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温泉その12



会津若松  駅前フジホテル  富士の湯   
松本  ルートイン松本 ホテル翔峰  
秋田  ホテルグランティア秋田  
小松  小松グランドホテル
高岡  スーパーホテル高岡南
金沢  アパホテル金沢中央
盛岡  ルートイン盛岡駅前
宮津  ロイヤルホテル
長浜  ロイヤルホテル
富山  ドーミーイン富山 剣の湯







会津若松 駅前フジホテル ekimaefujihotle

温泉名:富士の湯
源泉名: 天然温泉富士の湯
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉
     低張性 弱アルカリ高温泉
     pH 8.2  陽イオン 1517.1㎎/㎏  陰イオン 2670.9㎎/㎏
     成分総計 4263.5㎎/㎏

源泉温度: 61.2℃

湧出量: 106.6?/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等 動脈硬化症

利用料: 大人390円  小人150円
利用時間: 10.00~24.00
休日: 無休


会津若松駅前フジグランドホテル
福島県会津若松市駅前5-25
Tel: 0242-24-1111

富士の湯  グランドホテル宿泊者は入浴のみ無料(無料券)
福島県会津若松駅前2-13
Tel: 0242-32-1126

朝食

喜多方ラーメン とんとろチャーシュー

温泉成分分析書

たる風呂

フジグランドホテル外観

駅前日帰り温泉富士の湯

玄関

幾多の浴槽





エースイン松本
 aceinnmatumoto

温泉名: 美ケ原温泉 (ホテル翔峰)
源泉名: 藤井温泉2号・3号混合泉
泉質: 単純温泉
     低張性 弱アルカリ性温泉
     pH 8.2  陽イオン 128.8㎎/㎏  陰イオン 273.1㎎/㎏
     成分総計 434.8㎎/㎏

源泉温度: 40.5℃

湧出量: 150ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒


温泉名:美ケ原温泉 (ホテル翔峰)
源泉名: ホテル翔峰3号源泉
泉質: 単純温泉
     低張性 弱アルカリ性高温泉
     pH 7.9  陽イオン 135.1㎎/㎏  陰イオン 276.8㎎/㎏
     成分総計 457.5㎎/㎏

源泉温度: 38.6℃

湧出量: 80ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 一部源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復

利用料: 無料 (エースイン松本宿泊者) その他 食事つき日帰りプラン
利用時間: 5.00~24.00 松本駅前⇔ホテル翔峰 無料送迎あり(定時時間)
休日: 無休


エースイン松本
長野県松本市深志1-1-3
0263-35-1188

美ケ原温泉ホテル翔峰
長野県松本市里山辺527
Tel: 0263-38-7755


美ケ原温泉(藤井、湯の原、御母家の温泉地区総称)の藤井温泉地区にある。
松本市の温泉宿では最も規模の大きく、夜景も見どころです。

松本ヘルスセンター→美ケ原観光ホテル→ホテル翔峰と名称の変革をみたが、
経営本体は地元鉄道交通会社です。
当然ですが、エースイン松本も系列ですので日帰り入浴可能となっています。

団体客も受け入れ十分な浴槽の大きさや露天風呂があり、得々気分になります。
最終無料バス(ホテル翔峰発)は20.45でホテル前着となります。
時間や入浴サービスの変更があると思いますので要問い合わせでお願いします。

エースイン松本 右松本駅

ホテルの前はバスターミナル

上高地入山不能のお知らせ

朝食サービス

温泉成分分析書

ホテル翔峰の夜景

大浴場

露天風呂

露天風呂併設のジャグジー浴槽

中庭

ホテルから松本の夜景

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ホテルグランティア 華のゆ hotelgurantea-akita-hananoyu

源泉名: 華の湯源泉
温泉名: 華のゆ温泉
泉質: ナトリウムー塩化物
     高張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 7.5  陽イオン 6596.5㎎/㎏  陰イオン 10527.3㎎/㎏
     成分総計 17336.5㎎/㎏

源泉温度: 33.6℃

湧出量: 310ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等  

利用料: 大人 750円  小人 400円
利用時間: 10.00~24.00
休日: 無休(問い合わせ)


健康ランド 華のゆ
秋田県秋田市中通5-2-1
Tel: 018-825-5411



ルートインホテルズ  ホテルグランティア秋田
宿泊者は無料で入浴できる。
塩気の強い、茶色がかった温泉。
日帰り温泉施設で気楽に楽しむことが出来、住人や他宿泊者も来場し、混んでいる。

宿泊者も他の入浴者と同じく下足箱に履物を入れ館内ルームとも素足となっている。

ホテル玄関前の珪化木ベンチ

半身浴槽等々

露天浴槽

白湯

座り湯

寝湯

檜風呂

ホテル 華のゆ

温泉成分分析書

JR秋田駅

駅前竿灯ポスト

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小松グランドホテル komatugurandohotel

温泉名: 天然温泉 スパ小松
源泉名: 加賀小松一号源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     低張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 7.8  陽イオン 759.4㎎/㎏  陰イオン 1301㎎/㎏
     成分総計 2153㎎/㎏

源泉温度: 33.0℃

湧出量: 104.3ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 加水 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等  
飲用効能: 慢性消化器病 慢性便秘

利用料: 1000円
利用時間: 11.00~24.00
休日: 無休


スパ小松天然温泉
石川県小松市本折町33
Tel: 0761-21-1000

小松グランドホテル
石川県小松市本折町33
Tel: 0761-21-1111

小松グランドホテル
4階スパ小松

温泉成分分析書

浴槽その1

浴槽その2

半露天風呂

アパホテル小松 宿泊者入浴無料

JR小松駅

源平合戦場 倶利伽羅峠付近

安宅関の銅像 
源義経・武蔵坊弁慶・富樫泰家

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スーパーホテル 高岡南

温泉名: スーパーホテル高岡温泉
源泉名: 観音滝温泉
泉質: ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉
     低張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 7.5  陽イオン1340㎎/㎏  陰イオン 2406㎎/㎏
     成分総計 3774㎎/㎏

源泉温度: 30.4℃

湧出量: 不明
湧出形態: 源泉より容器運搬
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等 動脈硬化症


スーパーホテル高岡南
富山県高岡市駅南1-8-36
Tel: 0766-28-9000

温泉は小矢部市別所滝の宮島温泉辺りからタンクローリーで運ばれ注入されている。
ご覧のように浴槽は小さく、男女入れ替え制で浴室は一ヶ所のみ。
貴重な湯を循環加温で経済的に使用するため、浴槽の縁より湯面が低くしてある。
オーバーフローすることは厳禁! 
別表には加水とは書かれていないが、本当のところは。

このホテルチェーンは安く利用できるので休息だけのためならお勧めです。
また安いだけではなく従業員の対応が優しいので嬉しくなることもある。
大手のビジネスホテルチェーンは老人にはツッケンドンで見習ってほしい。

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アパホテル 金沢中央

温泉名: アパホテル温泉
源泉名: 金沢片町温泉
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素泉
     等張性 弱アルカリ性高温泉
     pH 8.0  陽イオン 3767㎎/㎏   陰イオン 5225㎎/㎏
     成分総計 8690㎎/㎏

源泉温度: 43.1℃

湧出量: 240ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等

利用料: 1500円(3時間)~3000円(1日)
利用時間: 6.00~24.00
休日: 無休


アパホテル 金沢中央
石川県金沢市片町1-5-24
Tel: 076-235-2111 



ホテル最上階の14階
ビジネスホテルにある温泉浴槽としては広々として気持ちが良かった。
露天風呂からの眺めは北陸一の繁華街にあるので夜景が素晴らしいと思う。
当日はあいにくの冬の嵐で、眺める余裕すらなかった。

シングルで10㎡位やや狭では有りますが、寝るだけなのでOK。
フロントは3名で対応していましたが、チェックインの列ができるほどのピークタイム。

せっかくの温泉なので行ってみると混雑なんてものではありませんでしたので、
時間を変えての入浴となりました。

何気なく(ゆ)と書いてある分析書を読んでいるうちに、
その分析書の下に小さな文字の分析書が貼ってあるのが目にとまり、目を細めると
新しい日時の分析書とわかりました。

堂々と提示されているのは平成13年の分析書で、小さく提示されているのは平成23年。
十年以上前の分析書が堂々と鎮座するには訳がありそうですが、
平成23年の分析書には以下の数値が記入されていました。




泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素泉
     低張性 弱アルカリ性温泉
     pH 7.6  陽イオン 2011㎎/㎏  陰イオン 3465㎎/㎏
     成分総計 5680㎎/㎏

源泉温度: 41.0℃

湧出量: 105ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒

源泉温度   高温泉→温泉
浸透圧   等張性→低張性
水素イオン濃度  8.0→7.6
陽イオン  3767㎎→2011㎎
陰イオン  5225㎎→3645㎎
成分総計  8690㎎→5680㎎

湧出量  240ℓ→105ℓ

中でも湧出量が40パーセントに低下しているので、
この先高深度掘削が必要になるかもしれません。

アパホテル金沢中央  webより

内風呂

露天風呂

平成13年の温泉成分分析書

平成23年の温泉成分分析書

JR西日本金沢駅

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宮津ロイヤルホテル


天橋立  丹後国一之宮籠神社  伊根の舟屋群

源泉名: 湯らゆら温泉
泉質: ナトリウム・マグネシウムー塩化物・硫酸塩泉
     高張性 弱アルカリ性冷鉱泉
     pH 7.80  陽イオン 12396㎎/㎏  陰イオン 19348㎎/㎏
     成分総計 31790㎎/㎏

源泉温度: 16.5℃

湧出量: 測定不能 
湧出形態: 井戸水中ポンプ揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復
     きりきず やけど 虚弱体質 慢性皮膚病 慢性婦人病等 動脈硬化症 

利用料:
利用時間:
休日: 

宮津湾から天橋立

露店風呂 (天然温泉)

大浴場 (否温泉)





天橋立

天橋立

神代の昔、天にあった伊射奈岐の大神が、地上の籠宮(このみや)に居られた伊射奈美のもとに通うため、
天から長い梯を懸けられましたが、この梯が一夜のうちに倒れてできたのが、天橋立であると伝えられております。
傘松公園から「股のぞき」をすることにより天橋立は、天に懸っているように見えます。

                                                  案内説明より

展望台へ ケーブルカー

展望台から ロープリフト

天橋立股のぞき

天橋立は、どの方角から眺めるかにより全く違った顔を見せてくれます。
特にこの場所は「股のぞき発祥の地」といわれています。
股のぞき観とは、股の下から逆さまに天橋立をのぞくと、まるで天空に一本の橋が架かっているかのような
すばらしい景色が望めることからその名が付けられています。

                                                   案内説明より

展望台への石段

股のぞき天橋立

天橋立 遠望

天橋立 終端

傘松公園の傘松





丹後国一之宮 籠神社 konojinjya

石鳥居

神橋

神門

手水舎

社務所

願成就 御百度石

産霊石 (さざれ石)

男神の千木

女神の千木

籠神社 拝殿

  籠神社(吉佐宮 yosanomiya) 祭神 彦火明命
神代の昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、
その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、
之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀りいたしました。

その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、また豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。
それに依って当社は元伊勢と云われております。
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、
元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました。

神社創立の昔から、海部直(あまべのあたい)が神主として累代奉仕し、現今八十二代を数えています。
名勝天橋立は、昔は当社の参道として発祥し、又、神の域であった。
社殿は伊勢神宮と同じ唯一の神明造であり、
特に本殿高欄上の五色の座玉は、伊勢神宮と当社のみの高い格式を表しています。

                                           案内説明より

本殿

拝殿の千木

狛犬 阿形

狛犬 吽形

切られた前脚の傷跡

本殿高欄の五色座玉

倭宿禰命像 (やまとのすくね命)

  倭宿禰命  別名 珍彦命・推根津彦命・神知津彦命
籠宮主祭神 天孫彦火明命第四代 海部宮司家四代目の祖

神武天皇東遷の途次、明石海峡に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、
幾多の献策により大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。
外に大倭国造、倭直とも云う。

大倭(だいわ、おおやまと)の字音は、後の大和(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである。


  重要文化財 狛犬一対  伝鎌倉時代作
伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、
元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。
偶々親の敵討ちにひそんでいた岩見重太郎が之を聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、
石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。
以来社前に遷座して専ら魔除けの霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。

                                                     案内説明より

亀池

獅子

境内の巨樹

境内社

天照大神和魂社

猿田毘古神社

春日大明神社

真名井稲荷神社

恵比須神社





伊根の舟屋群

舟屋そのⅠ

舟屋そのⅡ

舟屋そのⅢ

青島(右)と亀島

遊覧船とカモメ

湾内巡り観光船

岬の祠

穏やかな入江

山上展望台より

舟屋群全景

山上展望台より伊根の入江

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ホテルから天橋立

成分分析書

朝日

アワビ? 手前甘エビの頭

朝食バイキング

夕食





長浜ロイヤルホテル


長浜城下  安土城  彦根城城下

温泉名: 長浜ロイヤルホテル
源泉名: 長浜太閤温泉
泉質: 単純温泉 (温泉基因 鉄イオン11㎎>10㎎)
     低張性 中性冷鉱泉
     pH 6.9  陽イオン79.8㎎/㎏  陰イオン 216.8㎎/㎏
     成分総計 396.6㎎/㎏

源泉温度: 19.9℃

湧出量: 92.2ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯(揚湯深さ11m)
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復

利用料: 立ち寄り湯不可 食事+入浴プラン (問い合わせ)
利用時間:
休日:


