温泉その13



玉造温泉  玉造国際ホテル  出雲大社・鳥取砂丘&足立美術館

山代温泉  瑠璃光  越前北ノ庄城跡 柴田神社

崖の湯温泉  薬師平茜宿  金峯山牛伏寺  牛伏寺川砂防施設

妙義温泉  もみじの湯  妙義神社  上野国一ノ宮貫前神社  茂木家住宅

鎌先温泉  最上屋旅館  木村屋旅館  白石城

湯村温泉  湯村ホテルB&B

いろり火の里 なの花温泉  田田の宿  鶴岡の寺社 

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玉造国際ホテル tamadukurionsen tamadukurikokusaihotel



出雲大社  鳥取砂丘  足立美術館

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温泉名: 玉造温泉
源泉名: 玉造温泉源泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉
     低張性 弱アルカリ性高温泉
     pH 8.1  陽イオン 532.7㎎/㎏  陰イオン 1106.6㎎/㎏
     成分総計 1750㎎/㎏

源泉温度: 69.7℃

湧出量: 測定不能
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 玉造温泉(長楽園)より引き湯 循環ろ過 消毒

効能: きりきず やけど 慢性皮膚炎 慢性婦人病 動脈硬化症
     神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 300円
利用時間: 12.00~20.00
休日: 無休


玉造国際ホテル
島根県松江市玉湯町湯町
Tel: 0852-62-0531

宍道湖の夕日

薄暮の松江市街

日没の茜空

早朝の宍道湖シジミ船

湖畔の松枝

湖畔の庭園

朝食

玉造国際ホテル玄関

玉造唯一の宍道湖湖畔の湯

温泉成分分析書(長楽園)

夕食

ジュージュー焼き物




出雲大社

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玉造国際ホテルへ

手前から 八脚門 楼門 本殿

本殿 千木と鰹木

拝殿

御本殿(ごほんでん)は、大国主大神さまがお鎮まりになっておられ、大国主大神さまの御事蹟に対して建てられた宮です。
高さ約24メ-トルの偉容は、御神徳(ごしんとく)にふさわしく比類のない大規模な木造建築の本殿です。
「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の御本殿は、現在国宝に指定されています。
御本殿をつつむかのようにそびえる八雲山(やくもやま)を背景にした姿は、たくましい生命力を感じさせ、
見るものに感動を与えます。

日本の神話を記した『古事記』『日本書紀』には、国譲り神話として出雲大社の創始にかかわる伝承を伝えていますが、
神殿成立の記録上の上限としては、斉明天皇五年(659)に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」
として神殿を修したことがみえます。

950年頃(平安時代)の『口遊(くちずさみ)』という本によれば、本殿の高さは、東大寺の大仏殿の十五丈をこえる
十六丈(約48メ-トル)にも達したといわれ、往時には、「天下無双の大廈(たいか)」と讃えられています。
鎌倉時代頃から規模を縮小し、現在の本殿は、高さ八丈(約224メ-トル)で、延享元年(1744)に造営されたものです。

御本殿(ごほんでん)は、「大社造り」と呼ばれる様式で、日本最古の神社建築の様式を今に伝えています。
御本殿の柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っていますが、近世に至るまでは、根元を土中に埋めた掘立柱式でした。

殿内は、平面にすると、ちょうど「田」の字のようになっており、九本の柱によって支えられています。
その中心には、心御柱(しんのみはしら)とよぶ太い柱があり、正面と背面の中の柱を、宇豆柱(うずばしら)と呼んでいます。
心御柱と向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に御内殿(ごないでん)があります。
そこに大国主大神さまが鎮まっておられます。
この御内殿は、正面に向かっておらず、横向き(西側)に向かって鎮座されています。
屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、棟には千木(ちぎ)と勝男木(かつおぎ)三本とがのせてあります。


                                         案内説明より

古代(日本)大社想像絵

発見古代大社掘立柱跡の位置表示

八足門礼拝所

御札所

西の十九社

神楽殿

神楽殿最大級注連縄

神楽殿扁額 神光満殿

社務所

手水舎

大国主命と白兎の出会いの場

前鳥居(銅製)
長門萩藩二代藩主 毛利綱広公寄進

千家八十代宮司詠 一月一日顕彰碑

千家宮司家門

宮司家私邸

式台玄関

宮司家土塀紋様

金刀比羅宮 祭神大物主の神

祖霊社

祖霊社 手水舎

75畳の最大日章旗 掲揚高さ47m

出雲大社と背景の神体山

ムスビの御神像

ムスビの御神像





鳥取砂丘

鳥取砂丘 砂丘会館口より馬の背遠望

砂丘(砂漠)といえばラクダ

砂丘会館レストハウス

馬の背から日本海

馬の背から日本海

オアシス植物群生地

伯耆冨士 大山

側面?からの大山

出雲大社
島根県出雲市大社町杵築東195
Tel: 0853-53-3100

山陰海岸国立公園 鳥取砂丘

白兎海岸

山陰海岸国立公園

車窓より 新餘部PC橋梁 
旧鉄製橋梁橋桁も一部残っている





足立美術館

山陰海岸国立公園

高台の砂丘センター
砂丘までロープリフトがある

玉造国際ホテルへ

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足立美術館
島根県安来市古川町320
Tel 0854-28-7111


緑色の文字は私的創作名です

足立金康翁像

白砂青松庭

枯山水庭

箱庭 松

箱庭 竹

苔庭

足立美術館

池庭

鶴亀の滝

茶室 寿楽庵

茶室 寿立庵

By Journal of Japanese Gardening

流水の庭

静寂の庭

陽水の庭

不動の庭

民の庭

苔庭

生の掛軸

生の額絵

生の額絵

枯山水庭

足立美術館

「庭園もまた一幅の絵画である」
足立美術館の魅力を表すと、当館創設者で地元安来市出身の実業家 足立全康 のこの言葉に勝るものはありません。
昭和四十五年秋の開館以来、訪れる方々を魅了し続ける、名園と名画の絶妙なる調和。
創設者の庭づくりへの情熱を生き生きと伝える五万坪の日本庭園
枯山水庭、白砂青松庭、苔庭、池庭等々、歩を進めるたびに眼前に広がる閑雅な風情は、
館内の日本画と相まって訪れる方の心を静かに癒します。

館内には、横山大観をはじめ、竹内栖鳳、川合玉堂、橋本関雪、榊原紫峰、上村松園など、
近代日本画壇の巨匠たちの作品千五百点を収蔵しています。
常設展の他、庭園の四季に合わせて年に四回展示替えを行い、特別展を開催し、
特に、百二十点を数える横山大観のコレクションは著名で、常時二十点前後を展示しております。

また、河井寛次郎と、北大路魯山人の二巨匠の陶芸作品、林義雄らの童画、蒔絵、木彫なども所蔵し、
新たにオープンした新館では現代日本画の粋をお楽しみいただけます。


  歓迎の庭
お客様を最初にお迎えする庭園です。
花鳥風月を愛で、自然の四季を大切にする人々の心を優しく受け止め、静かに皆様をお待ちしています。


  苔庭
苔を主体とした京風の雅な庭園です。
ゆるやかな曲線を描いた苔の緑と、白砂の白との対比が美しく、秋には紅葉の赤が一層の彩りを添えてくれます。


  枯山水庭
自然との調和が美しい足立美術館の主庭です。
中央の立石は険しい山をイメージし、そこから流れる滝水がやがて大河となる雄大な趣を表しています。


  生の額絵
館内の窓がそのまま額縁に見立てた庭です。
まるで琳派の絵を見ているかのように、大小の木や石がバランス良く配置され、芝生の稜線が美しい自然による絵画です。


  亀鶴の滝
昭和五十三年に開館八周年を記念して開瀑した高さ十五メートルの人口の滝です。
滝口から勢いよく流れ落ちる水が庭園に動きと緊張感を与えています。


  池庭
周囲との調和を考え、新しい感覚と伝統的手法を用いて作られた庭園です。
優雅に群永する鯉は、見る人の心にやすらぎを与えてくれることでしょう。


  生の掛軸
床の間の壁をくりぬいて、あたかも一幅の山水画が掛かっているかのようにご覧いただける、足立美術館の名物の一つです。


  白砂青松庭
横山大観の名作「白砂青松」をイメージして造られた庭園です。
白砂の丘陵には右に黒松、左に赤松を配し、対照的な調和を生み出しています。

                                             案内説明より





山代温泉 瑠璃光 yamasiroonsen rurikoh


越前北ノ庄城跡 柴田神社

温泉名: 山代温泉瑠璃光
源泉名: 山代温泉7号源泉
泉質: 単純温泉 (カルシウム130・ナトリウム114ー硫酸塩泉500)
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH8.9  陽イオン 249.2㎎/㎏  陰イオン 539.2㎎/㎏
     成分総計 824㎎/㎏

源泉温度: 45.9℃

湧出量: 280ℓ/min (共同源泉)
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 1500円
利用時間: 11.00~15.00
休日: 無休 (問い合わせ)


山代温泉 瑠璃光
石川県加賀市山代温泉19-58-1
Tel: 0761-77-2323


加賀温泉駅前より山中温泉栢野行路線バスで市之瀬神社前で下車、すぐ前
フェイスタオル付で1500円は入浴した感じでは高いような・・・・
温泉巡りを主題とするともっと良い施設があると思うし、
時間が許せば奥の山中温泉に足を延ばしても良いと思う。

ただし、温泉施設の評価は温泉のみではないので、きっと快適な総合力は高い。
宿泊してみたい施設ではある。

神明宮扁額鳥居

市之瀬神社拝殿 風雪除け社殿

奉納 剣梅鉢紋神馬像

市之瀬神社

  市之瀬神社由緒
永禄二年(1559)、作見の城主藤丸氏が山代神明宮を造営したとの口伝が伝わる。
寛永二年(1625)、大聖寺城代吉田伊織が山代領に新田を開こうとして久世徳左衛門をその任に当たらせ、
当社社地に灌漑用水の勧進場を設け、、同年九月中旬には山代新村に至るまで竣工したという。

前田利家卿、市之瀬用水工事に神助多く、これも神明宮三神の助けであろうと、寛永六年久世徳左衛門そ神職とし、
東西五間、南北十二間の社地、田地一町、草高十六石を神領として寄進され、市之瀬灌漑の二十余村の総社とし、
市之瀬鎮護の神として尊崇された。

明治三十五年(1902)市之瀬神社と改称した。
明治四十年(1907)、中野神明宮を合併合祀、昭和十八年(1943)神饌幣帛共進神社に指定された。
平成五年、本殿・幣殿・拝殿を改築した。

                                    案内説明より

由緒碑文中に前田利家卿とあるのは加賀前田家藩祖前田利家のことであろうか。
そうであるとするとその後の文中の記述は??
寛永六年の藩主は前田利常公だろうと思うのですがね。

JR加賀温泉駅

瑠璃光外観

大浴場

露天風呂

温泉成分分析書

脱衣所から大浴場と露天風呂

中庭





越前北ノ庄城跡 柴田神社

山代温泉瑠璃光へ

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北ノ庄鎮守 稲荷大明神

三姉妹神社

柴田神社社殿

北ノ庄天守復元模型

越前北ノ庄城跡石碑 平山郁夫筆

柴田神社鳥居

北ノ庄城天守があったと云われる

柴田勝家室 お市の方

浅井氏三姉妹 右より 茶々・江・初

北ノ庄城発掘想像図

北ノ庄城 市の方・殉難将士慰霊碑

瓶割り柴田の図

  
  北ノ庄城復元模型
ここ北ノ庄公園は、かって織田信長から越前八郡の支配を委ねられた柴田権六勝家が築いた
北ノ庄城の天守があった場所と言い伝えられています。
NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放送を機に、当時の北ノ庄城の風景に思いを馳せるものとして、
この復元模型を設置しました。
しかし、北ノ庄城は、天正十一年(1583)、賤ヶ岳の合戦後に落城するまで、七~八年しか存在しなかったため、
天守の外観を伝える絵図や図面は現存していません。

当時の北ノ庄城の様子を伝えるものは、当時北ノ庄を訪れた宣教師ルイス・フロイスが書き残した
「城及び他の家の屋根の、ことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増した」、
「その城の屋根は甚だ滑らかで、轆轤(ロクロ)にかけたごとく形の整った石をもって葺いてあってた。」という記述と、
羽柴秀吉が賤ヶ岳の合戦後、小早川隆景にあてた書状に「城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上げ候。」と書いてある、
わずか二つの文書しかありません。

そこで、外観については、北ノ庄城と同時期に建築された越前丸岡城や信濃松本城などを参考にして制作しました。
階層については、秀吉の書状には「九重」とありますが、現存天守及びかって存在した天守を含め、
五層より高い階層の天守は確認できなかったことから、五層としました。

屋根については、ルイス・フロイスの記述や、平成十六年に北ノ庄城址公園を整備した時に
笏谷石の屋根瓦が出土していることから、笏谷石の石瓦を使用したと設定し、青みがかった色に塗ってあります。
模型の大きさは縦横四メートル、高さ五・七メートル、材質は主にFRP(繊維強化プラスチック)を使用しています。


  柴田勝家 北ノ庄城築城
織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正三年(1575)八月に越前四十九万石を柴田勝家に支配させた。
勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。
現在の柴田神社付近が本丸と伝えられている。

天正九年(1581)四月、北ノ庄を訪ねて来たポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、
本国あての書簡の中に「この城は甚だ立派で、今、大きな工事をしており、私が城内に進みながら見て、
最も喜んだのは城及びほかの家がことごとく立派な石で葺いてあって、
その色により一層城の美観を増したことである・・・・」と報告している。

また、羽柴秀吉が勝家を北ノ庄城に攻めたときに、その戦況を小早川隆景に伝えた天正十一年(1583)五月十五日付の
書簡の中で、北ノ庄城について「城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上げ候・・・・」と記しており、
九層の壮大な天守であったことが想像される。

勝家は町づくりにも創意を施し、城下の繁栄のために朝倉家城下の一乗谷から社寺・民家などを北ノ庄へ移転させるなどに努め、
足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと云われている。
柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人の中でも重要な人である。


  北国街道足羽川の九十九橋
九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋です。
九十九橋の記録は戦国期朝倉時代にもありますが、柴田勝家が半石半木の橋としたと伝えられています。

江戸時代前期(貞享二年 1685)の「越前国地理指南」では「大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾一間」と記されています。
また、半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていました。

九十九橋の架け替えは、江戸時代に十回以上行われ、明治七年(1874)に半石半木の橋として
最後の架け替え工事が行われました。
この半石半木の橋が木造トラスの橋に架け替えられたのは明治四十二年(1909)のことです。

今回、勝家公の事績の一つとして、本公園にふさわしい半石半木の橋をイメージして再生しました。
欄干部分は往時から残されていた旧石材で、
福井市浅水二日町に在住の吉田茂兵衛氏が保管されていたものを寄贈されたものです。 


