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温泉その16



温泉

金沢松島温泉・・・・・テルメ金沢







金沢松島温泉 テルメ金沢

温泉名: 金沢松島温泉
源泉名: 松島温泉白糸の湯
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     高張性 中性高温泉
     pH 7.45  陽イオン 4313㎎/㎏   陰イオン 6727㎎/㎏
     成分総計 11350㎎/㎏  メタケイ酸 220㎎/㎏  メタホウ酸 51.6㎎//㎏

源泉温度: 53.3℃

湧出量: 404ℓ/min 
湧出形態: 掘削動力揚湯 (温泉施設内湧出)
注入排出形態: 加水 循環ろ過 消毒 (温泉浴槽と否温泉浴槽混在)
           露天風呂のみかけ流し(源泉かけ流し未確認)

効能: 神経痛・くじき・切り傷・筋肉痛・慢性消化器病・やけど・関節痛・痔疫
     慢性皮膚病・五十肩・冷え性・虚弱児・運動麻痺・病後回復期・慢性婦人病
     関節のこわばり・疲労回復・打ち身・健康増進

利用料: 大人 1050円  小人 525円  am3.00より深夜料金1050円追加
利用時間: 館内24時間 浴室 清掃時間を除く24時間
休日: 無休 (問い合わせ)


テルメ金沢 健康ランド&ホテル
石川県金沢市松島町17
Tel: 076-269-2211



金沢観光で宿泊。
温泉でリラックスと思い駅からは離れているがここに決めた。
金沢駅から51&56系統11番乗り場 香林坊4番乗り場で20~30分で着く。
北松島下車すぐ前で、一つ手前のバス停は松島。

大型の健康ランドで宿泊施設も併設されている。
確かめたわけではないが、深夜料金追加で館内休み処で仮眠(お泊り)も出来そうです。
若い方で安く金沢観光をしたい方にはお勧めの施設ではないでしょうか。
山小屋に泊まったことのある山好きの方には高級感がありますよ。

浴槽はすべてが温泉ではないようです。
温泉浴槽は薄い茶色をしていますし、食塩泉なので塩味。
飲泉もできると案内には書いてあった。

テルメ金沢

気泡風呂

気泡風呂寝湯

温泉成分分析書

薬草風呂

大浴槽(温泉)

露天風呂(温泉)

露天風呂(温泉)

休憩室 24時間営業 HPより

浴室ロビー

前田家墓所 長町・武家屋敷 にし茶屋街 ひがし茶屋街 小立野寺社 主計茶屋街 卯辰山麓寺社 寺町寺社





野田山 加賀藩前田家墓所

前田利久公墓所 (前田家墓地の最高所)

前田利久公は尾張国荒子城主前田利春公の嫡男として生まれる。
永禄三年(1560)父の跡を嗣いで荒子城主となったが、永禄十二年(1569)に織田信長公の命により弟利家公に家督を譲った。

利家公は常に兄を重んじ、利家公が金沢城に入城(1583)後、利久公を金沢城に迎えた。
利久公は客分として鄭重に待遇され、御隠居様と呼ばれていた。
また利家公が末森の戦いなどで出陣したときには、金沢城の守護を代任したりもした。

天正十五年(1587)に没する。
利家公は野田山に墓所を定め、その最も高いところに利久公を初めて埋葬した。

                                               案内説明より

加賀藩初代前田利家公墓所

前田利家公は幼名犬千代、後孫四郎、永禄五年(1562)に又左衛門と改める。
天文七年(1538)尾張国荒子城主前田利春公の四男として生まれる。
利家公は十四歳の時に織田信長公に仕え、生涯四十数回の戦いに参加、数々の武勲を挙げていた。
中でも初陣の海津の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城の激戦(1584)は有名である。
また、「槍の又左」と異名をとるほどの槍の名手であったという。

天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉公から羽柴筑前守の号を譲られている。
秀吉の天下統一の大業は利家公に負うところが多大であったといわれている。

大名としては、元亀元年(1570)近江国長浜で一万石を領したのに始まり、越前府中(福井県武生市)で三万三千石余、
次いで能登一国を領有し、加賀国石川、河北両郡を秀吉公から増封され、
天正十一年(1583)四月二十五日(新暦六月十四日)に金沢城(当時尾山城)に入城した。
利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。

この日を記念して毎年六月十四日には封国祭りと、百万石祭りが盛大に行われている。
慶長四年(1599)大坂城で逝去。
享年六十二歳 「高徳院殿桃雲浄見大居士」
金沢の尾山神社は利家公を祭神として祀っている。


  前田利家公夫人まつ(墓標 菅原朝臣松子之墓)墓所
利家公没後芳春院と号した。
名は松、又は昌。
天文十六年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。
天文十九年利家公の邸に入り、後に利家公の正室となる。
当時利家公は尾張国荒子城主であった。

利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の太守に出世したが、その夫人としてのまつの内助の功は高く評価されている。
関ヶ原合戦(1600 利家公が没した翌年)の後德川方と加賀藩との融和のために進んで人質となって、
江戸の向かわれたのである。

慶長十九年(1614)までの十五年の長い間、加賀藩のために忍従の月日を過ごされたのである。
子にも恵まれ?11人の子女を生んだ。
元和三年(1617)金沢で歿した。
享年七十一歳 「芳春院殿花巌宗富大禅宗定尼」

                                        案内説明より

利家公夫人まつ墓所

熊がいるらしい 怖い

野田山墓地入口

両側には一般墓地

ヨゼフさんの墓地

無縁墓地の整理中です

前田家墓地入口

結構な上りになります

二代藩主前田利長公墓所

利長公墓碑と墓地

利長公墓所 (富山県高岡市)

利長公銅像(高岡市)

  前田利長公は初代利家公の嫡男として永禄五年(1562)尾張国荒子で生まれる。
母は芳春院まつ、幼名利勝、後に利長と改めた。
利家公と共に戦国歴戦の武将である。

慶長三年(1598)二代藩主となったが、同年四月には利家公が逝去され、翌五年には関ヶ原の合戦が起きるなど、
徳川方と大坂方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田家の去就は天下の注目を集め、
利長公の心労は並々ならぬものがあったのである。
利長公の在位はわずか七ヶ年であるが、金沢城の修築にキリシタン大名高山右近を用い百間掘りの石垣などを作らせている。

慶長十年(1605)弟利常の藩主の座を譲り、自らは富山城に住まわれた。
慶長十四年(1609)に居城富山城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に城を築き移り住んだ。
この間に高岡の開発に努め、今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。

慶長十九年(11614)高岡城で苦難の多かった生涯を閉じた。
高岡の名刹「瑞龍寺」は公の菩提寺である。
享年五十三歳 「瑞竜院殿聖山英賢大居士」


  二代藩主利長公夫人
名は永(永姫)、天正二年(1574)織田信長公の四女として生まれる。
天正九年(1581)越前国府中(福井県武生市)利長のもとへ入輿した。
豊臣秀吉公側室淀君(茶々)、德川二代将軍秀忠公夫人崇源院(江)とは従姉妹である。
織田信長公とお市の方(浅井三姉妹の母)は兄弟

利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、元和九年(1623)二月に没した。
享年五十歳 「玉泉院殿松厳永寿大姉」

金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木・泉石を配し露地が造られ庭園とした。


  前田利長公長女 満子姫
利長公ただ一人の実子。
享年七歳 「蓮成院殿妙侃大姉」

                                          案内説明より

高岡城址(高岡市)

利長公菩提寺 瑞龍寺(高岡市)

長女 前田満子之墓

利長公夫人玉泉院墓所

玉泉院墓碑と墓地

利常公生母小幡千世子(寿福院)墓所


  前田利常公
初代利家公の四男として文禄2年(1593)金沢に生まれる。
2代利長公に男子がなかったので慶長10年(1605)その跡を継いで13歳で藩主となる。
2代将軍秀忠の二女珠姫を正室に迎え、徳川方との融和政策を進めたのである。

利常公は改作法という画期的な農政を実施した。
このため加賀藩百万石の治世が安定したのである。
また美術工芸の振興に努め、さらに神社・仏閣の造営にも力を注ぎ、名工をまねいてこれに当たらせた。
羽咋の妙成寺、小松の小松天満宮と那谷寺、高岡の瑞龍寺などはいずれも前田利常の時代に造営されたものである。
(高岡市の瑞龍寺は国宝に指定されている)

寛永16年(1639)長男光高に継がせ、小松に隠居所としての居城を作り晩年を過ごされた。
その間に小松の商工業振興に務め、今日の隆盛の基礎をつくられたのである。
万治元年(1658)小松で逝去した。
享年66才 「微妙院殿一峯克厳大居士


  三代藩主利常公夫人
名は子々または禰々、後に珠姫。
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の二女で、慶長四年(1599)京都伏見邸内に生まれる。
慶長六年(1601)江戸より金沢へ入輿、利常公へ来嫁する。
珠姫三歳の時である。(現在の年齢で二歳)

公子女八人を産み元和八年(1622)七月、二十四歳で没した。
金沢小立野に葬り一寺を建立、諡をとり天徳院と称した。
五十年後の寛文十一年(1671)に利常公の墳墓のあるこの地、野田山に移葬された。
長男光高公は加賀藩を嗣ぎ、二男利次公は分藩し富山藩の藩祖となり、三男利治公は大聖寺藩藩祖となった。
「天徳院殿乾運淳貞大禅定尼」


  利常公四女富子(墓標 八条宮智忠親王王妃富子御墓)
元和七年(1621)、三代藩主利常公の四女として生まれる。
母は天徳院。
八条宮智忠親王の妃となる。

寛文二年(1662)京都にて逝去され、霊柩を利常公の墳側に帰葬した。
御墓は明治三十六年より宮内省(現宮内庁)の管轄となっている。

京都の桂離宮は八条宮初代智仁親王のとき創始されたが、二代智忠親王が加賀百万石のお姫様を奥方に迎えられたので、
加賀藩という大きな後ろ盾が出来て、新御殿を増築し庭園も現在みられるような美しいものに完成することが出来たのであろう。


  利常公生母小幡千世
越前朝倉氏の家臣上木新兵衛、同じく朝倉氏家臣の娘を父母として元亀元年(1570 織田信長の朝倉氏討伐年)生れる。
父の死後、母が小幡九兵衛と再婚し養父小幡氏の姓を名乗り、小幡ちよと称した。
その後、利家夫人まつの侍女となり、利家公の近くに居りました内懐妊、利家公四男幼名猿千代を生んだ。
享年六十二歳 「寿福院殿華岳日栄大姉」

                                                  案内説明より

三代藩主前田利常公墓所

利常公夫人天徳院墓所

利常公四女富子墓所

四代藩主前田光高公墓所

三代利常公の嫡男で、元和元年(1615)金沢にて生まれる。
母は二代将軍秀忠公の娘珠姫(天徳院)、夫人には三代将軍家光公の娘(家光養女 德川水戸家二代光圀公の姉)
を迎えたため、德川家とは至極円満な間柄となった。
珠姫は利家公の義孫(孫光高公の嫁)、家康公の曾孫(実の孫)

光高公は非常に聡明で学問を好み、江戸の儒家林羅山を師とし、和歌は烏丸光広について研鑽を積んだ。
これについては数々の著書が残されている。

寛永十六年(1639)四代藩主となったが、わずか六年目の正保二年(1645)に三十一歳の若さで逝去されたので、
藩にとっても大きな痛手であった。
幸いにも実子に綱紀公が居られたので御家の存続の危機をまぬがれ、五代藩主となられた。
重要文化財に指定されている尾崎神社は光高公の造営である。
享年三十一歳 「陽廣院殿將厳天良大居士」


  光高公夫人清泰院大姫
母は側室野沢氏、名を阿智姫 
三代将軍家光の養女(大姫)となり、加賀藩四代光高公に7歳で嫁す。
十七歳で嫡子犬千代丸(後の綱紀公)を生んだ。
明暦二年(1656)逝去 享年三十歳

                                                  案内説明より

光高公夫人清泰院墓所 墓標源朝臣阿智子

五代藩主前田綱紀公墓所

松雪院。寛永二十年(1643)江戸で生まれる。
四代光高公が夭折されたので、正保二年(1645)嫡男綱紀公がわずか三才の時、五代を継がれたのである。
三代利常公が存命であったので、その後見となっている。
将軍家綱の一字をもらい初め綱利といったが後に綱紀と改めた。
正室は会津の保科正之(三代将軍家光の弟)の娘であり、徳川家とは一段と密接な関係になった。

公の治世は七十九年の長きにおよび、この間に素晴らしい業績を残された。
自らも学者として著名であるが、その著は中国の乾隆四庫にもまさるといわれ、
かの有名な新井白石が加賀は天下の書庫なりと感嘆したほどである。
また多くの名工を招き美術工芸の発達をうながし、薬学の研究、加賀宝生の奨励など文化面での功績は数えきれぬほどである。
さらに内政面においても、藩職制の整備をはじめ土木事業、農政施策や救貧事業などみるべきものが多かった。
中興の英主といわれている。
享保九年(1724)五月逝去
享年八十二 「松雲院殿徳翁一斎大居士」


  綱紀公夫人松嶺院摩須姫
松嶺院は、陸奥会津藩初代藩主・保科正之(江戸幕府第三代将軍徳川家光の異母弟)の四女(母は側室 徳性院 )として、
正保五年(1648)年に生まれ、摩須と名乗った。
万治元年(1658)七月二十七日)に加賀藩 第五代藩主前田綱紀に嫁いだ。
三代に渡り德川家との縁組により幕藩体制の中でより強固に前田家の地位を高めることとなった。
寛文六年(1666)逝去 享年十八

                                              案内説明より

綱紀公夫人松嶺院墓所 墓標源朝臣摩須子

生母預玄院三田村町子墓所

六代藩主前田吉徳公墓所



前田吉徳公は元禄三年(1690)、五代藩主前田綱紀の三男として江戸で生まれる。
第五代将軍・徳川綱吉の一字をもらい吉治、後に吉徳と改めた。
享保八年(1723)綱紀が高齢と病のため、家督を譲られて第六代藩主となる。

吉徳公は資性温良で、享保の西国飢饉には八万両を贈ってこれを助け、朝廷の荒廃を嘆いてしばしば金品を贈っている。
公の存命中は元禄・享保の文化爛熟期であり、一般に贅沢の気風が流れ、その反面、家臣の窮亡、藩財政の逼迫など、
いわゆる台所の苦しさが加賀藩の課題であった。

そこで藩政の一新で財政の立て直しを図るため、身分は低いが財政的手腕のある大槻伝蔵朝元を起用し、
一時大いに実効をあげたが、あまりにも急激な施政の為他の老臣達から反発をこうむり、
いわゆる加賀騒動の原因になったとも言われている。

延享二年(1745)逝去
享年五十六 「護国院殿佛鑑法性大居士」


  吉徳公夫人光現院
元禄十二年尾張德川家三代綱誠公の十七女として生れる松姫、
後五代将軍綱吉公の養女となる。
宝永五年(1708)吉徳公に入嫁する。
享保五年(1720)逝去。
享年二十二 光現院磯子


  吉徳公七女暢子
天文五年(1740)に生まれる、母は寿清院。
播磨国姫路城主酒井家世嗣忠宜に嫁ぐも二代藩主になる前に死去。
嫁家離別後郷里に帰る。
寛政七年逝去、享年五十六

  吉徳公四女、五女、六女は共に夭逝。

                                        案内説明より

吉徳公四女 幻智院之墓

吉徳公五女 益子之墓

七代藩主前田宗辰公墓所

六代藩主吉徳公の長男。
享保十年(1725)四月二十五日金沢にて生まれる。
幼名勝丸のち犬千代、又左衛門利勝と名乗った。
八代将軍徳川吉宗に拝謁しその諱を贈られ宗辰と改めた。
延享二年(1745)七代藩主となったが、延享三年(1747)十二月八日在位わずか一年半で没した。
享年二十二歳 「大応院殿梅観雪峯大居士」

在位期間が短く、治政上著名なものはないが、加賀騒動の張本人といわれる大槻伝蔵朝元が越中五箇山へ追放され、
その牢屋で自殺するという事件があった。


  宗辰公夫人梅園院常子
陸奥会津藩三代藩主保科正容の娘として享保十年(1725)に生まれる 常姫。
加賀藩七代藩主宗辰公に嫁し、長子をもうけるもその後夭折した。
延享二年十一月没する。
享年二十一 梅園院

                                          案内説明より

宗辰公夫人源朝臣常子墓所

宗辰公生母浄珠院上坂與子墓所

八代藩主前田重熈公墓所

六代吉徳公に二男。
享保十四年(1729)江戸で生まれ、幼名亀次郎のち利安 母は心鏡院鏑木民。
寛保三年松平生を与えられ、松平利安と称した。
九代将軍徳川家重より偏諱を賜り重熈と改名する。

延享四年(1747)八代藩主となり宝暦三年(1753)までの六年間在位し、江戸藩邸で没した。
享年二十五 「謙徳院殿緝甫尚古大居士」

                                             案内説明より

重熈公生母心鏡院鏑木民子墓所

九代藩主前田重靖公墓所

六代藩主吉徳公五男。
享保二十年(1735)金沢で生まれ、幼名嘉三郎のち利見、母は善良院石川縫。
宝暦三年(1753)五月十八日、九代藩主の座に就く。
九代将軍徳川家重より偏諱を授かり、重靖と改名する。

藩主の座についてからわずか五ヵ月間の在位したが宝暦三年九月に没した。
享年十九歳 「天珠院殿嘯月仁勇大居士」

                                                案内説明より

重靖公生母善良院石川縫子墓所

十代藩主前田重教公墓所

六代吉徳公の七男。
寛保元年(1741)金沢で生まれ、幼名健次郎のち利篤、母は実成院辻流瀬子。
宝暦四年(1754)三月十一日藩主となる。
九代将軍徳川家重より諱を授かり、、重基と改名する。
その後明和八年(1765)将軍家重の世子の諱、重基を憚って重教と称した。

明和八年(1771)藩主を異母弟に譲して余生を送った。
天明六年(1786)逝去。
享年四十六 「泰雲院殿仁彭寿大居士」


  重教公夫人寿光院
紀伊和歌山藩主七代徳川宗将の娘 千間姫。


六代吉徳公以後、藩主の交代は七・八・九・十代と矢継ぎ早に行われ、そのため藩の財政は窮迫を告げた。
その救済策として銀札という紙幣を発行したが、極度のインフレが生じ、各所で一揆がおこり、藩内は騒然とした。
銀札は一年で発行を停止したが、藩の財政に尾を引く結果となった。

宝暦九年(1759)には大火が起き(宝暦の大火)金沢の市街は二日間燃え続け、その九割ほどが灰燼に帰すという惨事があった。
さらに天明の大飢饉に見舞われるなど、事件が続発したのであった。                          

                                               案内説明より
                                         

重教公夫源朝臣千間墓所(寿光院)

重教皇生母実成院辻流瀬子墓所

十一代藩主前田治脩公墓所

六代吉徳公の十男、幼名時次郎。
延享二年(1745)一月四日金沢で生まれる。
明和八年(1771)藩主となる。
七代藩主から十一代藩主までの五人は、六代藩主吉徳公の実子である。
まさか十男が藩主になるとはだれも予想しなく仏門に入れたが、十代重教公には後嗣がなかったので、
越中古代国府伏木の名刹勝興寺の住職になっていたが呼び戻され還俗して第十一代を嗣いだのである。
初め前田利有と名乗ったが十代将軍徳川家治の偏諱を授かり治脩と改名した。

治脩公は学門の振興に力を尽し、学者で家老の奥村尚寛を学校総奉行に命じ、藩の学校を創立させた。
学問の明倫堂、武芸の経武館の両校で、初代明倫堂学頭には新井白蛾が任じられた。
また、小松にも集義堂、修道館の二校を開校し、家臣の子弟は入学するためにきそって勉学に励んだのである。

なお七代から十一代まで短期間に藩主の入れ替えが行われたのでその儀式の費用が半財政を圧迫し、
ひいては藩全体に影響したことは否めない。
享和二年(1802)位を養子斉広公(十代藩主重教公二男)譲る。
文化七年(1810)逝去。
享年六十六 「太梁院」

                                               案内説明より

治脩公夫人菅原朝臣正子墓所(法梁院)

治脩公世子 前田齊敬墓所(夭逝)
生母金井操子(野田山墓地埋葬)