長浜ロイヤルホテル
滋賀県長浜市大島町38
Tel: 0749-64-2000





長浜城下
   

長浜城  大通寺  知善院  豊国神社

長浜城模擬天守

  長浜城跡
長浜は以前は今浜とよばれ、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初めごろに出城を築き、
それが長浜城のもとと伝えられている。
以後、京極氏家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したと云われている。

浅井氏・朝倉氏との姉川合戦の後その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、
天正二年(1574)頃小谷横山城(湖北町)から当地に城下町を移し、
地名を今浜から長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。

天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いではここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。
秀吉の家臣である山内一豊も天正十三年(1585)から五年間在城した。

江戸時代になって、慶長十一年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、
その子信正が摂津国高槻に移るに至って元和元年(1615)廃城となった。
建物および石垣の大半は、彦根城の築城に際して流用され、
彦根城の天秤櫓(重要文化財)や三重の隅櫓は当時の遺構と云われている。
また、長浜市内の大通寺台所門、知善院表門も長浜城の遺構として知られている。

現長浜城のある「豊公園」は「本丸」という字で呼ばれ、城域の中心部にあたると云われることから貴重な史跡として
昭和三十三年に市の指定文化財として指定された。
城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡、
さらには船着場らしき石組の遺構などが一部発見されている。
しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明には至っていない。


  長浜城歴史博物館
長浜は羽柴秀吉が江北十二万石の領主として、初めて自らの城を築き城下町を形成した地であります。
長浜市では秀吉ゆかりの城跡を永く記念すると共に、広く皆様に学習の場、憩いの場として親しんでいただくために
城郭形式の博物館を建設しました。
建物は城郭研究の権威藤岡通夫工学博士によるもので、二層の入母屋大屋根に望楼をのせた初期天守の形式にしてあります。

昭和五十八年四月五日に開館しました。
                                                 案内説明より

長浜城歴史博物館

長浜城発掘石垣根石

長浜城外堀跡といわれる市内の掘割

豊公園 この辺りに内堀が在ったと云う

内堀内 本丸跡

長浜領境界石碑

  旧長浜領境界碑
長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた(朱印地)。
この特権は徳川幕府にも認められ、他の地域と区切るための石碑が、
江戸時代のはじめに長浜町のまわりに三十数本建てられたと云われる。

しかし今は、わずかに十余本を数えるだけでそのうちもとの位置に存在するのは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知るうえで貴重な資料と言える。
なお、この境界碑は「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたものと思われる。

                                                  案内説明より

天守最上階望楼回廊

天守から琵琶湖

天守から琵琶湖

天守から市街

長浜ヨット 観光船波止場

成分分析書

バイキング朝食

祭りの準備屋台

旧北国街道

旧北国街道

曳山博物館

酒商 今重

長浜格子

今重屋敷 能舞館

JR長浜駅

湖北木之本 余呉湖





真宗大谷派 無疑智山大通寺

本堂 (重要文化財)

本堂回廊

庫裡

太鼓楼

鐘楼 梵鐘

手水舎

外陣 内陣

渡り廊下 屋根付太鼓橋

修復不可避の棟

修復中の山門

応答連歌之碑 (渡り廊下前)

上句 横超院  下句 加賀の千代

手を上げよ 同じ流れに すむ蛙

日かげのわらび 腰をのしかね

広間附式台玄関 (重要文化財)

広間は江戸時代初期の建物と伝えられ、正面奥に書院造の要素である床、帳台構、違棚及び附書院などを
一直線上に並べた上段の間をかまえて、対面所としての風格を備えている。
この上段の壁画には、各柱間ごとに画材を異にした著色の花鳥図、花弁図、人物図等が描かれて、
桃山風御殿の豪華な趣を伝えている。

玄関は宝暦十年(1760)に当寺住職横超院の内室であった彦根藩主井伊直惟の息女数姫によって建てられたことが
棟札により明らかで、間口を大きくとり入母屋造の屋根に軒唐破風をつけた大らかな建築である。


   大通寺台所門
この門は元長浜城の大手門であったと伝えられている。
大通寺は始め長浜城の一郭に長浜御坊と称して創立されたが、その時城の大手門を御坊の門とした。
慶長十一年(1606)[一説には寛永十六年(1639)]に大通寺が現在地に移転された時、門も同時に移されたが、
文化五年(1808)に重層の山門を起工するにあたって、これを現在の場所に移したもので、裏門とも台所門とも呼ばれている。

門柱や側柱の用材、扉の菱形金具と八双金具、門柱正面のまんじゅう金具、両端の男梁上に置いた板蟇股等は、
創建当時のもので、桃山時代の様式を持ち、雄大なことはやはり城門の遺構であるとうなずける。

                                               案内説明より

大通寺台所門





天台宗 宝生山 勝安寺知善院

山門 (知善院表門)

知善院は、天台宗真盛派の寺で、元小谷城下にあったが、羽柴秀吉がこの地に遷したものと伝えられている。

  市指定文化財 知善院表門
桃山時代の建造で、元長浜城の搦め手門であったものを、ここに移築されたものと云われている。
用材の太いこと、本扉の太い格子造りなど城門らしいところがある。

  国指定重要文化財 木造十一面観音座像
観音堂に安置され、寄木造、玉眼を嵌入した彩色の像。
鎌倉時代の十一面観音は、立像が多い中に、この仏像は、座像であることが異色である。

  市指定文化財 自筆消息
淀殿(秀吉側室)が妹初の夫で京極高次にあてたもので、度々の音信と来訪を謝するために出した消息。
慶長十二年(1607)頃のもので、淀君四十二・三才の筆蹟という。
料紙は檀紙である。

  市指定文化財 知善院宛豊臣秀吉朱印状
天正十九年卯月(四月)二十三日秀吉から与えられた朱印状。

                                          案内説明より                

輪枠の扁額

本堂

本堂と渡り廊下でつながっている観音堂 (重要文化財十一面観音安置)

鐘楼と梵鐘

左天満宮 右地蔵菩薩堂

菩薩堂 (南無行者神變大菩薩)

菩薩堂

知善院みち道路石碑





豊国神社

大浴場 (否温泉)

露天風呂 (温泉)

茅の輪くぐり

  豊国神社
天正元年(1573)織田信長の進攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地になると
翌年長浜城と城下町の造営に着手し、それ以後楽市楽座の制度と地租税三百石の免除の恩典で、
江戸時代を通じて長浜の商家は大いに繁栄しました。

慶長三年(1598)秀吉公が逝去されると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しましたが、江戸時代になり
太閤さんを神格化することが禁じられて取り壊され、秀吉公の御神像は町役人の家々で守り継がれた時代が続きましたが、
寛政五年(1793)「えびす宮」の建築許可を受け、本殿奥に御神像を安置して密かにお祀りしていました。
現在の神社名は、明治維新後に晴れて復帰した名称です。


  秀吉公と豊国神社
当豊国神社の前身である豊国社は、慶長四年(1599)の京都における豊国社の造営を受けて創始されました。
慶長五年(1600)八月十八日のことで、現長浜八幡宮のお旅所内に社を置いて、「豊国大明神」と称しました。
しかし、元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、長浜の豊国社も廃止に追い込まれてしまいました。

その後、寛政四年(1792)に至り、お旅所にあった豊国社の旧地に、恵比寿社とあわせて豊国社が祀られ、
弘化三年(1846)には秀吉公二百五十回忌にあたり、社前に石燈籠や釣燈籠が奉納されています。
明治維新になって豊(みのり)神社と改名し、明治二十五年(1892)には社地を現在地付近に移して、
大正九年(1920)に豊国神社と改名しました。

曳山祭の起源を秀吉公に求めるように、長浜町人の秀吉公への信仰は根強いものがあります。
この町民たちの秀吉公への進行の核となったのが、この豊国神社であったと云われている。

                                                 案内説明より

拝殿 (神明造)

入母屋平入りの千鳥と唐破風

大手橋と琴柱燈籠

境内社 天満宮

稲荷社

虎石

  虎石の由来
秀吉公が長浜城主(1574~85)のとき、幼少より育てた寵臣加藤虎之助清正が城内の庭に献じた石を
虎之助の石、虎の石、虎石として寵愛された。
江戸時代中期長浜大通寺に含山軒の庭構築の時、長浜城内より虎石を移したところ、
夜毎に「いのう いのう(方言で帰ろうの意)」となくので元に戻しておさまったという説話があります。
後年現地に移され今日に至っています。

                                           案内説明より

手水舎

御百度石

秀吉家臣団屋敷群跡と云われる

秀吉公と石田三成 出逢いの像
(JR西日本長浜駅前)

  長浜城主の羽柴秀吉は、鷹狩の途中に観音寺に立ち寄り、茶を所望しました。
汗をかいた様子の秀吉を見た寺の小姓の佐吉(石田三成)は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持って差し出しました。
秀吉がもう一杯頼むと、佐吉は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど入れて差し出しました。

そこで感じるところあった秀吉はさらにもう一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて持ってきました。
秀吉は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉を気に入り配下に召し抱えました。
この佐吉が後の石田三成で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。

石田三成は、ここから5㎞東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、
今も出生地辺りには官名に因んだ治部という字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。


  地名「長濱」の起源歌碑
きみがよも わがよもともに ながはまの まさごのかずの つきやらぬまで   竹中半兵衛
(豊鑑巻一 長濱真砂)

豊臣秀吉公が羽柴筑前守秀吉の時、天正元年(1573)浅井氏の拠点小谷城を攻略し、
その戦功により主君織田信長公よりその故地を領有許可を得、同年九月に小谷に入城したが、
小谷城は北に偏し雪深く、寒さ厳しく気候の変化大きく適地にあらずを以って、三里余南西の方の今浜に着目した。
今浜は琵琶湖に面し雪浅く湖上の舟の往来に便利で、その上信長公の安土城に伺候するにも陸上、水上が可能となりえた。

翌天正二年初頭にここを拠点とするべく築城に着手し、寺院、人家を集め城下の町造りをはじめられた。
また、今浜の地を信長公の一字をとり長浜と改めた。
これが地名「長浜」の起源で、約四百年前の事であった。

秀吉公の軍師であった竹中半兵衛重治の嫡子竹中重門が書いた「豊鑑」に記してある。
秀吉公入城以来領内の寺社には保護を与え領民に対しては善政を施し地租免除の朱印状にて三百石を与え、
長浜の繁栄を願われた。

今長浜の繁栄を見るときその基礎を築いた秀吉公の遺徳を讃え、市民の志を得て地名開町四百年を執り行い、
かつ、地名起源の歌碑を建てることになった。

歌を彫り込んだ石は敦賀市疋田の山腹にあって、金ヶ崎城落城(殿軍)の折り秀吉公がこの石に隠れ
一夜を過ごしたという豊公「いのち石」と云われる伝説にちなんだ石を搬入したものである。

                                             案内説明より

地名長浜起源歌碑

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安土城

是より大手道

石塁と大手三門跡

  石塁と大手三門
安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。
この石塁が設けられた部分は東西110mあり、その間に四箇所の入り口が設けられています。
通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が一箇所だけです。

織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、
西桝形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。

東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。
石塁は一直線ではなく大手門のところでへの字に屈曲しています。
石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し
築城時の高さは不明です。
そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。

東平入り虎口は、間口約5.5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明です。
石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30m
(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。

石塁から南に二間分、2.4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、
石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり
規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。

また、虎口や通路に上がる段差のある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遺構が消滅して、
石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。
そのため確実に築城当時に段があったが材質が不明である部分については
安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。

門があったとみられる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示しています。
また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウットチップ樹脂舗装で示しています。
上段の郭の内、土塀があったと推定される箇所はウバメガシの生垣にしています。


  東側石塁北上段郭と虎口
東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣によって遮られています。
石塁との間は約6mあり、石垣に添って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことがわかりました。

この石垣には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口が設けられていました。
虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。
石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。
踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。

門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、
残存する2基の小礎石から医薬門か唐門であったと思われます。
上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。
しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。
東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物に招き入れたと思われます。

石垣には大きな石が等間隔に配置されています。模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称しました。
このような大石を等間隔に置く石垣の例は、
佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、広島県吉川元春館跡や万徳院跡に見られます。
しかし、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われます。

                                             案内説明より

石塁北上段郭と虎口

伝羽柴秀吉邸跡 下段の郭

  伝羽柴秀吉邸跡 下段の郭の櫓門跡発掘調査
伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は、平成二年と四年に実施しました。
調査前は草木の生茂った湿潤な斜面地でしたが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、
階段を発見しました。

これらは厚さ数cmの表土の下から見つかりましたが、その保存状態は大変良好で、
今後の安土城跡の調査に大きな期待を抱かせることとなりました。
礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小合わせて9個発見しており、
最大の物では80㎝×140㎝の大きさがあります。
それらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかりました。

櫓門の内側には、屋敷に通じる石段とこれに伴う石組みの排水路があり、水路の縁石には石仏が使用されていました。
門の前では大手道から櫓門へ入るための橋を支えたと考えられる3本の長い花崗岩製の転用石を発見しました。
また、周辺からは櫓門の屋根を飾っていたと考えられる金箔軒平瓦や丸瓦の破片が出土しています。


  伝羽柴秀吉邸跡
ここは、織田信長の家臣であった羽柴秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。
大手道に面したこの屋敷は、上下2段に分かれた郭(造成された平地)で構成されています。
下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が立っていました。

1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多くみられるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。
門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな馬屋が建っていました。
武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。
下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。
背面の石垣裾に設けられた幅2mほどの石段は、上段の裏手に通じています。