  柴田勝家
柴田勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長と敵対の後信長の重臣となる。
天正三年(1575)八月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部分を勝家に統治させた。
勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守を造営した。

信長亡き後、天正十一年(1583)四月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、
同年四月二十四日北ノ庄城にて妻のお市の方と共に自害した。
墓はお市の方と共に福井市左内町の西光寺にあります。
享年六十二と伝えられる。(生年月日が不明のため)
  辞世の句  夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を  雲井に揚げよ 山ほととぎす


  お市の方
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人と云われ、政略結婚により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、一男三女をもうけた。
天正十年(1582)十月、三人の娘を連れて柴田勝家に再嫁するが、翌年四月二十四日羽柴秀吉に滅ぼされた。
勝家はお市の方と娘たちに北ノ庄城から逃れるように論したが、お市の方は娘三人のみ秀吉の陣に送ったのち、
北ノ庄城で夫婦静かに杯を交わし、辞世の和歌を残して自害した。
享年三十七と云われる(生年月日が不明のため)
  辞世の句  さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の  夢路を誘う ほととぎすかな


  茶々 (淀殿) 1569~1615
お市の方の長女茶々は後淀殿とも呼ばれた。
母はお市に方、父は浅井長政との説が有力である。

父浅井長政は越前朝倉氏と組みし織田信長と敵対し、浅井氏は滅亡した。
その後、母と共に柴田勝家の庇護のもとにあったが、勝家が羽柴秀吉に敗れ母と離別し二人の妹と共に城から逃れた。

後、茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け豊臣秀頼をもうけたが、
德川家康と敵対し慶長十九年(1614)の冬の陣後の元和元年(1615)五月八日、秀頼と共に大坂城で自害して果てた。
享年四十七


  お初  常高院 1570~1633
お市の方の二女お初は、姉茶々と妹お江と共に北ノ庄城落城の折り城を逃れ羽柴秀吉の庇護のもとに入った。
後父方浅井氏の主筋にあたる京極家に嫁ぎ(高次)忠髙をもうける。
高次は慶長五年(1600)五月十五日関ヶ原合戦の後、若狭国小浜城主(九万二千石)となった。
慶長十四年(1609)お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。
この頃からたびたび淀殿を訪ねている。
大坂の陣には徳川家康の命を受け大坂城に使者として入り、姉淀殿と和平の交渉をしている。
寛永十年(1633)八月二十七日江戸に於いて死去。
享年六十四  


  お江  崇徳院 1573~1626
浅井長政三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねたのち、德川二代将軍秀忠の正室となる。
秀忠との間には七人の子宝に恵まれ、長男家光は三代将軍に、二男忠長は駿河大納言となった。
長女千姫は淀殿の長男豊臣秀頼の正室となり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、
三女勝姫は福井藩松平家二代藩主忠直に嫁いでいる。

四女初姫は京極忠高正室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。
寛永三年(1626)九月十五日江戸城において死去、
享年五十四


  瓶割り柴田
元亀元年(1570)南近江に侵攻した織田信長は、六角氏の長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置した。
城を奪われた六角義賢(六角承禎)は奪還するべく大軍で攻め寄せ、勝家は籠城して必死に耐えていた。
しかしその間に城の水路を断たれ、渇きに絶対絶命の窮地に追い込まれた。

その時勝家は水瓶に僅かに残っていた水を兵に飲ませた後瓶を割り、背水の陣をしいた。
味方の邪念を打ち砕き、強い信念の姿を見せた勝家は兵を奮起させ窮地を脱した。
結果、大軍の六角軍を士気で上回りこれを打ち破った。

この逸話から「瓶割り柴田」の異名となって後世に語り継がれている。
 
                                        案内説明より   

賤ヶ岳と余呉湖 左 大岩山方面

柴田勝家像

柴田神社拝殿扁額

結城秀康(家康次男)時代の石垣
発掘時写真

柴田勝家北ノ庄城石垣
発掘時写真

  北ノ庄城堀跡
発掘調査で確認された福井城下層(1600年以前)の東西方向の幅が25m以上ある南北に延びる堀跡です。
堀の規模から、柴田勝家築城の北ノ庄城の堀と考えられます。
露出展示している石列は堀り南面の石垣です。


  北ノ庄城と福井城
石垣西側の窪みは、柴田神社参道わきに露出展示している石列と、土橋中央で露出展示している石列から想定復元した
北ノ庄城の堀跡です。
堀は二段に掘り込まれる構造で、上段のみに石垣が築かれていました。


  福井城堀と石垣
拝殿下の石垣は発掘調査で出土した状態のまま展示してあります。
この石垣は「福井城三の丸」南に位置する曲輪の南西にあたり、当時は、今の石垣よりさらに数段高く積まれていました。
堀はここより西へ150mつづき、堀幅は約18mありました。


  日向門礎石痕跡
日向門は、福井城三の丸の南側の曲輪の南東隅に位置する門です。
勝見へ通じる漆門(鳩の門)がすぐ北東にあり、主要な門ではなかったようです。
今回の整備では、発掘調査で確認された礎石の痕跡を市表示しています。


  北ノ庄城石垣遺構
柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北ノ庄城(1575~1583)天守跡と伝えられている場所です。
ここに展示している石は、勝家築城の北ノ庄城の石垣遺構と考えられます。
発掘調査の結果からは、この石垣は本来高く積まれていたが、江戸時代結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、
石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。
石垣は、ここより南でも同様に見つかっており、石垣の前面には堀が広がっていました。

                                         案内説明より

北ノ庄城堀跡

北ノ庄城と福井城

福井城堀石垣

日向門礎石痕跡

北ノ庄城石垣遺構

山代温泉瑠璃光へ

山代温泉瑠璃光へ

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北ノ庄城 福井城の遺構

北ノ庄城 福井城遺構





崖の湯温泉 薬師平茜宿
 gakenoyuonsen yakusidaira-akanejyuku

真言宗智山派 金峯山牛伏寺   牛伏寺川砂防施設

温泉名: 崖の湯温泉
源泉名: 崖の湯温泉源泉
泉質: カルシウム・マグネシウムー硫酸塩・炭酸水素塩泉
     低張性 中性 冷鉱泉
     pH 7.0  陽イオン 311.5㎎/㎏  陰イオン 844.3㎎/㎏
     成分総計: 1209㎎/㎏

源泉温度: 12.8℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 引き湯 加温 循環ろ過 消毒

効能: きりきず やけど 慢性皮膚炎 慢性婦人病 動脈硬化症
     神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 700円
利用時間: 休前日及び特例日 10.30~15.00  平日: 10.30~20.00
定休日:無休 (問い合わせ)


崖の湯温泉 薬師平茜宿
長野県松本市内田3405
Tel: 0263-58-2141

本棟造りの外観

内湯

露天風呂

午後は霞がかかる松本平

露天風呂前庭の紅葉

温泉成分分析書

ロビー

館内は古民具が展示されている

階段箪笥





妙義温泉 もみじの湯





真言宗智山派 金峯山牛伏寺
  kinpohzan gofukuji

参道石段前の冠木門

本堂 (観音堂)

石段参道 赤松が多い

山門

山門扁額 (金峯山牛伏寺)

鐘楼 (平和の鐘)

本堂扁額 厄除け大慈閣

本坊 (庫裡)

本坊 本棟造り屋根

本坊玄関

本坊庭園

本坊庭園

惣門

この門は、古来の参詣用の門でした。
なお、旧門は天保三年(1832)に建立されましたが、現在の門は平成十九年に再建されたものです。
また、この門に使用している龍が彫られた蟇股は、今から約三百年前の正徳年間(1711~1715)の作です。

当山は、信州松本の南東、鉢伏山の中腹、海抜千メートルの幽谷の地に位置し、
山号を金峯山(きんぽうさん)、寺号を牛伏寺(ごふくじ、うしぶせ寺とも呼びます)と称する真言宗の古刹です。
本尊の十一面観音は聖徳太子が国家の安寧と民の幸福を願い彫刻された等身大の仏像と云われています。
観音像は秘仏とされ三十三年毎に御開帳されています。
寺号は、その昔、本尊十一面観世音菩薩の霊力により経典を積んだ二頭の牛が、この地で同時に倒れことに由来します。

寺伝によると、天平勝宝七年(756年)唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、
経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、
その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京しました。

この不思議な因縁により寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像をまつっています。
古来より牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られ、また、信濃三十三番中第二十七番札所となっており、
法燈壱千三百年を今日に継承いたしております。

             
牛伏寺の文化財

  国指定重要文化財
木像十一面観音立像及両脇侍 
  (不動明王立像 毘沙門天立像)
釈迦如来坐像及両脇侍 
  (普賢菩薩像 文殊菩薩像)
薬師如来座像
大威徳明王像

  県指定文化財(県宝) 
如意輪観音菩薩像
蔵王権現像
奪衣婆像

  市指定重要文化財
男神 女神像
地蔵菩薩像
十王像
童子座像
追儺面二面
仁王門
本堂(観音堂

                                               案内説明より

蟇股の彫刻

如意輪堂 萱葺

如意輪堂 扁額

如意輪堂 内陣

仁王門石段前の臥牛像二体

仁王門 回廊付楼門

仁王門 扁額 (福楽楼)

金剛力士吽形像

金剛力士阿形像

参道石段と仁王門

鐘楼 (厄除けの鐘)

聖徳太子殿

太子殿扁額

弁才天堂

弁天蓮池

宝物殿 重要文化財収蔵

牛伏寺歴代住職墓地墓石

弘法大師修行像

厄除け(交通安全)観世音菩薩

牛堂

唐の玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うため、大般若経を積んだ赤・黒二頭の牛が、信濃の善光寺へ納経の途上、
当山の麓にて力尽き倒れました。
これは当山御本尊十一面観音様の霊力によるものと恐れ、その経典六百巻を当山に納め、
二頭の牛の霊を祀るように願い、使者は去ったと言うことです。
牛堂はその牛を祀っているお堂です。

                                            案内説明より

牛堂 

阿弥陀如来坐像
黒牛 赤牛
風神 雷神の絵 

牛伏寺権現(蔵王権現)堂

賓頭盧尊者(おびんずるさま)

おびんずるさまは、お釈迦様の十六人の
偉い弟子の一人で(十六羅漢)、、
その体を触ったその手で自分の体を撫でると、
病気が治り、頭もよくなり、
節々の痛みも軽くなると言われ、
深く信仰されております。

本堂に納められた絵馬  左から 川中島合戦(元禄十四年)  数珠回し百万遍(安政六年) 波に旭鶴(明治十九年) 

本堂 天女?の彫刻

境内の紅葉

赤松

東屋





牛伏寺川砂防施設
  usibusegawa sabohsisetu

崖の湯温泉へ

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崖の湯温泉へ

案内絵より

案内絵より

牛伏寺川渓流保全型工法

本工法は、自然石・土砂等を使い、河川が元々有していた自然の地形や石組みの構造を参考にして、
牛伏寺川の自然環境を再生することを目的とした工法です。

フランス式階段流路 

石造及コンクリート造 延長141.2m 堰堤取付工及護岸石積付属(国指定重要文化財)


  階段流路「フランス式」の由来
近代土木遺産として国内二例目の重要文化財となった(平成二十四年七月九日)フランス式階段工法は、
大正七年(1918)に完成しました。
平成のこの年(二十五年)から遡ること九十五年前になります。
竣工当時の荒々しい姿とは異なり、長い歳月を経て今や周囲の自然と一体化した独特な構造美を見せています。

牛伏寺川(うしぶせがわ)は上高地からの梓川や川中島で出会う千曲川に併せて日本海側に注ぐ
信濃川内奥の僅か9㎞の枝川ですが、階段工を喉元とする背後の多くの谷は、
三百年前の元禄のころから記録に残るだけでも十五回を超える土砂災害を里に与え続けてきました。
そして明治開港の五港の一つ、300㎞下流の新潟港を埋めたのは牛伏寺川の氾濫がその元凶とさえ言われ続けてきました。

政府は明治十八年からこの水系の治水にかかりました。
幾多の谷の合流点や急流箇所に石組み堰堤と共に流路や護岸を築く一方、
斜面には尾根に至るまで石垣状の“山止め”を築いて地山をおさえ、
さらに山を削って木を植えるという遠大な事業が続けられてきました。
やがて背後の谷水が治まりつつある工事後期大正五年、階段工の施行が開始されましたが、
そこに至る道のりには多くの困難がありました。

現在の階段工最上部には、20m以上の落差を持つ明治十九年築堤の二段構造巨大堰堤「内務省一号堰堤」がありましたが、
上流工事中の増水のたびに一号堰堤下の河床が削られて次第に下がってしまいました。
やがて、その落差を緩衝しつつ最大流量時の勢い支えることと、堰堤下の河床洗堀を止めることは不可能であるのみならず、
堰堤そのものの崩壊を招くことが危惧されました。

そこで内務省土木局は”本場アルプス”を控える当時の砂防先進地フランスに砂防技術を学ぶべく派遣していた
技師・池田圓男(いけだまるお・鳥取県出身)を帰国後に牛伏寺川の流路設計にあたらせました。
池田はローヌ川支流・デュランス川サニエル渓谷の「階段式流路」設計を元として、
ここ牛伏寺川に長さ141m間に19段・高さ23mの落差を緩衝する階段式流路を完成させました。
これが今に見る階段式流路であり「フランス式階段工」の由来です。


こうして標高800mから1600mに至り、しかもこの水系の幾多の谷をまたぐ東京ドーム二十一個分に匹敵する
面積の治山治水事業は、大正七年の階段工竣工まで延々三十二年の長きに渡って続けられ、
その後の歳月を経て今に見る緑の谷に戻りました。


明治は「国家日本」を創る揺籃期でした。
「富国強兵」・殖産興業」を掲げつつ日清、日露の戦いに国力を費やしながら、
港湾・道路・鉄路の建設や新田開発と共に治山・治水を進めてきた苦難の時代でした。

従ってここ牛伏寺川のみならず新潟・長野両県の信濃川水系全域の治山・治水事業が同時に開始されています。
牛伏寺川砂防はその工事の規模・工種・年月・費用のどれを見ても我が国治山砂防の代表的な工事ではありますが、
明治と言う時代を想うと先人がいかに公(おおやけ)、つまり社会資本を創らんとしていたかに思いが至ります。
港を整え道路を作り鉄路を敷設しても、災害のあるごとに水害でその資本を失っては元の木阿弥だからでした。

それだけにこの時代に見る我が国の治山事業も広範多岐に渡ると同時に、
他の社会資本投資にもいちじるしい同時進行の波が見られます。
ここ松本平では牛伏寺川や下流の信濃川支流の治山・治水事業が成ると相前後して道路や鉄路が開設されています。
松本・塩尻の両駅の開業が明治三十五年でした。
これは治山・治水と鉄路や道路の開設が国家資産創生の同時シートであったことを、
また同時出なければならなかったことを物語っています。