十二代藩主前田斉広公墓所

十代藩主重教公の二男として、天明二年(1782)二月二十八日金沢で生まれる。
幼名犬千代、俗称又左衛門、
初めは利厚と名乗ったが十一代将軍徳川家斉に一字をもらい斉広と改名した。
享和二年(1802)から文政五年(1822)まで在位した。
文政七年(1824)七月十日逝去。
享年四十三 「金龍院文古雲遊大居士」

斉広公は時勢を深く洞察し、洋楽の移入を急務と考え蘭医学者宇田川玄真をはじめ、本多利明、伊能忠敬らの学者を招き、
藩士に教えたので黒川良安、西村太沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村栄実らの学者が輩出した。

特別名勝兼六園が完成したのも斉広公の事業の一つである。
竹沢御殿という広大な屋敷を造営し、そこに時の鐘を置き人々に正しい時刻を知らした。
「兼六園」という名称は白河楽翁(幕府老中陸奥国白河藩主松平定信)が命名したもので、
宏大・幽遂・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ねることをいう。


  十二代藩主斉広公夫人鷹司隆子(真龍院)
名は隆、夙君と称した。
前の関白太政大臣、鷹司政凞の二女として、天明七年(1787)四月二十八日に京都に生まれる。

文化四年(1807)十二月十八日京都から江戸本郷加賀藩上屋敷に入輿し、
文政七年((1824)に斉広公が四十三歳で没した後隆姫は剃髪して真龍院と称した。
三十八歳の時である。

天保九年(1838)八月二十二日に江戸より金沢に移り金沢城の金谷御殿に入った。
文久三年(1863)には、十三代藩主斉泰公が真龍院のために造営した巽御殿(現在の成巽閣)に移り住んだのである。
江戸より金沢への旅は、自筆の紀行文(道記一巻)として残されている。
明治三年(1870)六月八日逝去された。
享年八十四 「眞龍院」


  前田斉広公世子 前田利命
十一代藩主治脩公が藩主の座を養子前田斉広公に譲位した後に生まれた(寛政二年1800)治脩公の実子。
斉広公の養子となり世子となったが六歳で夭逝した。

                                          案内説明より

斉広夫人藤原朝臣隆子墓所(真龍院)

斉広公世子前田利命墓所
十一代治脩公実子 斉広公養子

斉広公三男為三郎君墓所(夭逝)

斉広公四男延之助君墓所(夭逝)

斉広公長女直子姫墓所(夭逝)

斉広公六女郁子姫墓所(夭逝)

斉広公生母山脇喜機子墓所(貞琳院)

十三代藩主前田斉泰公墓所

斉泰公夫人源朝臣偕子墓所(景徳院)

斉泰公生母小野木百合子墓所(栄操院)

斉泰公長女菅原朝臣方子墓所

  十三代藩主前田斉泰公墓所
十二代藩主斉広公の嫡男として文化八年(1811)金沢で生まれる。
幼名犬千代、俗称又左衛門、後利候、諡名温敬公。
十一代将軍徳川家斉より一字を賜り斉泰と改名する。
在位期間は文政五年(1822)から慶應二年(1866)、嫡男慶寧に家督を譲る。
明治十七年(1884)一月十六日逝去。
享年七十四 「金龍院殿文古雲道大居士」

斉泰公の治政約四十年間は、新日本誕生の激動期であった。
加賀藩においても藩論沸騰し、勤王佐幕に右往左往せざるを得ない状況で、外敵侵入に備え海岸防備を厳重にし、
七尾に軍艦所を創設したりした。
また藩内は豪商銭屋五兵衛の河北潟埋立て事件、黒羽織党事件、武田耕雲斎事件、元治甲子の変や天保、
安政の大飢饉などの大事件が続発したが、穏健な処理につとめたのである。
また、市川米庵を招いて書を学び大成され、能楽を奨励し自らも能の名手として知られる文化人であった。
兼六園内の重要文化財成巽閣は、斉泰公が御母堂眞龍院の隠居所として文久三年(1862)に造営したものである。


  斉泰公夫人源朝臣偕子(景徳院)
十一代将軍徳川家斉の二十一女として文化十年(1813)三月二十七日に生まれる。
母はお美代の方(専行院) 名は偕、溶姫と称した。
文政十年(1863)十一月二十七日江戸本郷加賀藩上屋敷邸に入輿した。
文久三年(1863)に初めて金沢に国入り、翌年江戸に戻り明治元年(1868)再び金沢に入ったが、同年五月十一日逝去した。
享年五十六 「景徳院」

溶姫輿入れの際藩邸内に溶姫御殿を造営し、御殿正門も新たに造営された。
東京本郷通り(旧中山道)沿いの東京大学赤門はその時造営されたものである。

                                           案内説明より

斉泰公次女菅原朝臣初子墓所

旧加賀藩上屋敷御守殿正門
(東大赤門)

十四代藩主前田慶寧公墓所

十三代藩主斉泰公の長男として天保元年(1830)五月四日江戸に生まれる。
幼名犬千代、後利住、通称又左衛門、十二代将軍徳川家慶から一字を賜り慶寧と改称した。 諡号恭敏公。
慶応二年(1866)四月藩主に任じられたが、二年後に明治維新となったので慶寧公は最後の藩主となる。
明治二年(1869)版籍奉還と同時に初代金沢藩知事に任じられたが、明治四年(1871)には廃藩となり、東京に移住した。
まことにあわただしい時勢であった。

慶寧公の在位はわずか二年であったが、卯辰山開拓という大土木工事を興し、病院慈善殖産や娯楽施設まで備えた
一大社会施設を新設している。
これは公が福沢諭吉の「西洋事情」を読んで啓発され、社会福祉い事業の充実を期するため行ったものである。

元治甲子の変では父斉泰公の方針に反して勤王派であったが、事志と違い松平大弐らが責任をとって自害し
加賀藩勤王派は壊滅した。
このため明治維新以来長い期間勤皇派の薩摩・長門の下風に立たされたのであった。
明治七年(1874)五月二十二日熱海の地で没した。
享年四十五 「松喬院慶雲良秀大居士」

                                            案内説明より

慶寧公夫人源朝臣崇子墓所(霊鑑院)

慶寧公継室鷹司通子墓所(顕光院)

十五代当主前田利嗣墓所

十五代当主夫人前田(鍋島)朗子墓所

十五代当主生母前田挺秀墓所

近代、現代前田家当主墓所

前田土佐守家

長家墓所

前田利家六男前田利貞系墓所





卯辰山の社寺

妙泰寺

妙泰寺山門 薬医門

本堂

石積み長塀

全性寺

全性寺山門  楼門

本堂

手水舎

法華経 四海一乗の石碑

寺紋

奉納 わらじ

妙国寺

妙国寺山門 薬医門

本堂

大黒堂

大黒天=大黒様

  妙泰寺
大谷山(大黒山)と号し、日蓮宗の寺院である。
慶長十五年(1610)、越前国脇本・妙泰寺住職の本妙院日仁上人を祖とし、二祖・了源院日成上人が建立した。
元和元年(1615)、豊臣秀吉の養女となった加賀藩初代藩主・前田利家の娘・豪姫と
宇喜多秀家の間に生まれた長女・貞姫(理松院)を葬った。
貞姫は二代藩主・前田利長の婦人・玉泉院に養育された関係で、化粧田から大衆免村の二反歩を下賜された。
また、寛永六年(1629)には、三代藩主・前田利常からも寺領が認められたという。

境内には五輪塔の理松院の墳墓があり、昔この墳墓に歯痛で難儀する人が、食箸を供えて祈願すると平癒すると言うことで、
祈願する人が絶えなかった。
寺宝には加賀藩火矢方御用(高麗小川流石火矢)文書などがある。
年中行事として、御会式、稲荷祭礼、五年に一度の法華千部会ならびに法華懺法会を厳修している。

  妙泰寺山門
山門の構造は切妻造りの高麗門であり、建立年代は十九世紀初頭である。
高麗門は二本の親柱の上に屋根を支え、親柱後方にはそれぞれ控柱が付きその上に小屋根を設けた形式の門である。
この門の様式は城や大名屋敷に設けられることが多く、寺院の表門としては珍しい。
この山門形式は市内でも数少なく、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する希少な遺構として貴重な建造物である。


  全性寺
妙具山と号し日蓮宗の寺院である。
開山は、大永二年(1522)日仁上人の創建といわれる。
当初は越中放生津(富山県射水市)にあったが、その後、二代金沢藩主前田利長に従い、
越中富山、守山(富山県高岡市)と移転した。
天明六年(1786)現在地に移った。

当寺の不動明王は、十代藩主前田重教の守り本尊で、重教が世嗣となった宝暦三年(1753)、
重教の生母実成院から預けられたものである。
本堂には、麻耶夫人(釈迦の生母?)も安置されている。
紅殻塗りの山門には、大小多数のわらじがかけられている。
これは、健康や健脚を願って奉納されたものである。

泉鏡花の「夫人利生記」の舞台でもあり、「俗に赤門寺と言ふ。・・・・・門も朱塗りだし、金剛神を安置した左右の像が丹であるから、
いづれにも通じて呼ぶのであらう」と、山門や金剛神、わらじに関する記述がある。

山門の構造は屋根が入母屋造の楼門であり、建立年代は十八世紀後半と推定される。
楼門は二階建ての門である、二階には「腰組」と呼ばれる回り縁で支持する高欄画ついている
また、この門正面の柱間隔が三つあり、扉が一つ設けられていることから、三間一戸形式の楼門と呼ばれる。
外壁及び軒裏などにはベンガラが塗られており、通常「赤門」と称され、広く市民に親しまれている。

三間一戸楼門のこの山門は金沢では類例を見ない形式であり、金沢の江戸時代の社寺建築を代表する希少な遺構として
極めて貴重な建造物である。


  妙国寺
妙国寺は日蓮宗寺院である。
山門の構造は屋根が切妻造りの薬医門であり、建立年代は安永九年(1780)である。
医薬門は親柱の位置が屋根の棟の通りより少し前に立ち、控柱が後ろの方にある独特な架構の門である。
この門には脇塀の取り付く化粧板が残っており、従前、脇塀が厚さ約二センチ程の厚板葺であった跡も確認できる。
この山門は卯辰山山麓寺院群の中では建立年代の明確な最も古い門であり、
金沢の江戸時代の社寺建築を代表する希少な遺構として極めて貴重な建造物である。

                                         案内説明より

大黒堂前の兎の狛犬?

枝垂れ桜

妙正寺

妙正寺山門 薬医門

本堂

庫裡

本光寺

本光寺山門 脇塀付薬医門

本堂

手水舎

山門 境内より

鐘楼

梵鐘

円光寺

本堂

漆喰下見板張長塀

円光寺山門 楼門

 妙正寺
広布山または精進山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、永仁二年(1294)、日蓮大聖人の最後の直弟子・龍華樹院日像上人が上洛の折り、石川郡大野村にいたり、
民家で法談を試み、妙正寺の寺号と曼荼羅を残したのが寺の起こりと言われている。
天正年間(1573~1593)の兵火により、堂宇及び曼荼羅の一切を焼失したが、
元和元年(1615)、能登滝谷(現羽咋市)妙成寺十五世の正覚院日條上人が寺を再興した。

当寺は加賀藩十三代藩主、前田斉泰の生母、小野木八百子姫(栄操院)の祈願所であったことから、手厚い保護をうけた。
寺の正面入り口にある石段は幅二間半(約4.5m)もあり、
格の高い武将や寺社にしか使用が許されなかったという赤戸室石も敷かれている。
寺宝の唐金立像釈尊像は、金沢では一番古いと云われる立ち姿のお釈迦様である。


  本光寺
鳳栄山と号し、法華宗の寺院である。
京都本能寺の開基・日隆上人は越中国守護桃井直常の族流、桃井左馬守尚儀の子で、
生誕地の越中国射水郡浅井郷島村に応永二十三年(1416)に本寺を創建したことが起こりである。

その後、加賀藩二代藩主前田利長が高岡守山に在城の時、寺地を守山に拝領し、その後、富山、高岡と移り、
利長金沢在城の時、寺領を泉野寺町に拝領、しかしまた高岡に赴き、後、再び金沢に戻って、小立野に移った。
慶安三年(1650)、三代藩主・前田利常に願って、現在地に九百坪を給り、堂宇を建設した。
現在は、境内二千坪という広い敷地を有する。
有名墓碑には狂歌師・堀越左源次、北海道開拓・林顕三の墓などがある。

当寺山門の構造は屋根が切妻造りの医薬門であり、建立年代は文化元年(1804)である。
医薬門は親柱に位置が屋根の棟の通りより少し前に立ち、控柱が後ろの方にある独特な架構である。
この門は卯辰山寺院群の中で随一規模の大きい門であり、梁等の細部様式は金沢における文化文政期の様式をよく伝えている。
金沢の江戸時代の寺社建築を代表する希少な遺構として極めて貴重な建造物である。


  円光寺
妙法山と号し、日蓮宗の寺院です。
当寺の起こりは、大永元年(1521)、能登滝谷(羽咋市)妙成寺六代住職日存上人によって創建されたと云われるが、
その寺領地は定かではない。
後の加賀藩二代藩主・前田利長が守山城(高岡市二上山)在城時代に、寺地を賜った。
また、富山、高岡と利長に従って移り、後に寛永十三年(1636)、当地に寺を移した。
この寺には、利長が高岡城在城の頃に守り本尊として信仰した、観世音菩薩像が安置されている。

                                               案内説明より

来教寺

来教寺山門 脇塀付薬医門

本堂と庫裡 手前金毘羅大権現碑

釈迦如来坐像

六地蔵菩薩像

寺紋?

手水舎

永久寺

玄門寺

即願寺

本堂軒木組み

  来教寺
毘沙門山または卯辰山と号し、天台真盛宗の寺院です。
開山は、寛永九年(1632)、西養寺(金沢?)七代目・真運上人の弟子・正林で、毘沙門天を祀ったことに始る。
本堂内陣は珍しく神社様式をとっており、左側の内陣は金毘羅大権現が中心となり、右側の内陣は阿弥陀仏が祀ってあり、
馬頭観音・不動明王・毘沙門天が配されている。
金沢出身の蓮田修吾郎氏寄贈の作品である多宝塔が安置されている。
六地蔵菩薩が立ち、学業向上・開運出世・病気平癒を願って祈願に訪れる人も多い。
人相おみくじも行っている。


  永久寺
金澤山と号し、真言宗の寺院です。
本尊・千手千眼観世音菩薩(千手観音)は「玉泉院」(加賀前田家二代藩主前田利長の正室)から、
祈願成就のお礼として寄進された坐像です。
脇立ち仏毘沙門天、不動明王も玉泉院の寄進である。

文禄二年(1593)、県内白山市鶴来に創建されていた「一王寺」が藩祖前田利家の命により
金沢の金洗沢(現兼六園に隣接)に移され、金澤寺と改称した。
以来、歴代藩主の祈祷寺となる。

慶長七年(1602)、利長公の命で浅野側の川上に移され、寺領地四十間四方を給わる。
寛永四年(1627)、三代藩主利常公の命により、現在地に移り、境内地3200㎡、門前地1700㎡を領した。
現在の寺名は、時の住職秀緑が利常公への献上物の上書きに「金澤・金澤寺」と記したところ、
これからは「永久寺」と称すべしと命ぜられたことによる。
これは、玉泉院の幼名「永姫」に由来するとも云われている。

境内前庭には『三十三観音石像(三十四体)。
花山院(第六十五代花山天皇)の石像 花山院は、西国三十三観音霊場の中興の祖と伝えられている。
子安地蔵尊・延命地蔵尊を奉安。
明治時代初頭に堂宇を全焼、再建ならず現在に至っている。


  玄門寺
孤峯山と号し、浄土宗の寺院である。
加賀藩士・内藤善斎が加賀藩三代藩主・前田利常より寺地を拝領し、
甲斐国の僧であった玄門直釣を開山として寛永十年(1633)に創建した。
万治三年(1660)、現在地に移転した。

玄門寺には、宝暦八年(1758)に順生が発願したという一丈六尺の大仏、寄木造の阿弥陀如来立像一体が安置されている。
天井に狩野東洋による龍の絵が描かれている。
また、寺宝には、僧心岩筆の法然上人像、一枚起請文などもあり、桧除け神として秋葉大権現が祀られている。


  即願寺
常護山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
開山である念西は、信濃国高森の郷士・高森壱岐守秀知と称し、天正十三年(1585)、越中国新川郡黒埼村に住んでいたが、
天正十七年(1589)金沢に移った。
文禄四年(1595)、金沢中町において本寺を創建し、即願寺と号した。
万治四年(1661)、現在地に移った。

本尊は三尺三寸の阿弥陀如来である。
寺宝には、聖徳太子木像、蓮如上人御筆二軸、蓮如法主画像一幅、親鸞筆月影歌一軸などを有する。

                                               案内説明より

鬼瓦の桐紋

懸魚

寺号標

本堂

即願寺山門 棟門

玄門寺山門 脇塀付薬医門

本堂と庫裡

鐘楼

寺号扁額札

梵鐘

永久寺山門 棟門

本堂と庫裡

境内樹木





寺町の社寺

因徳寺 雨宝院 願念寺 希翁院 極泉寺 玉龍寺 金剛寺 日照寺 香林寺国泰寺 少林寺 承証寺 松月寺 浄安寺  

西方寺 長久寺 立像寺  伏見寺 宝勝寺 本長寺 龍渕寺 玉泉寺 妙立寺

因徳寺

妙泰寺 全性寺 妙國寺 妙正寺 本光寺 円光寺 来教寺 永久寺 玄門寺 即願寺 宇多神社 菅原神社 小坂神社

円長寺 月心寺 光覚寺 三宝寺 乗光寺 常福寺 浄教寺 心蓮社 真成寺 西養寺 誓願寺 善導寺 長久寺

本蔵寺 妙応寺 本法寺 妙圓寺 龍国寺 蓮華寺 蓮覚寺 圓融寺 實相寺 

  卯辰山麓地区の町並み 
卯辰山と旧北国街道(R359)に挟まれたこの地区には、慶長期から延宝期(1596~1681)にかけて、
寺院群が概ね形成されたと考えられています。
寺院群と周辺の町場からなる寺町のうち、町割りが改変された「ひがし茶屋街」を除く範囲が、
卯辰山麓伝統的建造物群保存地区となっています。

藩政期からの細街路や町割りが今も色濃く残り、傾斜のある地形により屈曲した街路には寺社が配されています。
また、旧北国街道から各寺院に向かう東西の参道や、それらを結ぶ南北の街路沿いに、伝統的な町屋が建ち並び、
寺社と町屋が混然一体となった景観を有しています。
寺院の集積する区域では、街路に沿って連続する築地塀と石段を構えた寺院が建ち並びます。
「七面小路」と呼ばれる通りからは、いくつもの寺院山門を見ることが出来ます。

一方で、町屋が集積する区域もあり、旧北国街道に並行し材木問屋が集積していた「旧木町」や、
観音院の門前町として賑わいを見せた「旧観音町」などがあります。
平成二十三年、卯辰山麓地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、
歴史的な街並みの保存と住環境の整備を進めています。

卯辰山麓地区の寺院本堂は、切妻造・平入り型の外観で、方丈六室型の平面を持つ形式が大半を占めます。
一部に見られる緩やかな直線屋根は、板葺・石置き屋根の名残りを残しているものです。
一方で、切妻造・妻入り型で式台玄関を設ける形式も見られ、正面の妻面に梁を何段にも重ねる妻飾りなど、
寺院本堂の風格を備えています。

神社建築は、いずれも明治以降の再建です。
本殿、幣殿、拝殿を接続する複合型社殿であり、本殿が一間社であるなど、近代の神社建築の特徴をよくあらわしています。
寺社以外の伝統的な建築は、切妻造・平入り型で桟瓦葺とする町屋形式のものが大半を占めます。
また、かっての板葺石置き屋根の勾配を残し、金属板葺きとするものも見られます。
袖卯建、軒裏の意匠、二階正面開口部の意匠など、金澤におけるそれぞれの時代の町屋の特徴をよくあらわしたものが
多く残っています。
                                              案内説明より

宇多須神社

宇多須神社鳥居

拝殿

拝殿正面

拝殿扁額

幣殿 本殿

手水処

利常公酒湯の井戸

南鳥居

南鳥居の神額

狛犬


  宇多須神社 (卯辰神社 通称びしゃもんさん)
養老二年(718)卯辰村一本松に卯辰治田多聞大社「宇辰社」が創建された。
社記によれば、今の浅野川河辺りの小丘の中より得た古鏡の裏面に卯と辰の網模様があったので、
これを卯辰神として祀るとあり、古老は鳥居に卯辰総社一位治田多聞天の額を掲げたとある。
延享三年(1746)九月卯辰の山中は女子供、老人病人などの人々の参詣し難きにより、藩の許可を得て
卯辰八幡宮の隣接境内地に遷座した。


  利常公酒湯の井戸
この井戸は卯辰八幡宮(現在の宇多須神社)が創建された慶長四年(1599)頃出来たものと伝えられている。
卯辰八幡宮は、明治の廃藩置県まで加賀藩の神社(二代利長公が金沢城の鬼門のこの地に利家公をお祀りした藩社)
として歴代藩主以下奥方や家老のお詣りは日常的にあり、
この井戸も御神水(彌都波能賣神 ミズハノメノカミ)として大事にされてきた。
中でも、五代綱紀公が疱瘡にかかられたとき、当社において祈願をし、この御神水を沸かし、
お酒を入れて「酒湯」として体にかけ、治したとされている。
綱紀公治癒のお祝いに、後見人の利常公が三代将軍徳川家光公より自服二十を戴いたという記録が残っている。

                                           案内説明より

節分豆まきの仮設廊

社務所

菅原神社

社殿神額


  菅原神社
菅原神社は東茶街の鎮守社である。
加賀藩十二代藩主・前田斉広の時、文政三年(1820)金沢に犀川、
浅野川の両地において、初めて芸楼を置くことを公許された。
犀川は石坂町、浅野川は卯辰茶屋町にはじめて家屋を建て、営業を始めた。
その時観音町西源寺の後に菅原道真を祀り、芸妓たちの鎮守の神として崇められた。
その後、現在地に移転する。
太い木材を使った立派な梁が見られる社殿や、
歴史を感じさせる小さい狛犬が二体、向かい合って建っている。

                                     案内説明より

菅原神社

鳥居寺額

社殿

社殿 向拝柱 虹梁

狛犬





ひがし茶屋街


ひがし茶屋街  金沢金箔  町並み

東料亭組合事務所

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋町並み

茶屋街模擬ガス灯支柱?