上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。
正面の入口は大手道に面して建てられた高麗門です。
そのわきには重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。
門を入ると右手に台所があり、さらに進むとお主屋の玄関に達します。

玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。
さらにその奥には内台所や遠侍があります。
3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。

戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、
当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、まことに貴重なものと言えます。

                                             案内説明より

下段郭と上段郭との通路

羽柴邸上段郭屋敷跡

伝 羽柴秀吉邸復元予想図

伝前田利家邸跡の虎口

  前田邸虎口
一般に屋敷地の玄関口にあたる部分を城郭用語で「虎口」と言います。
伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、
その内側に桝形の空間を作った「内桝形」と呼ばれるものです。
発掘調査の結果、入口は南側の石塁及び門の礎石共に後世に破壊されていて、その間口は定かではありませんが、
羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。

門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ3段の石垣がそびえ、
その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。
また、1段目と2段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、
戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで適を迎え撃つことができる櫓台への出撃を容易にしています。

正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すため設けられた「蔀の石塁」となっています。
入口の右手は隅櫓が位置しており、その裾の石垣が蔀の石塁との間の通路を狭くして敵の侵入を難しくしています。
このように伝前田利家邸跡の虎口は極めて防御性が高く、
近世城郭を思わせる虎口の形態を安土城築城時にすでに取り入れていたことがわかります。


  伝前田利家邸跡
ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷跡です。
大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸と共に大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。
急な傾斜地を造成してつくられた屋敷地は、数段の郭に分れた複雑な構成となっています。

敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたために詳細は不明です。
隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。
門を入ったこの場所は桝形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。
北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長屋門風の門が開いています。

この桝形から先は道が三方に分れます。
右手の道は最下段の郭に通じています。
ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。
この厩は江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明』に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。
厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。

正面と左手の石階段は、この屋敷で最も広い中段郭に上がるものです。
正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。
前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。

多聞櫓下段の右手の門をくぐると、寺の庫裡に似た大きな建物の前に出ます。
広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。
遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、
現在竹藪となっており調査が及んでいません。

さらにその東にある奥座敷は特異な平面をもつ書院造建物です。
東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。
あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半分の部屋を撤去したのかもしれません。
伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、
その配置には大きな相違が見られます。
向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知るうえで、大変貴重な遺構です。

                                              案内説明より 

伝前田邸跡多聞櫓3段石垣

上段郭多聞櫓への石段

大手道 左折れ

大手道 右折れ

大手道 きついS字

体力の勝るものは先に行く

S字石段を上から見る

伝 武井夕庵邸跡

きつい石段からなだらかな石段へ  天主への道

石垣に巨石が多くなる

黒金門跡石垣

  安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。
周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。
平成五年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災に遭っていることがわかりました。
多量の焼けた瓦の中には、菊紋、桐紋等の金箔瓦も含まれていました。
壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。
高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸などの主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180m(比高約100m)を越え、安土城では最も高いところにあります。
東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。
高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数か所設けられています。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。
安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後にすべて焼失したため、炎の凄ましさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。
しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原形を保ってきた石垣の構築技術の高さには驚かされます。
様々な表情を見せる安土城に石垣の素晴らしさをご鑑賞ください。
平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。
ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。


  仏足石 (室町時代中期)
この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたようで、
昭和の初期、登山道整備の時この付近の崩れた石垣の中から発見されました。
仏足跡はお釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていました。
わが国では奈良の薬師寺の物が現存する最古(奈良時代・国宝)のものとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。

                                                 案内説明より

黒金門脇櫓の巨石石垣

仏足石

二の丸跡石碑

二の丸 織田信長本廟所

織田信長墓所

通路の大石 引手踊り石?

本丸跡

天主台石垣

天主礎石

  本丸跡
天主台を目前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西34m×南北24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。
7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36㎝)の柱跡が残るものもありました。
4~6寸(12~18㎝)の柱を6尺5寸(約1.97m)の間隔で立てる当時の武家屋敷に比べて、本丸建物の規模と構造の得意性がうかがえます。
礎石の配列状態から、中庭をはさんで3棟に分れると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることがわかりました。
豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿を参考にして復原したのが右の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。
大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎながら登ったことでしょう。
なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられたのでしょうか。
『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。

信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のための信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。


  安土城天主台跡
安土城天主は、完成してからわずか三年後の天正十年(1582)六月に焼失してしまいます。
その後は訪れる者もなく、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。 
ここに初めて調査の手が入ったのは、昭和十五年(1940)のことです。
厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見ごとに現れました。
この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っています。
安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。
これ以降、全国に建てられる高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆さまの立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。
現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることはできません。
左の図は、建設当時の天主台を復元したものです。
その規模の雄大さを想像してください。


  安土城御天主 (太田牛一 信長公記より抜粋)
石くらの高さ十二間余なり
石くらの内を土蔵に用い、是より七重なり   
二重石くらの上、広さ北南へ二十間、西東へ十七間、高さ十六間ま中(吹き抜け?)有り
柱数二百四本立
本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木(中略)

御座敷の内、悉く布を着せ黒漆なり(中略)

三重め、十二畳敷き、花鳥の御絵あり
則、花鳥の間と申すなり(中略)
柱数百四十六本なり

四重め、西百十二間に岩に色々木を遊ばされ、則、岩の間と申すなり(中略)
柱数九十三本立

五重め、御絵はなし(中略)
こ屋の段と申すなり

六重め、八角四方あり
外柱は朱なり
内柱は皆金なり(中略)

上七重め、三間四方、御座敷の内皆金なり
そとがは是又金なり(下略)


  安土城跡見学心得
安土城は、国の特別史跡に指定されています。
指定地区内では、許可なく史跡の現状を変更することは禁じられています。
違反したものは、法により厳しく罰せられます。

ご来訪頂きました皆様方には、何かとご不便をおかけすることもあろうかと思いますが
、貴重な文化遺産である特別史跡の持つ意義をご理解いただき、皆様と共にこの安土城跡を守り伝えられますよう、
ご協力をお願いいたします。

また、特別史跡安土城跡のある安土山全体は民有地です。
所有者の御好意により一般に公開されています。
その趣旨をご理解の上、禁煙等火気使用の厳禁、ゴミ持ち帰り等にご協力くださるようお願いいたします。

                                            案内説明より

礎石の無い中心部

天主からの眺め

石垣の石の崩壊 Ⅰ

石垣の石の崩壊 Ⅱ

石垣の石の崩壊 Ⅲ

安土城天主台跡 発掘調査及び復元図

織田信雄公四代供養塔 (大和国 宇陀松山藩)

織田信雄(のぶかつ)公四代供養塔  左から

二代 織田髙長公 法名 瑞泉院殿一岩宗徹大居士  享年八十五

三代 織田長頼公 法名 徳雲院殿回岩宗頂大居士  享年七十

四代 織田信武公 法名 圓明院殿定岩宗恵大居士  享年四十

初代 織田信雄公 法名 徳源院殿實厳眞公大居士  享年七十三

摠見寺本堂跡

黒金門から摠見寺道 伝織田信忠邸跡

摠見寺への最後の石段

下段 中段 上段(本堂)

摠見寺 三重塔

摠見寺三重塔

仁王像 吽形

仁王像 阿形

本堂より西の湖

摠見寺 仁王門 (重要文化財)

摠見寺 鐘楼 (伝 徳川家康邸跡)

交通止め 百々橋口へ

築城当時の石垣か?

現在の道整備石垣

近江国名所図会 摠見寺絵図

  摠見寺跡
摠見寺は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って
信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。

本能寺の変の直後に天守付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、
江戸時代末期の嘉永七年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。
その後、大手道脇の伝德川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。

平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。
南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、
その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有の物でした。
本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。
境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の仁王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。

建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録からわかります。
その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裡などが増設されました。
江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。
『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。


  重要文化財 摠見寺仁王門
正面の柱間三間の中央間を出入り口とする楼門を三間一戸楼門と言って実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、
金剛力士の像をまつるため仁王門と名付けている。
この門は棟木に元亀二年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正四年(1576)築城に着手し、
併せて摠見寺を建てるに際し甲賀郡から移築したと伝えられる。

組物は上下層とも三手先で、和様を主調としたもっとも一般的な形式であるが、
下層中央間の彫刻入り蟇股や隅柱の上部についている頭貫の木鼻などは室町時代末期の特徴をよく現している。
木像金剛力士立像は応仁元年(1467)の作で重要文化財に指定されている。

                                                 案内説明より

百々橋口 仁王門へ 現在交通止め

苔生した石が仏に見える様な

築城時に流用された石仏

大手道西側桝形虎口

大手道西側平入り虎口

築城時に流用された石仏

  大手道の石仏
この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。
城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石なども含まれていました。
出土した石仏などは、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。
趣旨をご理解の上、見学してください。


  西側石塁の桝形虎口と平入り虎口
大手道から西に延びる石塁には2ヶ所の出入り口があります。
最も西端に設けられた出入口は二度折れしてはいる桝形虎口と呼ばれる構造で、その東側につくられた出入口は、平入り虎口と呼ばれ門を入るとすぐに城内に行きつくものです。
平入り虎口の左袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5.0mに拡幅させています。
伝羽柴秀吉邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。
西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称のかたちに復元しています。
また、昇り降りする段差がありますが、石段などの当時の遺構がのこっていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。
桝形虎口では二つの新しい発見がありました。
一つは、桝形虎口の南面石垣沿いに幅約50㎝の石敷き側溝が造られていたことです。。このことから南面石垣沿いには通路の様な陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになりました。
二つ目は、桝形虎口の西壁と南面石垣には約1.5m大の大石を等間隔に配置する模様積ですが、奥壁の石垣は約40~60㎝大の石を布積みにしており石の積み方が違うことがわかりました。
さらに西壁の石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていました。
このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていましたが、天皇行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった桝形虎口が造られたと考えられます。
また、桝形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。
廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見ていただくため解体せず残しました。

                                                      案内説明より

南西より安土城を望む

JR西日本安土駅前の信長像

安土城跡及び織田信長公廟所拝観注意事項 (摠見寺)

  摠見寺
臨済宗妙心派の寺院。
遠景山摠見寺と称す。
天正四年(1576)安土城築城の際、信長公が他所より移築し安土城本丸の西方の嶺に建立し
自らの菩提寺にしたと伝えられている。
天正十年の天主焼失の際も当山は焼け残ったが、安政元年(1854)十一月十六日、火災により本堂などほとんどが焼失。
今は礎石のみが三重塔の北側にのこっている。
その後、昭和七年仮本堂が大手門近くの伝德川家康屋敷跡に建てられ現在に至っている。
寺宝として信長公所用の永楽銭を散らした銀象眼の鉄鍔(まけずのつば)、信長公の陣羽織が伝えられている。

                                              案内説明より

信長の館

JR近江八幡駅

七重の金箔内部

七重の扉彫刻

七重入母屋切妻破風と金の鯱

六重八角形望楼 花頭窓

六重外回廊壁画

六重内部壁画

六重庇と黄金の飾り金具

安土城休憩所の模型

セミナリヨ跡
信長の許可により天正九年(1581)イタリア人宣教師オルガンチノによって創建された日本最初のキリシタン神学校

セミナリヨ跡

施設 信長の館

六重 七重の望楼部であろう模型

内外金色の最上階七重回廊付望楼

近江八幡警察署安土警察駐在所
安土駅前 駐在している様子は?

德川家康への御馳走料理

織田信長が徳川家康をもてなした豪華な「本膳料理」として歴史に記されているのが「天正十年 安土御献立」です。
武田氏征伐の武勲を祝すための饗宴で、安土城に招いた家康を天正十年五月十五日・十六日の両日にわたり
総計実に百二十品にも及ぶ料理で歓待しています。

具体的には到着後、間もなく出されたおちつき膳、晩御膳、翌日の朝飯膳、夕膳の四食で、鯛の焼き物、鰻の丸焼き、鴨汁、
鮎の鮓、数の子、海老の舟盛り、雲雀の丸焼き、滋賀のふなずしなど全国各地から集めた至高の食材が用いられています。
ただし、なぜか「式の禅」の式三献は行われていません。

ちなみに、この時接待役をまかされた明智光秀は信長から「支度が行き過ぎである」と叱咤され、
役を降ろされて羽柴秀吉の援軍に回されました。
この時の遺恨がのちの本能寺の変の動機になったとも言われています。


  南蛮具足
当時、珍しい物好きの信長が、大変気に入っていたものの中に、南蛮風を取り入れた鎧や兜があり、
これらは、従来の武具に比べて、ファッション性にすぐれ、鉄砲の弾丸にも強く、当時大変流行していたもので、
この具足もその当時の南蛮具足を今に思わせるものであります。

また、この具足の興味深い点として、胸の辺りがハトの胸のように盛り上がり、
飛んできた弾丸をそらすことができると伝えられており、
また、胸の脇には梵字が浮き出されており、各々不動明王と大日如来をあらわしています。
そして中心には大きな十字架があり当時の信長の南蛮に対する思いが感じられます。

                                              案内説明より

西洋具足





彦根城下


彦根城  弁才天長寿院  龍潭寺  清凉寺  多賀大社  井伊神社

                   長浜市長浜城歴史博物館  滋賀県長浜市公園町10-10  Tel 0749-63-4611
                                      開館時間 9.00~17.00  入館料 400円  休日 12/27 ~1/2

真宗大谷派 無疑山大通寺
滋賀県長浜市元浜町32-9
Tel: 0749-62-0054

拝観料: 500円
拝観時間: 9.00~16.30 (問い合わせ)
休日: 12月29日~1月4日 (問い合わせ)

