内濠から内曲輪石垣

  姫路城の城門
姫路城は内濠、中濠、外濠の三重の壕で守られており、内濠内には城主の屋敷や天主、櫓門が築かれ、
中濠内には武家屋敷などが、外濠内には町人町、寺社、下級武士の長屋などが置かれていました。
中濠には全部で十一の門があり、十と一と口とを組み合わせると「吉」に転じるとの意味合いがあると云われています。

中でも南面に設けられて五つの門は西国街道を守る重要な門となっています。
そのためにこれらの門のうち四門は内門と外門という二重の門によって守られており、
これらの門の形状は「桝形門」と呼ばれています。

桝形とは内門と外門にの間に設けられて四角(桝形)い広場のことで、ここに侵入してきた敵は侵攻を妨げられ、
内門の櫓門をはじめ四方八方から攻撃される究極の防備門です。
しかし姫路城内(内濠内)に現存する渚門にはには桝形門はありません。

また弓は左向き半身で構えるため、左側の敵の方が攻撃しやすく、ほとんどの城の桝形門は右折れに造られています。
ところが姫路城の城門は右折れの桝形門は存在せず、鵰門のように平入り並行門の桝形すらあります。

  中ノ門跡
中曲輪正面五門の中央にあるのでこの名がある。
外門は南向き、内門は東向きで、中濠には土橋が設けられていた。
外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。
外門の外側には出番所、内門内には大番所が設けられていた。

飾磨津門から城内に入る正門で大手門と記している古地図もあります。
伝承によれば外門と内門からなるいわゆる高麗門形式で、その威容は西国街道を行き来する旅人を威圧したと云う。


  国道二号線
現在の国道二号線は中濠を埋めて建設されました。
昭和の初めにはまだ濠があり、蓮の花が美しかったと伝えられ、石垣沿いには国道二号線竣工の碑が立っています。
因みに国道沿いの石垣は昭和初期に造られたもので、中濠沿いでは門の付近にしか石垣はなく本来は土塁でした。


  国道二号線建設の碑(昭和八年参月建立)
昭和七年二月、
国道二号線改修ニタメニ城壕東西凡ソ四百五十米ヲ埋メテ道路トナス依テ別ニ境石ヲ置キ其ノ城壕タリシコトヲ示ス


  中ノ門石垣
中ノ門石垣は大正時代のはじめ濠の埋立てに際に取り壊され、現在はほんの一部しか残っていません。
しかしその威容から江戸時代、ここにそびえたっていた巨大な櫓門の姿を想像することはできます。
因みに歩道上に埋められている黒い鉄平石は、後の調査によって発掘された石垣の跡を示しています。


  鵰門跡
中曲輪南側の西方にあり、本町と坂元町との間に設けられていた。
外門と内門はともに南向きで、中濠には土橋が設けられていた。
外門は脇門付高麗門、内門は脇門付櫓門で、外門を入ったところに番所が設けられていた。
門形状は桝形門で、中曲輪に設けられていた十一門のうち最も遺構がのこっており、往時の姿を想像することができます。

石垣の上には櫓門がそびえ立ち、外門を越えて攻め込む敵を狙いすましていたことでしょう。
外門を破り勢いづいた敵もこの櫓門に行く手を拒まれ、桝形三方からの弓矢、鉄砲の攻撃になすすべを失うことでしょう。


  埋門跡
船場川沿いに設けられた城門の一つで、中曲輪南西隅櫓に設けられていました。
外門と内門はともに南向きで、中濠には土橋が設けられていました。
外門は脇門付高麗門で、内門は脇門着く櫓門です。
西南隅に二重の埋門櫓を付し、櫓の北方と東方に防御櫓を設け、西からの防御を重視したた多門櫓となっていました。

この門は姫路城の裏鬼門にあたることから平時は閉じられたままで、
「埋門」の名も今は埋められて用をなさない門であると鬼を偽る狙いがあったと云われています。


  車門跡
船場沿いに設けられた城門の一つです。
中曲輪西南に設けられ、その形状は大小の二重の桝形を有する大変珍しい門です。
船場川に木橋が架けられ、その北に車道門があった。
第一の門は西向き、第二の門は南向きで何れも脇門付の高麗門で、内門は南向きで脇門付櫓門です。
また第一門の横に番所が設けられていました。

車門は船場川沿いの西国街道に面し、ここから建築資材などを荷車で運び入れた事からこの名称が付けられた。
またこの門には船場川から直接船を接岸できる門扉も備えられていたと云われる。
さらにこの門は西国街道に面していることから最も敵の攻撃を受けやすかった門で、
戦闘時には門前の木橋を落とし守りを固めた構造と云われます。


  内京口門跡
中曲輪東南方向にあり、京都方面に通じる西国街道に向いて開かれているためにこの名称があります。
中濠に土橋が設けられ、濠が鍵型に屈曲し、外門と内門はともに南を向いている。
外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門です。
外門の内には番所が設けられていました。


