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西宮恵比寿神社

浅間温泉界隈

湯けむり公園 (チンチン電車浅間線終点駅跡)

大正十三年(1924)から昭和三十九年三月まで四十年間運行されていた路面電車(チンチン電車)の終点で、
浅間温泉の玄関口としてたいへん賑わった。
駅跡地は平成八年三月松本市が公園として整備し浅間温泉街づくり協議会は愛称名を募り、「湯けむり公園」と名付けられた。

明治も終わりごろになって鉄道が東京・名古屋方面へと通じ善光寺詣りの団体はじめ文人墨客等来客が増え、
旅館は専業化していきました。
大正十三年(1924)には松本駅前からの「チンチン電車」が開通し、旅館は軒を接して大厦高楼となりました。
芸者衆もおり松本の奥座敷でもあり県下有数の温泉地として栄え、住む人のステイタスも高まりました。
電車は西在新村の資産家・上条信によるものですが、自動車時代となり昭和三十九年(1964)廃止されました。
この場所は終点浅間温泉駅の跡地です。

                               案内説明より

浅間温泉については宿の説明書には次のように書かれていた。 (説明文転載)

浅間温泉が歴史の上に現れたのは古く、日本書紀によれば天武天皇が白鳳十四年(685)に、
「信濃に遣わして行間を造らしむ 蓋し 束間の温湯に幸せんと擬すか」と記されており、
信濃の国の国府が平安時代の初めには市内・惣社(信濃国総社)在ったとされることからして
「束間の温湯」は松本市東山山麓に点在する浅間、藤井、湯の原、御母家の一体を指していたことは、
考古学者によって明らかにされています。

万葉集などに詠まれている浅葉の里、麻葉の湯は、束間の湯とともにあさまおんせんの古称だったと考えられています。
鎌倉時代初期には「浅間社」という名称が登場しています。
何故その名前になったかは文献が残っていませんので詳しくはわかっていません。
また、言語的には、南方民族では火や煙のことを「あすむ」と呼び、山が噴煙を上げるのと同じく、
湯煙が立ち込めていたこの地方を「アッサ」→「アサ」→「アサマ」という風になまったのではないかといわれています。
アイヌ語と関わったという説もあり、確かなことは解りませんが、縄文時代の遺跡がこの地方から発掘されていることから、
浅間の歴史もとても古いと考えられています。

藩政時代には松本藩の藩主の御殿湯が浅間温泉に置かれ、湯守によって厳重に管理されていました。
現在日帰り温泉施設である「枇杷の湯」がそれであった。

また近代においては、若山牧水、与謝野晶子、らの文人が訪れたことがあります。
川島芳子(清朝の皇族第十代・粛親王善耆の第十四王女・第14王女顯㺭、 
日本・中国の間で活動した女性スパイ、元名は愛新覚羅顯㺭)は東京赤羽より養父の故郷松本浅間温泉に移住し、
松本高等女学校(現 松本蟻ケ崎高等学校)に聴講生として通学しています。
毎日自宅から馬に乗って通学したと云われています。
後、髪を短くし世間から「男装の麗人」と呼ばれた。


浅間温泉はアルカリ性単純温泉で、源泉温度は概ね40~53℃である。
源泉は七カ所にあります。 (第一号源泉・第二号源泉・第四号源泉、東北源泉・山田源泉・大下源泉・鷹の湯源泉)
この他に旧松の湯源泉がありましたが、昭和二十九年に枯渇してしまいました。
しかし、温泉街中心から南東300mを隔てた山林内に未使用の源泉が自噴しています。
みやま荘の湯船には第一号源泉を使用しています。






浅間温泉 みやま荘 asamaonsen-miyamaso


浅間温泉界隈

田名部海辺三十三観音 十二番札所

本堂 無住寺 兼務住職がおられる

寺号標

観世音菩薩

山門

浄土宗 観音山浄土寺

若宮稲荷神社

自由寺三門

本堂

庫裡

海上守護観世音

石仏と住職供養墓

曹洞宗 自由寺

拝殿

幣殿本殿

手水鉢 ロダン作?

三之鳥居

二之鳥居

若宮稲荷神社 一之鳥居

右 吽形狛犬

左 阿形狛犬

拝殿 虹梁彫刻

拝殿 木鼻彫刻

日清・日露戦役 戦没者忠魂碑
陸軍大将・一戸 兵衛 揮毫

境内は約海抜50m

稲荷神社境内より

境内樹木

対岸は北海道

漁港

下風呂温泉郷 ようこそ

津軽海峡と漁船団

大畑駅観光案内看板 鉄路表示

下北駅 旧大畑線始発駅

温泉郷

温泉郷

大湯

共同浴場 大湯

新湯

共同浴場 新湯

温泉成分分析書 新湯

湯の花収集 販売あり

源泉投入口

浴場

坪田旅館 居心地が良い

大畑駅鉄路遺構

旧大畑線大畑駅

大畑駅待合 下北バス発着

旧大畑線 大畑駅

計画鉄路遺構

計画鉄路遺構

大間線(大畑~大間)計画鉄路遺構

温泉名: 下風呂温泉親湯
源泉名: 新湯1号泉、2号泉、3号泉、4号泉の混合泉(下風呂温泉管理区)
泉質: 含硫黄 ナトリウムー塩化物泉
     低張性 中性 高温泉
     pH 7.4  陽イオン 1807㎎/㎏  陰イオン 2966㎎/㎏
     メタケイ酸 128.0㎎/㎏  メタホウ酸 378.7㎎/㎏

