温泉その8
 ビジネスホテル


弘前 ホテル ドーミー イン弘前 雪の弘前城

五所川原 ホテルサンルート五所川原 津軽鉄道・太宰治・五所川原立佞武多 

秋田 ホテルドーミー イン秋田

福井 アパホテル福井片町  永平寺・丸岡城・福井城址

函館 函館温泉ホテル  函館巡り・青函トンネル竜飛海底駅

仙台 アパヴィラホテル仙台

弘前 スーパーホテル弘前

弘前 日帰り温泉ビジネスホテル

氷見 ホテルグランティア氷見

高山 高山グリーンホテル

赤穂 赤穂パークホテル 赤穂城跡 大石神社 花岳寺 

盛岡 スーパーホテル  啄木新婚間借家

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ドーミーイン弘前 Hotel Dormy Inn Hirosaki

温泉名: 岩木桜の湯
源泉名: 植田源泉
泉質: ナトリウム-塩化物・硫酸水素塩泉
     低張性 弱アルカリ性高温泉
     pH 8.08  陽イオン 669.6mg/kg  陰イオン 1163mg/kg

源泉温度: 57.3℃

湧出量: 300ℓ/min
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 

立ち寄り湯不可


ホテル ドーミーイン弘前
青森県弘前市本町71-1
Tel: 0172-37-5489



  

鶴の松

鷹揚園内隋一の銘木である。
老鶴形に仕立てられ美しく優雅な形をしている
ところから「鶴の松」とよばれている。

向かいの石垣の中心に「亀の石」と呼んでいる
大石があり、並び称されている。

重要文化財 弘前城天守 

弘前城は津軽を統一した津軽為信が計画し、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に完成させた。
当初の天守は五層で本丸西南隅に構築されていたが、築城から16年後の寛永4年(1627)に落雷により焼失した。
現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)九代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。

建築年代は新しいが、堀側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、
また、一・二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落としを設けるなど古形式になっている。
江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方隋一のものであり、
小規模ではあるが、全国の城郭天守の中でも代表的なものである。       現地説明書きより

津軽富士遠望

重要文化財 五重塔

縁起によれば、藩祖津軽為信による津軽統一の際に戦死した敵味方を供養するため、
三代藩主津軽信義が明暦2年(1656)に着工したが中断、寛文5年(1665)四代津軽信政により再開され、
寛文7年に完成したといわれるが、平成4年から6年の全面解体で寛文4年の銘が初重の部材で発見され、
このころの建設開始と推定されている。

また、当初の露盤や伏鉢などの相輪部分は、鋳物師として有名な渡辺近江大掾源正次の作と伝えられている。
塔の総高に約31.2メートルを測り、総高に対して総輪部分が長く、更に五重目の柱間が初重の約半分になっているなど、
均整のとれた美しい姿として有名である。

また塔の芯柱は継ぎ目のない一本の杉材であり、二重目で止まるほか、組み物に和洋三手先を置き、
初重の蟇股に十二支の文字が書かれ、各層の窓の形が異なるなど、細部にわたりすぐれた意匠の建築物である。

山門

金剛山 光明寺最勝院

弘前城

城門金具

本堂

鐘楼

つがる海峡線分岐点

海峡トンネル最深部サイン

特急白鳥

青森駅プラットホーム

弘前駅 駅弁

弘前駅前 アップルポスト

弘前駅

南内門

下馬橋と天守

追手門

二の丸枝垂れ桜





ホテルサンルート五所川原 hotelsunroot-gosyogawara

題名 夢幻破邪 (内部ライトはLED)

題名 不撓不屈 (内部ライトは電球)

風神・雷神

龍・虎

きんぎょねぷた

立佞武多搬出の様子

像の細部展示その1

像の細部展示その2

夢幻破邪

夢幻破邪

不撓不屈

不撓不屈

レトロな照明器具

ストーブ仕様車両形式 オハ46

ドア解放で運転中 旧式のため

最果ての津軽中里駅

レール末端止め

平成の車両

ストーブ列車乗車券

ストーブ列車車内 2基設置

2両編成で1両がストーブ仕様
客車なので動力装置を持たない

金木 八幡宮神社 拝殿

八幡宮 本殿

寒さに耐える獅子

天満宮

台所

踊り場付階段

津軽三味線会館

洋室と調度品

書襖の和室

襖絵の和室

金襖の和室

金仏壇の仏間

螺鈿玄関衝立

太宰治記念館 斜陽館

太宰治疎開の家 移築津島家新屋敷

新屋敷 入館料500円

津軽鉄道 料金表

普通車両

金木駅

JR五所川原駅

駅前

津軽鉄道五所川原駅

ホテルサンルート五所川原

温泉成分分析書

ホテル3F 浴場

温泉名: 布屋温泉
源泉名: 布屋温泉源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     高張性 弱アルカリ性高温泉
     pH 7.59  陽イオン 4049㎎/㎏  陰イオン 6338㎎/㎏
     成分総計 10500㎎/㎏

源泉温度: 58.8℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 加水 循環ろ過消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
     切り傷 やけど 慢性皮膚炎病 慢性婦人病

利用料: 大人 400円  小人 150円
利用時間: 11.00~24.00
休日: 無休(要問合せ)

ホテルサンルート五所川原
青森県五所川原市布屋町25
Tel: 0173-34-8811


太宰治記念館 斜陽館
青森県五所川原市金木町朝日山412-1
Tel: 0173-53-2020
 

立佞武多の館   
青森県五所川原市大町21-1
Tel: 0173-53-2020

島津家邸宅 雪深い寒冷地に立派な館があったものだ。
穀倉地帯の豪農や海運の豪商とは違った近代的雰囲気のある建物である。
感ずるに寄って立つ基盤が比較的狭い裾野を持った現金資産の商人であろうか?

太宰治 経済的に恵まれた御曹司であり、望めば人生設計の自由度は限りなく高いはずであったろう。
政治家、実業家、軍人、研究者などなど。
だが彼にはそれらに必要な資質が何一つなかったのではないだろうか。

怠け者、無気力、他力本願で、自立心、決断力に乏しい性格。
寄らば小説家、文学者として生きるよりほかに方法がなかったような感じがする。
もちろん、小説家、文学者が上記のような性格であるということではない。
ただ、そのような性格が小説家には向いていることもあり得ると思うだけです。

物事を否定しながら寄って立つ人生をそれらに頼る自己矛盾との格闘。
時代や感情に流され制御心を自己都合で解釈して正当化した末の脱力感。
また、それらを乗り切れる理想の人物像を想像できる空想。

まさにその生き様が、小説家として真実性を求める読者には誰もが持つ心ゆえに味方となり共感を呼ぶ条件になりえると思う。



津軽鉄道のストーブ列車はイメージが先行して思っていたほどの感激がわかない。
車両の古さは懐古に浸れるが、名物のするめの焼く匂(臭)いには閉口した。
するめも高そうです。

観光者に料金の高さで後ずさりさせる。
通り抜けのない路線40㎞で1680円はJRや私鉄の3倍近くになるし、ストーブ料金が600円加算
ここまで来て乗らずにはいられないから、津軽鉄道のイベント力に感謝?して乗車する。

目的意識を持って来る人以外は、まず津軽鉄道のリピーターとなる人は少ないと思う。
が、立佞武多の季節には見てみたいものです。
こちらは想像以上のイメージでぜひ本物の迫力を感じてみたいものです。





ホテル ドーミーイン秋田 Hotel Dormy Inn Akita

温泉名: 中通温泉
源泉名: こまちの湯
泉質: ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
     高張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 7.7  陽イオン 4292.6㎎/㎏  陰イオン 7668.2㎎/㎏
     成分総計 12226.3㎎/㎏

源泉温度: 33.0℃

湧出量: 53.1ℓ/min
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進

利用料: 900円
利用時間: 15.00~22.00
休日: 無休

ホテル ドーミーイン秋田
秋田県秋田市中通2-3-1
Tel: 018-835-6777 



秋田始発の五能線1番列車「リゾートしらかみ」乗車のため駅まで5分の便利さで。
温泉は思っていたよりは良い温泉でした。
弱アルカリ性ながらヌルヌル感があり、こまちの湯と合点した。

9月に入った平日でビジネスと観光客で浴場は混んでいた。
よって、内湯、露天風呂の写真は撮れなかったのでHPより拝借した。

ホテルエトランス

成分分析書

浴室入口

秋田駅 切り株風ベンチ

内湯

露天風呂

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アパホテル〈福井片町〉 apahotel-fukuikatamati

温泉名: アパホテル玄要の湯
源泉名: 玄要の湯源泉
泉質: 単純温泉  ナトリウムー硫酸塩
     低張性 アルカリ性低温泉
     陽イオン 178.1㎎/㎏  陰イオン 356.1㎎/㎏

源泉温度: 26.5℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進

利用料: 1000円(3時間) 1日 2000円
利用時間: 6.00~24.00
休日: 無休


アパホテル 福井片町
福井県福井市順化1-16-7
Tel: 0776-28-7111

ホテル外観

大浴場

朝食 バイキング

山門

中雀門

仏殿

通用門 参拝者入口

正門

傘松閣 絵天井の間

勅使門 (唐門)

法堂 (本堂)

天保九年(1843)の改築で、間口十八間、奥行十四間、約四百二十畳敷きで、七堂伽藍中最大の建築物です。
正面中央奥には聖観世音菩薩が祀られています。
本来は説教の道場であるが、今では、朝課(朝のお勤め)や、各種の法要儀式が行われています。

法堂の扁額

曹洞宗大本山永平寺

山門の四天王 左から多聞天 持国天 増長天 広目天

光明蔵

回廊外観

回廊内部

鐘楼と梵鐘

納経塔

大祠堂殿 祠堂殿・舎利殿

昭和五年の新築で、全国各地の信徒から納められる御位牌を安置し、奥殿中央に地蔵菩薩を祀り、各種法要が行われている。
全国各地の信徒から納められた御分骨は、道元禅師始め歴代禅師の眠る聖域に合祀され、
永代祠堂の諸精霊と共に、毎朝の勤行にて懇ろに供養されている。

勅使門参道石灯籠

福井藩松平家廟所

回廊階段の飾り金具?

法堂から一文字回廊と仏堂屋根

僧堂

明治三十五年、道元禅師六百五十回大遠忌記念の改築で、雲堂とも稱されている。
中央には文殊菩薩(聖僧)が祀られており、修行僧が教えに従い坐禅し、食事をし、更には睡眠をとるなど、
最も大切な道場である。

もう一つの梵鐘

日が山に入り閑散とした土産店

永平寺川に架かる半杓橋

吾一人の永平寺駅行きバス

永平寺

丸岡城から永平寺行バス

野面積石垣

石瓦

城入り口左側面

天守からの眺め

バス停から天守までゆっくり15分
芦原温泉駅前発 丸岡・永平寺線

トイレを借りました福邦銀行丸岡支店
行員の方トイレドア前で監視
マニュアル通り ありがとう

本丸登城石段

丸岡城天守閣 重要文化財

天正三年(1575)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在地の東方約四km)を攻略した。
信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。
天正四年(1576)勝豊は豊原城を丸岡に移し、これが現在の丸岡城になる。

柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次などが一時これを支配し、
その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄八年(1695)五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、
八代にわたって有馬家の領有することとなった。
平章館(現在の平章小学校)の創設者、丸岡藩五代藩主有馬譽純は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。

明治三年三月、版籍奉還後、明治四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。
その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷などの建物は売却または譲渡され、
現在僅かに天守閣とその付近の石垣の小部分を残存するだけとなった。

昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、
昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、
昭和二十六年十二月復元に着手、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。

本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台をなす。
構架法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、
これは我が国城郭建築史上、現存の天守閣の中で、最古の様式のものである。

天守閣の高さ・・・22m
面積・・・一階137㎡  二階40㎡  三階40㎡
石瓦の枚数・・・約6000枚
総重量・・・75000㎏
                                                     案内説明より

国宝 霞ヶ城の石碑

丸岡城は昔から別名霞ヶ城といわれ、町民に親しまれてきました。
この碑は、昭和九年に国宝指定を受けたのを記念して、
昭和十七年に霞城保存会が建立したものです。

その後、城は昭和二十三年の福井大地震で倒壊し、三十年に竣工いたしましたが、
昭和二十五年の「文化財保護法」施行により現在は国指定重要文化財となっております。

天守本丸より斜面土塁をみる

一階の格子出窓

鉄砲狭間 矢狭間?

