

入館料: 400円  小・中・高校生 100円
開館時間: 9.00~17.00
休館日: 月曜日 祝日の翌日 12月28日~1月4日 毎月第4金曜日

目洗弁才天

弁才天前池の目洗弁天池石碑

古河虚空蔵菩薩堂

虚空蔵堂山門

虚空蔵菩薩と申しますと、古くは、僧侶、修験者によって秘法中の秘法として信仰護持とされてきた菩薩様であります。
また、死者の冥福を祈る十三仏の最後の十三番目、
いわゆる最終的な極楽浄土への導者、死霊から祖霊から神へ昇化する導者であります。

一般的には丑寅年生まれの方の守り本尊であり、
また十三歳詣りで御承知の通り、お子様の受智育成の知恵と財宝を守る菩薩としても知られております。

当地の奉安する虚空蔵菩薩は文安年中(1444~1448)の開基にして足利義満公が非常に信仰されて以来、
代々篤く信仰されてきた尊像であります。
                                                       案内説明より

馬頭観音供養石塔群

浅間神社右奥の富士

浅間神社左前の稲荷社

富士塚頂の浅間神社  

水子地蔵菩薩立像

古河城御成門への御茶屋口跡

旧日光街道に面するこの口の名前は、
かってこの地に存在したとされる「御茶屋」に
由来している。

それは将軍の日光参詣にともない
将軍の休憩所として設けられたとされるが、
江戸時代初期のごくわずかな期間に存在した
と推定されるこの建造物について、
今のところ、記録として残る略図以外に
その詳細は解らない。

ところで、徳川幕府の日光参詣は江戸時代を通じて十九回行われているが、
古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。
将軍の古河入城に利用された「御成」の入口がこの御茶屋口である。

そして、「御茶屋口」から続く将軍御成りの道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、
その後、幅180メートルに及ぶ「百間掘」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。
杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。

なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。
これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に対応する役人の詰所であり、
明治維新を迎えるまで存続した。
                                                      案内説明より

古河城御茶屋口跡石碑

鷹見泉石(たかみせんせき)記念館

楓樹 市指定文化財・天然記念物

唐楓の一種で、中国を原産地とするマンサク科の落葉喬木で、樹脂は薬用にもなる。
古代中国では天子の居所に植えられたという特別な樹であることを知った八代将軍徳川吉宗が初めて輸入させ、
江戸城と日光東照宮・上野寛永寺に植えたという。

当地の楓樹の由来は明らかではないが、日本での実生が容易でないこの樹の江戸時代以来の古木は極めて少なく貴重である。
なお、鷹見泉石は江戸詰め時期の天保十五年(1844)に、中国清の文人、項唈珊から「楓所」の号を揮毫してもらっている。
また鷹見泉石には他に「可琴軒」と「泰西堂」という雅号がある。

楓所の掛け軸

可琴軒の額

泰西堂の掛け軸

庭園

新しい茅葺きの竹編ぐし

ひな人形(雛祭り) 泉石記念館及び古河歴史博物館所蔵

三月三日の雛祭りは御節句のひとつで、邪気を祓う霊力をもつ桃の花にちなみ、桃の節句とも言われています。
旧暦では、月のいちばん初めの巳の日、上巳(じょうし)がこの日にあたります。

古来より日本では、三月の上旬に、人形(ひとがた)に身体の穢れを移して海や川に流す「流し雛」の風習がありました。
人形を玩具として飾って祝う雛祭りは、室町時代から江戸時代にかけて形づくられ、
今日のようにひな壇に鎮座する形で一般に広まったのは、江戸時代中頃といわれています。

ひな壇と説明書き

「濡」文字 裏に「鷺」文字

石灯籠 「濡鷺」

藩主が古河在城の時に住む二の丸御殿の庭に置かれた「濡鷺」の銘が刻まれた灯篭。
明治の廃城にともない、市内のある有力者が払い下げを受け今日まで保存、今回、市に寄贈されたものである。

