群馬・栃木のいろいろ



群馬県いろいろ
躑躅が丘公園  尾曳稲荷神社  旧秋元家別邸跡  茂林寺
見松院善導寺  巨法山善長寺
  館林城址・・・・・館林市
SL水上号と谷川岳
榛名山・三国街道須川宿たくみの里 参照: 温泉その3→月夜野温泉
伊香保・榛名湖・水沢観音  参照: 温泉その3→月夜野温泉
吹割の滝・中禅寺湖・華厳の滝  参照: 温泉その4→老神温泉
世界文化遺産 荒船風穴・田島弥平旧宅・高山社跡 
世界文化遺産富岡製糸場 七日市藩藩邸  参照: 温泉その15→かんらの湯
妙義神社 貫前神社 茂木家住宅 参照: 温泉その13→妙義温泉


栃木県のいろいろ
足利フラワーパーク  真言宗鑁阿寺  史蹟足利学校・・・・・足利市
那須湯本温泉神社  参照: 温泉その4→那須湯本温泉
那須温泉神社・殺生石  参照: 温泉その17→那須湯本鹿の湯








躑躅が丘公園 tutujigaokakohen

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躑躅が丘公園 国指定名勝

世界一とも評されているツツジの名園で、「城沼」の南岸に位置しています。
館林城は、この城沼を天然の要害として築かれました。

伝説によれば、近世初代舘林藩主「榊原康政」がこの地にツツジを植えたのが起こりといわれていますが、
それ以前の古文書に「躑躅ヶ崎」という地名が見られ、古くから野生のヤマツツジが密生していたものと考えられます。

近世の歴代藩主により、手厚く保護・増殖されてきましたが、
明治以後、民間に払い下げなどによって一時荒廃したこともありました。
その後、関係者の努力により復興し、昭和九年「名勝」に指定され、現在に至っています。

この名勝を含む園内には、樹齢八百年を超えると考えられる樹高五メートルに達する古木をはじめ、
約一万株のツツジが植えられています。
特にヤマツツジ系やオオヤマツツジ系、キリシマツツジ系の古木や巨樹が多く、珍しい品種も数多くあります。

ヤマツツジの巨樹群が自然形のまま保存されるなど、歴史的・学術的にも貴重なもので、
シーズンには、紅色や淡紅色、紫色などの花が全山燃えるように咲き誇ります。
                                                     案内説明より

半額になっても満開見頃です

売店は準備中

白花琉球ツツジ

ヤマツツジ

ヤマツツジ

紅ヤマツツジ

紅色ヤマツツジ (勾当内侍遺愛のツツジ)

樹齢: 八百年以上  樹高: 五メートル  枝張り直径: 十一メートル
園内で一番の名木巨樹です。
このツツジはヤマツツジで、花は紅色、おしべは五本です。

一説によれば、このツツジは新田義貞の愛妻勾当内侍のために、
建武元年(1334)に植えられていたツツジを、
第三代館林藩主榊原忠次が、領内新田郡尾島町の花見塚から、
数百株のヤマツツジの古木を
寛永四年(1627)二月に、ここへ移植したと伝えられている名木巨樹のツツジです。

寛永五年に移植されたと言われるヤマツツジの古木巨樹群

紅霧島ヤマツツジ

紅霧島ヤマツツジ

紅霧島ヤマツツジ

桔梗咲き霧島ツツジ

蓑霧島

推定樹齢: 六百五十年  樹高: 二・二メートル  枝張り直径: 五・三メートル

樹形が園内で一番といわれている見事なツツジです。

花は緋色で花径2.5㎝~3㎝の小輪花。
外側の小さな花弁が切れ込んで蓑咲き状になりますが、
二重咲きの花も現れる珍しいキリシマツツジです。

本キリシマツツジ

本霧島

推定樹齢: 三百五十年  樹高: 三・二メートル  枝張り直径: 七・六メートル
園を代表するツツジの一つとして知られている。

江戸時代からの有名古品種です。
江戸キリシマツツジの中でも一番鮮やかな緋色をした小輪花で一重咲きです。

琉球ツツジ 峰の松風

桔梗咲き霧島

国際花と緑の博覧会出品花株

平成二年に、大阪で開かれた国際花と緑の博覧会に、
館林市から推定樹齢四百五十年の桔梗咲き霧島の古木二株を出品し、
世界二十三か国より六千五百七点出品中、
最高の「名誉賞」に輝き、訪れた人たちを驚かせました。
その時の出品株がこのツツジです。

八重霧島

推定樹齢: 百年  樹高: 三・七メートル  枝張り直径: 五・六メートル
樹形がよく、四方に茂った枝葉は根元の乾燥を防ぎ、自力で長く生き続けています。

江戸キリシマツツジ系の中でも有名古品種です。
花期(四月下旬~五月上旬)には、緋色の花が、幹や枝葉を覆い、
この一株で見事な景観をつくり出します。

花は緋色で花径2.5~3㎝の小輪花。
二重咲きのキリシマツツジです。

宇宙ツツジ

世界初の宇宙ツツジ

平成六年七月、つつじが岡のツツジの種が、
スペースシャトル「コロンビア」号で宇宙飛行し、
帰還後その種を発芽、生育させた世界初のツツジです。

館林藩藩主榊原家ゆかりのツツジ

榊原家は、德川四天王の一人榊原康政を藩祖とし、天正十八年(1590)、
館林城主として入封しました。

以降、初代康政、二代康勝、三代忠次が約五十年間館林を治め、
この間、館林城の整備拡張などを行い城下町館林の基礎を築きました

特に榊原家はこの躑躅が岡の発祥・伝説とも深く係わり、初代康政とお辻伝説、
寛永四年(1677)三代忠次の花見塚からのツツジ移植の歴史が伝えられています。

このツツジは平成六年榊原家第十六代当主榊原正春氏より館林に寄付されたもので、
大正時代から東京の榊原屋敷で大切に育てられてきたものです。

御手植えの松 1

御手植えの松 1  大正十年五月五日、北白川宮永久王殿下、久邇宮邦英王殿下が、学習院在学中、
学友と共に修学旅行のため来園された際、記念樹として植えられた松です。