天守上階骨組み

石瓦

千鳥破風の懸魚

天守最上階 望楼窓

丸岡城井戸

天正三年(1575)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、柴田勝豊が豊原からここに移り築城した。
豊原は一向一揆の最後の根拠地であったため、この地に築城後も一揆の残党が攻撃を仕掛けてくることも、しばしばであった。

しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。
この伝説が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である。
現在も春先などに、すっぽりと“かすみ”に覆われた「霞ヶ城」を見ることが出来る。

伝説「人柱お静」 石碑

これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(1576)に丸岡に築城の際、
天守閣の石垣がなんど積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。

そしてその人柱に選ばれたのが、
二人の子を抱えて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。
お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、
天守閣の中柱の下に埋められた。
それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。

しかるに勝豊は近江長浜に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月の頃になると、春雨で堀には水があふれ、
人々は“お静の涙雨”と呼び小さな墓を建て霊を慰めた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。
                                                          案内説明より

家老有馬天然屋敷跡庭園

当屋敷は丸岡藩有馬家家老有馬天然の屋敷跡である。
偶然にも廃藩後、寺屋敷として残されたために昔のままの姿で保存され、
当時の景観を今日に伝えている。

庭園は京都の庭師松右衛門を招き、近江八景をかたどって造ったと伝えられる。
墓地の東には、有馬天然の縦二メートル、横一メートル幅の自然石の記念碑がある。
                                案内説明より

丸岡城

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福井城天守台

結城秀康(羽柴秀康)公像

福井城天守跡

福井藩松平家初代藩主結城秀康は、慶長六年(1601)から約六年をかけて
福井城(北ノ庄城)を築城し、本丸には壮大な天守閣が偉容を誇っていた。
残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、
最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている。

絵図では高さが、約二十八メートルあり、天守台を含めると約三十七メートルにもなる。
今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、
天守台の北半分に天守が立っていたのであろう。

四層五階の壮大な天守も、寛文九年(1669)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、越前六十八万石の大名となった結城秀康公
(徳川家康の次男)は、慶長六年北ノ庄(後の福井)に入り、
新しい城の建設と、柴田勝家に始まる城下町の大改造に着手した。

多くの民の力と汗に支えられ、およそ六年の歳月をかけて完成した城下は、
都市としての福井の原形をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。

本丸控天守台

この控天守台の石垣には昭和二十三年六月二十八日福井大震災による石垣崩壊のあとが今も残っています。
厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いをはせることが出来ます。

天守台の天守礎石

地震でずれた石垣

いざ!天守へ

天守入口門石垣?

山里口御門跡

御廊下橋から福井県警本部

御廊下橋本丸側

本丸表門跡石垣

御本城橋から巽三階櫓跡石垣

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アパヴィラホテル〈仙台駅五橋〉 apa villa hotel sendaieki-itsutsubashi

温泉名: アパ仙台温泉
源泉名: アパホテル仙台温泉源泉
泉質: ナトリウムー塩化物泉
     高張性 中性 高温泉
     pH 6.7  陽イオン 3943㎎/㎏  陰イオン 6456㎎/㎏
     成分総計 10610㎎/㎏

源泉温度: 42.4℃

湧出量: 60ℓ/min
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 加水 加温 循環ろ過 消毒 

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
     切り傷 やけど 慢性皮膚炎病 慢性婦人病

アパヴィラホテル 仙台駅五橋
宮城県仙台市若林区五橋3-1-1
Tel: 022-266-3111

露天ではない露天風呂

ホテル外観

温泉成分分析書

大浴場

朝食 バイキング





スーパーホテル 弘前 super hotel hirosaki

温泉名: スーパーホテル弘前りんごの湯
源泉名: 唐竹桑田源泉
泉質: 単純温泉  ナトリウムー硫酸塩
     低張性 弱アルカリ性 高温泉
     pH 7.87  陽イオン 211.2㎎/㎏  陰イオン 399.5㎎/㎏
     成分総計 676㎎/kg

源泉温度: 60.4℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削 動力揚湯
注入排出形態: 源泉より車輌運搬注湯 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進


スーパーホテル弘前
青森県弘前市土手町148
Tel: 0172-35-9000

ホテル外観

源泉成分分析書

浴場 1ヶ所で男女入れ替え制

朝食

給湯元表示

弘南鉄道 黒石線

黒石駅

駅前バスターミナル

一人の乗客

ランプの宿 青荷温泉

大広間兼食堂

参照: 温泉と観光→温泉その9→青荷温泉(夏)     温泉と観光→温泉その10→青荷温泉(冬)

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参照: 温泉と観光→温泉その9→作並温泉・・・山寺 一の坊

参照: 温泉と観光→温泉その7→不老不死温泉





函館温泉ホテル 
hakodateonsenhotel

温泉名: 函館温泉
源泉名: 函館温泉ホテル2号井
泉質: 含第一酸化鉄 ナトリウムー塩化物泉
     高張性 中性 高温泉
     pH 不明(中性)

源泉温度:68.6℃

湧出量: 不明
湧出形態: 不明
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
     切り傷 やけど 慢性皮膚炎病 慢性婦人病

利用料: 大人 550円  小人 300円
利用時間: 5.00~10.00  12.00~24.00
休日: 無休


函館温泉ホテル   2010年12月廃業
函館市大森町3-10
Tel: 0138-23-1500

温泉分析書

ホテル内 春華亭の塩ラーメン
店主?タバコ吸いながら調理する

ホテル外観

大浴場 露天風呂は無い

ホテルから函館山山頂を望む

トラピスチヌ修道院

天使の聖母トラピスチヌ修道院は、
明治三十一年(1898)フランスのウプシーにある修道院から八名の修道女が来たのが始まりです。
キリスト教伝道のためには、修道院の精神的援助が必要であると、函館教区長ベルリオーズ司教が要請していたものであった。

草創期の修道女たちの生活は困難を極め、それを見かねたフランスから引き上げが伝えられるほどであった。
現在の建物は大部分が大正十四年(1925)の火災後、昭和二年(1927)に再建されたものである。

五稜郭タワー

タワーから五稜郭

函館市街地

函館山ロープウェイ 山麓駅

函館昼景

山頂から駒ヶ岳

船の煙突が特徴の函館駅

青函トンネル竜飛海底駅

トンネル最深部通過中

竜飛海底駅 ホームが無いので
降車車両が指定されてる

竜飛海底駅

手前は共通軌道 向かい側が
狭軌と標準軌道が施設される

作業坑道や退避坑道など

坑道に設置されている空調などの扉

オープン ザ ドア

坑道の分岐

エアードリルガン

ドリルチップ

工事車両

忍者?

地上との連絡ケーブルカー

レールと鋼索

地上から海底の見学もOK

青函隧道入口 中曽根康弘筆額

掘削マシンロータリーチップ

ホテル竜飛 竜飛温泉

トンネル断面の様子

竜飛崎 津軽海峡

日本海

津軽海峡冬景色 歌詞石碑

R339 階段国道

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参照: 弘前城の桜  旅行観光見聞録→まちさんぽ→東北のいろいろ→弘前城 桜





リコルソ弘前 ricorso-hirosaki

温泉名: リコルソ温泉
源泉名: 城東温泉
泉質: 単純温泉 (メタケイ酸119.9㎎/㎏)
     低張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 8.38  陽イオン 64.0㎎/㎏  陰イオン 143.4㎎/㎏

源泉温度: 25.3℃

湧出量: 500ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒 放流式

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進

利用料: 大人500円  小人 100円  岩盤浴 400円
利用時間: 8.00~22.00  岩盤浴 10.00~22.00
休日: 無休


リコルソ弘前
青森県弘前市城東北3-10-1 さくら野百貨店4階
Tel: 0127-29-2251


19時頃の入浴でしたが客は4名ほどでゆったりと入浴出来た。
出るころにはマッサージ室に1名を残し最後であった。
浴室は広いので何となくさびしげな感じとなったが、時間帯によるものでしょうか。
そういえば津軽地方は大雨警報が発令されていて、鉄道も不通区間が出ていた。

百貨店の上階にあるのは珍しく泊り客には買い物に便利ではあるが、
初めからホテルフロアーは設計されていたのだろうか?
ホテルプランは素泊まりでしたので食材調達には困ることは無かったが、
当然閉店時間までの便利さではある。

弘前駅からは100円バスがあり、城東環状線でさくらの野百貨店で下車する。
環状線は2系統があり、和徳廻りの方が早く着くが、
最終便は大町廻りの方が1時間30分(東口発19.40)ほど遅い発車となっている。

リコルソ弘前 フロント 
入浴も同じカウンターで受付

温泉成分分析書

内湯大浴場

露天風呂

ロッカールーム

リラクゼーションルーム

環状線城東廻り100円バス時刻表

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グランティア氷見 和蔵の宿 hotel grantia himi

温泉名: グランティア氷見の湯
源泉名: 氷見天然温泉「しおさいの湯」
泉質: 含酸化鉄 ナトリウム・カルシウムー塩化物・炭酸水素塩泉
     高張性 中性高温泉
     陽イオン 10290㎎/㎏  陰イオン 26780㎎/㎏

源泉温度: 56.2℃

湧出量: 不明
湧出形態: 掘削揚湯
注入排出形態: 源泉かけ流し

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進 
     切り傷 やけど 慢性皮膚炎病 慢性婦人病

立ち寄り湯不可
入浴時間: 15.00~1.00   5.00~10.00
無休


ホテルグランティア氷見「和蔵の宿」
富山県氷見市加納443-5
Tel: 0766-73-1771

鉄分を含んで茶褐色の濃い、塩味の強い湯です。
海岸に近く海水の影響があるのでしょうか、化石温泉とは臭いが異なっています。
黄金崎温泉「不老不死」と似通った成分と感じます。

内湯はぬるめ(39度)に設定され、露天は高め(44度)で、
設定方法は注入率に依っていると思われるが、
女湯に入った報告では露天がぬるく、内湯が熱かったというので、実態はわからない。

オープンしてから年月が経っていないので、館内はとてもきれいです。
ホテル経営のノウハウを詰め込んだと見えて、高評価を与えたい。


地図検索でグランティア氷見を確認したので、楽観したのがまずかった。
イメージでは道の駅「海鮮館」の発展版「ひみ番屋街」から北大町交差点をR160方面へと。、

カーナビに入力すると対象が登録されていないので「付近を表示する」で案内開始。
(2010年更新では表示されるらしい)
ゴールに近づくと、ゴールが次々と変わる案内地獄に陥ってしまった。
カーナビ過信とは恐ろしいものです。

で、結果として気がついたことがある。
対象となる建物、店名を正確に最後まで確認することが重要だと。
つまり、店名を「グランティア氷見」と思い込み、それのみを目当てにしたことである。
正確には ルートインホテルズ グランティア氷見 和蔵の宿であった。

お判りのようにイメージの方が正確で、ナビは対象の横を通り過ぎゴールはまだ先を案内。
通り過ぎた建物には大きく和蔵の宿と表示されていた。
この表示を「年を経し頭」はnotと判断してのです。
惜しむらくは、夜で「グランティア氷見」とある表示が小さく手前の信号や電柱の陰に隠れて、
見えにくくなっていて確認できなかったことである。

プリントした予約店名に和蔵の宿を見つけ、無事チェックインできた。
ナビに連れて行かれた先には善光寺はなかったのである。

私には思い込んでしまう事が多く氷見では道路標識案内に「仏生寺」を見つけ、
寺号と勘違いし寺を訪ねてみたいと思い車を走らせたが、寺は見つからず、
人に尋ねると、仏生寺と言うのはここの土地の名前だと言われてしまった。

吉祥寺県 観音寺市 大字薬師寺 字金剛峯寺 寺の付く地名は多くありそうです。





高山グリーンホテル takayama green hotel

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温泉成分分析書

浴場入口

露天風呂

内湯大浴場

ホテル外観 駐車場から

温泉名: 飛騨高山温泉
源泉名: 飛騨高山温泉「天領の湯2号泉」
泉質: 単純温泉  (炭酸水素 346.5㎎/㎏)
     低張性 弱アルカリ性低温泉
     pH 8.2  陽イオン 295.1㎎/㎏  陰イオン 573.8㎎/㎏ 
     成分総計 918㎎/㎏

源泉温度: 32.5℃

湧出量: 380ℓ/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 神経痛 筋肉痛 関節痛 五十肩運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病 痔疾 冷え症 病後回復期 疲労回復 健康増進

利用料: 1000円(洗タオル付)
利用時間: 11.00~14.00  15.00~21.00
休日: 無休


高山グリーンホテル
岐阜県高山市西之一色町2-180
Tel: 0577-33-5500


高山周辺の1500m以上の山々が紅葉真っ盛りで、乗鞍、上高地を目指す観光で、
平日も関係なくホテルは観光バスで混んでいた。


今日はあいにくの雨で、山の頂では雪になっているらしく、
乗鞍スカイラインは交通止めとの標識が出ていた。
晴天の時は国道158を安房峠越えを予定していたが、トンネルで松本に出た。