旧中屋

旧中屋 お茶屋文化館

旧中屋 軒提灯掲げ屋根

茶屋 志摩

茶屋 志摩

懐華楼


  東山ひがし (重要伝統的建造物群保存地区)
藩政時代、金沢城下への入口にあたる北国街道の浅野川・犀川両大橋界隈には、お茶屋が建ち並んでいた。
文政三年(1820)になり、正式に加賀藩の許しを得て、この「ひがし」の茶屋町が犀川外の「にいし」と共に開かれ、
以来城下隋一のにぎわいを見せた。
通りに面して一階を揃いの出格子、座敷を備える背の高い二階を吹き放しの縁側とする姿のお茶屋が並ぶ町並みは、
藩制末期以来の茶屋町の特徴をよく残している。
今も夕暮れ時には芸妓衆が行を交い、どこからともなく笛や三弦の音が聞こえる風情あふれる茶屋町である。


  旧中屋
この建物は、文政三年(1820)に建てられた茶屋建築で、創立時は「中屋」と称した。
外部の格子は目の細かい木虫籠(きむすこ)で、腰は越前石が用いられている。
一階二階の庇は軒の出が少なく、全体として優美な外観を呈し、玄関の大戸を含む全てが弁柄仕上げを残している。
内部は往時の間取りを忠実に残し、優雅で繊細なお茶屋の造りとなっている。
前二階及び広間の座敷は赤い弁柄、離れは鮮やかな群青の壁である。
また、造作材は漆塗りで、お茶屋特有の「粋」を感じさせる大変貴重なものである。


  志摩  金沢市東山1-13-21  Tel 076-252-5675
文政三年(1820)茶屋町創設当初に建てられた茶屋建築である。
茶屋建築は二階客間(座敷)とするため、二階部分を高くつくり、通りに面して高欄と張り出しの縁側を設けているのが特徴である。
一、二階の座敷廻りには要所に「面皮柱」と呼ばれる丸太の肌を残した柱を用い、漆にて全体に濃い色付けをほどこし、
弁柄色の土壁や具象的な図案の金物などで、独特の瀟洒で華やかな室内を醸し出している。
全国的にも類例の少ない茶屋建築であり、江戸時代後期における庶民文化の一端を知るうえでも貴重な建物である。
平成十五年三月二十五日に国の重要文化財に指定された。


  懐華楼  金沢市東山1-14-8  Tel 076-253-0591
築百九十年を誇る歴史的建造物で、ひがし茶屋街では一番大きな茶屋です。
現在でも夜は、一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられていますが、日中は館内の全てをご覧いただけます。
うぐいす張りの廊下、裏階段から下りると金箔畳のお茶室、そしてお忍びの裏玄関など、
ミシュラングリーンガイドから一星をいただいたお茶屋です。


  旧かみや主屋・土蔵
「旧かみや」は、明治六年(1873)頃の建築とされる茶屋建築です。
主屋は瓦葺二階建て一部三階建てで、外観は一階に出格子、二階は階高が高く雨戸と戸袋を備えるなど、
茶屋建築の特徴をよく表しています。
内部は二階正面や中庭に面して、客をもてなす座敷や離れを配置しています。
玄関の舟板や店の間の下地窓など数寄屋風の意匠が各所にみられ、襖の引手や長押しの釘隠しの意匠も変化に富んでいます。

土蔵は二階建て、瓦葺の置き屋根形式で、外観は基部を戸室石の切石積み、腰を薄青色の凝灰岩系の石張り、
上部を白漆喰壁とし、窓には雨除けの霧除けを付けるなど、金沢で見られる土蔵造りの形式を踏襲しています。
「旧かみや」は、明治初期の茶屋建築の外観と間取りの特徴をよく残す貴重な建物であり、
また、建物を店舗活用する際、内部の建具などを土蔵で保管し、旧状への復原を可能とするなど、
保存と活用を両立する事例としても評価されています。

                                               案内説明より

懐華楼屋号額

旧かみや

ひがし茶屋

金沢金箔

黄金の蔵

箔座 ひかり蔵 金箔押し体験処

金箔 興福寺五重塔

プレスによる金箔製造

金箔製品販売

箔座本店

黄金の茶室

金箔入り茶のおもてなし

ひがし茶屋街近郊町並み

日本おもしろ文化博物館

経田屋米穀店 市指定保存建造物

妻入り二戸の大町屋建築

ひがし茶屋休憩館(旧涌波家)

旧涌波家住宅内部

旧涌波家住宅内部

森八和菓子店 寛永二年創業

街中の表具店

太鼓山車庫

ひがしやま町空間 

浅野川大橋


  太鼓山車(木町一番町)
慶応三年(1867)に卯辰神社(天満宮)が完成し慶賀祭が盛大に行われました。
これを祝って木町一、二、三、四番丁では三台の山車を作りました。
残念ながら明治二十三年(1890)の火災で二番丁の船山車、三、四番丁の山車は焼失しましたが、
木町一番丁の太鼓山車は無事に残り、ここに保存されています。
旧市内では唯一の山車です。

市制百周年には百万石祭りのパレードに曳き出し市内を一巡し、華麗な時代絵巻の行列に彩をそえました。
山車の中央には中国の故事にちなんだ「菊慈童」の人形が祀られており、
後方には太鼓が埋め込まれた太鼓山車となっております。


  菊慈童(太鼓山車)
中国周王朝三代の穆王(ぼくおう)が寵愛せられた童子の名前である。
故あって南陽郡鄧州レキケン酈懸(れきけん)に閑居するに、この地の甘谷の水(河)を飲んで不老不死となると云う。

酈懸は今の河北省信陽の北東百キロメートルの新蔡懸の中に属している。
甘谷の水は「菊水」のことであり、甘谷の上に菊があって菊花が水に落ちて滋養のある菊水液を作り、
下流の者たちがこれを飲んで長寿を保ったと云われている。
菊には延年の別名があり、また菊は齢草とも云われている。


  経田屋米穀店(市指定保存建造物)
切妻屋根で平入り二階建ての外観を持つ建築である。
向かって右手に通り庭を持っている。
表構えは一階に蔀戸、庇下の下がり、二階には格子窓、袖卯建、大屋根軒先の風返しが設けられている。
建築は明治後期と伝えられるが、往時の町屋の旧態をよくとどめている。


  ひがし茶屋休憩館(旧涌波家住宅主屋)
旧涌波家住宅主屋は、現地詳細調査の結果、金沢の古い町屋の建築要素を示す多数の痕跡が明らかとなり、
このことから江戸時代末期の建築と推定された。
平成十五年度にこの調査結果に基づき、明治初期の時代考証で復原修理工事が行われた。
建物は桁行四間、梁間六間半の規模で、明治初期に二階建てとなったが、
建築当初は平屋で、板葺石置き屋根であったことが明らかとなっている。
屋根を鋼板葺に変更した以外は忠実に復原されている。

建物正面の一階各柱間に蔀戸と呼ばれる横板戸が上下二枚入り、玄関の蔀戸にはくぐり戸がついている。
軒の先端部には風返しと呼ばれる横板が付き、二階の隣接地境界部分の両側に袖壁(袖卯建)、窓面には古格子が付いている。
一階の板庇に下がる板張りの装置は「サガリ」と呼ばれる。
当初からの変遷が明らかで元来の敷地に現存する歴史的建築は少なく、
金沢における藩政期の町屋建築の旧状を知ることが出来る極めて貴重な遺構である。


  ひがしやま町空間 (こまちなみ保存建造物)
この建物は藩政時代より代々四十万屋こと、芝田生菓子店として金沢五色生菓子や、氷室饅頭を販売していました。
此度その店先を「ひがしやま まち空間」と名付け、東山界隈(旧七連区)の町民文化を展示し、
その心を観て頂く一息の安らぎの空間としました。


  こまちなみ保存建造物
米沢茶店所有の建物である。
町屋建築の特徴を備えたこの建物は、旧観音町こまちなみ保存区域にあって、まちなみを象徴する貴重な歴史的建築である。

                                           案内説明より

浅野川岸

菊慈童像(太鼓山車)

博物館看板





長町武家屋敷

景観留意金沢中央公民館長町支館

長町武家屋敷界隈にようこそお越しくださいました。
この界隈は藩政時代の面影をよく残しており、尚且つ住民の静かな生活が営まれているところです。
路上駐車や家の中を覗き込んだり、大声での会話等ご遠慮いただき、環境の美化に協力をお願いいたします。

大野庄用水に架かる長町二の橋 

薦掛け

  大野庄用水
藩政時代前からある用水で、犀川から取水、旧石川郡大野庄の灌漑、物資の運搬、
市街地の防火・防ぎょ、融雪などのための多目的用水で、
御荷川、鬼川、オホノヒ川の別名があり、下流は木曳川という。
現在も庭に「やり水」するなど城下町に景趣をそえている。

  薦掛け
薦掛けは、雪から土壁を保護するもので、浸透した水分の氷結による損傷や、
付着した積雪による土の剥がれを防いでおり、
毎年十二月から翌年三月まで設置され“金沢の冬の風物詩”となっています。

                               案内説明より

加賀藩祖前田利家が天正十一年(1583)金沢城に入城し、加賀藩前田家百万石の礎を築く際に
直臣として従った野村伝兵衛信貞は、禄高千石のち千二百石と累進してこの地に千有余坪の屋敷地を拝領して
御馬廻組組頭、各奉行職として代々続いた
由緒高い家柄である。

明治四年廃藩に至り庭園、土塀の一部を残して一帯は菜園となったが、大正に入って現在の住宅街と変遷したのである。
しかしいまだに一部に藩政時代の面影を留めている。
当野村家もいくたびか住人を替えたが、藩政時代北前船として樺太、蝦夷に通商し藩政を支えた加賀支藩の大聖寺藩下の傑商
久保彦兵衛が藩主を招くのに造った豪邸の一部である上段の間、謁見の間を移築したものである。
いまさらに往時の文化栄華を知る数少ない貴重なる文化遺産であり、
たたずむ此処に歴史の重み「加賀文化」の深さを感じられてならない。

                                               案内説明より

加賀藩前田家家臣高田家跡

庭園

長屋門 内

長屋門 表 


  高田家屋敷長屋門
この建物は、江戸時代にこの地にあった加賀藩五百五十石平士・高田家屋敷の長屋門を復元したものです。
加賀藩の平士階級には、家禄八十石から二千四百石の藩士が属し、中クラス以上の屋敷には門だけではなく、
ここのような「長屋」や「厩」を付けることが認められていました。
その長屋には仲間や小者と呼ばれる武家奉公人たちが住み込み、門番やお供などの仕事をしていました。

当施設では、この長町などに住んでいた平士たちの姿やその屋敷に仕えていた仲間たちの姿を紹介しています。
建物そのものと合せ、ごゆっくりご覧ください。
また、現在は約二百七十坪ですが、かっては四百四十三坪の敷地にあった広大な武家屋敷を想像しながら、
庭園を散策するのもよいでしょう。


  平士の屋敷と門構え
平士の屋敷地は、主屋の周りを土壁で囲み、入口に家格に応じた門構えを設けています。
このような構えを「屋敷構え」と呼び、武士階層だけに許されていました。
門には、ここにある長屋門のほか、薬医門、四脚門などの様式があります。
主屋は、だいたい切妻妻入りで、緩い勾配の板葺石置き屋根でした。

土塀の高さも身分や禄高に応じた高さになっており、八家や人持などの大身の屋敷では、2.5~3mと高く、
表に向かって偉容を示していましたが、普通の平士クラスでは1.5~2m程度でした。
また、長屋門の建築規定としては、石垣を「切積み」にしてはならず、「野面積み」にするようになっていますが、
実際は守られなかったようで、現存する長屋門はすべて切積みとなっています。

腰板はどんな木を使ってもよく、出来るだけ簡単な造作によることになっていました。
また、門の横にある長屋は、奥行き二間という規定がありましたが、長さは武家奉公人の数によって異なるため、
特に規定はありませんでした。


  加賀藩平士の収入
加賀藩前田家家臣の多くは平士階級に属し、幕末では千四百家にものぼりました。
俸禄の少ないものを扶持米取や切米取といいましたが、そのほとんどは80石から2400石までの知行取でした。
知行石数とは、領地で収穫される米の生産高のことであり、実収入ではありません。
その実収入は、知行高の約四割でした。

この地にあった高田家の場合、知行高は550石だったので、実収入は220石となります。
藩士たちは知行高に応じた俸禄を受け取ると、町や村の蔵宿に預け、1石に付き2升当ての蔵米を手数料として支払います。
そして家族一年分の食費を引いた残りを米仲買人に売り払い、奉公人の給料など高田家の生活費としていました。

                                                案内説明より

旧加賀藩士高田家跡は、藩制時代の長屋門(武家屋敷などに特徴的な、
細長い長屋の中央に位置する門)を修復して公開しています。
敷地内の庭園は、藩制時代の面影を残しています。

足軽屋敷資料館

妻側壁板張り

切妻平入り家屋


  足軽
足軽とは戦闘時に駆り出される歩兵のことを指しています。
戦国時代には弓・鉄砲の部隊を編成して活躍しましたが、江戸時代には武士の最下層に位置付けられていました。

                                            案内説明より

玄関と前の間

奥の間





にし茶屋街

前田土佐守家資料館

交差点脇の香林坊地蔵尊

香林坊交差点

犀川大橋より犀川

  香林坊地蔵尊
越前朝倉氏に仕えた向田兵衛は、天正八年(1580)当地に移り町人となって薬種商を営みました。
その後、比叡山延暦寺の僧であった縁者の香林坊を婿養子に迎え、店の名を香林坊としました。
ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより処方した目薬が、加賀藩祖前田利家の目の病を治し、
香林坊は大いに名をあげました。
この夢に現れた地蔵尊を造り店の小屋根に安置し、商売も大いに繁昌しました。
寛永八年(1631)四月十四日の大火の時、地蔵尊の辺りで不思議と火が止まった為、
香林坊の火除け地蔵とも呼ばれるようになりました。

                                                 案内説明より

流用水

枯用水

金沢老舗記念館

金沢老舗記念館

長町の一般家屋

菅原神社

菅原神社拝殿

拝殿の扁額と祀られる三柱

菅原神社手水舎

天神牛(撫で牛?)

養知院 歓喜天に鳥居?

鳥居石造り扁額

歓喜天堂

養知院本堂 延命地蔵菩薩

弘法大師造の地蔵菩薩像らしい

御願成就地蔵菩薩石像

西茶屋資料館

西検番事務所(芸妓事務所?)

西茶屋緑松園

西茶屋街町並み

西茶屋街町並み

西茶屋街町並み

西茶屋街町並み


  にし茶屋街(西料亭)
加賀藩前田家十二代斉広は、文政三年(1820)金沢奉行山崎頼母らの口添えにより、
公許を与えて妓楼を区域を限定して集め、石坂茶屋町が出来上がり、営業が開始された。
しかし、天保二年(1831)には茶屋制度が廃止され、さらに慶応三年(1864)九月に再び公許されるなど、
幾多の変遷を辿りながら百有余年の歴史と伝統の面影を今に伝えている。

茶屋町は上町(西茶屋)と下町に分れ、上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし、
数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている。
茶屋街の入口にはかって大門があり、番所が置かれて茶屋街の象徴でもあったが今はない。
茶屋街の建造物の特徴は、格子作りと掛行灯であるが、
特に金沢の格子は桟が細くて間隔が狭いのが京都の島原や江戸の吉原と異なる点で、以前は紅殻の漆で塗られていた。

                                           案内説明より

西茶屋街緑地

西茶屋街石碑





主計町茶屋街

浅の川暮色石碑 (五木寛之)


  浅の川暮色  昭和四十六年六月(1971)
森口は川に面したガラス戸を開けると、手すりに両肘をのせて目の前の暗い並木の通りと、
その向うの浅野川の河面へ目をやった。
川は光った銀色の網を打ったように小さな白い波をたてて流れており、
対岸の古風な家並みが舞台の書割のように黒いシルエットで浮かびあがっている。
付近の料亭で打っているらしい太鼓の響きが、風向きに応じて低くなったり高くなったりしながらかすかにきこえてきた。


  泉鏡花記念館(生家跡)下新町 泉鏡花生誕の町
我が居たる街は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり。
両側に見好げなる仕舞家のみぞ並びける。
市中の中央の際めて好き土地なりしかど、此町は一端のみ大通りに連なりて、一方の口は行留りとなりたれば往来少なかりき。
朝より夕に至るまで、腕車、地車など一輌も過ぎるはあらず。   (照葉狂言より)


  立花北枝(研屋源四郎)宅跡
北枝はその居を転々としており、一応旧観音町(現東山)に始まり、旧下新町(現尾張町)、春日町と住かわり、
そこに「源意庵」を構えていた。
芭蕉が訪れたのは、尾張町が有力で、そこで「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の句も初めて披露されたものと言われている。


  泉鏡花照葉狂言にちなみ 照葉さくら命名の記(新保千代子)
てり葉輝く 桜のひともとを われら植えたり
年々歳々 花あたらしく 浅野川流れてやまず
美しき 歴史生きるる町 旅人も訪ないたまえ

新保千代子(1913~2004)  石川近代文学館館長後名誉館長

                                               案内説明より

浅野川大橋南詰

浅野川大橋緑地 復元火の見櫓

浅野大橋と浅野川と桜

泉鏡花記念館 (生家跡)

立花北枝(研屋源四郎)宅跡 手前

暗がり坂

久保市乙剣宮より主計町に通じる小路を指し、日中も日の当らない暗い坂道なのでこの名で呼ばれている。
暗闇坂ともいう。

主計町茶屋街町並み

主計町茶屋街町並み

主計町茶屋街町並み

暗がり坂小路

久保市乙剣宮

樹高 20m
幹廻り 3.88m
枝巾 18m

欅は公園、街路樹、防風樹などに
多く植えられるほか、
社寺建築、漆器、彫刻などに利用されている

御神木 (保存樹ケヤキ)

手水舎

久保市稲荷社

拝殿懸魚社紋

主計町から境内へ

拝殿

本殿

狛犬

金沢蓄音機館

蓄音機館のHis Master`s Voice

煉瓦造り建築 入口には骨董とある

金沢文芸館 五木寛之文庫
旧石川銀行橋場支店

大樋長左衛門窯

長左衛門窯の神木赤松

滋養強壮まむし黒焼 東田薬店

門構えの家屋

割烹料亭 金城摟

枯木橋


  枯木橋の由来
枯木橋は、現在架かっている橋でも百年以上の歴史を有していますが、その歴史はさらに遠い昔に遡ることが出来ます。
金沢古蹟志という書物に枯木橋の由来が載っていますのでご紹介します。