御手植えの松 2  大正十四年五月十一日、久邇宮邦彦王殿下・同妃殿下、久邇宮多賀王殿下・同妃殿下が、
ツツジ鑑賞に来園された際、記念植樹として植えられた松です。

御手植えの松 2

城沼

行啓記念碑

お辻が身を投げた城沼

館林藩榊原家初代藩主康政に、「お辻」という側室がいました。
城主の寵愛を一身に集めたことから正室の妬みとなり、正室に虐待されました。
お辻はその責めに耐えきれず、この城沼に身を投げ死を遂げました。

時に慶長十年(1605)のことと伝えられています。
ここから見える城沼北岸の善長寺には、
お辻と共に死んだ侍女お松の二人の供養塔が建てられています。

行啓記念碑

この碑は明治十九年五月十日、皇后(照憲皇后)、皇太后(後英照皇太后)の、
両陛下の行啓を記念して大正四年四月十一日に建碑されたものです。

この年は例年になく花付も見事であったが、当日は連日の雨に大半は散り、
その中にあって紫色と白色の二種のツツジの花が真っ盛りで、
行啓の栄誉を誇っているようであったと伝えられています。

水神宮

城沼渡船場

ツツジ山から東屋

中の池側の東屋

ツツジ山 中ノ島

ツツジ山中の池周囲のツツジ群





尾曳稲荷神社 obiki-inarijinjya

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尾曳稲荷神社

第百五代後奈良天皇の御代、室町幕府十二代将軍足利義晴の天文元年(1532)赤井照光の創祀にかヽる。

大袋城主の赤井山城守照光は享禄元年正月舞木城主の許へ年賀の途中子供が狐児を捕え殺そうとしているのを救ってやった。
その夜更けに一老翁が顕れて、子供が助かった礼をのべ、更に照光の居城大袋よりも館林の地が要害堅固であると説き、
明晩ご案内申し上げようと言い終わって姿を消した。

翌晩、果たして老狐が顕れ尾を曳て先導し、字侍辺に始まり、字加法師に来て夜が明けた。
別れに臨み、もし築城完成の暁には永く館林城の守御神に仕えよう、
私は稲荷の神使で新左衛門と申すものなりと言いその後姿を消した。

照光はこれに依って館林に築城し、その名を尾曳城とし、城中に稲荷郭を設け社殿を造営し尾曳稲荷神社を奉祀した。
                                                        
                                                          案内説明より

拝殿

本殿

一之鳥居

二之鳥居

三之鳥居

多くの祠

手水舎

演芸殿 (神楽殿)

御神燈

保存樹木 クスノキ
樹高 二十メートル 幹回り四・二メートル

クスノキ気根

クスノキ樹木医の手術跡

守り狐

猿田彦大神石塔

弁才天への参道

七福神は福徳を授ける神として古来より信仰され、インド・中国・日本などの神々を組み併せた国際敷豊かな福の神です。
弁才天は人の汚れを払い、雄弁と財宝を授け、子孫を恵み、また学問と技芸の神であり、琵琶は弁才天の象徴である。

その本流はインド神話の河川の神格化であり、瑞穂国、日本では水を司る神として信仰された。
河川は人間生活の基礎、白蛇はきれいな水と弁天様のシンボルとして古川柳に「弁天様だ、殺すなと、母はとめ」とある。

昔、境内と続いていた城沼はウルム氷河期に大地を削った鶴生田川の浸食谷に、
古くはこの沼の浮島に祀られ、昭和三年江島神社から勧請、平成七年上屋新築新紋を授与された。

弁才天(市杵島比売命)と七福神

田山花袋の歌碑

田山花袋ゆかりのツゲの木

田山花袋の歌

田と鋤かれ 畑と打たれて よしきりの
   住まずなりたる 沼ぞ悲しき



ツゲの木

花袋が少年時代よく登って遊んだと言われる





清龍山茂林禅寺 seiryuzan-morinzennji

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茂林寺 総門

曹洞宗の名刹、青龍山茂林寺は、その開山を大林正通としています。
正通は美濃国土岐氏の出目で、華叟派の祖、龍泰寺開山華叟正萼の法嗣でした。
寺伝によると、正通は諸国行脚の折、上野国に立ち寄り、伊香保山麓で守鶴と出会います。
この守鶴は、後に茂林寺に分福茶釜を持ち込んだ老僧です。

応永三十三年(1429)、正通は守鶴を伴い、館林の地に来住し、小庵を結びます。
応仁二年(1468)青柳城主赤井正光(照光)は、正通に深く帰依し、自領地の内八万坪を寄進し、
小庵を改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号しました。

赤井正光は自ら当山の開基大檀那となり、伽藍の維持に務め、大永二年(1522)には、後柏原天皇から勅願寺の綸旨を賜ります。
寛永十九年(1642)には、三代将軍徳川家光より二十三石四斗余の朱印を下賜されております。
                                                     案内説明より

山門

本堂 扁額

分福茶釜


材質: 紫銅(青銅)
最大周囲: 四尺(1200㎜)
重量: 三貫(11.2㎏)
容積: 一斗二升(21.8ℓ)
口径: 八寸(24.5㎝)

本尊 釈迦牟尼仏坐像
脇仏 聖観音坐像?