ホテル外観

温泉成分分析書

手長足長の湯大浴場

手長足長の湯露天風呂

バイキング

本陣大浴殿

本陣大浴殿 庭園露天風呂

本陣大浴殿 庭園露天風呂

本陣大浴殿 成分分析書

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立佞武多の館   参照: 温泉その15→鰺ヶ沢温泉 水軍の宿





赤穂パークホテル AKO PARK HOTEL

赤穂城跡  大石神社  萬福寺  花岳寺

温泉名: 赤穂温泉 (供給場所赤穂パークホテル)
源泉名: 赤穂温泉御崎源泉
泉質: 含ラドン放射能 カルシウム・ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉
     高張性 中性 低温泉
     pH 6.95  陽イオン 7910㎎/㎏  陰イオン 13800㎎/㎏
     成分総計 21700㎎/㎏

源泉温度: 30.2℃

湧出量: 82.3L/min
湧出形態: 掘削動力揚湯
注入排出形態: 加温 循環ろ過 消毒

効能: 慢性皮膚病 慢性婦人病 きりきず 糖尿病 高血圧症、動脈硬化症 
     神経痛筋肉痛 五十肩 運動麻痺 関節のこわばり うちみ くじき
     慢性消化器病痔疾 冷え性 病後回復期 疲労回復 健康増進

利用料: 大人800円  小人550円
利用時間: 16.00~21.30  土日祝日 13.00~21.30
休日: 無休(問い合わせ)


赤穂パークホテル
兵庫県赤穂市さつき野36-12
Tel: 0791-43-8000


播州赤穂駅からは4㎞以上はあるのでホテルの送迎バスか路線バスで。
タクシーは便利だが自前となるとビジネスホテルを選んだ意味がない。
あの有名な元禄赤穂事件のお膝元赤穂城跡を見る予定。
ホテルからの情報では城跡では大掛かりな復元のための整備が行われているという。
城内(三の丸以内)には最近まで民家があり、それらを移転するたの政策がとられた。

近世に入っての約五十年余りの浅野家による藩政の年月ではあるが、
赤穂と云えば浅野(長矩)家、浅野家と云えば大石良雄(よしたか)と
日本人に染みついた本家顔負けの知名度を持っている。
もしも赤穂市が彦根市のように「ゆるきゃら」創ろうとしても、
上手くは行かないような気がする。
なににしろ、忠臣蔵には多くのキャラクター?が登場するからに他ならないから。


赤穂温泉は源泉を各施設に配湯しているようですが、
湧出量が82リットルとのことである。
供給先の規模によっても異なるのでしょうが、仮に十施設とすれば施設当たり8リットルであり、他に自家源泉でもなければあまりにも少ない湯量だと思う。

ホテルの利用情報では加水が無しと書かれていたので、
循環ろ過、消毒に頼りすぎているような思いがよぎる。
赤穂温泉についてはHPでこのようなことが記されていた。
「温泉成分か高いので二十倍に薄めても温泉と名乗れるだけの成分が含まれています」

ホテル掲画 「義士討入り之図」  歌川広重画  原郷右衛門、大鷲文吾、大星力 大星由由之助、堀江保兵衛





赤穂城跡

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赤穂パークホテルへ

三之丸大手門隅櫓

大手門と大手堀

大手橋と大手門

大手掘石垣 打込み接ぎ布積み

高麗門

大手門桝形

大手門 櫓門跡礎石跡の目印

櫓門復元石垣矢穴痕

新しい石材ですが工法は昔踏

櫓門石垣 武者走り

三之丸石垣 武者走り

番所跡(休憩所) 復元

大手門から二之丸三之丸への大手道

近藤源八邸跡長屋門

大石良雄邸跡長屋門


  赤穂城跡 国指定史跡
赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張りされた城であり、本丸、二之丸、三之丸の全ての郭が残された
貴重な近世城郭遺構であることから、昭和四十六年国史跡に指定されました。
現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直が寛文元年(1661)にほぼ完成させたものである。

城は熊見川(現在の千種川)河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城で、変形輪郭式の平城である。
縄張りは藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左兵衛門正純が行い、十二の城門と重の隅櫓を築いた。
本丸には藩邸や、池泉回遊庭園、天守台が、二之丸には大石頼母助良重の屋敷や、
錦帯池を中心とした二之丸庭園、遊水池、米蔵、馬場などがあった。
また、三之丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、
城と熊見川との間には藩の米蔵と船入りが備えられていた。

現在では大石良雄邸跡長屋門と近藤源八邸跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。
城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が施設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。
上水道の余水は、邸宅の設けられた庭園池泉にも使われた。
池泉庭園の内「本丸庭園」と「二之丸庭園」は江戸時代の大名庭園「旧赤穂城庭園」として、平成十四年に国の名勝に指定された。


  大手門桝形
赤穂城の表虎口である大手門は、石垣を方形に積上げた桝形と高麗門、櫓門の二重の城門を備えた最も厳重な桝形門であった。
桝形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺十間(約19.8m)、
短辺六間(約11.8m)、面積約234㎡である(今は十間は18.2m、六間は10.9mなので長辺十間は十間五尺4寸)。
現在ある高麗門は、隅櫓、土塀とともに昭和三十年に再建されたものである。
桝形石垣は、明治十九年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、
文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成十五年に石垣の修復及び周辺整備が完成した。

発掘調査によって、桝形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水溝、大石内蔵助屋敷土塀石垣など
多くの遺構が見つかっている。
櫓門は、幅四間半(約8.9m)、奥行き二間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに仮石を埋め込んで礎石の位置を示している。
また、門の前後では川原石を並べた霰(あられ)敷きの雨落ち施設も見つかっている。
この休憩所は、発掘調査で検出された番所跡に位置し、ほぼ同規模の番所を模して建てられたものである。
当時、番所には門番として足軽三名、下番二名が詰め、大手門の警備にあたっていた。


  近藤源八正憲邸跡長屋門 市指定有形文化財
近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、家禄千石番頭の重職にあった。
源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義名盟には加わらかった。
源八の父である三郎左衛門正純も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。

近藤源八邸跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分である。
門部分は、大石良雄邸跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、
長屋部分を四戸分に分け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。
現在は、その内の北端部の一戸とその南隣の一戸の北端の一部屋が残されている。
この長屋門は、十八世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当寺は総二十一間(約42.3m)の長大な長屋門であった。

城内に残された江戸期の建物は、大石良雄邸跡長屋門とこの近藤源八邸跡長屋門のみであり、
礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁などの一部を保存し、平成十一年三月に解体復原整備が完了した。
入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤が当時の生活ぶりを偲ばせている。
また、簀子野地天井は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し枡と共に人気が高い。


  大石内蔵助良雄邸跡長屋門
大石邸長屋門は、赤穂藩浅野家筆頭家老・大石内蔵助の一家三代が五十七年にわたり住んでいた
大石屋敷の正面門長屋である。
間口26.8m、奥行4.8mの建物で、屋根瓦には双ツ巴の大石家の家紋がついており、
元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業をしのぶ唯一の建物となっている。
かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄十四年三月二十日未明主君浅野長矩の刃傷による
江戸からの悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。

安政三年(1856)に大修理が行われ、大正十二年国の史跡に指定された。
更に昭和三十七年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和五十二年十一月から国、県および市の負担により、
総工費三千百三十八万余円をかけて全面解体修理を行い、昭和五十三年十月末に復元完了した。

                                             案内説明より

大石邸入口門

大石邸跡 大石神社儀式殿参集所

大手門と隅櫓 古写真

奥野将監定良屋敷跡

武家屋敷公園 薬医門

武家屋敷公園 建屋位置表示

武家屋敷公園 二之丸門跡より

片岡源五右衛門高房屋敷跡

二之丸堀

清水門跡

清水門跡より東隅櫓石垣台

武家屋敷公園

二之丸門 古写真


  三之丸 武家屋敷公園
元禄十五年(1702)の赤穂城内侍屋敷図によれば、家老格の重臣の屋敷は、城の重要な門の近くに配置されていました。
城の守りのため、重臣たちにそれぞれの門の警護を受け持たせていました。
ここは清水口のおさえとして、坂田式右衛門(八百石・組外・準家老格)の屋敷の在ったところです。
この武家屋敷公園は、総面積2800㎡、建屋面積340㎡で、武家屋敷門、築地塀、井戸屋形、杉皮葺東屋を配し、
江戸時代の武家屋敷の様子を表現しています。


  奥野将監定良屋敷跡 組頭 家禄千石
大石内蔵助良雄とは親戚筋になり、内蔵助を補佐し敵討ちの中心人物となるが、主眼は敵討ちより浅野家の再興にあった。
元禄十五年(1702)七月二十八日の討ち入りを決定する円山会議(京都安養寺塔頭・重阿弥)に欠席し、
数日後脱盟し討ち入りには参加しなかった。
屋敷は清水門をくぐり左手にあり、表口三十二間(約58.2㎡)、奥行三十五間(約63.6㎡)の広さをもち、
大石内蔵助宅程度の長屋門があった。


  赤穂城・清水門跡
清水門は幅二間、奥行七尺七寸、建坪四坪のもので、「赤穂城引渡一件」文書ででは、川口門ともいわれた。
門を出ると板橋があり、付近には蔵屋敷(米蔵)、川口番所、御薬煙場があった。
門の内側には、敵兵の直進を防ぐために蔀(外から中が判らないようにするための施設)が備えられ、
また、門の南の石塁と二之丸東北櫓との間の二之丸堀には、六間一尺五寸の柵も設けられていた。
なおこの門は、開城後の大石内蔵助が元禄十四年(1701)四月十九日に、幕府へ城明け渡しの後、
名残を惜しみつつ退城したことで有名な門である。


  二之丸門跡
ここは赤穂城二の丸門のあった場所である。
浅野長直に仕えて赤穂に滞在していた軍学者・山鹿素行が、築城工事中の承応二年(1653)
この門周辺の縄張りの一部を変更したことで知られている。
赤穂城二之丸の面積は一万七千二百五十九坪であった。
二之丸門は櫓門で、桁行四間半、梁行二間、口幅三間一歩、高さ二間、建坪九坪という規模であった。

また、文久二年(1862)十二月九日に、赤穂藩主森家の国家老・森主税が、
藩政に対して意見の異なる藩士たちに暗殺されたのがこの付近である。
いわゆる「文久事件」である。
この事件は、明治四年(1871)に和歌山県高野山で起こった「高野の仇討ち」の導火線ともなった。
ここに置かれている半畳程の二つの大きな石は、
小石を持って叩くと、「かんかん」という音を立てることから、誰言うとなく「かんかん石」と呼ばれている。

  
  片岡源五右衛門高房屋敷跡 家禄三百五十石
源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。
出世加増の少ない元禄時代に、初め百石であった俸禄が、十九歳で二百石、二十四歳で三百石、
元禄十二年(1699)正月には、三十二歳で三百五十石を給せられている。
元禄十四年(1701)三月十四日、内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で共待中、
主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え事態の収拾にあたった。

田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源右衛門に気づいたが、主従共に声はなく、
今生の別れを惜しんだのであった。
討ち入りの時は表門隊に属し、富森助右衛門、武林唯七と三人組み合って、真っ先掛けて屋敷内に踏み込み、
朱柄の十文字槍をふるって戦った。
事件後熊本細川家に御預けの後、二宮新右衛門の介錯で、従容として切腹した。


  山鹿素行銅像
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行(1622~1685)は、承応元年(1652)から万治三年(1660)の間、
赤穂藩主朝浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二之丸虎口の縄張りを一部変更し、
家中に兵法を指南した。

その後、寛文五年(1665)に聖教要録」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年(1675)まで赤穂に配流され、
二之丸内の家老大石頼母助邸の一隅に謫居した。
配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全」「中朝事実」「武家事紀」「謫居童問」など、
素行の学問を代表する大著を完成している。
大正十四年(1925)、謫居跡に建立された素行先生の銅像は、平成十年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。

                                         案内説明より 

二之丸門跡

二之丸 山鹿素行銅像

二之丸花見公園(元禄桜苑)

二之丸 大石頼母助屋敷門

本丸東横矢枡形石垣

本丸南横矢桝形石垣

水手門跡 渡橋

水手門堀の黒鳥

刎橋門跡 埋門

米蔵跡(休み処)

二之丸遊水池

二之丸庭園 復元整備中 非公開

二之丸庭園

西仕切門


  大石頼母助良重屋敷門 薬医門(一間一戸脇門付、木造・切妻造・本瓦葺、桁行3.18m・梁間1.91m・軒高2.88m・棟高4.55m)
大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。
赤穂藩主浅野長直に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。
山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で八年余りを過ごしたという。