源泉温度: 78.5℃

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 冷え性
     末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 軽高コレステロール症 糖尿病
     自律神経不安定症 うつ 痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進
     不眠症 

湧出量: 
湧出形態:
注入排出形態: 源泉掛け流し


下風呂温泉郷
風間浦村商工会 Tel 0175-35-2010






下風呂温泉 坪田旅館 simoburoonsen -tubotaryokan

日帰り温泉施設 中ノ湯

食事処みらく 満月餃子がうり

足湯

土湯こけし

源泉まで遠い 湯量が少ない

分析書

外観

温泉名: 土湯温泉
源泉名: 土湯2号泉 15号泉 16号及び17号の混合泉(土湯源泉)
泉質: 単純温泉
     低張性弱アルカリ性 高温泉
     pH 7.5  陽イオン 94.0㎎/㎏  陰イオン 187.7㎎/㎏
     成分総計 436.2㎎/㎏

源泉温度: 62.2℃(土湯源泉)

湧出量: 1130L/min (土湯源泉合計)ガス造湯合計1800L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯 掘削自然湧出 噴出ガスによる造湯
注入排出形態: 加水 消毒 放流式

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 冷え性
     末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 軽高コレステロール症 糖尿病
     自律神経不安定症 うつ 痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進
     不眠症 

利用料: 700円
利用時間: 12.00~16.00
休日: 無休(問い合わせ)


土湯温泉 向瀧
福島市土湯温泉町字杉の下63  Tel 024-595-2121 






土湯温泉 旅館向瀧 tutiyuonsen-mukaitaki

近くの八食センターの市場棟は休業日
食堂街は通常通りの営業

八戸三社大祭ポスター

温泉分析書

前回と同じ評価

はちのへ温泉旅館

温泉名: はちのへ温泉
源泉名: 尻内温泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     等張性 中性 高温泉
     pH 7.2  陽イオン 5626㎎/㎏  9402㎎/㎏
     成分総計 15170㎎/㎏

源泉温度: 49.2℃

湧出量: 160L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 放流式

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 冷え性
     末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 軽高コレステロール症 糖尿病
     自律神経不安定症 うつ 痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進
     不眠症 


利用料: 450円
利用時間: 5.00~22.00
休日: 無休 (問い合わせ)



はちのへ温泉旅館
八戸市尻内町島田17-5  Tel 0178-27-3337


浴槽の容積からは掛け流しとしては湧出量が男女別で80Lは少ない。
それが加水、新湯投入率、源泉の評価の結果でしょうか?






はちのへ温泉 hatinoheonsen

  猫石
盛岡市のつなぎ温泉は湯ノ館山の山裾の湯ノ沢に開かれ、温泉の玄関口に猫石と呼ばれる石があります。
昔は、巨大な猫の形をした大石が両側に立っていたことから、招き猫とも呼ばれています。
平安時代の前九年の役のおり安倍貞任と源八幡太郎義家の戦いは激戦を極め、
八幡太郎義家は追われるように湯ノ館山に兵を引きました。

食糧に困り果てた義家は、木の実山の獣を集めて食物として食べ、骨を山裾に投げ捨てました。
投げ捨てられた骨は、一夜にして猫の形をした石になって義家の殺生を戒めました。
里人は猫の形をした大石を猫の霊、猫石と呼んで赤飯を上げてお祀りする人が多かったと云われます。

温泉街の玄関口の両側にあった事からお客を招く招き猫とも呼ばれた大石は壊され、
今は、道路の東側だけにその一部が残されています。
昔は、今の五倍もあったと云われています。
西側の猫石は無く、昔話だけが伝わっています。

                          案内説明より

猫石

繋温泉神社

足湯

縄文土器(複製)展示

夢枕の湯

堅穴の湯 深さ120㎝

大浴場露天風呂

縄文の湯

縄文の湯

愛真館外観

温泉成分分析書

温泉名: 繋温泉愛真館の湯
源泉名: 新瑞光の湯・至光の湯 混合泉
泉質: 単純温泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH 9.0  陽イオン 185㎎/㎏  陰イオン 346.4㎎/㎏
     成分総計 630㎎/㎏

源泉温度: 72.5℃

湧出量:
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 冷え性
     末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 軽高コレステロール症 糖尿病
     自律神経不安定症 うつ 痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進
     不眠症 


利用料: 800円 フェイスタオル付
利用時間: 7.00~18.00 
休日: 無休 (必要問い合わせ)