当時開山大林正通禅師に随い、応永三十三年(1426)伊香保から来て代々の住職に仕えた守鶴和尚は、
元亀元年(1570)夏、七世住職月舟和尚の代に千人法会があり喫茶の用に供する湯釜がなくて寺で困っていた際、
一夜の中に何処からか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えたところ、不思議に常に汲んでも湯は尽きなかったので、
衆人は其の無尽蔵の妙術に驚かないものはいませんでした。

和尚は自らこの茶釜を紫金銅分福茶釜と称しました。
其の後十世住職天南和尚の代まで百六十年間当山に居ましたが、
天正十五年(1587)二月二十八日漂然と寺を去って行方がわかりませんでした。

後世守鶴和尚は狸の化身だと伝えるものがあり、遂に皆様ご存知のお伽話となったものでしょう。     
                                                       案内説明より


この説明は守鶴和尚が分福茶釜の源となった話ですが、守鶴和尚は応永三十三年(1426)に開山大林正通と出会い、
元亀元年(1570)に法会に茶釜を供し、天正十五年(1587)に寺を去って行方が知られなくなったとのこと。
鶴は千年、亀は万年とは言うけれど、狸が二百年とは、恐れ多きことです。

守鶴堂

聖観世音菩薩立像

半跏思惟坐像 石像

巨大な金袋のタヌキ立像
東武鉄道株式会社 寄贈

交通安全・小孫生育 守護観音

聖観世音菩薩立像

上野国邑楽郡館林大久保村に高瀬善兵衛直房と云う富厚にして、信望ある住人がいた。
善兵衛には娘があり、同国川俣村金子茂右衛門重春に嫁がしたが、貞享三年(1686)丙寅に病に倒れ、
元禄元年(1688)戊辰十四歳で歿した。
法名を凉室妙清大姉と號す。

後に住職に鋳佛供養を勧められ、
凉室妙清大姉の甥である直房の孫清右衛門重房を施主として元禄三年(1690)庚午に建立した。
鋳造は江戸神田鍋町の太田久右衛門正儀である。

藤の古木 新葉生えているが
花芽は見えない

大サワラ

このサワラは、観音さまが建てられた元禄三年
以降に植えられたと伝えられている。

幹回りの太さでは郷土で隋一を誇る巨木である。

樹齢: 約四百年
樹高: 四・九メートル

茂林寺のラカンマキ (本堂右側) 県指定天然記念物

ラカンマキはイヌマキの変種とされる槇科の植物です。
原産地は中国、雌雄異株で毎年五月ごろに花が咲き、一般的に高さは五メートル、葉は長さが五~八センチメートル、
葉の幅が五ミリメートルほどに成長します。
葉の幅がイヌマキより狭く短く、葉先は垂れないのが特徴で、庭木としてよく用いられます。

「茂林寺のラカンマキ」はメス株で、樹勢や保存状態もよく、樹高は十四メートル、幹の太さは目通りで二・八八メートルあり、
ラカンマキとしては群馬県内でも最大級のものです。

寺伝によると、葉先がとがっているため、魔除けとして、
応永三十三年(1426)に本堂に向かって左側にあるヒイラギとともに植えられてとされ、樹齢は約六百年になります。

大ヒイラギ (本堂左側)

樹齢: 約六百年
幹回り: 一・七五メートル

枝垂れ桜 (本堂中央前)

保存樹木
樹高:七メートル
幹回り: 一・四メートル

小林一茶句碑

てふ~の
  ふはりととんだ
茶釜哉


蝶々の
  ふわりと飛んだ
茶釜哉   一茶

檀家信州柏原紀行記念石碑

開山堂

左:守鶴和尚  中央:開山大林正通和尚  右:宗祖道元禅師

聖観世音菩薩立像 本堂内

庭園

竹林

石仏群と祠

分福茶釜の詩碑と巌谷小波レリーフ

茂林寺裏の
野鳥の森と湖沼湿原公園

ダークダックス館林音楽館駐車場傍
分福茶釜の歌と縁があると云う

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旧秋元家別邸 つつじが岡第二公園 kyu-akimotoke-betteiato

旧秋元家別邸

ここは、江戸時代に館林城の「八幡郭」があったところです。
八幡郭は、本丸東にあって城沼に突き出した一郭で、武士の守護神である「八幡神」が祀られていたことからこう呼ばれました。

明治維新の廃城後は、いったん民間に払いさげられましたが、旧藩主の秋元家の所有を経て、昭和三十六年には県有財産となり、
つつじが岡公園に編入され、現在はつつじが岡第二公園として多くの市民や来訪者に親しまれています。
園内は、春には色とりどりのツツジが、初夏には二百七十品種約四十万本の花菖蒲が、優雅に花開き城沼を美しく彩ります。

また、敷地内には明治末期に建てられ、秋元興朝とその子春朝が別邸として使用した「旧秋元別邸」と呼ばれる
旧藩主秋元家に係わりの深い建造物や、昭和五年に東京駿河台の秋元家の庭園から移した石灯篭や庭石、
大正八年に彫刻家毛利教武によって作られた「秋元春朝投網像」、館林出身の版画家「藤牧義夫」の版画碑、
館林城の本丸跡等から出土した墓石群などがあり、館林の歴史の一説を私たちに語りかけてくれます。
                                                          案内説明より