平成十年から十三年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、
頼母助屋敷の門跡の外土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。
門は発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、
医薬門形式の屋敷門として平成二十一年三月に整備された。


  水手門
瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や水運を利用した平城の海城が多数みられます。
かって赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南に葦原が広がる干潟に面しており、
満潮時には海水が石垣まで迫っていました。
水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着き場の雁木」や船を波から守る「突堤(波止場)」など、
海城の特徴を伝える貴重な施設が発掘調査の基づき復元されています。
ここから搬入された米などの物資は、二之丸内の米蔵などに蓄えられ、藩の財政を支えたのです。


  米蔵
米蔵は、米など穀物の集積所または備蓄倉庫として、城内二之丸内に建てられました。
古絵図や古文書などによると、かってこの場所に二棟ないし三棟の米蔵が建っていたと記されています。
赤穂浅野家断絶時の赤穂城請取の記録によると、二之丸内米蔵には千二百四石四斗(四斗俵で三千三十六俵)
の残米があったと記されており、いかに大きな建物であったかがわかります。
現在の姿の米蔵は発掘調査で出土した一棟を盛土によって保護した上、外観を疑似復元し休憩所として整備したものです。
内部の壁面には、米俵の荷ずれ防止のため、「荷ずり木」をはめ込むなど、往時の蔵内部が理解できる造りとなっています。


  遊水池
赤穂城下一帯は、堀井戸では海水が湧き出して飲料水の確保が困難でありました。
そのため、慶長十九年(1614)から元和二年(1616)にかけて熊見川上流から隧道を掘り抜くなどの工事を行い、
城内および城下の各戸にまで給排水されていました。
これが赤穂浪士と並び全国に名高い「赤穂旧上水道」です。
城内の赤穂旧上水は竹管・木樋や備前焼土管などにより、各屋敷や池泉に給配水された後、
本丸の堀に至り、この遊水地によって堀の水量は調整され、余水は排水路を経て城外(海側)に排出されていました。

現在の姿は、発掘調査により明らかになった遊水地及び排水路の遺構を盛土により保護し、
その上部に往時の遊水・排水機能とともにその姿を疑似復元整備したものです。
遊水池は赤穂城跡公園内で水生植物や野鳥の観察など身近な自然体験ができる親水空間でもあります。


  西仕切門  棟門(一間一戸脇門付、木造・切妻・本瓦葺 桁行3.03m・梁間1.08m・軒高3.33m・棟高4.61m)
西仕切は二之丸を南北に二分する城壁で、低い石垣の上に土塀を巡らしたものである。
門は西仕切が屈折した部分に設けられており、発掘調査の結果、控柱付きの棟門であったことが判明した。
この西仕切門は、文献資料や絵図などによれば「透シ門」などとも呼ばれていることから、
門扉の一部に横板を張らない構造であったことがわかっている。
こうした城門の構造は、戦の際に扉の縦格子から門前の敵兵の様子を窺い、攻撃を加えるための工夫といわれ、
松山城や熊本城をはじめ近世城郭にしばしば用いられていた。
平成二十二年三月に復元された。

                                          案内説明より

家臣屋敷跡 未整備

大野九郎兵衛知房屋敷跡


  鈴木重八屋敷跡
初め討ち入りの企てに加盟し、元禄十五年十月晦日に江戸下向したが、十一月二日には脱落した。
江戸における替え名は玉野平八。
屋敷は、東隣に片岡源五右衛門宅、西隣に田中貞四郎宅に挟まれ、
表口十六間(約21.1m、奥行十八間(32.7m)の広さがあった。


  寺井玄渓屋敷跡 藩医者 三百石十五人扶持
元禄十三年(1700)京都で町医者をしている時、浅野内匠頭長矩に見いだされ、赤穂藩医者として召し抱えられる。
元禄十四年(1701)三月十四日の刃傷時は二年足らずの新参家臣であったが、
大石内蔵助良雄とは意を同じく討ち入りの企てに参画し、再び京都で町医者を開業した。

元禄十五年(1702)七月二十八日の円山会議で決定した江戸への下向は、息子玄達を同行させた。
吉良邸討ち入りの前後、赤穂義士とも親交が厚かったせいか、手紙のやり取りが多く残されている。
屋敷は、表口十四間(約25.4m)奥行十九間半(約35.4m)の広さであった。
また、この地とは別に間瀬久太夫宅とお互い入れ代った絵図や刈部弥二郎宅と記された絵図もある。


  磯貝十郎左衛門正久 側用人百五十石
十郎左衛門は、旗本松平隼人正の家臣、磯貝権左衛門の三男として江戸で生まれた。
生れついての美男子で、幼い頃から能や琴などの遊芸にすぐれ、ことに鼓の妙手であったという。
京都愛宕山教学院の稚児小姓となっていたが、十四歳の時父権左衛門と懇意であった堀部弥兵衛の推挙で
浅野内匠頭長矩公の小姓となった。
長矩公は、この聡明な美少年をことのほか寵愛したという。

十郎左衛門 は、次第に重用され、十年の間に物頭まで進み、百五十石を給されるまでになった。
この間、児小姓頭であった片岡源五右衛門とは特に親しく、年齢の差を越えて刎頸の交わりをしたと伝えられ、
元禄十四年(1701)三月十四日の長矩公切腹以後、常に源五右衛門と行動を共にした。
討ち入りの時は、裏門組に属し、手槍を揮って活躍した。
肥後熊本細川家にお預けののち、吉富五左衛門の介錯で切腹したが、
死後、遺品の中に、紫縮緬の袱紗に包まれた琴の爪が一つあったという。


  田中貞四郎屋敷跡 手廻頭百五十石 
浅野内匠頭長矩の側近。
主君長矩公の遺骸を引き取って、一関藩田村邸から高輪泉岳寺まで見送った六人の藩士の一人である。
藩主長矩公の用人である片岡源五右衛門高房らとともに髻を切り落として、主君への殉死の意を示すと共に、
吉良上野介義央への復讐を誓った家臣である。
初め討ち入りの企てに加盟していたが、直前の元禄十五年(1702)十一月七日になって脱落した。
江戸における代名は、田中玄四。
屋敷は塩屋門を入り左手の間瀬久太夫屋敷の東隣にあり、表口十四間(約25.4m)奥行十七間半(約31.8m)の広さであった。


  神尾専右衛門屋敷跡
専右衛門の素性は不明で、元禄十五年(1702)十一月四日に赤穂城の在番であった
播磨国龍野藩主脇坂淡路守安照(城受け取り使)が永井伊賀守直敬(浅野家改易後の赤穂藩藩主)に渡した
「赤穂城内侍屋敷間数図」しかわからず詳細は不詳である。

なお、神尾専右衛門は、元禄十三年二月二十七日付の浅野家分限帳に
神尾弥左(右)衛門(高瀬運上奉行、目付、七両三人扶持)が見受けられるが、城内屋敷地は重臣宅が多く、
俸給からすると同一人物かどうか疑問が残る。

屋敷は塩屋門を入り右手側にあり、表口は十四間(約25.4m)、奥行二十四間(約43.6m)の広さで、
他に菅仙右衛門(二百五十石、藩札座奉行)や磯貝十郎左衛門正久(百五十石、用人)屋敷と記された絵図も残っている。


  間瀬久太夫正明屋敷跡 大目付二百石
久太夫は、大石内蔵助と共に重職義士五人のうちの一人である。
藩士たちの行動の理非を糾し取り締まる大目付であったので、非常に厳格正直な人柄であったと伝えられている。
小野寺十内とは従兄、中村勘助の叔父にあたり、嫡子の孫九郎と共に吉良邸に討ち入った父子組の一人である。
城明け渡しのときには、内蔵助を助けて受城使との折衝にあたり、開城後も引き続き残務整理にあたるなど
内蔵助が頼みとしていた長者の一人であり、内蔵助の良き相談相手であった。

元禄十五年(1702)七月二十八日、京都円山で会議がもたれ、討ち入り決行が決議されたが、
この席上、日頃寡黙な久太夫が自ら進んで意見を述べ、内蔵助の決断を促したと伝えられている。
討ち入りの時には、腹惣右衛門とともに内蔵助の傍らにあって司令部を構成、半弓を携え表門内を守ったという。
肥後熊本細川家にお預けののち、本庄喜助の介錯で切腹した。


  大野九郎兵衛知房屋敷跡 家老六百五十石
大野九郎兵衛知房は、赤穂藩浅野家家老の一人で禄高は六百五十石であった。
経済手腕を認められて召し抱えられたと云われている。
元禄十四年(1701)三月、浅野長矩の江戸城殿中刃傷事件後、筆頭国家老大石内蔵助や足軽頭原惣右衛門らと意見を異にし、
赤穂城明け渡し前の四月十二日に夜陰に紛れて赤穂から出奔した。

大石内蔵助らが討ち入りに失敗した場合の第二陣として備えていたという伝承もあり、
その墓碑と称するものが全国に数箇所存在している。
しかし実際は京都付近で世を去り、黒谷に葬られたという。
ちなみに、仮名手本忠臣蔵では九郎兵衛を斧九太夫に、倅、郡右衛門を定九郎に擬している。

                                           案内説明より

鈴田重八屋敷跡

寺井玄渓屋敷跡

磯貝十郎左衛門正久屋敷跡

田中貞四郎屋敷跡

神尾専右衛門屋敷跡

間瀬久太夫正明屋敷跡

塩屋門跡

塩屋門櫓台上の良寛歌碑
やまおろしよ いたくなふきそ しろたえの ころもかたしき たびねせし夜は

西隅櫓台跡石垣

西南櫓台跡石垣

干潟門跡と三之丸堀

西中門跡 修復中

塩屋門跡櫓台石垣

塩屋門三之丸堀跡 埋立道路

三之丸堀石垣天端石の崩壊

三之丸堀 外石垣根石等発掘調査 

北横矢桝形石垣 埋立て側より

三之丸堀 外石垣根石等発掘調査


  塩屋門跡
塩屋門は赤穂城搦手の門である。
口幅二間二歩、高さ二間半、建坪五坪で、門を入ると正面に番所、その裏には長さ十三間二尺、高さ二間半、幅二間半の
石垣で取り囲まれ内桝形をなしていた。
この桝形内に太鼓櫓があって、この門内外の侍屋敷に合図を行った。

門の向きは南寄りの西向きで、足軽二人、下番二人、三道具(突棒・刺股・袖搦)一組が配置されていた。
元禄十四年(1701)三月十九日、、朝野内匠頭長矩公の刃傷・切腹を報らす第一報(早水藤左衛門・萱野三平)
第二報(原惣右衛門・大石瀬左衛門)の早使の入ったのもこの門である。
四月十九日城請取りの備中足守藩木下肥後守の軍勢が入城したのもこの門である。


  赤穂城三の丸北西横矢桝形外堀発掘調査
赤穂城三の丸北西桝形の外堀付近は、明治初期より田畑・宅地になっていましたが、
発掘調査によって堀の護岸が確認され、堀の幅を確定することができました。
堀幅は約16.2m、護岸高さ約1.2mの野面積みで、一部打込み接ぎも確認されています。
護岸付近には武家屋敷があったので、元和二年(1616)に完成したと云われる上水道の汲み出し桝や、
給水管も発見されています。
この案内図では、発掘調査によって確認された堀護岸を模式図で表わし、現在地表にもモニュメントとして表現しています。

                                              案内説明より

北横矢桝形石垣 大手門堀方面

赤穂城本丸 庭園 天守台

赤穂藩主永井家本丸御殿絵図


  赤穂城本丸
赤穂城は正保二年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から赤穂に入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、
慶安元年(1648)より十三年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。
本丸は、中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南に庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の三門を持つ。
天守台には天守は当初から築かれず、四箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配された。

本丸の面積は約15,114㎡あり、その2/3は領主屋敷、番所、倉庫などの建物と天守台、池泉などに占められ、
残る1/3はくつろぎ(池泉を発掘調査)と呼ばれる空き地になっていた。
当時の藩邸(御殿)は、右手(西)から大部屋を主とする表御殿、中奥、小部屋を主とする奥御殿に区分されていた。

表御殿は大書院と小書院を組み合わせた形式で、広間は使者の間と組み合わさって控室となり、
そのほか勘定所や上台所が加わり、藩庁として使われていた。
中奥は、藩主の居間と寝室からなり、台所が付属していた。
奥御殿は藩主の寝間と五室の部屋(局)と台所が設けられ、うち二室は風呂と便所を備えていた。

