温泉その15



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下部温泉  下部ホテル

南田温泉  アップルランド

松島温泉  絶景の館

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上山温泉  古窯

男鹿金ヶ崎温泉  ホテルきららか 

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鶯宿温泉 ohsyukuonsen

長栄館  choeikan

温泉名: 鶯宿温泉長栄館
源泉名: 鶯宿温泉こまちの湯
泉質: 単純温泉(硫化水素泉)
     低張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH8.4  陽イオン 185.7㎎/㎏  陰イオン 393.2㎎/㎏  
     成分総計 637.0㎎/㎏

源泉温度: 46.1℃

湧出量: 272?/min
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能:切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症・糖尿病
    神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復

利用料: 大人100円  小人500円
利用時間: 11.00~15.00
休日: 無休(清掃日休み 問い合わせ)


鶯宿温泉 長栄館
岩手県岩手郡雫石町鶯宿6-7
Tel: 619-695-2121



  長栄館の温泉
長栄館地内に噴出した温泉は毎分1100ℓにもなり、質、量とも一級品です。
当館の大浴場には噴出したてのとびっきり新鮮な温泉を各浴槽に供給しています。
正に源泉かけ流しとなっています。

  温泉の効能
温泉には数多くのイオンがバランスよく溶け込んでいます。
このイオンがお肌によく馴染み古くなった角質を軟化させ取り除きます。
そして新しい角質へリフレッシュされるので、初々しい“スベスベ”のお肌になります。
さらに温泉成分がこの新しいお肌の水分の蒸発を防いでくれますので、
“しっとり”したお肌になります。
当館を利用された多くの女性から、
“入浴した後は化粧ののりが良い”とお褒めの言葉を頂戴しております。

                              案内説明より


盛岡駅西口~鶯宿温泉無料送迎バス 終点下車
  

温泉名: 鶯宿温泉川長の湯
源泉名: 鶯宿温泉あさひの湯
泉質: 単純温泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH8.8  陽イオン 178.9㎎/㎏  陰イオン362.5㎎/㎏
     成分総計 607.5㎎/㎏

源泉温度: 51.9℃

湧出量: 475ℓ
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能:
切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症・糖尿病
    神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復

利用料: 大人 500円  小人 250円
利用時間: 9.00~20.30
休日: 無休 (問い合わせ)


元湯温泉旅館 川長山荘
岩手県岩手郡雫石町鶯宿10-31-23
Tel: 019-695-2171



盛岡駅西口~鶯宿温泉の無料送迎バス 鶯山荘前下車(1日2便 休日、平日時間有)

盛岡駅東口(10番乗り場)~つなぎ温泉経由鶯宿温泉 
鶯山荘前下車(1日15便ほど 930円 2013年現在)

浴場ロビー

桧風呂 高温

長栄館玄関前の「お試し源泉湯」

ゆっくり温泉を楽しんで、ゆっくりとした効果を味わっていただければ幸いです。
当館にとっては一度でも多くの足を運んで頂き楽しんでいただくのが最良のことですが、なかなか大変なことと思います。
そこでまだご入浴されていない方は、どうぞ手をつけるなり、顔を洗ってみるなり、当館の温泉を味わってみてください。
そして時間の許す方は是非入浴していってください。
すでにご入浴され、良かったと感じられ湯を持ち帰ってみたいとお思いの方は当館スタッフまで一声かけてください。

                                              案内説明より


鶯宿温泉バス停(終点)から坂を上って歩いて約五分鶯宿川河畔にある大型の施設。
源泉かけ流し温泉で、よくある高温泉を加水して適温にしている方式とは異なり、
源泉を隔離して空冷及び水冷によって温度を下げている。
また自家源泉が敷地内に有るのも劣化の面では良い効果がみられると思う。

浴場内には浴槽の小さい檜風呂があり高温(新湯投入率が高い)ではあるが入れないほどではない。
“俺が温泉だ”と主張しているような浴槽ではある。
平日の昼時で4~5人の入浴客がいた。

露天風呂

長栄館外観

温泉成分分析書

大浴場

脱衣場 96個の脱衣かご

洗面化粧室

洗い場

駒ヶ岳山群

御所湖と逆さ岩手

御所ダム堰堤 ロックフィルダム
片側にコンクリート製水門が見える

川長山荘 kawachosansou

露天風呂 薬師の湯

内風呂 小浴槽

内風呂 大浴槽

道路側から元湯源泉かけ流し

鶯宿温泉神社

川長山荘

成分分析書

社殿

神額

鳥居と参道石段

  鶯宿温泉神社由来  祭神「少名彦命」
鶯宿温泉は天正年間(1573~1596)加賀国の樵「介」が、鶯が川の中に浸り傷を癒すのを見て、
温泉の在ることを発見したと伝えられている。
現社地の一段上に稲荷神社があったと伝えられているが、
これはこの地に移住した最初の人々が農業の繁栄と商売繁盛を祈願して建立したと云われている。

鶯宿温泉発見の起因となった湯は薬師の湯とよばれ、諸病に、子授かりに効き目ありと薬師如来を祀り、
温泉神社と呼ばれている。
温泉神社は鶯宿地区の氏神様として毎年五月八日例祭を執り行い、深く尊崇されている。

出羽三山等の講の石碑群





下部温泉 下部ホテル
 simobeonsen simobehotel

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温泉名: 下部温泉
源泉名: 下部ホテル源泉(自家源泉)
泉質: 単純温泉(硫化水素)
     低張性 アルカリ性 低温泉
     pH9.4  陽イオン168.8㎎/㎏  陰イオン 293.4㎎/㎏
     成分総計 497.6㎎/㎏

源泉温度: 29.7℃

湧出量: 未測定
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能:切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症・糖尿病
    神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復


源泉名: 下部奥の湯高温泉
泉質: 単純温泉(ナトリウムー硫酸塩)
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH9.3  陽イオン266.1㎎/㎏  陰イオン 528.0㎎/㎏
     成分総計 845.0㎎/㎏

源泉温度: 51℃

湧出量: 449ℓ
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能:切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症・糖尿病
    神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復

    飲泉可能


利用料: 1050円  小人525円
利用時間: 11.00~20.00
休日: 無休 (問い合わせ)


下部温泉 下部ホテル
山梨県南巨摩郡身延町字上之平1900
Tel: 0556-36-0311


身延駅から線路を横切りすぐのところで、徒歩1分。
電車の時刻の合間に立ち寄るにはもってこいの施設です。
浴槽も広く開放感に浸れます。

自家源泉の源泉と源泉を暖めた混合泉が投入されている35度位の浴槽が
かけ流しに近い浴槽らしく、夏季には喜ばれそう。

館内には石原裕次郎さんが湯治療養した際の写真や想い出品などが展示されている。
説明によれは、裕次郎さんが志賀高原スキー場にて他のスキーヤーと衝突。
足を複雑骨折するも、約二か月間下部の湯で療養した結果回復したという。

当時の新聞記事などは裕次郎さんの無謀な滑り方が衝突事故の原因との報道も多く、
人気者が叩かれ易い気質は当時の報道記者(芸能記者)も現在の記者も変わらず、
海老蔵事件の際、御乱行を強く糾弾していた記者が、ほとぼりが冷めると、
海老蔵番記者の如く「よいしょ質問」をしていたことなど変わり身の早いことです。

ただ、裕次郎さんと衝突した一般人の容態はどうでしたでしょうかね。
一般人とのことでプライバシー保護により紙面には出ませんでしたが、
当時その方の方が気になったものでした。
その後の裕次郎さんの経過などを見ると(余計なことですが)、
体格の割合には関節関係、骨格強度が弱かったような気がする。
アクティブな行動が怪我などに拍車をかけたのでしょう。

源泉風呂?

露天風呂

内風呂大浴槽

気泡風呂

温泉成分分析書

下部ホテル

高浜虚子 歌碑   この行や 花千本を 腹中に

施設入口の石造り施設名

武田信玄公隠し湯の里下部温泉

下部温泉は十二代景行天皇(日本武尊の父)の御代、甲斐国の国造「塩海足尼」によって発見されたと伝えられ、
下部という地名はこの「塩海」に由来したと云われております。
また、戦国時代甲斐の国主武田信玄公が川中島の合戦で上杉謙信から受けた肩先の傷を癒したと伝えられる
歴史の古い温泉です。

「甲陽軍鑑」(甲州流軍学書)等の資料に表れる“信玄公の隠し湯”三湯のうちの一つにあたり、
信玄公の「浴場並びに土地免状」や穴山信君(梅雪)の朱印状など数多くの記録や逸話が残っています。
温泉郷の奥には「湯の奥千軒」と呼ばれるほどに栄えた信玄公の採掘経営を偲ばす“湯之奥金山”もあり、
昭和三十一年には、国民保養温泉地として指定されております。

湯量は豊富で泉質も大変優れ全国飲泉番付では“東の横綱”といわれるほどミネラルウォーターとして広く愛飲されております。
また、昭和六十三年三月、従来の下部温泉に加え、当館敷地内より良泉豊富な温泉が自噴し、
さらに湯の郷の味わいを深くさせております。

                                          案内説明より

脱衣場

石原裕次郎想い出展示所と歌詞

傷みとれ 別れ惜しむか 下部の湯

身延路を 右に左に 下部の湯

三十六年十月吉日
七月二十二日

敷地内庭園

敷地内庭園

南天木が多く植えてある 「難転」

身延山久遠寺





日蓮宗 身延山久遠寺

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駅前石のモニュメント テーマ?

身延駅

JR東海身延線電車

門前の七十四世日鑑上人題目石塔

門前商店街

寺域到着しました

松井坊 開基波木井長氏(日長上人) 創建貞治三年(1364)

開基日朗上人 創建弘安三年(1280) 

竹之坊 正法院山門

久遠寺山門 (仁王門)

山門右廊

山門左廊

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

天井のみに残る千社札

山門扁額 (寺額)

軒斗栱三手先木組

寺紋 井桁橘紋

敷居をまたぐ石下駄

奉納絵馬

奉納草鞋

平石橋 (慈濟橋)

太鼓石橋 橋名読めず

大しゃもじ

朱橋 遺卋橋

本多日生上人銅像

宮沢賢治 歌碑

南部實長公祀祠

南部實長公銅像

参道杉並木

日蓮聖人 南部實長公 由来石碑

参道石段 菩提梯 上から下を望む

  身延山久遠寺 山門金剛力士像(仁王)
身延山の聖域に邪心のあるものを入れぬように、また、山門を潜ると邪心が除かれ、清々しい心でお参りができるようにと、
大変厳しい憤怒のお姿で御立ちになっておられます。
「力しゃもじ」は仁王様の広大無辺の力で「悪の心」、「邪心な心」を召し取る(飯取る)ということで、
「力しゃもじ」をお分けしております。

仁王さまは正式には「執金剛神」と呼ばれます。
私どもがお唱えするお経「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」というお経の中に
「観世音菩薩は法華経の功徳によって佛に近づこうと願う人に執金剛神を現じてその人の行いを助ける」と説かれております。
すなわち、仁王様の厳しいお顔やお姿で「法華経」を信仰する私たちをあらゆる魔から守るというお約束をされているのであります。

また、大力神(金剛力士)というお名前から「足」の功徳を頂けると言うことで昔から足の弱い方、足の病のある方が日々参詣され、
また七面山、奥之院等へお参りされました。


  宮沢賢治歌碑
塵点の 劫をし過ぎて いましこの 妙のみ法に あいまつりしを


  南部實長公銅像 (山崎朝雲 作)
日蓮聖人は文永十一年(1274)五月十七日、領主南部實長公(波木井氏)のお招きにより、
この身延のお山にお入りになられました。
實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、
日蓮聖人御在山の九年間一族をあげて御給仕されました。