つるべ井戸 つるべ桶が花器に転身

史蹟 鷹見泉石邸

鷹見忠常 号して泉石
古河藩土井家一代家老職にある。
藩主土井利位の役職にともない
よくその任務をこなした。

安政五年(1858)七月当邸で死去。
享年七十四歳。

井戸跡

本堂

長谷観音
明観山観音院長谷寺には、明応年間(1492~1500)に、初代古河公方足利成氏が、
鎌倉の長谷から勧請した木造十一面観世音菩薩像があり、通称長谷観音と呼ばれている。

以来日本三長谷の一つとして、また、古河城の鬼門仏として累代古河藩主の祈願所であった。
当時の本堂は、八間四面勾欄付き赤塗の荘厳な伽藍であったが、明治初年の廃仏毀釈により、まったくの廃寺となってしまった。

                                          案内説明より

客殿

本堂左前の観世音菩薩の石像

長谷観音

奥原晴湖の画室復元移築
鷹見泉石記念館内





鹿島神宮

書院

座敷 大広間

左随身

右随身

一之鳥居

再建鳥居(木造)

社号標

参道

奉納鳥居

手水舎

楼門 随身門

随身門 ミカヅチ(御雷之鏡)

神事倉庫

宝物倉庫

授与所と右側宝物館

本殿 幣殿

本殿 幣殿

御神木・二郎杉

御神木 本殿後

拝殿 

拝殿

仮殿

高房社

楼門 神額

礼賓館


  鹿島神宮
鹿島神宮の御祭神建御雷(武甕槌)大神は神代の昔、天照大御神の命をうけて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に,
出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本(大和)の建国に挺身されました。
鹿島神宮創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。
神武天皇はその御東征の半ばに於いて思わぬ窮地に陥られましたが建御雷大神の韴霊剣の神威により救われました。
この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年にに大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。

その後、古くは東国遠征(陸奥・蝦夷)の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として,
篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。
さらに、二十年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。
そして中世~近世になると、源頼朝、德川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになりました。


  一之鳥居
古来、西の一之鳥居の建つ大船津は水運による経済や文化の要衝であると同時に鹿島神宮参拝の玄関口であり,
江戸時代に歌川広重の「六十余州名所図会」にも描かれ、水上鳥居としてその景観が親しまれていました。
鎌倉時代、鹿島の土地隆起により御手洗池近くまで入っていた船の往来ができなくなり、
代わりに船着き場となった大船津に、僧侶の忍性が鳥居を建てたのが最初とされています。
元和四年(1618)に江戸幕府二代将軍徳川秀忠が社殿建築と合せて奉納した鳥居は水中鳥居で、
当時はまさに鹿島神宮の表玄関でした。

現在の鳥居は平成二十五年(2013)六月に再建されたもので、新日鉄住金株式会社の対候性鋼材が用いられています。
河底からの高さ18.5m、幅22.5mで、旧鳥居の約2.5倍という壮大なもので、
水上鳥居としては安芸・厳島神社の高さ16mを越える国内最大級の大きさです。

                                           

鹿島神宮前大鳥居

平成二十三年(20111)三月十一日
東日本大震災により倒壊した御影石の鳥居に替り、
境内に自生する杉の巨木を用い、
旧鳥居と同寸法の鳥居が平成二十六年六月一日に再建されました。

東日本大震災 倒壊前の石鳥居 HPより


  楼門(随身門) 重要文化財
日本三大楼門の一つに数えられる楼門は、高さ13m、重要文化財に指定されています。
寛永十一年(1634)、水戸藩徳川家初代藩主德川頼房公により奉納されました。
「鹿島之社楼門再興次第記」によれば、江戸幕府三代将軍家光公の病気平癒を頼房公が大宮司則広に依頼し,
家光公が快方に向かったために奉納されたとあり、
浅草の水戸藩下屋敷で百三十余人の大工が切組み、船筏で運んで組み立てました。
昭和十五年(1940)の大修理の際丹塗りとし、昭和四十年代に檜皮葺の屋根を銅板葺にしました。


  鹿島神宮社殿 重要文化財
本殿・石の間・幣殿・拝殿の四棟からなる社殿は、元和五年(1618)江戸幕府二代将軍徳川秀忠公が寄進したもので、
重要文化財に指定されています。
社殿は参道に直角向きで、本殿は参道から見て一番奥にある三間流造の建物で、御祭神の建御雷大神をお祀りしています。
拝殿は手前に見える建物で、正式参拝や結婚式の際にお上がりいただくことができます。