復元された御殿は、浅野家断絶後入封してきた永井家の史料である「赤穂御城御殿絵図」(東京大学史料編纂所蔵)をもとに、
赤穂城本丸内水筋図(赤穂高等学校蔵)、赤穂城引渡一件文書の播磨国赤穂城内本丸建屋改帳(花岳寺蔵)、
発掘調査の成果などを考察して、建物跡を床高だけ高くし、コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、
板間、座敷間、土間、敷居、廊下、柱、縁などを表現した。
また坪庭跡には木陰をつくるため、中高木を植栽した。


  本丸門
二之丸から本丸に通じる正門である。
高麗門と櫓門とからなる桝形形式の門で発掘調査や古写真などをもとに平成八年に復元完成を見た。
高麗門は、木造切妻造り・本瓦葺で、間口二間二歩、建坪六坪である。
櫓門は、木造入母屋造・本瓦葺・白漆喰壁で、桝形城壁には多数の矢・鉄砲狭間が設けられている。
桁行七間、梁行二間半で、内側城壁から櫓に上ることができ、上部から進入した敵兵を攻撃することができた。


  厩口門  高麗門 木造切妻造・本瓦葺、桁行3.85m、梁間2.73m、軒高4.66m、棟高6.13m
浅野家時代には「厩口門」、森家時代には「台所門」と呼ばれていた。
廃城後に失われ、後には県立赤穂高等学校の通用門として周辺石垣も改変されていた。
平成八年に実施した発掘調査によって、門の礎石・地覆石などが良好な状態で見つかり、
高麗門形式の門であったことが判明した。

また、絵図史料などから、本丸門の高麗門と同規模であったことがわかっており、発掘遺構ともよく合致している。
これらの資料をもとに、平成八年から十三年に門、橋、土塀及び周辺石垣が復元整備された。
また、門に向って左の石垣は曲面を描き、さらに横矢桝形を設けるなど、その縄張りは大きな見どころとなっている。

                                            案内説明より

天守台登り石段

天守台より運動公園

天守台より本丸櫓門

本丸庭園

天守台

天守台

刎橋門跡

厩口門本丸堀

厩口門と厩橋 Web写真より

旧赤穂上水道 瓶枡

旧赤穂上水道 角枡

西北横矢桝形石垣

本丸御殿位置表示 手前式台玄関

本丸門 高麗門

本丸門桝形櫓門

櫓門 櫓扉

櫓門内部

櫓門内部木組み

天守台より本丸





大石神社

大石神社社号標 奉納御神灯

寺坂吉右衛門 唯一の生存者

正面参道鳥居

御神門

浅野家家紋 神門扉

大石家家紋 神門扉

大黒 七福神

恵比寿 七福神

拝殿

楠正成公 屋根瓦家紋
(旧湊川神社社殿)

赤穂義士宝物館

拝殿 向拝蟇股の大石家家紋

境内参道のハート埋標

手水舎

東参道鳥居 右側大石邸庭園

忠魂 義膽(胆)の石標

両国橋の大高源五と宝井其角


  大石神社  御利益 大願成就
御祭神  大石良雄をはじめ四十七義士命、中折の烈士菅野三平命
      播磨赤穂藩主 浅野内匠頭長直・采女正長友・内匠頭長矩の赤穂藩主三代
      赤穂藩藩主森家の祖武将、森可成・可隆・長可・忠政・成利(蘭丸)・長隆(坊丸)・長氏(力丸)の七命

大石神社は明治元年(1868)、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に
神社奉斎の議が起こり、明治三十三年(1900)神社創立が公許され、大正元年(1912)十一月三日、
義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。
御祭神四十七義士が一年十ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により、
大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。

境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の屋敷跡一帯である。
尚、社殿をはじめとする境内各施設は、平成十四年の義士討ち入りを記念した境内整備事業により一新された。

  赤穂義士資料館
境内には四十七義士の討ち入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、
義士自刃二百五十年を記念し、当代一流の彫刻家による浅野長矩公像をはじめ四十七義士の木像を納めた義士木像奉安殿、
大石内蔵助邸長屋門・同庭園の四ヶ所が資料館として拝観できる。


  赤穂義士宝物殿
この建物は、大正の初め楠正成を祀る湊川神社の宝物館として建設されたもので、
かっては国宝の法華経奥書を始め、大楠公ゆかりの宝物が展観され、
昭和二十年の神戸大空襲に遭っても唯一戦災を免れた、由緒深い建物である。
建物面積は90㎡、桧材木造千鳥破風飾屋根入母屋造で、唐破風車寄せ付平屋建て。

屋根瓦は楠正成菊水の紋もそのまま再現され、内部には大石家に相伝する討ち入り関係遺物を始め、
義士ゆかりの宝物が展示されている。
大石神社では先に神門が湊川神社から移され、その後、この建物が移築され、楠公と大石という二大忠臣義士を結ぶ縁は、
いよいよ強いものがあると認識せざるを得ない。

  寺坂吉右衛門信行
赤穂四十七義士の内四十七番目に位置する義士である。
赤穂藩士ではあるが陪臣の地位にあったため、長矩公御目見えの栄誉をうけた事は無かったと云われている。
したがって、大石神社参道義士像では末席に置かれている。
ただそれが幸か不幸か大石を始とした義士たちから直臣として扱われず、唯一生き延び、赤穂事件後四十年余りを生きた。
享年八十三と云われている。

寺坂の生き様は映画・ドラマ「最後の忠臣蔵」として一般に知られるようになったが、これは小説の中のことである。
後に仮名手本忠臣蔵として世に知らしめたフィクション・ノンフィクションのかなりの部分は寺坂の功績であったのかもしれない。


  大石瀬左衛門信清屋敷跡 馬廻役百五十石
大石神社参道付近は大石瀬左衛門の屋敷があったところである。
元禄十四年三月十四日の夜、瀬左衛門は原惣右衛門と共に早駕篭に乗り、
主君浅野内匠頭長矩公切腹に報を、国元の赤穂に伝えるため江戸を立った。
主君刃傷の報はすでに同日夕方、早水藤左衛門、萱野三平による第一の急使が携え赤穂に向かって出発している。
三月十九日午後八時ごろ、主君切腹の報は、瀬左衛門と惣右衛門によって赤穂城にもたらされた。

瀬左衛門は、大石内蔵助とは遠い親戚で、祖父が内蔵助の曽祖父の弟にあたり、
剣を潮田又之丞とともに、内蔵助の剣の師でもあり、東軍流の剣豪として知られていた奥村無我に学んだという。
急使として赤穂に到着した後、瀬左衛門はそのまま赤穂に留まって内蔵助に従ったが、城明け渡し後は京都に移り住み、
元禄十五年十月初旬には討ち入り決行のため、大石主税、小野寺十内、間瀬久太夫らと共に江戸に入り、
吉良方の偵察にあたった。
討ち入りしたときは、裏門隊に属し、熊本藩細川家にお預けののち、熊本藩士・吉田孫四郎の介錯で切腹した。 


  神門 (義芳門)
この門は東の楠公、西の大石と称される我が国の二大忠臣義士の内、
楠正成公をお祀りする神戸の湊川神社の神門であったものを昭和十七年移築したものである。
明治天皇の思召しで明治五年湊川神社が創立せられた時建てられた欅材・入母屋造の四脚門で、豪快な門である。
幸い義士発祥の当地に移されていたため過ぎる大東亜戦争の神戸大空襲にも焼失を免れ、
今日百有余年を経てなおその威容を誇っている。

なおこの門は義士の忠芬義芳を千歳までも伝える意味で「義芳門」と称している。
門扉に掲げられている家紋は浅野家と大石家の家紋である。
赤穂藩浅野家の家紋は「違い鷹の羽」紋ですが、安芸広島本家も同じ「違い鷹の羽」紋です。
ただし若干の違いがあり内匠頭の家紋は「丸に斑入り違い鷹の羽」紋で、左の羽根(右上がり)が右羽根にたすきに重なり、
羽根に虫食いのような点々があるので「虫食い鷹」ともいう。

大石家家紋「二つ巴」紋は「右回り二つ巴」で水のふくらみが上下で向き合っているのが正しい。
「左回り」のものも多く見受けるが間違いである。
巴紋の右・左回りは図案的には火の玉、流れ星の感覚ですと赤穂藩浅野家家紋は右に廻って見えますが、
丸い渦巻を描いて渦巻きをどちらかに進めようとする方角が渦巻きより右手に行けば右回り、左手に行けば左回りです。


  大黒様と恵比寿様 赤穂義士討ち入り三百年記念木像奉安
この恵比寿・大黒二神像は平成十四年の赤穂義士討ち入り三百年を記念して、赤穂市に本社のあります
(株)オオキコーポレーションが大石神社参拝の皆様に「福}をお授けいただけるようにと寄進、奉安した御神像であります。
作者・製作日時などは不明ですが、一本の肥え松の上部で「恵比寿」、下部で「大黒}を彫った一木造りの像で、
台座からの高さ4m、重さは約3トンであります。
この恵比寿・大黒二神像により皆様に福徳円満・開運招福・商売繁盛をもたらすことを祈念いたします。


  社殿廻廊の奉納絵馬「両国橋の大高源五と宝井其角」 松の廊下から泉岳寺までの忠臣蔵物語
討ち入りの前日笹竹売りに身をやつした大高源吾は吉良邸の偵察に出かけ両国橋まで来ると、
俳句友達に宝井其角とばったり会った。
其角は源吾のやつれたその日暮らしの姿を見て句を詠んで羽織を着せてあげたという。

「年の瀬や 水の流れと 人の身は」
年の終わりの年の瀬、両国の流れも海に行く年の瀬だ、人の身も貧しさゆえに(源吾)また年の瀬に向かって流れていくのか
と一句を詠んだのに対して
「あしたまたるるその宝船」
強い忍耐と決意によって我は人生の年の瀬を迎えることがまちどうしい、そこには年の瀬を走る宝船があるのだから
と源吾が詠み返し別れを惜しんだという。


  浅野内匠頭長矩刃傷・切腹・浅野家改易の報
主君刃傷の悲報は第一の早打ち早水藤左衛門・萱野三平の両名によって江戸から赤穂までの百五十五里(約610㎞)、
普通なら十五・六日(約380時間)もかかるところを僅か四昼夜半(約110時間)でふっ飛ばし、
三月十九日の午前六時ごろ城内大石屋敷に駆け込んだ。
続いて第二の急使原惣右衛門・大石瀬左衛門の両名が午後九時ごろ到着、長矩切腹を知らせた。


  南部坂雪の別れ
討ち入り前日(十二月十四日)大石内蔵助良雄は赤坂南部坂上にある三次浅野家屋敷に、
明け暮れ内匠頭の菩提を弔い、大石らの仇討ちを待っている搖泉院を訪ね今夜半吉良邸へ討ち入り、、
主君の怨みを晴らす決意を告げようと訪れたが、万が一討ち入りの秘密が漏れることを恐れ、
遥泉院の不興を承知のうえで、西国大名に仕官するためお別れに参りましたと嘘の口上申し上げた。
その上で、これまでの数々の御援助や御厚情に感謝し、その決算書と偽り同志連判状を残して別れを告げ立ち去ったという。


  永代橋から引き揚げ泉岳寺へ
吉良上野介の白髪首を挙げた内蔵助ら四十七士は吉良邸裏門に近い無縁寺へ向かい休息するつもりでいたが、
未明の騒ぎや一同の異様な風態に御咎めの恐れをなした回向院では、
開門する時間にいたらずの理由で境内の立ち入りを拒んだ。
一同は是より直接浅野家菩提寺である泉岳寺へ向かうこととし、吉良邸近くの両国橋を渡らず隅田川沿いを進み、
新設成った永代橋を渡って泉岳寺へ向かった。

                                         案内説明より

  