また、實長公は「十三里に四方の堺を立て、今、日蓮聖人に之を寄付す」との置文をして、
身延山を中心とした十三里四方を日蓮聖人にご寄付され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、
永仁五年(1297)九月二十五日、七十六歳でお亡くなりになりました。


  参道石段 (菩提梯)
二十六世日暹上人の寛永九年(1632)に、佐渡国住人「仁蔵」の発願によって完成したものであります。
高さ百四メートルで、三門と本堂を一文字に結ぶ二百八十七段の石段は、
南無妙法蓮華教になぞらえて七区画に分かれています。

菩提梯とは覚りにいたる梯(きざはし)のことで、この石段を登り切れば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、
覚りの悦びが生ずることを意味しています。

                                          案内説明より

菩提梯石段は、三十代の時会社慰安旅行で下部温泉泊まりの時、五十代で家族旅行で西山温泉泊まりの時と、
二度登りましたが、あらゆる神社仏閣の石段の中では最もきつく感じる石段でした。
踏み石の幅と高さが同じくらいで「運動量/時間」が高いのが原因だろうと思う。
で、今回は体力の限界を知ってきたので、男坂を登ることにしたが、ここも辛かった。
帰りに女坂を下ったおりに女坂を見上げると、男坂と変わることなく、昔から仏様は男女の区別はしていなかった。

参道 女坂上り

参道 男坂

身延山遠景

久遠寺(境内案内図

参道 女坂下り

男坂 最後の石段

本堂

千鳥破風懸魚

本堂千鳥破風棟瓦の寺紋

鐘楼

梵鐘(大鐘)

五重塔

手水舎

祖師堂

祖師堂 天邪鬼(あまのじゃく)

亀池

山門公衆トイレ 南天の庵

女坂文殊堂

甘露門

甘露門扁額


  本堂
明治八年(1875)の大火以来、本堂の再建は身延山の悲願でした。
機熟し、日蓮聖人第七百遠忌の主要事業として、八十八世日慈上人代に着手、八十九世日康上人を経て、
九十世日勇上人によって昭和六十年五月入仏落慶式が行われました。
総面積九百七十坪、間口十七間半、奥行二十八間。

内外装は木造仕上げ、外陣の天井画「黒龍」は加山又造画伯の力作で、
昭和六十一年度(1986)の建築業協会賞を受賞した総本山の根本殿堂にふさわしい規模と格調を備えました。


  鐘楼・ 梵鐘(大鐘)
大鐘は寛永元年(1624)、二十一世日乾上人の代に鋳造されたことが鐘銘にあり、初め修行僧道順が梵鐘寄進を発願し、
諸国を行脚して浄財勧募に努めましたが、その中途に未だ誌を果たさずして逝去したことを聞き、
德川家康の側室養珠院(お万の方)がいたく道順を哀れんで、
自らの浄資を寄進して道順の誓願を成就するために鋳造されたものです。

毎朝夏は五時、冬は五時半、夕方は五時ないし四時半に撞かれますが、
その他は除夜の鐘と身延山に緊急のことが起こったとき以外は撞かないことになっています。
なお鐘楼は明治十五年(1883)山梨県の南条講題目結社の丹精によって建立されました。


  五重塔
この身延山五重塔は九十一世日光上人の発願により全国皆様の御丹誠のもと、
九十二世日総上人のとき百三十年ぶりに復元され、平成二十一年五月十三日より五日間に亘り落慶式が奉行された。
身延山に五重塔が創建されたのは元和五年(1619)加賀藩主前田利常公の母・寿福院の寄進によるもので、
御大工鈴木近江守長次の作であった。

しかし元和の塔は文政十二年(1829)に焼失し、
後に再建されたが再び明治八年(1875)の全山を巻き込む大火によって焼失した。
現在に五重塔は元和五年、初代五重塔の復元であり、明治以降諸堂復興の総仕上げで、悲願ともいえる大事業であった。
この五重の塔は、宮大工の伝統技術と最新工法の融合により甦ったものである。


  棲神閣祖師堂
宗祖日蓮聖人の御尊像を奉安する御堂で、十一代将軍德川家斉公が天保七年(1836)に建立し、
五年後に廃寺となった鼠山感応寺の堂宇を、明治十四年(1881)に七十四世日鑑上人の代に移築し、
同年宗祖第六百年遠忌をここで奉行しました。

御尊像を安置する豪華な御宮殿厨子は東京信徒により、
天蓋・幢幡等の善美を尽くした荘厳仏具は大坂・京都の信徒の丹精により寄進されました。
須弥壇上の御宮殿厨子の左右には、聖人のご両親妙日尊儀・妙蓮尊尼と本弟子である六老僧の木像が列せられています。
内陣正面の虹梁にある立正の勅額は、昭和六年(1931)宗祖第六百五十年遠忌の時、
昭和天皇より日蓮聖人の御廟へ下賜せられたものです。


  御真骨堂
拝殿の奥に望む土蔵造り八角堂が日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂です。
尾張の信徒の丹精によって明治十四年(1881)七十四世日鑑上人の代に建立されました。
御真骨堂の中央には精緻を極め善美を尽くした五重塔があり、
その中央の水晶の宝龕中に日蓮聖人の御真骨が納められています。
堂内の宝龕蓮華台は美濃国の寺院、五重塔と天蓋は長崎の講中の寄進するところであり、
金銀をちりばめた四天王は後藤祐乗の彫心鏤骨の作です。


  仏殿・納牌堂
昭和六年(1931)に竣工したこのお堂は、日蓮聖人第六百五十遠忌を記念して、
八十一世日布上人のとき全国寺院檀信徒の丹精にて出来たものです。
全国信徒の御納骨・御納牌・追善法要が毎日ここでおこなわれています。


  仏殿納牌堂 獅子口瓦
この獅子口瓦は、仏殿納牌堂の大棟西側に備えられていた鬼瓦で、
昭和六年(1931)日蓮大聖人第六百五十遠忌の報恩事業として仏殿納牌堂が新たに建立されてより、
日蓮大聖人御降誕八百年の慶賛事業として、平成二十四年に屋根瓦を銅版に葺き替えるまでの約八十年間、
仏殿納牌堂の屋根を平穏ならしめてきた鬼瓦である。

展示の獅子口瓦とは、京都の寺本甚平衛製瓦にて作成され、大棟両端鬼瓦のところに備えられる駒形箱型の瓦をいい、
「経の巻」を頂部に配し、二本の「綾筋」の下に「井桁に橘」紋の意匠が施されている。
足下瓦から獅子口最頂部までの高さは2.8m、足下瓦左右の幅は2.2mに及び、
これが地上より約21mの高さに備え付けられていた。
もって身延山三堂の一の威容に相応しいものだったといえよう。


  法喜堂
法喜堂は、寺務所・職員寮・学生寮・台所があり庫裡と呼ばれているところです。
かって豊臣秀吉の姉瑞竜院殿が我が子関白豊臣秀次の菩提を弔うため、
慶長十三年(1608)十八世日賢上人の時本堂・唐門と共に庫裡を建立寄進されましたが、
明治八年(1875)の大火で焼失したため、明治十六年(1883)に七十四世日鑑上人のとき、
山梨・静岡両県寺院檀信徒の総協力のもとに再建したのが現在の法喜堂です。


  鐘楼 (時鐘)
明治十年(1877)山梨県の南条講題目結社の建立によるも、昭和二十七年(1952)焼失し、永田雅一氏が再建しました。
梵鐘は四国松山城主久松家の祖、定頼の正室養仙院殿の寄進で、
延宝八年(1680)に鋳造され、三十一世日脱上人の鐘銘があります。


  甘露門
二十八世日奠上人の代に建立されたものを、明治元年(1868)に再建されました。
法華経に「能く甘露の紋を開いて広く一切を度す」とも「大慈悲を以って広く甘露の門を開く」などとあり、
この門を入って法華経の法益を得せしむるの意味で門の名前としたものです。
扁額は元老院議官中村正直博士の筆です。

                                          案内説明より

鐘楼 (時の鐘

法喜堂

枝垂れ桜 樹齢約四百年

大客殿

仏殿と納牌堂

御真骨堂 拝殿

獅子口瓦

久遠寺 奥ノ院

奥之院参道と左ロープウェイへ

ロープウェイ駅

ゴンドラからの景色

ゴンドラからの景色

山頂駅

奥之院 冠木門

日蓮聖人像

山頂レストハウス

御母妙蓮尊尼菩提杉

御父妙日尊儀菩提杉

御母杉と御父杉

御師範道禅房報恩杉

立正安国祈念杉

枝分かれした大杉

思親閣 仁王門

吽形像

阿形像

鐘楼

常護堂

手水舎

思親閣祖師堂

開基堂

開基堂扁額

祖師堂扁額

祖師堂

大孝殿

育恩殿と寺務所

育恩殿扁額

大孝殿扁額

左大光燈籠   右普照燈籠

釈迦如来坐像

祖師堂の梵鐘

奥之院休憩所

北展望台より南アルプス方面 視界不良で残念


  常護堂
日蓮大聖人が御両親、御師匠様へご供養を申し上げるため、この身延山山頂まで御登りになられた際、
度々神々しい姿をした霊狐が現れました。
その霊狐は身延山中の道なき道を、まるで大聖人の御一行をお導きし、御守りするかのごとく現れます。

後に大聖人はこの霊狐を道中の御守護を頂いた常護菩薩として感徳されました。
現在も身延全山と、参拝者の道中を見守って下さるご守護神として当山にお祀りされています。
堂内には、中央に常護観音菩薩、右に子安鬼子母神、左に草分稲荷大明神がお祀りしております。


  奥之院山門(仁王門)
寺域に魔の侵入を防ぐため、二体の金剛力士を安置する三門です。
六浦平次郎入道により建立されました。
天和年間(1681~1683)、三十一世日脱上人の代に久遠寺本堂前にあった仁王門(二天門)を移築しました。
仁王像は運慶作と伝えられています。
三十一世日脱上人の開眼です。
阿形像を那羅延(ならえん)金剛力士、吽形像を密迹(みっしゃく)金剛力士とよぶ。


  元政上人埋髪塚
元政上人は元和九年(1623)毛利輝元の家臣であった石井元好の五男として京都一条に生まれました。
天性聡明、気質な慈悲心あって柔和、文学を好みその著作はおびただしいものがあります。
身体が弱く武士として並みの御奉公も出来ないので、
二十六歳の時京都の妙顕寺僧那院、日豐上人の弟子となって出家の素懐をとげたのです。

上人は特に詩、文、和歌の文名一世に高く、中でも身延詣での紀行文は「身延道の紀」といいい、時の天皇上覧に供しました。
万治二年(1659)八月、父の遺骨を奉じ、七十九歳の母のお供をして身延山に参詣し、
祖師日蓮大聖人の大孝の霊跡を慕って思親閣に登り、父の遺骨と自分の髪を剃って一緒に埋めました。

                                                案内説明より

対面ゴンドラ

山頂駅

七面山

展望台からの富士山

元政上人埋髪塚





南田温泉 アップルランド

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温泉名: 南田温泉
源泉名: 南田源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     低張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH8.2  陽イオン 977.6㎎/㎏  陰イオン 1534㎎/㎏  
     成分総計 2705㎎/㎏

源泉温度: 51.5℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 循環ろ過 消毒

効能:切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病
    神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復