  御祭神・建御雷(武甕槌)大神
神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を課され、建国功労の神と稱え奉る。
また、韴霊剣の偉徳により、武道の祖神・決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農業・漁業、商工殖産の守護神として
仰がれるほか、「常陸帯」の古例により、縁結び安産の神様として著名である。
更に、「鹿島立ち」の言葉が示すように、交通安全・旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。


  御神木
鹿島神宮の森で最も古く、最も大きい樹が本殿後にあり御神木となっています。
高さ40mに及ぶ杉の木で、樹齢は約1300年と云われています。

  御神木 二郎杉
境内で二番目に大きい杉の木で、二郎杉と云われています。
高さ40m、樹齢は約700年と云われています。

  高房社 御祭神・建葉槌神
建御雷大神の葦原中津国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した建葉槌神が御祭神です。
常陸国の二ノ宮・静神社(茨城県那珂市静2)の御祭神である。
古くから、まず高房之社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。


  仮殿
元和四年(1617)、社殿造営の為江戸幕府二代将軍徳川秀忠公が奉納しました。
まずこの仮殿を造営し神様を御遷ししてから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営しました。
江戸時代は楼門を入った真正面にあり、その後二回の移動で現在の場所に置かれました。


  授与所  宝物館
多くの種類の御守り・御札などを授与しております。
宝物館は、国宝に指定されている直刀をはじめ、梅竹蒔絵鞍(重要文化財)、「百馬図」雪村筆、「鹿島洋朝瞰図」横山大観筆、
などの宝物を展示しています。

入館料 大人300円  中学生以下100円(土日無料)

                                       案内説明より

修道門

武道殿

修道寮

補修・改築材料置場

祈祷殿

社務所

祖霊社 社殿

祖霊社 手水舎

手水舎 丹頂鶴の彫刻

祖霊社 一之鳥居

祖霊社 二之鳥居

祖霊社 社殿

松尾芭蕉 句碑

奥宮 大杉

奥宮

奥宮 神額


  祖霊社
終戦後の昭和二十二年、成蹊学園(桃李不言不自成蹊・東京都武蔵野市吉祥寺)内の報命神社の社殿を移築したもので、
氏子中の戦没者、学徒戦没者、氏子・崇敬者の祖霊をお祀りしています。


  修道場・武道殿
剣道及び柔道の修道場です。
戦時期の昭和十七年に修養道場として開設されたものを引き継いでいます。


  祈祷殿 社務所
祈祷殿建物内に神殿をそなえており、大勢の方に快適な環境で御祈祷をお受けいただけます。
神職が普段仕事をしている社務所を併設しています。


  奉納石造り灯籠
元和五年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守重信(下総小見川藩主のち上野高崎藩主 1557~1621)が奉納した。


  奥参道
奥宮に向かって三百メートルほど伸びる奥参道は、鬱蒼とした巨木に覆われ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
五月一日にはこの参道で流鏑馬の神事が執り行われます。


  鹿島神宮の森 鹿島の樹叢
最近「森林浴」という言葉が話題になっています。
これは緑豊な森の樹木や草花などが発散する殺菌力のある芳香性の物質「フイトンチット」
が人間にも良い影響を与えることから、林野庁が提唱しているものです。
鹿島神宮の森はその上に極相林といって、森が到達する極限の状態でになっていますので、
人の心を和らげ、活動を促す精神的な働きもあります。

このような姿を昔の人は神々しい森(こうごうしいもり)という言葉で称えましたが、
和らぎと明日への活力づくりにみなさんもゆっくりと森の香気にふれてください。
なお、境内の宮水である御手洗の湧水も昔から長命水と云われておりますので、
この真清水をも賞味され、健康で活力のある毎日をお送りください。

国家鎮護の神として崇められている鹿島神宮の境内は昔から神々のいます場所として、
荘重な建物の外に森を欠かせない要素として、大切に守り育ててきたため、
神宮境内は県内唯一の素晴らしい樹叢が形成され、県の天然記念物に指定されている。
また、野鳥の数も多く、鹿嶋鳥獣保護区・鹿嶋特別保護区にも指定されている。
広大な神域には約六百種に上がる植物が生育し、高木から草木の下草まで、おのおのが処を得て安定した樹叢を形成している。