  久長門跡
中曲輪東側にあり、久長町にあることからこの名称がつけられています。
外門と内門はともに東向きに建っており、中濠に土橋が設けられていました。
外門は脇門付高麗門、内門は脇門付櫓門です。
外門の内に番所が設けられていました。                     姫路観光ナビ説明案内より                                               




温泉その14



金沢・・・・・ドーミーイン金沢

姫路・・・・・ドーミーイン姫路

仙台・・・・・ドーミーイン仙台ANNEX

新潟・・・・・ドーミーイン新潟






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ドーミーイン新潟 多宝の湯
 
Dormy inn Niigata-tahonoyu

温泉名: 多宝温泉だいろの湯
源泉名: 多宝温泉3号源泉
泉質: 含硫黄ーナトリウム・カルシウムー塩化物泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH9.1  陽イオン 1830㎎/㎏  陰イオン 2912㎎/㎏
     成分総計 4821㎎/㎏

源泉温度: 44.8℃

湧出量: 3号泉 800L/min (温泉施設岩室温泉だいろの湯)
涌出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: タンクローリー搬入湯 加温 加水 循環ろ過消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復


ドーミーイン新潟 多宝の湯
新潟県新潟市中央区明石1-7-14
025-247-7755

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温泉名: 白鷺の湯
源泉名: 豊沢の湯
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物泉
     高張性 中性 低温泉
     pH 6.16  陽イオン 4240㎎/㎏  陰イオン 7190㎎/㎏
     成分総計 11470㎎/㎏

源泉温度: 25.6℃

湧出量: 22ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復

利用料: 温泉のみの利用は不可
利用時間: 15.00~10.00(翌日)
休日: 無休


ドーミーイン姫路
兵庫県姫路市豊沢町160-2
Tel: 079-286-5489 





ドーミーイン金沢 加賀の湧泉 Dormy inn Kanazawa

  

温泉名: ドーミーイン金沢
源泉名: 加賀の湧泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
     低張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH 7.68  陽イオン 1252㎎/㎏  陰イオン 2208㎎/㎏
     成分総計 3639㎎/㎏

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等

立ち寄り湯不可


ドーミーイン金沢 加賀の湧泉
石川県金沢市堀川新町2-25
Tel: 076-263-9888

夜食サービス ドーミーラーメン

北陸新幹線開通間近の金沢駅 
東京駅と同じ同階ホーム駅舎

浴場箱庭

温泉成分分析書

露天風呂

内風呂

ドーミーイン 金沢(金沢駅前)





ドーミーイン 姫路 Dormy inn Himeji



姫路護国神社  播磨国総社  書寫山圓教寺

姫路城平成の大修理中  姫路城修理完成

ホテル外観 姫路駅南口徒歩3分

大浴場

露天風呂

成分分析書

無料の夜泣そば 21.30~23.00
提供数制限有





兵庫県姫路護国神社

昭和天皇御製

姫路護国神社

社殿 参道

社務所

手水舎

比島散華碑 説明文

神のみそのの あさぼらけ
世のありさまも かかれとぞおもふ

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令
翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く

同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す
途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う
昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ

同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す
此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し
之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為
其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れり

かくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余
部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁
人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し
遂に力尽きて斃るゝもの数を知らず

かくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり
昭和二十年九月十一日終戦を知る

戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ
幸にしてこれが分骨を受く

此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

                                       案内説明より





播磨国総社 射楯兵主神社 harimakokusohsya-itatehyouzjinjya 

総社門

神門


当社は、総社さん又は総社の神様と呼ばれていますが、正式な神社名は 射楯兵主神社(イダテヒョウズジンジャ)と云い、
射楯大神(イダテノオオカミ)と兵主大神(ヒョウズノオオカミ)を御祭神としてお祀りしています。
境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂社、末社の神々を合せて祀っています。


  総社門
この門はかって、姫路城の中曲輪の南部に設けられた城郭門の一つで、
総社西門に至るところから「総社門」の名が付けられました。
大正年間に至って中堀に隣接していた総門は、近代国家建設に伴う国道開発工事によって
鳥居先橋(池田輝政寄進の石橋)及び鳥居先橋門(俗称 不開門)がともに取り壊されてしまいました。

現在は国道道路上にその礎石が残されており、その旧状は明治30年代の改変で分かりにくくなっていますが、
本来は市民会館南側で中堀(国道2号線)を「土橋」で渡り、歩道付近で「外門」を入ると現存高石垣にぶつかり、
西折れして「内門」に入るいわゆる「桝形」構造をしていました。

今般完成しました総社御門は、神社建築様式にて再建しました。
幅26m、高さ16mの国内最大級の楼門であり、一階は御守りなどの授与所と参拝受付、
二階は二十年に一度斎行される三ツ山大祭の貴重な資料を見ることができる文化財展示室、
三階は神殿・展望室の三層構造になっています。