                                          案内説明より

砂防ダム

重要文化財指定記念碑

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温泉名: 妙義温泉
源泉名: もみじの湯
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
     高張性 弱アルカリ性 冷鉱泉
     pH 7.7  陽イオン 5918㎎/㎏  陰イオン 12290㎎/㎏  
     成分総計 18300㎎/㎏

源泉温度: 16.5℃

湧出量: 2ℓ/min
湧出形態: 掘削自噴
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒

効能: きりきず やけど慢性皮膚病 慢性婦人病神経痛 
     筋肉痛 関節痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え性 病後回復期 疲労回復 

利用料: 500円 小人 300円  3時間制限 超過200円
利用時間: 10.00~20.00 (3~11月)  10.00~19.00 (12~2月)
休日: 月曜日(祭日の場合翌日) 祭日の翌日 12/28~12/31
     


妙義ふれあいプラザもみじの湯
群馬県富岡市妙義町妙義1-1
Tel: 0274-60-7100


妙義神社参詣 参拝の後近くに日帰り施設があるとのことでよってみた。
妙義山が眼前に迫って正に絶景です。
時間の制約もあったので掲示してあった温泉分析書を見たところ湧出量2ℓ/minとある。
それから加水の項目にはナトリウムの成分が多いのでとの理由付けが記されていた。
本当の理由は他のあるように思った次第。
表示が正しければ浴質は単純温泉でしょうかね。源泉温度も低いとなるとね。
それをどう思うかは人それぞれ違うでしょうし、温浴の効果は十分でしょうから。

もみじの湯

温泉成分分析書

紅葉と妙義山

妙義神社  上野国一ノ宮貫前神社  茂木家住宅





妙義神社

道程から妙義山遠景

高速道路と妙義山

妙義神社参道大鳥居

妙義山中腹の妙義大権現文字

妙義神社参道石段

惣門(仁王門)

総門扁額 高影院

総門金剛力士吽形像

総門金剛力阿形士像

御殿の高石垣

総門(仁王門)

旧宮様御殿門(現社務所)

県天然記念物 ウラジロガシ

御殿入口

式台玄関

旧宮様御殿

御神輿

御神輿庫

総門前階段両脇には生笹があります。 また同じく左右に石柱が建っており
右には「天必輿正義」 左には「神必感至誠」の文字が彫られています。

波己曽社拝殿

波己曽社本殿

妙義神社再建事業記念碑
妙義神社名誉宮司 (川島俊雄 文)

私が妙義神社に着任したのは昭和二十九年六月であった。
驚いたことにこの由緒ある神社の御本社、宮様御殿、社務所、等々、雨は漏り、壁は落ち、畳はぼろぼろと、荒れ様であった。

翌三十年、突然東宮職より皇太子(現天皇陛下)義宮(常陸宮)両殿下が御成りになるという内報を頂き、
この上なき栄誉と喜んだが、このままの状態でお迎えするわけにはいかなかった。
そこで急遽畳だけは入れ替えたが壁の方までは手が回らず、
御座所だけ白壁であるべきはずの処へ模造紙を画鋲で止めてお迎えした。

御成りになられた両殿下はさぞ驚かれたでありましょう。
戦後の状態未だ立ち直っておらず、深いご理解を示されました。
以来私の神社再建の道が続くこととなった。

昭和三十四年、妙義神社奉賛会を結成。
会長岡部栄信先生を中心に役員関係者の御尽力を得て、妙義町、松井田町、安中市、富岡市、甘楽町を始め、
東京ほか関東一円の特別崇敬者、講中、しばしば参拝される崇敬者、一般参拝者より奉賛を仰いだ。

この浄財を元に再建事業、尊厳護持事業が始まった。
まず雨漏りの激しい宮様御殿、続いて社務所、さらに御本社、そして諸建造物へと展開して行ったのである。
昭和五十三年八月には浩宮(現皇太子)礼宮(秋篠宮)両殿下が御成り、整備の進捗状況をご覧いただく機会を得た。
着任して五十数年、当時のことを考えると感慨一入のものがある。

こうしてご社殿を始め境内施設が見違えるほど整ったのは御神徳のもと大勢の方々が先達となり献身的な御尽力を尽くされ、
御信仰篤き多くの方々のご奉賛を戴き、国、県、市、町当局の御理解あるお力添えと、
直接工事に当られた関係の方々の文化財に対する情熱と熱意の賜物である。

この間に御援助を戴きながら故人となられた方々に今の御社頭と賑わいをご覧いただけないことが出来ず、誠に残念でならない。
ここに思いを記して篤く感謝の意を表す。

                                          碑文より

境内社 稲荷社

銅鳥居と常夜灯(元治紀元甲子六月)

燈籠基台石垣の階段

銅鳥居(県重文) 享保四年巳亥

銅鳥居扁額 寛文八年戊申十二月

鳥居柱の獅子台座

三本杉 神域パワースポット

中央で本殿に向かい柏手を打つ

三本杉の自在生命受霊

水天宮

手水舎

旧国指定天然記念物大杉の子孫

「妙義神社の大杉」は昭和八年四月十三日に国指定天然記念物に指定されていました。
その後昭和四十年頃より老衰腐朽のため衰弱し、昭和四十六年一月十七日の突風により倒壊しました。

たまたま茨城県の国立関東林木育種場に大杉の健全な穂が接ぎ木で保存されていたので、
群馬県林業試験場が接ぎ穂の分譲を受け、昭和四十八年四月、林業試験場で接ぎ木をし、
さらに四十九年春にこれより取木を行い自根を出させ完全な大杉の子孫に仕立て、ここに移植しました。
この場所は倒伏した大杉の霊が宿る神域である。

                                               案内説明より

境内社 住吉 人丸 玉津島の神

御神橋

神域への石段

隋神門

隋神門と長床

隋神門 左大臣

隋神門 右大臣

隋神門 赤邪払鬼神

隋神門 青邪払鬼神

唐門前銅燈籠

北条伊織義不 奉納銅燈籠一基
宝暦六年丙子十二月吉日

境内社 愛宕神社

境内社 水神社

整理された石灯籠群

唐門

唐門 妻の唐破風

拝殿 神額

拝殿

唐門 天井画 
中澤燕州筆(狩野玉燕弟子)

拝殿の彫刻

拝殿の彫刻

拝殿 幣殿 本殿

銅燈籠

拝殿虹梁 向拝柱の龍彫刻

竹林の七賢 拝殿左高欄

竹林の七賢 拝殿右高欄

拝殿千鳥破風 菊紋と懸魚

社殿奉納銅燈籠一対

神楽桟敷

天狗神社 (本殿裏鎮座)

南門

北門

南門側のミニ奥之院

奉納
信州筑摩郡下生坂村 丸山吉弥福救

奉納
信州筑摩郡仁熊住 宮澤志津摩吉伯

鋳物師
勅許信濃国惣官大鋳物師松本住
田中傳右衛門藤原吉任
天明元年辛丑八月吉日

参道の枝垂れ桜

妙義神社

境内は上部の神域と下部の旧寺域に分かれており、これらは明暦から元禄年間に長清法印により基盤が造られたのち、
宝暦年問から安永年間にかけて大造営が行われてさらに整備されたものである。

参道は県道に面した一の鳥居(昭和四十九年)から御本社のある神域まで、ほぼ一直線に延びている。
鳥居をくぐり急坂を上り詰めると総門(安永二年・重文)がある。その先の石段を上がった右手側は、
明治期以前に石塔寺がおかれていた旧寺域で、現在は社務所(建立年代不詳・市文)と御殿(嘉永六年・市文)が置かれている。

石段を上がると、旧寺域と同じ高さに銅鳥居(享保四年・県重文)がある。
これをくぐった右手奥には旧御本社の波己曾社(明暦二年・県重文、昭和四十四年に上部神域より現在地に移築)が鎮座する。
銅鳥居から参道を進んで石造の太鼓橋を渡ると、上部神域へと一直線に延びる百六十五段の石段がある。

これを登り切った神域の入り口に随神門(明暦頃・県重文)があり、北側に袖廻廊(明暦頃・県重文)を連ねる。

随神門をくぐると正面に神域上段部の石垣(延享元年・県重文)が現れる。
ここで参道を左にいったん鈎の手に折れ進むと右手に石段がある。
これを上ると神域上段部の入り口となる唐門(宝暦六年・重 文)がある。

唐門の南北石垣上には袖塀が廻され、南側は神楽拝見殿が接続する。

南北面にはそれぞれ南門・北門が設けられる。

唐門をくぐった正面には拝殿、幣殿、本殿からなる御本社(宝暦六年・重文)が鎮座する。
御本社拝殿北 側には神餞所(宝暦六年・重文附)が附属する。

境内の形成『由来記』によると明暦二年から元禄年間までに旧御本社の波 己曾社殿のほか、
力神門、随神門、廻廊(袖廻廊)、神楽殿、神楽施主小屋、 護摩堂、御供所、天狗堂など諸建物が建立されている。

また、参道石段脇石に 宝永の年号が確認されていることから、この時期には上部神域随神門レベルの造成と参道の整備、
および下部寺域の基本的な地盤が造成されたと考えられる。

以後、百年を経ないうちに豪華な装飾が施された現御本社に建て直されている。

                                              妙義神社HPより転記

妙義神社
群馬県富岡市妙義町妙義6
Tel 0274-73-2119

妙義神社
群馬県富岡市妙義町妙義6
Tel 0274-73-2119





上野国一ノ宮 貫前神社 kamitukenokuni itinomiya nukisakijinjya

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妙義温泉へ

妙義温泉へ

参道石段と正面大鳥居

一之宮貫前神社(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する、1400年の歴史を持つお社です。
御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)で,
現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
(江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されています)
年間祭儀が71回あり御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など古くからの祭儀が数多く残るのが特徴です。

社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り,
その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、
これが創建にあたります。 

また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。
醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、
上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。
旧社格は国幣中社。

                                          貫前神社HP説明より

神社由緒書御祭神と祭事

上野国一之宮 一ノ宮貫前神社

神門 社殿は神門より下に鎮座する
    下り宮で珍しい形式

貫前神社唐銅製燈籠

東門

西門と富岡市名木 銀杏 スタジイ

勅額鳥居

勅使門(不明門)

  貫前神社唐銅製燈籠 (富岡市指定重要文化財)
高さ約395㎝の一対の銅製燈籠で、慶応元年(1865)製作、慶応二年にここに建てられた。
燈籠銘には、慶応元乙丑歳九月吉日  東都御鋳物師 西村和泉守藤原政時とある。

燈籠の基礎部と竿部の間に、燈籠建立の際の献納者名・居住地・献納額が二段に刻まれている。
献納者の人数は合計千五百四十四名、献納額は総額四千七百九十両にのぼり、地元の多数の養蚕農家をはじめ、
上州・江戸・横浜の生糸絹商人らが献納している。

本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製紙業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、
七年後に開業した富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる貴重な文化遺産である。


  勅額鳥居
勅額鳥居は清和天皇の御宸筆による額が掲げられていたことからこの名前が付いたと伝えられ、
元々は一ノ宮大字田島字鳥居にあったものを寛永十二年(1635)に移築したものである。
現在の額は、明治六年(1873)有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)の御染筆の神号額が掲げられている。


  勅使門
勅使門は朱雀天皇の御代(930~946)奉幣の為、勅使参向の際に設けられた。
勅使参向の時のみ開かれ、普段は開門されないことから「不明門」と称されたと云う。
現在では、春と冬の御戸開祭と流鏑馬祭りの年三回開門される。


  富岡市名木十選 銀杏 スタジイ(富岡市指定天然記念物)

このスタジイは、樹高15m、根回り4m、枝張り東西20m、南北18mを計り、樹齢は約千年と推定される。
樹幹は、数本の枝幹が成長し合わさり一体となったもののようで、奇異な形をしている。
この樹の由来については、明らかではないが、貫前神社の社域内にあり、神社の歴史との関係も深いと考えられる。
現在も樹勢は旺盛で、他に類を見ない巨木であると同時に奇木でもあり、貴重な天然記念物であると言うことが出来る。

スタジイは、ブナ科の常緑高木で、本州の福島・新潟・佐渡以西から九州にかけての主に海岸地方に多く生育している。
ヤブツバキ域(温暖気候帯)の自然植生(照葉樹林)の構成種である。
花期は五月~六月で翌年の十月頃に実が成熟し、シイの実として食用になる。

                                             案内説明より

境内菊花展

境内菊花展

三重塔礎石

  末社 月読神社
月読神社の現在の社殿は、寛永十二年(1635)以前の旧御本社拝殿を牛王堂として使用し、
明治維新以後、月夜見命をお祀りして月読神社と改称した。
明治四十一年、現在の氏神である社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、
近戸神社(富岡市野神)の各社を合祀した。
月夜見命他十七柱の神々をお祀りしている


  末社 日枝神社
日枝神社の現在の社殿は寛永十二年以前の旧御本社の本殿を移築したと伝わる。
明治四十二年に近在の氏神である和合神社(田島)、諏訪神社(宇田)、大臣神社(坂井)、各社を合祀、
大山咋神、他十七社の神々をお祀りしている。


  末社 伊勢神宮内宮 外宮
内宮、外宮は古くは境内の天狗沢峰通り字伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永十二年に現在地に遷座したと伝わる。
伊勢内宮は天照大神、伊勢外宮は豊受大神をお祀りしている。


  二十二末社
社領内各地に鎮座していた二十二の末社を寛永十二年御本社の御造営の際に、
一棟の社殿にお祀りしたことから二十二末社と称した。


  三重塔礎石
現在地を俗に「お塔址」と呼び、古くは三重塔、薬師堂、観音堂、六角堂、鐘楼等の諸堂が軒を並べていたが、天保十二年(1841)一月八日の社領内より失火(俗に燈籠火事)に為に焼失し、弘化二年(1845)より再建が計画されたが再建されず、ただ礎石によって当時の繁栄が偲ばれる。
大塔本尊は慈覚大師であったと云う。

                                            案内説明より

宝物館

神楽殿

北方面参道の鳥居(自動車道)

社務所

末社 月読神社

末社左日枝神社 右伊勢内宮・外宮

二十二末社

斎館

スタジイの幹

高欄付楼門

楼門袖廻廊

楼門軒木組みの様子

拝殿と本殿(工事中)

  社殿 (本殿 拝殿 楼門 楼門東西廻廊)国指定重要文化財
現在の社殿は徳川三代将軍家光公の命による寛永十二年(1635)の造営である。
「元禄十一年(1698)五代将軍綱吉公の命により大修理した」とある。
江戸時代初期の極彩色総漆塗の精巧華麗な造りであるだけでなく、
本殿の構造が単層二階建ての俗に「貫前造」という当社独特の社殿形式と「雷神小窓」と称する小窓が設けられていることから、
明治四十五年旧国宝、昭和二十五年国指定重要文化財に指定されている。
拝殿、楼門及び東西廻廊は昭和五十一年重要文化財に追加指定された。
これらの社殿は同時代の建築である。