  鹿園 神鹿
鹿島神宮の御祭神である建御雷(武甕槌)大神様の所へ、天照大御神の御命令を伝えに来られたのが天迦久神という方で、
鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。
神護景雲元年(767)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、
その時、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。

その鹿の足跡が、東京江戸川の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。
また、鹿島も古くは香島と書いていましたが、養老七年(723)ごろから鹿島書くようになったのは、
この鹿との縁によるものと思われます。
神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、
現在の神鹿はかって鹿島から移って行った奈良の神鹿の系統をうけています。


  さざれ石
さざれ石(学名・石灰質角礫岩)は、石灰石が長い年月に雨水で溶解し、
その接着力の強い乳状液が次第に小石(さざれ石)の間に入り込み凝結し、露出、出土したものであります。
国歌「君が代」は天皇の御代の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもとになっており、
天皇の大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石が巌となって苔のむすまで永く久しく栄えますようにという
祈りの込められた歌であります。

古今和歌集 巻七賀歌に、題しらず 読み人しらずの歌として
「わが君は 千代に八千代に 細れ石の 巌となりて 苔のむすまで」とあります。
「君が代」は神事や宴の最後に歌われる祝賀の歌となり、各地に広がり浄瑠璃や能にも取り入れられ、
朝廷から一般庶民に至るまで全国津々浦々まで歌われる歌となってきました。
国歌「君が代」は明治二十六年日本国歌に制定され、大正時代、ニューヨークで開催の世界の国家コンクールで特賞となりました。

太平洋戦争後国歌としての君が代は戦争の元凶との意識が連合軍司令部あり、実質的な国家としての地位を失っていた。
占領政策の終了と共に国歌としての機運が盛り上がってきたが、教育現場や左派勢力の反対の意見も多く、
国歌のみならず国旗を否定する意見もあった。
その中にあって、平成十一年(1999)八月十三日法律により「君が代」が国歌、日章旗(日の丸)が国旗となった。


  奥宮社殿 御祭神 建御雷(武甕槌)大神荒魂  
慶長十年(1605)江戸幕府初代将軍德川家康公が関ヶ原の戦いの戦勝御礼に本宮社殿として現在の社殿の位置に
建立奉納されたものである。
元和五年(1619)江戸幕府二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が建立奉納されるに当たり
現在地に曳移して奥宮社殿とした。
重要文化財に指定されている。


  松尾芭蕉句碑
「此松の 実生せし代や 神の秋」
俳聖・松尾芭蕉が鹿島神宮に参拝した折(貞享四年 1687)詠んだ句である。
句の前書きに「神前」とある。

                                          案内説明より

再建鳥居 供出材切株

さざれ石 玉石灯篭

さざれ石

鹿苑

奉納 青銅製御神灯

奉納 石製御神灯

奥之参道

鹿島の森 鹿島の樹叢

要石神社

要石

鯰(地震)を足で抑える鹿島大明神

要石

芭蕉句碑

奥宮 奥参道

御手洗池

御手洗池参道 句碑

霊剣仕 顕彰碑?

池流入口

参道脇の盛砂

御手洗公園

御手洗公園

御手洗公園

  要石
神代の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう御座とも、或は古代における大神奉斎の座位として
磐座とも伝えられる霊石である。
この石は、地を掘るにしたがって大きさを加え、その極まる所しらずと云う。
水戸黄門(徳川光圀)仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘りきれずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。
信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。


  芭蕉句碑
枯枝に 鴉のとまりけり 穐の暮れ  (かれえだに あのとまりけり あきのくれ)
穐は秋の旧字体であり、鴉(からすのことで あ と音する)
この句はこの地で詠まれた句ではないが、その状況が似ているので建立されたものと推察される。


  船茂孝阿の歌碑
かすみ降る か島のもりの 要石 動かぬ国の 鎮めなるなり


  一茶の句
大地震に びくともせぬや 松の花 (おおなえに びくともせぬや まつのはな
小林一茶は文化十四年(1817)五月二十六日、鹿島神宮へ参拝し、この句を詠みました。