利用料: 350円
利用時間: 9.00~21.00
休日: 無休 (問い合わせ)

津軽南田温泉 ホテルアップルランド
青森県南津軽郡平賀町大字町居字南田166-3
Tel: 0172-44-3711

弘前駅城東口からアップルランドまで1日4便の迎便と2便の送り便があるので便利。
ただし予約制。
平賀駅~アップルランドは随時送迎があるらしかった。
ビジネスや一人旅など素泊まりもできるのでプラス温泉派にはgood。
日帰り客も多く賑わっていた。

日が沈むと辺りは真っ暗で農地に新設道路が走っているのみで商店は皆無。
コンビニと大型スーパー、ガソリンスタンドが見受けられる程度。
平賀町は「ひらかまち」と読み濁らない。
現地に行かないとわからない事が多いね。

苹果の湯 大浴槽

苹果の湯 熱めの湯

苹果の湯 露天風呂

加水で温度調整

竹炭の湯 露天風呂

竹炭の湯 内風呂

竹炭

五所川原 立佞武多ミニチュア

リンゴを掲げる りんご観世音菩薩

浴場前アップルロビー

平賀駅

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松島温泉 絶景の館 matusimaonsen-zekkeinoyakata


鹽竈神社  
 志波彦神社  御釜神社

温泉名: 松島温泉
源泉名: 松島温泉1号源泉
泉質: 単純温泉  (ナトリウムー炭酸水素・塩化物泉)
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH8.7  陽イオン 258.2㎎/㎏  陰イオン 533.3㎎/㎏
     成分総計 839.2㎎/㎏

源泉温度: 52.5℃

湧出量: 638.9ℓ/min (配湯割合は不明)
湧出形態: 掘削揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
     冷え性・疲労回復

利用料
利用時間
休日


松島温泉 ホテル絶景の館
宮城県宮城郡松島町松島字東浜4-6
Tel: 022-354-3851


仙石線松島海岸駅及び東北線松島駅より送迎有。
駅到着時施設に連絡。
徒歩は松島海岸駅18分、松島駅14分で松島駅からの方が判りやすい。
仙石線の方が列車本数が多いが、駅が多い分時間がかかります。(仙台~)

露天風呂

露天風呂からの眺め

内風呂

朝食

絶景の館外観

温泉成分分析書

部屋から見た日の出





陸奥国一之宮 鹽竈神社


鹽竈神社・志波彦神社  宮城県塩竈市森山1-1  
Tel 022-367-1611

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松島温泉絶景の館へ

本塩釜駅

松島駅

神使 雄鹿

神使 雌鹿

右大臣

左大臣

随身門廻廊

随身門 (八脚高欄付廻縁楼門)

表参道石段

絵馬 騎馬武者 慶應八年奉納

絵馬 万歳 天保八年奉納

撫で牛

  表参道燈籠
寛政六年(1794)味噌醤油仲間により奉献されました鐡燈籠は、
昭和十九年、祖国危急に際し鹽竈神社境内二十有余の金銅製燈籠、手水盤、絵馬類とともに国家に供出しました。

戦後、これらを惜しみ、昭和三十四年、味噌醤油業界の有志が集まり、相談の上、
供出常夜燈を復元奉納することになりました。
しかし、三十五年の雨雪風は燈籠を損傷しその様子は極めて深刻でした。
しかして、その修復、保全工事が今回完成する事となり、併せて寛政燈籠奉納の銘、昭和三十四年復元銘と共に
修復銘文を表し、表参道燈籠来歴を後世に伝うべきものとした。 

   平成六年三月吉日   宮城県味噌醤油工業協同組合  仙臺味噌醤油仲間一同


  長命(長明)燈籠
仙台藩御用の米商人「大坂升屋」の山片重芳の寄進である。
重芳を育てた番頭、山片蟠桃は「夢之代」を著わし、近代合理主義の先駆けとなった大学者で、
差米検査を無料で引き受ける代わりに、抜いた米をもらい、米札藩札で米を買い上げ、
現金は大坂で利を生ませるの妙策を用い、藩の財政危機を救った。
享和三年(1803)御影石で造り、大坂から大船で運んできたこの大燈籠は、当時の升屋の全盛を偲ばせる。


  鹽竈神社の鹽竈ザクラ  国指定天然記念物(前指定桜は枯、挿し木、取木により済生、昭和62年12月17日再指定)
この桜は、第七十三代堀河天皇御製に見られるように、平安時代には概に鹽竈神社境内に生育していました。
主な特徴は、めしべが変化して二枚~三枚の青い葉となり、花輪が甚だ短く、花弁は三十五枚から五十枚で、
縦じわがあり、先端が二から五の微凹の鋸歯状になっており、五月初旬に開花します。
この桜は当社の御社紋になっております。

堀河天皇御製   あけくれに さそな愛で見む鹽竈の 桜の本で 海人のかくれや 


  撫で牛 (開運 商売繁盛)
諺に「商売は牛の涎」(商売が牛の涎のように細く長く続くようにの意)とあるように、
牛は撫でるとよく涎を出すところから祈願奉納されました。

                                                案内説明より
  

鹽竈桜 国指定天然記念物

祭務所

長命(長明)燈籠

神楽殿

手水舎

唐門前の狛犬

境内社 神明、八幡、住吉、稲荷各社

御神木(杉) 市指定天然記念物
樹高31m 腰周2.1m 樹齢約800年

境内の紅葉

表参道石段途中の阿形狛犬

吽形狛犬 昨夜散歩に行った?

表参道 石鳥居

表参道狛犬

社号 東北鎮護鹽竈神社石標

鹽竈神社定書き

表参道灯籠

鳥居扁額 陸奥国一之宮

表参道中道鳥居

鳥居石台座 嘉永元年戊申七月十日
牡鹿井内住 石工亀山久六奉納

唐門 (四脚朱塗り門)

唐門左袖廻廊

唐門右袖廻廊

栃の巨木

鹽竈神社の多羅葉巨木 県指定
樹高 22m  樹齢 約500年

西ノ神門

銅鐡合製燈籠(文化燈籠)

燈籠鐡枠の銅彫り物 神獣

燈籠鐡枠の銅彫り物 神龍鳥

拝殿前 御神鏡 (修復中の為)
右宮と左宮

銅板屋根葺き替え中の拝殿

鹽竈神社 左宮本弊殿

神守り札授与所

鹽竈神社 別宮拝殿

別宮本弊殿 

七曲坂参道

ソメイヨシノ老木

東神門

東参道石鳥居

  陸奥国一之宮鹽竈神社 (国重要文化財指定) 
鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしております。
古来、陸奥国一之宮と称されています。

その創建年は不明ですが、弘仁式主税帳(820)の記録から、九世紀前半には朝廷より祭祀料をいただく有数の神社として
存在していたことがうかがわれています。
古代においては、この地が陸奥国府・多賀城の国府津(港)であったこと、陸奥国内の製塩の中心地であったことなどから、
鹽竈神社の創建や社名に関連していると考えられています。

その後、平泉藤原氏、陸奥国留守職の伊澤氏、仙台藩主となった伊達氏等の庇護を受け、今日に至っています。
これらに関係する人々や神社と縁ある人々の寄進した文物が境内及び鹽竈神社博物館に多くみられます。
現在の社殿は、仙台藩伊達家四代の伊達綱村公が元禄八年(1695)に鹽竈の町づくりと共に神社造営の工事に着手し、
宝永元年(1704)五代藩主伊達吉村の時に完成したものです。

「三本殿二拝殿という全国でも類例がほとんどない社殿構成で、整然とした配置計画も優れていること、本殿・幣殿・回廊は、
正当で装飾をおさえた意匠で、拝殿の古風な細部様式や門などの華やかな様式と絶妙な諧調を創り出していること」から、
これらが江戸中期の神社建築として価値が高いと評価され、平成十四年十二月、国の重要文化財に指定されました。


  銅鐡合製燈籠(文化燈籠)
文化六年(1809)仙台藩伊達家九代藩主伊達周宗公が、蝦夷地警護の凱旋の後奉賛として寄進した燈籠です。
製作には仙台の鋳物師、早井義幹・大出治具・田中清直のほか、
田茂山(岩手県奥州市)の及川庄七らも棟梁として関わったとされています。、


  七曲坂参道
七曲坂参道は鹽竈神社参道(表坂・七曲坂・裏坂)の中で最も古く、
その形成は、神社の創建と同時期の奈良時代頃と推定されます。
往時(古代・中世)は、国府・多賀城から香津(国府津 古代市街地/第一小学校集辺)へ至る
東海道(あづまかいどう)を鳥居原(古代の市場/塩釜高校校庭付近)で江尻へ下り、
入江となっていた祓川を舟(鎌倉時代に架橋)で渡って七曲坂へ至る道筋でした。

さらに上野原や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともなっていました。
なお、当坂下の四方石辺りは、作道時の排出土砂を用いて海を埋め立て造成されたもので、
神社創建以来の神官阿倍家が江戸時代初期まで約一千年間屋敷を構え参道口を守っていたと伝えられています。
享保十六年(1731)から近年まで、祭礼のときには御輿の帰る道筋となっていました。


  蝋梅(蘭梅)
蝋梅は江戸時代の初期、清国の人が持たしたと云われています。
林子平が長崎に遊学した際にこれを珍しいと持ち帰り、旧社家藤塚知明に贈りました。
知明はそれを金華亭に植え、知明が亡くなった後現在の場所に移植したものです。

                                               案内説明より

社号扁額 昭和五十六年三月奉納

蝋梅





志波彦神社

庭園

庭園

庭園

鹽竈神社博物館

東参道(裏坂)



  志波彦神社
志波彦神社な鹽竈の神に協力された神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰されている。
志波彦神社はもと、仙台市岩切冠川(七北田川)の畔に鎮座され、陸奥国延喜式内社百座のうち名神大社として、
朝廷の厚い信仰があった。

明治四年五月国幣中社に列格されたが、境内も狭く満足な祭典を行うことが不可能なために、
明治天皇の御思召しにより、明治七年十二月二十四日に鹽竈神社の別宮に遷し祀られた。
さらに、昭和七年国費を以って御造営することになり、昭和九年現社地に工事を起こし、
明治・大正・昭和三代にわたる神社建築の粋を集め竣工し、昭和十三年九月に遷座した。

本殿・拝殿何れも朱漆塗り、彫刻部分は極彩色漆塗りで、昭和三十八年塩竈市の文化財に指定された。


  御文庫 (旧鐘楼)
この建物は嘗て鹽竈神社が神仏混交の時代、別宮の南側透かし塀外にあった鐘楼堂で、
後にこの場所に移し替えたものである。
室町時代の建物といわれ、当社では最も古い建築物であります。


  昭和天皇 御製
天皇陛下御在位六十年を奉祝し、常に国の隆昌と国民の幸せはもとより世界の平和をとの大御心を後昆に伝えむと、
此処に御製碑を建立し奉献するものなり。
なお此の大御歌は昭和三十五年の御歌会始御題「光」を詠まれたもので、大いなる平和への御祈念が拝せられる。

御製 「 さしのぼる 朝日の光 へだてなく 世を照らさむぞ わがねがいなる 」


  教育勅語 朝臣源(乃木)希典筆 
平成二十二年十月三十日は教育勅語渙発百二十周年記念日になります。
当社の教育勅語碑は、乃木希典(陸軍大将・伯爵)卿の御真筆を、
下関に鎮座される乃木神社の御好意により特別の許可をいただいて、宮城県特産である稲井石に字したものです。