繋温泉 愛真館
盛岡市繋字塗沢40-4  Tel 019-689-2111




利用料: 1000円
利用時間: 11.00~16.00 この間清掃時間あり
休日: 無休 (必要問い合わせ)


繋温泉 紫苑
盛岡市繋字湯の館74-2  Tel 019-689-2288 






繋温泉 愛真館 tunagionsenーaisinkan

庫裡右横のAvalo Hall (葬送会館)
住職の高橋さんは生と死の狭間をわかりやすく語っていただけ、死を送る生の覚悟を優しく見届ける。
仏教の本質をあらゆる生活にも広める活動に力を注いで、多くの人々に教えを請われる方丈さんです。

参道に並ぶ石塔

薬師堂 宝形造銅板葺

薬師瑠璃光如来

扁額

奉納燈籠 延宝二年奉納燈籠は後方の一対

鐘楼

梵鐘

抱影塔

鶯上山之記碑

松枯れで伐採された赤松

石段参道と左女道

  御殿山天満宮
浅間温泉天満宮は、松本城主の入湯所であった御殿の湯の東側にある御殿山中腹にあります。
この神社は松本城主水野氏が勧請した社で、明治十六年(1883)に記された『二木実録年代記』によれば、
万治二年(1659)の創建とされています。
また、明治三年の『諸社委詳取調書上』には江戸時代には松本藩が二十年毎に修理を行っていたと書いてあります。

本殿は間口五尺の規模の一間社流造・銅板葺の社殿で、向拝内に高い床を設けた見世棚造りの形式となっています。
昭和六十二年(1987)に修理が行われ、屋根葺替え、土間取替え、柱根継ぎ、縁長押取替えなどが行われていますが、
それ以外の場所では創建当時の部材をよく残しています。

当時の部材には彩色がよく残っており、胡粉・朱・黒・茶・緑青などで全体が塗られていたことがわかります。
このように見世棚造りという簡素な形式でありながら彩色を施すのは、信州では江戸中期までの特色です。
さらに特徴的な点としては、虹梁上に扠首を組み、斗を置いた形式の妻飾りを持っている点です。
通常、扠首は豕扠首という形式で、合掌形に組んだ材の頂点から垂直に扠首束という材を立てるのですが、
この社殿は扠首束が省略され、合掌形に組んだ材のみの扠首となっているため、軽快な印象のつくりとなっています。

このほか、本殿の向拝の蟇股の輪郭や、海老虹梁)の渦の絵様などは塩尻市の小野神社と共通する技法です。
小野神社の大工棟梁は松本藩大工頭の中村四郎右衛門であったので、
この天満宮本殿も中村四郎右衛門が建てたと考えられます。

                          松本のたからより転載

  天満宮の手水鉢
元治元年三月、松本藩の上級武士六人により奉納されたものである。
六人の氏名と、この石は山辺の桐原から出た石で、その謂れのある石であることが刻まれている。
碑文 元治元年甲子三月吉日 鶴見次温 安保實美 玉生完忠が見えるが、他の碑文は土中に埋もれて読みきれない。


  鶯止山の碑
歴代松本藩主は天満宮を崇敬し、浅間御殿へ湯治に来たときは参拝した。
特に戸田家八代の光庸は文人で崇敬深く、碑文を作り藩学者の雪江関思に筆書きさせ、万延元年(1860)八月これを建立した。
碑文は漢文で難解であるが、概要は以下の通りである。

「君主が仁政をし、家臣が君主を敬い、父が子を慈しみ、子が孝行すれば国内は平穏無事で、禽獣も恩に感じる
此の山に登り参拝すれば、君臣百性も楽しみ鶯も丘に止まって鳴く」


  天満宮の石燈籠
社殿前の一対の燈籠は文久四年(1864)三月、枇杷の湯湯守・小口湯庵が奉献したものである。
他の一基は慶応二年(1866)三月、堀内謙拝が奉献した。

                             案内説明より

  湯薬師
この場所は古くから湯が湧きだしており、浅間御殿もここから引き湯し、薬師堂があった。
万治二年(1659)松本藩主・水野氏が浅間御殿を改修した時、湯谷神社を祀って湯薬師と名付けた。
遠近から病気平癒祈願に参拝する者も多く多数の絵馬が奉納されている。
薬師堂は明治十三年の上浅間の大火で類焼し、明治三十一年やや上方の現在地に再建された。

                        案内説明より

与謝野晶子歌碑

上原三川句碑

  高橋玄一郎詩碑
春愁 遠くなだれて散り止まぬ雪解の終夜…  灯に打つ藁の手の暈ゆれて隔里ゆくものよ
肌にしめりのしづかに移り来る涓滴に臥ね  ああ胸の掌の心臓に秘め運行する歌章よ