  御手洗池参道の句碑
月花に 和らぎし夜や 常陸帯   柿麿
鶯や 神楽拍子に なれて鳴く   虎杖


  御手洗
古来、神職並びに参拝者の潔斎の池である。
この池の水は清く美しく澄み、四時滾々と流れ出てどのような旱魃にも絶えることのない霊水で、
神代の昔、御祭神が天曲弓で掘られたとき、宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ、
大人、小人によらず水位が乳を越えないと云う伝説により、鹿嶋七不思議の一つに数えられている。

大昔は鹿島神宮の参拝がこの御手洗を起点としていましたので、この池で身を清めてから参拝するのが慣わしとなっており、
御手洗の名が今に残っている。

なお、御手洗の水は清潔なる水ですが、直飲するには成分上不適当であるので、必ず沸騰させてから飲用してください。


  御手洗池傍の松露庵雪才の句碑
涼しさや 神代のまゝの 水の色   雪才

                                       案内説明より

御手洗池売店・食事処

松露庵雪才の句碑

御手洗参道 大杉の切株

船茂孝阿の歌碑





鹿島神宮境内末社

末社の森鳥居

熊野之社

祝詞之社

津東西之社

須賀之社

御厨之社

熱田之社

大国之社

稲荷之社 鳥居

俗に銚場の稲荷様と呼ばれ、霊験あらたかで多くの人々の信仰を集めている。
なお、銚場とは直会場のことで、江戸時代以前はこの広場で祭典の後直会を行っていたのである。

稲荷之社

車お祓い処





鹿島神宮・摂社  坂戸神社  沼尾神社

坂戸神社

拝殿

本殿

沼尾神社

拝殿

本殿

沼尾神社参道


  坂戸神社 国指定史跡
坂戸神社は、中臣氏(藤原氏)の祖先の神「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」を祀る社で、鹿島神宮の摂社です。
摂社とは、本宮(鹿島神宮)の創建、御祭神など特に縁の深い神を祀った社のことをいいます。
「中臣」には、神人との仲をとりもつ意味があり、中臣氏は祭祀を司る神職を担っていました。

八世紀前半に編纂された『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」に鹿島神宮、沼尾神社と合せて、
“香島の天の大神”と記載される古社です。
鹿島神宮の摂社の一つとして、昔から「三社詣り」などで尊崇されてきました。
昭和六十一年(1986)に国史跡「鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)」に指定されました。


  沼尾神社 国指定史跡
沼尾神社は鹿島神宮の摂社で、奈良時代に編纂された『常陸国風土記』に記載されている古社である。
祭神は、鹿島神宮と縁の深い香取神宮と同じ「経津主神」であり、
かっては本殿の後方から香取神宮の森が望めたと云われている。
本殿は屋根が銅板葺、一間社流造で、元和年間(1615~1623)に造営され、昭和二十八年に再建された。
拝殿は切妻造の古い姿を今に残している。

『常陸国風土記』には
「・・・・天の大神社坂戸神社、沼尾神社、三処を合せて惣べて香島の天の大神と称す。因りて郡に名づく。」
と記載されており、歴史上、学術史上重要な遺跡として史跡に指定されている。

                                       案内説明より

沼尾神社 樹叢

沼尾神社は駐車場があった





塚原卜伝の墓

塚原卜伝の墓入口

石段を登ります

階段改修竣工の記念碑

塚原卜伝の墓

墓傍らの供養塔

奥まったところに在り、見逃すな

スペースは五台程度


  剣聖 塚原卜伝の墓
塚原卜伝は、今から五百年以上前の延徳元年(1489)に、常陸の国一之宮・鹿島神宮の神職である
卜部家・吉川左京覚賢の二男(幼名は朝孝)として誕生しました。
幼少の頃に沼尾の塚原城主・塚原土佐守安幹の養子となり、後に元服して塚原新右衛門高幹と名乗ります。
幼少の頃から実父に鹿島の太刀、師の松本備前守に天真正伝香取神道流を学び、
永正二年(1505)には、十六歳で諸国修行の旅に出て、十四年間腕をみがき、初めての真剣勝負や戦場の戦いを経験します。

永正十五年(1518)に帰国すると、鹿島神宮に千日籠って精神修養に励みました。
やがて悟りを得た卜伝は、大永三年(1523)に二回目の諸国修業に出かけ、天文元年(1532)に戻ると塚原城主となり、
妙を妻に迎えます。
しかし、短い結婚生活で妻が亡くなると塚原城主を養子に譲り三回目の修行の旅に出かけます。