  由来その一
久保市乙剣宮の社記に、「織田信長の命をうけた佐久間盛政と一向一揆勢力が争った元亀・天正の乱で、
神社一帯が焼き払われ、境内の林も焼かれて枯木の林になってしまった。
その枯れた林が年を経てもそのまま立っていたので、この辺りの橋を枯木橋と呼んでいる。

  由来その二
「越登加三州記」という本に、「この橋は、正保年間の頃までは丸木を並べていて山間の渓谷に架かる橋の様であったが、
その橋の傍らに枯れ木が一株あったので、世人が枯木橋と呼んでいる。」

  由来その三
「亀の尾の記」という本には、「この橋も丸木を縦に並べたものであるが、橋の脇に榎木があったが、後に枯れてしまった。
その木が近年まで残っていたので橋の名前になった。」

これらのことから、橋の歴史は今から約四百年も前に遡ることができ、
その名は、橋の傍らに枯れ木があったことに由来するといえそうです。


  惣構掘と枯木橋
枯木橋は、東内惣構堀という堀に架かっています。
惣構というのは、城の最も外に巡らした土や石の囲いのことで、その堀が惣構堀です。
慶長四年(1599)、加賀藩前田家二代藩主利長は、城下の防備のために家臣を総動員してわずか二十七日間で
金沢城を取り囲む二つの堀を築きました。
これが東内惣構堀と西内惣構堀です。

さらに慶長十六年(1611)には、東西の外惣構堀が造成されました。
東内惣構堀は、小尻谷町に始まり小将町、賢坂辻を通り味噌蔵町、橋場町を経て枯木橋をくぐり抜け浅野川に注ぐもので、
全長が十一町三十間(約1.3㎞)あります。
残念ながら、今では惣構堀の面影を残すところは、ほとんど見られなくなってしまいました。


  金沢文芸館 金沢五木寛之文庫(旧石川銀行橋場支店)
建物は浅野川大橋近くのランドマーク的存在として市民に親しまれ、市指定保存建造物・国登録有形文化財にもなっています。
金沢ゆかりの作家五木寛之氏の全著作品、愛用品や直筆原稿、金沢市が制定している泉鏡花文学賞受賞作品が
展示されているほか、文学・文芸の活動場所として利用できます。

                                          案内説明より

枯木橋の流れ

因徳寺山門 四脚門

本堂

本堂向拝蟇股の彫刻

山門木組み

鐘楼と梵鐘

雨宝院

願念寺

希翁院

庫裡

芭蕉句碑

一笑塚 小杉一笑辞世の句

鐘楼

山門 脇塀付薬医門

本堂

希翁院山門 薬医門


  因徳院
霊寶山と号し、真宗大谷派(東本願寺)に属する。
開山は、慶長十二年(1607)、教順と記されている。
寺地は、慶長十二年加賀藩前田家二代藩主利長から賜ったものである。
六本柱の山門、本堂ともに創建の年代に近い江戸初期の様式を残しており、
本堂の向拝虹梁および蟇股が趣深い造りになっている。
本尊は、一尺七寸の阿弥陀如来である。
境内には、狂歌で名をはせた瀬波屋鶏馬の墓がある。


  雨宝院
千日山と号し、高野山真言宗に属する。
本尊は、金毘羅大権現である。
開祖は、聖武天皇の時、天平八年(736)、越智の泰澄大師が白山の妙里大菩薩に霊告と六句の秘文を受け、
大日如来を本尊とし、当地において秘法密場として創建したことが起こりである。
八百五十年余りを経て、文禄四年(1595)、大和の国の大徳雄勢が伊勢神宮一千日参詣し、満願の暁に霊告を受け、来錫。
堂宇を再興して今日に至っている。

更に、雄勢は泉野原で伊勢神宮に向かって五千日の修業を行い、慶安二年(1649)、九十六歳で入定した。
その地を「千日塚」といったが、今は不明で石碑文が境内にある。
金沢の文豪・室生犀星は、当院二十二世住職室生眞乗法印の養嗣子となり、
幼少(名を照道)から青年期にかけて当院で過ごした。
「愛の詩集」「性に目覚める頃」「杏っ子」
をはじめ数々の名作を残している。

  「性に目覚める頃」より (大正八年十月)
この犀川の上流は、大日山という白山の峰つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。
私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝一番水を汲むのであった。
上流の山々の峰のうしろに、どっしりと聳えている飛騨に連峰を靄の中に眺めながら、
新しい手桶の水を幾度となく汲み換えたりした。


  願念寺
木一山と号し、真宗大谷派に属する。
慶長年間(1596~1615)の創建。
万治二年(1659)河原町(現片町)から現在地に移転した。
本堂は文化五年(1808)に再建されたもので、いわゆる現代の真宗の本堂形式の典型的な建物である。

境内に松尾芭蕉の「つかもうこけ 我が無く声は 秋の風」の句碑があるが、
この句は弟子である小杉一笑の死を知って詠んだ句である。
当寺は小杉家の菩提寺でもある。

一笑の辞世の句「心から 雪うつくしや 西の雲」という金石の俳人・蔵月明の名筆による句碑も建っている。
また当寺には、金沢に三個存在するうちの一つである明治期の朝鮮鐘がある。
この鐘には、有栖川宮熾仁親王の銘が入っている。

  松尾芭蕉・小杉一笑ゆかりの寺 願念寺
芭蕉門下の俳人・小杉一笑の菩提寺であり、境内には一笑塚がある。
また、元禄二年(1689)「奥の細道」で来遊した松尾芭蕉が一笑の追悼会に出席し、その死を悼み詠んだ。
「つかもうごけ 我泣く声は 秋の風」の句碑が山門左側にある。
一笑が埋葬されていると思われる小杉家の墓は、施主茶屋新七・天明七年(1787)と刻まれ、本堂前にある。
小杉家は藩政期茶舖を営んでいた。

  小杉一笑
一笑は金沢における芭蕉風の先駆をなした俳人である。
元禄二年(1689)願念寺で小杉一笑の追悼会が執り行われた。
この前々年の貞享四年、近江の人、尚白が撰した「孤松集」に一笑の句が百九十四句も入集されているほか、
計三百七十八句の遺作が伝えられている。
芭蕉もその才能に最も注目していた俳人だったが、会うこともなく他界した。
享年 三十六。
一笑塚にはその辞世の句が刻まれている。


  希翁院
亀福山と号し、曹洞宗に属している。
開山は、慶長十年(1605)越中国(富山県)今の石動動伝寺の三世住職・希翁周臨で、神戸清庵と神戸蔵人が檀家となり、
加賀藩前田家二代藩主・利長に願って寺地を拝領し創建した。
神戸蔵人は、初代藩主・前田利家の弟、前田秀継の婦人の甥で、秀継の子息又次郎の家臣であった。
神戸清庵は、蔵人の弟である。
ちなみに、又次郎は、永伝寺を建立している。
境内には、竹田忠順や富永家などの墓がある。
竹田忠順は、火消役で寺社奉行や公事場奉行などを務め、連歌を好んだという加賀藩前田家の家臣。
富永助信、助盛らは代々藩に仕えた武士で、千石を領して香林坊のほとりに住み、
「福は内、鬼も内」と言って豆まきをしたことで知られている。

                                          案内説明より

本堂

庫裡

山門 棟門

御影堂?

多宝塔 後は犀川大橋

六地蔵尊

金毘羅権現堂

極楽寺

極楽寺山門 薬医門

本堂 朱塗りの欄干

信州善光寺如来光明燈の石碑

玉龍寺

玉龍寺山門 薬医門

本堂

山門扁額

寺標

山門横のイチョウ

本堂前のソメイヨシノ

金剛寺

金剛寺山門 脇塀付薬医門

禅堂 庫裡

山門寺札

月照寺

月照寺山門 薬医門

曹洞宗寺院に不動明王像

石仏群

石仏群

獅子像

像と童子像

墓石と墓碑文群

曹洞宗大本山総持寺元輪番地石標

山門蟇股の彫刻

山門主柱と控柱

本堂

寺標

香林寺

香林寺山門 薬医門


  極楽寺
安養山と号し、浄土宗の寺院です。
南北朝騒乱に時、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は越後、信濃に潜伏していたが、
延元二年(1337)、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に至り、仮の御所を造り居住していた。
その後、落飾して牧野の地に草庵を結び、仏門に入り極楽寺と号したことに始る。
宗良親王は佛眼上人明心法親王と尊称された。

寺院来歴気によれば、天正年間(1573~1592)、後の加賀藩前田家三代藩主利常が越中守山(富山県高岡市)に在城中、
守山極楽寺の第一世・暫誉上人に深く帰依したと伝えられる。
よって慶長四年(1599)利常が金沢城に入城した際、極楽寺の住職・暫誉上人を招き寄せ、
元和元年(1615)には現在地に寺地千五百坪を賜った。

暫誉上人は文禄三年(1594)上京参内して紫衣の勅許を蒙り、加賀一国中浄土宗寺院の触頭を勤めたとある。
寺中に清覚院・不捨院があったが、宝暦九年(1759)の罹災の後は再建はされていない。
当寺の開祖・明心仏眼法親王の木像が安置されている。
本堂前に朱塗りの欄干が設けられているのも、皇子が創設された寺としての格式を表していると云われている。


  玉龍寺
大亀山と号し、曹洞宗の寺院です。
前田長種の父長定が尾張(愛知県)前田村において創建、桂厳慧芳長老を懇請して開山とした。
長定の嫡男長種は、父が尾張蟹江の合戦に自害して後、加賀藩初代藩主前田利家の家臣となった。
その後、越中守山(高岡市)・富山・加賀小松と藩主と行を共にし、後に金沢の法船寺町に移って、
慶安元年(1648)、現在地に寺地を受けた。

長種は利家の長女・幸姫をめとり、慶長六年(1601)には従五位下対馬守に任ぜられている。
前田長種家の菩提寺である。
寺号は長定の戒名玉龍寺殿から名付けられた。
山門は薬医門、脇塀付桟瓦葺きで、慶安年間に近いものとみられている。
精巧かつ華麗な作で、朱塗り厨子「厨子入舎利塔」がある。
玉龍寺、天徳院の住職から越前永平寺の貫主、曹洞宗の管長となった名僧・森田悟由の墓がある。
当寺に長種夫妻の宝篋印塔をはじめ、前田村から移された合同碑がある。


  金剛寺
永亀山と号し、曹洞宗の寺院です。
開山は、天正年間(1573~1592)、前田大炊の第三子が出家し、
越中射水郡守山(高岡市)の海老坂に創建したものと伝えられる。

慶長十二年(1607)犀川一の橋(現犀川大橋)の近くに奥村周防(長元)が寺地を拝領し、この寺を移転、
さらに加賀藩三代藩主・前田利常の時代に御用地となり、現在地に移った。
山門、本堂などの建物は、江戸時代後期以降のものである。
また本堂には、能登末森城の守り本尊であったと伝えられる観世音菩薩像が安置されている。


  月照寺
東光山と号し、曹洞宗の寺院です。
慶安五年(1652)前田長種の正室であり、加賀藩前田家初代藩主・利家の長女である春桂院(幸姫)の菩提寺として、
次男・前田丹後長時によって建立された寺である。
開山は、龍淵寺五世住職である恵学。
寛文七年(1667)には、三代藩主・前田利常より寺地千坪を追加され、大伽藍を建立した。

明治四年(1871)には六斗の大火で類焼したが、現在の建物は前田家の屋敷の一部を移転して再建されたものである。
大火のおり延焼をまぬかれた山門は、江戸中期の建築様式を見ることができる。
境内入口には、多くの石仏が建ち並んでいるが、これは卯辰山にあった三十三体と鶴来街道にあった三十三体の
観音仏を集めて安置したもので、平和を祈願し、手を合わせる人が多い。


  香林寺
神照山と号し、曹洞宗の寺院である。
慶安四年(1651)、加賀藩士であった青木五兵衛が加賀藩前田家三代藩主・利常に願い出て現在地を拝領し、
長岩和尚を開山として創建された。
青木は、利常の恩に報いるために、御影堂を造り、利常の位牌を安置した。
また、青木家の家伝・菅原道真の画像を納めた。
ところが、何時の頃か神殿より出火し、寺も類焼、御影堂も焼失している。
なお、天保四年(1833)作の不動明王は、霊薬不動尊として知られている。

                                              案内説明より

本堂と庫裡

本堂棟の懸魚

国泰寺

山門と高峰譲吉博士菩提寺石標

高峰譲吉博士生誕の地(高岡市)

本堂

少林寺

山門  脇塀付薬医門

本堂

鐘楼

梵鐘

梵鐘 (金沢市指定文化財)

製作者 冶金工宮崎彦九郎義一
延宝五年(1677)十二月十二日
少林寺は製作者の宮崎家の菩提寺である。

承証寺

山門 脇塀付薬医門

本堂

方丈 寺務所

松月寺

山門 棟門と寺標

本堂

松月寺の大桜 境外より

松月寺の大桜 境内より

松月寺の大桜

昭和十八年文部省から天然記念物に指定された。
山桜に似ており、花びらは五センチほど、樹齢は不明である。
この桜は小松城内(加賀金沢城支城)にあったものを当寺の至岸和尚が
加賀藩三代藩主・利常から拝領し金沢に移植した。
儒学者鳩巣が「遊松」、「月寺看桜花」の詞を作ったのもこの桜を見てのことである。

浄安寺

山門  薬医門

本堂

棟柱

棟柱の天邪鬼


  国泰寺
摩頂山と号し、臨済宗の寺院である。
寺記によれば、はじめ当寺は公儀町(現長土塀)にあったが、創建の年代は明かではない。
当初は越中国射水郡太田村(現高岡市)の国泰寺の別院であったため、本寺の住職が当寺の寺務を兼帯し、
元和二年(1616)頃、播庭和尚の時に和泉野に替地を拝領し、堂宇を再建したと伝えられている。
境内には、慶安三年(1650)宗貞が建立した松源庵があったが今はない。

加賀藩前田家二代藩主・利長夫人である玉泉院の二十五回忌法要の折、小松から三代藩主・前田利常がはるばるお参りに訪れ、
装束をここで改めたと云われている。
境内にある秋葉大権現を祀る御堂があるが、これは火ぶせの神として尊信されている。
なお、当寺はタカジアスターゼの創製とアドレナリンの発見で有名な、高峰譲吉博士の菩提寺でもある。


  少林寺
嵩獄山と号し、臨済宗の寺院である。
寺記によれば、開山は千岳宗仞禅師で、寛永十五年(1638)、伝馬町に小庵を結び、
それを少林寺と名付けたことが起こりと言われている。
正保三年(1646)、現在地に移り、承応二年(1653)、加賀藩前田家三代藩主・利常から大きな寺院に建て替えるよう命ぜられた。
千岳禅師の隠居所でもあった。

寺宝として、十一面観音像や菅原道真の像があり、本堂内には、十三代藩主・前田斉泰から授かったといわれる
「前田斉泰公奉納」の文字が刻まれた精密な常夜燈がある。
境内には、名僧として親しまれ、宝勝寺や伝灯寺も建立した当寺の開山千岳禅師の墓がある。
また、当寺所有の梵鐘は、延宝五年(1677)宮崎寒雉によって作られたもので、
名鐘のため、第二次世界大戦の折の金属品回収からも免れることができた。
高さ136㎝、口径77㎝の梵鐘は、音色が美しいことで知られている。


  承証寺
本隆山と号し、法華宗の寺院である。
本山は京都本能寺である。
天正十七年(1589)、加賀藩士であった服部佐渡守が加賀藩前田家初代藩主・利家に願い出て尾張町に寺地を拝領し、
日種上人を開山として創建した。
後、古寺町(現片町)の現在地に移る。
寺内の鬼子母神に祀られている鬼面は、能美郡安宅浦の海中より浮かびあがったものとして秘蔵されてきたもので、
霊験があると云われている。

江戸時代初期の画家、俵屋宗達の晩年の作とされる「萩に兎」が本堂戸板に残されている。
当寺墓所には、幕末の元治の変(禁門の変又は蛤御門の変)に際して勤王の説を唱えて処刑された福岡惣助の墓などがある。


  松月寺
瑞亀山と号し、曹洞宗の寺院である。
斉藤刑部宗忠が、白峰和尚のために越前国(福井県)堀井庄において起こした寺であるが、
加賀藩前田家初代藩主・利家の入国後、金沢に移り、宗忠が願って小立野に造営し、元和二年(1616)に現在地に移った。
当寺の境内には有名な老桜があり、「大桜」とも「御殿桜」とも言われている。
これは、中興至岸和尚が三代藩主・前田利常から小松城内にあったものを拝領したと伝えられている桜である。

樹種は山桜に近く、花径5㎝内外、四月中旬に開花する。
樹齢は定かではないが、周囲6m、高さ14mの大木である。昭和十八年八月、文部省から天然記念物に指定された。
泉鏡花の作品「桜心中」では、「この桜は名木です」と記している。


  浄安寺
笈松山と号し、浄土宗の寺院である。
加賀藩初代藩主・前田利家と同じ尾張荒子の出である貞蓮社白誉笈松上人が、天正八年(1575)に利家の命をうけ、
金沢に入部し古寺町(現・片町)に建立した。
元和二年(1616)、三代藩主・前田利常に請うて、寺地を得て現在地に移った。
当寺の「寄木造り阿弥陀如来坐像」は、延宝元年(1673)に建立され、金沢四大仏の一つに数えられている。
宝暦九年(1759)の大火で建物は全焼したが、檀信徒によって大仏や御像などは無事に運び出され、その後寺も再建された。
その他、八臂弁才天、大黒天、毘沙門天の三体を奉じる寺である。

                                             案内説明より

長久寺

長久寺山門 薬医門

寺標

本堂と両脇に銀木犀

金木犀と寄り添う芭蕉句碑

山門横のケヤキ

本堂

立像寺

二重鐘楼

立像寺山門 薬医門とケヤキ

寺標

本堂

宝物館?