信長の館
滋賀県近江八幡市安土町桑実寺800
Tel: 0748-46-6512

開館時間: 9.00~17.00 (入館16.30)
休館日: 毎週月曜日(祝日時は翌日)
       夏休み期間は無休(問い合わせ)
       12月28日~1月4日

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JR彦根駅

彦根駅から彦根城

護国神社前交差点
護国神社前の堀は外堀の名残

滋賀県護国神社

拝殿

手水舎

銃後の母子の像

前線兵士の像

いろは松

二の丸堀(中堀)

二の丸堀(中堀)と復元隅櫓

井伊直弼(幕府大老職)歌碑

琵琶湖運河堀

彦根藩井伊家筆頭家老木俣家屋敷跡

二の丸佐和口多聞櫓

埋木舎跡

埋木舎前 二の丸堀(中堀)

旧池田家屋敷長屋門

佐和口桝形門跡

桝形櫓門石垣

重要文化財 馬屋

  いろは松
昔は47本あったことから、いろは47文字の頭三文字をとって“いろは松”と呼ばれている。
この松は土佐松で地上に根を張り出さないので人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものです。


  彦根藩井伊家十五代藩主井伊直弼歌碑
「あふみの海 磯うつ浪のいく度か  御世にこころを くだきぬるかな」

安政七年(1860)正月、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、
井伊家菩提寺の清凉寺に納めさせたと伝えられる。
この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、
幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の三月三日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。


  埋木舎 (特別史蹟 大久保家屋敷跡)
「世の中を よそに見つつも 埋木の  埋もれておらむ 心なき身は」

井伊直弼が17歳から32歳までの青年時代を300俵の捨扶持で過ごしたところで、
直弼は自らを生涯花咲くこともあるまいと埋もれた木に例えて埋木舎と呼んだ。
ここで彼は茶道、華道、禅、歌道、武術などの研究に励んだ。
茶道では石州流を学び裏手にある茶室は澍露庵と名付け数多くの弟子に一期一会の茶道精神を伝えた。
この建物は昭和60年度から6年間に亘って修復しました。

幕府大老、彦根藩主井伊直弼は文化十二年に十三代藩主、直中公の十四男として生まれた。
五歳のとき生母を、十七歳のとき父を失い、藩の掟によって捨扶持を給せられてここに移り住んだ。
弘化三年(1846)、十四代藩主である兄直亮の嗣子になるまでこの埋木舎ですごした。

この間に刻苦勉励して学内武芸に打ち込んだが、将来の藩主たるための者では無く、
ただ与えられた窮庶子の地位において安住する精神を求めたに他ならなかった。

嘉永三年(1850)藩主に、さらに安政五年(1858)四月に幕府の大老職になるや翌年の六月には幕府の祖法を排して
日米通商条約調印に続いて、英、仏、露、蘭の四か国と開港条約を結んで国難を救った英断は、
この埋木舎における生活のたまものといえよう。


  旧池田家屋敷長屋門
旧池田屋敷長屋門が立地する尾末町一帯は、江戸時代には中級の武家屋敷地が広がっていました。
当屋敷に住んだ池田太右衛門家は、江戸時代初期に二代藩主井伊直孝により「伊賀者」として召し抱えられました。
池田家初代と二代は百石取りでしたが、三代は二百五十石に加増、四代は百五十石に減地、七代に百八十石となり、
以降代々百八十石を相続して明治維新を迎えています。

屋敷は、当初は御歩行町(現在の京町二丁目)にありましたが、江戸中期以降は、現在の尾末町に移りました。
彦根藩では身分に応じて長屋門の格式が定められており、この建物は中級武家屋敷の典型をなす長屋門として貴重です。


  佐和口多聞櫓 (重要文化財)
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。
佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く四箇所の門の一つです。
表門に通じる入口として、大手の京橋口と共に彦根城の重要な城門の一つでした。

重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口の向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多
聞櫓に連接しています。
多聞櫓は長い平屋が特徴的な櫓の一種で「多聞」の名は
戦国武将松永久秀の多聞城出始めて築かれたことに由来すると伝えています。
佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度屈曲する長屋となっています
この櫓の内部は七つに区画され、中堀に向かって△と□の狭間が交互に配置されています。

現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空き地が広がっています。
かってこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。
空き地はその名残です。
因みに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され
、現在の櫓は昭和三十五年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物です。

佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、
彦根城がおおよその完成を見た元和八年(1622)までには建てられていたと考えられます。
その後、明和四年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和六年から八年にかけて再建されたものです。


  佐和口多聞櫓の壁
佐和口多聞櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁となっています。
土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねています。
建物の外観は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内側は柱を見せる「真壁造り」となっていますが、
内側でも貫の部分は塗込められて内壁の表面が波打っています。

また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。
その厚さは30㎝を超えています。
このように厚くなっているのは、防弾の必要な壁面の中位より下であり、それより上方は通常の土壁としています。
佐和口多聞櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。

二重壁のある側には、敵を監視する窓や□と△の鉄砲狭間も設けられており、
眼下には中堀に面した外側になっているはずです。
なお、細長い多聞櫓の室内の二箇所には、片面に壁土を塗り込めた「「防火間仕切り」が設けられています。
この間仕切りは屋根裏まで立ち上がっています。
あわせてご確認ください。


  彦根城馬屋 (重要文化財)
彦根城は、井伊家代々の居城で慶長八年(1603)より築城に着手し、元和八年(1622)に城の姿が完成したと云われます。
この馬屋の建立年代は、やや下って元禄時代の末頃(1700)と考えられています。

明和四年(1767)に近くの櫓(佐和口多聞櫓が焼け落ちたとき)馬屋の一部が焼け、
その部分の再建は馬屋の一部を縮小すると共に、こけら葺きのやねが桟瓦にかえられました。
また明治年間には、門から南側にの建物が壊され残った部分も馬繋ぎのかまえがほとんどなくなりました。

昭和四十一年から四十三年にかけての解体修理によって、二十一頭の馬をつなぐかまえに戻され、
屋根もこけら葺きになりました。
しかし、門から南の部分は、当初の姿に戻すことはできませんでした。
このように城内の馬屋が今まで残っている例は他で見られない非常に珍しいものであります。

                                        案内説明より  

馬屋内側

馬屋内部

多聞櫓入口

多聞櫓内部

多聞櫓壁

鉄砲狭間 化粧蓋付

多聞櫓壁の大木戸

隅櫓二重昇り階段 (階段使用不可)

城内側から多聞櫓

防火間仕切り

琵琶湖上 竹生島遠望

天主本丸より磯山

  彦根城
彦根城は、慶長五年(1600)井伊直政が、関ヶ原の戦いに德川四天王の一人として抜群の功をたて、
この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長六年(1601)上野国高崎城から佐和山城に移ってきました。
その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せずに病死し、
慶長八年(1603)直政の子直継が父の意志を受けて彦根城の築城に着手した。

時の将軍家康は特に奉行を差し向け、七か国十二大名家にも応援させ、
元和八年(1622)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に二十年の年月を要したもので、
城地面積約0.25k㎡(75,800余坪)、周囲4㎞(1里) 高さ約50mの彦根山に築城した平山城である。

昭和二十六年(1951)に彦根城天守をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、
さらに昭和二十七年には天守を国宝に、昭和三十一年には彦根城一帯を特別史跡に、
昭和三十八年に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。
新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。


  彦根城天守 (国宝)
彦根城と城下町の建設は今からおよそ四百年前の慶長九年に始まり、その中心をなしたのが、天守のある本丸です。
現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かっては藩主の居館である「御広間」や「宝蔵」、
そして「着見櫓」なども建っていました。
天守は三階三重、つまり三階建て三重の屋根で構成されています。

規模は比較的小振りですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多用に配しており、二階と三階には「花頭窓」、
三階には高欄付の「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
天守の建築構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、
全体として櫓の上に高欄を付けた望楼をのせる古い形式を残しています。

昭和三十二年から三十五年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、
天守の完成が慶長十二年(1607)頃であることが判明しました。
また、建築材を克明に調査した結果、もともと五階四重の旧天守を移築したものであることも分かりました。
彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、
彦根城の天守が大津城の天守を移築した可能性が考えられています。

戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく平和な江戸時代を迎えました。
江戸時代には藩主が天守を訪れることもあまりなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。
江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。


  天秤櫓 (重要文化財)
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。
この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。
あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。

けれども詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。
このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さを感じさせます。

大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、
築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切(ほりぎり)」と言います。
堀切には橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。
戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。

天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。
彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。
昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されていますが、
天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っておりません。

天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。
中でも嘉永(かえい)7年(1854)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。
堀切から天秤櫓を見上げてみてください。
右手の高石垣が、越前(現在の福井県北部)の石工(いしく)たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積(ごぼう)み」。
そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」です。


  太鼓門及び続櫓 (重要文化財)
本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。
門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。
この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしています。

櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、
その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。

太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓、そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。
長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった、彦根寺の山門を移築したものと考えられてきました。
彦根寺は観音信仰の寺として広く知られていました。

彦根山に向かって西に伸びた「巡礼街道」は、かつて、彦根寺へ多くの都人が参詣したため付けられた名称ですが、
こうした観音霊場では納札を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあります。
太鼓門櫓には門の柱に古い釘穴がたくさん残っており、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、
彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布していたようです。

ところがこの説は、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定されました。
解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物も、どこかの城の城門であったことが判明したのです。
しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。
ただ、それがどちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。


   登り石垣
彦根城には、全国的に珍しい「登り石垣」が五ヵ所に築かれています。
登り石垣は、文字通り山の斜面を登るように築かれた石垣です。
斜面をよく見ていただくと、高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びているのがご覧いただけると思います。

石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪掘」で、
上り石垣と共に斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。
かってこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようです。

登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。
日本では洲本城や松山城など限られた城にしか見ることができません。


  鐘の丸
築城当初、鐘楼が当地に存在したため鐘の丸と称すが、鐘の音が城下北方にとどかなかったため、
太鼓丸の現在地に移設したという。
この鐘の丸には、「大広間」や「御守殿」などの建物が存在したが、大広間は享保十七年(1732)に解体されて江戸に運ばれ、
彦根藩江戸屋敷の広間に転用されたようである。


  時報鐘及び聴鐘庵
この鐘は、十二代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造したもので、
当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅にとどかなかったので現在地に移した。
現在は午前六時、九時、正午、午後三時、六時と一日五回ついている。

大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道にひかれ自らも「宗観」と号し、修行をつづけた。
大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名である。
この精神を偲び、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待をいたしております。

                                                案内説明より

天守本丸より 佐和山城跡

石垣と 空堀

天守本丸より表門方面

天守本丸より彦根市街地

本丸の井戸

太鼓門本丸側より 高欄廊下

太鼓門櫓床

高石垣としない土塁

天秤櫓の高石垣隅櫓

太鼓門櫓

本丸へ

天秤櫓 城内側より

天秤櫓石垣 牛蒡積

天秤櫓石垣 落とし積

登り石垣

彦根城歴史博物館

いざ! 登城 変則な石段が続く

鐘の丸

掘り切りより天秤櫓

廊下橋より天秤櫓

表門跡石垣

表門内堀橋

牛蒡積み石垣

時報鐘及び聴鐘庵





長浜城

長浜城下へ

長浜城下へ

長浜城下へ

長浜ロイヤルホテルへ

彦根城天守

着見台より天守

天守入城口から天主

一階の井伊直弼像

入城口

屋根の木組み

下方に角度をつけた△鉄砲狭間

下方に角度をつけた□鉄砲狭間

武者溜り

武者走り

千鳥破風 隠れ部屋

二階へ

屋根木組み

木窓

会議の間?