吉田一穂をして〈幻の宿〉の主・信州の耆宿と呼ばしめた「詩の家」 「リアン」の詩人・高橋玄一郎(小岩井源一 1904~1978)は、
詩宗マラルメの象徴を文学の革命としてとらえ、前衛的な詩造型を求めて長い詩法遍歴を続けた。
その独自の詩風と詩観は詩界に広く影響を与え、晩年には思想韻完成の方法を自由連句に向けて、
現代詩の新分野開拓に意を傾注した。
また、本名・小岩井源一として地域行政にも貢献するところ多大であった。
この詩碑建立については(高橋玄一郎詩碑を建てる会)がこれに当った。       1981年6月


  上原三川句碑
「五月雨や 山の温泉のさゝ濁り  三川」
三川の名は良三郎、和田の人
小学校校長で子規の高弟で、病のため浅間温泉千代の湯に逗留療養した。

この句は明治三十九年療養中の作で、翌年死去した。
碑陰にこの句の色紙を西石川旅館で所蔵していることを聞き、関係者の協力を得て拡大し、
昭和五十一年二月に建立したことが刻まれている。


  与謝野晶子歌碑
「たかき山 つゝねる雲を前にして 紅き灯にそむ 浅間の湯かな   晶子」
与謝野晶子が昭和十一年秋、上高地からの帰途浅間温泉「富貴の湯」に泊まった時詠んだ歌である。
昭和三十二年春、色紙を拡大して旅館主・滝沢久馬雄が建立した。
碑陰に建立のいわれが刻まれている。

                             案内説明より

 

高橋玄一郎詩碑

  六地蔵・嘯月橋 嘯月橋碑
六地蔵尊は天保五年(1834)主として幼児の死後の冥福のため、六道をめぐる魂を救う為、念佛講中で建て寄進したものである。
また、滝沢氏・赤羽氏も先祖の供養のために建て寄進した。

嘯月橋は寛政十二年(1800)住職独園の橋碑と共に造られ、その後一部補修されている。
嘯月橋碑には漢文では橋の意味や詩が刻まれているが、風化してよく読み取れない。
橋の上に立ち、東山から出る月を眺めて吟じたものと思われる。


  浅間学校跡
明治四年(1871)神仏分離令に伴なう松本藩の廃仏毀釈運動により神宮寺は廃寺となり、
明治六年(1873)現本堂に浅間学校が設けられた。
通学区域は、浅間・水汲で後に原・洞が加えられた。
明治九年(1876)神宮寺の倉庫を改築し本堂の東に移転した。
明治十七年(1884)校舎を増築し、明治二十六年(1893)教室を増築した。
明治四十四年(1911)に現在の本郷小学校の地に移転した。

                           案内説明より

浅間学校跡之碑

浅間学校跡

嘯月橋碑

嘯月橋

境内墓地

境内墓地

境内墓地

六地蔵尊

歴代住職供養墓

歴代住職供養墓 住持職芳塔

合同納骨堂供養墓

合同供養納骨堂

一味和合芳名碑

  太子殿
明治三十一年、浅間の職工により太子講が設立された。
その後、他の地区から入会者も多くなったので寄付を集め、大正十一年太子殿を新築し聖徳太子像を安置し奉った。
太子殿には大日如来、不動明王なども安置し奉っている。
大正十四年に太子橋と石段を造る。
現在会員四十五名(平成十一年)、毎月二十一日に例会を開き会い談している。

                             案内説明より

扁額

太子殿

太子堂

じっさ ばばさの石

台座刻文

じっさ、ばばさの石

以前、延命地蔵の西南の道端に突き出した二つの丸い大岩があり、
石の形からじっさ、ばばさ石と呼んでいた。
婚約中の人がここを通れば破談となると云い伝えられていたので、
この道を避けて通ったという。

先の大戦後、道路拡張のため一つは破壊され、残った一つはここに移された。
ここに移された石がじっさかばばさかは見た処ではわからないが、
じっさの石の方が大きかったと思われるので運びきれず、破壊されたと想像する。

脇の観音菩薩?

台座礎石 

輪王座に似た思惟の像形

延命地蔵尊

浅間涌出摩訶澄
諸聖不知久遠〇
密亦春秋降雨露
無邊羊果〇天然

台座に彫られた文字
読める字と、感で想像と、〇わからず

駐車場から全景

庫裡

半鐘(喚鐘)

廻廊の打板

石庭

石庭

石庭

本堂

羅漢像

唐門正面

唐門

三門扁額

宗門標

三門 桟瓦葺薬医門

庫裡 妻入り

庫裡

三号標

臨済宗妙心寺派 醫王山神宮寺

休み処

燈籠

燈籠 

拝殿扁額 天満宮

狛犬

狛犬

本殿

天満宮本殿

拝殿

二之鳥居

落ち葉を踏みしめて

道標

一之鳥居扁額

一之鳥居

天満宮案内板

天満宮からの戻りの案内板 この先に天満宮あり?
実はTの字で坂から降りてきた人に知らせる道案内板である。
支持ポールに固定出来なくて案内板のみが回転した結果でした