加賀前田家家紋

本長寺

龍渕寺

龍淵寺山門 薬医門


  長久寺
鶴雲山と号し、曹洞宗の寺院である。
『長記』によれば、慶長十三年(1608)の創建。高畠石見守定吉の後室・長久院(生前は長寿院)のために
栖覚寺を郊外にある大豆田高畠氏の下邸に建てたが、その粧田三十石を寺領として寄進し、その十五年後、長久寺と改めたとある。

寛永十二年(1635)には泉寺町(現・寺町)の玉泉寺前に転じ、明暦元年(1655)、寺封を増して五十石とし、
延宝四年(1676)野田寺町覚源寺の遺址である現在地に移って、長久寺を建立したとある。
当寺は、前田利春の三女で加賀藩初代藩主・前田利家の妹・津世の菩提寺でもある。
境内には芭蕉の句碑があり、また樹齢四百年近くになる金沢市保存樹の銀木犀があり、九月頃に開花する。


  長久寺 ギンモクセイ  樹高 9m  幹周 株立十二本(右)・十四本(左)  枝巾 11m
                 左右対をなす銀木犀は、樹齢四百年を超すとも云われ、株立の見事な樹容を誇っている。
                 秋には白い花を付け芳香を放っている。

  長久寺 ケヤキ     樹高 18m  幹周 2・64m  枝巾 15m
                 欅は公演樹・防風樹等として植えられ、また、社寺建築などのも利用されている。
                 この木は極めた枝張りが良く、大切に保存されている。


  立像寺
妙布山と号し、日蓮宗に寺院である。
永仁三年(1294)日像上人が越前国南条郡府中(福井県武生市)に立像庵を建立した。
この庵を日治上人の代に妙布山立像寺と改めた。

天正十一年(1583)、後の加賀藩前田家二代藩主・利長が松任入城の時、日治もそれに従い小松に立像寺を建立した。
続いて利長越中国守山(高岡市)に移るときも、日治再び従い寺地を高岡に、
さらに利長が富山に移るときも従い富山に寺地を与えられた。

利長が金沢城主となり、初めは金沢の河原町(現・片町)に寺地拝領、その後、現在地に移った。
加賀藩三代藩主・前田利常の生母寿福院の母であり、利常の祖母寿命院の再婚さきの小幡家が材木を寄進、
小幡家の定紋松皮菱が欄間に彫られている。

第二十二世日輝は、子弟訓育の充洽園を創設し、日蓮宗近世教学の発祥地ともいわれた。
本堂は、向拝柱の面が大きく桃山時代の様式を示している。
境内には、キリシタン灯籠や六代目横綱・阿武松緑之助の墓がある。


  立像寺本堂(市指定文化財)
本堂の形式は寄棟造・桟瓦葺きで向拝一間を付ける。
建立年代は寛永十五年(1638)の棟札がsる。
建物規模は正面桁行八間(実長十一間)・梁行柱間七間(実長八間半)で、面取り角柱を用いる。
向拝の細部絵様は江戸時代前期の様式を示している。

屋根は修理されているが、当時の小屋組みを残す貴重な例で、元は杮葺きであったと考えられている。
寛永期の部材をよく残しており、その平面には古式な内陣構えが残っている。
この本堂は江戸時代初期の日蓮宗寺院本堂の特徴をよく残しており、
金沢の寺院建築を代表する希少な遺構として貴重な建造物である。


  本長寺
長遠山と号し、顕本法華宗(日蓮宗の一派で京都妙満寺を本山とする)の寺院である。
享徳二年(1453)、越中国砺波福光城主・石黒氏が、菩提寺として創建したと伝えられている。
その後、一向一揆との抗争で何度も焼失、蓮沼・守山・富山などに移転・再建を繰り返し、天正十三年(1585)に金沢に移った。
元和元年(1615)現在地に寺量を拝領し、再建した。

現在の本堂は、宝暦十二年(1762)出火により焼失後、文化九年(1812)学僧・日鑑らにより再建されたものである。
境内裏庭には、推定樹齢二百年余り、樹高九メートルの大楓(いろはかえで)があり、
昭和五十六年、金沢市から保存樹に指定された。
境内には、芭蕉の句「春もやや けしきととのふ 月と梅」の句碑が建っている。
また、境内墓地に、加賀藩の農制書「河合緑」を著した河合祐之の墓、長尾流躰術中興の祖・雨夜覚右衛門の墓がある。


  龍渕寺
霊松山と号し、曹洞宗の寺院である。
天正十年(1582)尾張国で創建されたが、慶長の頃(1596~1615)、摂津国難波岡(現・大阪)に移転し、金龍寺と称した。
寛永二年(1625)金沢に移り、加賀藩前田家家臣・前田長種を介して犀川川原に寺地千八百坪を拝領した。
開山は、小松玉龍寺三世・大圓彗展である。
正保二年(1645)、寺地三千坪を拝領し現在地に移転した。

境内には藩主公用の竹林があるが、これは、加賀藩前田家三代藩主・利常の命により指定されたものである。
また、書家・独角宗麟や、加賀古流生花の始祖・近藤理清などの墓がある。
寺地全域が、金沢市から保存樹林に指定されている。

                                             案内説明より

本堂

庫裡

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利家公四女 豪(宇喜多秀家室)之墓

前田利家長女 幸(前田長種室)の墓

  豪姫の墓(中納言宇喜多秀家夫人)
加賀藩祖・前田利家公の四女、母は芳春院(お松の方)、天正二年(1574)に生まれる。
幼少の頃、豊臣秀吉の養女となり、天正十六年(1588)、備前岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぐ。
関ヶ原の合戦後、宇喜多秀家は二人の男子、秀高(秀規とも)秀継と共に八丈島に流罪。
豪姫は、生家前田家にて余生を送り、金沢にて寛永十一年(1634)五月二十三日死去。
享年六十一。
法名 樹正院殿 命室寿晃大禅定尼。
この墓は三百有余年の間、代々前田利包(修理)の子孫によって守り続けられてきた。
現在は、豪姫を偲ぶ会(大蓮寺)にて守られている。
豪姫の菩提寺は、野町浄土宗 宝池山大蓮寺である。

                                           案内説明より

利家公六男 利貞  七女千世之墓

品川雅直之墓

古市左近胤重之墓

原三郎左衛門之墓

堀作兵衛義勝之墓

竹田市三郎忠次之墓

前田利常公殉死者五名の殉葬地(利常公墓地横)

光高公次男 萬菊丸之墓

光高公長女 専子之墓

前田光高公殉死者二名の殉葬地(光高公墓地後)

小篠善四郎之墓

浅井源右衛門之墓

加賀藩祖 前田利家

加賀藩二代藩主 前田利長

加賀藩三代藩主 前田利常

加賀藩四代藩主 前田光高

加賀藩五代藩主 前田綱紀

綱紀公長男 千代松之墓

綱紀公三男 久丸之墓

綱紀公六男 雅十郎之墓

綱紀公四女 良子之墓

加賀藩六代藩主 前田吉徳

吉徳公三男 利和之墓

吉徳公六男 八十五郎之墓

吉徳公六女 橘子之墓

吉徳公七女 暢子之墓 

加賀藩七代藩主 前田宗辰

加賀藩八代藩主 前田重熈

加賀藩九代藩主 前田重靖

重靖公長女 邦子墓所

加賀藩十代藩主 前田重教

加賀藩十一代藩主 前田治脩

加賀藩十二代藩主 前田斉広

斉広公五女珍子姫墓所

斉広公八女次子姫墓所

天徳院

上野八幡神社

本堂

元和九年(1623)に加賀三代藩主前田利常公が正室珠姫の菩提を弔うため、金沢城の東、
小立野台に四万坪(約1.3ha)の広大な敷地を定め、天徳院を創建した。
寛永元年(1624)徳川家康公が崇敬した巨山泉滴和尚を安房(千葉県)長安寺よりお招きし、天徳院第一世開山とした。
寛文十一年(1671)珠姫(天徳院殿乾運淳貞大禅定尼)の遺骨は天徳院境域より野田山に改葬された。

元禄六年(1693)五大加賀藩主綱紀公は四代藩主光高公五十回忌供養のために、親交の深かった明(中国)の僧、
黄檗宗五代管長高泉和尚に委嘱して着工から十年の歳月を要して天徳院の全宇堂をすべて明朝式に造営建築した。
しかし、明和五年(1768)二月に山門、総門、御霊堂、宝蔵などを残して本堂、庫裡その他多くの講堂を焼失した。
現在は山門のみが当時のものである。
翌明和六年(1769)十二月には、十代藩主重教公がわずか七十日の突貫工事で、本堂、庫裡などを再建した。

                                        天徳院HPより

  天徳院山門(高欄付楼門)
金沢市指定文化財 元禄六年(1693)の建立。
五代藩主前田綱紀公の命をうけた明の僧高泉和尚の指法により、黄檗様式を散りいれた建築である。

天徳寺一般墓地 募集中

画の回廊

廻廊内

廻廊内

右回廊

左廻廊

境内庭

境内庭

境内庭

山門 (高欄付楼門)

金剛力士阿形像

金剛力士吽形像

境内地蔵菩薩(出世地蔵)

境内地蔵菩薩

拝観受付 案内所

寺標 金龍山天徳院 珠姫の寺

参道 右側羅漢の道 左側菩薩の道

松尾芭蕉句碑

山さむし 心の底や 水の月

金沢小立の連中の建立で、もとは能登七尾宝幢寺の境内にあったが、
明治八年(1875)当社境内に移した。

                       案内説明より

松尾芭蕉句碑

  上野八幡神社
約四百年前の神仏混洧の時代、医王寺と呼ばれていた。
天正年間(1573~1592)能登石動山天平寺の僧・空山が、後の加賀藩初代藩主前田利家に内通し、
石動山の麓に建立したと伝えられる。
天正十二年(1584)、利家公が金沢に移転した後、文禄二年(1593)金沢の山崎郷(小立野白山町)に再々移転した。

享保十六年(1731)現在地に遷座し、明治五年(1872)村社となる。
また、境内には芭蕉句碑が建っている。
御神体は三十三年に一度御開帳になるが、御輿は年男によって担がれ、市中を練り歩く。
秋祭りには、氏子らが踊りながら餅の曲づきをし、秋の実りには感謝する餅つき踊りが奉納される。
この餅つき踊りは、現在金沢市無形文化財に指定されている。

                                          案内説明より

八幡神社玉垣

境内の木立

手水舎

本殿・幣殿

拝殿と社務所

上野八幡神社

天徳院 経王寺 如来寺 上野八幡神社 安楽寺 一閑院 雲龍寺 永福寺 仰西寺 慶恩寺 献珠寺 松山寺 乗圓寺 

常福寺 真行寺 瑞光寺 西光寺 専修寺 西方寺 善行寺 即妙寺 善徳寺端雲寺 長周寺 鶴林寺 棟安寺 妙来寺 

高源院(馬坂不動尊・馬坂延命地蔵尊) 棟願寺 波着寺 馬坂不動堂 馬坂地蔵堂 発句寺 聞敬寺 本行寺 妙喜寺  

唯念寺 圓證寺 寶圓寺 廣濟寺 眞光院 猿丸神社 椿原天満宮 田井菅原神社 

小立野台地の坂道と下馬地蔵





小立野の寺社 

黄檗様式の切妻の破風

稲荷明神に掲げられた天狗面

金龍稲荷大明神の幟旗 禅堂?

加賀藩十三代藩主 前田斉泰

斉泰公次男鈞次郎墓所

斉泰公六男純六郎墓所

加賀藩十四代藩主 前田慶寧

慶寧公長女順子墓所

加賀藩十五代藩主 前田利嗣 

吉徳公八女 保子之墓

前田家家臣墓地 (場所がはっきりしないので大凡の見当なので間違いがありそうです)

村井家墓所

横山家墓所

奥村家墓所

奥村家高祖系墓所

奥村家宗家墓所

芳春院(利家夫人松)実家篠原家墓所

妙立寺

妙立寺山門 (冠木門)

本堂

本堂扁額

外壁は総板張り 外敵防御の寺(城郭)とは言え無防備に等しい

本堂屋根 望楼? 尾欠けの鯱

裏門


  妙立寺
正久山と号し、日蓮宗の寺院である。
寛永二十年(1643)、日通上人が金沢運上町に創建。
後に、加賀藩の命により能登の石動山、新竪町へと移築され、万治二年(1659)現在位置に転じ、建立された。
文久二年(1862)、祖師堂の一部を焼失する。
それ以前は、願念寺の前の通りを正面としていたが、多数の参詣者による混雑の為、
十三代藩主・斉泰の命により兼六園内にあった竹澤御殿の正門を移築、鶴来街道側を正面とした。

堂内には落とし穴、隠し階段などの種々の仕掛けが施され、その複雑な構造から「忍者寺」と呼ばれている。
その微妙さは今日では全国でも数少ないものと評価されている。
日蓮聖人の法孫日像上人作の祖師像を安置し、霊験特に著しく前田家祈願所として、
また古来より定題目の寺として多くの参詣者を集めている。

                                           案内説明より

堂内は薄暗く、忍者とは関係ない寺というけれど、寺側の意図は忍者を前面に押し出しているようだ。
確かに堂内には数々の仕掛けが施されてはいるが、実際の戦となると火矢が数本射られたら仕掛けなど何の役に立たない。
つまり仕掛け共々焼けてしまうから。
正に忍者寺というか、忍者による攻撃から主を守る忍者対策の寺という意味で忍者寺がふさわしい。

堂内は撮影、録音禁止となっているが、薄暗い場所でのフラッシュ撮影など大変周りに迷惑がかかるため当然のこと。
ただ録音の禁止となると首をかしげたくなる。
録音禁止によって何を守ろうとしているのかが私なりに理由が見つからない。
堂内説明に守るべき独自性、著作性があるとは思われなかったからである。

寺発行の周知のパンフレットから転記したものが下の写真である。


日蓮宗 正久山妙立寺
金沢市野町1丁目2-12
Tel 076-241-0888

本堂回廊

外から見える唯一の内部構造

狛犬

芭蕉句碑

本堂

本殿

青銅製大香炉と飾り獅子 天徳院門前老舗酒蔵十三代奉納、高岡老子鋳造の銘

水かけ金洗い弁財天

弁才天は別名「金龍福神金洗弁財尊天」と言い、昔からこの天徳院の鎮守堂に祀られていた
弁才天尊像をもっと多くの人々に親しんでもらいたいと、ある信者の方から新しく寄進されたものであります。
岩窟は、岡山特産の万成石で、二十三トンの重さがあります。
現在弁天様は福徳をさずけ、財物を与えてくださる仏様として、親しまれていますが、もとは「水」そのものが神格化した女神で、
一般には弁天池といわれる水に囲まれた御堂に祀られていることが多い。
その御姿は琵琶をもって弾いておられるとおり、学門、弁舌、学芸一般の神様でもあり、その方面の御利益もございます。

蛇は弁財天のお使いで、左の蛇口から湧き出る水で貨幣を洗うと、その銭は福銭となって、
二倍にも三倍にも効力をあらわすとされています。
平成の弁天様として多くの人々に親しまれ、金運・才能運をさずけてくれることでありましょう。
ただし、弁天様は、あまりにも仲の良い「アベック」さんを見ると、少し嫉妬されるかもしれません。
「アベック」の方々は、御一人づつお参りされた方がよろしかろうと・・・・・・
                                                    案内説明より

梵鐘

鐘楼

瓦の家紋

棟瓦の家紋

本堂前の庭巨樹

経王寺

観世音菩薩像

  経王寺
寿福山と号し、日蓮宗の寺院です。
慶長六年(1601)加賀藩前田家三代藩主・利常の生母・寿福院が越前国府中(武生市)の経王寺から
養仙院日護を招いて創建し、日護の師・妙成寺十四世・寿福院の異母兄善住日淳を開山とした。
寛永八年(1631)四月、犀川橋詰め付近からの大火に被災した。
正保四年(1647)、寿福院の十七回忌に当たり、利常によって再建された。

承応三年(1654)、五代藩主綱紀から寺領五十石を寄進されている。
明治初期に金沢監獄に、明治四十三年(1910)、金沢医学専門学校(金沢大学病院)に境内地約一万坪が収用され、
現在地に移転した。
加賀騒動の悲劇のヒロインお貞(真如院・六代藩主吉徳の側室)の墓がある。
                                                       案内説明より

寛永六年銘の五重石塔

本堂前の庭

山門

本堂

本堂扁額 寿福山

如来寺

石仏素石

石仏製作その一

石仏製作その三

石仏造り

境内墓地 五輪塔墓石

鐘楼

青銅製阿弥陀如来坐像

德川家と前田家の家紋

寺標

山門 薬医門

本堂

石仏製作その二

  如来寺
竜宝山と号し、浄土宗の寺院である。
開山は覚蓮社満誉上人岌台文公和尚で、天正年間(1573~1592)、越中国(富山県)増山に一寺を建立し、
如来寺と号したことが起こりである。
後に、高岡二上山麓に移転し、その後、金沢卯辰山麓(現在の蓮昌寺のある所)に移った。

元和二年(1616)、第五世超誉呑継の時、加賀藩三代藩主前田利常の正室である珠姫(徳川秀忠次女)の命に従い、
德川家康の位牌所となった。
明暦二年(1656)、五代藩主・綱紀は母・清泰院(水戸德川家初代藩主頼房の娘・水戸光圀の姉)の逝去に際し、
位牌所として寛文二年(1662)に現在地に伽藍を建立し、寺領二百石を賜って、
加賀、越中、能登三国の浄土宗寺院の触頭を務めることを命ぜられた。

享保三年(1718)伽藍が焼失したが、文化十年(1813)十二代藩主前田斉広によって再建された。
德川家康及び二代秀忠、六代家宣、七代家継 十二代家慶、十四代家茂と前田綱紀、清泰院の位牌が安置されている。


  如来寺本堂
本堂の形式は入母屋造・平入りで、正面に唐破風造りの向拝を設けている。
建立年代は文化十年(1813)と推定されている。
建物規模は桁行柱間九間・梁行柱間九間である。
側廻りの外部側は船肘木を用いて桁を受けるが張り付けとし、二本の飛貫と内法貫・腰貫を通し、
腰には胴縁を入れ、内法長押・腰長押・地長押で固めている。
柱間装置は花頭窓と窓を各間交互に配している。

本堂平面は六間取りを基本とし、正面と側面に柱間一間の広縁を設け取り込む。
内部空間の立ちが高く、江戸時代後期の浄土宗寺院本堂の発達した典型的な姿を示している。
大規模な修理を受けておらず、再建当初の姿をよくとどめており、金沢における江戸時代後期の寺院建築の遺構として
重要な建造物である。


  如来寺石仏群
平成七年春、参道改修工事に当り創建当時より使われていた敷石が数百年の時を刻みながら老朽化し、
取り換えられることになった。
その取り替えられた聖石を材料にして、毎年善男善女の老若が境内緑陰につどい、色々な想いや、願いを石に託し、
数か月の歳月をかけ掘り上げたものである。
石仏は開眼供養され、万人の祈りの対象として、如来寺墓地公園に安置され、歴代和尚によって末代回向供養される。

                                                案内説明より

安楽寺

  安楽寺
法真山と号し、浄土宗の寺院である。
京都左京区永観堂禅林寺を本山としている。

慶長七年(1602)、越前国の脇田兵部重季が四百歩を拝領し、この地に建立した。
越前国の僧立空等摂を招き開山とした。

本堂に安置する地蔵菩薩像は端正な容姿をし、着衣には往時の色彩が残っている。
加賀藩三代藩主・前田利常の小姓脇田猪之助の位牌及び代々の墓があり、脇田直賢は前田利長、利常、光高、綱紀に仕え
千五百石を拝領した。
小将町にある玉泉園の作庭者でもある。
町奉行、馬廻り頭の役職をしていた。

その子孫にあたる脇田和氏(1908~2005)は、日本洋画壇の重鎮である。
また、作家中野重治(1909~1979)は、旧制四高の学生だった大正十一年頃、当寺に下宿し、
著書「歌のわかれ」の作中には安楽寺の記述がある。


  曹洞宗 浄見山一閑院
寛永八年(1631)寶圓寺五代泰山が、鶴来村に建立した。
明治五年(1872)、現在地に移転した曹洞宗の寺院である。
禅師は戦国時代の大名朝倉義景の第三子で名刹寶圓寺の住職を務め、総持寺を大本山に格上げする功績を残し、
晩年を一閑院で過ごした。


  永福寺
加賀藩家老・奥村永福が天正年間(1573~1592)、前田利家より寺地を得て建立した。
永福は利家の兄・利久に仕え、利家が前田家を相続した後には利家に仕えた。
天正十二年(1585)、佐々成政の攻撃をうけた能登末森城を、守将として死守した話は有名である。


  仰西寺
宮腰山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
開山は、泰澄大師と伝えられ、はじめは石川郡大野庄宮腰(現・金石)に建立され、元明寺と称した。
その後、寿永二年(1183)、木曽義仲の乱の時に兵火にあい、焼失したが、熊谷入道蓮生坊(熊谷次郎直実)が再建し、
天台宗を改めて念仏宗として、仰西寺と呼ばれるようになった。

正応三年(1290)、本願寺二世・覚如上人が北陸巡行の際、浄土真宗に改宗し、寺名も仰西寺と正式に改めた。
寛永年間(1624~1644)、加賀藩三代藩主・前田利常から寺領を拝し、金沢の材木町へ移った。
万治二年(1659)、明了師の時に現在地に移った。


  慶恩寺
加須良山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
延徳三年(1491)の創建と伝えられる。
僧・慶心は、天文十五年(1546)金沢御堂建立にともない、本願寺の命をうけて御堂衆をつとめた。
その後、越中から飛騨にかけて布教にあたり、九十歳で飛騨・白川村加須良に示寂した。

当寺は、木ノ新保から犀川河原町(現・片町)を経て、万治元年(1658)当地に移った。
所蔵品には、絹本着色教如上人寿像がある。


  献珠寺
金竜山、後に黄竜山と号し、臨済宗の寺院である。
開基は、慶安四年(1651)、加賀藩士・横山式部長治の妻である海元院が、その母・献珠院のために、
母の帰依僧・遠山を開山に招いて建立した。
献珠院は加賀藩初代藩主・前田利家の次女蕭姫の娘の法名である。

寛文七年(1667)遠山の死後、無住職となったが、その間三年間にわたって曹洞宗の月坡が寺を守った。
しかし、月坡が天徳院に移住したため再び無住職となり、
ついで横山氏従は寛文十二年(1672)明の僧・高泉を招いて、明法山と称した。
高泉が退院した後、元禄(1688~1704)末年、妙心寺の嵩山を招いて再興し、再び臨済宗に復した。
京都市花園の臨済宗妙心が本山である。
                                      案内説明より

山門

本堂

梵鐘

山門の板張り天井

山門主柱、控柱には持国天、増長天、
広目天、多聞天の木札が張ってある。
板張り天井の天井上には
像を安置しているのだろうか。

多聞天の木札

一閑院

一閑院

一閑院正面から 右本堂

左側で福祉事業をしているらしい

曹洞宗 高獄山雲龍寺

観世音菩薩像

地蔵菩薩像

庫裡

鐘楼

朱鳥居と

狐の狛犬で 稲荷明神殿

扁額には蓬莱殿

寺標と山門

本堂

本堂向拝唐屋根彫刻

曹洞宗 萬松山永福寺

寺標

本堂

加賀藩 奥村家家紋

地蔵堂

永代供養墓石

樅の巨樹

仰西寺

山門 鐘楼門

本堂

本堂 寺号扁額

梵鐘

檀家墓地

向いは金沢大学病院

慶恩寺

山門 薬医門

本堂

鐘楼

梵鐘

山門脇の枝垂れ桜

献珠寺

寺標

本堂

長周寺  

松山寺

八坂より松山寺

参道

山門 薬医門

本堂

庫裡

寺宝蔵殿?