神殿からは世界文化遺産「国宝・姫路城」を望むことができ、天井には四季を司る四神が描かれています。
また、御門前ににかかる御神橋には、総社の神使である「みみずく」の像が四方に設けられ、
日々参拝される方々を優しく見守っています。 


  恵美酒神社
初ゑびすは一月十四日~十六日
姫路のえべっさんと親しまれている総社の初ゑびす祭。
御神門前の参道には露天商や吉兆店が並びます。
恵美酒神社には商売繁昌を祈願する福神楽つき神矢、鏑矢を求める人々で賑います。
しない目抜き通りを今年の福をお届けしながら、宝恵駕籠行列が華やかに巡行します。

                                          案内説明より

本殿 拝殿

長生殿

恵美酒社 住吉社

祓潔所 交通安全

琴平神社 (摂社)祭神大物主命

鹿嶋神社  (末社)祭神建御雷之神

鹿嶋神社 本殿

神明神社 (末社)祭神天照大神
               豊受大神

稲荷神社 (末社)祭神千早稲荷大神 
             総社稲荷大神

八幡神社 (摂社)祭神猿田彦大神
             誉田別大神

西播磨総神合祀殿

  十二社合祀殿
一之宮神社・二之宮神社・日岡神社・角神社・手置帆負神社・彦狭知神社・秋葉神社・羽黒神社・道祖神社
鞍屋神社・柿本神社・東照宮


  西播磨総神合祀殿
明石郡神・ 美嚢(みのう)郡神・多可郡神・賀茂東郡神・賀茂西郡神・賀古(加古)郡神・印南郡神・神東郡神

                                              案内説明より

天神社 (摂社)祭神菅原道真

長壁神社 (摂社)祭神姫路刑部大神
             富姫大神

祖霊神社 (摂社)祭神近代戦役霊神

厳島神社 (末社)祭神宗像三女神  市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命 

手水舎

神門扁額 播磨國総社

神門柱扁額 
姫路城鎮護  播磨国総鎮守

粟島神社 (末社)祭神少彦名命

境内社

十二社合祀殿

右近の橘

左近の桜

血乃池址 (総社門横)

人形納め所

  人形感謝祭 六月一日~七月三十一日
子供の誕生を祝って贈られる節句の人形等です。
幼少の頃に遊んだぬいぐるみやキャラクター人形、やがては成長し、生活環境も変わります。
大切な人形とお別れする時は、御人形に感謝の念を捧げ、総社に納め下さい。

                                             案内説明より

撫でミミズク

貞愛親王殿下 御手植松と記念碑

戸隠神社 末社)祭神手力雄命

播磨国総明神合祀

鳥居扁額

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書寫山 圓教寺

書写山ロープウェイ

山頂駅

ロープウェイより姫路市街

山頂駅から円教寺参拝受付へ

円教寺事務所

円教寺 寺標

瑞光院

大黒堂 (大黒天)

摩尼殿

摩尼殿外陣の様子

摩尼殿 屋根の木組み

龍の巻つく不動剣  (手水舎)

摩尼殿から下参道

  書写山ロープウェイ
姫路市の北西部に位置する標高371mの書写山。  
始めてロープウェイが設置されたのは昭和33年のことです。
当初は30人乗りのゴンドラ「そよかぜ号」と「さちかぜ号」が運行していたが、
平成4年に大型化し現在は最大乗車人員71名のゴンドラ2台で運行しています。

日本で3基目の採用。ゴンドラはプラットホームの両側にぶつかることなく進入可能。
到着する際、自動的にプラットホームの両側から桟橋が降りゴンドラの揺れを素早く止めて、
お客様が安全に快適に乗降できる画期的な仕組みとなっています。


  瑞光院
本尊は六臂の如意輪観世音菩薩です。
創建、縁起はわかっていません。
圓教寺の各塔頭は、往時には多数あった講(信者の集まり)の宿坊も兼ねていました。
瑞光院も現網干観音講の宿坊となっている。

書寫山の紅葉は各所にあるが、門前の紅葉は十一月ともなれば、古びた土塀ともよくあって抜群の美しさを見せる。


  摩尼殿
本尊は如意輪観世音菩薩で、天禄元年(979)の創建である。
この堂の創建前この地に桜の木があり、天人が舞い降りその桜に向かって如意輪を唱えながら礼拝するのを見て、
この桜木に宿る霊験を感じた性空上人が生木に如意輪観世音菩薩を刻まれました。

これが御本尊となり、御本尊を安置する御堂を生木本尊を覆うように建てられました。
そのために岩山を削り、崖を持ち上げ土台を造ったので岩山を背にした懸け造り舞台付の建築となりました。
大正末に失火のため焼失しましたが、昭和八年に再建され現在に至っています。
西国二十七番の札所としてふさわしく、香華が絶えません。