直した正常な位置の道案内板

毛筆で書かれた薬師如来扁額

天満宮

双体道祖神

神饌所 参籠所

湯薬師堂

湯薬師堂

御神木

鳥居の横に道がある 鳥居参道と直角の平入り社殿

本殿裏の松枯れ

御射神社維持金寄付者記念碑

宮沢雅楽翁筆塚

道祖神と石燈籠

寛政十一年 双体道祖神

左・文字道祖神 右・宝暦七年双体道祖神

拝殿棟瓦

左燈籠

右燈籠

右狛犬

左狛犬 阿形

拝殿扁額 判読できない

本殿

拝殿 鯱と逆さ獅子

拝殿

参道

参道

神橋

明神両部鳥居

松枯れが進んでいる周囲の赤松林

御射神社鳥居向かって右に鳥居

扁額には正一位稲荷大神

  御射神社 春宮
古代は浅間社(宮)と称し、当春宮は三才山の山の神の里宮で、春には里へ下って田の神にな成り、
冬は三才山へ帰って山の神になった。

今からおよそ八百余年前、文治二年(1186)吾妻鏡にのる荘園(社寺や貴族の領地)の那珂にある古社で、
本郷村(浅間、水汲、原、洞、稲倉、三才山)を社領とする古くて大きい社であった。
当社は別当寺として神宮寺を持つ格式高い社で、およそ七百年前の正応五年(1292)中国の僧「円空」が
神宮寺にて大般若経を写経し、浅間社に奉納しており、その一部が社宝として保存されています。

およそ六百五十年前の建武年間(北朝1334~1338 南朝1334~1338)浅間郷の地頭・赤沢氏が
諏訪の地から御射山神社を勧請して、御射神社と名称が変わり、浅間の社が春宮、三才山の社が秋宮となった。
当社の祭神は古く大山祇命であったが、諏訪から勧請してからは諏訪大社と同じ祭神である
建御名方命・八坂刀売命・事代主命が合祀され、地域の平安、家運長久、五穀豊穣、繁栄の守護神として崇められてきた

当社の祭りは、神を押鉾に載せて運ぶ祭が主体であったが、後に松明祭が取り入れられて有名になってきた。
松明祭のいわれは、田の虫送り行事(害虫駆除)や神様が松明の煙と共に、三才山の秋宮へお帰りになる行事
から始められたと云われ、以前は二晩行われていたが、現在は十月三日の晩に行われている。
現在の社殿は明治二十七年四月横手の大火で類焼し同年九月に再建され、本殿は神明造になっている。


  御射神社・春宮の道祖神
双体道祖神・・・・・寛政十一年(1799)正月吉日 浅間村と刻されている。
文字道祖神・・・・・天保十年(1839)己亥正月建立  上浅間村と刻されている
双体道祖神・・・・・宝暦七年(1757)(丁)丑正月 と刻されている

本郷地区では古い部類の道祖神である
三体とも上浅間や師も浅間の辻道にあったが、道路拡張のため神社境内に移された。


  御射神社春宮の狛犬・石燈籠
狛犬は、皇太子裕仁殿下(後 昭和天皇)と久邇宮良子女王(後 香淳皇后)御成婚(大正十三年一月二十六日)記念に、
大正十三年二月に同年生の柳沢磯一他七人が左狛犬(向かって右)阿形を、滝沢龍一他六人が右狛犬(向かって左)吽形を寄進。
石工は白鳥文次郎である。

一燈籠は、明治二十八年九月、藤岡喜代蔵他一人が右の燈籠を、山本きな子他六人が左の燈籠を寄進した


  宮沢雅楽翁筆塚
宮沢雅楽は御射神社の神職で、父・小源太は寛政の頃寺子屋を開く。
雅楽も父の跡を継ぎ師匠となり、門弟は40~50人をかかえていた。
天保十一年(1840)三月、特を称えて門弟中で筆塚を建立した。
寛永二年(1849)没した。

                           案内説明より

御射神社里宮

浅間公園之碑

旧法音寺 枝垂桜

馬頭観世音

松鶴斉一茂之碑

旧大音寺境内付近のあれこれ

小笠原貞慶
大隆寺殿前親衛校尉以清宗得大居士
文禄四乙未年五月十日 小笠原右近太夫貞慶

小笠原秀政
臨済寺殿前兵部侍郭儀窓宗玄大居士
元和元乙卯年五月七日 小笠原兵部太夫秀政

小笠原忠脩
法性じ殿前信州太守正甫宗中大居士
元和元乙卯年五月七日 小笠原信濃守忠脩

  御殿山 小笠原家廟所 (松本市特別史跡 昭和六十年七月十八日指定)
小笠原家廟所は、松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主小笠原貞慶と秀政・忠脩父子を祀った廟所で、
三基の五輪塔が建てられています。 
三基の五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩で、秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿と、
それぞれ埋葬された寺名に関係の深い戒名がつけられています。 