境内社合祀殿

義士發祥之地(第一次田中角栄総理大臣揮毫)と心響石


  境内社合祀殿
国助稲荷之社  淡嶋之社  恵比寿之宮  天満之宮  山鹿之社  八田之社  忠魂之社

  国助稲荷之社
宇迦乃御魂をご祭神とする国助稲荷は、失せ物、落し物を見つけるに霊験あらたかと信仰を集めている

  淡嶋之社
和歌山加太に鎮座の淡嶋明神を勧請したもので、特に婦人の諸病に霊験あらたかと信仰され、
毎月三、十三、二十三の縁日には婦人の参詣が多い。
例祭は十月三日

  恵比寿之宮
商売繁昌の神、毎年一月十日に商売繁昌・社運隆昌を祈念する祭典が行われる。
尚、以前の社殿は赤穂市内田町に移築した。

  天満之宮
学問・書道上達の神。
毎年七月二十五日の天神祭には奉納の献書をボンボリに吊るし、多くの参拝者で賑わう。

  山鹿之社
山鹿流兵学の創始者・山鹿素行之命を祀っており、その影響にてやがて四十七義士が生まれたと云われている。

  八田之社
塩田の守護神。
赤穂塩田の大地主・八田四郎右衛門が安芸の宮島から厳島大明神を勧請してお祀りした社である。

  忠魂之社
もとは赤穂霊社、旧制赤穂中学校出身者で大東亜戦争に散華した尽忠護国の英霊を祀ったのが始まりで、
旧赤穂町出身の明治以降の英霊を併せ祀っている。


  浅野家・大坂蔵屋敷の舟石
この舟石はその昔、赤穂藩浅野家、大坂屋敷(現 大阪市北区中之島四丁目常安橋付近)の庭にあったものである。
大きさは長さ3m、巾1.2m、重さ約2tの自然石で、水穴は長さ1m、巾60㎝の花崗岩の一枚石である。
この石によって蓬莱山の不老不死延命長寿の秘薬を求め、金銀財宝を得んとする中国の神仙思想から
大名屋敷や寺社の庭園に据えられたものである。


  国歌君が代に詠われる「さざれ石」
国歌君が代のさざれ石は長年岩が(石灰岩が地下水などによって溶け小石の隙間に入り込みコンクリート状に固まったもの)
付近の小石を接着し大きな塊になったものであり、年と共に成長しやがて巌となり神霊の宿る石として信仰があります。
岐阜県春日村で産出する天然記念物のさざれ石が有名であるが、
この度奉納頂いたのは地層が同質の徳島県海南町中部山渓より採り出されたさざれ石である。
ご参拝の皆様にこのさざれ石から霊力が授かるよう祈念いたします。


  癒しの音色「心響石」
この心響石は四国高松市の西で産出し、ドイツの地質学者・バインシェンクにより、
讃岐岩質安山岩「サヌカイト」と命名されている。
大石神社では心に響く美しい音色から「心響石」と名付け、
参拝の皆様がこの石を叩くことにより心を癒していただければ幸いです。


  義士發祥之地記念石碑 赤穂ロータリークラブ奉贈
昭和四十八年十一月、赤穂ロータリークラブ創立二十周年にあたり、
田中内閣総理大臣(第六十四代)による揮毫を赤穂城の塁石にそれを刻して記念としてこれを建てた。
碑石の大きさは横幅五メートル、高さ一メートル、厚さ30㎝、重さ三・五トンであり、築城当初に使用された巨石である。

                                         案内説明より

大石神社 大石内蔵助良雄銅像

境内社殿両脇狐狛犬

筆塚

奉納 干支十二支

奥から亥子丑寅卯辰巳

赤穂藩浅野家大坂屋敷の舟石

さざれ石





浄土真宗大谷派 大嶋山萬福寺

通用門 棟門

庫裡 寺務所


  浄土真宗大谷派 大嶋山萬福寺
浄土真宗本願寺八世・蓮如上人が西国山陽道の手始めに播磨に布教活動を開始するにあたって府中で活動拠点をえた。
その地に上人の弟子を向かわせ布教のために道場を開いた。
それぞれの道場には弟子(六人)をおき一寺を開かせて、布教活動を進めることとし、
開基した六寺は播磨六坊と呼ばれている。
上人の高弟(浄覚、順念、祐全、善祐、空善、誓元)の内誓元が播磨国府中英賀(姫路市)に開基した寺が萬福寺である。

その後、寺地は那波大嶋(相生市)に移り、信長との抗争を避けるように更に西の現在地加里屋(赤穂市)に移った。
現在寺には堀部弥兵衛(安兵衛の義父)、矢頭右衛門七、間喜兵衛、大高源吾、不破数右衛門などの遺墨(文書)残され、
また、吉良邸討ち入りの年の六月お家再興の望みが消え、討ち入り決定会議の前に決意を新たにした大石内蔵助良雄より
萬福寺に奉納金三十両の寄進をうけた赤穂義士ゆかりの寺である。
寺は明治の末に一部を残して焼失し、その後再建された。

                                           案内説明より

半鐘 (喚鐘)

山門の衝立塀と飾り松

経堂

本堂傍らの聖徳太子像?

防鳥網 龍の彫刻

ここにも防鳥網

鐘楼・梵鐘

本堂 

山門 脇門付四脚門






曹洞宗 台雲山花岳寺

花岳寺山門

山門 山号扁額 臺雲山

高麗門形式の山門

本堂 寺号扁額華嶽寺

本堂

坐禅堂 (選佛場)

坐禅堂扁額 選佛場

義士宝物館

報恩堂


  花岳寺山門 赤穂市有形文化財
本山門は、もと西惣門であって、明治六年(1873)に花岳寺二十一代住職仙珪和尚が購入移築したものである。
柱は、当時のものより約三寸短くなっていると思われ、建材は栂を主としている。
主屋根は本瓦葺きで、棟木と出桁が一支半継ぎたしされている。

本山門は、高麗門形式をとり、西惣門の遺構であるため、素朴・無骨で武家門の風格を備え、城郭付属建築として、
歴史的価値の高い貴重な門と言える。


  曹洞宗 台雲山花岳寺
花岳寺は曹洞宗に属し、正保二年(1645)赤穂浅野家藩祖浅野長直公によって建立された寺である。
元禄赤穂事件後は歴代浅野家赤穂藩主の菩提寺となっていた境内には、
義士の三十三回忌に刻んだ四十七士の木像、宝物、墓所などがあって、赤穂に杖を曳く者の必ず訪れる史蹟地である。


  本堂欄間 横額の説明
盛唐の王維、竹里館の五言絶句 「獨坐幽篂裡 弾琴復長 深林人不知 明月来相」 細井廣澤書
独り坐す幽篂の裏 琴を弾じまた長嘯す 深林人知らず 明月来りて相い照らす

独りだけでこの静寂な竹林の里で座っている 琴を爪弾いたり声を出し詩を吟じたり趣のある生活は楽しい
この奥深い静かな竹林の館を知っている人はいない 明月だけが毎夜私のことを知っていかのように照らしてくれる

廣澤、字名を知愼次郎太夫と称す
元禄・享保の頃の有名なる書家なり
老中柳澤吉保に臣事す
赤穂義士に七人の知友あり
殊に堀部安兵衛と善し吉良邸討ち入りの鶏卵を携え
「結髪為奇士 千金那足言 離別情無盡 謄心一剣存」

結髪の奇士たり 千金那ぞ言うに足らん 離別の情盡きる無し 謄心一剣を存す
絶句を贈り以て其の行を壮にするという.


  天井絵 竹林の虎
これは元五月の節句の幟として書かれたもので、巾一間半に五間の長さがである。
安政元年(1854)、寅年に法橋義信(周得)が六十七歳の時に画いた。
義信は赤穂の人、幼より大坂に出て画を学び、始め佐野竜雲を師とし、後周文、雪舟を敬慕して一家風をなした。
周得と号し、又探雲斎とも称した。

性格は温厚篤実、名利を厭い都に住まず、一意画を愛し、画を楽しみ赤穂に終わったが、
歿後に至って専門の大家から画風雲舟を凌ぐものがあると激賞せられるにいたった。
勤皇の志士・河野鉄兜、藤本銕石などと交わりを深くし、美作誕生寺・定厳和上とは同郷の誼を以ってしばしば往来し、
遺作は最も多く誕生寺に伝わっている。

明治元年八十一歳で歿し、墓は赤穂市臨済宗髄鴎寺にある。
法名は運成院墨翁周得法橋居士という。
この画は、当寺開山禅師三百回忌を記念して、義信の曽孫、大阪泉佐野市の長安淳二氏により掲げられた。


  賓頭盧尊者 (おびんずるさま)
佛弟子で十六羅漢第一の尊者、白髪長眉。
出家して阿羅漢果を証し神通力を得る。
佛命によって涅槃に入らず、南方では衆生を済度(民衆を仏道に導き悟りの境界に至らしめる)した。
「撫で仏」とも称され、参拝者が自分の病などの悪いところを撫で、
その手で尊者の同じところを撫でて拝むと治ると信じられている。


  報恩堂(千体観音堂)由来
報恩堂(観音堂)は庚申堂として建立され、青面金剛尊(病魔を払い除く金剛童子)を主に、稲荷大明神(五穀を司る神の使い)、
塩釜大明神(安産の神)、秋葉大明神(火除け・火伏の神)を祀り、地域の信仰を集めた。
元は報恩寺に属し、管理は遠林寺に任されていた。

しかし、明治の初年に遠林寺が廃寺となったため、花岳寺の管理となり、やがて当山に移設された。
それより町村の有志が千躰の観世音菩薩像を奉納し、明治二十五年以降は赤穂大水害に遭われた方々への菩提供養の為に、
また毎年八月十日には「四万六千日」の観音菩薩の功徳に触れるために、盛大な法要が行われたと伝えられている。
現在も毎年八月十日に、その法要と祭りが執り行われている。
なお、平成二十五年夏、尊い喜捨により、堂内、千躰観音像の全面改修が行われた。
誰もが無常の教えのもと、観音妙智力により、仏の広大な智慧と慈悲をそなえ、願いが満たされんことを。


  赤穂義士宝物館
昭和五十九年に二十四代住職の時に建てたのがこの義士宝物館です。
浅野家の義士に関する宝物、経巻、書簡、絵画、刀剣、
器具など百余点を展示しています。
早打ち状・連名状・暇乞い状、大石良雄「達磨の図」・山鹿素行先生書、「浅野長直公行実録」その他、
大変珍しい甲州流水櫓、天守閣雛形、あるいは大名時計などがあります。

                                           案内説明より  

報恩堂 扁額

唐の王維、竹里館の五言絶句 「獨坐幽篂裡 弾琴復長嘯 深林人不知 明月来相照」 細井廣澤書 

初代大石なごりの松の幹 千手堂

二代目 大石名残りの松

鐘楼

梵鐘

手水舎

水琴窟 手水舎の横

野口雨情歌碑

高松宮宣仁親王 御手植之松

ソテツ植樹

大高源吾の句碑 義仲寺にて詠む


  梵鐘 鳴らずの鐘
この梵鐘は赤穂藩浅野家二代藩主・浅野長友公が父長直公のために鋳造したものである。
ところが三代藩主長矩公の代に至り、吉良義央への江戸城殿中に於いて刃傷に及んだことから赤穂浅野家は三代で断絶した。
元禄十五年十二月十四日、旧浅野家・家臣四十七人は吉良邸へ討ち入り、長矩公の無念を晴らした。
翌年二月四日、四十六士は切腹を仰せつかり、四家邸で見事に自刃した。

この報が赤穂に届いたので、町民は四十六士の死を悼み悲しみ花岳寺に集まり、この鐘を撞いてついてつきまくり、
「爾来音韻を失すること五十年」と寛政九年再改鋳のこの梵鐘に銘記してある。
音韻を失していた間を赤穂では誰いうとなく「鳴らずの鐘」といっていたと云う。
この度の大戦で(太平洋戦争)全国の寺々の鐘は供出を命じられたが、
この鐘は「義士との由緒深きにより」供出を免れた赤穂市内唯一の梵鐘である。


  水琴窟  内蔵助も聴いた日本の音色
大石内蔵助による元禄十四年(1701)の赤穂城明け渡しは、実に手際よく見事なものであったと云う。
歴史によれば、その六年前に高梁藩水谷家の松山城(備中松山城)が世継不在のため改易となり、
城受取りが赤穂藩に命じられた。
その明け渡しの労を取ったのが大石内蔵助であったであった。

備中高梁には、水琴窟を考案した小堀遠州が国奉行として慶長九年(1604)から滞在し、
遠州の手による頼久寺庭園(国指定名勝)が今も残されている。
内蔵助も執務のかたわら水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、疲れた心を癒していたのではないだろうか。

私は、日本三大上水道のまち、播州赤穂に育ったものとして、
内蔵助も聴いたであろう水琴窟の音色を現代の人々に身近に聴いてもらうため、地上型水琴窟を誕生させました。
皆様も、内蔵助の像に一杓の水を注ぎ、時代の流れに左右されない心癒される水琴の音色をお楽しみください。

    地上型水琴窟製作者・雲火焼作家 長棟州彦記す


  大石なごりの松由来(初代なごりの松 天然記念物)
元禄四年(1691)大石太夫(内蔵助)其妣(亡くなった母)逝去の際君親(内蔵助の親)の謝恩の為、
采邑(知行地)相生村より二本の松を移植した。
後に事変(元禄赤穂事件浅野家断絶)に遇い(赤穂城下を退去するに当たり)此の松下にて名残を惜む。
(母との思い出の地に別れを告げた)
爾來(それから後)大石なごりの松と稱す(呼び後世まで称えた)。