  甑炉型 鋳銭釜
仙台藩の鋳銭事業は、幕府の許可を得て、寛永十四年(1637)に栗原郡三迫で始まりましたが、詳細は不明です。
その後も藩は再三に渉り幕府に鋳銭願いを出し、
享保十一年(1726)四月に領内産の銅のみで鋳造することを条件に許可されました。
この時、北上川河口の水上交通の至便な石巻に鋳銭場を設置し、享保十三年(1727)より鋳造を開始しました。

明和年間以降は鉄銭も作るようになり、明治維新まで続きました。
この鋳銭釜は、この石巻鋳銭場で使用されたものです。
使用法が重ね合わせて米などを蒸す甑(こしき)に似ていることから、甑炉型と呼ばれています。

日本に現存する鋳銭釜甑炉で、上・中・下三段共に揃って保存されているのはここに展示してあるものだけで、
貴重な産業遺産となっています。


  紫琉球躑躅
キシツツジ(岸躑躅)とモチツツジ(餅躑躅)との雑種とされる園芸品種。
躑躅は五月ごろ一度だけ開花するものが一般的ですが、
混雑種の境内のものは変種で三月~四月と九月末頃~霜降頃までの年二回開花します。
多賀城市留ヶ谷に二度咲する多賀城市の保存樹木があります。

                                          案内説明より

志波彦神社東参道朱鳥居

神門 (四脚朱塗り門)

拝殿と大燈籠

志波彦神社 本幣殿

志波彦神社神額

手水舎

巫女さん

御文庫 (旧鐘楼)

昭和天皇 御製碑

教育勅語碑 乃木希典筆

金木犀

鋳銭釜

社務所

貴賓館

紫琉球躑躅

塩釜湾 塩釜港

鋳銭釜使用法

明りが灯された燈籠と詰所

東参道 五重石灯籠

五重石灯籠の狛犬

勝画楼への入口

芭蕉止宿の地(法蓮寺門前宿)

法蓮寺廃寺跡

東参道 七十七銀行奉納の燈籠
昭和五十四年二月一日

東参道石鳥居

  芭蕉止宿の地
元禄二年(1689)五月八日(陽暦六月二十四日)午後二時ごろ、
塩竈に着いた芭蕉は野田の玉川、末の松山などの歌枕を巡り帰った。
「宿、治兵衛、法蓮寺門前。・・・・・」(曽良旅日記)とあり止宿したのはこの付近と思われる。

隆盛をきわめた鹽竈神社の別当寺法蓮寺は明治四年廃寺となった。
勝画楼は元法蓮寺の建物で、建物基盤が平坦でないため、京都清水寺と同じく懸崖造りを取り入れた建築です。
日が傾いてきたので残念ながら取りやめた。


  法蓮寺
法蓮寺は真言宗 金光明山法蓮寺と号して、鹽竈神社別当寺でありましたが、
明治維新に神仏判然令が布告され廃寺となりました。
現在その面影を偲ぶことはできませんが、仙台藩政期には神社も含めて法蓮寺が管理して藩内第一の寺社領を持っていた。

法蓮寺の由来については定かではありませんが、鹽竈神社には別当の神宮寺があって、
奥州留守職四代留守家広の弟良弁が中興しました。
その後の天正の頃、富鏡が神宮寺に真言宗法蓮寺を建立し、仙台藩政期には、鹽竈神社別当寺となりました。

安永風土記書上によると法蓮寺には真言宗本尊の大日如来を安置していました。
仏殿・客殿・方丈・書院(勝画楼)・鐘楼、山内脇院十二院が裏参道沿いに立ち並んでいました。
なお、勝画楼(書院)は藩主の神社参拝の御休み処として建てられ、
明治九年明治天皇の鹽竈神社ご参拝の折、御休息所となっています。

                                             案内説明より

鳥居扁額  鹽竈神社・志波彦神社

石鳥居  明治四十一年十月五日

奉納 仙臺市
      大内源太右衛門家族一同敬白

石工師 牡鹿郡井内住
      石井貞輔  菅野卯吉

建方   岡田谷重兵衛





御釜神社

御釜神社鳥居

鳥居神額

御釜神社社殿 (鹽竈神社末社)

神釜安置所

竈屋

神竈

石牛  藤鞭神社 (境内外社)

  御釜神社 (鹽竈神社境外末社)
御釜神社には、御釜とか神釜と呼ばれる四口の鉄製の釜が祀られています。
塩竈の地名はこの釜に由来するものとされています。

塩竈では古くから製塩がおこなわれていなした。
近辺の貝塚遺跡からは海水を煮詰めた土器の破片も数多く発見されています。
土器製塩が鉄釜による製塩へと変わるのは、一般的には平安時代とされています。
鉄釜の使用によって塩の生産は飛躍的に発展したことでしょう。

西暦千三百年ころに描かれた塩竈津の風景画には、二基の釜が描かれており、
このころすでに塩焼きの釜が塩竈のシンボルになっていたらしいことが知られます。
これら四口の鉄釜が、いつ頃のものかは不明ですが、江戸時代初期の塩竈の絵図にはすでにこれらが描かれております。

四口の神釜には屋根がありませんが、ここに湛えられている水は、常に溢れることも枯れることもないとされ、
江戸時代には、世に変事のある時、その前触れとして御釜の水の色が変わると云われていました。
また塩竈の地誌「奥鹽地名集」には、釜はかっては七口あり、その内三口は盗賊に持ちされれたという伝説が記されています。

それによると一口は、釜ヶ淵(新浜町の東北区水産研究所の先の淵)の海底に沈み、
別の一口は野田の釜田(塩竈陸橋下あたり)の田の中に埋まり、さらにもう一口は、
黒川郡志戸田村の塩竈殿(富谷町志戸田の行神社)と称されるところの池に沈んでいると記されています。
これらの現地には、それぞれ今もなおそうした言い伝えが残されています。

                                                案内説明より


                                           松島温泉絶景の館へ     ページトップへ

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正面石段参道菩提梯

かんらの湯案内看板

甘楽町総合福祉センター

温泉成分分析書

温泉は浴室中央の六角形浴槽のみ

温泉名: 甘楽の湯
源泉名: かんらの湯源泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉  
     (二酸化炭素712㎎/㎏  メタケイ酸35.2㎎/㎏  メタホウ酸 458㎎/㎏)
     高張性 中性冷鉱泉
     pH6.6  陽イオン 9121㎎/kg   陰イオン 15155㎎/㎏  
     成分総計 25480㎎/㎏

源泉温度: 16.8℃ (分析時温度)

湧出量: 不明
湧出形態:不明
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒

効能: きりきず やけど慢性皮膚病 慢性婦人病神経痛 
     筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え性 病後回復期 疲労回復 

利用料: 甘楽町町民 60才以上200円  一般400円  小中学生200円
       甘楽町民外 60才以上400円  一般600円  小中学生400円
利用時間: 10.00~19.00
休日: 月曜日 (祝祭日の場合は翌日  12月29日~1月3日


甘楽温泉かんらの湯 (甘楽町総合福祉センター)
群馬県甘楽郡甘楽町白倉1395-1
Tel 0274-74-5700


温泉が注入されていう浴槽は円形浴槽(洋風風呂)のみとなっている。
湧出量が記入されていないので解りませんが思うに少ないのでしょう。
浴場内で最も小さい浴槽のみが温泉と記されていた。
ナトリウム濃度が高いので加水していると理由付けがあったが、
高血圧を思ってのことでしょうか?
そこまで気を使っているのでしたら加水割合も書いてほしいものである。
ドライブの休憩には国道(R254)から近く都合が良い。

富岡製糸場  七日市藩 藩邸





甘楽温泉 かんらの湯




旧富岡製糸場

国指定史蹟 重要文化財

旧富岡製糸場門前町?

到着しました 正門

行啓記念碑

  明治天皇記念碑

富岡製糸場創業翌年の明治六年(1873)六月、明治天皇の要請により皇太后・皇后御一行が富岡製糸場を行啓されました。
それから七十年後に建立された記念碑がこの行啓記念碑です。
台石は当時工女が皇后から賜ったといわれている扇をかたどっており、
台石の上に置かれている台座の石はこの地方特産の三波石が使われています。

また行啓された際皇后が詠まれた「いと車 とくもめくりて 大御代の 富をたすくる 道ひらけつつ」という和歌には、
製糸場の発展が日本の繁栄につながる事への期待感が表されています。


  片倉製糸株式会社記念碑

当工場は明治五年(1872)に殖産興業の一大政策のもとに政府が威信をかけて創建した器械製糸場である。
その目的は新しい製糸技術の伝習と、器械製糸場設立普及の為の模範工場であった。
全国から参集した多くの工女たちは新技術を学び、帰郷後は指導者として大活躍する一方、
当工場を範とした器械製糸場が各地に設立されたその功績は多大なものである。

三井家に払い下げられた以降、原合名会社の手を経て昭和十四年に片倉工業株式会社の所有となり、
片倉工業株式会社の全盛を築いてきた。
木造煉瓦造りの建造物は創設当初のままである。

昭和六十二年に操業を中止した後も片倉工業株式会社が保全管理に努めてきたが、
平成十七年七月に国史跡に指定されたことを機に、平成十七年九月を以って全建造物を富岡市に寄贈した。
また平成十八年七月には創業当初の建造物等が重要文化財に指定された。

この歴史的文化的価値の高い事績を末永く顕彰すると共に、保存活用されんことを祈念してこの碑を建立する。
                             平成十九年三月

旧富岡製糸場
群馬県富岡市富岡1-1
Tel 0274-64-0006
                                         案内説明より

片倉工業株式会社記念碑

入館チケット売り場管理棟

東繭倉庫

東繭倉庫

東繭倉庫 木部塗装の様子 

東繭倉庫 柱と煉瓦

繰糸場側面

繭倉庫と繰糸場連絡橋跡

繰糸場正面入り口

繰糸機械

天井木組み 木造体育館と同木組みで製糸場を参考にして建築したのかもしれません

製糸看板

柱と梁木と棟木

糸口目っけのブラシ 可動式

  東繭倉庫(明治五年建築)  長さ 104.4m  幅 12.3m  高さ 14.8m 

一階は事務所・作業所として使い、二階に乾燥させた繭を貯蔵しました。
倉庫一棟には最大で二千五百石(約32t)の繭を貯蔵することが出来ます。
建物は木造の骨組みにレンガを積み並べた構造「木骨レンガ造」という西洋の建築技術に、
屋根は日本瓦で葺き、漆喰でレンガを積むなどの日本建築の要素を組み合わせて建てられました。
レンガは日本の瓦職人が隣町の甘楽町福島に窯を築いて焼き上げたものが使われました。


  繰糸場(明治五年建築)  長さ140.4m  幅12.3m  高さ 12.1m

繰糸場は、繭から生糸をとる作業が行われた場所でした。
創業当初はフランス式繰糸器三百釜が設置され、世界最大規模の工場でした。
明治五年から操業停止の昭和六十二年まで百十五年にわたって一貫して生糸生産を行いました。
現在、建物内部には昭和四十年以降に設置された自動繰糸機が残されています。

建物には従来の日本にはない「トラス構造」という小屋組みが使われており、その様子がよく確認できます。
さらに採光のため多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの「越屋根」が取り付けられました。
全国から応募した女性たちは、富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、後に地元の工場で指導者となることで、
器械製糸技術の普及と日本の近代産業の発展に大きく貢献しました。

                                              案内説明より

糸繰りの実演

診療所

検査人館

検査人館 
柱に残る避雷針導電線金具

女工館

ブリュナ館

  診療所

昭和十五年(1940)に建てられた、三代目になる診療所です。
明治時代の名称は病院と呼ばれていました。
当初の診療所(病院)は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたりました。
また、官営時代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。
官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が充実していたことがわかります。