地蔵尊堂

観世音菩薩像 平和観音銘有り

本堂前の巨樹

  長周寺
醒井山と号し、真宗大谷派の寺院である。
近江国(滋賀県)坂田郡の醒井城主・廣田稲葉守重長は出家して、教西坊ととなり、嘉禎二年(1236)、長周寺を創建した。
文明三年(1471)、長周寺第七世・善知坊が、本願寺八世・蓮如上人の御供をして北国で布教した折、
近江国の醒ヶ井より金沢の石引に移った。
天正十八年(1590)、現在地に長周寺を建立した。

蓮如上人との縁で、境内には上人の記念碑が建てられている。
毎年四月二十五日に蓮如忌を行っている。

  松山寺
円通山と号し、曹洞宗に寺院である。
慶長四年(1599)横山山城守長知が創建し、丹波国氷上郡の圓通寺住職・融山泉祝を招いて開山とした。
長知の父・長隆は、加賀藩初代藩主・前田利家の越前国府中(現・武生)時代の家臣である。
寺号の松山は、長隆の戒名である。


  松山寺山門 棟札二枚 (金沢市指定文化財)
山門は、切妻造り、桟瓦葺きの一間一戸の薬医門である。
棟札には、文政五年(1822)、「再建惣門」とあり、建立年代が判明する貴重な遺構で、
加賀八家横山家菩提寺の表構えに相応しい存在感を示している。
装飾性は抑えるものの、冠木先端の入八双状の木板に施された卍崩しの地紋彫が意匠性を高め、木太く重厚な造りである。
小立野寺院群の代表的な門として、地区の景観に寄与している。


  松山寺本堂 棟札一枚 (金沢市指定文化財)
本堂は、宝暦の大火で焼失したため、天明八年(1788)に再建された。
再建の際、臨済宗寺院の本堂の古材を買い取り、曹洞宗形式に造り替えている。
平面は八間取りとし、大間を中心とした前面三室境を、三間半の柱間に代虹梁を架け渡して解放とした
進歩的な空間が特徴的である。
金沢における曹洞宗本堂の発展過程を示す遺構として貴重である。


  境内保存樹 モミ
常緑針葉樹で、初夏に花が咲く。
樹皮は、灰褐色で葉の先が鋭くとがっている。
庭園・自然公園などに景観樹として多く植えられている樹木である。

左樹木  樹高25m 幹周3.1m 枝巾9
右樹木  樹高25m  幹周2.81m 枝巾9m
                                       案内説明より

乗圓寺

寺標

山門 棟門

本堂

浄土真宗大谷派 常福寺

真行寺

山門 柱門

本堂

本堂廻廊と向拝柱

本堂屋根木組み

向拝階段

鐘楼

梵鐘

北方心泉の寺

常福寺は慶長十二年(1607)釈祐念が開いた寺で、心泉は常福寺十四世の住職である。
東本願寺の命により明治十年(1877)中国に渡り布教のかたわら
詩・書の研鑽に務め、六朝風の新書風を伝え、
明治書壇に革新の機を促した最初の人である。
明治三十八年(1905)七月入滅

山門 薬医門

本堂

幼児園も副業として経営

瑞光寺

本堂 円通閣

円通閣扁額

地蔵菩薩堂

浄土真宗大谷派 西光寺

西光寺門前

山門 薬医門

本堂

寺号扁額 現代風に右書き

鐘楼

梵鐘

浄土真宗大谷派 従是山西方寺

山門 薬医門

本堂

庫裡

浄土真宗大谷派 金城東山専修寺

善行寺

専修寺

山門 薬医門

本堂

寺号扁額

鐘楼

庫裡

  乗圓寺
普照山と号し、真宗大谷派に属するが、はじめは天台宗普照寺と称した。
文明年間(1469~1486)頃、住職・善永(江沼郡福田生まれ)は越前国吉崎に在った蓮如上人をいくたびも訪ね、
その教化を受けた。
長亨一揆などを経た後、延徳元年(1489)秋、一念発起して真宗に転じ、乗圓寺と改称した。
二代・永乗は越前国の永正一揆、四代・恵秀は大坂石山合戦に参加、戦功著しく、
後日、本願寺より四藤紋など幾多の恩賞を拝領している。

天正十二年(1584)、材木町へ移り、万治二年(1659)に小立野へ転居した。
元禄十年(1697)、本堂を再建したが、享和二年(1802)本堂より出火し、焼失した。
明治四十二年(1909)金沢大学医学部付属病院拡張の為寺地を摂取されたが、大正元年(1912)現在地に移り、本堂を建立した。


   真行寺
法隆山と号し、曹洞宗の寺院である。
寛永八年(1631)、本多家家老・篠井雅楽助は、豊臣方の武将・木村重成の娘(真行寺開基州岩太益和尚)が、
重成の菩提を弔うため、現本多町に庵を開き、当時、大乗寺十五世・謙室呑益大和尚に拝請し、開山第一世とし、
加賀藩三代藩主・前田利常より、金沢百姓町(現・幸町)に御用地を拝領し、浄財を投じて一宇を建立した。

万治二年(1659)、現在地石引(旧二十人町)に替地し、法隆山真行寺として現在に至る。
寺宝に、前田家武人画家・矢田四如軒筆の絵画、六地蔵尊画像中軸(二幅)を所蔵する。
また、厄除け地蔵尊ならびに地域各所の地蔵尊を地蔵堂に安置し、毎年八月二十二日に大祭を行っている。


  瑞光寺
江西山と号し、臨済宗妙心寺派の寺院である。
開山は、愚渓和尚、開基壇越は才道二、伊藤外記である。
寛永九年(1632)、藩士・本多安房守が加賀藩三代藩主・前田利常に請い、寺地を新竪町に得て建立したが、
慶安三年(1650)、水害に遭い、替地を現在地に拝領し再建した。

当寺の寺宝である木彫聖観音立像は、国運寺の観音だったと云われ、霊仏と称されている。
国運寺とは、瑞光寺の本寺にあたり、卯辰山感応寺の南谷に在ったが、無住職となったため瑞光寺に合併されたものである。
この観世院菩薩立像は、高さ九十七センチ余あり、自覚大師の作と伝えられている。
この仏像は尾張国(愛知県)の海中より出現したものと云われている。
第三番の観音霊場札所でもある。


  西光寺
金沢西光寺は越前国石田の西光寺に嫁した蓮如上人の妹・栃川尼公が、文明八年(1476)栃川尼の三男・蓮実と共に、
石川郡諸江に来たり、そこで一宇を建立したのが起こりである。
反古裏書に「是も西光寺と申しけり、近くは加州に室江(諸江)と云うところに一宇をつくりたまう」と記されている。

一時期・河北郡中条村に移住したことがあり、現在の地に西光寺が創設されたのは、天正八年(1580)息源坊の時である。
慶長十年(1605)玄誓坊のときに教如上人(東本願寺初代)の寿像を受けて現在に至っている。


  専修寺
金城東山と号し、真宗大谷派の寺院である。
正徳五年(1715)、開基啓円によって能登国羽咋郡米出村に専修坊と号して、一寺を建立したことが寺の起こりである。
明治十二年(1879)、当地に移転した時に、専修寺と名付けられた。

                                         案内説明より
  

善徳寺

惣墓

無縁墓石の集合墓

山門 薬医門

本堂

本堂 山号扁額

向拝階段と廻廊

鐘楼

梵鐘

本堂大棟旧鬼瓦

真宗大谷派 今浜山即明寺

曹洞宗 竜峰山端雲寺

山門 棟門

山門寺標札

本堂

保存樹 アカマツ 金沢市

自然状態で保存されており、
市街地の貴重な緑である。

樹高 20m
幹周 2.21m
枝幅 15m

本堂 切妻妻入り

妻入り唐破風向拝

保存樹 赤松

山門 棟門

山門寺標札

  善徳寺
城端山と号し、真宗大谷派の寺院である。
開山は、慶長十九年(1614)越中国・城端の善徳寺の主顕勝が金沢材木町に掛所を建立したことが当寺の起こりである。
この掛所では、本寺から百日輪番の役僧を派遣して公用を勤めてきたが、
これは加賀、越中、能登三国において当寺に限られたものである。

万治元年(1658)加賀藩三代藩主・前田利常より、現在地にて三百三十三坪を賜り移転し、
町名も城端町と改められた。
享保十六年(1732)、本堂、庫裡が焼失、翌年の享保十七年に再建した。
後年、嘉永三年(1850)、十四代藩主・前田斉泰によって客殿を寄進された。

明治維新後、法務のみの道場となった。
明治十二年(1879)、維新後のの宗門制度の改革により、善徳寺掛所を改めて善徳寺支坊となった。
明治十七年(1884)四月、城端別院金沢支院となる。
大正十二年(1923)の出火により、御先師御影および御代々御影などを安置する諸尊を除いてすべて焼失した。
その後、昭和十二年(1937)再建された。

昭和二十八年(1953)、宗教法人法の施行により善徳寺支院と改名された。
更に寺門の永久なる隆昌を念願して、平成六年八月二十三日、本院(城端善徳寺)から独立して
真宗大谷派善徳寺となり今日に至っている。
本堂内陣前の欄干は、鶴来町出身の山本力吉の作である。


  善徳寺本堂大棟の鬼瓦
この鬼瓦は、昭和四年(1929)能美郡辰口来丸の瓦職人の先駆者であった細工人・山田答笑(久七)が、
小松若杉の吉田瓦製作所にてこの瓦を製作した。
なお、本堂瓦葺替えの施行人は、野々市柳町の高田伊太郎で、瓦は同じく小松若杉の山キ製作工場で造られた。

平成二十一年、本堂須弥壇裏雨漏りが発端でその箇所を精査すべく、同年八月二十五日最初の調査に入り、
四隅の桔木はじめ屋根を支える主要部分が腐蝕、朽ち果てていることを確認された。
爾来、二回に亘って調査した結果大々的な修復工事に着手した。
昭和二十二年十二月三十日、本堂屋根瓦葺き替え工事が完工し、その記念として旧鬼瓦を当寺境内に据付けたものである。


  即明寺
今浜山と号し、真宗大谷派の寺院である。
文禄二年(1593)、開祖善龍法師が能登国羽咋郡小川村に一寺を創建したことが当寺の起こりである。
明治元年(1868)十二月、金沢荒町へ移転したが、明治十三年には金沢彦三・七番丁二十番地ノ一へ移転した。
昭和二年(1927)四月の彦三の大火で全焼した。
昭和四年(1929)十月、金沢市三所町四番地の一へ移転した。
現在地は、金沢市石引一丁目五番十号である。

現在地の建物は、武家造りで座敷御堂として本尊ならびに什宝物などを安置している。
什宝物には、本尊三方正面阿弥陀如来(作者不詳)、祖師御真影、聖徳太子御真影、蓮師御真影、七高祖御真影、
女人済度六字名号、十字名号、御絵伝(祖師絵物語)などがある。


  端雲寺
龍峰山と号し、曹洞宗の寺院である。
寛政六年(1465)州山が越前国府中(福井県越前市武生)にて創建した。
天正十八年(1590)三代蘭室が金沢に来た際、加賀藩初代藩主・前田利家の家臣で寺西宗与が開基となって木ノ新保に建立した。
寺内にはソ連抑留者供養の為、ダモイ観音が安置され法要が行われている。

                                                 案内説明より

  高源院
福母山と号し、曹洞宗の寺院である。
開山の春尭和尚は、加賀藩初代藩主・前田利家の息女・副姫の縁類として取り立てられてことから、その恩に謝するため、
寛永十八年(1641)、大豆田に建立し、副姫の戒名より高源院と称した。
しかし、万治二年(1659)、寺領を召し上げられ、替え地を与えられなかったので、現在地を請地して寺を建立した。

また、金沢西国二十九番の霊所でもあり、毎年七月一日には早朝より「一ツ灸」が施行される寺としても知られている。
この一ツ灸は富山県氷見市鞍川の東泉寺の開山・一如禅師が宝永元年(1704)、灸点を施すようになったことをきっかけとし、
東泉寺十七世・菊地徹参和尚がその秘伝の術をこの地に伝えたとされている。


 棟岳寺 (馬坂地蔵尊 馬坂不動尊)
宝林山と号し、曹洞宗の寺院である。
開山は活通院禅師・大空玄暁大和尚である。
妙応元年(1492)越前国南条郡の領主・赤座長秋が、父・赤座但馬守景秋と母の供養のため菩提寺として建立した。
両親の戒名から二字をいただき、棟岳寺と名付け「孝養の寺」とし、慈父母観世音菩薩を祀った。

後に、赤座備後守吉家(直保)が加賀藩二代藩主・前田利長の招きにより加賀の地に移り住んだ。
備後守死後前田家家臣となり、慶安二年(1649)三代藩主・前田利常より寺領を拝領し、現在に至る。

当寺には日本最初の蘭学医(オランダ医学)の先駆者・吉田長淑の墓があり、前田家の御典医・江間家の菩提寺でもある。
水戸天狗党(武田耕雲斎の率いる約千名)を弔う水府義勇隊と、赤座(永原)甚七郎の墓所は、幕末の物語を秘めている。
当寺は金沢三十三ヶ所の第四番目の霊場であり、慈父母観音、子安地蔵尊、延命六地蔵尊を祀る。


  鶴林寺
雲松山と号し、曹洞宗の寺院である。
開山は延元年間(1336~1340)、大乗寺三代明峰和尚の弟子・大智が唐より帰朝して、
石川郡吉野谷村に建立した祇陀寺と伝えられている。
後年、祇陀寺が荒廃したので、越中守山(富山県高岡市)に再興したが、
慶長年間(1596~1615)、守悦長老の時に金沢八坂に移し、明峰派を天真派に改めて大安寺と号した。

その後、二代融室の遷化の際、寺号を祇陀寺に復すべきことを遺言したので、後の住職がその仔細を僧録に披露したが、
天真派からの抗議があったため、加賀藩三代藩主・前田利常の裁断によって、
両派両寺号を廃し、鶴林寺と称して太源派の玉龍寺に属するようになった。

当寺は文政年間(1818~1830)十四代曖源の時、前田家の祈願寺となり、毎年米百石、金三十両を寄進された。
寺宝には、板絵彩色鷹図、絹本大智禅師自画像軸などがある。
また、当寺には、利常寄贈の釈迦尊像と、城内女性から贈られた一メートル近い子安地蔵尊坐像がある。
安産祈願者がよく訪れる寺でもある。


  等願寺
龍林山と号し、真宗大谷派の寺院である。
慶長七年(1602)津幡弘願寺の隠居・遊林院の子、等覚坊龍念が森下町において創建した。
弘願寺の「願」の字を賜り、寺号を「等願寺」とした。

万治二年(1659)付近一帯が大火で全焼したため、加賀藩三代藩主・前田利常により、その跡地が御領地として召し上げられ、
代替地として現在地を拝領、移転した。
享保十六年(1731)小立野の大火の際に再び類焼したが、石垣と本堂内陣は火災を免れ、当時のまま現在に至っている。
現在本堂の外陣は、大正六年(1917)の再建によるものである。

                                           案内説明より

札所木札

本堂

高源院

山門 柱門

本堂

梵鐘

高源院 (馬坂霊水不動尊  馬坂延命地蔵尊)

馬坂延命地蔵堂

馬坂不動堂

扁額 不動明王

霊水不動明王像

不動明王像

鶴林寺

山門 薬医門

本堂

地蔵堂

子安(子育)地蔵半跏像

棟岳寺

 

永原甚七郎の墓と右水府義勇塚

棟岳寺寺標

本堂

札所木札

地蔵堂

子安地蔵尊像

延命六地蔵尊

等願寺

山門 薬医門

本堂

庫裡

鐘楼

梵鐘

住所表示

波着寺

本堂および庫裡

地蔵堂

宝篋印塔 大きいです

浄土真宗大谷派発句寺

本堂

発句寺運営施設

聞敬寺

山門 薬医門

本堂

鐘楼

山門寺号木板 

保存樹木 クロマツ

樹高 18m 幹周 2.9m 枝幅 16m
小立野において貴重な緑である。
本堂に寄り添った姿は
ほのぼのとした暖かさが感じられる

本行寺

本行寺保存樹林

本堂

山門 薬医門

  波着寺
泰澄山・白山または白流山と号し、と号し、真言宗の寺院である。
開山は、聖武天皇の御代の神亀(724~729)頃で、泰澄大師が越前国(福井県)足羽郡・一乗谷に創建したと伝えられ、
本尊十一面観世音菩薩は多くの信仰を集め、白山信仰の古刹として栄えたが、
後年兵火に遭い、廃寺となった。

鎌倉時代は、日本達磨宗のの最後の拠点となり、後に道元禅師に従い、
永平寺三世で後に大乗寺を建立した徹通義介は当寺で得度をされた。
また室町時代には、越前国領主・朝倉家の帰依をうけていた。

天正年間(1573~1792)中期、安養坊空照法印が越前足南郡波着寺にいたころに、
府中在城であった後の加賀藩初代藩主・前田利家の祈祷所であった。
このため利家の金沢城入城に際し、秘仏十一面観世音菩薩をはじめ、自由妙即理権現、その他の諸仏像と共に、
金沢に招かれ、今の兼六園の地に寺地を得たが、三代藩主前田利常の時、元和五年(1619)現在地に移転を命ぜられ、
一万坪の広大な寺地を拝領した。
門前町は大いに賑わい、山号をとり白山町の由来となった。

住職の空照は前田利家に命ぜられ、荒廃著しい白山比咩神社の再興にあたられ、後には石動山天平寺の貫主とした活躍された。
前田家歴代の祈祷所として栄え、代々能登国真言宗の触頭を命ぜられている。
明治以降、寺地は縮小し一堂を残すのみとなっているが、多くの歴史を秘めた寺である。

またこの寺には「お預け八幡」と称する八幡神社があり、境内に神殿をつくって御神体を祀ってあった。
この八幡神社は利家の時には金沢城本丸に安置してあったものだが、加賀藩二代藩主前田利長に時に落雷によって炎上し、
当寺に移されたものである。
明治二年(1869)神仏分離令によって、卯辰八幡宮へ合祀された。


  発句寺 真宗大谷派  


  聞敬寺
真宗大谷派の寺院である。
延宝五年(1677)現在の小立野一丁目付近に、聞敬坊として創建した。
文政四年(1821)、本願寺の指令で七ヶ町(湯桶新村、三口新村、上野新村、小立野新村、松下町、上田上村)の
惣道場として現在地に建てられ、明治十三年(1880)聞敬寺となった。

当寺の内陣の欄間は、宝相華花草文様の金塗り一色であり、二百年以前の寺院欄間様式になっている。
また、年に六回開かれている聞敬寺二十日講は、明治の直前に東本願寺が類焼した際、
再建のため全国に「相続講」を開設した時に、門主・厳如上人に願い出て戴いた御消息を中心にしてできたものと云われている。


  本行寺
久遠山と号し、日蓮宗の寺院である
元和二年(1617)京都寂光寺二代目住職・本因坊算砂 法号を本行院日海が創建した。
日海は日本で初めての祺聖本因坊であり、加賀藩三代藩主・前田利常を三年間指南し、
そのお礼に寺屋敷地所三千歩を賜り、本多安房守、横山山城守の庇護を受ける。
日海は創建後、弟子・本照坊日至に二代住職を託し、京都へ戻った。
後に三度の火災に遭い、明治三十六年(1903)再建された。 