外観窓

天守石垣

下城口

本丸跡

黒門跡石垣

三階からの眺め

西の丸よ山崎郭方面

大堀切(空堀)

大堀切(空堀)

大堀切にかかる木橋

馬出し出丸 (山崎郭)

  城郭の壁
城壁は通常の住宅や、御堂の壁のように同じ土壁といっても性格が異なり、工法も変わります。
城壁では機能的に耐火性が重視され、刀槍や銃弾等による機械的破壊力にも耐えなければなりません。
これらの機能は一般の建築にも多かれ少なかれ要求されるものではありますが、
城壁の場合は特にそれが強調されます。

着火の恐れの最も多い軒裏などを、まず、塗篭にするという現象が起こり、その後、城壁の外部は柱を見せない
大壁が一般的になり、塗厚も飛躍的に厚くなって、やがて建物全体を大壁で包み込む総塗篭形式に発展していきます。


  彦根城の城壁
天守一階及び附け櫓の壁は、竹小舞を内外二重に編み、その間に詰石層を作っていますが、
これは刀槍などによる破壊を防ぐためのもので、この工法は移築前の大津城の仕様を踏襲したものと思われ、
外部の板張りなどとならぶ古式の一つでもあります。


  破風の間
彦根城天守は、規模は比較的小振りですが、屋根には多様な破風が設けられているのが特徴の一つです。
これらの破風内には、破風の間という小部屋を設けているものがあります。
破風の間には鉄砲狭間が切ってあり、防御のための小空間となりました。
破風の間は、その下屋根の軒近くまで突き出しているので、屋根面による死角が少なく、防御には有効でした。


 彦根城火頭窓
鎌倉時代に禅宗建築として伝来した建築様式を禅宗様(唐様)という。
中国の宋時代に行われていた様式をそのまま輸入した様式で、初めは禅宗建築のみに用いられていたが、
やがてほかの宗派の建築にも波及し、後には、一般の寺院建築や城・住宅にも広く使われた。

火頭窓には、花頭窓、火灯窓、火燈窓、架頭窓、華頭窓など、いくつかの字があてられるが、
要するに上部が繰形をなす曲線からなる窓のことである。
石山寺本堂の源氏の間にあるところから「源氏窓」と呼ばれることもある。

一般的な傾向として、古い形式のものは竪框が垂直に近く、時代が下がるにしたがって脚元が開いていく。
中央頂部が尖塔形となっていて火のように見えるところから、火頭窓というが、
木造建築では火の字を嫌うので花頭窓と書かれるようになったと云われる。
火頭窓の形状にも変形があらわれ、その形状により蕨火頭、富士火頭、琴締火頭などと呼ばれるものもある。

出入り口に火頭形が用いられることは禅宗建築ではあまり行われなくなってしまったが、
桃山時代以後、霊廟や茶室の給仕口や茶道口に用いられている。
ただし、頂部は尖頭形ではなくアーチ状である。

蕨火頭というのは、上部の窓框が蕨手形に巻き込んだ形をもっているものをいう。
富士火頭というのは、上部を台形に富士山状に成形したもので、大徳寺方丈玄関の壁面に用いられている。
これは遠州好みといわれており、いかにも遠州らしい意匠感覚による造形といえよう。


  本丸跡
天守の前には、御広間や宝蔵・矢櫓・着見櫓等が築かれていたが、天守以外の建物は明治になって取り壊された。
御広間は、東西に長く南北約12m(六間)に東西約30m(十五間)で、台所と局が付設されており、
表御殿が山麓に営まれるまでの江戸時代初期は藩主の居館となっていた。


  西の丸三重櫓 (重要文化財)
彦根城内には、天守のほかにも2棟の3階建物がありました。
1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪(くるわ)の三重櫓でした。
今回は、国の重要文化財に指定されている西の丸三重櫓をご紹介しましょ う。

西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した
出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い堀切(ほりぎり)(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。
堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、
西の搦手(からめて)(裏手)方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。
三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、
櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。
この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、
昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

同時に解体修理によって、柱や梁などの部材の八割近くが、江戸時代後期の嘉永六年(1853)に実施された
大修理で取り換えられていることが判明しました。
今日見ることのできる西の丸三重櫓は、建築当初ではなく江戸時代後期の姿といってよいでしょう。

なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴(つづ)った『井伊年譜』を見ると、
築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐(きまたとさ)に預けられていました。
当時、山崎郭に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月二十日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。


  西の丸三重櫓の壁
西の丸三重櫓の壁は、防火や防弾のために厚い土壁になっています。
土壁は、竹を縦横に組んだ竹小舞を骨組みとして藁縄を絡め、それに荒壁、中塗り、白漆喰の順に塗り重ねています。
建物の外面は、柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」となっています。
また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高めるために壁を二重に造って一段と厚くしています。
その厚さは30㎝を超えています。

このように厚くなっているのは、防弾が必要な壁面の中位より下であり、それより上は通常の土壁としています。
西の丸三重櫓のどちら側が二重壁になっているか、確認してみてください。
二重壁のある側に敵を監視する窓や鉄砲狭間もあり、眼下には深い「大堀切」の広がる外側になっているはずです。


  西の丸三重櫓の見どころ
一、西の丸は、三重櫓と東側の多聞櫓、西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。
二、三重櫓の三層部分は、監視と見張り用に窓が設けてあり、一、二層は攻撃用として城外側だけに窓がある。
三、彦根城内には三つの三重櫓があり、西の丸三重櫓(天守・山崎郭)はその一つである。
四、西の丸三重櫓は、嘉永六年(1853)大修理され、
   柱や梁の八割近くが移築時のものから江戸時代後期のものに取り換えられている。
五、移築時の立証として転用材が階段の床板や側柱などにほぞ穴痕として残っている。
六、西の丸三重櫓は、湖上からの攻撃や裏門からの要塞として、竪掘・登り石垣や廊下橋の縄張りも施されている。
七、彦根藩筆頭家老の木俣土佐守も常時三重櫓に詰め、湖上の警備・監視に努めている。


  大堀切と出郭
西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を防止するため、尾根筋を断ち切るように大堀切が設けられている。
大掘切にかかる木橋の外側にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。
「井伊年譜」には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。

                                           案内説明より

黒門橋より内堀

三階

二階

三階櫓 一階多聞櫓

天井木組み

西の丸三重櫓

三重櫓の壁

廊下橋

大手口高麗門跡石垣

大手口櫓門跡石垣

京橋口櫓門跡石垣

大手門正面

半土居式石垣
石垣と石垣の間に土塁を置いた構造で、基部石垣を腰巻石垣 上部を鉢巻石垣という 挟まれた土塁部を俗に犬走りともいう

城内 金亀山地蔵尊堂

雁木

  京橋口門と雁木
彦根城は、中堀に面して四箇所の城門が開いていました。
その一つが京橋口門です。
京橋口門は、第二郭の重臣屋敷と第三郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置しています。
門の内側に設けられた桝形には、かって中堀に接して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていました。
櫓門は門の上に二階二重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びています。
門の形式としては最強の桝形で、重厚の構えとなっていました。
この多聞櫓の内側には、長大な石の階段が造られています。
これを雁木と称します。
雁木は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもので、城を防御するための工夫です。
彦根城では門跡の内側でこのような雁木をたくさん見ることができます。


  旧西郷屋敷長屋門 附袖塀 堀及び高麗門
内堀と中堀との囲まれたこの付近一帯は、上級武士の屋敷があったところで、
この位置は、江戸時代後期の天保七年(1836)に作成された彦根御城下惣図会によれば、
西郷伊豫(三千五百石 老中職)屋敷にあたります。
この長屋門は老朽化に伴い平成四年度から平成七年度にかけて大阪高等裁判所によって解体修理が実施されました。
修理中に発見された墨書により、この長屋門は寛保二年(1742)に西隣の庵原家で建てられたものを、
明治十六年(1883)に裁判所が整備されることにともない、
現在の場所である旧西郷屋敷内に移築されたものであろうと考えられます。

これだけ大きな長屋門は他に例が少なく、城と堀と長屋門、それに続く土塀から昔の面影を今に伝えています。
この長屋門の構造・形式は、桁行43.9m 梁間5.0m 一重入母屋造 背面庇着き 桟瓦葺

                                               案内説明より

旧西郷屋敷長屋門

楽々園  玄宮園

井伊家当主夫人 歌人井伊文子歌碑

井伊直弼像

  槻御殿
第四代藩主井伊直興が延宝五年(1677)に着手し、同七年に完成したもので、藩下屋敷として築造され、
木材は槻(ケヤキ)でその華麗さには各大名も驚嘆したものである。
幕府大老井伊直弼は、文化十二年(1815)十月に十九日ここで生まれた。

これらの建物は数棟の東屋よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時の面影を留めている。
第十二代藩主井伊直亮が文化年間(1804~1817)に楽々之間を増築して以来、
槻御殿という正式の名よりはむしろ楽々園の名の方が有名になった。

往時には能舞台を備えた広大な建物であったが、現在では書院、地震の間、雷の間、楽々の間等の一部が残っている。
戦後、松原内湖が埋め立てられて、まったく景色が変わってしまったが、
この屋敷からの内湖の眺めは伊吹山や佐和山、磯山などを望んで非常に美しかったという。

楽々園の名は「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったと云われ、
民の楽を楽しむという仁政の意をもっているとも言われている。


  地震の間 (御茶座敷)
江戸時代には、地震の時に逃げ込むための部屋を造った例はいくつもあったらしいが、現存のものはほとんどない。
この地震の間は、日常御茶座敷として使用されていたが、構造の細部を総合的に見ると、
最初から耐震構造の意図のもとに計画されたことは間違いないと思われる。

その根拠となる構造、手法の特色と仕手は、人工的な岩組によって建築地盤を堅固にしており、
柱が土台に固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。
さらには、建物全体を軽快な数寄屋造りとし、屋根を軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしている。
また、下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする基本的な耐震建築の様式を採用している。


  楽々園
楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷で、槻御殿と呼ばれていました。
現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。

槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。
江戸時代初期には、重臣の川手主水(かわでもんど)の屋敷があったとも伝えられていますが、下屋敷の普請にあたり、
大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった表御殿(現在の彦根城博物館)をはるかに凌駕しています。

井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、
文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、
その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。
その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。

現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。
現在、枯山水となっている庭園がそれですが、古絵図を見ると満々と水をたたえています。
御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。

地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。
楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されました。
「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目されています。


  玄宮園
玄宮園は、隣接する楽々園とともに、江戸時代には「槻(けやき )御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。
槻御殿は、延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、
昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。

玄宮園の名は、中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられます。
園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、
一説に中国の瀟湘(しょうしょう)八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、
江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣(りんちかく)」と呼んでいたようです。

そのほか玄宮園図には「鳳翔台(ほうしょうだい)」「魚躍沼(ぎょやくしょう)」「龍臥橋(りゅうがばし)」「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」
「春風埒 (しゅんぷうれつ)」「鑑月峯(かんげつほう)」「薩埵林(さったりん)」「飛梁渓(ひりょうけい)」「涵虚亭(かんきょてい)」
の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。

玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。
池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていました。
池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。

また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が開き、大洞(おおほら)の弁財天堂や菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、
あるいは松原のもう1つの下屋敷である御浜(おはま)御殿への御成りには、そこから御座船(ござぶね)で出向いたようです。


  鵬翔台
鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所、という意味で名付けられたと伝える格好の高台です。
「鵬翔台」の名は、江戸時代に描かれた「玄宮園絵図」に玄宮園十勝(名勝十か所)の一つとして描かれています。
絵図には高台の下に華やかに飾った船も描かれており、時には舟遊びに興じることもありました。


  花の生涯記念碑
世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(作者 船橋聖一)
が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、また、特にNHKテレビドラマを通じて世の絶賛を博し、
「花の生涯」ブームをもたらした。
このことを記念して昭和三十九年十月に十五日に建立されたものである。

中央の四角い石を大老井伊直弼にみなし、左右の低い石を長野主膳と村山たか女とし、
きらきらと輝く砂は雪をあらわし、はらんにみちた「花の生涯」を物語っている。


  遠城謙道
遠城謙道は、旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、文政六年(1823)に彦根で生まれた。
十五歳で鉄砲隊に入ったが、藩医師「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学ぶなどし、
特に禅の修業を積んだことで武士の魂を磨いた。

桜田門外の変における井伊直弼の横死の後、悲憤の余主君の旧恩に奉じようと同志と謀り老中に抗弁するも、
果たすことができなかった。
追腹は犬死と判断し、僧となり御墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清凉寺「俊竜和尚」のもとで仏門に入り、
名を「謙道」と改めた。

慶応元年(1865)、妻と六人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺豪徳寺に移り、
直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、霊を慰めること実に三十年に及んだ。
「開国始末」の著者、島田三郎氏は清節堅操優に、士人の典型また僧侶の模範と謙道翁の至誠志忠が賛されている。


  彦根藩初代藩主井伊直政公像
永禄四年(1561)現在の静岡県井伊谷に生まれた。
幼少のころから文武両道に励み、慶長五年(1600)に德川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる
関ヶ原の戦いで功を上げ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、十八万石の大名となった。

その後、城を現在の彦根山へ移そうとしたが、慶長七年(1602)四十一歳で病没した。
子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和八年に彦根城を完成させた。
こうして彦根三十五万石の初代藩主井伊直政公は今日の彦根市発展の礎を築いたのである。

                                               案内説明より

井伊直政像 JR彦根駅前

大河ドラマ第一作 花の生涯記念碑

楽々園 御書院

遠城謙道碑

鵬翔台

鵬翔台 御茶500円

御書院式台玄関

御書院通常玄関

枯山水庭園

御書院 上段の間

左から地震の間、雷の間、楽々の間

回遊式庭園 七間橋

臨池閣

臨池閣

鵬翔台と彦根城

枯山水庭園 太鼓橋

鵬翔台と臨池閣

赤松と築山 右の橋は通行禁止

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ドーミーイン富山 剣の湯 Dormy Inn Toyama tyruginoyu

温泉名: ドーミーイン富山剣の湯
源泉名: 剣の湯
泉質: 単純温泉
     低張性 アルカリ性 高温泉
     pH 8.8  陽イオン 154.6㎎/㎏  陰イオン 309.3㎎/㎏
     成分総計 607.7㎎/㎏

源泉温度: 42.5℃

湧出量: 1290ℓ/min
湧出形態: 掘削湧出
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩 うちみ ねんざ 慢性消化器病 痔疾
     冷え性 疲労回復


ドーミーイン富山
富山県富山市大手町4-8
Tel: 076-420-0005


今までに利用したドーミーインの中で一番の温泉だと思う。
共立メンテナンスグループのホテルは癒しのホテルと銘打って天然温泉施設が特徴らしい。
温泉を掘り当てて建物を造るのか、造ってから掘削するのか、
立地については厳密に調査がされているのでしょう。

駅からは少し離れた所にありますが、富山市一の繁華街総曲輪(sougawa)に近く、
交通の便が良いので(路線バス 富山駅前~総曲輪または城址公園前)問題はない。
路面電車の便もあるが、時間がかかるし本数が少ないので選択はバスです。
しかし、目的が観光となれば路面電車に乗ることを薦めたい。

富山駅は北陸新幹線の営業の為駅構内が工事中であり、
よく設置されているロータリー式の駅前バス乗り場になっていないので、
乗り場が分散されて解りにくい。
総曲輪経由のバスで便数が多いのは路面電車を渡った駅前大通り角の
みずほ信託銀行前(富山東急真向い)の富山駅前バス停です。
方角としては富山駅前は駅の南方面(南口?)他に北口がある。

富山市は道路は広くよく整備されている。
その点では本家筋の金沢は道幅は狭く方向性も定かでなく迷路の様ですね。
工業都市として発展した富山と観光歴史城下町として発展した金沢の違いでしょうか。
戦争は工業都市を格好の標的とした結果の産物ともいえますが、
多くの犠牲の上に成り立ているこの町の発展を願っています。

ドーミーイン富山

内浴場

半露天風呂

温泉成分分析書

ライトアップされた富山城模擬天守

大通り分離帯のイルミネーション

城址公園のイルミネーション

総曲輪の浄土真宗本願寺別院

水風呂?