  検査人館(明治六年建築)

生糸の検査を担当したフランス人男性の住居として建築されました。
木骨レンガ造で建てられた二階建てベランダ付きの住居風建築物です。
のち改装され、現在は事務所として使用されています。
二階には、皇族や明治政府役人がここを訪れた際に使用したといわれている「貴賓室」がほぼ当時の状態のまま残されています。
隣の女工館との連結部は当初のものではなく、後に付設されており、当初この二棟は独立して建てられていました。


  女工館(明治六年建築)

日本人の工女に、器械による糸とりの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建てられました。
木骨レンガ造二階建て廻廊様式のベランダ付の住宅風建築物です。
板が格子状に組まれたベランダの天井やガラス戸の外側に設けられた直射日光を避けるための工夫と考えられる「よろい戸」も、
当時の日本建築物には見られない特徴です。


  ブリュナ館(明治六年建築)

指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが、政府との契約満了となる明治八年(1875)末まで家族と暮らしていた住宅です。
広さ約三百二十坪ある建物は木骨レンガ造で建てられ、高床で回廊風のベランダを持つ風通しの良い造りになっています。
後に建物は女工の夜学校として利用され、片倉時代には片倉高等学園の校舎として使われました。
そのため内部は大幅な改造が加えられており、当初のおもかげはほとんどありません。
しかし、現在講堂となっている部屋の床下には、食料品貯蔵庫に使われたと考えられるレンガ造りの地下室が残されています。

                                                 案内説明より

繰糸場と東繭倉庫の間の通路

ソメイヨシノの老木

サルスベリ

  西繭倉庫(明治五年建築)  長さ 104.4m  幅 12.3m  高さ 14.8m

東繭倉庫と同じく二階を繭の貯蔵庫として使用しました。
建物は木骨レンガ造が使われるなど構造・大きさは、ほぼ東繭倉庫と同じです。
一階北側半分のレンガは西繭倉庫の他のレンガとは色や積み方が異なっています。
この部分は当初、レンガ壁ではなく、蒸気エンジンを動かすための石炭置き場として使われていました。
現在のようなレンガ壁となったのは昭和五十六年になってからです。


  乾燥場

生糸の原料となる繭を乾燥させた建物です。
繭の中の蛹を殺すことと、繭の長期保存に備えて繭からカビが発生するのを防ぐことを目的として繭を乾燥させます。
この建物は、大正十一年(1922)に建設され、その後、昭和十七年(1942)まで増築・改装が行われ、操業停止まで使われました。
現在残る乾燥機六台は、繭を一階からベルトコンベヤーで二階に上げて乾燥機に投入し、八段に分かれている内部を下段に移動していく中で約6~8時間かけて温度調整をしながら繭を乾燥させることが出来ました。


  燃焼炉煙突(昭和十四年建設)

現在の煙突は昭和十四年に建設された鉄筋コンクリート製のものです。
明治五年(1872)には高さ36mの鉄製の煙突が現在の位置より西に建てられました。
4.4mのレンガ積みの基礎の上に、高さ1m、慮っ系1.3m程ある鉄製の筒を積み上げ、四方に鎖を張って支えていました。
この初代の煙突は、寧寺十七年(1884)に防風によって倒壊しましたが、高い煙突が設けられていたのは、燃焼効率を高めるとともに石炭を燃やす際に発生する煤煙対策のためでした。
明治時代に使用された鉄製の煙突基部は、現在は井戸の囲いとして残されています。

                                             案内説明より


昭和四十年頃に工場見学をしたことがある。
記憶は薄れているが片倉工業の担当者に案内していただいた。
当時工場案内や見学は常時やっていたのだろうか。
たぶん工場内の一室で工場の概要の説明を聞き、繰糸場を見学したとの記憶がおぼろげながら思い出す。

大型バスで伺ったのですが、バスが正門から入って工場内で駐車出来たので、
当時は工場見学が多くなかったのではないかとも思う。
近くに同業で協業組合会員であった(株)梅沢製作所(甘楽町福島)の梅沢一郎社長が同乗されていたので、
氏の紹介でもあったのでしょう。
伊香温泉への慰安旅行に行く途中のことでした。

今回訪れ、ガイドの説明では設立当時のままに残されているものが多くある。
当時は気がつきもしなかったのですが、あまりにも補修が行き届かなくなっているようで、寂しく感じる。
聞くところでは、世界遺産の暫定リストの登録され準備段階とのことである。
登録されれば全国各地から観光客が訪れるであろうことは疑いもないが、今のままでは心もとないと思う。

保存・公開と地域振興の両立のためにはまだまだ多くの問題があり、工場の補修も急務でしょうね。
それにはまた多くの投資(街路整理・駐車場・宿泊設備等々)や自治体の予算も重要な要素となります。
ただ、素人なりに危惧するところは、工場内見学すると観光客の人数によってはパンクもありでしょう。
その他の施設を開放し見学者の分散を図り、入場制限も必要になって来るでしょう。
その時が世界遺産として登録された真価が問われると思います。

自治体の英知を以って乗り切ってもらいたい。

貯水槽(防火水槽)

西繭倉庫

燃焼炉煙突

乾燥場





七日市藩 藩邸

七日市藩 藩邸玄関

黒門(中門)

藩邸妻側

藩邸平側

棟鬼瓦

七日市前田家家紋 梅鉢(星梅鉢)

庭園 赤松

庭園 生垣

庭園 欅(富岡市銘木十選)

庭園 池泉

庭園 植樹木

陸軍中野学校終焉の地 記念碑

県立富岡高等学校 校舎

  七日市藩陣屋跡(藩邸跡)
七日市藩前田家一万石の藩邸跡で、堀、土塁、石垣塀で守られた館風の藩主居住及び藩政の要であった。
当前田家は加賀藩前田家の支藩で、宗家藩主前田利家の五男利孝を藩祖としている。
利孝は大坂の役で功を挙げ、翌年(元和二年)甘楽郡内に支配領地を与えられ七日市藩を起こした。

藩邸跡地は、現富岡高等学校を含む陣屋としては広大な敷地で、江戸藩邸や藩庁維持管理に出費を強いられたでしょう。
建築年代は天保十四年(1843)再建と伝わっています。(前藩邸は火災により焼失)
建物は昭和五十二年に藩邸移築補修、黒門(中門)改修とありますので、敷地内のどこかにあったのでしょう。
現在の庭園は、古絵図などの資料によって整備されたと思われます。

現在の藩邸敷地内に、陸軍中野学校終焉の地の石碑が建っていて、戦争末期の疎開でしょうか。
あの大本営作戦本部も松代(長野市松代)に移転計画、建設中の中の一環として移転してきたのでしょう
映画華やか成りし頃に、市川雷蔵・小川真由美主演で陸軍中野学校シリーズが上映されて、三流映画館でよく見たものであった。
007シリーズとまではいかなくとも、同時代に上映されたスパイサスペンスであった。

甘楽温泉かんらの湯へ

甘楽温泉かんらの湯へ

甘楽温泉かんらの湯へ

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アップルランド 南田温泉

分析書





鰺ヶ沢温泉 水軍の宿 ajigasawaonsen-suigunnoyado

温泉名: 鰺ヶ沢温泉水軍の宿
源泉名: 鰺ヶ沢温泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物泉
     高張性 中性 高温泉
     pH 7.3  陽イオン 11082㎎/㎏  陰イオン 17619㎎/㎏
     成分総計 28797㎎/㎏  メタホウ酸 34.4㎎/㎏

源泉温度: 59℃

湧出量: 200L/min (揚湯使用量)
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 関節のこわばり うちみ くじき 
     慢性消化器疾患 痔疾 冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 慢性皮膚病 慢性婦人病

利用料: 大人 450円  中人150円  小人60円
利用時間: 8.00~21.00
休日: 無休


鰺ヶ沢温泉 水軍の宿
青森県鰺ヶ沢町大字舞戸町字下富田26-1
Tel: 0173-72-5611


姉妹館 ホテルグランメール山海荘

温泉名: 鰺ヶ沢温泉
源泉名: 鳴戸温泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉(化石海水温泉)
     高張性 弱アルカリ性 温泉
     pH 7.6  陽イオン 10040㎎/㎏  陰イオン 17240㎎/kg
     成分総計 27448㎎/㎏

源泉温度: 39.9℃

湧出量: 235L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 塩素系消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり 運動麻痺
     うちみ くじき 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 健康増進
     火傷 切傷 慢性皮膚病 慢性婦人病


利用料: 大人 450円  小人 150円 
利用時間: 11.00~13.00

バスタオル・フェイスタオル付プラン
利用料: 大人 1000円  小人 600円      
利用時間: 11.00~21.00
休日: 毎週水曜日 祝祭日の場合水曜日の前後日(問い合わせ)


ホテルグランメール 山海荘
青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字舞戸町字鳴戸1
Tel: 0173-72-8111



鰺ヶ沢駅から鉄道路線を挟んで反対側にある。
公衆浴場を併設している。(公衆浴場温泉部)
40~42℃位の足ツボマッサージと熱めの浴槽の二つ、他に水風呂がある。
露天風呂は船形の浴槽で水軍の小舟に似せた造りで舳先の砲から湯が流れていた。
奥には露天風呂の浴槽だったと思われる箇所があり今は使われていないようだ。
温め、熱めは源泉の投入量で調整しているとおもわれるが、
量の違いははっきりとは判らない。

露天風呂付き客室の浴槽は、源泉投入量が浴槽に比べ多いので、
水で薄めないとは入れませんでした。
源泉の湯量は客側で調整が効かないようになっていて、もったいない気もする。
入浴する毎に水道水も消費するのでなおさらです。

宿からは10~15分で海岸に辿り着く。
防波堤外は消波ブロックが設置されているので海辺で遊ぶことは出来ないが、
その分海浜公園があり斜張橋の遊歩道も設けられていた。
防波堤内には砂浜があり、夏の遊び場となって賑わいそうだ。

鰺ヶ沢町はブサカワ犬(秋田犬)のわさおでTV手取り上げられ、
町のシンボルとなって各種施設や土産品のキャラクターに取り上げられている。
実家は海岸沿いのイカの加工所を営んでおり、直販も行っているらしい。

水軍の宿 わさおが出迎え

船形浴槽露天風呂

石が敷かれた足ツボ浴槽

部屋付浴槽

成分分析書

公衆浴場 温泉浴場部入口

昭和18年11月16日付の成分分析書

早朝の海浜公園

海浜公園 はまなす

河口に架かる斜張橋

鰺ヶ沢からの岩木山

わさおがプリントされた土産品

鰺ヶ沢駅

  鰺ヶ沢の由来
日本海に面し、古くから漁港として栄えた鰺ヶ沢の地名は、
海の町にふさわしく鯵の漁獲高が多いことから「あじが沢」と呼ばれたことに由来すると云われています。
また、鰺ヶ沢には津軽藩(弘前藩)の始祖である津軽光信公の館跡があり、藩の御用港として海運業でも栄え、
最盛期には千石船などが百三十隻も入港していました。
現在でも新鮮な魚介類が港に上り、イカの生干しが海沿いに並びます。