  摂社「抜鉾若御子神社(ぬきほこわかみこじんじゃ)」

抜鉾若御子神社は安閑天皇の御代に現れたと伝えられ、上野国神明帳に従五位抜鉾若御子明神と記載されている。
明治三十八年に一ノ宮字若宮の地より現在地に遷座され、現在の社殿は棟札によると文化十二年(1815)の建立と云う。

                                            案内説明より

拝殿檜皮葺屋根

拝殿唐破風神社左巴紋





茂木家住宅 宮崎公園内

宮崎公園 しののめ堂

宮崎公園紅葉

宮崎公園内池

  しののめ堂の建立
富岡市は東国文化の発祥の地として、わが国の歴史の黎明期に、開け初める東雲の光のような役割を担ってきました。
こうした祖先の歴史や文化を受け継ぐとともに、新しい息吹を吹き込んで活力と潤いに満ちた文化を創造するため、
ここに俳句の殿堂として「しののめ堂」を建立し、上毛しののめ文化運動の拠点とする。     平成七年三月

宮崎公園展望屋

宮崎公園東屋

茂木家住宅外観

  旧茂木家住宅(国指定重要文化財)
旧茂木家住宅は、戦国時代の大永七年(1527)の建築で、
現在残されている民家の中ではわが国で最古の建物とみられます。

その特徴は、板葺屋根であること、古代からの掘立柱建物に通じる古い建て方である小屋組みという方法を用い、
棟持ち柱が屋根まで達していること、梁などの横材は曲がりくねった細いものであること、
さらに柱が手斧仕上げで多角形であることなどがあげられます。
特に柱材の組み方は雄大で力強く、古い建物の特徴をよく残しています。

この住宅は、もとは神農原地内の茂木家にあり、昭和四十五年に国の重要文化財に指定されました。
昭和五十年に富岡市の所有となった後、昭和五十二年に現在の場所に移設し、復元修復の上一般公開しました。

茂木家は戦国時代の大山城の城主の後裔と伝えられ、これに関する資料も多数所蔵されています。
文化十二年(1815)の古文書には、「納戸大称た(大根太)之書付写、大永七丁亥年建と有」と記され、
さらに、宝永五年(1708)と文政十一年(1828)の大規模な修理の際には、
古文書と同様の内容の墨書きが納戸の大曳や座敷の桁の木材に記されたことがわかりました。
また、明和五年(1768)にも大修理が行われたことを示す墨書きも見られました。

この建物がもとあった茂木家の周囲には、屋敷を守るための土塁の跡が現在もはっきりと残っており、
戦国時代に建築されたことを示すものと考えられます。

旧茂木家住宅 切妻造板葺石置屋根
桁行  15.1m
梁間  7.5m
南側庇  16.1m×1.0m
面積  114㎡

                                        案内説明より

板葺石置き屋根

住宅外壁

解体時の記録写真展示

切妻屋根の様子

棟通し柱

囲炉裏部屋

板敷部屋

神棚

「でい」と呼ばれる板敷部屋

二階造りであった部屋天井

自然木の棟木と梁木

縁側

家財

什器展示

「でい」の床板墨書

桁材(右側)と納戸の大根太材(中央)

  桁材
この材木は、もと二階の胴差に使用されていたものを、文政十一年(1828)に背面(北側)の桁に再利用したものである。
墨書は文政十一年の修理を記している。

  「でい」床板墨書
この板は「でい」の床板として利用されていた。
明和五年(1768)の墨書が認められ、この時床板が張り替えられたことを示している。

                                               案内説明より

納戸の大根太の書付写

  納戸の大根太書付写
この文書は、文化十二年(1815)に当主の茂木庄右衛門が書き残したものである。
文書の特に注目すべき点は「納戸の大根太の書き付に、この家は大永七年に建てられた」という記録を残していることである。
茂木家が国の重要文化財に指定された一つの理由にこの文書も役立っているものである。

この地に移築復元する際、この書付を注意して探した結果、納戸の大根太には一つの墨書が発見された。
その根太材がケース内に納められているものであるが、肉眼では確認できず、
国立文化財研究所に運び赤外線写真によって文字の解読を行った。
その結果『用書写』とは同じ文章ではないが、それに近い意味であることがわかったのである。


  茂木家家系図
橘諸兄公が彼方の祖先であり、久明親王(鎌倉幕府八代将軍 後深草天皇第六皇子)の後胤
野宮淡路守信勝の二十八代の孫で神原大山城主野宮駿河守信詮を家祖とし、
信詮上毛国出奔、加賀国に在、後外戚姓茂木(正室実家)を名乗る。
小幡藩神農原郷の名主として家督を守ってきた。

                                         案内説明より

          

茂木家家系図

国指定重要文化財茂木家住宅
富岡市観光 富岡浪漫紀行


富岡市宮崎329
Tel 0274-63-0317

休日 月曜日 (祝祭日の場合翌日)
    12月(28日~1月3日
開館時間 10.00~16・00 入館15・30まで

富岡市観光 富岡浪漫紀行

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鎌先温泉 木村旅館 最上屋旅館
  kamasakionsen


白石城   神明社  

温泉名: 鎌先温泉最上屋
源泉名: 三宝の湯
泉質: ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉  (メタホウ酸68.8㎎/㎏)
     低張性 中性 温泉
     pH6.7  陽イオン 1024.1㎎/㎏  陰イオン 1900.5㎎/㎏
     成分総計 3127.9㎎/㎏

源泉温度: 36℃

湧出量: 不明
湧出形態: 不明
注入排出形態: 加温源泉かけ流し

効能: きりきず やけど 慢性皮膚炎 慢性婦人病 動脈硬化症
     神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 大人 500円  小人 250円
利用時間: 9.00~18.00
休日: 無休 (問い合わせ)



奥州の薬湯 最上屋旅館 (日本秘湯を守る会会員宿) 
宮城県白石市鎌先温泉1-35
Tel: 0224-26-2131


落ち着いた雰囲気の玄関とフロント。
自炊設備も整っていて、見るからに懐かしい。
吉永小百合さんのキャンペーンポスターが雰囲気にマッチングしていた。
白石市民バス(200円)鎌先温泉下車すぐ。

最上屋旅館



木村屋旅館

温泉名: 鎌先温泉
源泉名: 新湯
泉質: ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉   (メタホウ酸81㎎/㎏
     低張性 中性 温泉
     pH6.9  陽イオン 998.8㎎/㎏  陰イオン 1932.0㎎/㎏
     成分総計 3132.9㎎/

源泉温度: 37.7℃

湧出量: 不明
湧出形態: 不明
注入排出形態: 加温源泉かけ流し

効能: きりきず やけど 慢性皮膚炎 慢性婦人病 動脈硬化症
     神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 500円
利用時間 10.30~16.00
休日: 無休 (問い合わせ)


にごり湯の宿 湯守木村屋旅館
宮城県白石市鎌先温泉1-51
Tel: 0224-26-2161



最上屋旅館の裏手高台にあり、最上屋の敷地?を通ると近道(徒歩のみ)
鎌先温泉の中では最大級の温泉宿で、最上屋とは違った近代的な建築の旅館。
玄関ロビーにはウエルカムミャー子が二・三匹でお出迎え。
だが、帰りには完全に無視されよく訓練されているようだ。
この雰囲気から見るとペットに寛容な施設と見える。

鎌先温泉の発見は、正長元年(1428年)、白石の一樵夫がこの山中に入り、 喉の渇きを覚えたので水を谷間に求めたところ、
たまたまそこに温泉が湧出しているのを発見し、 鎌の先で岩をうがって湧き口を探し出したといい、
そこから鎌先の地名が起きたといわれています。

昔から、鎌先温泉は湯治として有名であり、
特に当館の展望露天風呂のにごり湯は、心身ともに暖まりどんな病気でも良くなる温泉です。

                                        木村屋HP説明案内から

自炊施設

小百合様

玄関

温泉成分分析書

自炊施設

外観

音勢成分分析書

内湯 大浴槽

露天風呂 加水源泉かけ流し

時音の宿 湯主一條

レトロな感じの木造建築を持ち、看板には 「旅人宿営業」 「宮城県職員互助会指定旅館」 「湯主 一條本店」
と書かれていてどれも年月を感じる看板である。
一條旅館紹介のネットでは、日帰り入浴800円で受け入れているとの情報があったので電話で確かめてみたら、
電話の答えは、「内では日帰り入浴はやっていません! 入浴できるのはお泊りしたお客さんのみです!」
とキツイ言葉で断られてしまいました。
私が何か悪い事を聞いたかのような後味の悪い思いをした。
テレビで東北大震災での被害や、一條旅館での再生、再開の様子からは思いもよらぬ対応に外から眺めるだけでした。

ミャー子





白石城

木村屋旅館玄関

矢穴

丘に築かれた平山城

東口城門跡 平入り門

移築された城門 (案内写真)

野面積みと書かれている石垣

  東口門跡
白石城「東門」は、正式には「二ノ丸大手二ノ門」といい、白石城東側を迂回するように通った
奥州街道沿いの大手口から城内に入り、外曲輪、三ノ丸内の屈曲した通路を通り、二ノ丸へ入る関門であった。
片倉家屏風絵による東口門は、二階に横幅のある格子窓が付き、その両側に狭間が穿たれている。
また、階下両側にも狭間が設けられ、白石城東側の防衛拠点だった様子がうかがえる。

明治七年(1874)、白石城解体の際、いったん白石駅前通りの「専念寺(せんねんじ)」に売却されたが、
明治二十年(1887)東北本線開通に伴い、白石市本町にある「当信寺(とうしんじ)」山門として移築された。
現在の山門は(案内写真)、二階櫓門で二階中央間の表と裏に大きな「眼象窓(げんじょうまど)」が各一つ、
二階側面には「丸窓」がついている。
幕末、この門の二階に太鼓を置いて時を知らせるため、音の響きっをよくするために開けた穴と伝えられ、
往時の面影を留めている。


  東門跡石垣
この石垣は白石城本丸に築かれた石垣の一部です。
石垣は本来上部土塁の上部までありましたが、明治時代に解体され基底部のみのこっています。

ここの石垣は、ある線を境にして北側と南側で異なる積み方がされています。
南側の石垣は野面積みです。   (私は見たところ打ち込み接ぎの布積みではないかと思う)
野面積みとは、自然石にあまり加工をせずに石を積む積み方です。
よく見ると、大きい石の回りに小さい石が取り囲むように積まれています。
積まれた時代は文禄年間(1592~1595)と考えられています。 (野面積みからの考証ではないかと思います)

北側の石垣は、四角形を基調に加工した石を隙間なく積んでいます。
技法的には野面積石垣よりも新しい積み方です。  (切り込み接ぎ、布積み)

この箇所は元々野面積であったものが、大雨、地震などで崩れ、積み直されたものです。
度々石垣が崩れ、修理されたことが城主であった片倉家の江戸時代の記録「片倉代々記」に記されています。

石垣の一部には、矢穴と呼ばれる石を割る際に施行された長方形の穴が石の端に見られます。

                                           案内説明より

切込み接ぎ 布積み

石垣内側の武者走石段り

本丸一ノ門

本丸二ノ門

本丸から二ノ門

野面積天守石垣

本丸土塀

天守袖土塀

天守千鳥破風出張り石落とし

本丸御殿跡

二ノ丸井戸 屋形は復元 

隘路桝形

天守 (三階櫓)

  白石城 (別名益岡城)
天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津藩蒲生氏郷に与えた。
蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。
慶長三年(1598)会津藩上杉家領となってから、上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城とした。

慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、
伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで二百六十年余年間片倉氏の居城となった。

白石城は標高七十六メートルの最頂部には本丸・中の丸・西曲輪、中段には沼の丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き、
丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。
本丸は高さ九メートル余りの石垣の上に土塁を囲み、三階櫓、そして巽櫓・坤櫓、追手門・裏三階門を構え、
御成り御殿・表・奥の諸建物があった。
二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用すなど、中世と近世城郭を併用した縄張りであった。

元和元年(1615)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、
明治維新には奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれ、公儀府が置かれ、輪王寺宮が滞城された。
その後安察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。


  鐘堂と鐘
白石城鐘堂は、その脇に物日(祝の日)に片倉家の白地黒鐘の大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、
発掘調査の結果等により三階櫓(天守)東側のこの突出平場に建っていたと考えられる。

もとの鐘は文正元年(1466)に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあった。
東昌寺は伊達家四世伊達政依が弘安年中(1278~11288)に建立した寺で、現在仙台市に移っている。
何時の時代にか白石城に入って、非常の際に撞き鳴らされていた。
また毎月七月、城回りの土手と堀の清掃のときには、この鐘を鳴らした。
朝八時に七つ撞いて仕事を始め、九時に五つ、十時に三つで終わる。
侍と城下にいる足軽、その他扶持をうけているものが総出で堀払いをした。

長年使用したため、ひびが入ったので、寛文元年(1661)、片倉三代影長が仙台の鋳物師早川彌五助に命じて再鋳した。
それが戊辰戦争後、明治三年(1870)白石城払い下げのとき、縁を知って伊達郡桑折町の傳来寺で買い求め、
その由来を新たに記して使用していた。
太平洋戦争中、古鐘であるといって保存させたので供出を免れて傳来寺境内に現存している。

                                            案内説明より

天守

天守入口

鐘堂

鯱 雄

鯱 雌

菱形格子

天守より蔵王

高欄付天守望楼廻縁

天守一階展示品

一階武者走り

天守大棟木組み

本丸井戸

鉄砲狭間 角形も鉄砲狭間

天主望楼から本丸御殿跡

片倉小十郎(景綱) 武者のぼり旗

真田幸村(信繁) 武者のぼり旗

白石駅

  鬼小十郎重長と伊達政宗
片倉小十郎二代目・重綱(後の重長、德川四代将軍家綱を憚り改名)は、誕生後殺される運命にあったといいます。
当時、政宗には子供がおらず、そのため妻の懐妊を知った片倉小十郎景綱は、
「伊達家に嫡男誕生までは片倉家に慶事罷りならぬ」として、わが子を殺すつもりでいたといいます。
これを翻意させたのが主君政宗公でした。

景綱に書状を出し、思いとどまらせたと云います。
こうして重綱が無事誕生したのでした。
この重綱は、後に武功を挙げ、天下に「鬼小十郎」の名を轟かせることになるのです。


  片倉家と上田真田家の関係
大坂夏の陣の元和元年(1615)の合戦の様子を描いた屏風絵は、国指定重要文化財として大阪城に展示されていますが、
この屏風絵の中で、德川軍の先陣をきり釣鐘の大馬験を掲げ戦っているのが、鬼小十郎が率いる片倉隊です。

この時、鬼小十郎と呼ばれた片倉小十郎(二代)重綱は、道明寺口に於いて大坂城から出撃してきた薄田隼人正、
後藤又兵衛基次の軍と相対しこれを打ち破り、城外真田丸に拠っていた真田幸村(信繁)と激戦をくりひろげました。
(大坂夏の陣には真田丸は取り壊されていて存在していないといわれる)
大坂城落城前夜、自らの戦死を覚悟した真田幸村は、敵将片倉小十郎重綱を知勇兼備と見込み、子女の後事を託しました。

重綱はその時預った五女阿梅と穴山小助の娘の他に、京都市内の巷に隠棲していた幼い子女阿菖蒲、おかね、
大八を探し出し、白石城二の丸おいて密やかに養育しました。
長じて、阿梅は二代小十郎重綱の後妻となり、阿菖蒲は田村定広の妻に、おかねは早世しましたが、
大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、片倉家家臣から後に仙台藩士に取り立てられ、正徳二年(1712)真田姓に復しています。、

                                          案内説明より

歴史資料館&食事処






神明社

神明社 鳥居

神門

社殿

拝殿神額

手水舎

境内社 左招魂社  右三荒神社

三荒神社鳥居扁額

境内社 天満宮

境内社 稲荷神社?