御堂には国の重要文化財に指定されている四天王(東持国天、南増長天、西広目天、北多聞天)が御本尊を御守りしています


                                         案内説明より
杣観音堂 (如意輪観音 石造)

阿弥陀如来 (金銅仏)

保存樹

この樹木は、姫路市自然保護条例により
指定されている保存樹木です。

樹種  杉
樹齢  約700年
樹高  35m
幹廻  8.4m

陸にはえる藻 - スミレモ
この辺りの石垣やモミの木についている橙色の苔の様なものが“スミレモ”です。
緑藻の一種であるこの植物は、水の中に生えるアオノリと同じ仲間でありながら
水中生活をしないで、水分のほとんどないところで生活しています。
名前はスミレの匂いがすることに由来すると言われますが、そのような匂いはしないようです。

常行堂 

  常行堂 (重要文化財  奥千鳥破風が常行堂 手前唐破風が楽屋と舞台)

常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の回りを回る修業)をするための道場である。
建物の構成は、五間四方の大規模な東向きの常行堂と北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、
楽屋中央に張り出した舞台とからなっている。

内部は、中央二間四方の瑠璃檀を設け、本尊丈六(一丈六尺 約4.85m)阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は向かい合って建てられている大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものと思われる。


  食堂 (重要文化財)
承安四年(1174)に後白河法皇の勅願で創建され、本尊は僧形の文殊菩薩です。
この堂は僧たちが勉強したり、寝食をしたところです。

別名(長堂)と呼ばれている通り、長さ四十五メートル(桁行十五間、梁間四間)もある二階建ての大建築で、
腰縁をめぐらすなど仏堂として珍しい構造となっている。
東西の柱間は、一カ所の格子戸を除いてすべてが蔀戸で、圧巻である。

この堂は創建以来未完成のまま数百年放置されていたものを、昭和三十八年の解体修理でおおよそ完成の形にされました。
現在一階に写経道場、二階が寺宝の展示館となっています。


  大講堂 (重要文化財)
寛和二年(986 説明では968となっているが花山天皇の退位は986であるのでその年を記した)
花山法皇の勅願により創建され、圓教寺の寺号を賜った。
圓教寺の本堂にあたる建物である。
お経の講義や論議などが行われた学問と就業の場であった。

構造は雄大で、和様を基調として一部に唐様(禅宗様)をくわえた折中様式である。
現在の建物は室町時代の建物で食堂、常行堂と共にコの字型に立ち並んで「三之堂」(ミツノドウ)を形成している。
内部は、内陣、外陣に区切られており、内陣には釈迦三尊像(重要文化財 右に文殊菩薩、左に普賢菩薩)が安置されている。

                                          案内説明より

食堂

大講堂

三堂左から 常行堂 食堂 大講堂

鐘楼

十地院

法華堂

金剛堂

不動堂

開山堂

護法堂拝殿

薬師堂

護法堂 修復中でした

三十三所堂

  鐘楼 (重要文化財)
袴腰付きで腰組を持った正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。
寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元享四年(1324)に再鋳とされる。
いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半(鎌倉幕府後期~室町幕府草創期)のものとされている。
鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にもきわめて古いものとして貴重である。

平成十三年解体修理を終えたが、修理中の調査で、もとは宝形であったと推定されている
また、梵鐘は兵庫県指定文化財で、市内では最古の釣鐘である。


  十地院
本尊は聖観世音菩薩で、もとは阿弥陀三尊の左脇侍が独立仏となったものといわれる。
十地院はもと開山堂の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。
庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である。


  法華堂
本尊は普賢菩薩です。
法華堂は法華三昧道(ホッケザンマイドウ)といい、創建は寛和三年(987)播磨国司藤原季孝によって建立された。
屋根は現在瓦葺ですが、もとは檜皮葺であったといわれ、現在の建物、本尊は江戸時代の造立。
元の建物は南向きに建っていたという。


  金剛堂 (重要文化財)
本尊は金剛薩埵(コンゴウサッタ)座像 (兵庫県指定文化財)
三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。
堂内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地に於いて金剛薩埵にお会いになり、、密教の印を授けられてと云う。
普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年に明石・長林寺へ山内伽藍修理費用捻出のため売却された(戦災で焼失)。
本尊の金剛薩埵座像は現在、食堂に安置されている。


  護法堂拝殿
開山堂参籠の行者の護法堂への勤行、礼拝のための建物です。
奥之院の広場をはさんで護法堂と向かい合って建っています。
このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは大変珍しい。

今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿です。
寛文年間(1661~1672)に建立された鳥居が護法堂には残っているが、それ以前の護法堂には土塀が張り巡らされ、
唐破風の門があり、扉は閉ざされていた。
また、この拝殿はその昔弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間この山で修行したことから、
弁慶の学問所と呼ばれている。