駅前の招きわさお

津軽民謡

大館駅 秋田犬ハチを祀るハチ公神社

東日流(東つがる)安東水軍木札

鰺ヶ沢名物 平目の漬け丼

朝食

五所川原立佞武多の館





五所川原 立佞武多の館


参照: 温泉その8→サンルート五所川原

陰陽師

建御雷神と地震鯰

義経

平成十年(1998)運行。
市の援助をうけて立佞武多がおよそ九十年ぶりに市内を正式に運行する
ことが決まり最初に製作された立佞武多。
歴史物や歌舞伎を題材とすることが多いねぷたには珍しく
家族の絆をテーマに取り上げ、先人や親から受け継いだ生活の知恵・文化
と言った財産を次世代に伝えたい、という願いを込めて作られた。

同年十二月に東京ドームで開催された「活彩あおもり大祭典」や、
平成十二年(2000)末の「奥津軽2000年祭」などで雄姿を見せた後、
約一世紀ぶりとなる市内正式運行の立役者を務めた労をねぎらう意味で
火が放たれ昇天、その役目を全うした。


これまでの立佞武多

平成十一年運行。
我々の心の中に住む鬼や魔を追い払うため、勇気と知恵を持って立ち上がり、
一人一人が桃太郎となって鬼を退治しなければならない、
との思いを込めて制作された二代目立佞武多。
金棒を片手に指を突出し、地上から見上げるものを睥睨するかのような
その表情は、歴代立佞武多の中でも迫力満点、
小さな子供が見たら泣き出しそうなくらいの威圧感がある。

「親子の旅立ち」に続き、平成十一年の東京ドームの「活彩あおもり大祭典」
に出品し、全国にその名を知らしめた。
その後、平成十三年まで運行し、退役した。

親子の旅立ち  高さ: 22m  重量: 16.36t  

鬼が来た  高さ: 21m  重量: 17.5t

軍配  高さ: 22.2m  重量: 16.0t

平成十二年運行。
五所川原出身の関取・清水川元吉は、大正末期に幕内で頭角を現し
期待されていたが、昭和に入って人気に溺れるあまり、
場所を放棄するなどして一旦は破門される。
しかしその後不屈の闘志で返り咲き、大関までのぼりつめた。

昭和十九年・二十一年の二度の大火から再興した五所川原の歴史を
その清水川の数奇な人生と重ね合わせ、その強固な精神と情熱、
故郷を愛する力でこの街を再生し、勝ち名乗りを受けたい、
との願いを込めて制作された。
平成十四年まで運行し、退役した。

北の守護神  高さ: 22.1m  重量: 17.0t

平成十三年運行。
景気低迷のなか、町を不況の風から守り活性化させるため、
北の守り神「毘沙門天」多聞天を建立、北の大地から熱い心と
じょっぱり魂を発信し、新世紀の繁栄を祈念してつくられた。

毘沙門天(多聞天)は仏教を守護する守護神・四天王(東・持国天  南・増長天 
西・広目天  北・多聞天)の一人で、北方を司る武神。
また、七福神の一員としてもよく知られている。
平成十五年まで運行し、退役した。

その後同年八月から、台座部分を改良して福岡市のキャナルシティ博多に出展、
五所川原の夏祭りの象徴として好評を博した。

白神  高さ: 22.2m  重量: 19.6t

五穀豊饒  高さ: 22m  重量: 17.0t

平成十四年運行。
私たち人間は、これまで自然界から多大な恩恵を受けて繁栄してきた
にもかかわらず感謝の気持ちを忘れ、そればかりか自らの欲望のために
自然を傷つけてきてしまった。
今、自然界は我々を強く戒めるために牙を剥き出しているのだ。
そんな自然界の怒りをテーマに製作された。

由来となった白神山地は地球規模で見てもきわめて貴重な自然地域とされ、
平成五年に世界遺産の登録された。
平成十六年まで運行し、退役した。

平成十五年六月、東京・丸の内ビルの「Aomori Festival Week」に出展した。

平成十五年運行。
欲望を追求し自然環境を破壊し続けた結果、地球温暖化を原因とする
異常気象を招いてしまったわれわれ人類。
昨今の冷夏や長雨が農作物に悪影響を及ぼしているが、
これは自然界からの警鐘であり、今こそ自らを諌め、
神々に感謝して「五穀豊饒」を祈願したい、との願いを込めて制作された。

風神・雷神は、その名の通り風・雷を神格化したもので、
古くから自然への畏敬と除災を祈念する対象として祀られてきた。
これまでの立佞武多とは大きく異なる二体の鬼神を配置した、
斬新な意匠が話題となった。

平成十七年まで運行し、退役した。

五所川原立佞武多の歴史と復活の歩み


  
灯籠の大型化は江戸時代から
ねぷたの燈籠自体の大型化が始まったのは、祭りが現在のように大規模化するよりもずっと以前である。
文化・文政年間(1804~1830)には燈籠の大型化・人形化が進み、町や村ごとに大きさを競い合うようななっていた。
天保年間(1830~1843)の弘前の史書にも、黒石藩で高さ14~16メートルの大型のねぷたを運行した、という記録がある。
また、明治時代中期(1900年代)には、すでに高さ19.8~21.6メートルに及ぶ大型ねぷたが造られており、
高さ15メートル前後と思われる大型ねぷた人形の写真も残っている。

現在でこそ青森ねぶたの様に横幅の広いねぶた人形が主流としてよく知られているが、
明治頃までは道幅の狭い町内での運行と人形の大型化を共立するために背丈を高くする方法がとられたこと、
また、電気が普及しておらず、電線が少なかったことなどが背景となり、
大型ねぷたはもっぱら「立ち人形ねぷた」の形式をとっていたのである。


  電線の普及によりねぷたは小型化に
しかし大正時代、電気の普及に伴って電線が町内を網羅するようになり、まぷたは縮小を余儀なくされていく。
青森市などの市街地では鉄道の高架橋もできはじめ、背の高い巨大ねぶたは姿を消して、
大型ねぶたは高さよりも横幅の広さや人形の造形の美しさに発展の方向性を見出すようになった。 

五所川原もその例にもれず、それでも昭和初期までは台座など細部に趣向を凝らして小形のねぷたを製作していたが、
昭和後期にはねぷたを独自には作らず、他の市町から買い受けるなど「五所川原のねぷた」は輝きを失っていき、
往時の熱気を知る人々を寂しがらせていた。


  三枚の写真と七枚の図面 
そんな折、昭和五十四年に五所川原市制施行二十五年を記念して開催された写真展「写真で見るわが町の歩み」に出展された
明治時代に写されたねぷたの三枚の写真がねぷた復活をひそかに願う五所川原の人の心を動かした。
写真には高さ15m以上はあろうかという巨大ねぷたとそれを造り上げた先人たちの誇らしげな表情が写っていた。
「あの巨大なねぷたをこの手で作りたい」そんな憧れに近い思いから、「巨大ねぷたの復活」の気運が高まっていく。

そして時代を経て平成五年、五所川原市の秋元陸奥雄さんが祖父の遺品の中から発見した
七枚の古い図面によって状況は一変した。
明治・大正時代のものと思われるその図面には、大型ねぷたの台座部分の設計図が墨で書かれており、
その内の一枚には、高さおよそ9.8m、三つの僧からなる台座の詳細な寸法も記入されていた。
この図面を書いた秋元さんの祖父秋元末吉さんは、五所川原の豪商「布嘉」に仕えた大工だった。
その昔、五所川原でも羽振りの良い農家や商人たちが財力の象徴として巨大ねぷたを作らせたものである。

「布嘉」といえば、小さな呉服商から一代で青森県隋一と言われる材を築いた大富豪・佐々木嘉太郎である。
そのお抱え大工が引いた図面は、当時を知る手掛かりとして、非常に貴重な資料と言えた。
こうしたことをきっかけに、市民劇団の舞台用に高さ7mの大型ねぷたを製作したことのある三上真輝さんが一念発起し、
平成八年二月長年の夢であった巨大ねぷた復元を決意する。
その巨大ねぷたを「立佞武多」と銘打ち、「立佞武多復元の会」を発足させたのである。


  文字通り手探りの復元作業
七夕にちなんで七月完成を目指し、四月に本格的な製作がスタートしたが、手掛かりは当時の写真と台座の設計図のみで、
後はかっての経験と想像力でカバーするという試行錯誤の連続で、その上各々で持ち寄った資金も底をつくなど、
復活への道のりはやはり容易ではなかった。
「立佞武多復活の会」実行委員長の成田博昭さんらの呼びかけで市内に設置された募金箱から予想を上回る寄付金が集まり、
また地元有志からも有形無形の支援を受け、多くの人々の熱い思いを託された立佞武多「武者」が七月、
ついに岩木川の川原にその堂々たる雄姿を現した。
さらに、復元しただけでは飽き足らず、わずか400mの距離ながら人力で運行させ、多くの人の喝采を浴びた。
そして運行最終日には、古来の風習にならって「昇天の儀」を行い、火をかけ炎上させたのである。

苦心に苦心を重ねて完成に漕ぎ着けた立佞武多が炎に包まれて昇天する姿は、復元に関わったものすべてに
言葉にならない感動をもたらしたのであった。
一方、この時点では製作責任者の三上さんでさえ「今回一回限りの復活」との位置付けでいた立佞武多だったが、
これが契機となってその二年後、市をあげての大きな流れを生み出すことになった。


  継続された立佞武多
平成八年、地元有志の手で復活した立佞武多は、平成十年から正式に市内を運行することになった。
翌年以降毎年新作ねぷたが一台製作され、平成十一年には二台で運行され、平成十二年には計三台が出陣運行された。
その後は、三台うちもっとも古い立佞武多が退役し、代わりに新作が追加されて常時三台が運行をするという形態が定着し、
現在に至っている。
これには、新作の製作と二台の補修作業でほぼ一年を費やせてしまうという巨大ねぷたならではの事情もあった。


  立佞武多の構造と大きさ
その年によってわずかな違いはあるが、立佞武多の高さは台座部分が約10m、人形部分が約12m、
合計約22m前後に統一されている。
中心部分に鉄骨製の心棒(トラス構造)があり、また大型の発電機も備えているため、総重量は約17tにも達する。

人形部分は十五~十八個のパーツに分れており、そのほとんどは木・針金・和紙など
一般的なねぷたと同様の材料からなっている。
ただし分量はやはり桁違いで、表面に張られている和紙は畳およそ600畳分、針金700㎏、骨組みに使う材木は2トン。
内部に仕込まれる照明は、電球600~800個、蛍光灯40~60本におよび、点灯には一般家庭約十軒分の電力を要する。
最近の照明器具はLED電球の普及が進み、省電力化が図られている。

                                            案内説明より

立佞武多の館
青森県五所川原市大町21-1  Tel: 0173-38-3232

五能線 リゾートしらかみ号と津軽鉄道車両

青池編成車両

橅編成車両

くまげら編成車両

津軽鉄道車両

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鰺ヶ沢温泉へ

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上山温泉 古窯 kaminoyamaonsen-koyoh

温泉名: 上山温泉
源泉名: 葉山地区1号・2号混合泉
泉質: ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉
      低張性 弱アルカリ性 高温泉
      pH 7.7  陽イオン 826.1㎎/㎏  陰イオン 1472㎎/㎏
      成分総計 2373㎎/㎏

源泉温度: 60.6℃ (貯湯槽)

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能:切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症
    関節痛・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
    冷え性・疲労回復


上山温泉 古窯
山形県上山市葉山5-20
Tel: 023-672-5454


大規模の温泉旅館は衛生上の問題から源泉かけ流しは難しそうだ。
源泉温度が40~50℃で湧出量が1000L/min以上の条件が有れば可能と思われるが、
分析書などの値からはかけ流しがせいいっぱのところだろう。

このかけ流しという定義はよくわからないところがある。
水を加え、沸かし 循環ろ過 かつ殺菌消毒剤を投入でもかけ流しというらしい。
ではかけ流しでは無い浴槽は、オーバーフローした湯を再び浴槽に戻しているのだろうか。
このようなシステムはあまり聞いたことが無いし、見たこともない。
かけ流しをうたっていない浴槽は実際にはどうなんでしょうかね。

ただ、温泉に求めるものは人それぞれでしょうから綺麗な大浴槽も立派な施設。
特に家族連れには重要で、レジャー感覚も高まるのではないでしょうか。
古窯の浴槽では一階にある露天風呂の二つの浴槽は見たところ源泉かけ流しと思える。
雰囲気も大変良かった。

8階展望風呂大浴場

8階展望露天風呂

古窯玄関

成分分析書

1階大浴場

1階船形露天風呂

1階籠型露天風呂

紅花風呂の由来


山形の紅花は京紅、京友禅の染料として使われ、最上川より酒田に出て、北前船で京の都に運ばれました。
お陰で羽前国(山形県)は紅花商人によって京文化が運ばれ、京言葉や京雛が各地に沢山受け継がれました。
現在、雛街道として山形県の観光名所につながっております。
日本海の波を蹴立てて走る北前船は、淡路島より遠く蝦夷江差まで海路をたどり、港々に幸運をもたらしたといわれております。

この史実に基づき、伝承された船大工に、北前船の1/10 のヒノキ造りで再現していただきました。
これに因んで紅花風呂と命名したものです。

                                              案内説明より

大理石?の豪華な化粧室

浴場神棚が祀られていた

かまくら造りの冷風風呂

六角上り藤 古窯の家紋?