御輿蔵

御輿

多くの祠

境内の紅葉

  神明社 祭神 天照皇大神 神代別天神三柱(天御中主神 髙御産巣日神 神産巣日神)
神明社は大同二年(807)の平安時代、坂上田村麻呂の創紀と伝えられ、
藤原秀衡、蒲生氏郷、長尾景勝(上杉)の臣甘糟備後守などの武将の崇敬が厚かった。
慶長五年(1600)七月、伊達政宗が白石城を攻め落とし、その先陣の功により慶長七年白石城を片倉小十郎景綱与え、
以来片倉家の尊崇最も篤く、社殿造営、修復を怠らず、白石城の鎮守と仰ぎ明治に及んだ。

明治三十二年五月白石町大火の際、社殿、末社はじめ付属の建造物悉く焼失し、
翌年に本殿を明治三十九年に拝殿を造営した。
現社殿は昭和十年十月に竣工したものである。


  天満宮 祭神 菅原道真
祭神は学門、芸能の祖神として崇拝されている菅原道真公であります。
当天満宮は江戸中期に本町当信寺の智山和尚が始めた寺小屋(寺子屋の書き間違い)に集まった子供たちのために、
京都北野天満宮より御分霊を受けて祀ったのが始と伝えられています。
明治元年神仏分離令により本町天神横丁に遷され、その後本町区民有志の浄財によりこの地に遷座し
広く好学の士や学究を志す人などの崇敬をあつめております。


  十八代横綱 大砲萬右衛門(本名角張萬治)
明治二年十一月二十八日、父満吉の長男として白石市大鷹沢三沢字唐竹に生まれる。
少年の頃、六十キログラムの米俵を両手に軽々と提げ町まで運び、「三沢の怪童」と呼ばれました。
明治十七年、年寄り尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなみ、しこ名を「三澤滝」と称しました。
身長百九十八センチメートルの巨漢であった。
明治二十一年しこ名を「大砲」と改めた。
明治三十四年四月三日、第十八代横綱に推挙され一世を風靡した。
大正七年五月二十七日没した。
大砲生誕百三十年にあたり多くの有志とこの像を建立した。

                                           案内説明より


社団法人 白石市観光協会 (白石駅観光案内所) 宮城県白石市沢目137 Tel 0224-26-2042

神明社  宮城県白石市益岡町1-17 Tel 0224-25-1180

十八代横綱 大砲萬右衛門像

谷風梶之助 大砲萬右衛門 褒称碑

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甲府湯村温泉 湯村ホテルB&B

温泉名: 湯村ホテル温泉
源泉名: 湯村温泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH8.5  陽イオン 552.5㎎/㎏  陰イオン1052.2㎎/㎏
     成分総計 1709.9㎎/㎏

源泉温度: 45.8℃

湧出量: 90ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: きりきず やけど 慢性皮膚炎 慢性婦人病 動脈硬化症
     神経痛 筋肉痛 五十肩 慢性消化器病 痔疾 冷え性 疲労回復 
     健康増進 うちみ くじき

利用料: 大人1200円  小人600円
利用時間: 7.00~21.00 (毎日10.00~11.00 火曜日10.00~13.00 清掃の為休)
休日: 無休 (問い合わせ)


湯村温泉 湯村ホテルB&B
山梨県甲府市湯村3-3-11
Tel: 055-254-1111


甲府駅南口バスターミナル三番乗り場 湯村温泉入口下車徒歩2分  280円
行き先によっては湯村ホテル前が湯村温泉入口バス停となっている

露天風呂

フロントロビー庭ライトアップ

夜景

一般社団法人 日本温泉協会 天然温泉証

湯村ホテル

内風呂

温泉成分分析書

甲府城





舞鶴城公園 (甲府城跡 県指定史跡) 

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銅門跡礎石  

  甲府城(舞鶴城)跡
甲斐国は、天正十年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、
天正十八年(1590)豊臣秀吉の支配地となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長親子により治められました。
甲府城は慶長五年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。

関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康九男)、忠長(二代将軍秀忠三男)、德川綱重(三代将軍家光三男)、
綱豊(六代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり、城番・城代制が敷かれました。
宝永二年(1705)には、德川家以外の大名として武川衆(信濃国境周辺の甲斐国地方武士団)出身の
柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。
柳沢家の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。

明治維新後には廃城となり、建物はほぼ取り壊されて無くなり、跡地には葡萄酒醸造所が造られるなどして、
明治三十七年(1904)に舞鶴公園として開放されました。
大正六年(1917)に明治維新後陸軍省所管となっていた甲府城跡を甲府市(旧柳町在住)の村松甚蔵氏の寄付をもとに
払い下げを受けて県有地としました。

戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和三十九年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、
昭和四十三年には県の指定史跡となりました。
その後広く県民に利用されてきましたが、施設の老朽化などの理由より、
昭和六十年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。

そこで山梨県は、平成二年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、公園内道路、広場の再整備、堀の浄化、
占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などを行いました。
またそれに伴う発掘調査で、本丸や天主台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。


  本丸櫓跡
城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。


  暗渠
雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので、効果的に排水する必要があります。
暗渠はそのために設けられた施設です。


  銅門跡 (あかがねもんあと)
天守曲輪から本丸に通じる西側の門です。
礎石は築城当時のものです。

                                       案内説明より

甲府駅南口武田信玄像

甲府城跡登城口

高石垣 (修復石垣)

隅櫓石垣と武者のぼり階段

石垣基底水抜き暗渠

本丸櫓跡

銅門跡

内松陰門二ノ丸石段

武徳殿

内松陰門 (復元)

内松陰門

二ノ丸

石垣土塀武者走り

石割矢穴の痕跡

坂下門跡

石垣に根を張った江戸期の樹木

中ノ門跡

築城当時の石垣(打ち込み接ぎ)

鉄門 (くろがねもん 復元)

鉄門 脇門付

天主台へ

鉄門内部

鉄門公開

  内松陰門 (復元)
屋形曲輪と二の丸をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成十一年に復元しました。


  坂下門跡
鍛冶曲輪とと天守曲輪・二の丸をつなぐ門です。
江戸時代の本『裏見寒話』には、城を建てる前からあった一蓮寺の門を使用したとあります。
稲久山一蓮寺の旧寺地は甲府市中央二丁目あたりだと云われています。


  中ノ門跡
天守曲輪・本丸へ通じる門です。
絵図には柵の門として描かれています。


  鉄門 (くろがねもん復元)
甲府城は豊臣秀吉の東国目付として浅野長政、幸長によって築城されました。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで幸長の功多く、戦後紀伊国和歌山に加増転封になり、
德川一門が東山道西国目付の役目を担いました。

かって城下町から見上げた鉄門は、明治初年に城内の他の建物と共にすべて取り壊されてしまいました。
この鉄門を復元し歴史景観を再現することは、甲府城跡の文化的価値や理解をより高めるものと考えています。
また、甲府中心市街地からの眺望は、新たな魅力と人の流れを生み、
城下町甲府の風格と活気を取り戻すものと期待されています。


  鉄門復元の流れ

①調査・研究
絵図・古文書・古写真等の資料調査や、遺構の発掘調査を行い、あわせて、
有識者によって組織された専門委員会の指導を受け、復元の根拠を整えました。

②保存
残存する礎石を使い、現位置へ復元しました。
また、東西の石垣に残る梁の跡も使用し、鉄門の姿かたちを復元しています。
その他、路面や水路、石段などの遺構は、埋設保存しています。

③工事
木工事・左官工事・屋根工事とも、在来工法で作業を進めました。
木材の加工、土壁塗り、瓦作成など、様々な工程がありますが、昔から伝わる工法で丁寧に仕上げています。

④その他工法の選択
鉄門は、在来工法にこだわり工事を進めましたが、現代の建築基準法と照らし合わせると、
耐震性や構造面を強化する必要がありました。
そのため、基礎の一部に補強材としてコンクリートや鉄骨を使用しています。
補強材導入にあたっては、専門委員会の指導を受け、可能な限り歴史景観に違和感のない様配慮しています。
しかし、現代に鉄門を復元するためには欠かせない要素であり、在来工法と現代工法の融合として、
完全に遮蔽せずに公開しています。


  鉄門構造
三間一戸脇門付渡り櫓   木造、入母屋造、本瓦葺、正面背面庇付  一階東側番所付
一階 桁行7.879m  梁間4.545m   二階 桁行12.726m  梁間5.454m
延床面積 75.19㎡  建築面積 76.81㎡  軒面積 116.48㎡

遺構である礎石を利用しながら、補足的な鉄筋コンクリート基礎を追加

外部仕上  一階板壁  二階大壁、小舞下地、土壁、白漆喰仕上 
内部仕上  全面真壁、白漆喰仕上
屋根   一階庇、片流れ、本瓦葺   大屋根、入母屋造、本瓦葺   大棟、降棟、隅棟で納め、大棟端鬼瓦・鯱瓦 


  鉄門公開
公開時間: 9.00~16.00
観覧料: 無料
休日: 月曜日 (祝祭日の場合は翌平日) 年末年始12月29日~1月3日 

                                              案内説明より

稲荷櫓

稲荷櫓

稲荷櫓 二重の石垣

稲荷櫓

石垣面の突起

中央本線 堀が在った所だろうか?

  天守台
甲府城が建てられた当時の姿がそのまま残っています。
天守台は城のシンボルとしての天守が建てられる場所です。


  稲荷櫓
城内の鬼門(北東)に位置するところから艮(丑寅)櫓とも呼ばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。
明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも二度にわたって建物を建築した痕跡(遺構)と、
土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が六点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や資料などを基に、出来るだけ当時の姿に復元したもので、平成十六年に建築しました。


  二重の石垣
稲荷櫓石垣の解体調査をしたところ、表面石垣のその背後からも石垣が現れ、積み直しをしていることがわかりました。


  かふふ来の鐘(幸福の鐘)
この釣鐘は、かって甲府駅上りホーム東端の跨線橋下部に吊り下げられていたものです。
その設置時期は不明ですが「、昭和初期には概に設置されていたと言われています。
また戦後、甲府駅構内の建物が火事になった際に釣鐘を連打し、大事には至らなかったというエピソードが残っています。
なお、台座上部のレールは、ドイツのウニオン社が1903年に製造したもので、甲府駅開業当時使用されていたといわれています。

                                              案内説明より

かふふ来の鐘(幸福の鐘)

明治天皇御登臨之跡 天守台上

長禅寺五重塔 天守台から

富士山 天守台から

御賜林謝恩記念碑 天守台から

天守地階部?

天守台から地階部

回式天守台





いろり火の里なの花温泉 田田の宿
 nanohanaonsen-denden no yado

菜の花温泉 田田の宿

菜の花温泉 日帰り施設

温泉名: なの花温泉 田田の宿
源泉名: 町営4号源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉  メタホウ酸 127㎎/㎏
     高張性 中性 高温泉
     pH 7.1  陽イオン 10704㎎/㎏  陰イオン 17270㎎/㎏
     成分総計: 28281㎎/㎏ 

源泉温度: 51.2℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、神経痛、筋肉痛、
     五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔病、
     冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進


温泉名: なの花温泉田田の湯(日帰り温泉施設)
源泉名: 町営3号 町営4号
泉質: 町営3号
     ナトリウムー塩化物泉
     低張性 中性 低温泉
     pH8.4  陽イオン 2629.8㎎/㎏  陰イオン 4288.8㎎/㎏
     成分総計: 7001㎎/㎏

源泉温度: 35.3℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、神経痛、筋肉痛、
     五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔病、
     冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進

利用料: 中学生以上 430円  小学生 160円
利用時間: 6.30~22.00(入館時間21.15まで)
休日: 毎月第三水曜日(17.00~22.00を除く)


みかわ振興公社
山形県東田川郡三川町大字横山字堤172-1
Tel: 0235-66-4833

なの花温泉 田田の湯
山形県東田川郡三川町大字横山字堤172-1
Tel: 0235-66-4826 

田田の宿浴槽 褐色(鉄成分)

温泉成分分析書 町営4号源泉

道の駅 庄内みかわ

鶴岡の寺社

田田の宿 朝食

水生動稙物観察 三川町「夏水田圃」






鶴岡の寺社巡り

春日神社  伊勢内宮外宮社  八坂神社  八幡神社

金浄寺  光明寺  高運寺  七日町観音堂  常源寺  常念寺  正覚寺  洞泉院  保春寺  太春院  

大昌寺  本住寺  萬福寺  明伝寺  龍蔵寺  蓮台寺  廣濟寺

能修寺  南岳寺  禅龍寺  禅源寺  安国寺  高安寺  大督寺  総穏寺  光學寺  極楽寺  東昌寺 

寶林寺  鳳銜寺  福寿寺  性頓寺  長圓寺  林泉寺  般若寺  龍覚寺  長泉寺  蓮乗寺  宗傳寺



鶴岡の神社その2・・・下記神社別ページに移動します

羽黒山三山神社  三宝荒神社  八幡神社  新海町稲荷神社  猿田彦神社  三光町稲荷神社 

本町琴平神社  鶴岡天満宮  昭和町秋葉神社  昭和町稲荷神社




春日神社 境内社
(八幡神社 稲荷神社)

春日神社鳥居

春日神社鳥居 扁額

拝殿

本殿

手水舎

春日神社西参道鳥居

八幡神社

八幡神社拝殿扁額

稲荷神社

稲荷神社扁額

八幡神社本殿




伊勢内宮外宮社
(境内社 多賀神社・太田神社・宗像神社・疱瘡神社)