秀政と忠脩父子は元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死し、二男忠政も負傷しました。
二人は京都で荼毘にふされ、忠政は遺骨を奉じて松本に帰城しました。
父秀政は市内埋橋の宗玄寺に葬られ、忠脩は戦死した島立貞正ら七人の家臣とともに
浅間の大隆寺跡へ設けた法性寺墓地に葬られました。
したがって、この廟所に実際に遺骨が埋葬されているのは、忠脩のみです。

貞慶は秀政の父で、天正十年(1582)に父祖の旧領であった松本地方を回復しましたが、
同十八年に家督を譲った秀政とともに古河に転じています。 
その後、忠政は元和三年に明石に転封となり、(後、肥前国・小倉)また、忠脩の嫡子長次は肥前国中津の城主となり、
寺を移したので廟所は荒廃しました。

現在の五輪塔は、貞享二年(1685)に荒廃の様を見て嘆いた松本城主水野忠直の呼び掛けにより、
小笠原家の旧臣の子孫たちが協力して九尺四面の御霊屋とともに建立されたものです。
御霊屋は天保七年(1836)に焼失し、その後再建はされていません。
廟所の大きな石垣は平積形式で古く、往時を偲ばせます。
前面の平地は大隆寺、のちの法性寺が建てられた場所です。 

なお、里山辺の廣澤寺にも小笠原秀政・忠脩父子の墓所として五輪塔が建てられており、
「廣澤寺の小笠原家墓所」として松本市特別史跡に指定されています。

                          まつもとのたからより転載

五輪塔 右より秀政・貞慶・忠脩

廟所入口石垣

御殿山小笠原家廟所

美鈴湖(灌漑用人造湖)・美ヶ原高原方面への道 美鈴湖はスケート場として六十年以上前には25~30㎝の厚さがあった

日蓮宗 大法山安立寺別院

寺号標

本堂 庫裡

温泉街より 北アルプス

神饌所

本殿

拝殿扁額 西宮大神

社号標 西宮恵比寿神社

石鳥居

拝殿

  仙気の湯   400円  6.30~20.00
江戸時代からの共同浴場でインドが高く仙気(大腸・小腸や腰部などの痛む病気)に効く名湯として入湯者が多かった。
以前、上浅間温泉中央分湯場の隣にあったが、昭和二十五年にこの場所に移転した。
平成五年八月に共同浴場「昭和の湯(昭和六年開設)」を合併し、平成元年新築した。


  ホットプラザ浅間   650円  10.00~24.00
大浴場、露天風呂、サウナ、水風呂を設置、シャンプー、ボディソープ備え付けで手ぶらで楽しめる。
休憩用大広間あり


  枇杷の湯   800円  9.00~21.00
大浴場、建物外に露天風呂、大浴場にシャンプー、ボディソープ設置
バスタオル フェイスタオル、カミソリ等は有料又はレンタル
休憩処あり


  第一号源泉 (平成十九年三月)
この辺りは昔より湯が湧出しており、浅間御殿もここから引湯した。
現在第一号源泉と称している。
昭和二十七年、本郷村村議会は浅間温泉発展のため源泉掘削の地質調査の予算を計上し、
翌二十八年、浅間温泉事業協同組合と協議し着工した。
この一号源泉は、昭和二十八年十月十七日着工し、十二月十日終了した。
掘削深度45m、毎分約一石五斗(270リットル)以上噴出した。
温度45度、現在十六の施設に供給している。


  第二号源泉 (平成十二年十二月)
昭和二十八年掘削開始、二十九年終了  掘削深度21.3m、温度51.3度 湧出量 毎分228リットル


  東北源泉
浅間温泉に残る唯一の自然湧出源泉  震度3.6m 温度51.3度 湧出量 毎分107リットル


  松の湯源泉 (平成十四円三月)
古くからの源泉で、40㎝ほど掘れば52度の高温の湯が湧出した。
大正十五年東山温泉試掘涌出により水位は低下した。
昭和二十九年源泉掘削まで七軒で維持管理をしていた。


  浅間の宿跡
浅間の宿は、ホテル小柳の湯角から飯田屋別館までで、その所見は建武二年(1335)である。
信濃国・国府(惣社)は北条党(鎌倉幕府残党)と足利党(東下向の足利尊氏)と戦った「中先代の乱」で焼かれ、
信濃の大小の領主は浅間の宿へ参集して後任の国司を迎えた。
浅間の宿は一時期、信濃の政治的中心となった。

                              案内説明より

飯田屋別館 ノスタルジック
浅間の宿跡

飲泉所 第一号源泉

松の湯源泉

第二号源泉

第一号源泉

東北源泉

まさごの湯

湯煙の湯川

住民専用湯

露天風呂と料理自慢の山映閣

ホットプラザ 浅間松明祭の松明

ホットプラザ 足湯

日帰り温泉施設 ホットプラザ

梅の湯

梅の湯 ウェストン牧師所縁の宿

梅の湯 大乗玅典一千部供養塔

温泉街の坂道

土産物商店

ウェストンホテル 10年ほど前に休業

ホテル おもと

日帰り温泉施設 枇杷の湯  参照:温泉その5→浅間温泉枇杷の湯

右の建物が温泉施設

百日紅

枇杷の湯 旅館時代の宿泊棟

ホテル 小柳

温泉街で見かける看板

自転車で来たがその面影はない

外湯 仙気の湯

ホステル&スパ (旧よしの湯)