右正面玄関と左通用玄関

裏庭から別邸

屋敷守護祠

館林城出土墓石群(市重要文化財)

これらの墓石群は、館林城本丸や三の丸土塁から別々に出土した五輪塔や宝篋印塔などの墓石を組み合わせ、
昭和四十八年(1973)に墓域として整備したものです。

特に五輪塔は、その形から中世に造られたものと考えられています。
これらの墓石は、近世の館林城の土塁や石垣を修築するにあたって、石材として集められ利用されたと考えられています。

墓石の中には、中世の館林・邑楽地域の領主であった佐貫氏一族と思われる「沙弥道慶」の名や、
中世の元号が読み取れるものがあったと言われていますが、風化が激しいため現在では判読できません。
中世の館林市域の石造物について考える上で欠かせない文化財です。
                                                   案内説明より

半跏思惟座石像

城郭とは関係のない石垣土塁

屋敷林の古木

秋元春朝投網像

藤牧義夫 版画記念石碑

移設された石灯籠や樹木

左 金閣寺垣            

庭景観を妨げず庭域を整える低い竹垣で
垣根頂部に半割の竹を用いる


                    右 光悦寺垣

円弧状の外観で素子を斜めに組み上げ
菱形で見通が効き装飾感がある

花菖蒲園 手入れが良く、花の季節を想像させ期待感をもたせる

蔵らしい?鋼格子のガラス窓

茶室?竹格子の障子飾り丸窓

和洋折衷の感がある解放された南





浄土宗 終南山 見松院善導寺 nensyoin-zendoji

関東十八檀林 善導寺

善導寺は、第四十三代元明天皇の御代和銅元年(707)行基によって開創された。
第八十二代後鳥羽天皇の建久四年(1193)三月、頓阿見性法師が、
行基の旧跡を偲び草庵を修建して終南山の鍾馗に擬え鎮守とし、浄業専修し、久しく住した。

第九十一代後宇多天皇の建治二年(1276)十月、白旗流の祖、寂恵良暁上人により再興され、今日の基となる大伽藍となり、
一向専修の道場として、滋に初めて「終南山見性院善導寺」と呼称し、以後浄土宗に属する寺院となった。
良暁上人以前は、単に「行基寺」とか「見性院」と呼ばれてきたという。

以来、三百余年間、代々の領主(由良氏・長尾氏・赤井氏・北条氏等)は当寺を令法久住の檀林として特に庇護し、
山門に制札を掲げて、軍兵等の狼藉を禁じたが、元亀・天正の頃、下克上による戦乱が東西に広がるや、
当寺も荒れるに任されるにいたった。

後陽成天皇の天正十八年(1590)徳川家康公の四天王の一人、榊原康政が館林十万石に赴任するや、
広範囲に亘る地域開発に着手した。
時同じ頃、学徳兼備の高僧幡髄意上人は予てより行基菩薩、開榛の勝地・白旗流流祖建堂の再興を念願としていたが、
榊原康政は篤く上人に帰依し、善導寺寺域を谷越の地に移し本堂をはじめ七堂伽藍並びに付属堂宇を整備し、
上人を中興第一世と定め榊原家の香華寺とし百石を付与された。

後水尾天皇の元和元年(1615)德川家康は旧姓松平の「松」に十八公の嘉譽在るに因んで関東に十八の檀林選定に当り、
その一つに加えられ、これを機に当寺の院号「見性院」を現在の「見松院」に改められた。

後光明天皇の正保元年(1644)榊原家三代榊原忠次在城二十八年に亘った後、
奥州白河への移封の折徳川三代将軍家光より供田百石と諸役免除の御朱印を賜り、
以来、各将軍時々の城主城主に当寺を優遇すること厚く、
以後、二百余年間、歴代住職法燈護持に尽力し檀林としての責務を果たし教化当地に普く及ぶに至った。
然しながら幕末の動乱・幕藩体制の崩壊・廃仏毀釈等によりその影響大なるものがあり次第に衰微することとなった。

明治維新を迎えようやく体制も整い近代国家への脱皮と共に社会秩序も平穏となり、大正・昭和時代へと変遷したが、
この間当寺は常に地域社会の要望と共に歩み続けている。

その後、前の大戦を経て新館林市の都市計画にともない、駅前にあった当寺も現在位置に移転することとなり、
現状移築を原則に計画を立て、先人の思いを復元することとなった。
                                                案内説明より

山門

本堂

聖観世音菩薩堂

大勢至菩薩堂

地蔵菩薩堂

弁才天堂

弁天池

薬師如来堂

手水舎

鐘楼 午前午後の六時と正午には
自動で時を知らせている

山門扁額

本堂扁額

3・11震災で倒れた石柱門

対になる燈明塔と枝垂れ桜

歴代住職及び諸上人の墓

館林藩四代藩主
四代将軍家綱 老中識
松平乗壽 (まつだいら のりなが)墓碑

法名
源高院殿忠蓮社深譽道徹居士

榊原康政の墓

榊原康政は、天文十七年(1548)三河国上野(現愛知県豊田市)に生まれた。
幼名を亀、のちに小平太と名乗り、十二歳のとき德川家康の家臣となりました。

初陣は、永禄六年(1563)上野の合戦で、手柄を立て、家康から一字を賜って康政と名乗り、
以後姉川・三方ヶ原・長篠・小牧長久手などの合戦を歴戦し、徳川幕府創立の功臣として、
後に井伊直政・本多忠勝・酒井忠次と共に、德川四天王の一人に数えられています。

天正十八年(1590)家康の関東入国に際し、十万石を領し館林城主となりました。
館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ日光脇往還を新設するなど、
土木事業において顕著で、館林の礎を築きました。