社標

内宮社(天照大御神)

外宮社(豊受大神)

常夜燈 文政四年辛巳(1821)六月銘

伊勢社鳥居

西参道鳥居

社務所

手水舎

左多賀大明神 右太田大明神

左宗像神社 右疱瘡神社




八坂神社
(境内社 古峯神社)

八坂神社参道鳥居

手水舎

八坂神社社殿

境内社 古峯神社

古峯神社扁額




八幡神社
(境内社 稲荷神社)

  十日町八幡神社
八幡神社は、古くから武士の間で信仰されていた八幡神を祀る社です。
鶴岡市旧十日町に鎮座するこの八幡神社は、もともと鶴ケ岡城を守る氏神で、庄内藩主・酒井家の崇敬を受けていました。
貞享元年(1684)旧鷹匠町(現若葉町)にあった宮台寺の境内に移され、さらに宝暦十年(1760)現在地に移転させられたものです。
この時、城下の家臣たちへ火伏のお札を配って歩く権利を与えられていました。

江戸時代には、同じ境内地に真言宗の宮台寺があり八幡神社の別当寺として「神仏習合」の形をとっていました。
しかし明治維新の神仏分離令によって宮台寺は廃寺となり、明治九年(1876)八幡宮は八幡神社と改称されました。
太平洋戦争敗戦後の昭和二十四年(1949)神社の境内地は国から譲与を許され、現在に至っています。

八幡神社の祭神は八幡神である誉田別命(応神天皇)と気長足姫命(神功皇后 応神天皇の母)・玉依毘売命(神武天皇の母)、
の三柱で、八幡三神と呼ばれています。
(比売命については諸説あり総て神話に基づくものである)
                                          案内説明より

十日町八幡神社

社殿

社号扁額

境内社 稲荷神社

稲荷神社鳥居扁額





浄土宗 専弥山金浄寺  
鶴岡市昭和町12-18

金浄寺への道

本堂 寺社コンが催されている

庫裡

境内の墓地





浄土真宗大谷派 遍照山光明寺  
鶴岡市本町2-9-8

市指定天然記念物 光明寺の笠松

笠松の樹幹

光明寺山門 柱門

本堂

庫裡

  光明寺の笠松の由来
遍照山光明寺は石原道秀琇により開基された。
道琇は俗名石原平右衛門河内(初代)という三河武士で、酒井家の祖・忠次公に仕え三河吉田で家老職を勤め、
度重なる合戦に出陣して手柄を立てた酒井家草創の功臣であった。

天正寿七年(1589)、長男平右衛門河内(二代)に家督を譲って仏門に入り、西了と号し、法号で道琇と称し、
浄土真宗の道場を創設した。
これが光明寺の起源である。
道琇は娘の婿に三河の本證寺より了祐を迎えて光明寺の跡目を継がせ、
寛永八年1631)九十一歳の天寿を全うして鶴岡にて没し、光明寺に葬られた。

銘松「笠松」は河内道琇が元和八年(1622)忠勝公に従って信濃松代から鶴岡に移ってきたとき、
愛玩の鉢植えの松を持参し、光明寺の境内地に移植したものと伝えられている。
従って樹齢は四百年に及ぶ稀な老松で、昭和四十年鶴岡市の天然記念物に指定された。

                                       案内説明より





浄土真宗大谷派  高運寺  
鶴岡市昭和町7-13

柱門寺標

本堂

庫裡





清水山七日町観音堂  
鶴岡市本町2-11-7

庄内三十三観音二十九番札所

観音堂 
境内では十二月だるま市などの歳の市が立ち賑わいを見せている

地蔵堂





曹洞宗 鳥川山常源寺  
鶴岡市鳥居町33-41

山門

本堂 本堂前に樹木は松とのことだが    一位によく似た樹である

境内イチョウの巨樹

地蔵堂





浄土宗 鶴岡山圓通院常念寺  
鶴岡市睦町1-1

圓通院

山門 薬医門

山門 龍の彫刻

本堂

本堂扁額 常念佛寺

不動堂
阿弥陀如来の境内に不動明王も安置

道場 

道場扁額 轉法輪

中島に架かる朱橋

島には社が祀られている 祭神?

梵鐘

棟鬼瓦

  浄土宗常念寺
常念寺の創建は大永年3(1523)に寂誉欣生雲公上人が開山したと伝えられています。
当初は一日市町(現馬場町)にあり円通院天翁寺と称していましたが慶長8年(1603)に庄内領を手に入れた最上義光が
嫡男義康を弔う菩提所として寺領138石を寄進し寺名も現在の常念寺へ改名させました。

最上家が改易されると新しく領主となった酒井氏も常念寺を庇護し、
元和9年(1623)現在地にあたる睦町に移し堂宇を再建しています。
その後火災により宇堂を焼失したが、現在の本堂と庫裏は慶応年2(1866)に再建された古建築物で、寺宝も多く、
最上義光が奉納したと伝えられている梵鐘や志津兼氏作の薙刀などがあります。

密教の守護神である不動明王と阿弥陀如来が同居している境内では不動尊の信仰が篤く、
不動様の夏祭りが年中行事として賑わいを見せている。

                             山形県の町並みと歴史建築より転記加筆





浄土宗 十劫山成就院正覚寺  
鶴岡市鳥居町33-46

境内庭園 空池と松と鐘楼

山門寺標

本堂

庫裡

中門 四脚門

聖観世音菩薩立像

大山庄太夫の墓所

  大山庄太夫
庄内藩士・大山庄輔(葛飾北斎に学ぶ、雅号・大山北季、北季、庄助、恒斎、考五郎とも)の長男として文化五年(1808)、
江戸にて生まれる。
才気に富み、先見の明と卓越した行動力で庄内藩酒井家十代藩主・忠器の信任を集め、栄進・加増を重ねた。
やがて、江戸留守居役を十三年間にわたって務めた。

この間に起こった天保十一年(1840)の国替事件では幕府の転封撤回に尽力し、庄内藩勝利の立役者となった。
(三方領地替え・川越藩松平家→庄内藩、庄内藩酒井家→長岡藩、長岡藩牧野家→川越藩)
その後も政治的手腕を発揮し、庄内藩に大山庄太夫ありとの名声を博するようになる。
幕末の国内外の情勢をいち早く見通し、德川譜代大名酒井家にあって、
朝廷と幕府が協力して国難にあたるという「公武合体論」を唱えた。

同志とその実現に奔走するが、藩を二分する政争に敗れ、慶応二年(1866)十一月十四日、自宅拘禁中に自刃した。
死骸は塩漬けとなり、断罪を待って翌年茅場の刑場で腰斬りの刑に処せられた。
享年五十九



  慈善家・鈴木今右衛門(本名 鈴木宗右衛門)
庄内藩の中間小頭を勤め、新士町(現神明町)に住んだ。
勤勉実直、徳行をもって知られることとなり、後裕福になったためにお役御免を許され田畑を耕作して生活の糧とした。

天明三年(1783)東北地方一帯が六月(新暦七月頃)になり大霜が降る大冷害におそわれ、
前後して噴火した岩木山、浅間山の影響も相まり、特に南部、津軽(青森県、岩手県)が甚だしく、大飢饉となり、
食料を求めた難民となって出羽庄内へと流れ込んできた。

庄内とても同然ではあるが、今右衛門は田畑、家財を売り窮民に食を施し、妻や娘の衣類、櫛の類まで与え、
一家をあげて救済に挺身した。
後京都の儒医・橘南谿(1753~1805)の「東遊記」によって美談として全国に伝えられ、
明治時代になって小学校の国定教科書・修身に載せられ、慈善美徳家として語り継がれている。
寛政十三年(1801)一月十十四日逝去、当寺に葬られた。

                                     案内説明より

鈴木今右衛門の墓所?





曹洞宗 徳翁山洞泉寺  
鶴岡市昭和町12-51

同泉院

本堂

  庄内藩の鴻儒(儒学の修徳者) 石川朝陽先生(本名石川庸行 tuneyuki )
江戸時代の儒学者・石川朝陽先生は、宝暦十二年(1762)庄内藩士の家に生まれ、
名は庸行、通称主膳、朝陽と号した。
若年の頃から俊秀の誉れ高く、徂徠学(荻生徂徠)を学ぶかたわら、
二十代にして居合免許と槍術免許を受けるなど文武衆に優れ、
庄内藩酒井家九代藩主忠徳に近侍して、たびたび江戸に在勤した。
その間、尾張藩の大儒家・田大峯に朱子学を修め、諸学に通じて、
折哀(諸学の良いところ)の学説を提唱し、家中やその弟子に儒書を講義した。

生涯を通じて、常に九代忠徳、十代忠器両藩主の側近くに仕え、側用人、
近習頭取、小姓頭などの重職を歴任し、
一世の師表たる藩校・致道館の祭酒(館長、学長)を兼ねたが、
これは、早くからその資質に着目して重用した忠徳と、
後を継いだ忠器の信任がいかに厚かったかを物語っている。

文政四年(1822)病の為祭酒を辞して、後隠居した。
天保六年(1835)逝去、同泉院に葬られたが、
ささやかで簡素な墓碑は遺言によるものと云われている。
享年七十四
なお、本堂には先生の温厚篤実な面影を刻した木造坐像が安置されている。

                      案内説明より

石川朝陽先生墓所

朝陽石川先生之墓碑文





曹洞宗 大寶山保春寺  
鶴岡市神明町204

子安観音(子育て観音)と
子安地蔵(子育て地蔵)

地蔵堂(髙子谷地蔵)

大きな宝篋印塔

山門 薬医門

本堂

庫裡





曹洞宗 天満山太春院  
鶴岡市神明町2-3

地蔵堂 延命地蔵尊

地蔵堂扁額

境内の巨樹

太春院

本堂

地蔵堂横の石の地蔵さん

庫裡





曹洞宗 證生山大昌寺  
鶴岡市山王町12-40

曹洞宗大昌寺

本堂

禅定印を結ぶ阿弥陀如来と庫裡

守本尊堂

真柄地蔵堂

地蔵尊

  真柄寺蔵
元禄時代、山王神社の向いに高明院という寺があった。
この寺は元亀元年(1570)六月姉川の戦いで名を馳せた、浅井家の猛将・真柄十郎左衛門の子孫が、
家の氏神であった地蔵尊を抱え鶴岡に流れ着て奉り建立てたものである。
明治の廃仏毀釈で高明寺は廃寺となり大昌寺に吸収され、それ以降この地蔵尊を「真柄寺蔵」と呼んでいる。
平成二十二年、長年の風雨により古くなった御堂と土台基礎を改修した。


  大昌寺 開運出世一大守本尊
大昌寺二十二世・大道源宗大和尚、大正十年十二月八日晋山(新しく寺に入った住職)にあたり、
法悦化縁祈誓のために開山堂にて坐禅すること二十一日間、二十八日夜半にれいかんあり、開山水天運大和尚と問話数刻、
開山大和尚曰く「守本尊八体仏を拝請して有願の衆生の力となるように」と。

明けて二十九日、寺の総代三名が突然来訪し、開山水天運大和尚が夢に現れ守本尊仏を建立するように言われたとのこと。
奇として一切衆生戒徳円満成就を念願し仏師に製作を依頼した。
大正十一年四月二十五日八体仏拝請、昭和三年四月大本山永平寺北野元峰禅師開眼、
昭和七年四月御堂建立発願、昭和十二年八月落慶した。

翌昭和十三年五月に二十二世源宗大和尚が四十四歳の若さで急性肺炎で遷化され、
時あたかも世界的大恐慌に突入し世情不安があり、昭和十四年の第二次世界大戦の海戦の時期で、
神国日本挙国一致の旗の下、個人の守本尊などは忘れ去られていくこととなった。

それから六十年余、平成十三年に小衲が晋山した当時、御堂は物置同然であった。
先人の発願を無碍には出来ぬとの思いと、今の世を生きる人々の拠り所となるために御堂の復興を決意し、
翌年より天井絵の製作、祭壇の修復、ステンドグラスの設置を行い、毎年六月には大祭を厳修している。

                                     案内説明より





日蓮宗 金性山本住寺  
鶴岡市三光町1-46

山門 薬医門

本堂

寺標

庫裡

  加藤忠広(帝光院殿証誠學日源大居士  加藤清正夫人(正應院殿日怡大徳霊位)の墓所
熊本藩加藤家二代藩主忠広は寛永九年(1632)幕府により改易となり庄内藩酒井家に預けの身になった。
庄内藩内で一代限りの丸岡藩を置き一万石を与えられ余生を送った。
後、この地で亡くなり生母(正應院清正公側室)と共に本住寺に祀られた。

廟堂 五輪供養塔

廟堂

県指定史跡石標





浄土真宗大谷派 嶋栄山萬福寺  
鶴岡市睦町3-38

萬福寺山門

本堂

庫裡

境内檀家墓地





浄土真宗大谷派 井工山明傳寺  
鶴岡市睦町2-55

山門 薬医門

本堂

境内墓地

隙間からど根性コスモス





曹洞宗 寶雲山龍蔵寺  
鶴岡市睦町3-6

龍蔵寺

本堂

稲荷神社

鳥居扁額 稲荷大明神

庫裡





曹洞宗 池泉山蓮台院  
鶴岡市三和町5-1

供養塔

弁天堂扁額 大辯才天

弁天堂

境内より山門 赤松の巨樹

蓮台院山門

本堂

庫裡





浄土真宗大谷派 廣濟寺  
山形県鶴岡市本町2-7-35

本堂前赤松の巨樹

山門 門柱門

寺標

本堂

庫裡





日蓮正宗 法華山能修寺  
鶴岡市砂田町5-14

能修寺案内板

本堂 今朝の雪で轍も白く

本堂 山号扁額

庫裡

  日蓮正宗 能修寺
昭和四十七年(1972)日蓮正宗総本山大石寺六十六世法主・日達上人により開山された本山末寺・鶴岡日蓮正宗寺院である。
その後、日達上人より法主を継いだ六十七世・日顕上人と日蓮正宗の内派・正信会との間に
法主継承について見解の相違が起こり正信会寺院は日蓮正宗から破門されたと云う。
正信会寺院はその決定に納得せず、寺院を不法占有し住居している。(本山側から見て)

能修寺がその正信会寺院であろうことは、他に鶴岡日蓮正宗・法樹院が昭和五十八年(1983)に本山大石寺の末寺として、
日顕上人により創建されたことから知ることができる。
宗教法人の財産である能修寺に係わる土地・建物は法樹の代表者役員よって管理されているという。

私的感覚ではあるが、奈良系・禅宗系・浄土宗系・密教系等の各宗派は仏教解釈の相違などで多くの派に分かれてきたが、
法華宗(日蓮宗)も例外ではなく分派が相次いできた。
日蓮宗は他の宗派に比べてその分派に要するエネルギーが高いために、分派後の融和に要するエネルギーも高く、
和解が困難でかつ敵(他宗)を攻撃する宗教であると感じるが、それらは教義・折伏に真剣に向き合っている証拠でもあろう。