京では、時の将軍・足利義輝や伊勢の北畠具教など多くの大名や武人に剣を教え、十一年後、鹿島に戻ります。
三回目の修行から戻った卜伝は、塚原城近くの草庵に棲み弟子たちに剣を指南しながら、
元亀二年(1571)八十三歳の生涯を閉じました。
親子が、兄弟が、血で血を争う戦国時代にあって「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり(活人剣)」と
平和思想をもって生きぬいた卜伝を、いつしか人々は剣聖の名で称えました。

                                         案内説明より

鹿嶋市観光案内マップ





息栖神社

社務所

御神木


  息栖神社
息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年(807)、右大臣・藤原内麿の命により
現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
史書「三代実録」にある「仁和元年(885)三月十日乙丑條、授常陸国正六位上 於岐都説神従五位下」
の於岐都説神とは息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)

古来より鹿島神宮・香取神宮との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、
室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあったことが記されている。
祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、
海上守護、・交通守護の守り神と奉られている。

岐神(くなどのかみ)は厄除・招福・交通安全の御霊格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ
国土の経営にあたられた。
天鳥船神(あめのとりふねのかみ)は航海・航空の守護の御霊格が高く、
古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。
住吉三神は海上守護漁業関係の御霊格が高い三柱の神様である。
このように五柱の神々を祀られているので、古くは息栖五所明神とも称された。

江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図絵、新編常陸国誌)、
更には現在境内にある芭蕉の句碑「此里は 気吹戸主の風寒し」は、その関係を物語っていると思われる。
社殿は享保八年(1723)に建て替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八年五月に新たに完成した。
末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮がある。
関係の深い鹿島神宮・香取神宮と共に東国三社の一社として十下の信仰の篤い神社である。


  御神木 
此の御神木は別名「息栖神社の「夫婦杉」と呼ばれています。
樹幹は一本の杉の木で、途中で二股に分れている。
写真右側の支幹が男杉、左の支幹が女杉と呼んでいが、男女の見分け方は御神木を一回りすると判るらしい。

  招霊(おがたま)の木  (小賀玉・黄心樹)木蓮科
幸運をもたらす樹の代表格の精霊の宿る木です。
近寄って精霊のパワーを受け摂りましょう。

                                            案内説明より

参道樹叢

社殿樹叢

幣殿 本殿

拝殿扁額

拝殿

神門

石畳の参道

手水舎

社号標

一之鳥居

二之鳥居

招霊(オガタマ)の木

境内社 五柱合祀之社


  力石
この力石は、春秋の祭りの昼休み、夕涼みがてらに集まった若者たちの力競べに用いられたもので、
外にも幾つかの小振りな石がありそれぞれに手頃の石に挑戦し、体力を誇り練り自信を深め、
最後にこの石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。
野趣に満ちた極めて素朴な競いではあるが、社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に
汗みどろになって喜ぶ様が偲ばれる。

現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の五十貫余)は対岸の侠客・笹川の繁蔵が自らの力を試すために使われ、
その後奉納されたものと伝えられ「繁蔵の力石」とも云われている。


  礎石
息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日 806)、奈良時代にこの地に遷宮されました。
以来、貞観八年(876)一月、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ建て替えがありました。
この五個の石はその何れの時かに礎石として使用されて以来、昭和三十五年までその務めを果たしました。


  息栖神社ゆかりの歌碑
鎌倉時代に編纂された「新和歌集(藤原為氏撰)」の中には、息栖神社周辺を詠んだ歌が収められています。
その歌の表題は「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて、おきす社僧に十首歌すゝめ侍りける」とあり、
次の歌はその内の一首です。

「海原や 沖つ潮合に 立浪の 鎮めがたきは 心なりけり」   理然法師

なお、「息栖の歌」とは別に「新和歌集」には、渡り鳥「ほととぎす」の歌があります。
この三つの和歌は、藤原時朝が鹿島詣での際、歌仲間と船中で十首詠んだうちの三首です。