  護法堂 (重要文化財)
奥之院の開山堂前にある二つの小さな神社。
向かって右が乙天社、左が若天社。
書寫山の鎮守で開山の性空上人に付き添って仕えたという
乙天(不動尊の化身)と若天(毘沙門天の化身)の二童子をまつっている。

同寸同型の春日造りで小規模ながら細部の手法に優れ室町末期の神社建築の特色をよく表している。


  開山堂 
書写山一千年の歴史のシンボルとして燈明が燃え続け、朝夕欠かさず勤行が行われている圓教寺奥之院の中核です。
このお堂は圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められています。

寛弘四年(1007)、上人の没年に高弟延照が創建したが、弘安九年(1286)に消失、
現存のものは江戸時代寛文十一年(1671)に造り替えられたものです。

軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻がありますが、四力士の内北西隅の一人が重さに耐えかねて、
逃げ出したという伝説が残っています。


  薬師堂
本尊は薬師如来で、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩を侍した薬師三尊です。
別名根本堂ともいい、当初は簡単な草堂であったが、性空上人により三間四面の堂に造り替えられたという。
構造は、方二間に一間の礼堂が付いており、一部に大仏様(天竺様)の手法が見られます。

寺記にある鎌倉末期の元応元年(1319)に再建された堂と考えられており、圓教寺で最古の様式をもつものです。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土していることから、この地(書写山)には圓教寺創建以前、
すでに何らかの宗教施設があったと推定されている。


  不動堂
延宝年間(1673~1681)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀っています。
元禄十年(1697)堂を修理し、荒廃していた大経所を合せて不動堂としました。
俗に赤堂と呼ばれていました。

乙天童子の本地堂ではありますが、並んで祀られている若天童子の本地堂はありません。
一説には、若天童子はその姿があまりにも怪異なため人々が恐れたので、性空上人が若天童子に暇を出したとも云われている。


  三十三所堂
西国三十三観音を祀るお堂です。
巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代になってからである。

社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でもが三十三観音に会えるように、各地に「うつし霊場」が設けられました。
有名なものとしては、坂東霊場、秩父霊場であり、播磨国にも「播磨西国霊場」があります。
他にも全国各地にこのような霊場が点在しています。

このような「うつし霊場」をさらに簡素化、安易化したものが、この三十三所堂の発生であると考えられています。


  寶蔵跡
明治三十一年(1898)五月二十八日に焼失した蔵の跡です。
本多の廟所との位置関係は不明ですが、廟所の記録には西に面して門を設け土塀を巡らし、
西の妻入りに御拝庇がありと記されています。

寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその様な記載はないが、
本多廟建立(慶長十五年 1610)以前より存在したことが古版木「播磨国書寫山伽藍之図」によってあきらかです。

安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」にこの蔵に収蔵されていたと思われる品々が明記されています。
「性空聖人御真影」、源頼朝公奉納の太刀」、「和泉式部の色紙」等七十八点があげられていますが、
その内のほとんどが焼失してしまいました。

                                           説明案内より

寶蔵跡

本多家廟所と手前宝蔵跡

本多家五代の御霊屋 右から忠国・政長・政朝・忠政・忠勝(左庇から一部)

榊原家廟所

松平直基廟所

  本多家と書寫山圓教寺
書寫山第一の霊地である大講堂横に「本多家御霊屋」として十一基の墓碑が、土塀に結界されて祀られています。

 本多宗家初代 本多忠勝公 享年六十三(慶長十五年 1610) 法名 西岸院殿長誉良信大居士 
 本多宗家二代 本多忠政公 享年五十七(寛永十六年 1631) 法名 大乾院殿秋誉長岳道悟大居士
 本多宗家三代 本多政朝公 享年三十九(寛永十五年 1638) 法名 法輪院殿天誉紅雲龍澤大居士
 本多宗家五代 本多政長公 享年四十七(延宝七年 1679)  法名 高松院殿法誉性信翁居士
 本多宗家六代 本多忠国公 享年三十九(宝永元年 1704)  法名 徳崇院殿霊誉智天眞英大居士
は立派な宝形造りの御霊屋内五輪の石塔で祀られています。

本多家(本多忠勝宗家)は江戸時代の初期と中期の二度姫路城主となっています。
御霊屋に祀られている五名の内忠政・政朝(前期)、忠国(後期)の三名が姫路城主となっています。

忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)桑名より姫路に移封となった。
その後、姫路城を整備したり、船場川の舟運を開き城下の繁栄に意をそそぎました。
政朝は、忠政の二男で姫路藩本多家二代城主となっています。
忠国は、二度目の本多家による姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。

本多宗家初代忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕えた武将で、德川四天王の一人に数えられています。
政長は政朝の子で、大和郡山藩の城主となりました。

忠勝公の御霊屋の横にある大きな五輪塔に祀られているのが、本多平八郎忠刻公とその子幸千代君の墓碑です。
忠刻公は、大坂落城時に離城した徳川千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代君が三才でなくなり、
忠刻も三十一歳で亡くなると、共にここに葬られました。