ここにある墓は、初代康政をはじめ、榊原家関係者五基の墓石が並び墓所を構成しています。
群馬県(上野国)の特に館林藩成立前後の歴史や、大名墓の研究、大名と寺との結びつきなどを知るうえで大変重要なものとして、
昭和二十八年群馬県の史跡に指定されました。

法名 養林院殿上譽見向大禅定門

手前から康政長子の墓
二代藩主康勝の墓 康勝の生母の墓

3・11震災で倒壊した墓石

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館林城址 tatebayasijyosi

館林城千貫門跡 石碑

千貫門跡石碑にはめ込まれているローレリーフ

土橋門 復元

土橋門

館林城跡 tatebayasi-siroato

館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、
八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣郭を構え、更にその西方の台地に「城下町」を配置し、
そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。

築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、
「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は、
現在まで発見されていない。

現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、
文明三年(1471)に上杉軍が「赤井文六、文三」の居城である「立林城」を攻略したという記録である。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原北条氏による三つ巴の攻防中で、
「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。

天正十八年(1590)徳川家康関東入封に伴って、テ德川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、
「館林」は、利根川を押さえることが出来る東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、
将軍を輩出した徳川宗家に係わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、
最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮をつとめた七家の居城として栄えた。

城の建物の大半は明治七年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、
三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入り口の一つで、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
この土橋門は、昭和五十七年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、
事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。

また、門と合わせて周辺にのこる土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことが出来ないよう工夫されたもので、
県内にのこる隋一の遺構で貴重なものである。
                                                    案内説明より

土橋門桝形とつるべ井戸

漆喰土塀

土橋門を入った三の丸にある
館林市民会館

三の丸土塁跡

3.11震災で屋根瓦崩壊

崩れ落ちた瓦

ユーカリの木

ソメイヨシノ桜

土塁跡 石垣は新設

佐藤春夫記念石碑

小山の塚 城内祠跡?

市役所通用道路

館林市役所

宇宙飛行士向井千秋記念科学館

田山花袋記念文学館

旧上毛モスリン本社事務所
(群馬県指定重要文化財)

田山花袋少年期の家屋 三景 (館林市指定史跡)

館林城址は厳然と在るわけではないので、前以て資料などで調べてからの方が良いと思う。
つつじが岡公園の花見のついでに寄ってみたのでその点は不覚である。

ほぼ、緑に囲まれ、公共の建物が建っている一帯が城跡で、緑深く、静寂で、環境は素晴らしい。
ですが、この一帯を抜けるとその環境は一変し、いわゆる近代的な街並みとなる。

その良き環境は史跡の保護との裏腹で、時代の流れの中での選択の結果として思うよりほかはない。
現在、第三者的な部外者から反対の選択を思い浮かべてみると、そこには今以上の環境があり、
それを誇れる市民が豊に見えてくるのは、私の単なる錯覚でしょうか。

明治維新から百五十年、現在生きる人々が百五十年後の人々の思いを知ることは非常に困難なことと言ってしまえば、
また、それも困難なこととなって幾重にも続き同じ思いを人々に課せてしまいますね。

交差点大手町より交差点市役所前方面

ゆるやかな下り坂になっている。
左側が城域で周囲より台地に見える。
外郭を水堀を含めた低地で囲み、
本丸はその台地上に縄張りしたのでしょうか。
説明では「平城」とのことであるが、
城沼からの比高を見ると平城の様には見えない





曹洞宗 巨法山 善長寺 kyohouzan-zentyoji

善長寺 山門

当山は、大永三年(1523)に大雲推俊大和尚によって現在の地に開山されました。
開基家は館林城主赤井孫七郎家範です。
その後江戸時代になり、同じく館林城主榊原忠次(後に松平忠次)が、御生母、祥室院殿のご供養のために中興開基家となって、
伽藍の整備が行われました。
因みに、忠次は後に館林城主より播磨国姫路城主に移封されております。

創建当時の諸堂伽藍は、文政八年(1825)に火災に遭い、惜しくもすべて焼失しましたが、
図面に焼失前の伽藍配置が詳しく記録されており、それによって、開山当時の規模の壮大さをうかがい知ることが出来ます。
さらに第二次世界大戦末期、日本は極度の物資不足に陥り、当寺も含め多くのお寺の梵鐘が無念の内に供出されていきました。

平成十四年は、大本山永平寺御開山、永平道元禅師の七百五十回大遠忌の年に正当いたしました。
この度の大遠忌の主題は「慕古心」(もこしん)です。
意味するところは、道元禅師の教えに戻りましょう、ということであります。

お寺を昔の姿に戻すのも、この主題に添う報恩行と考えられます。
ここに、寺、檀家一致協力して、檀家信徒の浄財を募り、この鐘楼堂の再建が結実いたしました。
この梵鐘が尽未来際、私たちの心の拠りどころとなりますことを、切に願うものです。
                                                     善長寺鐘楼堂建立の記 説明より

本堂

鐘楼堂

本堂扁額

山門扁額

観世音堂

毘沙門天石像

地蔵菩薩像

六地蔵菩薩

水子地蔵菩薩

鬼瓦の家紋

本堂屋根棟ぐしの家紋

有縁・無縁合同供養塚

七福神 寿老人石像

お辻・松女供養碑

榊原康政の愛妾お辻の方は、寵愛を一身に集めていたが、それを嫉むほかの妻・妾の仕打ちに堪えられず、
侍女お松を伴い城沼に身を投じて自殺したという伝説が残されています。