「鹿島潟 沖洲の森の ほととぎす 船をとめてぞ 初音ききつる」   藤原時朝
「われのみと 待ちつる暮を 郭公(ほととぎす) またたか為に 鳴ですくらん」   諦如法師
「里とをき(遠き)  山のすそのゝ ほととぎす たか為になく 初音成らむ」   稱佛法師

  新和歌集十巻
和歌 鎌倉時代に藤原為氏の撰した私撰集。
『新式和歌集』 『宇都宮打開新式和歌集』ともいわれ、
正嘉二年(1258)十一月一日から正元元年(1259)八月十五日前後までの間に成立したと云われています。

  藤原時朝(笠間時朝)
鎌倉時代の歌人で、勅撰集にも選ばれており、三十三間堂をはじめ、各地の寺院に奉佛、納経をしています。
また、常陸国笠間荘の領主となり笠間氏を称し、初代笠間城主となりました。


  芭蕉句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」

俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(1687)八月十四日で、
親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。
この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった芭蕉は、息栖地方にも足を延ばしたもののようである。
この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、建立の年月は不明である。

句の意味するものは、伊邪那岐尊が、黄泉の国(死者の国)から戻ったとき、筑紫日向の橘の小門で、身体を洗い、
きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落とし、浄め流した。
その流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。

この謂れにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りもわだかまりもなくなり、
体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。
といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。

                                          案内説明より

境内社 四柱合祀 

鹿島神社  伊邪那岐神社  高房神社  奥宮


境内社 五柱合祀

香取神社  手子后神社  八龍神社  江神社  若宮

車両お祓い処

古木

芭蕉句碑

境内社 稲荷神社

社殿と奉納鳥居

狐玉狛犬

狐巻狛犬

力石

旧社殿礎石

息栖神社一之鳥居

手前男瓶の鳥居の方が大きい


  忍潮井
忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり、神功皇后の三年(194)に造られたものと云われ、
あたり一面海水におおわれていた頃、真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させて住民の生活の水としたもので、
海水を押しのけて清水が湧出しているところから、忍潮井の名が付けられたと伝えられている。
水と人類との係わりの中で最も古いかたちの井戸であり、日本三霊水の一つと云われております。

  形状
男瓶は直径二メートル弱、白御影石で銚子の形をしている。
女瓶はやや小振りで土器の形をしている。

  三霊水
常陸国の忍潮井  伊勢国の明星井  山城国伏見の直井

  伝説
その昔(平城天皇の御代・大同二年(809)四月、数キロメートル下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際
取り残されてしまった男女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、
とうとう自力で川を遡ぼり、一之鳥居の下にピタリ据え付いたと云う。
この地に定着して後も、時々日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。
日川地区には瓶の鳴き声そのままの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜しんで名付けた「瓶断ち川」の地名が今も残されている。


  息栖神社と河岸
江戸時代以前の利根川は一本の川ではなく、直接東京湾にそそぎ込み、
現在の利根川の中流・下流域は常陸川と呼ばれていました。
この二つの川が流路改修工事によって一本の河川となり、江戸への舟運路として成立したのが承応三年(1654)のことです。
当時の江戸は急激に人口が増え、一大消費地となっていました。

商品や農産物、水産物の多くは利根川を舟運によって上下し、その集散地となったのが川岸に点在する「河岸」でした。
利根川の舟運は物資の輸送に役だっただけでなく、旅行者にも大いに利用されていました。
この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地から押し寄せ、大変な賑わいを見せていました。
これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶舟」と呼ばれた乗合船・遊覧船でした。
木下河岸(現千葉県印西市)から船出する船は、江戸時代中期には、
年間約一万七千人(一日平均約四十六人)余りが利用したということです。

男瓶・女瓶の忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井、山城の直井と併せて日本三所の霊水と云われ、
人々の評判となりました。
旅人の中には松尾芭蕉をはじめとして、多くの文人・墨客もこの息栖神社を訪れ、その足跡を残しています。
息栖河岸はまさに玄関口であり、物資や人々の往来と共に江戸の文化や情報をもたらしてくれていたのです。

                                           案内説明より

水門

忍潮井戸傍の祠

忍潮井 男瓶

忍潮井 女瓶

坂戸神社・沼尾神社  末社  塚原卜伝の墓  息栖神社

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