  本行寺保存樹林 金沢市指定
樹冠面積千三百平方メートル、緑被率二十七パーセントの樹林である。
ケヤキ、エノキ、タブノキなどの高木十二本、ヤマモミジ、ツゲ、ツツジなどの低木六百六十本で構成されており、
その大部分は本堂後ろの小立野台の法面にまとまっている。
兼六園、本多の森とともに、潤いのある緑は見事で、保護と美観を兼ねた樹林である。

                                         案内説明より 

日蓮正宗 天司山妙喜寺

山門 棟門

寺号木札

唯念寺

山門 薬医門

本堂

鐘楼

圓證寺

山門 棟門

本堂

地蔵堂

真宗大谷派 武佐山廣濟寺

山門 薬医門

山・寺号標

境界石積土壁

本堂

本堂山号扁額

山門扉の德川家家紋

鐘楼

梵鐘

庫裡

  唯念寺
松岡山と号し真宗大谷派の寺院である。
慶長二年(1597)、寂善法師によって創建される。
はじめは小立野に在ったが、寛文元年(1661)現在地に移転した。
「嫁坂・唯念寺」と呼ばれ、本堂には創建当初からの聖徳太子の木像が安置されている。
本堂および内陣は他宗派の建て方になっており、途中で改宗したものと考えられている。
現在の本堂は、細部の様式から享保年間(1716~1736)に建てられたものと推定されている。


  圓證寺
戸室山と号し、真宗大谷派の寺院である。
永正元年(1504)、藤原重之が出家し、貞珊と名乗って一宇を建立し、圓證寺と称した。
藤原重之は戦いに負け、河北郡戸室新保村に隠れ住んでいたが、当寺の山号はその地名に由来するものである。

慶安三年(1650)九月、火災により、現在地に移転した。
貞享四年(1687)二月、木仏(阿弥陀如来)の許状が本山からおり、寺の創建となった。


   廣濟寺
武佐山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
文亀元年(1501)浄土真宗中興の祖・蓮如上人が北陸道の布教活動を進めるため、
加賀の布教拠点である御山(尾山)御坊の看坊(官房)に近江国武佐の廣濟寺十代住職・厳誓房の次男祐乗房を派遣した。
祐乗房は御山御坊近くに近江廣濟寺の別院を建立したと思われ、これが当寺の起こりであると思われる。

祐乗房、祐念房、祐盛房に至る三代は加賀浄土真宗の隆盛期であった。
しかし、天正に至りて、天下布武を推し進める織田信長は、それに反発する宗教と敵対することとなった。
浄土真宗も石山御坊(大坂本願寺)を中心にその渦中に入り、十年の長きに渡り信長との抗争をくりひろげ、
加賀の真宗門徒も地侍を含む農民一揆の様相で、信長北陸道司令官柴田権六勝家の軍団と対決した。

天正八年(1580)大坂本願寺が信長に敗北すると時を同じく御山御坊も陥落した。
その約二年後、本能寺の変で信長が自害すると、信長と宗教観を異にする権力者に取り込まれ、
前田利家が金沢に入城すると、、城下町の整備、構築のため、寺院の復興も試みられた。
浄土真宗の拠点であった御山御坊も京都本願寺が整えられると、加賀藩三代前田利常より寺領を拝領し、
それぞれの本願寺別院として今に至っている。

御山御坊と運命を共にした廣濟寺(近江廣濟寺別院)はその後、前田家により寺領を与えられ現在に至っている。
諸堂に掲げられている德川家家紋(水戸德川家)は北近江浅井家の浅井久政の子(長政の兄弟)である
浅井綱政(岡崎安休房西周)の縁で賜わったものだという。

久政の側室であった安休の母は安休を宿したまま、戦国の世を遁れ本願寺にて仏門に入った。
時同じくした本願寺證如上人の子本願寺光佐(顕如上人)が生まれたのでその乳母となり、
程なく生まれた安休と乳兄弟として育てられた。

時して、母は後継ぎのなかった近江廣濟寺に嫁ぐことになり連れ子の安休が廣濟寺の住職継ぐこととなった。
安休は顕如をよく助け、その後の権力者とよく渡り合い、德川家康との面識も得て活躍した。
江戸幕府二代将軍秀忠の正室・江は、安休と叔父・姪の関係にあり、三代徳川家光の大叔父であることも、
関係を密にしたものと思われる。
安休の娘は家康の命をうけその九男德川頼房(水戸德川家初代)の傍に仕えて以来、水戸家との関係をもった。
この事などにより、廣濟寺は徳川家紋を許され、子孫は岡崎姓を賜り名乗るようになったと云われている。

                                         案内説明より

真言宗国分寺派 眞光院

眞光院

柱門 

柿木町 金沢市扇町付近の旧町名

曹洞宗 護国山寶圓寺

前田吉徳公夫人 光現院墓所

数寄屋茶室 対青軒

茶室への道 右側の建物は庫裡

地蔵堂

歴代住職の墓

地蔵堂 福徳地蔵菩薩

俵屋宗達の墓と云われている

十一代藩主・前田治脩生母夏子の墓

本堂裏に墓地がある

墓地の一角は急な法面である

本堂大棟の鬼瓦

前田家墓所

前田家墓所

前田家家臣・寺西家墓所?

前田家墓所

園田 夏子・・・前田治脩の生母
武村 伊尾子・・・前田利命の生母
菅原朝臣 ○○之墓
前田 亀次郎之墓
前田 傳子之墓
前田 簡之欠之墓

名前のなんとなくわかる墓標です

観世音菩薩石標

観音菩薩像

本堂扁額

前田家家紋

寶圓寺の石標

烏枢沙摩明王堂

寶圓寺参道

山門 薬医門

本堂

  真言宗国分寺派 眞光院
眞光院界隈は、柿木町と呼ばれていた。
加賀藩三代藩主・前田利常のとき、火除け地として城下の各地に柿木畠が設けられた。
歌人の柿本人麻呂をもじり、柿の木のもとでは火が止まるに因んだと云われている。
(柿の元火止まる)
この地にも柿が植えられたが、後に町立てされた時、柿木町と名付けられた。


  寶圓寺
護国山と称し、曹洞宗の寺院である。
加賀藩前田家初代藩主・前田利家が建立した曹洞宗の寺院で、
加賀藩主一族の位牌が安置された前田家の菩提寺である。
前田利家は越前国府中(越前市武生)に在城の時、高瀬村(越前市高瀬)の寶圓寺住職・大透圭徐禅師に帰依したため、
寶圓寺もその後の在城地である能登七尾、加賀金沢と建立し、大透圭徐禅師を開山とした。

金沢寶圓寺墓所内には、利家の自画像と髪を納めた御影堂と御髪堂があるが、
これらは利家が病をおして決死の覚悟で德川家康との伏見城の会議にに向かう折に、住職に託した品である。
利家はその会談より約二ヶ月後した没した。
加賀藩前田家五代藩主・綱紀の時代には仏閣僧坊が大改修され、小立野台に広がる大伽藍は荘厳を極めた。
また墓地には、江戸時代初期の画聖・俵屋宗達の墓もある。


  御影堂と御髪堂
慶長四年(1599)二月、前田利家が德川家康を伏見邸に訪問の際、自像を描き髪を切り、
象山除芸和尚をして土中深く埋めさせたところだと云われている。


  俵屋宗達の墓と碑文
大正二年寶圓寺墓地の一角より倒壊した巨大な五輪塔が発見されました。
それには「泰嶺院宗眞劉建居士」の法号と 寛永癸未年(寛永二十一年 1644)八月十二日と刻まれていた。
寶圓寺の過去帳における画かき「田原屋」の条と合致した。
当寺の絶大なる庇護者であった前田利常公と宗達が帰依した当山五世・泰山和尚、俵屋金沢工房の人たちによって建立されたものであろうと思われる。
翌大正三年八月、宗達会が発足し以来毎年法要、茶会、展観会などを開催し、この偉大な芸術家を顕彰している。
この度長年の風雪により墓銘の風化損傷著しく、ここに改めて別碑に刻し後世に遺すものとした。
平成十八年九月  宗達会


  寶圓寺 寺叢・保存樹林  金沢市
アカマツ、ケヤキ、タブノキその他
面積約二千平方メートルのこの樹林は茶会開催される庭園の借景となっており、小立野台地に残る貴重な緑である。

                                          案内説明より

御影堂と御髪堂

猿丸神社

小立野神社

猿丸神社

石段参道

鳥居扁額

社号標

奉納燈籠と社殿

本殿

拝殿

猿丸古祠石碑

境内社樹叢

猿丸稲荷

鳥居扁額

  猿丸神社
金沢市で最古の神社の一つであり、参道には天保十四年(1843)に造られたと伝えられる石灯籠一対がある。
拝殿は、文久二年(1862)六月に再建されたもので、、本殿は明治十八年(1885)十月に再建されたものである。
猿丸神社創祀の由来は、平安時代初期に「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聴く時ぞ秋は悲しき」と詠んだ著名な歌人で、
三十六歌仙の一人であります猿丸太夫が住んだ旧跡だと伝えられている。

猿丸太夫が当地に逗留していたことは、「猿丸宮集」の序に「猿丸太夫の舊房の跡あり、然はふりたるやしろあり、
名は猿丸の宮と言へり」とあることからそのことが知られます。
鎮座する笠舞の地名も、猿丸太夫がかぶっていた笠が風のため急に舞い上がったのを見て名付けられたと伝えられております。

本殿には十一面観音が安置され、毎年八月に観音講が行われている。
また、大小四体の石造りの猿像も安置されている。
祭神が歌人であることから、金沢の文人たちによって奉納献句した扁額が、現在数点残っている。
老杉に鉄釘を打ち込んで呪詛する忌の刻詣りの所として知られている。
境内には樹齢何百年というケヤキを中心としたやしろで、氏子の人たちに安らぎを与え、また当社の誇りにもなっています。

  猿丸神社保存樹林  金沢市
樹冠面積五百五十平方メートル、緑被率三十五パーセントのケヤキ、タブノキを中心とした樹林。
樹高二十五メートル、幹周五・八メートルに達するケヤキを含め大木十本の集団は他に例を見ない。
ケヤキ、タブノキ、イチョウなどの高木二十二本、ツバキ、カエデなどの低木四十一本で構成される。
参道左のヤマトアオダモは保存樹としても貴重である。

                                       案内説明より

椿原天満宮

手水舎と石段参道

拝殿

本殿

朱鳥居

稲荷社

菅原道真公石像

社務所

田井菅原神社

田井菅原神社

二之鳥居

手水舎

大黒社 祭神大国主命

社殿

松尾芭蕉 句碑

  椿原天満宮
菅原道真を祀り、永仁五年(1297)、京都北野天満宮より勧請した。
その後、前田家の祈祷所となり、金浦郷(犀川より浅野川に至る区域全部)の総社となって田井天満宮と称した。
寛永年間(1624~1644)「椿原山」と称した、現在地に移転した。

明治六年(1873)郷社となり社名を椿原神社と改称した。
明治十四年(1881)社格を県社に列せられ社名を椿山神社に改称した。
第二次世界大戦後、社名を椿原天満宮とした。
現在地は風光明媚にして神々の宮居たるにふさわしい御社である。


  田井菅原神社
当神社のご神体は、菅原道真公より直接賜った自画像であると伝えられている。
この自画像は、菅原道真公が九州大宰府(福岡県太宰府市)へ左遷される途中、河内国の道明寺(大阪府藤井市)の
伯母を訪ねた際、田邊左衛門に与えたもので、以来田邊家では家宝として守り伝えてきた。

後に、田邊喜兵衛の代に、加賀藩三代藩主・前田利常より十村村役(大庄屋)と代官を命ぜられ、
代々その職を継いだが、邸内に社を建て、菅原道真公の自画像を祀った。
明治期には田邊家の庭園内に神社が建てられ、明治十三年(1880)に、田井の生産神となった。
境内には、芭蕉の「風流のはじめ奥の田植歌」の句碑が建ち、金沢に十一ある芭蕉句碑の一つに数えられている。
また、朱鳥居は珍しい木製杉材の瓦葺で、福井県勝山市の平泉寺・白山神社の旧鳥居と同形である。

                                       案内説明より





小立野台地の坂道と下馬地蔵

嫁坂 小尻谷坂 新坂 大乗寺坂 天神坂 二十人坂 馬坂 白山坂 八坂 木曽坂 下馬地蔵

嫁坂  小尻谷坂  新坂  大乗寺坂  天神坂  二十人坂

嫁坂  坂上の棟岳寺から唯念寺に下る坂

小尻谷坂 小将町中学校から百万石通りに上がる坂 途中で階段坂(右)と本道(中)とに分かれる

新坂 棟岳寺近くにある坂  

大乗寺旧跡記念碑 碑文

この度大乗寺御開山徹通義介禅師七百回御遠忌のちなみ、その地の辺りと推定されるここに、
鶴賀良廣氏のご理解とご協力を得て、記念碑を建立するものである。
鶴賀良廣氏に深く感謝いたします。

なお、かねてより加賀藩前田家家老・本多安房守政重、伴八矢、中田氏らの帰依と後援を得ていたが、
元禄十年(1697)、現在地(金沢市長坂)の大乗寺の客殿が竣工し、遷仏式を挙げ、
二十八世明州珠心大和尚は、現大乗寺へ入ったと伝えられている。


  大乗寺坂
慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺大乗寺が坂下に在ったので、この名で呼ばれている。
旧大乗寺は後に金沢長坂に移転した。

                                       案内説明より

天神坂 金沢美術工芸大学より椿原天満宮に至る坂道

二十人坂

嫁坂

江戸時代初期に坂上に住んでいた
前田家家臣・篠原出羽守が
坂下に住する本庄主馬に娘を嫁がす時に
切り拓いた坂なのでこの名が付けられた。

          案内説明より

新坂

加賀藩前期、嫁坂の後にできた道なのでこの名がついた。
昔は小立野新坂、笠舞新坂とも言われていた。

大乗寺坂 県立工業高校から本多の森ホールに上る急で長い坂道

旧二十人町 石碑

旧二十人町

江戸時代加賀藩ではこの地に鉄砲足軽を
住まわせていたことから、小立野二十人町、
小立野足軽町、二十人町などと呼ばれていた。
明治四年(1871)に付近の町を加えて
二十人町になった。

             案内説明より

馬坂  白山坂  八坂  木曽坂  下馬地蔵

馬坂 日蓮正宗妙喜寺より高源院に向かう坂道 

馬坂より浅野川低地町並み

馬坂案内石碑

白山坂 笠舞町から波着寺に至る坂道

旧白山町の石碑

旧白山町

藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、
波着寺の山号が白山であるところから、
明治四年(1871)この名に改められた。

              案内説明より

八坂 兼六園上百万石通りから松山寺にいたる坂道

木曽坂 寶圓寺西法面下の道(北陸学院高校の後)から寶圓寺裏参道に通じる坂道

信濃国木曽の山中のような幽邃な坂道なのでこの名がついた。
また坂の一部は坂上に在る寶圓寺の裏門に通じる坂なので、
裏門坂とも呼ばれていた。

                               案内説明より

永福寺よりの坂道 この坂上も寶圓寺の裏門に通じているので木曽坂の一部である。
寶圓寺裏参道入り口が峠に位置しているのかもしれない
天徳院下馬地蔵堂

文禄元年(1592)前田利家公が尾山城築城の巨石を戸室山より牽き出し、小立野台は往反激しく現在の石引町が形成された。
この頃住民の手により、一宇の地蔵堂が成り、尾山城築城のため、平安無事を祈りました。

元和九年(1623)、加賀藩主三代・前田利常公は、正室である珠姫(天徳院)菩提のために四万坪(132000㎡)の地を荘して
大禅寺を建立、天徳院と号して菩提所とした。
先の地蔵堂の箇所を天徳院の下馬として鎮守祠を設け、白山権現を併祀し、腰掛け所を作って、諸人往来参詣の便に資した。
世の人、「下馬先」と呼んだ。

四百年前、地方住民の鎮守として起こり、信仰篤く、祭祀は盛大に続けられ 、除災招福の霊験も著しく、商業繁昌、
大盗厄除を念じて、往反の人々の尊信最も堅く、天徳院の鎮守というより、小立野在住の人士の信仰と祭祀りの中心である。
この鎮守の祭祀を「下馬の祭り」と称し、毎年の例祭には奉納踊りをこの下馬先に立て、甚だ繁昌した。
「下馬の踊りにおどらぬは、臼の目立てか、番太郎か」と謂われた程、市中に有名となった。
今も下馬地蔵尊の祀りは盛んに行われ、地域の信仰の的となっており、人々の心の安らぎを永く守り続けているのです。

                                        案内説明より 

地蔵菩薩尊石像

テルメ金沢へ

テルメ金沢へ

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円長寺

月心寺  常福寺

小坂神社

  小坂神社
創立は神社縁起によると養老元年(717)四月とされている。
中世(平安時代末期~室町末期頃)になってたびたび兵火を受け、文明・長享の一揆(加賀一向宗一揆)では
社殿、縁起、記録などを焼失したが、寛永十三年(1636)、加賀藩三代藩主・前田利常の命により現在地にて再興した。
以来、金沢北郊鎮護の大社として藩主・前田家はもとより、衆庶の尊信をあつめていた。

宇多須神社・神明宮・椿原天満宮・安江八幡宮と共に、金沢五社の一つに定められ、藩主自ら参拝を奨励し、
五社を祈願し、めぐれば開運招福を成就されると云われた。
御祭神は、経津主神・天児屋根命・比咩大神・武甕槌命・饒速月命の五柱である。

また、小坂庄の総社として延期式内加賀十三庄の中の一社でもあり、この地方一帯が奈良の春日社の社領であったことから
春日神も祀られ、古来より人々から「春日さん」と呼ばれ、親しまれている。
金沢をはじめとする加賀地方は、神仏混淆が甚だしく、その多くは社僧、山伏などの依って奉仕されていた。
しかし、小坂神社は金沢の北方に在ったが、純然たる神主の奉仕社として金沢五社に列し、重きをなしたのである。

また、境内社として富士社・菅原社・稲荷社・鳴瀧社が鎮座している。
このうち富士社は衆庶の崇敬厚く、脚の病に霊験ありと信じられてきた。
また、鳴滝社は清滝権現と云われ、享保十三年(1728)の縁起には、源義経が奥州平泉に向う途中、
ここで武蔵坊弁慶が「鳴る滝の水」の舞曲を奏したと伝えられている。

本殿は寛永十三年(1636)の建立と云われている。
木木に囲まれた長い階段の中腹には、松尾芭蕉の「此の山の神にしあれば鹿に月」の句碑が建っている。
金沢の俳人で芭蕉の門人・立花北枝は芭蕉に同行し、「此神の山なればこそ花に鹿」と詠んでいる。


  小坂神社保存樹林  金沢市
樹冠面積一万六千平方メートル、緑被率八十パーセントの稀有なる大樹林である。
主な樹種には、タブノキ、スギ、モミ、コナラ、カエデ、ヒサカキなどがあり、その数、高低木あわせて約八千本を数える。
四季折々の風情を楽しませてくれる樹林は、卯辰山の緑と共に城下町金沢の名残をとどめている。

                                  案内説明より

芭蕉 当社巡錫の地の石碑

大藩の風雅継ぐ街緑濃し  
塩田薮柑子

志良梅乃一ひらにある陽のめぐ美 
塩田紅果

境内社 稲荷社

境内社 天神(菅原)社

境内社 手水舎

春日社狛犬

春日社狛犬

逆立ち吽形狛犬

阿形狛犬

本殿と両脇に境内社

社務所

拝殿

手水舎

小坂神社参道常夜灯

一之鳥居

二之鳥居と奉納灯籠

三ノ鳥居

  円長寺
藤嶋山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
開山は、越前国藤島村(福井県福井市藤島)超願寺の僧・道清によるもので、天正十四年(1586)、
大鋸屋町に創建したことが当寺の起こりである。
その後、慶長元年(1596)、当地において建立された。

由来によれば、加賀藩三代藩主・前田利常が卯辰山周辺に鷹狩りを行った際、
たびたび小休憩所としてこの寺を利用したと伝えられている。
その縁により利常公没後、利常の位牌を守り、現在も安置されている。
そのため剣梅鉢の袈裟使用などが許されている。
六角造りの一切経蔵は、慶応元年(1865)閏五月、御輪堂として建立され、現在も一切経が大切に保存されている。