相部屋(ドミトリールーム)併設の温泉付き宿泊施設 食事付きタイプと素泊まりタイプ(館内食事処で食事する事も出来る)

巡業場所 力士の色紙と御嶽海優勝

稲荷社と観音堂

正一位稲荷大明神

聖観世音菩薩

  不動院
江戸時代に上浅間の三才山道の上段にあった羽黒山系修験者の不動院は、明治四年廃寺となった。
この不動院は昭和十五年宗教結社して復興が成った。
本尊不動明王は、眼病と火災に霊験があり、多くの人々が参集したという。
参道には三十三番観音像の石仏が一部ではあるが祀られている。

大音寺不動堂の本尊は不動明王である。
不動明王は破邪顕正、ことに悪を亡ぼす神である。
仏滅後三千年、今は当に末法の世である。虚飾と巧言と偽善とあらゆる悪に満ちたこの世の中を
真に救う事の出来るのは不動明王である。

大智の剣を執り、三昧の索を持ち、難状の者すなわち信心から最も遠い所の人々を救うのが不動明王の誓願なのである。
人間、やがて死ぬだろう、善人も極悪人もすべて死ぬ。
臨終に際して真の心を持たない人にも済度を垂れる仏が不動明王である。
初七日の本尊を不動明王とするのはその謂れである。
この不動明王のお堂は昔よりこの地に在り、旧不動院の水行場として、滝と共に往古より続いている。
滝も堂宇も何度となく再建を繰り返してきた。・・・・・・ 大音寺不動堂

                           案内説明より

露天風呂

不動堂

不動堂扁額

不動堂

大浴場

脱衣所

温泉成分分析書

不動滝

三十三観音石仏

双体道祖神

チンチン電車が走った道

駅舎跡地の公園

浅間温泉駅とチンチン電車

チンチン電車

公園浅間温泉案内板

温泉街への道

湯処

外観

温泉名: 浅間温泉
源泉名: 浅間第一号源泉
泉質: 単純温泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH 8.9  陽イオン 117.7㎎/㎏  陰イオン 243.2㎎/㎏
     成分総計 413.1㎎/㎏

源泉温度: 46.5℃

湧出量: 287L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒

効能: 筋肉痛 関節痛 腰痛 神経痛 五十肩 打撲 捻挫 運動麻痺 冷え性
     末梢循環障害 胃腸機能低下 軽高血圧症 軽高コレステロール症 糖尿病
     自律神経不安定症 うつ 痔症 睡眠障害 病後回復 疲労回復 健康増進
     不眠症 

利用料: 500円
利用時間: 11.00~16.00 (最終受付15.00)
休日: 無休(問い合わせ)


公立学校共済組合浅間保養所 みやま荘
長野県松本市浅間温泉3-28-6  Tel 0263-46-1547

不動堂への道と二十三夜塔

露出した赤松の根

河川改良 土石流対策

河川改良

  薬師堂
延宝二年(1674)松本藩主・水野忠直の母清陽院の祈願により堂を建立、薬師如来を安置した。
昭和二十三年五月二十三日、付近の火災の飛び火により類焼、
昭和三十三年、東京大学の藤島亥治郎博士の設計で藤原時代(平安時代)の御堂形式で再建された。
本尊薬師如来坐像は、像高74㎝、桧材一木造、彫眼、左手に薬壺を持つ。
藤原時代末期の様式を残し、神宮寺創建当時の古仏であるが、雨露にさらされ破損が目立っている。


  神宮寺の木造薬師如来坐像 (松本市重要文化財 昭和六十三年三月十七日指定)
像高73.6㎝、桧材一木造、彫眼。
神宮寺薬師堂本尊で、納衣は左肩からわずかに右肩をおおい、左手は屈臂し、膝上に安じて薬壺を持つ。
右手も屈臂、施無畏の印を結び、両手、鼻は後から補修されている。

螺髪、面相、躰の感じの弱さから藤原時代の作と推定されている。
神宮寺は医王山神宮寺と云われ、浅間神社(御射神社)の別当寺であり、平安・鎌倉時代を通じての古刹である。


  薬師堂の石燈籠
延宝二年(1674)七月、薬師堂が松本藩主水野忠直の母・清陽院の祈願により此処に建立された時、
藩士・鈴木助左衛門、三輪長左衛門が寄進した石燈籠である。

                               案内説明より

左 恵比寿碑 右 神社再建芳名碑

社務所

  西の宮恵比寿神社
大正時代に西ノ宮から勧請、商売繁昌の神として信徒は松本商業組合をはじめ遠近の各地に多く、えびす講は賑やかである。
玉垣は大正六年浅間公園を造った時造立、拝殿は昭和三十年に建立したものである。