                                  法樹院案内説明より、





真言宗智山派 修行山南岳寺  
鶴岡市砂田町3-6

弘法大師石塔

湯殿山・月山・羽黒山の石塔

真言宗智山派 南岳寺 寺標

本堂入母屋造桟瓦葺

大屋根千鳥破風と唐破風向拝

向拝 半鐘

淡島神社

釈迦涅槃像

足跡佛

庫裡 山門と本堂の間の用水路

境内墓地

  真言宗智山派 南岳寺
南岳寺は、出羽国真言宗湯殿山注連寺の分寺で、修行道場として創建された。
注連寺は天長二年(825)弘法大師空海により開山された寺院である。
堂内には即身佛となられた鉄竜海上人が安置されています。

鉄竜海上人についてWikipediaの年表によればその生涯は以下の様です。
文政三年(1820)出羽国仙北郡仙北村大字堀見内字寺村六(現 大仙市)、進藤某の子として生まれる。
幼名は知られていないが、後進藤勇蔵と称している。
勇蔵十七歳の天保七年(1836)喧嘩した際に友人を殺めてしまった。

その事もあって各地を放浪したあげく前途を悲観し、鶴岡に流れ着いた。
鶴岡で身を投げようとしているところを、出羽国東田川郡鶴岡の南岳寺住職・天竜海上人に諭され救われ、
天竜海上人の弟子となり修行を始めた。
陸奥国岩手郡(現 盛岡市)真言宗智山派・湯殿山蓮正寺に預けられ修行に励んだ。
嘉永元年(1848)、盛岡正連寺が火災に遭い、再建のために尽力したが、後再建の目処が立たなかったため南岳寺に戻った。

安政五年(1859)頃木食行を始めたと伝わっている。
盛岡正連寺の信者等の努力と協力により寺院再建の資金が調い、正連寺を再建、住職となったした。
師・天竜海上人の跡を継いで南岳寺の住職となった。

天竜海上の師・鐡門海上人(注連寺住職・即身佛)が開削した加茂坂峠(加茂トンネル)の改良工事を行い、
地雷花(ダイナマイト)を駆使し、明治四年(1871)完成した。
明治十四年(1881)十月二十八日入寂、病気により亡くなったと云う。 ただし、明治十一年(1878)説もある。

現在安置されている即身仏は、鉄竜海上人の埋葬後、土中入定により脳・内臓を摘出し、石灰を詰めて創られた。
明治元年(1868)に出された「墳墓発掘禁止令」により発掘が禁止されていたため、
鐡門海上人の没年は明治元年(1868)八月八日 享年も弘法大師と同じく六十二と偽られ、
さらに時効となる大正年間まで即身仏の存在は秘密にされていたと云う。

昭和三十一年(1956年)に起きた鶴岡の大火の際に、南岳寺も類焼し、鉄竜海上人が建立した本堂も焼失した。
しかし本尊・大日如来と鉄竜海上人の即身仏は火災から逃れ、また長南年恵堂も類焼を免れている。


  淡島大明神  (極楽娘・年恵観音)
稀代の超能力者・長南年恵刀自は、鶴岡市髙畑町(現 日吉町)に文久三年(1863)生まれた。
幼児から物欲なく、信仰心篤く、玉の様な人柄であった。
二十歳ごろより神がかりとなり一切の飲食物を絶ち、物品、霊水、引き寄せ霊媒により多くの病人、悩める人々を救い、
世人に「極楽娘」「年恵観音」と呼ばれ、明治四十年、四十四歳で入寂した。
その徳を讃え、遺品を祀り、淡島大明神として崇拝された霊堂である.

長南年恵はその超常現象により巷では真実性を疑われ、かつ飲食物をとることなく、
排泄物もなく生を長らえるという科学を否定するようなことから世を騒がす「いんちき」者として司直を煩わせることもあった。
しかし「いんちき」として証明されることはなかった。
今日では食せずにエネルギーを得ることは否定され、人体内で有機物を作り出すことも考えられず、
何人も肉体の維持は出来ないとされている。


  佛足石
佛足石は多くに寺院に見られるものではあるが、佛足石とは佛(お釈迦様)の足形を刻んだ石のことである。
釈迦入滅後、仏像ができるまでの間は(像を造って崇めるという時代)お釈迦様の象徴として人々に拝まれてきました。
足跡に刻まれている千輻輪をはじめ、一つゞの紋様に深い慈悲の心と、尊い仏の教えが込められています。

佛足石を礼拝してお参りすると常によき方にお導き頂、罪障消滅・諸願成就の功徳を頂くことができると云われています。
お徳を表す佛足石の文様に触れて静かに御願いや御供養を御祈念ください。
佛の足については、足裏の千輻輪(足下二輪相・千の矢を輪宝状にした紋様)の外、
足の裏が平坦(足下安平立相)、足の指が長い(長指相)、足の幅が広く丸い(足跟広平相)、
足の甲が高い(足趺高満相)などの特徴があるとされる。

                                    案内説明より





曹洞宗 圓珠山禅龍寺  
鶴岡市新海町10-14

石柱門 寺号標札

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門

山門 主柱と桁木

山門 龍彫刻

本堂 入母屋造桟瓦葺妻入り流向拝付

本堂 入母屋切妻の彫刻

庫裡

六地蔵菩薩

境内庭 墨絵の世界

慰霊等

萬年家の墓と萬年吉兵衛之碑

枯れ枝と曇天

冬の赤松と樹幹支え柱

  曹洞宗 禅龍寺
庄内藩の火薬製造に生きた・・・萬年家累代の墓所
萬年家三代・萬年又八郎は、延宝六年(1678)庄内藩の鉄砲薬煎合役(鉄砲火薬調合役)を拝命以来三十五年間
火薬製造の職にあった。
その後萬年家は代々この特殊技術を世襲し幕末まで続いた。

十一代・味右衛門夫妻は、安政六年(1859)六月十九日、
大泉地内淀川の水車合薬場(火薬製造工場)の爆発事故によって職に殉じた秘話も残っている。
また、新海町に居住していた初代・味右衛門は往来の便宜を図るため自力で自宅近くの青竜寺川に橋を架けている。
この橋は今も万年橋と呼ばれ市民の足に供している。

                                     案内説明より





曹洞宗 平田山禅源寺  
鶴岡市新海町23-21

王三昧石碑 王三昧 坐禅の奥義

墓石の保護?

手水鉢の竜頭

庫裡

本堂 向拝虹梁十六菊花紋

本堂 入母屋造銅板葺一間流向拝

地蔵菩薩

地蔵堂 水子・子育地蔵

禅源寺中興開山顕彰碑

曹洞宗禅源寺

参道

英霊供養石塔

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門

山門の土壁

五重供養石塔





浄土宗 泰峰山安国寺  
鶴岡市新海町22-5

浄土宗 安国寺

地蔵堂  多数の地蔵様安置

奉納供養童子六地蔵菩薩
円誉明光童子 享年十

境内墓地

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

本堂 酒井家家紋(旧徳川家家紋)
酒井家と家紋交換されたと伝わる

山門不幸 
訪問日2016年1月31日

寺標 浄土宗安・・・・・

庫裡

  浄土宗 安国寺墓所 北海道開拓大判官・松本十郎之墓
松本十郎は、庄内藩士・戸田文之助の長子として天保十(1839)年八月十八日、鶴岡城下新屋敷町(現・若葉町)に生まれ、
幼名重松、長じて総十郎直温といったが、のちに故あって松本十郎と改めた。
十二歳のころから田宮流居合を修練、武技は彼のもっとも得意とするところで、
剣をもって身を立てたいと考えるほどであったという。

藩校の致道館には十五歳のことから通い始めたというから、他の子弟に比べかなりの晩学である。
こののち彼は父とともに蝦夷地に赴いたり、江戸へ上って市中警備に携わり、暇を見ては幕府の昌平校に通い識見を深めた。
豪放かつ細心、加うるに才気活発な彼は、藩内でも瞬く間に頭角をあらわし、藩を代表して江戸城に詰め諸藩の士と交わった。

風雲急にしていよいよ東北戊辰戦争が起こるや、機事係となって会津・仙台・盛岡など奥羽諸藩に使いし奔走した。
しかし九月末にいたって庄内藩は遂に官軍の前に屈した。
このとき鶴岡城の受け取りに立ち会った官軍参謀黒田清隆、そして西郷隆盛の二人は、
こののちの庄内藩や十郎の運命に深く関わってくる人物だった。

その後、十郎は藩の命で京都に上ることとなったが、政府は朝敵藩の者が上洛するのを喜ばなかったので、
彼は若狭酒井氏の家臣と称し、姓名も先祖の松平氏の松と総十郎の十郎をとって松本十郎と変えた。
そして敗戦後の庄内藩の窮状を政府の要路や各藩の有力者に訴え、時には東京とまたもや東奔西走の日々を過ごした。

明治二年八月、十郎は黒田清隆の推薦によって北海道開拓判官を命じられた。
徳川幕府を倒したばかりの明治政府の基礎は軟弱で、人材の集中もまだ十分ではなかった。
このようなとき実力者黒田は、多くの俊才をその過去にこだわることなく見出し登用した。
函館戦争の賊将榎本武揚然り、朝敵藩庄内の松本十郎もまた黒田と肝胆相照らす同志として抜てきをうけたのである。

十郎の任地根室はそのころまったくの未開地、開拓事業はまことに困難を極めたが、この付近の海域は漁族が豊富であり、
漁場の開発を中心に事業がすすめられた。
十郎は官費を少なくし、漁民の増加と漁獲の増大を図るため、開拓使の方針である官の自捌きをとらず、
漁場を希望者に割り渡すなど現実的な施策をとり、官捌きを行った他の地方に比べてはるかに勝る成績をあげたという。
また、明治三年七月政府が根室地区を東京府に所轄させると決定したときには、職を賭して抗議し遂に取り消させるなど、
硬骨ぶりと並々ならぬ政治的能力を発揮した。

明治六年二月、黒田の懇望で十郎は開拓大判官となり、北海道の全てを任された。
前任者が残した赤字の克服と官吏の綱紀を正すために、事業を一時整理して官吏の数を大削減した。
それでもまったく事務を渋滞させることはなかったという。
そして四十数万の巨額の赤字も八年一月までに解消させるという手腕を振るった。
さらに、農民への保護政策の改善、農産物の流通対策、稲作の奨励などを行い、その強硬正義の論策と簡明な施策で、
初期開拓行政の基礎きずいた名判官とうたわれた。

十郎は朝六時には出勤して書類を点検し、それから「アツシ判官」の異名の通りアイヌ織の羽織をひっかけ、
得意の馬を駆っては管内を巡視するのが常であった。
小学校新築に自己の金千円を寄付したり、部下や市民の貧しいものに惜しみなく振る舞い、
その一方、家にあっては書生一人を置くだけの質素な生活に甘んじたという。

ところが明治八年にいたり、樺太(サハリン)と千島の交換に伴い、樺太アイヌ移住問題が起こった。
九年彼らの希望や生活条件を考えずに空知・夕張の炭坑労役に従事させた黒田の処置に、十郎は大いに怒って辞職を決意し、
慰留のため急ぎ北海道に向かった黒田と顔も合わせずに、7月故郷鶴岡にもどってしまった。
もっともこれには開拓使や政府部内に、彼の直情径行な性格に対する反感も強まっており、
十郎自身が辞める機会をねらっていたようである。

彼はまれにみる民政官として道民から慕われ、その清廉な為政は高い評価を受けていたが、
財政立て直しの済んだ段階においては、薩摩人でかためた開拓使にとって、
十郎の存在はもはや許されなかったとするのもひとつの歴史的見方であろう。
ともあれ十郎は正五位勅任官という省の次官級の地位を弊履のごとくに捨て北海道からも黒田からも去ったのである。

郷里に帰った十郎は、自ら農夫と称し、一人土地を耕しながら悠々自適の毎日を送り、
酒に親しみ、ときには郊外に出て友と語る。
彼はその日常を、過去を、見聞したすべてを率直に克明に記した。
それは終生続けられて大部百四十余巻にのぼり「空語集」と題され、北海道史にとっても貴重な史料となっているのである。
郷党の首領菅実秀に対しては、その材幹識見を称揚しつつも、互いの強烈な性格の故か、
交わりを断ち、御家禄一統からは大いに敬遠されていたらしい。

しかし、十郎は政治向きのことは口にせず、もっぱら漢学同好の士と文について語るのを楽しみにしていたという。
特筆すべきは私財を投じて戊辰役戦死者の招魂碑を鶴岡大督寺内に建て(現在常念寺にある)盛大な供養を行ったことである。
松本十郎は、その半生の空転と起伏、世俗の外に生きた晩年を通じ、
武人としての生き方を見事に貫いた。
大正五年十一月二十七日、七十八歳をもって没し、鶴岡安国寺に葬られた。

                              荘内新報社記載記事より転記





時宗(遊行寺) 大龍山高安寺  
鶴岡市新町乙5

時宗 高安寺

無住寺院かも知れません

本堂 切妻造妻入瓦葺

境内社 鳥居も社殿も新しい

稲荷神社

社殿 





浄土宗 長龍山大督寺  
鶴岡市家中新町19-12

酒井家廟所門 向唐門

墓所 神明鳥居
明治維新より神式に改宗した

墓所門 酒井家墓所標札

酒井家十一代・庄内藩八代藩主
酒井忠發と夫人鐐子之墓

墓所 墓石

山門 桟瓦葺三間一戸薬医門

山門

山門 妻側屋根

学校給食発祥の地記念碑 在所石碑

酒井勝貫翁功徳碑 在所石碑

酒井勝貫翁功徳碑

本堂 大棟瓦 徳川三つ葉葵紋

本堂向拝 酒井家片喰紋

本堂 入母屋造桟瓦葺千鳥向拝

酒井家墓所 非公開

稲荷神社社殿

境内 稲荷神社明神鳥居

客殿 庫裡

境内樹木

水子・子育地蔵尊と六地蔵尊

本堂向拝 寺号扁額

本堂外陣 山号扁額

本堂内陣 阿弥陀如来

境内庭の赤石 由来は分からない

学校給食発祥の地記念碑
積雪の為隼人旅館旦那ブログより
湯田川温泉隼人旅館

  浄土宗 大督寺
大督寺の創建は天正九年(1581)と言われているが詳細についてはわからなかった。
天正九年は本能寺の変の前年であり、德川の領土は三河・遠江の二か国のみの時代である。
酒井忠次(左衛門尉系)の酒井家菩提寺とも思えないので、出羽国田川郡鶴岡に開山した寺であろうと推察する。
酒井忠次が宿敵だった念仏寺院を菩提寺に選んだかは判らないが、念佛王国三河のDNAがそうさせたのか?
墓所は公開されていないので入ることは出来なかったが、隙間から覗いた。