枯凋(枯れ伐採) 昭和二年九月
樹齢 三百十年
樹高 東之松 二丈五尺(7.6m)  西之松 三丈六尺(約10.9m)
幹廻り 東之松 一丈三尺(約4m) 西之松 一丈(約3m)
枝張り 東松、西松を併せ 東西 九丈四尺(約28.5m)  南北 八丈八尺(約26.6m)

枝張りが広く、四十八本の石柱によって幹、枝を支えていた。
それぞれの石柱には赤穂義士の辭世(辞世)の詩歌を刻す。

昭和三・戊辰年三月  山主誌


  野口雨情詩碑
春のあけぼの 花なら桜 武士の鑑ぢや 赤穂義士  雨情
この碑文は、昭和十一年、民謡行脚の道すがら、四月十八日から三日間赤穂に滞在し、
試作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭第一節である。
雨情自筆拡大写刻した。

野口雨情は、明治十五年(1886)五月二十九日茨城県多賀郡磯原町に生まれた。
代表作に「あの町この町、雨降りお月さん、証城寺の狸囃子、 波浮の港、船頭小唄、シャボン玉」など、
作曲家・中山晋平との作品も多い。

シャボン玉の唄などは雨情の生まれて間もなく亡くなった女の子を想って書いたと云われてもいる。
詞をよめばその情景が直に目に浮かび、その心情をくみ取り事ができる。
昭和二十年(1045)一月二十七日死去した。
享年六十三


  大高源吾の句碑
源吾は俳号を子葉という。
源吾二十六歳の元禄十年秋、主君浅野長矩の江戸よりの帰路に従い、
近江粟津ヶ原、義仲寺の松尾芭蕉の墓前(源義仲の傍に葬られている)で詠んだ句 「こぼるゝを 許させ給へ 萩の露」

源吾茶に通じ山田宗徧の門に入り、吉良義央の在邸日を探知して十二月十四日を復讐日と決せられた。
この碑は昭和四十七年六月、茶道宗徧流家元・山田宗囲宗匠が寄進された。
文字は源吾自筆のものを拡大刻した。
書と句の巧みさを勧賞していただきたい。


  中国より渡来の石仏
舟御光観音像である。
背面に刻入の魏の景明二年は、西暦五百一年、大和朝二十五代武烈天皇庚辰二年、
達磨大師が天竺より唐に渡る二十年前のものである。
大正十四年、浅野長友公二百五十回忌に当たり、頌徳記念として当寺二十二世蓬仙和尚がここに建立した。
彫刻以来約千五百年、いささかも腐蝕せず、精密な原形を留め、容姿端厳微妙の相誠に尊重すべき霊像である。

                                            案内説明より

七重の石塔

中国伝来の石仏

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庫裡式台玄関

おびんずるさま

竹林の虎

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花岳寺 赤穂藩菩提寺墓所

千手堂 休み処

千手堂 

人間とカラス 心の違い

浅野家廟殿

中央長矩公 左主税 奥右内蔵助

赤穂四十七義士墓所

内蔵助 忠誠院殿刃空浄剱居士

神崎与五郎 刃利教剱信士

寺坂吉右衛門 節巌了貞信士
刃と剱の文字が刻されていない

忠義塚石碑 亀趺(亀の台座)

赤穂義士墓所 棟門

墓所門脇の忠義桜

赤穂藩浅野家二代 浅野長友

笠間藩浅野家二代
赤穂藩浅野家初代 浅野長直

浅野長友公墓石


  浅野家三代の墓
常陸笠間藩二代藩主 赤穂藩初代藩主・浅野長直(浅野長友の父)
赤穂藩二代藩主・浅野長友 (浅野長矩の父)
常陸笠間藩主・浅野長重 (浅野長直の父)

花岳寺は、浅野長直公が父の菩提を弔うために建立したものです。
そのために浅野長重公の法名「華嶽院殿鋳山道牛大居士」から華嶽寺といいますが、
今は略して花岳寺と表記しています。


  花岳寺赤穂義士の墓
赤穂義士の墓が花岳寺に建てられたのは、元文四年(1739)義士の三十七回忌を迎えた時です。
その時の花岳寺住職は、七世在天益龍和尚でありました。
当時の赤穂藩は森家によって藩政が行われていました。
赤穂藩森家の家臣・小林貞真を中心とする有志によって建てられました。

墓所伝えによりますと、花岳寺の墓には赤穂義士の遺髪が埋められていると云われています。
墓の並びの順番は、門を入って右から格式順に建てられていて、必ずしも禄高順ではありません。


  寺坂吉右衛門の墓について
一番最後の順になる(門を入って左手前)寺坂吉右衛門は墓建立当時は存命中であり、
吉右衛門歿(延享四年、享年八十三 1747)後、森家の同じく足軽であった野山斧右衛門によって建立されました。
斧右衛門は「彼も足軽、我も足軽、同じ忠義を働きながら、足軽という理由で義士墓地に墓が建てられ無い事は誠に残念である」
との思いから自ら施主を務めました。

ちなみに、赤穂義士の法名の頭文字には「刃」の字が刻されています。
しかし寺坂吉右衛門の墓には、切腹をしていないので「刃」の字がありません。
ごく普通の法名となっています。
また、東京高輪泉岳寺にも赤穂義士と共に墓が建てられていますが、こちらの墓の刻字は「遂道退身信士」である。
良い法名なのか、わからないが、どっちにもとれるその点では解り易い法名です。

                                         案内説明より

笠間藩浅野家初代 浅野長重

浅野長重公墓石
華嶽院殿鋳山道牛大居士

浅野長直公墓石

赤穂森家初代藩主森長直墓

赤穂森家四代藩主森政房墓

森家墓所 墓石

森家墓所

赤穂義士家族の墓

大石良雄 先祖の墓

森家霊廟宝形屋根冠瓦

墓地の整理中?(無縁墓)

森長直 鐡性院殿従五位下前泉州太子一峰浄空大居士


  大石家先祖の墓
中央右から「清巌院殿・内蔵助祖父  清凉院殿・内蔵助祖母  本務院殿・内蔵助父」  
右下小墓石「梅容童女・内蔵助娘」左墓石「西來院・大石瀬左衛門父」


  赤穂義士家族の墓 
岡野又右衛門・不破数右衛門正種の祖父、元禄九年四月二十六日歿、法名了義得入居士
千馬三郎兵衛光利・千馬三郎兵衛光忠の養父、寛文十一年八月十七日没、法名理学宗心信士
赤穂義士吉田忠左衛門と貝賀弥左衛門の母、吉田助兵衛の妻、貝賀左門の娘、延宝九年十月一日没、法名心月妙耀大姉
赤穂義士岡島八十右衛門の養母、吉田忠左衛門の姉 延宝五年九月一日没 法名至岸清休信女
吉田助二郎・吉田忠左衛門の二男、吉田澤右衛門の兄 貞享三年正月十八日没 法名芳山少林信士


  元赤穂藩森家霊廟屋上の役瓦
この霊廟は宝暦九年(1759)赤穂森家五代藩主・森忠洪公が建立した。
方三間総欅造りの壮麗なもので、今は開山堂ととして歴代住職・森家歴代・檀家位牌を祀っています。
昭和五十年十月に霊廟屋根替えに当たり屋根棟の役瓦を下ろし、赤穂の文化遺産として広く民観に供して、
二百六十有余年よく風雪に堪えたと云わざるをえない。  

                                       案内説明より 

森政房 大観院殿従五位下前勢州太子円覚浄智大居士

森和泉守長直
享保七壬寅歳八月二十四日死去
享年五十一

森伊勢守政房
延享三丙寅歳十二月八日死去
享年三十七

息継の井戸と赤穂上水道

JR播州赤穂駅


  息継ぎ井戸
元禄十四年(1701)三月十四日に江戸城本丸御殿松之御廊下で、
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が幕府高家筆頭・吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。
早水藤左衛門と萱野三平がその事件を知らせるため、江戸より赤穂まで早駕篭に乗り四日半かかって
十九日の早朝赤穂城下に到着家老大石の屋敷に駆け込みました。

その途中、ここに在った井戸で二人の使者が水を飲み、一息ついて赤穂城へ向かったと伝えられています。
案内板からみると大石邸まであと四百から五百メートルの所です。
籠がここ停まったとすれば、水というより使者としての身支度や口上、書状などの確認などを行ったのではないかと思う。
何しろここまで昼夜駕籠に乗って全身傷ついたいたわけですから、後1/1500の距離を残すのみです。


  井戸の命・赤穂旧上水道
赤穂城・赤穂城下は海岸沿いに築かれ、その城下町も千種川河口のデルタの上に位置しています。
赤穂旧上水道は、良い飲料水を得るため約七キロネートル上流の千種川から取水し導水路を経て,
城下町・赤穂城内へ配水したものです。
この施設工事は、十七世紀前半に池田氏の代官(郡代)垂水半左衛門が指揮をして行われました。
赤穂上水道は侍屋敷だけではなく町家にも汲み出し桝(井戸)を設けて各戸へ給水していることが特徴です。
江戸の神田上水や備後の福山上水とともに日本三水道の一つと云われています。



  浅野家精神の拠所・山鹿素行
山鹿素行は、江戸時代前期の儒学者・軍学者(1622~1685)。
元和八年(1622)、陸奥会津に生まれる。
早くから秀才といわれ幅広い学問を修めるとともに、二十五歳の時には各大名・旗本に兵法儒学を教授するほどになり、
一介の浪人でありながら、若くして門弟三千人を抱えるほどでした。

承応元年(1652)、三十一歳の時に赤穂藩主朝野長直に禄高千石で仕えることとなります。
素行は、赤穂藩に仕えた万治三年(1660)までの八年間、「修教要録」・「治教要録」・「武教要録」などの主要な本を著し、
また約半年の短い赤穂滞在中には、赤穂城二之丸虎口の縄張りの一部の変更など、軍学者としての手腕を発揮しています。
その後、民間学者となり寛文六年(1666)、江戸にて「聖教要録」を出版するも朱子学批判の罪で赤穂の地に配流され、
赤穂城二之丸の大石頼母助屋敷の一角に預けられることになります。

延宝三年(1675)の赦免になるまでの九年間、赤穂で読書と著述に明け暮れる謫居生活を送りました。
この時期に「中朝事実」や武家事実」をはじめ多くの著書を残したほか、自叙伝風の遺言書「配所残筆」を記しています。
配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、その思想精神(山鹿流兵法)は、
門弟であった大石良雄をはじめ多くの赤穂義士たちに影響を与えたと云われています。

現在、素行が謫居生活を送った赤穂城跡二之丸付近には、銅像が建てられているほか、
命日の九月二十六日に開催される山鹿素行祭りや赤穂山鹿素行研究会による研究寄稿誌の発行など、
素行の思想は現代に至るまで続いています。


現在からみると山鹿素行の最も大きな功績は、一地方大名赤穂藩浅野家を全国一の大大名までに押し上げたことです。
婚家を捨て実家をとった北条政子と豊臣おね、、おねは天下を取るまでには至らず、国持ち大名にとどまった。
しかしその分家はまさに天下取りを実現しました。
なかでも家老大石良雄から陪臣足軽寺坂吉右衛門まで広く知らしめ、三百有余年後の今日まで続いています。

だが今日においては情報が一方的であった昔に比べあらゆる角度から元禄赤穂事件を見ることができるようになり、
主君への忠義に縛られた仇討の意義は今日でも大いに納得出来るものではあるが、
事件の発端となる出来事などはむしろ加害者であったとする見方もできるような見解も一般的になっている。
ただ真相は誰にも現在でもわかっていません、あらゆる角度から推測するのみである。

正に無抵抗な人を切りつけた傷害事件の犯人の家族が被害者に何で生きているのかと逆恨みして殺人事件を行った。
今日の司法ではこのように解釈されるような事案です。

行事・接待・流儀・慣例など有識故実に通じた官職・高家肝煎り吉良義央の知識を
あまりにも軽んじたために起きた事件といえるだろ。
いわく、その知識は幕府から俸給をもらっているので、幕府の知識の内にあり、幕命の命で仕事をしているのであるから、
特別頭を下げて教えを乞うものではなく、積極的に教え与えるものでなくてはならない。
よって、指導料なるものは発生しないものであると。

このことが素行の教えの中にあるのかはわからないが、影響されていたとも考えられる。
ならば次のようにも考えてもおかしくはないし事実これに近い考えの人もいたとも思われる
藩主・家臣などの侍は百姓の生産する米によって生活が成り立っているのだから、
百姓が武士に対して謙ることはおかしいく、武士が百性へ頭を下げてお礼を言わなければならないのだ。