康政はその死を悼んでお辻を弔うために沼の丘に植えられた一株のつつじが
今日のつつじヶ岡公園の起こりとも言われております。

樹高: 17m  幹回り: 2.8m

樹高: 12m  幹回り: 2.4m

榊原忠次の母 祥室院殿の墓

この宝篋印塔は、高さが四メートル八十九センチメートル程あり、宝珠下端より塔身にかけて「祖師西来意」、
塔身に「瑞峰窓嘉元和九 昭陽大淵歳南呂初九日」と刻まれている。
「瑞峰窓嘉」は、館林城主榊原忠次の母の法名で、善長寺の過去帳には、これに院殿の号を付して
「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」と記されている。

年号中「昭陽」は十干の「癸」、「大淵」は十二支の「亥」、「南呂」は八月の意味であることから、
年号は「元和九年(癸亥)八月九日」ということになる。

「祥室院」は、下総国関宿城主松平因幡守康元の娘で、
榊原康政の長子である遠江国横須賀城主の大須賀忠政に嫁ぎ、忠次を生んだ。

その後、夫、忠政が慶長十二年(1607)に病没すると、德川家康の命により、伊勢国長島城主菅沼定芳に再嫁したが、
元和九年(1623)に近江国膳所で病没した。
忠次は、この時、榊原家の三代を継いで館林城主であったが、母の墓が遠くにあることを嘆き、
菅沼家に分骨を請い、善長寺に墓石を造立したという。

墓域は、石塀で囲われ、墓前には二基の石燈籠が建てられているが、
向かって左の石灯籠には、寛永十年(1633)の刻銘がある。
平成八年度に解体修理を行った。

保存樹木 クスノキ

保存樹木 キンモクセイ 150年以上

館林市指定史跡

樹齢六十年以上と思われるソメイヨシノの老木

墓所前の石燈籠一対

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SL水上号と谷川岳 SL No,Minakami & Mt,Tanigawa

客車の入線

客車 6両編成

機関車の連結

上越線清水トンネルを走る風っ子
トロッコ風のオープンデッキ車両

車内での記念品 SL水上りんご

プレートと記念撮影

臨時車掌でお手伝い中

SL記念駅弁販売

SL フロントフェイス C6120

シリンダーと動輪

運転席

石炭車 石炭取り出し口

炭水車と連結客車

客車内の様子

水上駅

駅前土産物店街

水上駅から天神平までの往復切符
路線バス&ロープウェイ

天神平から峠まで往復切符

天神平駅

天神峠から天神駅&ロッジ

天神峠からの眺め

幸せの鐘?

天満宮

道標

観光リフト 支柱最下位置にセット

ロープウェイ乗り場

天満宮の由来書 読み難い説明

乗車記念





足利フラワーパーク

足利のフジ (野田9尺藤) ノダナガフジ No1 栃木県天然記念物指定

足利市朝倉町の早川農園で、早川和俊氏に大切に育成されていた藤が、1996年2月この地に移植された。
幹にギブスをつけて養生し、その上にロープをかけ、吊り上げてトレーラーに載せ、20㎞の道のりを移送された。
移送時、50畳であった棚も現在600畳まで拡大し、世界一の美しさを誇っています。

樹齢:140年  南北:36.3m  東西:33.4m  幹廻り:4.05m  花房最長 1.8m

                                                   案内説明より 

足利のフジ ノダナガフジ No2  栃木県天然記念物指定

明治から昭和の終戦まで足利市田中町の柿崎園、五色の藤園と呼ばれ、藤の名所となっていた。
終戦後、朝倉町の早川農園に移され多くの人々に親しまれていましたが、再び1996年2月他の藤樹達と共にこの地に移植された。
2度の移植を経て、世界一の棚面積となっています。

樹齢:140年  南北:35.8m  東西:37.1m  幹廻り:5.15m  花房最長:1.8m

                                                  案内説明より

ライトアップされた大藤

大藤

八重黒龍

ライトアップされた八重黒龍藤

足利のフジ  八重黒龍藤  栃木県天然記念物指定

大変珍しい八重咲の藤で、開花期には甘い香りを放つ。
遠方からの藤の姿はブドウ棚のようにも見え、夜の池に映る姿は息を呑むほどの美しさです。
1996年2月、他の大藤たちと同じように移植されました。
現在、500畳もの広さに花を付けています。

樹齢:140年  南北:34.5m  東西:25.4m  幹廻り:2.5m  花房長:30㎝

                                                     案内説明より

池越しの黒龍

池に木陰の恵みを

樹幹

樹幹

樹幹

長藤

足利のフジ  ノダナガフジ No3  栃木県天然記念物指定

1996年2月この地に移植されました。
隣接する迫間湿地公園と同様に渡良瀬川の旧河道やその支流の水、
また足利の自然を代表する山の伏流水を得ているため、健全に育成されています。
山と川、平野が接する足利の象徴とするフジです。

樹齢:140年  南北:34.5m  東西:30.0m  幹廻り:3.95m  花房最長:1.8m

                                                 案内説明より

紫藤

フジのドーム

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黄花藤のトンネル

白花藤のトンネル

足利のフジ 白フジのトンネル  栃木県天然記念物指定

1997年4月、開園時に庭木仕立てのフジ25本を左右に植え造作されました。
現在、トンネル仕様としては、世界唯一といわれています。
甘く、やさしい香りに包まれ、美しい純白の世界は、
この世のものとは思えぬほどの美しさと言われています。