焼物の画廊

焼窯と煙突

館内いたる所にある著名人の館内画廊で書いた絵皿の展示  一緒に来館したであろう阿川弘之と子の絵皿

須恵器窯遺跡と記念楽焼説明文


わが日本の須恵器(縄文土器・弥生土器・土師器・須恵器)ハ、概に千二百余年前焼成され、
生成品が正倉院御物に残って居ります。
然るに、此須恵器窯跡がはからずも、昭和三十二年此境地に発見されたるを史実上重視すべきでありますが、
地主佐藤氏ハ是れを記念すべく特に楽焼窯を設備して、同好の諸賢と共に発見の意義を深めんとするハ、
蓋し好固の文化事業と思います。


  館内窯神社について 窯元古窯
古窯の名は館内から出土した一千二百年前の奈良朝時代の窯跡によって名付けたものですが、此度窯の神をまつりお客様方の旅の安全とお家族様の御無事と御開運を願うものでございます。
お客様の御名刺を御投函いただきますとお祈りいたし、また当館顧客名簿に大切に保存させていただきます。

                                               案内説明より

発掘窯跡写真(館内展示の写真より)

窯跡石垣と窯跡(窓越しでよく見えない)

古窯全景

前庭

古窯より蔵王連山

夕暮れの山形

夕食

朝食

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男鹿金ヶ崎温泉 ホテルきららか
 kanegasakionsen-hotelkiraraka

温泉名: 金ヶ崎温泉
源泉名: 金ヶ崎2号井源泉
泉質: ナトリウム-塩化物泉
     等張性 中性 高温泉
     pH 6.4  陽イオン 3521㎎/㎏  陰イオン 5999㎎/㎏
     メタケイ酸 154㎎/kg   メタホウ酸 51.3㎎/㎏  二酸化炭素300㎎/㎏
     成分総計 10002㎎/㎏

源泉温度: 55.5℃

湧出量:不明
湧出形態: 自然湧出
注入排出形態: 加温 消毒  一部源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 関節のこわばり うちみ くじき 
     慢性消化器疾患 痔疾 冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 慢性皮膚病 慢性婦人病

利用料: 700円
利用時間: 11.30~18.00
休日: 無休 (問い合わせ)


金ヶ崎温泉 桜島リゾートホテルきららか
秋田県男鹿市戸賀加茂青砂字中台1-466
Tel: 0185-37-2311


ホテルきららかの温泉は、きららかの北方2㎞の波打ち際に湧き出でる名湯
「金ヶ崎温泉」が源泉です。
この温泉は男鹿の漁師が漁の疲れをいやすため利用したもので、
きららかではこの源泉から直接引湯しておりますので、大変体が温まり、
神経痛、慢性消化器疾患などすばらしい効能があるといわれております。
まお、浴槽内の沈殿物はこの源泉特有の鉄分を含んだ湯の花です。

                              浴室内説明より

夕日19時23分

日没後19時39分 岩場の釣り人

露天風呂からの眺め

夕日19時15分

温泉成分分析書

ホテルきららか

内湯

露天風呂

夕食そのⅠ

夕食そのⅡ

夕食そのⅢ

朝食

夜明けの地平線

早朝 漁師のお仕事

朝日の岩肌

新日本海フェリー 敦賀行き?

釣人の岩場送迎船 副業?

なまはげ顔像

遊歩道から男鹿の海岸

男鹿駅


  なまはげ伝説
昔、漢の武帝が飛車に乗り、五匹のこうもりを従えて男鹿にやってきた。
こうもりは五匹の鬼に変わりよく働いたので、武帝は正月十五日に一日だけ休みを与えた。
鬼たちは初めて村里へ来てうれしさのあまり、畑を荒し、家畜や娘たちをさらっていった。

これに怒った村人は鬼退治に出かけたが、力の強い鬼たちに散々な目にあわされた。
困った村人は、鬼たちと「かけ」をすることにした。
「毎年一人ずつ娘を出す代わりに、五社堂まで一夜のうちに千段の石段をつくること。これができなければ二度と村へは来るな」
鬼たちは日暮れを待って、石段を積み始めた。
大きな石をカカエ、あれよあれよという間に石段を積み上げていく。

あわてた村人は、物まね上手を使って鬼たちが九百九十九段まで積み上げたところで「コケコッコー」と一番鶏の鳴きまねをさせた。
鬼たちは飛び上がって驚き、怒り、そばにあった千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺し山へ帰って行った。
それからというもの、鬼たちが再び村へ下りてくる事は無かった。

                                          案内説明より

説明を読んで、鬼が村人の「かけ」によくのってきたものです。
かけをするまでもなく鬼は村を荒し食物を奪い、娘をさらって行けたのにね。
村人はその鬼に太刀打ちできない立場に置かれていたようなものです。
その鬼が現在里に下りてきて人家に押し入り「悪い子はいねがぁ 泣く子はいねがぁ親不孝な子供はいねがぁ」などと、
正義の味方を装うようになったのは、この後の物語が有りそうな気がしている。
機会が有ればその他の伝説も聞いてみたい。


男鹿駅前 なまはげ歓迎像

駅舎内 なまはげ人形

男鹿駅構内待合室に掲げられた観光ポスター写真 なまはげ柴灯祭り 真山神社 

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五社堂 九百九十九段石段

赤神神社五社堂

なまはげ館

男鹿真山伝承館 (なまはげ伝承館)






上林温泉 せきや kanbayasionsen-sekinoya

豪雪の館   

温泉名: 地獄谷温泉
源泉名: 地獄谷源泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉
     低張性 中性 高温泉
     pH 6.68  陽イオン  306.9㎎/㎏  陰イオン 553.4㎎/㎏
     成分総計 1078㎎/㎏

源泉温度: 59.5℃

湧出量: 不明
湧出形態: 不明
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 切り傷・やけど・慢性皮膚炎・慢性婦人病・動脈硬化症
     関節痛・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・うちみ・ねんざ・慢性消化器病・痔疾
     冷え性・疲労回復


上林温泉 湯宿せきや
長野県下高井郡山ノ内町上林温泉
Tel: 0269-33-2268



山ノ内温泉郷の奥まったところにある。
湯田中、渋温泉とは違った雰囲気のある温泉場であった。
山深い坂道に沿った少なめの温泉宿がかもし出す落ち着いた風情もいいい。
野猿公苑まで徒歩30分とのことである。

ことであるでお分かりのように今回は訪れていない。
前に訪れたころは松茸の季節で十月に入ったころだった。
その時は湯に入っていたのでやはり北信濃の秋は早かったと思う。
「スノーモキー」として外国にも知れた野猿公苑はやはりお猿様が雪景色の中
温泉に浸かる光景が脳裏に浮かび、
彼岸が近いとはいえ九月初旬は入浴されないだろうと・・・・

さるの棲息北限が青森県の下北半島であると聞いたことがある。
北限とは緯度で定義しているのだろうか。
ならばヨーロッパにも環境に適合した猿が生息していても何の不思議でもない。
だが彼らも雪の中で生息する猿は驚きの様だ。
なんとしても、雪深い中温泉に浸かるところを見たいものだ。


湯宿せきやは、部屋数八室の隠れ家?的な宿。
60インチはあろうかという大型のテレビが目を引いた。
しかも、3Dソフトも五、六枚置いてあり、3Dメガネをかけて観賞した。
高規格のマッサージチェアーは部屋備え付で、コイン投入口はない。

館内には「たんのい」リスニング&バールームがあり、秋の夜長を堪能させる。
ルーム名の「たんのい」はイギリスのスピーカーメーカーのTANNOYと同意味で、
TANNOYブランドのコアキシャル型スピーカーから音を出していた。
ターンテーブル、ピックアップのワウ防止装置付きプレーヤで味がある。
コントロールアンプは見なかったが、KT88のP・Pステレオパワーアンプ。
ソースはナット・キングコール。
慕情、モナリザ、枯葉、キサス・キサス・キサス、スターダストなど彼のベスト盤。


宿から徒歩一分のところに豪雪の館という施設がある。

露天風呂 かえでの湯

露天風呂 もみじの湯

けやきの湯

客室 露天風呂

分析書

内湯

湯宿 せきや

中庭

中庭

露天風呂から渓流

巨大なキイロスズメバチの巣

リスニング&バー たんのい





豪雪の館

豪雪の館外観

玄関

居間・広間

居間の神棚

奥の座敷

中の座敷

座敷

書斎

主婦の間

寝間


  豪雪の館開館にあたって
この民俗資料館はわが国有数の豪雪地帯・新潟県東頚城郡松之山町に現存した「豪農の家」を旧来の構法を用い、
ここ上林の地に移築したものです。
豪雪に耐え、その使命を果たし得たことから『豪雪に館』と名付けたもので、
建築年代は江戸・安政年間(1850年頃)に建てられたものと思われます。
「民家」は歴史の中で、人々の生活が織りなす時の流れにより洗練され、生産や生活に適合した環境・居住空間と
素朴で実用的な数々の道具類を造り上げました。

歴史的事実やその大きな意味、先人たちが残してくれた尊い文化遺産を大切にしたい。
私たちはこの願いから、建築学的にも貴重なこの建物を移築・保存し、歴史の流れを物語る様々な家具調度や
生活の道具、職人・商人の道具類などの民俗資料を館内に収集、展示し、
日本人の心のふるさとの再現と存続をこの資料館に託しました。

地域文化の向上のためにも『豪雪の館』のより積極的な活動を展開したいと思います。
日本古来の建物が年々姿を消してゆく現代建築の現実の中で、忘れ去られようとしているかけがえのない伝統と文化を
残すことに務めたい。
今、過ぎ去ろうとしているその昔を思い浮かべて・・・・・


  構造 「船枻造り」
船枻造りはこの建物の特色の一つで、軒の出を深くして茅に垂れ下がりを防ぐため側柱上部からの腕木により
出桁を支えるもので、非常に力量感あふれる外観にしている。
荘厳のうちにもなぜか親しみを覚えさせる大戸口とは対照的に、厳粛な格式をそなえた式台玄関の造りは
建物全体を力強く引き締め、「豪農」の名にふさわしく、より自信に満ちたものである。