他には、大谷三兵衛政明(正朝公の伴) 宮本三木之助・岩原牛之助(忠刻公の伴)、宮田角兵衛(宮本三木之助の伴)
四名の切腹殉死者の墓碑が共に祀られている。

御霊屋五棟はほぼ同一の構造形式となっています。
江戸初期から中期にわたる廟建築として県下でも類例を見ない貴重な遺構です。

圓教寺の記録によると、天正六年(1578)秀吉の播磨侵攻までおよそ二万六千石の所領があったが、秀吉にすべてを没収され、
後に五百石だけを認められました。
江戸時代なってから八百三十三石となりましたが、すでに鎌倉・室町時代の寺力はなくなっていました。

元和三年(1617)に姫路に入城してきた本多忠政は、元和八年(1622)摩尼殿前の石橋・講堂・金堂の修復にかかり、
代々の城主も圓教寺修復に尽力されました。
その後の本多家は、昭和五年(1930)に忠政公の三百回忌法要を当山でされたのが最後となっている。

現在、圓教寺は兵庫県・姫路市の補助をいただき、平成元年忠勝廟を同三年に忠政廟の修復を行いました。
今後も順次廟所の修復を行い、最終的に燈籠・土壁などの周辺整備をして完成させたいと思っております。
つきましては、参拝各位の御力を頂戴し、一日も早く整備をしたく存じますので、御協力のほどよろしくお願い申し上げます。



  榊原家廟所
榊原家は、江戸時代初期と中期の二回にわたって姫路城主となりました。
前期の城主は榊原忠次、・政房(慶安二年 1649~寛文七年 1667)
後期の城主は榊原政邦・政祐・政岑・政永(宝永元年 1704~寛保元年 1741)

ここの墓所には、上記城主の内、政房と政祐の二人の墓碑と墓石が並んでいます。
政房は寛文五年(1665)父忠次のあとを継ぎ城主となりましたが、わずか二年後の寛文七年に二十七歳で亡くなりました。
墓碑には 故刑部大輔従四位下源朝臣 と刻んであります。

政祐は享保十一年(1726)父政邦のあとをついで五年余りで二十八歳で亡くなりました。
墓碑には 故式部大輔従四位下源朝臣 と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。
忠次・政邦の墓所は姫路市内増位山隋願寺にあります。


  松平直基(大和守)墓所
松平(結城)直基は、德川家康の孫のあたり、結城秀康(家康の二男、秀忠兄、豊臣秀吉養子)の第五子。
もと出羽国山形城に居ましたが、慶安元年(1648)西国探題職として播磨国姫路城主を命じられました。
しかし、山形から姫路へ移動する途中江戸にて発病し、姫路城に入城することなく亡くなり、
遺骨は相模国(神奈川県)の大雄山最乗寺に葬られました。

 越前松平家直基系(結城)初代 享年四十五(慶安元年 1648) 法名 損館仏性院殿鐡関了無大居士

姫路城主は直基の子・直矩が継ぎましたが、幼少のためその任を解かれ越後国村上藩に移封されました。
その後、寛文七年(1667)に再び姫路城主になってからの寛文十年(1670)最乗寺より分骨しここ書寫山に墓所を建てました。

                                            案内説明より

榊原政房 墓碑と墓石(墓碑奥)

奥之院から金剛堂への道





姫路城平成の大修理

兵庫県姫路護国神社
兵庫県姫路市本町118
Tel 079-224-0896

播磨国総社 射楯兵主神社
兵庫県姫路市総社本町196
Tel 076-224-1111

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天台宗別格本山  書寫山 圓教寺
兵庫県姫路市書写2968
Tel 079-266-3327

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姫路城下  姫路城中曲輪  姫路城天守修理  姫路城内曲輪  姫路城天守

姫路城下その2

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姫路城下

JR姫路駅 お城口

駅通り山陽電鉄駅ビル前

2014年NHK大河ドラマ
黒田官兵衛孝高の旗指物

中ノ門筋通り(姫路城追手門通)

中ノ門筋通りと西二階町交差

昭和初期の中ノ門筋通り
案内板写真より

南町商店街アーケード通り

西二階町商店街

福中町 城南小学校跡(明治九年)

坂元町

坂元町付近の古写真 案内写真より

坂元町付近の古写真 案内写真より

姫路城外堀跡

外堀に架かる大蔵前橋

大蔵前公園

姫路藩勤王志士終焉之地石碑

十二所神社鳥居

鳥居扁額

於菊神社

列女 お菊の石碑

境内百度石

  山陽電鉄ビル前付近
山陽百貨店前の横断歩道はかって姫路城の外濠があった場所で、姫路城の最南端にあたります。
石垣、土塁が明治二十一年に撤去され、外濠も大正二年頃に埋め立てられました。
その後、大正十二年には外濠跡に神戸姫路電気鉄道(現山陽電鉄)の線路が敷かれ、
現在その痕跡すらなく外濠跡と知るすべはありません。