  月心寺
光巌山と号し、曹洞宗の寺院である。
開山は、慶安三年(1650)、寶圓寺七代目住職・傑外雲英和尚が、卯辰山下に創立し、二世龍澤和尚をもって寺主とした。
明暦元年(1655)、元如来寺町に移り、万治元年(1658)、さらに油木山蓮昌寺あとの現在地に移った。
茶道裏千家の祖・仙叟宗室の墓や歌碑がある寺として知られている。

茶室・直心庵は天保年間(1830~1844)の頃の一井庵の古材が使用されており、仙叟の命日である二十三日には、
追善茶会が催されている。
仙叟宗室居士、大樋長左衛門代々の墓などがある。


  常福寺
久栄山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、妙成寺誌によれば、正保四年(1647)日條上人高道町にて建立と記されている。
はじめ卯辰山に在ったが、明治元年(1868)三月五日、焼失したため、長久寺の客殿を移し、
明治二年(1869)現在地で再建された。
境内は約二百坪で、本堂、庫裡、山門などがある。

                                          案内説明より
その他の卯辰山寺院へ

月心寺の墓地

常福寺山門 薬医門

常福寺本堂





その他の卯辰山寺院

光覚寺 三宝寺 乗光寺 浄教寺 心蓮社 真成寺 西養寺 誓願寺 善導寺 長久寺

本蔵寺 本法寺 妙応寺 妙圓寺 龍国寺 蓮華寺 蓮覚寺 圓融寺 實相寺

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光覚寺

鐘楼

梵鐘

本堂大棟鬼瓦

山門 薬医門

本堂

庫裡

本堂前の釈迦如来坐像

三宝寺

参道 真成寺横を上がる

寺標石柱

山門 棟門

本堂 唐破風向拝

本堂扁額 清嘯館

庫裡

乗光寺

山門 棟門

本堂

庫裡

境内の老樹

浄教寺

山門 薬医門

寺標

本堂

庫裡

大旦那?の墓所

境内の墓地

心蓮社

慈母観世音菩薩立像

今村青魚句碑

山に雪来て落ちつける町に住む

大正元年金沢に生まれる
昭和六年小松月尚に師事する
昭和九年「あらうみ」創刊に参画
「ホトトギス」同人
「あらうみ」会代表

境内墓地

地蔵菩薩堂

梵鐘

山門 薬医門

裏門 棟門 光覚寺境内より

本堂

庫裡

多宝塔

鐘楼

句石碑

  光覚寺
雄徳山 又は永国山と号し、浄土宗西山禅林寺派の寺院である。
開山は、加賀藩初代藩主・前田利家の金沢入城に際し、天正十三年(1585)、善等が越前国府中(福井県越前市武生)より呼ばれ、
城内の新丸の内に寺を建立したことが当寺の起こりである。
二代藩主・前田利長の代に、塩屋町に移り、寛永十二年(1635)現在地に移転した。

本尊阿弥陀如来立像は、俊寛僧都(平安末期の僧で鹿ケ谷事件により鬼界ヶ島に流罪)の守り本尊と伝えられる。
寺中には受教院、心教院があり、延宝年の町絵図によれば、屋敷地は、幅二十七間、奥行二十間あったと記されているが、
天明年間(1781~1789)に退転したと云われている。
しかし、今も敷地に山腹を取り入れた清閑な佇まいを守っている。

本堂の永国山の扁額は、後西院天皇の十一皇女宝鏡宮(本覚院宮)の御筆である。
医師であり、明倫堂訓導の田中躬之・猛之、加賀藩に製茶を普及させた近藤一歩、鋳物業の武村弥吉などの墓がある。
また、当寺は「飴買い幽霊」伝説の寺としても知られている。


  三宝寺
弘法山と号し、日蓮宗の寺院である。
寛永二十年(1643)、能登滝谷(石川県羽咋市)妙成寺十七世・日伝上人が小松に建立した。
そこでは加賀藩三代藩主・前田利常の生母・寿福院の位牌所にもなっていた。

後に、寛文十一年(1671)金沢に移転した。
寺内には、秋山神を安置するが、この仏を参ると痔疾に効験があると云われており、御利益を願って参詣する人も多い。
寺宝には、不動明王・愛染明王(絹本)・妙見尊の画像がある。


  乗光寺
横根山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
開山は、天和元年(1681)、越中国小矢部八和町の乗光寺十五代・円春が岩根馬場に建立し、旅屋と称した。
天明三年(1783)現在地に移り、現在の寺号を称した。
本尊は、安阿弥の手によると云われる一尺二寸の阿弥陀仏である。
寺宝には、宗祖(親鸞上人)大師真影一幅、琢如法主画像一幅などがある。


  浄教寺
幽谷山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
明治二年(1869)十二月に寺号の公称が許された。
境内は約五百坪で、本堂、庫裡、山門などがある。

毎年四月二十四日、二十五日には蓮如忌があり、その折には、蓮如画が飾られる。
加賀友禅作家の談議所栄二の墓などがある。


  心蓮社
金池山と号し、浄土宗の寺院である。
開山は、慶長十七年(1612)、京都大本山清浄華院(京都上京区)法主・休誉が創建した。
当初は塩屋町に在ったが、寛永十四年(1627)、現在地に加賀藩三代藩主・前田利常から千七百八十歩が下賜され、移転した。
なお、休誉は上杉謙信の七尾城攻略の際、一族のほとんどが殺された長氏の生き残りと云われている。

平安時代末期頃のものとされる寺宝・絹本着色阿弥陀三尊来迎図(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)は、
国の重要文化財に指定されている。
これは俗称「開眼きの阿弥陀」といわれ、源満仲(清和天皇曾孫、別名多田満仲 タダノマンジュウ)の妻が、
満仲に殺されたと思っていた息子が身代わりの死により生きていたことを知り、
感謝供養をしたところ悲しみで失っていた視力を回復したとの伝説をもつものである。

境内には芭蕉十哲の一人・立花北枝や俳人・高桑蘭更、
化政年間において藩政改革の先駆者であった寺島蔵人の墓などがある。
庭園は、金沢市の名勝に指定されており、めでた造りといわれる小堀遠州流庭園である。


  心蓮社保存樹林 金沢市
自然木で生育が最北限といわれているツクバネガシをはじめ、タブノキ、ケヤキなどの高木十六本、
ツバキ、ヒサカキなどの低木四百四十二本で構成されている。
樹冠面積千五十平方メートル、緑被率四十五パーセントの樹林である。
年輪を重ねた庭の樹々と池が見事に調和し、「めでた造り」で知られる築山池泉式庭園は、
遠い江戸期の物語を今に語り継いでいる。

                                            案内説明より

真成寺

山門 薬医門

山門 寺号木札

本堂

墓所玉垣 六代目中村歌右衛門

玉垣 松竹(株) 歌舞伎座

初代 中村歌右衛門の墓

西養寺

山門 薬医門

本堂

庫裡

護摩堂 観世音菩薩堂 歓喜天堂 金沢三十三観音第十九番札所

鐘楼

観音堂 龍神堂

子安観音像

宝篋印塔 4mを超える

地蔵堂

境内巨木

誓願寺

山門 薬医門

本堂

地蔵堂 延命地蔵尊

善導寺

無縫塔墓石の墓所

地蔵堂 子安地蔵尊

子安地蔵尊石像

山門 薬医門

本堂

南無阿弥陀仏 蟹の供養石碑?

長久寺

妙見宮社標

山門 薬医門

左側仏堂と 右側妙見宮

本蔵寺

山門 薬医門

本殿改築中・修復中

本法寺

山門 薬医門

山門 寺号木札

本堂 左側庫裡

妙応寺

山門 薬医門

本堂

本堂向拝扁額

庫裡

寺号石標

  真成寺
妙運山と号し、日蓮宗の寺院である。
正保四年(1647)、妙成寺十五世・日條上人を開山とする。
はじめは能美郡小松(石川県小松市)に建立された。
当山の鬼子母神は、昔小松城主であった丹羽長重が尊宗して城中に安置されていたものである。

加賀藩三代藩主・前田利常が深く信仰し、伯父である日條上人に託して、当山の建立となった。
利常が逝去されてから、万治二年(1659)、金沢の小川町に移り、寛文十一年(1671)現在地に寺を建てた。
寺所有の産育信仰資料九百六十六点は、重要有形民俗文化財に指定されている。

境内には、初代中村歌右衛門の墓、加賀蒔絵の祖・五十嵐道甫の石碑、人形供養塔などが建っている。
また泉鏡花の「鶯華径」の舞台でもあり、「鬼子母神様は母様が御信仰なすった、
そうしてあの仏様は小児を守って下さるんだって、いつでもおっしゃつたから、始終遊ぶのに来て居た処で・・・・」と、
鬼子母神のことが記述されている。
歌舞伎俳優で初代加賀屋で有名な中村歌右衛門の墓がある。


  初代中村歌右衛門の墓
家号を「加賀屋」で、金沢の医者・大関俊安の子である。
幼き頃より放縦で、東西に流寓の後、中村源左衛門の門に入りて俳優となり、実悪をもって古今無類と稱せられ、
寛政三年十月七十四歳で大坂にて歿した。
文政六年、実子三代歌右衛門が中村歌之介と謀って追悼のためにこの墓を建てた。


  西養寺
越前国府中(福井県越前市武生)清澄山と号し、天台宗の寺院である。
もと天台宗真盛派五ヶ寺の一つで、開山は盛学である。
七代目住職・真運の時に、府中に在城していた後の加賀藩初代藩主・前田利家は、当寺へ参詣し帰依した。
二代藩主・前田利長もまた度々参詣し、真運への信望が厚かった。
そのため、利長が越中国の守山(富山県高岡市)・富山・高岡と移住した際には、随従し移転、親しく奉仕したのである。

利長の時代の慶長七年(1602)、金沢市八坂町に寺を建立したが、慶長十七年(1612)、眺望絶景の現在地に移転し、
本堂・聖天堂(歓喜天)・観音堂・護摩堂・稲荷堂・鐘楼・地蔵堂等の諸堂を建立した。
八代快恵の時、真盛派を離れ、延暦寺派となる。

加賀藩より十五ヶ条の制書を附与せられ、加賀・越中・能登の天台宗寺院の触頭に任ぜられた。
当寺には、俳人・宮竹屋小春、刺客・斉藤金兵衛先祖代々、紀行「能登日記」の作家・田辺政巳、
加賀藩農政学者高澤忠順(平次右衛門)の墓がある。


  西養寺本堂
本堂の形式は入母屋造・桟瓦葺きで正面に向唐破風造りの玄関(式台)を付ける。
建立年代は天明三年(1783)の棟札がある。
建物規模は正面桁行八間(実長九間)・梁行柱間七間(実長九間)である。
入母屋造りとしては大きい妻面は装飾的で、長短五本の束を立て、中央東のみを長くし、その中程両側に虹梁を入れ、
外側には海老虹梁を掛ける。

痕跡から当初切妻造りであったことが確認され、現在に至る屋根形態の発展経緯が明らかである。
この本堂の入母屋造に向唐破風造りの玄関(式台玄関)を付た意匠は全国的にも数が少なく、
金沢の寺院建築の特性を示す建立年代の判明する稀少な遺構として貴重な建造物である。


  西養寺鐘楼
鐘楼の形式は入母屋造・桟瓦葺で、戸室石の高い基壇の上に建つ。
建立年代は嘉永四年(1851)の棟札があり、山上全之輔吉敏の大工名が書かれている。
礎盤上粽付き円柱を内転に立て、平面は正方形間を形成する。

組物は鐘楼には珍しい二手先で、中備を一具とし、組物間には枇杷板に彫刻を飾る。
組物の拳鼻・実肘木には下半分の欠眉に平らな畦の部分があり、
渦の一部に畦ができる金沢での細部様式の先駆をなすものである。
この鐘楼は北陸禅宗様を代表する少ない入母屋造、扇垂木の鐘楼として貴重であり、
金沢の寺院建築を代表する重要な遺構として貴重な建造物である。


  西養寺保存樹林 金沢市
樹冠面積四千五百平方メートル、緑被率五十五パーセントの樹林である。
ケヤキ、タブノキ、エノキなどの高木三十本、ツバキ、ヒサガキ、カエデ、ツツジ
などの低木二千百六十本で構成される。
春は花、夏は新緑、秋には紅葉と、四季折々に風情豊な表情をあらわす樹林は、東山寺院群二百七十余年の歴史を偲ばせる。

  誓願寺
来迎山と号し、浄土宗鎮西派の寺院である。
運誉寿光上人が寛永十三年(1636)、金沢六枚町に建立し、寛文十一年(1671)、二代・清源上人の時に、
六百歩の寺領を拝領し、現在地に移るが、それ以前は相模国鎌倉に建立されていたとの説もある。

この寺には、本尊・阿弥陀如来像、修行時の釈迦の姿である苦行釈迦像、東茶屋街の商人が商売繁盛を願い、
芸妓が芸能の上達を祈願した開運弁才天像、箸供養で歯痛
治癒祈願の観世音菩薩石像、千躰仏像、釈迦涅槃図などが祀られている。
また、加賀藩の金箔製造公認に功労した越野佐助、氷室饅頭元祖の道願屋彦兵衛、
加賀藩御用達の若松飴元祖の飴屋弥兵衛の墓などがある。


  善導寺
妙音山と号し、浄土宗鎮西派の寺院である。
寛永十六年(1639)、生蓮社良往露適上人を開山とし、開基は尾張町で薬種の商売をしていた高岡次郎兵衛(小西宗斎)で、
父の法名を冠して、善導寺と号した。
小西宗斎は能登富来海岸の海中より白髭明神の面を拾い上げ、加賀藩三代藩主・前田利常に献上したところ、
喜んだ利常は褒美に寺地を与えたという。
面は「泡吹きの面」として、現在、尾山神社に奉納されている。

明治十六年十二月十五日、寺は焼失したが、幸いに本尊阿弥陀如来像だけは焼失を免れた。
俳人・舘屋如柳、陶工・松屋庄平の墓などがある。


  長久寺
妙光山と号し、日蓮宗の寺院である。
開基は、文禄二年(1593)、越中国砺波郡今石動本行寺僧・日統が建立した。
永姫(玉泉院二代藩主前田利長正室)の祈祷所であった。
玉泉院逝去後は三代藩主・前田利常側室・妙雲院(古和)の菩提所となる。
妙雲院は加賀八家・本多政長に嫁いだ春姫の生母である。
政治結社忠告社を起こした杉村寛正の墓がある。


  本蔵寺
遊四方山と号し、日蓮宗の寺院である。
元和八年(1622)、加賀国河北郡車村の宝乗寺第十九世・日運上人が、京都の妙顕寺より曼荼羅を授かり、同所に建立した。
文政五年(1822)、現在地に移転した。
約百五十坪の境内には、本堂、庫裡、山門などがある。


  本法寺
松倉山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、天正十五年(1587)、日随が越中国新川郡松倉に創建したと伝えられている。
後に、金沢の浅野川下堀川に、加賀藩三代藩主・前田利常の内意を得て祈祷所に命ぜられ、寺地を賜った。
その後、現在地に寺領を二百二十歩あまりを拝領し、移転した。
年中行事には、星祭・稲荷大祭・祠堂施餓鬼会・宗祖御会式・小動物の納骨供養・無縁塔供養などがある。


  妙応寺
金沢山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、天正十三年(1585)、日宗が枯木町に創建したと伝えられている。
慶長四年(1599)、金沢城外に総構堀を造るため、用地召し上げとなり、
その後、犀川中河原町などに、数度移転し、現在地に移った。
寺宝には、枯木橋土中より出現した日蓮大菩薩像、法華経八巻を納めた宝塔などがある。
有名墓碑には、元禄の茶人・彗応院日感、儒臣・西坂成庵、工人・西坂辰之助一族の墓などがある。

                                       案内説明より

妙円寺  龍国寺

宮崎友禅斎顕彰句碑 「京の事また口に出る余寒かな」   境内墓所   加賀友禅記念碑

本堂

本堂唐破風向拝

茶室 友禅堂

参道 稲荷大明神鳥居

加賀友禅 龍国寺寺標

友禅斎の墓案内石碑

蓮華寺

蓮覚寺

妙円寺山門 薬医門

山門 薬医門

本堂

圓融寺

實相寺

本堂

鐘楼

梵鐘

山門 薬医門

本堂

鐘楼 修復中

寺号標

本堂

客殿

庫裡

境内墓地

  妙圓寺
教徳山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、寺記によれば天正十四年(1586)、日相の上人が創建したとある。
延宝町絵図によると、屋敷はほぼ三十間四方であった。

境内は四百二十坪で、本堂・庫裡・山門などがある。
墓地の広さは二百四十六坪である。
当寺には、守護神として、開運の神九曜星を祀っている。
明治時代に繁栄を極めた。
藩校の明倫堂で書を講じた河野四郎右衛門の墓がある。


  龍国寺
祥雲山と号し、曹洞宗の寺院である。
慶安三年(1650)、公儀町に建立したとされるが、万治二年(1659)、加賀藩の命により寺地を没収されて廃寺同然となった。
その後、寛文十一年(1671)、寶圓寺八世の虎白禅師が、前田利家出世開運の御守りを封じ込めた稲荷大明神を祀るために
現在地で重ね再建された。

大正九年には、加賀友禅の始祖・宮崎友禅斎の墓とされる墓碑が発見され、
大正十二年史跡保存のために友禅堂が建立された。
昭和二十八年の友禅濟生誕三百年祭には、記念事業として、友禅堂付属の茶室も完成し、
毎年五月十七日を友禅忌として、遺徳を讃える盛大な祭典が挙行されている。
寺宝には、伝友禅斎自作木像などがあり、木々が生茂る寺の奥には、友禅濟の墓と句碑がある。


  蓮華寺
妙法山と号し、日蓮宗の寺院である。
開山は、正保二年(1645)、能登滝谷(石川県羽咋市)妙成寺十七世・日伝上人の創建と伝えられている。
はじめは、浅野川塩屋町の近辺に在る勘解由町にあったが、次いで卯辰山の上小川町に移り、明治八年、現在地に転じた。
寺宝には、大曼荼羅、虚空蔵菩薩がある。

この虚空蔵菩薩像は、寺記によれば、行基菩薩の作で、今日までの約千三百年の間に、奈良より京都・金沢を経て、
能登の七尾に至り、藩政の初期再び金沢に着いて当寺に安置されたとある。
京都においては、今昔物語に出典の嵐山の真言宗法輪寺の虚空蔵菩薩は、
平安朝より「十三詣り」として都人の間に厚く信崇され、
特に在京の絵画・彫刻・陶芸・漆芸などの関係者によって深く信仰されていた。
よって今でも、絵画や工芸関係者による参詣が多い。


  蓮覚寺
山号は本学山と号し、日蓮宗の寺院である。
慶長六年(1601)七月、善行院日安上人によって開山された。
日安は、元真言宗の僧であったが、京都の妙顕寺第十二世玄孝院日堯上人の教えを受けて改宗した。
その後、金沢に来て卯辰山の麓に草庵を結び、布教に務めた。

慶長十一年(1606)に信者の清水谷清右衛門などの恕力により寺が完成した。
寺号の「蓮覚寺」は、清右衛門が玄孝院日堯上人から授かった法号「蓮覚日就」による。
所願成就の守護神「七面大明神」の画像が祀られているので、一般に「卯辰の七面さん」と呼ばれている。

その画像は鎌倉時代の絵師・土佐信之の作と云われていたが、平成六年金沢市の調査で、
室町時代に土佐派の絵師が描いたものと鑑定された。
十九年に一度しか開帳されないので、平常は寛文二年(1662)作の胡粉極彩色木像(高さ約四十六センチメートル)の
七面大明神を拝んでいる。

墓地には、加賀藩三代藩主・前田利常の母・寿福院の生家である上木家歴代の墓、
辰巳用水の開削者・板谷兵四郎のものと云われる墓、金城学園の創始者・加藤せむ女史の墓、
明治大学法学部創立の功労者・尾佐竹猛氏の墓などがある。


  實相寺
黎明山と号し、浄土真宗大谷派の寺院である。
安永三年(1774)、真宗東派願楽寺第五世・智清の三男であった覚円が独立し、
文化元年(1804)に東本願寺より寺号が許可された。
明治十三年(1880)、菊田霊明が彦三町に寺院を創設した際に譲り受け、寺号公称が許可され、
昭和三十九年(1964)、現在地に移転した。

本尊は二尺一寸の阿弥陀仏の立像である。
寺宝には、宗祖大師真影一幅、蓮如法王画像一幅などがある。三味線の祖である越中屋与兵衛の墓がある。

                                        案内説明より

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