渋い光を放つ太い柱が立ち、欅の幅広い梁が縦横に走る長大な梁組、貫、周に長押をめぐらし高い天井の整然とした造りである。
中二階の明り取りの設えが陽ざしを部屋の奥までやさしく誘い込む。
幾重にも組まれた木構造の美しさ、これが昔の職人気質にも通じるものだろう。
長い年月を豪雪に耐え、今、さらにいきいきとしている様は素晴らしい。

雪深い松の山に構築されたこの家は、大切妻と前面の切妻が一体となって美しいシルエットを見せている。
曲がった丸太柱や屋根裏の梁組、素朴に見える様々な意匠もいずれ亡び去る運命にある。
風雪の日々、人々と共に生きぬき、風雪の日、誰にもみとられぬまま倒壊してゆく。
家々からは厳しい自然や社会の変化に立ち向かってきた歴史の足音が、そして息づかいが伝わってくる。
この建物は厩中門と呼ばれる形式で、長野県の北部から東北地方の日本海側に多く分布する民家の形式である。
貫や束が細かく組まれ、力強く美しい大きな妻壁が見事なコントラストである。

                                          案内説明より


  玄関
庄屋としての役目柄の玄関も立派な設えの格式のあるもので、中の座敷に続く式台玄関は出入りする特別な身分の人々を迎えるためのものであった。
中の座敷、奥の座敷は、出入りする役人や僧侶・医者など大切な客の接待や宿泊に使われた。
玄関、座敷には格調ある造りが見られ、建築的にも多くの傑れた価値が見いだせる。
また、それらの人々のために上湯殿や上便所が置かれた。


  居間・広間
屋敷は村役人である庄屋などにとって公務の場であり、この部屋は年貢米などの管理や出納、貸し付けなど主人が執務する
「帳付け場」事務管理の場として使われ、ここに続く広間で村人たちの訴えなどを聞き、村の政策ををとったのであろう。
後壁面の神棚には豊作祈願、収穫感謝、商売繁盛などを祈願した。
帳場格子に大福帳、帳箪笥や長火鉢、帳箪笥、茶箪笥や銭函などを配し当時を再現した。

囲炉裏は住まいに設けられた最初の設備である。
「いろり」とは室町時代からの言葉で、それ以前は「ひたき(比多岐)」などと呼ばれていた。
人の居場所、火所などを意味し、炊事、採暖、乾燥、照明などの機能の他に、歳末、新年などの行事や儀式が行われたという。
囲炉裏の鈎は鍋釜など自由な位置に吊るせるように工夫されたもので「自在鉤」と呼ばれ、
炉の上の頑丈な格子棚は舞い上がる火の粉を防ぐ役目と共に
濡れた衣服や雪沓など藁製履物の乾燥や食物の保存などに役立った。


  奥の座敷
高い格式と豪華さをその設えに見せ、吟味された材をふんだんに使った見事な飾り棚や床の間、欄間などその多くは
正式な客をもてなすための心配りだったのだろうか。
三枚の杉板が天井に張られ、まるで一枚の絵でも見ているかのように贅沢ともいえるすばらしいものがあり、
落ち着いたその造りに時の流れが伝わってくる。
この座敷には明治期風の調度を配し、雰囲気を再現した。


  中の座敷
庄屋(西日本)や名主、肝煎り(東日本)などの屋敷は武士である役人を接待するために正式な玄関や座敷が必要だった。
式台を入ると畳敷きの控の間、中の座敷と続く。
ここは近年、仏間として使われていたという。
さまざまな客が出入りし、書院造などが許され、それらに使用された建築材も贅沢で豪華な設備のものが多く使われた。

  
  座敷
広くとられた廊下からの自然の光が部屋の隅々までゆきわたる。
ドイツ製の特徴ある絵柄ガラスを使い、気品に満ちたこの見事で独特な純日本風の造り「、飾り棚や床柱なども素晴らしい。
床の間には先人たちの教えを説かれた掛軸などが下げられていたのだろうか。
この座敷には大正期を代表する吊り下げ方のランプ、車付の桐箪笥などを配し、当時の雰囲気を再現した。


  書斎
シンプルなこの部屋は一般的な書院風の造りをしている。
明るく整然とした雰囲気のなか、ある時代は書斎として、さらに隠居部屋などとして使われた。
手習い机や台ランプなどに当時の面影がうかがえる。
やわらかい秋の日差しは厳しい冬への前ぶれであろうか。


  主婦の部屋
その昔も今も主婦の役割はあまり変化していないが、主婦の部屋には化粧道具をはじめ、
裁縫道具(針箱、くけ台等)、育児道具(つぐら、玩具等)などがあった。
この部屋は中の座敷の裏に当たり主人夫婦の寝間となっていた。


  寝間
昔、人々が住まいを作った直接の原因はそこを寝ぐらとするためだった。
この原始的住居に他の生活要素が持ち込まれ、まず寝るための部屋が区切られ、間仕切りの発生で寝と食が分離された。
「寝間」と呼ばれる寝室の天井は低く、その時代の寝具は現代とあまり変わらないが、枕は「箱枕」と呼ばれ、髪形に適したものが使われ、暖房には陶製の湯たんぽや行火などが使われていた。


  勝手
ここは今の台所に当たり、水竈や「水屋戸棚」が置かれ、戸棚には箱膳やや陶器、漆器などの什器が入り、
食物や油、味噌醤油、酒などの貯蔵用甕や桶などが置かれた。
普段の食事は質素な一汁一菜だったが、来客や祝い事の料理は豪華で、膳や椀など蒔絵朱塗りの豪華なものが使われ、
上附きの受け持ち女中も決まっていたという。
普段、、使われた風呂場はここに隣接し、小窓から湯加減など中の様子を伺った。
当時としては珍しい色着きガラスが使われている。


  土間
中門造りは豪雪地帯に多く分布し、広間を中心とした母屋部分に厩や通路、土間などが鍵型に突き出ているのが特徴で、
この館の場合は厩中門と呼ばれる。
現在の手洗いの部分に厩、鶏小屋、便所などがあり、階上は物置として薪やその他養蚕道具などの保管場所だった。
大切な馬は家族同様に扱われ、厩は隣接しておかれた。
大戸口を入ったところが広い土間で、その奥に囲炉裏のあるさらに大きな板の間が広がっている。
土間は一般的に農作業や山仕事に出かけるための準備や、脱穀や籾を挽く米こしらえ、
藁仕事など様々なことが行われた場所でした。

ここは最も用途があったところで、季節によって味噌炊きや醬油づくり、餅つきなどが行われ唐臼などの道具類が置かれていた。
常に適当な湿度や清浄な環境が保たれ、漬物や味噌・醤油などの製造や貯蔵のための場所だった。
人々が信仰する神佛は座敷に鎮座し、、かまどとか井戸など土俗的な神々はすべてこの土間に祀られ、
最も神聖な仕事場となっていたのである。
村の小作人たちは、庄屋の主を「旦那様」などと呼び、農作業や冠婚葬祭など様々な手伝いをして、
主従のような関係で結ばれていた。
上り口に並ぶ二つの大きな「沓脱ぎ石」はその時代などによってそれぞれ家族や村人、使用人、小作人などの
身分別に使い分けられていた。

                                            案内説明より

勝手

土間

下駄スケートコレクション

棟の木組みと太通し梁

木挽き道具

店看板

手動蓄音機

人形コレクション

木板七夕人形

  昔の看板コレクション
江戸時代に普及した暖簾は屋号や商標などが染め抜かれ、
それはやがて木の板に蒔絵や金箔入りの文字で書かれたものに変り、一世を風靡した。
天保十三年(1842)にはそれまでのような贅沢な看板は禁止というお触書が出されたために一時自制された。
しかしその後、さまざまな工夫や技巧が凝らされた看板、実物看板や行灯看板などが出現し、看板の主流を占めるようになった。
平仮名や万葉仮名風文字の独特な物や現代においても魅力的で素朴な味わいのあるもの、
絵画的シンボルや商品や商いの内容をシンボルとしたものなどシンプルなデザインのものも多く、
その迫力と豪華さに当時の商人や職人の心意気と気迫が感じられる。


  作業道具コレクション
幾重にも組まれた木構造の美しさ、これが昔の職人気質に通じるものなのだろう。
長い年月を重い積雪に耐え、今、さらにいきいきとしている様は素晴らしい。
屋根裏の骨組みも豪雪地帯のそれにふさわしく、豪快に重なり合った梁や柱、貫などの木組み構造は昔の職人芸の現れである。
家を一軒建てるには大工、左官、屋根、鳶、建具、表具師、畳、錺、庭師、土木など様々な職人の手による分業で行われた。

                                                 案内説明より

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東鳴子温泉 高友旅館

温泉名: 東鳴子温泉
源泉名: 玉の湯(ひょうたん風呂浴槽)
泉質: ナトリウムー炭酸水素塩泉
     低張性 中性 高温泉
     pH 6.5  陽イオン 280.0㎎/㎏  陰イオン 719.2㎎/㎏
     成分総計 11359.5㎎/㎏ (二酸化炭素360.3㎎/㎏)

源泉温度: 49.3℃

湧出量: 21.9L/min
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ
     くじき 慢性消化器 痔疾 冷え性 疲労回復 健康増進
     高血圧症 動脈硬化症 慢性皮膚病 慢性婦人病 きりきず やけど 糖尿病


源泉名 :幸の湯
(黒湯浴槽)
泉質: 含硫黄 ナトリウムー炭酸水素塩泉
     低張性 中性 高温泉
      pH 6.7  陽イオン 606.1㎎/㎏  陰イオン 1642.5㎎/㎏
     成分総計 2879.3㎎/kg

源泉温度: 57.3℃

湧出量: 6.7ℓ/min
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態:源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ
     くじき 慢性消化器 痔疾 冷え性 疲労回復 健康増進
     高血圧症 動脈硬化症 慢性皮膚病 慢性婦人病 きりきず やけど 糖尿病 


源泉名: 顕の湯(プールの湯浴槽)
泉質: ナトリウム・カルシウムー炭酸水
素塩泉
     低張性 中性 高温泉
     pH 6.8  陽イオン 544.3㎎/㎏  陰イオン 1707.6㎎/㎏
     成分総計 2545.4㎎/㎏

源泉温度: 74.6℃

湧出量: 223L/min
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加水

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ
     くじき 慢性消化器 痔疾 冷え性 疲労回復 健康増進
     高血圧症 動脈硬化症 慢性皮膚病 慢性婦人病 きりきず やけど 糖尿病

利用料: 500円
利用時間: 10.00~15.00
休日: 無休(立ち寄り湯を中止の場合有 問い合わせ)


鳴子温泉郷東鳴子温泉高友旅館
大崎市鳴子温泉字鷲の湯18
Tel: 0229-82-3170


  黒湯について(源泉名幸の湯)
この温泉は、昭和二十七年九月掘削により地下約四百メートルの深さより 
湧出をみましたものです。
成分含有量が非常に多く、空気にふれますと“黒色”となり、
見たところゴミの様に思われますが決して不潔ではありません。
非常に温まるお湯にて湯冷めしない薬湯です。
神経痛、胃腸など諸病によく効きます。

                     館内案内より

なんぶ屋旅館 日帰り可

陸羽東線 鳴子御殿湯駅

プール風呂浴槽

黒湯風呂浴槽

ひょうたん風呂浴槽

東鳴子温泉 高友旅館

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