  中ノ門筋通り
中曲輪(中濠内)に設けられた「中ノ門」に至る道で、この門を「大手門」と記す古地図もあることから
ここが江戸時代のメインストリートであったことが推定されています。
この筋には代々町の年寄を勤める豪商などの大きな屋敷が建ち並んでいました。
太平洋戦争による戦災のため古い町並みは残っていませんが、
城下町の面影を残す地名や城下に暮らしていた人々の物語が隠れ見えできるかもしれません。


  南町中央商店街
南町中央商店街の中程には、姫路城の南の玄関口で「飾磨街道」を攻め上がってきた敵を迎え撃つ
重要な門であった「飾磨口門」がありました。
明治十一年に撤去され、跡地には公立姫路病院(現姫路赤十字病院)や山陽電鉄姫路駅が建てられ、
現在はその痕跡すら見当たりません。


  西二階町
この通りは江戸時代の「西国街道」であり、通り沿いには大名・旗本・幕府役人などが泊まる
本陣や脇本陣などが置かれていました。
築城当時は一筋北の「札の辻通り」が西国街道として機能していましたが、
中濠の普請の影響でその南筋の西二階町通りが西国街道として栄え、旅籠や料亭が軒を連ねるようになりました。
西国街道は中濠手前で右に折れ、札の辻通りに合流します。


  坂元町
江戸時代の姫路城下の入口には敵の侵入を防ぐために外京口門や福中門、飾磨口門といった城門が置かれ、
街道も複雑に屈折させられていました。
しかし明治時代になるとこうした城門や街道はかえって邪魔な存在となり、
明治六年(1873)六月には早くも外濠に面した城門の取り壊しが始まりました。

すると間もなく町民の間から屈折した道路を更正しようという動きが起こり、
明治十年十月には福中町から真っすぐに西へ新道を開き中濠を埋めて船場川に新橋を架けるという工事が認可されます。
さらに翌年十月には坂元町外三ヶ町からも新道と新橋の建設伺書が提出され、明治八年(1875)一月、その認可が下りました。

説明の古写真は坂元町に新道を開く工事の最中に様子で、新道を通すため外濠の土塁や土塀が壊されているのがわかります。
そしてまだ壊されていない外濠には狭間や基壇がまだしっかりと写っています。
また写真右下に見える瓦屋根は中濠外堤にある坂本稲荷の社殿で、左手に見える木々は中濠の土手のものです。


  福中町
この辺りには「備前門」がありました。
明治維新後、交通の妨げになるとの理由から明治八年に撤去が始まり、最初に飾磨津門、外京口門、備前門が撤去されました。
また土塁は明治二十一年の国鉄の敷設と姫路駅建設のために田んぼを埋め立てるための土として利用されたと云われます。


  大蔵前公園
江戸時代、藩の米蔵が置かれていたことから大蔵前町と呼ばれ、
また備前門内には姫路藩の監獄があり多くのものが獄死したと伝えられています。
特に幕末には、姫路藩の勤王派の志士たちが投獄され、多くの命が失われたため、
この地に「姫路藩勤王志士終焉之地」の石碑が建立されています。


  船場川 姫路城外濠
姫路城南側の外濠のうち唯一残るのがこの濠です。
船場川地並行して配置されていた外濠がおよそ100mの間、当時の姿を留めています。
外濠は南端から東に折れ曲がっていましたが、現在は暗渠になっており地上からはその姿は見ることができません。


  十二所神社 境内社於菊神社
祭神は少彦名神。
社伝では、延長6年一夜で12茎の蓬草が生じ、神のお告げにより南畝町大将軍に社を建て
地方開発の祖神「長畝国主神」として鎮座、安元元年(1175)当地に移ったといわれています。
また、城の表鬼門というので、藩政期に移ったという説もあります。ました。


  於菊神社 (案内板より)
播州皿屋敷「お菊物語」の菊女は、姫路小寺家二代城主小寺則職の奥女中として仕えていました。
城主則職は若くして病床に伏したので、菊女は病気平癒を祈願のため当十二所神社(延命長寿・病気平癒)に参籠した。
事よろしく心願叶い小寺則職は間もなく全快した。

病気全快に事寄せて家老青山鉄山は町坪弾四郎等と謀を計画した。
天正二年(1574)姫路の景勝地増位山で観桜の宴を催し、主君に毒薬を盛った酒を勧めて、主家の乗っ取りを謀った。
そのことを事前に聞き込んだ菊女は忠臣として聞こえた衣笠元信に伝えたために元信の活躍でその場を逃れ、
家島の地に逃がし再起をうかがうこととなった。(菊女は衣笠元信の側室とも伝わる)