樹齢:80~90年  長さ76.5m  高さ2.7m  花房長:50㎝

                                              案内説明より

ライトアップ

トンネルの外側

白花藤 株元の様子

白花藤のスクリーン

ライトアップ

池越しのスクリーン

太陽の光背に映える

虹の橋

サフィニア水上ピラミット

他の藤樹

園内の草木花

躑躅

薔薇

石楠花

店内売店

路傍の花塚

500mLと同じ価格です(園内価格)

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あしかがフラワーパーク
栃木県足利市迫間町607
Tel: 0284-91-4939





真言宗 金剛山鑁阿寺

フラワーラーメン コメント無し

金剛力士吽形像

  高欄付楼門及び反橋
楼門は当山では仁王門又は山門ともいう。
開基足利義兼公が建久七年(1196)邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗金剛山鑁阿寺を創建するも
室町時代に兵火にあい焼失、永禄七年(1564)室町幕府十三代将軍足利義輝が再建したものである。

構造雄大、手法剛健、入母屋造り、行基葺きの山門である。
両側の仁王尊像はこの建物より古く、鎌倉時代の運慶の作と云われている。
反橋は俗に太鼓橋といい、江戸時代安政年間の再建である。

当山境内は、面積一万二千三百坪(40,467㎡)で、四周に濠と土塁をめぐらし、四方に門を設けている。
当山開基、足利義兼公の祖父源義国(源義家の子、新田氏・義国長男義重、足利氏・義国次男義康の祖)が別業として
平安時代末に構築したもので、、上古の豪族の居館を原形のまま今日に残されたものである。

実に近世(安土・桃山・江戸時代)城郭の原始を示しており、足利氏宅趾として、
大正十一年国の史跡に指定された。
楼門・反橋は栃木県指定文化財である。

                                          説明案内より

金剛力士阿形像

門前説明看板

反橋再建寄付連名碑
安政三年丙辰十一月 建之

山門 境内より見る

山門扁額

反橋(太鼓橋)

山門

徒然草 第二百十六段の石碑

最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、
あるじまうけられたりける様、一献に打ちあはひ(鮑)、二献にえび(海老)、三献にかいもちひにてやみぬ

その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて座せられけり。
さて、年毎に給はる足利の染物、心もとなく候 と申されければ、用意し候 とて、
色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。

その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。


  現代語訳
鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺入道)が鶴岡八幡宮へ参詣のついでに足利義氏(左馬入道)の許へ
突然では先方が困ると思って先に使いを遣って訪問の予告をし帰りに立ち寄った。
義氏はもてなしの用意をして、初めに酒とほしあわび、次に酒とえび、最後に酒とそばもちを出してもてなした。
御馳走はそれだけであった。

その座には義氏夫婦と隆弁僧正がいてもてなした。
さてと、時頼が「毎年下さる足利の染物を、今年はまだ頂戴していないが、待ち遠しいことです」というと
「用意はしてあります」といって色々の染物(足利織物)三十反を時頼の面前で女達に小袖に仕立てさせて
時頼が帰ってから使いの者に届けさせた。

その場に居合わせた人が近頃まで生きていて、私(吉田兼好)に話してくれたのである。


  足利義氏
義氏は当山開基足利義兼の三男で、足利三郎と稱し、父義兼の後を嗣ぎ、北条時政の女を母とし、泰時の女を妻とした。
蔵人検非違使に任ぜられ、正四位下馬頭に至り、鎌倉幕府の枢機に参画し数次の合戦に大功を立てた。
父義兼の菩提の為、天福二年(1234)現在の重要文化財大御堂を建てたことは現存する棟札によって明らかになっている。

又、堀の外大日境外に東に、六字院、不動院、普賢院、東光院、北に浄土院、宝珠院、威徳院、延命院、
西に金剛乗院、千手院、竜福院、安養院の塔頭十二ヵ院を建立し、千手院を塔頭とした。
明治四年(1871)の廃仏毀釈により十二ヵ院が廃せられ、一般民家に解放されるまで、六百余年この山地は続いた。
今の家富町全域がこれである。

仁治二年(1241)五十三歳で出家し、足利左馬入道と稱し、建長六年(1254)十一月二十二日没した。
享年六十六
本城三丁目にある法楽寺は義氏の開基であり同寺に義氏の墓地がある。
法名を法楽寺殿正義大禅門と云う。
義氏五代の孫足利尊氏に至って、天下を平定し京都室町に幕府を開き、
室町文化の華を咲かせたことは普く人の知るところである。


  多宝塔
この塔は建久七年(1196)の創建と伝えられ、その後寛永六年(1629)に再建され、
元禄五年(1692)改修、享和三年(1803))屋根葺替、昭和三十九年(1964)に銅屋根その他の修理を行っている。
また、平成七~八年度にかけて解体修理工事を行った。

内部は簡略化されているが、上層と下層との比率、軒の出、勾配、屋根の反り等よく、
多宝塔としての外観は比較的均整のとれた姿である。
県内の木造多宝塔は、この一基のみである点からも貴重な存在である。

                                            案内説明より

足利氏宅跡  国指定史跡

多宝塔

床下補強の様子

本堂背面

向拝

向拝唐屋根の彫刻

大屋根の貴種紋

本堂と水鉢

びんずる尊象

東門 四脚門

西門 四脚門

北門 薬医門

香炉

地蔵菩薩石像

大銀杏

  鑁阿寺本堂(大御堂) 国宝
鎌倉時代初期、建久七年(1196)に足利義兼により建立された。
正安元年(1299)に再建された。
御本尊は源氏相伝の守本尊である大日如来である。