大督寺墓所については、藤沢周平の「義民が駆ける」の説明板が置かれているが、
このページの十劫山正覚寺の項でも書いているが、天保十一年(1840)に起こった三方領地替えを題材としているという。
(三方領地替え・川越藩松平家→庄内藩、庄内藩酒井家→長岡藩、長岡藩牧野家→川越藩)
説明板によれば、墓を掘り返して越後国長岡に墓所を移すことも、豊かな庄内の地を離れることも、
藩主、家臣のみならず領民こぞって反対し、そのために駆けた義民の様子を描き、
その甲斐あってこの計画?は中止となったという史実に基づいた物語である。


  学校給食発祥の地記念碑
大督寺境内に開校した尋常小学校に通う児童が昼食を持参できるものとそうでないものとがあり、
持って来れない児童が弁当を盗み食いという事が起こり、それを聞いた鶴岡の寺院が児童のために昼食を提供した。
児童の心の飢餓と安心・安寧を願った庄内蕃民衆の結果であろう。

                                     案内説明より





曹洞宗 奥林山総穏寺  
鶴岡市陽光町5-2

又蔵の火 又蔵と丑蔵の像

観音像が並ぶ

萬霊供養塔と集合墓供養塔

山門 回廊付三間一戸八脚楼門
最近塗り替えられたようです 酒田本間家より寄進されたと伝わる

楼門扁額

楼門高欄付廻廊

曹洞宗総穏寺案内看板

総門 桟瓦葺一間一戸四脚門

総門 寺号標札

本堂 入母屋造銅板葺唐向拝

客殿

客殿扁額

地蔵堂 左から無病息災地蔵、家内・交通安全地蔵、ぼけない地蔵、延命地蔵
身代地蔵、水子・子育地蔵、 と説明にはある

庫裡

  曹洞宗 総穏寺
総穏寺は永徳二年(南朝弘和二年 1382)、三河国碧海郡酒井郷に創建されたと伝わる。
酒井忠次九代前頃、能登国鳳至郡門前の曹洞宗本山・諸嶽山總持寺に勧請、開山したと云い、總持寺の直末寺院である。
酒井家との関係が深く、その後、酒井家領地替えに伴い前領地信濃国埴科郡松代から元和八年(1622)鶴岡に移転した。

総穏寺旧本堂は、安政(1856~1860)の建立と云われるものであったが、能登總持寺が明治三十一年四月十五日、
七堂伽藍を焼失したために、首都圏移転の方策が検討され横浜市鶴見に移転と決まった。
現在の曹洞宗総本山諸嶽山鶴見總持寺である。
能登總持寺は總持寺祖院として諸堂を建立、鶴見總持寺の別院として法灯護っている。
過年、現在、石原裕次郎の菩提寺として葬儀、年忌法要が行われ一般の人々に知られるようになった寺院である。

明治四十四年十一月五日、總持寺が創建され、その際の本堂(法堂・大祖堂)は鶴岡総穏寺の旧本堂を移築したもので、
移転開山式典を執り行う際の重要な唯一の建物になっている。
移築の際、書院も解体し運ばれ、旧本堂は現在總持寺・放光堂として、書院は跳龍室(侍局本室)として伝わっている。
境内には酒井忠勝の正室(鳥居忠政娘)の墓があり、酒井家菩提寺大督寺に葬られなかったのは、
鳥居家が深く曹洞宗に帰依していたためと云われている。


  又蔵の火 藤沢周平著
総隠寺境内には「又蔵の火」の登場人物・土屋又蔵と土屋丑蔵の像があります。
門前には「土屋両義士相討之地」の石碑があり総穏寺がその史実の寺院であったことが記されています。
「又蔵の火」はそれを題材にした時代小説である。

土屋又蔵には兄・万次郎がいたが、万次郎は悪行を重ねる土屋家にとって鼻つまみ者、厄介者として嫌われていた。
これ以上悪行を重ねて土屋家の家名を傷つけることを嫌ったゆえに監禁の身になっていた。
それに憐みを感じた又蔵は兄を開放、鶴岡から出奔させることに成功した。

しかし、根っからの風来者の性格から行く先々で落ち着くことができず生業に就くことができなかった。
為に生活に困窮し、懐かしさからか、安易なる甘えからか、鶴岡に舞い戻ってきた。
万次郎を発見した叔父の土屋丑蔵は土屋家の将来を案じ捕えて斬殺したのである。

それを聞いた又蔵は、傲岸不遜の兄ではあるけれど、有無を言わせず斬殺したことに怒りを憶え、
天明八年(1811)兄の仇と叔父・丑蔵を呼び出し、兄の墓のある総穏寺境内にて果たし合いをした。
双方力を尽くしたが勝負がつかず、暗黙の内に相討ちとして両名とも絶命をしたのである。

この事件が石碑にある「土屋両義士相討之地」となるのであるが、両義士と持ち上げている?のはなぜであろうか。
そこに義を見出すのは困難なことである。
無理やりこじつけるならば、又蔵は兄弟愛、助け合いの道に対する義、丑蔵は土屋家代々存続に対する家の儀、
と双方主とする心の問題から義を果たそうつしたのであるとも考えられるのである。
ともあれ、わが身をかけた戦いにおいて相手を思いやり、お互いの死を以て結末を迎えるという結果には、
江戸時代の庶民に感動を与えたことは間違いない事である。

                                     案内説明より





曹洞宗 月空山光學寺  
鶴岡市陽光町5-5





浄土宗 華蔵山極楽寺  
鶴岡市陽光町11-5

石柱門寺号標札

本堂 入母屋造銅板葺一間唐向拝

庫裡

地蔵堂

五重石塔

本堂 入母屋造銅板葺一間唐向拝

本堂 山号扁額

石柱門 寺号標札

地蔵菩薩

水子・子育地蔵菩薩

阿弥陀如来永代供養廟

庫裡・客殿?

白衣観音 陶彫像?

聖観世音菩薩 永代供養墓

  浄土宗 極楽寺本尊 「木造阿弥陀如来坐像」 県指定文化財(平成十四年十月二十五日指定)
阿弥陀三尊形式 左脇侍・聖観世音菩薩立像 右脇侍・勢至観音菩薩立像
阿弥陀如来坐像は、寄木造で、像の高さ107.2㎝、かなり修復の痕が見られるが、
面幅の広い丸顔や温和な目鼻立ち、緩やかな曲面による身体的構成及び彫の浅い衣文など、
十二世紀後半の平安末期の様式を示す仏像である。

                                         案内説明より





真言宗豊山派東昌寺  
鶴岡市陽光町12-36

真言宗東昌寺

本堂・庫裡 切妻造平入桟瓦葺

本堂 棟の鯱

宝形造ですが注連縄が張られてい

ここにも小さなお堂

地蔵菩薩 帽子と襟巻で防寒

有縁無縁墓石供養塚





曹洞宗 玉傳山寶林寺  
鶴岡市三光町1-38

曹洞宗 寶林寺

石柱門 寺号標札

庫裡

本堂 寄棟造桟瓦葺流向拝

境内 黒松 手入れが行き届いて美しい

地蔵堂

いろいろな地蔵様

庫裡の前庭 やわらかくやさしく





曹洞宗 桐宥山鳳銜寺  
鶴岡市神明町15-51

境内墓地

三界萬霊供養塔

地蔵堂

地蔵堂扁額

地蔵菩薩像

歴代持住墓所

会館?

客殿・庫裡

本堂 切妻造桟瓦葺一間流向拝

本堂

山門 銅板葺三間一戸薬医門

小屋根付板塀

山門 寺号標札 難しい字です





曹洞宗 福寿寺  
鶴岡市神明町1-7

石柱門 寺標札

本堂

本堂扁額

庫裡

雪吊りの赤松





浄土真宗大谷派 真木山性頓寺  
鶴岡市昭和町7-48

性頓寺

石柱門寺号標札

庫裡

本堂 切妻造桟瓦葺一間流向拝

境内墓地





浄土真宗大谷派 平出山長圓寺  
鶴岡市昭和町7-52

境内墓地

境内樹木 松

鐘楼

梵鐘

本堂 入母屋造桟瓦葺一間唐向拝

庫裡

境内樹木 松

山門 切妻桟瓦葺一間一戸四脚門

寺標石柱





曹洞宗 悠雲山林泉寺  
鶴岡市山王町12-44

林泉寺参道

本堂

庫裡・客殿

本堂前 奉納燈籠

五輪塔 謂れがありそうです

三界萬霊供養塔

お堂が二棟 地蔵様でしょうか

こちらは想像が出来ません





曹洞宗 大寶山般若寺  
鶴岡市日吉町9-47

藤沢周平 作品とゆかりの地
「凶刃」用心棒日月抄 般若寺 
文字が退色し、判読できない

境内の墓地

境内樹木

黒松

地蔵堂

いろいろな地蔵様

山門彫刻

本堂

本堂扁額

多重供養石塔

地蔵菩薩半跏銅像

桟瓦葺一間一戸薬医門

石柱門 寺号標札

曹洞宗般若寺

  曹洞宗 般若寺
般若寺は平安時代後期に創建されたと云われる古刹である。
開基は陸奥平泉藤原氏三代・藤原秀衡が父二代・藤原基衡を弔うために建立したと伝わっている。
創建地がどこなのか、当時の宗派は何かなどは分らなかった。
奈良仏教あるいは天台・真言と考えられるが、奥州平泉藤原氏の菩提寺・平泉・関山中尊寺が天台宗の寺院なので、
同じく天台宗であったと推察される。

時代は下って江戸期庄内藩主・酒井家からも厚く保護されてきた。
明治維新の際酒井家が神道に改宗したためその庇護から離れ、また廃仏毀釈運動の荒波にもまれながら、
檀家信徒の協力により寺格を保っている。

                                         案内説明より





真言宗豊山派 新山龍覚寺  
鶴岡市泉町1-13

法堂・講堂 雪が激しく

手水舎

竜頭水口

本堂 切妻造桟瓦葺千鳥向拝

本堂 酒井家家紋

小堂 積雪で近づけず

庫裡

観音堂 宝形造桟瓦葺
正面千鳥破風・一間唐向拝付

観音堂扁額 観世音

龍覚寺案内看板

正面石柱門 雪溜・雪置

石柱門寺号標札

観音堂屋根 正確には寄棟造正面平入りだろうか 鯱を載せている
本尊・聖観世音菩薩 庄内三十三観音霊場第二十八番札所

  真言宗 龍覚寺
龍覚寺は仁安元年(1166)に創建されたと云われる。
羽黒山神社の里宮祈願所として、羽黒山大権現の本性である聖観世音菩薩を勧請、安置したことに始る。
出羽三山信仰に伴なって羽黒山詣でも盛んになり、叶わない人々のために遥拝所として尊崇を受けてきた。

その後、諸処に理由から移転を余儀なくされ慶長十七年(1612)現在地に移転、
その際に陸奥国紫波郡土館の霊山・新山に祀られる新山大権現を勧請、山号を新山と改称し、新山龍覚寺と称した。
程なくして左衛門尉・酒田家が元和八年(1622)庄内に転封となると初代藩主忠勝公は鶴ケ岡城を整備、
また町割りを行い武家町、町人町を造営整備した。

その際鶴ケ岡城の鬼門である丑寅(東北)に位置する龍覚寺を鬼門封じの寺院とし、祈願所と定めたと云う。
酒田家からは諸堂を建立され寄進をうけている。
現在の観音堂もその一つで、寛文十年(1670)三代藩主・酒井忠義公の寄進となるものである。
また龍覚寺は、藤沢周平の時代小説「蝉しぐれ」の舞台ともなり、小説の中で龍興寺として登場している

                                 案内説明より





時宗(遊行寺) 無量山長泉寺  
鶴岡市錦町17-15

長泉寺参道

門柱の烏明神標札  烏明神?

参道を河川と道路が横切っています

本堂 宝形造銅板葺一間唐向拝

庫裡

手水舎

修復中のお堂

堂の名は分らない

横にもお堂が

地蔵様に聞いてみよ!





日蓮宗 法雲山蓮乗寺  
鶴岡市錦町19-9

蓮乗寺 門柱木札に書かれている
日蓮宗大荒行修法加持御祈祷所

本堂 入母屋造桟瓦葺一間流向拝

庫裡

講堂?

境内社 稲荷神社

境内墓地

  日蓮宗 蓮乗寺
弘安八年(1285)日蓮大聖人二十五人目の弟子「中老智福院日祐聖人」が、
三河の国、吉田に建立したのが當山最初の始まりである。
第二世の時、酒井家初代忠次公が日蓮宗へご帰依なられ、爾来この寺は酒井家と共に守護菩提を弔い一緒に歩むことになる。

天正十九年(1591)酒井家二代目「家次公」の時、下総国・臼井、慶長九年(1604)上野国・高崎、
元和三年(1617)越後国高田、さらに元和五年(1619)信濃国・松代とお所替えになり、
元和八年(1622)酒井家第三代目「忠勝公」の時、ここ出羽国・庄内鶴岡に移られたのである。

蓮乘寺は貞享元年(1684)、最初の火災より弘化三年(1847)に至るまで四度火災の運命に会いその都度再建してきたが、
四度目の火災で堂宇の再建が困難で、やむおえず藩主の屋敷を頂き仮本堂にすることおよそ百五十年、
住職七代に渡って平成三年三月まで続く。

昭和六十二年現住職「日篤」が第二十三世を継承し現在に至る。
現住職日篤は、平成元年一月より現本堂・位牌堂・庫裡の建設を計画、
檀信徒と一致団結してまる三年の歳月をかけ平成三年十二月全面完成竣工となる。

蓮乘寺は、総本山・甲州身延山久遠寺の直末寺にして永く「聖人寺」としての寺格を持ち、
歴代住職は僧侶最高の栄誉である「紫紋の袈裟」の着用を許された「由緒寺院」である。

                                蓮乗寺案内説明より転載

#ryuzo

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曹洞宗 移水山宗傳寺  
鶴岡市宝町2-44

山門 桟瓦葺一間一戸薬医門

庫裡

本堂

梵鐘

寺号石標 
門前に置かれていたのでしょうか

聖観世音菩薩

三界萬霊供養塔

境内樹木

境内樹木

本堂向拝 木鼻獅子頭

本堂向拝 木鼻獅子頭

地蔵堂 宝形造桟瓦葺一間流向拝

地蔵堂扁額

地蔵堂

地蔵堂扁額

多くの地蔵菩薩石像
玩具・ぬいぐるみが置かれている

本堂縁の下に置かれていた遺骨箱
空でしょうが、初めて見た光景です

境内墓地

僧堂・坐禅堂でしょうか

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