化粧鏡室

恒例の夜泣きそば

朝食バイキング 小食です

日本海の夕日

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彦根城





臨済宗 弘徳山龍潭寺

龍潭寺入口門

山門 四脚門

山門木組の様子

鐘楼 梵鐘

大久保忠隣幽閉館跡

大洞観音堂 本尊 楊柳観世音菩薩

観音堂前の七福神

本堂

kannnonn

観音お告げ七福神 手前から

恵比寿
大黒天
毘沙門天
弁才天
福禄寿
寿老人
布袋

御佛足石

鶴の間襖絵

群仙人の間襖絵

竹林七賢人の間襖絵

群馬・群禽の間襖絵

書院の間

床の間 弘徳額

武具展示

仏像と杉板戸絵 仏の名は?

達磨墨絵

大小の達磨

二面達磨石

池泉観賞式庭園


  臨済宗妙心寺派 弘徳山龍潭寺
龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の名刹で、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の後、井伊直政の近江移封により、
遠州井伊谷(現在の浜松市引佐町字井伊谷)に所在の井伊家の菩提寺である万松山龍潭寺の分寺として建てられました。
井伊谷龍潭寺は時代の節目により寺号を変えてきたが、井伊直盛が桶狭間の戦いにおいて戦死、菩提寺に葬られました。
直盛の法名は「龍潭寺殿前信州太守天運道鑑大居士」ですが、直盛の院殿号が龍潭寺より贈られたのか、
院号が寺の号になったのかははっきりしていない。

当寺方丈の襖絵は、森川許六(1656~1715)の作と伝えられ、山水、人物、花鳥、走獣など十種もの画題が
計百四面に描かれており、これだけの襖絵が彦根にまとまって伝存することは注目に値します。
許六は、彦根藩士森川與次右衛門の子で蕉門(松尾芭蕉門下生)の俳人であるとともに、絵もよくし、
狩野安信に師事したと云われています。

書院庭園は、元和三年(1617)に当寺開山・昊天禅師により築造されたもので、
佐和山を背景とし、その山裾の斜面に造園され、美しく落ち着いた趣があります。
龍潭寺には、衆寮(禅宗学生寮)が開設され「園頭科」という造園科目が設けられていたことから、
ここで学んだ学僧たちが作庭に参加したと考えられます。
寺院には、この他にも「ふだらくの庭」と呼ばれる枯山水の庭(方丈南庭)などがあり、別名「庭の寺」、
また、禅宗の祖達磨大師との縁で達磨祭りが盛大に執り行われ「だるまの寺」とも呼ばれ多くの人々に親しまれています。

                                             案内説明より

庭園





曹洞宗 祥寿山清凉禅寺

清凉禅寺

山門 薬医門

本堂

本堂扁額

本堂大屋根破風

通用門 薬医門

客殿 客殿の奥に庫裡がある

客殿唐破風彫刻 井伊家家紋橘

客殿向拝折り上げ格天井

客殿唐破風向拝

客殿 火頭窓

客殿 玄関衝立

禅堂

左近の南天 
触ると腹痛を起こすと云われる

タブ木 樹齢700年ともの
夜な夜な娘姿に変身すると云う(木娘)

客殿 向拝柱の中央の膨らみ

井伊家墓地への坂道

井伊家藩主墓所

御燈明灯篭と墓石

無縫塔形墓石

佐和山城址

  佐和山城跡
佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱の六男時綱が、
佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられる。
その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分れて対立した。
佐和山城は両勢力の境目の城として攻防長年が繰り返された。
やがて戦国時代に湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、
湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されるようになった。

信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重要視された。
信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。
秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴、そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。
この間、佐和山城は次第に整備され、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、
山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内外には
侍屋敷・町屋そして足軽屋敷などの城下町が形成された.

                                          案内説明より

長林稲荷神社

主鳥居と奉納鳥居

社殿

社殿扁額 長林稲荷大明神


  祥寿山清凉寺
清凉寺は慶長七年(1602)初代井伊直政「の死去により、その墓所として創建された。
清凉寺の寺号も、祥寿山の山号も、直政の諡号「祥寿院殿清涼泰安大居士」に由来する。
清凉寺は寛永八年「(1631)に入寺する愚明正察を開山とするが、
「前開山もあり、二代ならんか、名は不知、当寺は後閑之長源寺末寺に候」と記されているように、
そもそもの歴史は群馬県安中市上後閑の曹洞宗長源寺を本寺として開創された。
その後、正察が清凉寺に入寺するまでの歴史は詳らかではない。

ただ、井伊家と上野国安中との関係は深く、初代直政が関ヶ原の合戦後に宛がわれた十八万石の所領の内、
関東三万石の中に安中領が含まれいたと考えられ、直政の側室の子として生まれた二代直孝が養育されたのも、
安中の上後閑村の地にあった萩原図書の家であったと云う。
その様な縁から、長源寺の僧を迎えていたのかもしれない。
しかし、長源寺はその後、彦根との音信が途絶えたようである。


  彦根藩主 井伊家墓所
初代井伊直政が近江に入国以来、井伊家は幕末に至るまで一度の所替えもなく、江戸時代を通じて彦根藩を領した。
この間、国許彦根の墓所として清凉寺が、また江戸における墓所として彦根藩領であった世田谷の豪徳寺が護持され、
歴代の当主以下、正室・側室・子息・子女ら井伊家一族の多くが墓石を連ねている。
現在、確認できる墓石の数は、清凉寺が五十九基、豪徳寺は八十七基である。
なお、四代藩主直興は、仏教への信仰心が篤く、永源寺の南嶺慧詢(なんれいえじゅん)に深く帰依したため、
歴代の中で直興のみが、側室と共に永源寺を墓所としている。

こうして、清凉寺・豪徳寺・永源寺の三ヶ寺の墓所において、井伊家当主歴代の墓石が全て遺存し、
その一族の墓石が網羅されている。
このことは江戸時代を通じて一度の所替えもなかった故に生じた結果であり、
譜代大名筆頭として幕府政治を支えた将軍家側近としての井伊家という特性に起因するものであろう。
同時に、その墓所が大きく国許と江戸に二分されているのは、
国許と江戸に居住した幕藩体制下の大名のありようを明瞭に示している。
三ヶ寺に所在する井伊家墓所は、将軍家側近としての井伊家と幕藩体制下の大名井伊家という姿を雄弁に物語っており、
江戸時代の幕藩体制や大名文化を考えるうえで欠くことのできない貴重な資産である。


  清凉寺井伊家墓所
清凉寺に所在する井伊家墓所は、多様な形状の墓石が混然一体となって墓域を形成している。
清凉寺は、初めに記したように、慶長七年(1602)彦根藩初代藩主である井伊直政の死去により
その墓所として創設されたものである。
この直政以降、彦根で死去した井伊家当主、その正室、側室、子息、子女の墓所として
墓域を確立していくことになるわけであるが、基本的に大名家の墓所は、あくまで大名家の「家」の墓所であり、
原則として藩士の墓は同一の墓所内には営まれない。
井伊家の墓所もその例外ではない。

江戸時代初期には殉死した家臣の墓が大名家の墓域内に営まれる例もあるが、その数は少なく、
四代将軍家綱政権の寛文三年(1663)に殉死が禁止されて以降は見られなくなり、
大名家の墓所は「家」としての独立した墓域を確定させていく。

清凉寺の井伊家墓所は、佐和山の山麓を削平し、前面に盛土をし、
この盛土を石垣によって土留を行い平坦地をつくりだして墓所としている。
手前に歴代当主の墓石を七基並べ、その南側と奥には正室、側室の墓十五基、子息や子女三十三基、
その他該当者不明の墓石三基、改易され二代直孝預かりとなった元小田原藩主大久保忠隣(おおくぼただちか)の
供養塔一基が配置されている。

また、墓域内には護国殿と経蔵が存在する。
護国殿は十一代直中が建立したもので、井伊家墓所の最も高い位置に削平段を造り出して建てられている。
建物自体は昭和三十五年に福井県敦賀市栄新町の天満神社に移築されており、
跡地には建物の痕跡が残っているのみである。
経蔵についても同様に墓所の西端に平坦地を造り出して建てられている。
現在、埼玉県所沢市上山口の狭山山不動寺に移築されて弁天堂となっている。

現在墓所に見られる墓石の形状としては、無縫塔形、位牌形、五輪塔形、地蔵菩薩(船形光背)形、宝塔形、
宝篋印塔の六種類が確認できる。
これらの墓石形状についてもそれぞれの部位の属性ごとにさらなる分類が可能である。

                                彦根市教育委員会清凉寺井伊家墓所調査報告書より 

清凉寺の右隣に鎮座している。
境内社なのかもしれません

彦根藩井伊家初代藩主直政公墓所
祥寿院殿清涼泰安大居士

井伊直惟 泰源院殿海印指光大居士





井伊神社

手水舎 水枯れでした

井伊神社参道

井伊神社鳥居

井伊神社社殿

旧井伊神社拝殿

旧井伊神社覆い屋根

橘 彦根市の市木 

保存木 枝垂れ桜

血染めのすすき  


  井伊神社 
祭神 稜威鞆安彦命 稜威直政彦命 稜威直孝彦命(井伊家始祖・井伊朋安 彦根藩初代・井伊直政 彦根藩二代・井伊直孝)

旧社殿は権現造の複合社殿で、社殿内部はすべて漆塗り(本朱漆込黒漆塗上)で、彫刻や組物、蟇股には極彩色が施され、
格天井の天井板には様々な草花が華麗に描かれています。
天保十三年(1842)井伊直亮(なおあき)が、井伊家の始祖共保(鞆安)公の七百五十回忌にあたり、
遠江国引佐郡の井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に奉斎したのを創祀とする。

弘化二年(1845)社殿を今の地に移し、現社殿(旧社殿)を建立した。
明治十六年(1883)県社に列格された。
昭和十三年(1938)近接の佐和山神社(祭神は藩祖井伊直政、二代直孝両公)
並びに祖霊社(祭神は井伊直中、直亮、直弼、その他歴代藩主)の神霊を合祀した。


  木村長門守ゆかりの血染めのすすき
慶長二十年(1615)大坂夏の陣に、德川軍先鋒を命ぜられた井伊直孝は二代藩主直継に代わって五月六日払暁
大坂城を遥に望む玉串川(現大和川)の若江堤に陣を進めた。
早朝からの合戦に多くの兵を失った豊臣方の名将、木村長門守重成は、若干二十四歳の若武者であったが、
大坂城もこれまでと、直孝の本陣に最後の突撃を敢行した。

この時、彦根藩士安藤長三郎は、重成の首級をあげたが、香を焚きしめた兜をつけた姿に、敵将ながらその死を悼み、
若江堤に繁るすすきに包んで持ち帰り、安藤家の菩提寺宗安寺に手厚く葬り、
すすきは佐和山神社(井伊家祖霊社)の社前に『重成血染めのすすき』として植えられた。

その後、同神社は井伊神社に合祀されたので、縁の宗安寺に移植されたが、
今度株分けをうけて再び井伊神社境内で昔日の面影を偲ぶこととなった。

                                              案内説明より

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大洞弁才天長寿院

大洞山中腹から彦根城

子安地蔵菩薩を祀る地蔵堂

一之鳥居 後は東海道本線踏切

弁才天扁額 神仏習合

二之鳥居参道石段 長いです

大寶王扁額 自分にとっての寶王とは? 