極端な錯誤のあるものですが、エスカレーターで藩主の治に有るものは己の立場がわからなくなる。
武士は戦いで手柄を立てるのが本望で知識(書道・算術・武道・芸術・知略)などで俸給をうけるべきではないと。
長矩はエスカレーターで五万三千石を手にした人であり、吉良は室町より長い間知識を貯め、あるいは捨てながら、
時代にあったものを追い求めてきた家柄の人である。

吉良の給料は四千二百石、浅野家はその十三倍、塩販売など商業収入を加えると二十倍以上となる。
ですが、地位の官位となると吉良は従四位上左近衛権少将、浅野は従五位下内匠頭で大きく差がある。
つまり、お金持ちの坊ちゃんが貧乏なお寺の住職を馬鹿にし、見下し、和尚さんの言う事をうるさく思っている。
世間知らずな坊ちゃんが我を通し、周囲の者も一緒になって諌めるどころか、はやしたてた結果ともとれる。

山鹿素行が教えたのではないと思うが、自分流に自分に都合の良い受け取り方をした。
このことが冒頭に書いたように山鹿素行の人を見ずして講義した功績ともとれる。
山鹿素行(学者)にを千石払っているのだから、自分の仕事に必要な知識を千石で買わなかったのだろうか。
それもごく短い期間払えば良い事なのに、命という大きな代償を払い、家来を日本一有名にしただけかな。

現在では長矩公が生きた時代とは大きく違い、情報の多くを握る一部の人たちにより多くの人たちの生活が制限されたり
不便を強いられたり、利益を逸したりで、知識・行動に積極なる人の天下となっている。
いわば無骨者には住みにくい世である。
日本人は人に智を求めることは対価の発生しないことであると思っている人もいる。
学校の先生はそれを職にしているので問題ではなく、吉良家も三万石の身分であったらね。

人に聞いた話によると、知人の弁護士と医者と三人でゴルフをしていた時に、何となく家内の体が調子が悪く、
このような症状ですが先生どのようなことが考えられますかと聞き、弁護士には、就業規則を変更しようと思うが、
このように変更してもよいでしょうか?と尋ねた。
それぞれの問題に答えていただいてその接待は終わったという。
後日、かの医者と弁護士からそれぞれ封筒が届き開けてみると意外な金額の請求書であった。

                                        案内説明より(一部を除く)

うどん・そば処の天ぷらそば

これを出されたとき驚きました。
これは凄いそばを出していると。
食して納得しました。
これは蕎麦ではあるません。
蕎麦を冠にしたうどんです。
白く見えたのは蕎麦の実を磨いたもの
ではなかった。
小麦粉の多い一・九そば以下?
蕎麦の香りは全くしない。
天ぷらも小麦粉のみを揚げた物。
食の関西もいろいろありますね。

赤穂城跡まで400m 赤穂駅まで500m

息継ぎ井戸石碑

井戸のモニュメント

危険防止のため形だけ

井戸は交差点角にある

いざ赤穂駅へ 使者とは逆走

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赤穂観光協会 赤穂城跡公園  
兵庫県赤穂市加里屋328
Tel 0791-42-2602





スーパーホテル盛岡駅前
 superhotel morioka

啄木新婚間借家

  一(石川啄木本名)と妻・堀合節子
後に妻となる堀合節子との出会いは、自身で「小生は専心詩筆をとれり。
又、この自覚によりて、早く十四歳頃より続けられし小生と節子との恋愛は、
小生に取りて重大なる意義を有するを意識するに至れり」(友人宛の書簡)と記すように、盛岡中学二年生頃であった。
一(はじめ 本名石川一)が寄寓していた帷子小路の姉・サダの家と節子の実家は近い位置にあった。
それに、一の渋民尋常小学校時代の級友・金矢のぶ子が一年遅れて盛岡高等小学校に入学し、節子と同級になった事、
一方、当時堀合家に下宿していた盛岡中学生の山崎廉平と一が親しかったことが知り合うきっかけとなったと言われている。

一と節子の恋を育てたのは、新山グループの存在であった・・・・。
二人の近くに住む盛岡中学生を中心にした親睦会(新山グループ)に一が所属し、
節子やのぶ子ら女学生も参加して、カルタ取りに興じたことで、お互いの恋心を深めていくことになる。
新時代の波が立ち始めた明治三十年代の盛岡にあって、明るく開放的な雰囲気の中で二人の恋は育ち、
その思いが啄木の創作意欲をいっそう駆り立てていった。

順調に育った啄木と節子の恋も、結婚に関しては決して順調ではなかった。
古い時代の名残を見せる明治中期にあって、名門盛岡中学に入学したとはいえ五年生で中退し、
定職も持たない平民の啄木と士族の娘節子の結婚である。
啄木の姉サダらの協力を得て、明治三十七年二月結納という形で結実する。
明治三十八年五月三日、東京の小田島書房処女詩集「あこがれ」を刊行し、啄木は独身時代にけじめをつけた。
五月十二日、父一禎が二人の婚姻届を提出した。

節子との結婚のために東京から盛岡に向かった啄木は、仙台で下車し十日間過ごしている。
啄木からの連絡が無いまま結婚式に準備をして待つ節子に、
仲人役である上野廣一と佐藤善助がこの結婚を断念するよう迫っている。
即答を避けた節子は、二人に宛てた書面と啄木からの長い恋文を添えて、その決意を伝えている。
「過去二三年の愛を御認め下され候吾はあく迄愛の永遠性なると云う事を信じ度候。」と。
また封筒の裏には、「石川せつしるす 明治三十八年六月二日」と。

寶徳寺罷免され、すでに盛岡に移住していた父母妹とともに、
六月四日盛岡市帷子小路八番戸(現 啄木新婚の家)で新婚生活が始まった。
啄木が節子とのことを、後に「渋民日記」にこう記している。
「取りだしたのは 、百幾十通といふ手紙の一束!あゝ、これが乃ち自分の若き血と涙との不磨の表号、
わが初恋、否一生に一度の恋の生ける物語であるのだ、自分と妻節子との間の!」


  望郷と漂泊の天才詩人石川啄木
啄木は、明治十九年二月二十日、住職である父一禎と母カツの長男として
岩手県岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区)の常光寺にて生まれました。
翌年、隣村である渋民村(現 盛岡市玉山区)の寶徳寺に移り、渋民小学校卒業後の明治二十八年四月、
九歳で親元を離れて盛岡市立高等小学校へ入学、さらに盛岡尋常中学校へと進学した。
民俗学者・金田一京助、小説家・野村胡堂らとの親交から急速に文学への関心を深め、
やがて堀合節子と出合い、恋が芽生えます。

文学への目覚めと節子への思いで学業が疎かとなり、更に試験の不正行為を契機に中学校を退学した啄木は、
文学で身を建てる望みを抱いて上京した。
一時は病のために数か月帰郷したものの、詩心は一気に溢れて開花し、
文芸誌「明星」等の紙面を飾り、詩壇の注目を集めました。
明治三十七年には再び上京し、処女詩集「あこがれ」を出版、希望に満ちて恋人節子と結ばれました。

明治三十九年四月、母校渋民村尋常小学校の代用教員として就職。
「日本一の代用教員」への新たな理想を掲げ、個性豊かな青年教師ぶりを発揮しましたが、
その熱意も結局報われる事無く、教育刷新のストライキ事件で免職となりました。
その後、北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路と新聞記者生活を続け、明治四十一年四月、単身上京した。
創作活動に没頭しますが、作品出版のめどは立ちませんでした。

それでも啄木は多くの評論を書き、明治四十三年には処女歌集「一握の砂」を出版した。
また、後に世に広く知られることとなる「ローマ字日記」を書き続けました。
明治四十五年四月初めに、歌集「悲しき玩具」の出版が決まりましたが、それを見ることなく、
同月十三日肺結核の為二十七歳の若さで波乱多い人生を閉じました。
望郷と漂泊の天才詩人・石川啄木、その二十七年の短い生涯のうち、
文学に夢を馳せ、恋に目覚め、新婚生活をおくり、最も華やいだ青春時代を過ごした町が盛岡です。


  結婚式を放り出し遊びほうけた啄木
明治三十八年、一時は東京での新婚生活をも考えていた啄木でしたが、
父・一禎が住職罷免となって渋民村の宝徳寺を去り、この家に転籍したことから一家の生活を支えるために、
五月二十日、帰郷の途につきました。
しかし、金策の必要からか途中の仙台に下車して詩人・土井晩翠を訪ね、
また、当時仙台医学専門学校には郷友・猪狩見竜、小林茂雄らが在学中であったことから、
彼らと遊んで仙台に滞在すること十日に及び、啄木が仙台を立ったのは五月二十九日でした。

一方、盛岡では五月三十日に結婚式を挙げる為、花嫁の堀合節子が首を長くして啄木を待っていましたが、
啄木は盛岡駅を素通りして渋民村へ向かってしまいました。
遂に予定の三十日になり、その日の夜、上野広一の媒酌で珍妙な「花嫁の居ない結婚式」が行われました。

啄木がこの家に顔を見せたのは六月四日のことでした。
八畳と四畳半に玄関だけの小さな家に(間借)啄木夫婦と両親、妹・光子の五人の一家が借り屋住まいを始めました。
時に啄木二十歳、一家の生活を背負い、生活人として岩手日報に「閑天地」と題する随筆を連載し、
わずかな稿料を生活の資に充てました。

この中の一編「我が四畳半」に、この家での新婚生活の情景が詳しく描かれています。
啄木一家がそろってこの家で暮らしたのは三週間で、
六月二十五日には中津川の畔加賀野磧町(現 加賀野一丁目)に移り住んでいます。
ここでの生活は、明治三十九年四月に代用教員として渋民に帰るまで九ヶ月続き、
その中で文芸誌「小天地」を発行、当時の想いは長誌「江畔雑誌」のはしがきに述べられています。


  銀座の柳三世
ここに植えられている柳は、平成十四年六月五日、東京・銀座の朝日新聞社跡地にある啄木の歌碑の前で、
銀座の商店会から盛岡市長に寄贈された「銀座の柳三世」です。
明治初期から銀座の並木として親しまれた柳は、昭和四十三年に街の整備に伴なって郊外の河川敷に移植されましたが、
その後大半が枯れ死してしまいました。
銀座金春通り会名誉会長・勝又康雄さんらが「銀座の柳を再び」と、枝を挿し木してビルの屋上で育成し、
二世・三世としてよみがえらせたものです。

啄木は、明治四十二年三月から没する明治四十五年四月までの約三年間、
当時銀座にあった朝日新聞社の校正係として勤務しており、
「春の雪 銀座の裏の三階の煉瓦造に やはらかに降る」等の歌があります。
道の奥盛岡ふるさと大使として首都圏で活躍する斎藤昭彦さんの仲介で、
銀座とも縁が深い啄木ゆかりの地盛岡に贈られたものです。
盛岡にはここの柳の外に啄木・賢治青春館、盛岡城跡公園の二ヵ所に植えられています。

因みに、銀座朝日新聞跡地及び付近は江戸時代南町奉行所の置かれた処で、大岡政談で有名です。


  啄木新婚の家史料館
この建物は藩政末期(推定)に建築された木造平屋建ての武家屋敷で、
昭和五十九年七月に盛岡市指定有形文化財に指定されています。
床面積は160.74㎡、茅葺屋根は防火のため鉄板で包んでいます。
用材としては、主に杉や末を使用しており、同心屋敷程度のものとみられます。

町家と異なり、武家屋敷は当時のサラリーマン住宅であり、その流れは現在でも住宅の基本として生き続けており、
その意味からも当時の生活の様子や習慣を知り、生活の「うつわ」としての間取りを研究する上で、
数少ない存在価値を持つものといえます。

所有者は盛岡市ですが、この建物で石川啄木が新婚時代を過ごしたことから「啄木新婚の家」として、公開しています。


開館時間:  8.00~18.00  12月~3月 9.00~16.00
休日: 12月28日~12月4日 12月~3月の火曜日
入館料: 無料
岩手県盛岡市中央通3-17-18 Tel: 019-624-2193

                                       案内説明より  

啄木新婚の家

新婚の家史料館玄関

啄木間借の玄関への道

玄関二畳の間と啄木新婚の四畳半いろりの間

オレンジ色が一家の生活の間

銀座の柳三世

父母と妹光子の部屋

資料部屋 大家住居床の間か?

資料部屋 この建物は当時大家と間借り人三家族の暮らせる広さがある

床の間の掛軸