主家乗っ取りに成功した青山鉄山は小寺則職を取り逃がしたのは内通者がいたと疑いその探索を町坪弾四郎に命じた。
探索の結果内通者は菊女ではないかと考えた弾四郎は手を替え品を替え自白を強要するも菊女は応じなかったと云う。
そこで小寺家の家宝であった「赤絵の皿」を菊女の管理下に置かせ密かに一枚を抜き取り隠した。

鉄山はその皿を主家追放のシンボルとして祝杯を挙げることしばしであったので弾四郎は紛失の責めを菊女に求め、
日夜激しい折檻を与え、挙句は古井戸に吊るしてその命を奪った。
菊女は妙令を一期に無残な最期を遂げたのです。
享年二十一

菊女の霊は小寺則職を家島の地より導き、青山鉄山達の悪一味を滅ぼし姫路の地を回復した。
後菊女の最後を聞いた小寺則職は、菊女の忠節に謝し、神徳厚き十二所神社の境内に祠を建て、霊を祀りて、
ねんごろに慰めたと云う。

                                        姫路観光ナビ案内説明より

本殿

十二所神社拝殿

参拝わぬけの仕方





姫路城中曲輪

中ノ門跡 石垣

中ノ門普請絵(案内板より)

昭和の普請記念碑

国道二号線(旧中濠・土塁・城門)

二号線沿いの石垣(昭和普請)

昭和普請石垣

中ノ門石垣(昭和普請)

鵰門跡

鵰門普請絵(案内板より)

埋門跡

埋門普請絵(案内板より)

埋門内

埋門内石垣

昭和の石組

中濠から見た埋門跡

正面より見た埋門跡

船場川

千姫の小径へ

中濠 現在空堀

中濠 現在水堀

内京口門跡 (門扉は賢明女子学園)

内京口門普請絵(案内板より)

姫路城大手門東方内濠

車門跡

車門普請絵(案内板より)

姫路城東方面中濠

久長門跡

久長門普請絵(案内板より)

史蹟 姫路城中濠 案内石碑

西の丸長局(百閒廊下)

紫水亭

紫水亭は姫路市中央ライオンズクラブの寄贈により設置したもので、船場川と中濠に囲まれていることから屋形船をイメージした数寄屋風の四阿で本格的な日本建築である。

設計、施工は大都流三十一代堂宮大工西嶋勉氏によるものです。

覆い屋根の修理中大天守

登城口

エレベーターで最上階五層目
見学予約は優先的に入館できる

五層目

五層目瓦屋根

天空の白鷺最上から菱の門方向

四層目

三層目

二層目

一層目

天主台石垣

天災に備えるために

維新後の荒廃した姫路城の写真 説明展示写真より

東小天守

乾小天守と西小天守

小天守の花頭窓

内濠

さくらもんはし

高麗門脇門

高麗門

高麗門冠木の五三桐紋

武者登り石段

世界遺産 姫路城

三の丸武蔵野御殿跡

菱の門

菱の門 花頭窓

菱の門 脇門

菱の門 冠木の花菱紋

菱の門 五三桐紋の瓦

いの門 高麗門

三国堀

扇の勾配の高石垣 

二の丸 二手の広場

ぬの門

ぬの門の巨石石垣

高石垣基部石積

りの一渡櫓 姫路城展示館

お菊井戸

水三門

水二門

水一門

ろの門

はの門

にの門

にの門

ほの門

二の丸井戸

りの門

乾小天守

歴代姫路藩主家紋瓦

姥が石

ぬの門 鉄門

西の丸

カノ櫓

長塀  多くの狭間がある

ワノ櫓 百閒廊下入口

渡櫓 廊下板戸

櫓板戸

櫓二層階段

狭間

鉄砲・槍狭間

仕女の部屋

外塀に守られた渡櫓

石落とし

ヲノ櫓

ルノ櫓

雨水抜き付の敷居

埋門 出し入れの扉及び避難口?

櫓からの眺め

化粧櫓の一層目
城建築としては開放的です

千姫の間

化粧櫓

百閒廊下

百閒廊下の二段積み石垣

化粧櫓 百閒長屋 





ドーミーイン仙台ANNEX
  Dormy inn Sendai ANNEX

温泉名: ドーミーイン仙台ANNEXの湯
源泉名: 青葉の湯
泉質: 含ヨウ素 カルシウム・ナトリウムー塩化物泉
     高張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH 8.0  陽イオン 8203.8㎎/㎏  陰イオン 13229.1㎎/㎏
     成分総計 21594.7㎎/kg

源泉温度: 50.4℃

湧出量: 167L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯(施設内源泉)
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 うちみ ねんざ くじき 冷え性
     切り傷 やけど 慢性皮膚病 慢性婦人病 疲労回復等


ドーミーイン仙台ANNEX
宮城県仙台市青葉区2-11-26
Tel: 022-715-7333