中門 四脚門

楼門

楼門 本堂境内から

楼門

楼門木組み

楼門左側 毘沙門天

楼門右側 堅牢地神(地天)


  楼門 (滋賀県有形文化財)
二天門と云い、本堂の正面の磴道の上頭にあり、表には有名な日月の二神像毘沙門天・堅牢地神を安置し、
裏には左右共に白狐や、楼上には大黒天像四千体を安置してあります。
毘沙門天・堅牢地神(地天)は他の天部と十二天を構成している二天でここから二天門の名がある。

十二天の内方角の守護神八天(東・帝釈天、 南東・火天、 南・焔魔天、 南西・羅刹天、 西・水天、 北西・風天、 北・毘沙門天、
北東・伊舎那天)と天地の守護二神(天・梵天、 地・地天)日と月の守護二神(日・日天、 月・月天)である。
毘沙門天はその外四天王と呼ばれる方角神の一神で同じく北方の守護神として安置され、この場合は多聞天と称される。
四天王は東・持国天、 南・増長天、 西・広目天、 北・多聞天で多くの仏殿須弥壇を守護している。

                                          案内説明より 

吽形狐像

阿形狐像

本堂 弁才天堂

本堂向拝唐破風屋根

唐破風彫刻

奥之院参道

奥之院鳥居扁額

高齢者には其れなりの階段です

社殿

向拝唐破風屋根

向拝の彫刻 

背面の拝所


  長寿院弁才天堂 (重要文化財) 
本堂  桁行五間、梁間四間、背面向拝一間
石の間  桁行三間、梁間三間
礼堂  桁行三間、梁間三間、向拝一間唐破風造り
本堂及び礼堂入母屋造、両棟を石の間の屋根でつなぎ礼堂の棟を越えて破風をつくる、総本瓦葺

長寿院は彦根藩井伊家四代藩主井伊直興が、領内の安泰と、近江国代々の故領主の霊を弔うため、
領民より各一文の奉加金に藩金を加えて、創立した藩寺である。
弁才天堂は棟札により、元禄八年(1695)から翌九年にかけて建立されている。
この堂は本堂・石の間・礼堂からなり、寺院建築には例の少ない権現造の形式で本殿の背面に庇を取り込んだり、
内部の柱が側柱筋と異なる手法は珍しい。

内、外部の各所には彫刻を多用して、漆塗り、極彩色を施すなど、装飾性に富み、元禄時代の様式手法がよく表れている。
また、本堂は近江国をはじめ、武蔵国、上野国の郷民に至るまで、
その数二十五万九千有余人によって浄財が寄進され竣工した。
内陣には六尺有余の大弁才天尊像を祀り、脇侍十五童子を両壇に引具して、その荘厳雄大さは類が無い。

また、建立の際西国、、武蔵国秩父、坂東を巡り、霊仏霊社二百八十一ヶ所の土砂を採取し、
本堂前の踏石の下に入れて踏み固め踏み石を設置した。
其れにより西国、秩父、坂東巡ることのできない人々に、ここに参ることによりそこを巡ると同じこととなると云う。


  奥之院(宇賀神)
奥之院は安永年間(1772~1781)城内に大火災が起こり火がまさに天守に燃え移らんとする時、
家老木俣土佐を始め堂守護の九人衆が災厄消除を祈願したところ、忽ち火勢は衰えて類焼の厄を免れたので、
城主直幸公は報恩感謝をこめて五尺有余の金色の寶王を白蛇がとり巻いている宇賀大神を安置して、
以って諸願成就の霊尊として、爾来衆庶の尊崇厚く有信者今も絶えないところであります。

                                             案内説明より

裏拝所の所向拝の蟇股

社殿裏から佐和山城跡ハイキング

弁才天堂(本堂)から山門越しに見える彦根城天守 裏鬼門亮⇔鬼門


  奥内宮
奥内宮は彦根藩井伊家十四代井伊直亮公が、天保十三年(1842)、白蛇光明王を勧請せられて、
城下の繁栄を祈誓せられた秘仏であります。


  宝蔵
宝蔵には幾多の宝物が所蔵されており、校倉造りとして昭和四十一年県指定有形文化財に指定された。


  阿弥陀堂
本尊は阿弥陀如来(恵心作)と大日如来(増長作)、釈迦如来(弘法作)が安置され、
近代歴史の古城主等の戒名、俗名二百七十有余名を連ねて霊を弔い、
内陣中央には日光東照宮に似せて眠り猫が彫られて欄間彫刻と共に、当代の傑作とされています。
昭和四十一年滋賀県指定有形文化財に指定されました。


   経蔵
経蔵には一切の経を所蔵して、輪転経蔵は各面に納経箱を納め、台座から輪転するようになっております。
なお外陣四隅には壹萬体の大黒天像を祀ってあり、古来願望成就の信仰として著名であったと云うところであります。
昭和四十一年滋賀県指定有形文化財に指定されました。
同じく大黒天像は参道正面楼門の楼上にも安置されております。

                                         案内説明より

宝蔵

宝蔵 高床校倉造

手水舎

阿弥陀堂

納経所 納経・朱印授受

経蔵

龍潭寺から弁才天への急坂

奥内宮

寶王殿(宝物殿)

寶王殿 板壁と桟唐戸





多賀大社

多賀大社二之鳥居(大社駅前)

二之鳥居神額

多賀大社三之鳥居

鳥居と狛犬

反り橋(太鼓橋)

反り橋(太鼓橋)

神門

手水舎

能・神楽殿

拝殿・舞殿袖廻廊


  多賀大社  祭神 伊邪那岐大神 伊邪那美大神
男神(伊邪那岐)と女神(伊邪那美)の大神は、初めて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、
その主宰神としての天照大神をお生みになられました。
そのことから昔よりわが日本国の祖神さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、
すでに淡海(近江)の多賀に御鎮座という記事が見えています。

そこで、早くより朝野の尊崇厚く、延命長寿、縁結び、厄除の霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、
武田晴信(信玄)の厄除け祈願、関白豊臣秀吉の母大政所の延命祈願など数々のご社伝が伝えれれています。
四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶ神幸は天下に名高く、
他にも節分祭、御田植祭、万燈祭、九月古例祭、七五三なども大変な賑わいを見せます。

室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、
さらに近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
社殿の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
また、春の枝垂れ桜「、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。


  そり橋
関白豊臣秀吉が多賀大社に寄せた信仰から、「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は形状から「太鼓橋」である。
築造は、江戸時代初期の寛永十五年(1638)に江戸幕府の助成もあって、
大僧正慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。

「寛永年間多賀大社絵図并指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。
この「そり橋」は御神橋であって、例祭にはお御輿が渡られることになっている。
昭和七年の造営には、「そり橋」の付近が改修され現在に至っている。
t多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。


  夫婦桜
昭和七年「昭和の大造営」の竣工に際し、延命長寿、夫婦和合の御神徳に因んで植えられました。
県内でも屈指の早咲きの枝垂れ桜として知られ、三月の末に絢爛と咲き誇ります。
説明文の後に歌が詠まれていました 「延命の神の御前の糸ざくら しだれしだれて今盛なり」 詠み人我知らず。

                                            案内説明より 

拝殿向拝注連縄

本殿

神門扉の神紋三つ巴

夫婦桜

御神灯

鐘楼と梵鐘 神仏習合の遺産

鐘楼廻廊の木組み

手水舎側の枝垂れ桜 

絵馬殿(休み処)奉納絵馬

拝殿・本殿 屋根の重美

参集殿

参集殿門

神馬舎側の二本杉

神馬舎

御神馬

さざれ石

大釜

太閤蔵

文庫

寿命石

般若院跡

御輿蔵 御神輿

御輿蔵 御凰輦

社務所


  鐘楼・梵鐘 「つり鐘」
この大鐘は、室町時代後期、天文二十四年(1555)に鋳造されたものである。
天文五年から永禄六年(1536~1563)にかけ室町幕府足利氏、近江守護佐々木六角氏、
北近江領主浅井氏らの奉賛のもとに社殿の大々的な修造を行った。

この大鐘の鋳造も、その修造事業の一つである。
鐘丈156.2㎝、竜頭からの高さ209.2㎝、口径127㎝で法量(外観の大きさ)の上から言えば全国五指に入る堂々とした大鐘である。
銘文は、池の間(ほぼ中央の平面の部分)に陰刻(通常印鑑の逆)され、まず第一区の銘文は、次のとおりである。

第日本国近江刕(江州)多賀大社鳧鐘(ふしょう)
天文廿四年九月廿日(二十四年九月二十日)奉鐘之畢(奉鐘之事成)
本願上人祐尊謹誌

鳧鐘とは鐘の異称で、このことを企てた祐尊は明応三年(1494)開基の不動院初代で、日野権大納言内光の末子といわれ、
二代目祐賢と共に前述の社殿修造にあたった。
銘文第二区以外は「つり鐘」造成にあたって浄財を寄進した檀那や造成に尽力をした百二十三人の人名が羅列してある。
そこには佐々木氏、尼子氏の如き守護級のもの、多賀・高宮・河瀬諸氏など大社に関係の深い土豪層の名も見る。
第二区上段に浅井猿夜叉とあるのは、浅井長政の幼名である。


  般若院跡
明治の神仏分離政策まで多賀大社境内には不動院・般若院・成就院・観音院の四つの神宮寺があった。
このあたりはその般若院の跡と云われている。
般若院は彦根藩主井伊家の宿坊であり、藩主の参拝、
毎年の古例大祭に奉仕する藩の上級藩士の出役などこの宿坊を基点とされた。
「花の生涯」の村山多賀女はこの坊で若き日を送り、ここで直弼公を知り、長野主膳を知ったと云う。


  太閤蔵
天正十六年(1588)関白豊臣秀吉は生母大政所の病気平癒をお多賀様に祈願し、全快のお礼に米一万石を奉納したと云う。
その寄進によって奥書院庭園などが築造されたが、この蔵もその時築造された一つで太閤蔵と称されている。


  大釜
江戸幕府は多賀大社を崇敬すること篤く、寛永十一年(1634)より五年の歳月と三十万両の浄財を以って本殿以下の
大造営を完成し、其れより約六十年後の元禄十一年(1698)には再び大修復工事を相営み社頭の荘厳を整えた。
この二つの大釜は両度の正遷官をきねんして設けられた御湯神事の調度と云い伝えられている。


  文庫
彦根藩は「桜田門外の変」の後、勤王の旗印を明らかにした。
この転向に大きな役割を果たした人物は少なくないが、
中でも、多賀大社大祢宜車戸宗功は長州藩士伊藤俊介(後の博文)ら勤皇方と彦根藩老達の仲介に奔走して偉功があった。
この文庫は当時車戸家の邸内にあり、長州や土佐の志士らと密議を行ったと云う。
維新の秘話・歴史を物語る遺構である。 


  寿命石と祈願の白石
今から八百余年前、俊乗坊重源は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧進を仰せつけられた。
上人はまず大神宮に三度参詣、さらに長寿守護を祈るため多賀大社に参籠し、
満願の暁に『莚』の字の虫喰いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。
この寿命石は上人がその霊験を頂いた際のゆかりの石と伝えられている。

重源上人が授かった『柏葉莚字』・・・・柏の葉の御神託により延命を授かったこと・・・・の故事に因んで、
昔から白石にもろもろの願いを込めて、寿命石に祈願する人々が絶えません。
祈願の白石は授与所に用意していますので(初穂料・500円)、住所・氏名を書いて御祈願下さい。
祈願された白石は後ほど御本殿の庭に敷き、長く祈念いたします。


  御輿庫
四月二十二日の古例大祭(多賀まつり)に出御される御輿・凰輦を奉安する庫である。
元は現在の参集殿の西側に建てられていたが、昭和の大造営に際して昭和十一年に現在地に建立された。
鉄筋コンクリート造り、面積約十五平方メートル。
古例大祭には御輿・凰輦
の両方が、九月九日の九月古例祭には凰輦
が出御され、多くの供奉者と共に町内を巡幸される。


  さざれ石とその由来
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
この石は通称さざれ石といわれ岐阜県春日村の産出。
古今集に天皇の大御代の弥栄を寿ぎ祈り、この石の如くましませと詠われ、後に一部改作されて、日本の国家となりました。

学名は石灰質角礫岩で、長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を集結して、次第に大きく生長したもので、
誠に目出度い石であります。
岐阜県揖斐川町の小林宗一翁がはじめて発見したものです。


  多賀大社建造物の変遷
多賀大社は「古事記」にその名が記され、『延喜式』には、「多何(多賀)ノ神ノ社ニ座」とあって
古くから鎮座していたことがわかります。
社殿の造営については、古代から造り替えまたは修理が繰り返されて現在に至っています。
江戸時代には、寛永の大造営(寛永十年から五年間)が行われました。
本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、さらに当時の末社であった
胡宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。

しかし、安永二年(11773)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社すべてが焼失してしまいました。
その後、直ちに復興にとりかかり、翌年には書院が完成して、小規模ながら必要な建物が再建されました。
文化五年(1808)には三間社流造の本格的な本殿が造られました。
この本殿は、昭和の造営に際し豐郷町の白山神社に移築されて現存しています。

明治に入ると神仏分離令により仏教的な建築物は取り除かれました。
その景観は、明治二十八年(1895)の「代日本帝国淡海多賀大社全図」に見ることができます。
大正から昭和にかけての造営については「多賀神社造営誌」に詳しく記載されています。
これによると、明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けておりました。

そこで、大正八年(1919)に明治神宮造営局技師・大江新太郎が境内を
①神聖 ②神厳 ③清厳 ④清雅 ⑤自由区域の五段階に分けて設計を行い、
その計画をもとに壮大な造営事業が進められました。
この事業は、本殿(透塀を含む)・祝詞舎・幣殿(翼廊を含む)・神饌所の四棟を国費で行うことになり、
内務省技師・角南隆が総監督にあたりました。

また、国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となって並行して行われ、
昭和八年に「昭和の大造営事業」がついに完成しました。
これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、
なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった檜皮葺屋根は、華麗で変化に富んでまとめられており、
気品ある神々しさを醸し出しております。
多賀大社は、近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています。

                                         案内説明より

授与所

祈祷控殿 奥書院入口

枯山水 石庭

枯山水 白砂青松

枯山水 松島





奥書院・庭園  
国指定名勝

書院池泉観賞庭園

書院坪庭

書院主室(鶴の間) 床壁貼付絵

書院主室襖絵 唐獅子

主室 床壁 富士・松・鶴

書院次の間

次の間襖絵 老松

関白 豊臣秀吉祈願文

多賀大社は古くから延命長寿・縁結びの「お多賀さん」と親しまれて、朝廷をはじめ武家や民衆の信仰を集めてまいりました。
戦国大名の中でも、とくに豊臣秀吉とお多賀さんとの関係は有名です。
天正十六年(1588、)秀吉は母大政所の病気に際して、多賀大社に米一万石を寄進してその平癒を祈願しています。