温泉その18



浅間温泉 みやま荘 

繋温泉

はちのへ温泉

土湯温泉

下風呂温泉

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三界萬霊塔・・・・・桂州居士香

薬師瑠璃光如来・・・・・縁日 毎月八日
延命地蔵菩薩・・・・・縁日 毎月二十四日  大正七年八月二日 神宮寺現住徹応勇禅代

梵字 南無阿弥陀仏
寛永四辛未(1751)七月十五日 湯久間村 願主一心と刻まれている
湯久間は今の下浅間のことである    

  御殿山の御竹藪
浅間御殿裏山一帯は松本藩主の山で御殿山と称し、明治以降は国有林となり、
現在は森林管理署の管轄となっている。
ここの御竹藪も石川氏以来、武士の矢竹に使用された。

享保九年(1724)松本藩の記録には、
「浅間村竹藪 長五間幅二間 同村紋九郎・与五兵衛預り」とある。

手水鉢 元治元年甲子三月吉日

老鼠堂機一(八世其角)句碑

芭蕉句碑

旧大音寺境内六地蔵

墓地

石塔 供養墓

  旧大音寺跡の六地蔵尊
念佛講中で建立したもので、享保七年(1722)が三基、文化三年(1806)が一基ある。
六地蔵は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の六道をめぐり、苦しみ迷っている死者の魂を救い、
極楽に行けるようにしてくださると信じられてきました。


  浅間公園之碑
大正六年六月、広く寄付金を集め浅間公園を造った時に建立したものである。
題額揮毫は赤星典太県知事(第十七代長野県知事)によるもの。
撰文と書は市内和田出身の窪田畦夫(松門)で、浅間の風光明美、古蹟に富み、温泉浴客で賑やかな事、
大音寺の廃墟を公園となし、不動の滝を造ることなどが名文で記されている。


  松鶴際一茂之碑
東筑摩郡本郷村在の山本寿作の三男、本家・山本勘四郎の家を継ぎ、松住斉一饗に遠州流生花を学び免許皆伝、指南役となる。
なお、謡曲や水引折方なども優れた。
門人に学者が多く、昭和九年門弟一同で頌徳碑を建立した。
書は松本市長小里頼永(初代松本市長 三代松本町長)によるものである。


  大音寺跡のシダレザクラ(松本市保存樹)
目通り周囲2m
「咲いて見せ 散って見せたる 桜かな」 と詠まれた老木。
情報にも二本の老木シダレザクラがあったが、先年伐採された。


  芭蕉句碑
「春雨の木の下につとふ 雫かな はせを」
碑陰に天保十一年(1840)義仲寺(滋賀県大津市)現住閑亭謹書 庚子孟春日 百瀬尚司言樹建立 浅間三浦仁佐郎之寄贈 
大正六年五月真観寺ヨリ移ス とある
元禄元年(1688)作の句

「松に景のこして入りぬ春の月  蔵六」
右の側面に刻まれている 百瀬尚司は松本の町人、蔵六は下波田村(現 松本市波田)の俳人


  老鼠堂機一句碑
「咲て見せ散て見せたる さくらかな  老鼠堂機一」
碑陰に千時大正十稔九月建立 その他其角一門の発起人六人の俳人名を刻む

この句は近くにある保存木・シダレザクラの花を詠んだ句で、明治三十三年門人の立机祝に来た時のものである。
機一は江戸神田須田町の生まれで、俳諧の大家で八世其角堂となる。
昭和八年七十八歳で没した。

                             案内説明より

不動院

東泉部薬師堂

  東泉部薬師堂
古くは湯薬師として下方の荒湯源泉の所にあったが、寛保二年(1742)横谷沢の大水害で流されした浅間へ移転再建した。
昭和六十三年浅間文化財修理の寄付の際、本尊薬師如来を新たに安置した。
平成五年浅間全町会有志の寄付により、現在地にお堂を新築し本尊を安置した。
毎年四月に薬師保存会によって大祭が執り行なわれている。


  開道記念碑
大正十年九月、浅間から三才山へ行く浅間峠の登り口の道路改修をした記念に建立した碑である。
碑面の文字は、江戸神田生まれで俳諧の大家・八世其角堂となった老鼠堂機一の書である


  篠田焼登り窯跡
篠田義一氏は、多治見市の荒廃していた窯跡の耐火築窯煉瓦うぃ入手し、京都清水焼式の登り窯の四分の一に設計し、
すべて手造りで昭和二十一年完成させた。
昭和三十七年近代的焼成窯が導入されるまで、日展入選作品のほとんどを焼いた。
現在中信地方(長野県・信濃の中央部)に遺る唯一最後の登り窯である。

                         案内説明より

登り窯跡

登り窯跡石標

開道記念碑

碑の横の道がその道なのか?

松枯れが進んでいる