その書状には「母親の存命を三ヶ年、それが無理なら二年、それも無理ならば三十日でもよろしいから、
何としてでも延命されるように」と切実な祈願文を寄せており、秀吉の母への孝心のほどがうかがわれます。
その後、大政所は回復なされ、五年の寿命を得られたと云うことです。
(大政所は天正二十年(1592)八月二十九日死去 享年八十)
この奥書院庭園はその一万石によって築造されたと伝えられています。


  多賀大社奥書院
多賀大社の創立は、古く「古事記」や「延喜式」にも見ることができる。
奥書院は、江戸時代多賀大社別当寺不動院の建物と伝えられ、規模は桁行14.05m、梁間8.96m、一重、寄棟造、
南面および西面庇付、桟瓦葺きである。
現状の平面は、床、袋棚を備えた八畳の主室と十畳の次の間が名称庭園に面し、その南面に三室を並べて、
全体は六室構成になっている。

当初は主室側に西端より八畳、四畳、十畳の三室一列の中央部西側にも部屋をもつT字形の平面であったことや、
その後の変遷も昭和五十一年の半解体修理で明らかになった。
後世に、床、棚の設置と共に平面も大きく変わり、更に南、西側の縁が増設されているが、
主要部には当初の建築材が残っている。
時代的な風格をもち、庭園と一体をなす重要な建物である。


  奥書院襖絵・鶴の間
書院襖絵は江戸時代に画かれたもので、絵師は狩野派の名のある手によるものと思われます。
安永二年(1773)に大火に遭い諸建物は焼失しましたが、幸い大書院にあったこの襖は運び出されて罹災をまぬがれました。
松竹梅に桐や笹などその筆法には見るべき点も多く、平成十八年には多賀町の文化財に指定されました。

床の間の壁画に富士山の麓で舞う数多くの鶴が画かれていることから「鶴の間」の名称が生まれた。
また脇には鳥と白梅、襖には菊や唐獅子に牡丹などが描かれている。
江戸時代には勅使や公卿の参向、彦根藩主井伊家など社参の折にこの間で休憩されたと伝える。
それらのことから別名「勅使の間」とも云われている。

                                        案内説明より

西参道 神橋と鳥居

参道

参道 奉納鳥居

西参道入り口 手水舎

延喜式式内社 日向神社

子安神社

神明神社 内宮・外宮

恵比寿神社

聖神社  三ノ宮神社

稲荷神社鳥居

鳥居神額 金咲稲荷社

   尚以命之儀三ヶ年
   不然者二年實々
   不成者三十日にても

 今度大政所殿
延命候様ニ被頼思召候
 煩於本復者
 壹萬石為奉加
 可申付候條祈念
 専一候也

  六月廿日  花押

 
   多賀

熊野神社 天津神三代 熊野新宮

天満神社

愛宕神社

秋葉神社


  日向神社  御祭神 瓊瓊杵尊
御祭神瓊瓊杵尊は天照大神より神勅をうけられ、三種の神器を奉じて日向高千穂の宮にご降臨された神である。
延喜式内社で昭和九年多賀大社せっしゃに指定された。


  子安神社  御祭神 木花開耶姫命
御神徳 安産


  神明両神社  御祭神 天照大神宮  豊受大神宮
御神徳 国運隆昌


  恵比寿(夷)神社  御祭神 事代主神
御神徳 商売繁盛 大漁満足


  聖神社  御祭神 少彦名命
御神徳 薬業繁栄 諸病平癒


  三ノ宮神社  御祭神 角杙神・活杙神 大戸之道神・大戸之辺神 両足神・惶根神
御神徳 土木 建築(普請・作事)
通称三ノ宮とは違い神代七代の神の内四代・五代・六代(古事記)の男女神を祀る三之宮(三代の神)である。
日本国の地均しを司ったので土木・建築に御利益があると云う。


  金咲稲荷神社  御祭神 宇迦之御魂大神(倉稲魂大神)  猿田彦大神
御神徳 五穀豊饒 家内安全 商売繁盛 交通安全

火焚祭火焚串の奉納について
商売繁盛の神様金咲稲荷神社では毎年十一月八日午前十一時から、例祭並びに火焚き祭を斎行、
崇敬者各位のご奉納による火焚串を焚き上げ、火の霊力によって、
罪穢を拔い心身を清浄にして各自の生業に一層の活力をよみがえらせる神事を執り行います。
御信仰篤い各位におかれましては福徳招来を御祈念の上火焚串にご氏名をお書きになって
奉納されますようおすすめいたします。
火焚串奉納初穂料は一本二百円です。


  熊野神社  御祭神 櫛美気野命(素戔鳴尊)
御神徳 厄除け・開運

  天津神神社  御祭神 天之御中主神 髙皇産霊神 神皇産霊神
御神徳 殖産興業
天地創造の神 天地が定まらない混沌とした高天原に最初にあらわれた神(古事記)
何することもなく姿をお隠しになられました。


  熊野新宮神社  御祭神 速玉之男神(熊野速玉大社祭神)
御神徳 子授け


  秋葉神社  御祭神 火産霊賀具都知大神(火之迦具土大神) 伊邪那岐命と伊邪那美命の御子
御神徳 火除け・火伏 家内安全 商売繁盛 火の幸(エネルギー)感受


  愛宕神社  御祭神 火産霊神 伊庭奈美命
御神徳 防火・火伏

  天満神社  御祭神 菅原道真公
大願成就 学問向上成就 

                                       案内説明より

奉納鳥居

狐狛犬

稲荷神社手水舎

竈神社 年神神社





境内社





多賀大社門前寺院

多賀大社境内社  奥書院・庭園   門前寺院  多賀門前町並み  

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阿弥陀三尊来迎仏
中央阿弥陀如来 左脇侍(向かって右)観世音菩薩 右脇侍勢至菩薩


  桜町延命地蔵尊
ここ桜町は、多賀大社の門前町で、多くの参詣者で賑わっていた。
また、桜町地蔵の境内は、古くから地蔵信仰の場所で、多賀大社参拝の人も立ち寄っていた。

地蔵菩薩は、わが名を称える人の苦しみを救い、また、姿を変えて、延命、子育て、腹帯地蔵などに化身して、
人々の願いを聞き入れる現世の救済の神秘な力を持つとされている。
天保年間(1830~1840)、北国屋市兵衛は、多賀大社ゆかりの名物、糸切餅を発案し、
木之本地蔵の分身を請い、桜町地蔵の堂を建て、境内を整備した。

本堂は、中央に御本尊地蔵菩薩を安置し、左側に地獄で人の罪を裁くと云う閻魔大王を中心にして、
罪を記録し報告するという俱生神、司録神、浄玻梨を配して、地獄の場面をあらわし、
右側に地獄の苦しみを救う千手千眼自在菩薩を配している。
本堂前左には、半跏地蔵菩薩、右に来迎三尊仏を置く。
来迎三尊仏は、西方極楽浄土から阿弥陀仏が、観音、勢至を含め、地蔵など二十五の菩薩を従えて雲に乗り、
音楽を奏でながら迎えにおいでになり、極楽浄土へ導く姿を表現している。

                                        案内説明より

桜町地蔵堂

延命地蔵菩薩像

閻魔大王像

千手千眼自在菩薩立像

半跏地蔵菩薩像

浄土宗 普光山真如寺

阿弥陀如来の由緒標 多賀大社舊(旧、古来)本地佛(神に祀られた佛)

本堂前の宝篋印塔


  御本地佛 阿弥陀如来坐像 国指定重要文化財
昔、東大寺の沙門俊乗坊重源は年齢六十歳を越えて大仏殿再建の勅命を受け、
その大願成就のため多賀大社本地堂(阿弥陀堂)参籠して二十年延命のお告げを受け無事に大願を果たすことができた。
明治維新後神仏分離令により御本地佛は多賀大社を離れ当真如寺の御本尊としてお給任することとなり現在に至っている。
昭和五十年度文化庁の指示により京都博物館内国宝修理所にて現代科学の粋を集めて入念に修理が施された。

御姿は、丸顔にやや小さく眼鼻の造形を刻み、腹前で阿弥陀佛定印を結び、右足を外に結跏趺坐している。
一木割矧造という造像方法で、頭体幹部をヒノキ縦一材から彫成し、前後に割矧いて内刳を施している。
三道(首部の三筋のしわ)あたりで割首とする。
両足部は横一材を寄せ、内刳りをして幹部材に矧ぎつけている。
後頭部や腰の筋目などに本地佛としての形姿を見ることができる。
丸い面相や衣紋の表現から平安時代後期と考えられ、多賀町を代表する彫像である。
長寿・延命、交通安全、学業成就の守り本尊である。

                                       案内説明より  

棟瓦(のし瓦)の三つ葉葵紋

赤塀の山門

本堂

手水舎

墓地の供養堂?

浄土真宗大谷派 小菅山西徳寺

西徳寺山門 四脚門

本堂

鐘楼

本堂大屋根鬼瓦

庫裡

火頭窓枠の半鐘 合図に使用


  浄土真宗 小菅山西徳寺  聖武天皇勅願所法性院皇苑
西徳寺は奈良朝(平城京)三代聖武天皇の勅願により、天平八年(736大僧正・行基が創設、天皇より無量寿山法性院のご宸翰を賜り天平寺と稱し、法相宗に属した。
天平十一年聖武天皇は行基に勅し、坐像阿弥陀仏一体、立像二体を彫刻せしめ、坐像は多賀天社の本地佛、立像二体の内、一体は法相院の本尊に、他の一体は兜卒山四十九院の本尊とし給う。
また第二世基恩僧都の天平十二年帝より多賀天社守を命ぜられる。
第八世義真大僧正、天台比叡山延暦寺初代の坐主となり、第十四代静源権大僧都の時、天台宗に改宗した。
第四十八世慈広大僧都の建長七年(1255)四月八日、親鸞聖人関東より上洛のみぎり、当院に三日滞在された。
第六十一世慈照の永正元年(1504)勅許を得て浄土真宗に改宗し寺号を西徳寺とした。
慈照の室は本願寺八世蓮如上人の第十三女貞子である。
六十三世證慈の元亀元年(1570)織田・德川と浅井・朝倉の姉川の役に、兵火により七堂伽藍悉く鳥有(全焼)に帰した。
第六十五世教寿の慶長十三年(1608)仮本堂を再建した。
これが現在の本堂である。
第六十七世琢寿の元禄元年(1688)鐘堂を再建した。

                                          案内説明より





多賀大社門前町

料亭 かめや

辻の道標 右大社道

多賀大社門前町

亀屋玄関

名物 多賀うどん・多賀そば

町中休み処

菓子店

格子塀と朝顔

道標 右とりもと 

旅籠風の建物

門前絵馬通りの絵馬

かぎ楼 文化庁登録有形文化財(建物)

元禄二年(1689)創業の料理旅館
江戸時代は「鍵屋」
明治大正にかけて「かぎや」
昭和に入り「かぎ楼」と称した
木造三階建てのまさに「楼」を思わせる
姿を今にとどめている

かぎ楼入口

かぎ楼門前通りから

オーベルジュ「かぎ楼」

まったり地獄 泊まってのんびり

股裂き地獄・足ツボ地獄

足ツボ地獄 渡板

猫舌地獄 鍋焼きうどん 

自転車操業地獄 青息吐息

彦根駅から近江鉄道

近江鉄道多賀大社駅

縁結び 叶オブジェ

村山たか 生家不二家


  幕末悲劇の女性 村山たか女の生まれた家
父 多賀大社別当 京都尊勝院院主・尊賀上人(皇室の血をひくと云う)
母 多賀大社般若院主・藤山慈算の妹藤山くに
文化十年(1810)当藤山家(不二家)で生まれた。
藤山家は現在の山田精肉店辺りにも屋敷がありそこで幼少期を過ごしたと伝わる。

江戸時代末期(幕末)から明治時代初期に活躍した女性で、「花の生涯」(船橋聖一著)や「奸婦にあらず」(諸田玲子著)でヒロインとして登場します。
別名村山加寿江(かずえ、可寿江)ともいわれ、たか女は「多賀の女」という通称であったのだろうか。
文化六年(1809)、延虫日や延命長寿の神として信仰される多賀大社門前町、多賀で生れた。
(説明文が二通りあり、文化十年(1810)と文化六年(1809)の生まれと記されているが、文化十年は西暦1813年であることから、
文化六年がつじつまが合っているようだ。また父母の姓を名乗らず村山となったいきさつは、それを隠す必要があったのでしょう。)

十八歳で彦根藩主井伊直亮の侍女となる。
容貌にすぐれ、二十歳で京都祇園で芸妓となるが、生まれ故郷に戻った際に井伊直弼と出合い、深い仲になったと云われる。
直弼が大老職となった後、安政の大獄では京都で暗躍する討幕派の情報を江戸に送る役割を果たしたと伝わる。
安政七年(1860)、桜田門外の変での直弼暗殺後、文久二年(1862)に尊皇攘夷を称える土佐・長門の浪士に捕えられ、三条河原に三日三晩晒されたが、死罪は免れ、金福寺で出家し妙寿尼と名乗り直弼らの菩提を弔った。
明治九年(1876)に六十七歳で亡くなる。
井伊家家老の脇家や宇津木家の菩提寺・高源寺(多賀町楢崎)には、明治十四年(1881)に多賀大社より移設された般若院とともに、村山たか女の肖像画も残っている。

                                     案内説明より

街角の地蔵堂

厨子に納められています

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