建築は構造雄大にて手法剛健、本瓦葺、唐様と和様を加味した折衷の代表的な建築で、
堂内の柱、天井、厨子等の歴史的価値は高い。

明治四十一年国宝に指定され、昭和八年より二年間、解体修理を文部省の指導の下実施した。
戦後、法令改正により旧国宝となり、新たに重要文化財に指定された。
その後、平成二十五年八月、国宝に指定された。

境内には山門、鐘楼、不動堂、経堂、多宝塔、御霊殿などの七堂伽藍を備えた東国密教の代表的寺院である。
創建以来、幸いにも火災に遭わず多数の重要文化財を蔵している。
開基足利義兼より七世の孫足利尊氏は京都室町に幕府を構え、幕府は十五代足利義昭まで二百三十年続いた。


  奉納水鉢と香炉
水鉢は明治十三年庚辰一月 下野国足利郡山下村の住人 岡嶋忠助 岡嶋平助により奉納とある。
鋳物師は下野国佐野町の正田章治郎である。

香炉は昭和六十年秋彼岸 足利市農民一同が五穀豊穣・市民冨楽を祈願し奉納された。
鋳物師は足利市住の鴇田力(トキタ ツトム)氏。


  大銀杏 (県指定天然記念物)
開基足利義兼の御手植えと称しているが、鎌倉時代末期正和年間(1312~1317)の当山の古地図には載っていない。
故三好学博士の鑑定によれば、樹齢約五百六十年といわれる。
江戸時代には概に大木になり、樹下於いて大日如来のお堂を前にして青年男女の見合いが行われ、
縁結びの御神木とも言われている。
往古より避雷針の役目を果たし、諸堂の災厄を守護したと云われる。

樹高は31.8m、目通り周囲8.3mで、地上3mのところから二股に分れ、どちらも数本に分岐し、
地上15m付近で枝が伸び壮大な樹形をなしている。
広い境内には、多くの樹木が植えられているが、このイチョウが最大の物です。
栃木県の天然記念物としては、すでに二本のイチョウが指定されているが、
壬生寺(下都賀郡壬生町)のイチョウ(目通り周囲5.1m)と大野室(大田原市寒井大野室)のイチョウ(目通り周囲6.45m)で、
これまで指定されたイチョウを上回る大きさであり、鎌倉時代に足利義兼が建立した寺にふさわしいイチョウである。

                                               案内説明より

山門傍の巨樹

鐘楼傍の百日紅

平石橋

太鼓石橋

鐘楼

梵鐘

平板橋遠望

太鼓石橋遠望

心字池の亀

心字池の鴨

鑁阿寺本坊門

鑁阿寺本坊門扁額

鑁阿寺本坊

手水舎

  鐘楼 重要文化財
建久七年(1196)当山開基足利義兼により建立される。
建築様式  形状簡素で古風、手法粗仕上げで素撲、、和様、唐様折衷の鎌倉時代の代表的禅宗様式
        桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺

明治四十一年、国宝建造物に指定された。
大正五年、解体修理を実施
昭和二十六年、国重要文化財に指定される。
昭和三十六年、半解体修理を実施
平成四~五年、半解体修理を実施

梵鐘は元禄時代に鋳造されたものであるが、戦時の供出は歴史的価値が高い資料であるとしてまぬがれた。

                                                案内説明より

境内社 稲荷大明神

大日如来水屋建築 労力寄進之碑
寄進 鳶連中

経堂

経堂扁額

経堂格子火頭窓

不動堂

不動堂扁額

手水舎

不動堂脇の古井戸

大酉権現堂

大酉堂扁額

蛭子堂

蛭子堂扁額

蛭子堂 奉納よだれかけ

御霊屋

拝殿

本殿

大黒堂(校倉・宝庫)

  経堂 (国指定重要文化財) 
当山開基、足利義兼が妻の供養の為、一切経獲を修する道場として鎌倉時代に創建したと云われるが、
現在の建物は応永十四年(1407)に関東管領足利満兼により再建された。
 
足利家は鎌倉・室町の両時代に盛んに一切経会を営んだことが当山古文書(国指定重要文化財)にみられる。
堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経二千巻を蔵するが、この経棚は江戸時代宝永年間に大修繕したものです。

昭和十一~十二年、文部技官阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。
昭和五十九年、国指定重要文化財に指定されました。
平成十六~十七年、屋根を主に文化庁指導の下、大修繕をした。


  不動堂(中御堂)
寺伝では開基足利義兼公の創建とあるが、文禄元年(1592)生実御所国朝(喜連川)国朝)の再建による。
御本尊不動明王は往古千葉県成田山新勝寺より勧請したもので、興教大師の作と云われ、霊験あらたかな不動明王である。

本堂が明治四十一年国宝に指定される迄は不動堂と廊下でつながっていて、
四度加行の護摩法の道場として使用された堂宇である。
昭和四十四年信徒の浄財により半解体修理を実施した。
商売繁盛を祈念する堂であると同時に酉年守本尊である。
堂の右側に古井戸の跡があるが、八百年前、足利氏が居住した時に使用したと云われる。


  大酉堂
このお堂は元来、足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建立された。
鑁阿寺に残る寛政二年及び明治五年の伽藍配置図には、足利尊氏公霊屋と現在地に記載されている。
明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観が抬頭し、四十一世忍禅上人は甲冑姿の尊氏公木像を本坊に移し、
当山伝来の大酉大権現を堂の本尊とした。
大正六年四十二世忍空上人は、信徒の浄財を仰いで堂宇の大修理を実施した。
大酉大権現は世俗に「おとり様」といわれ、古来武神として、武門の信仰篤く、
殊に東国では近世より商売繁昌、福の神として信仰されている。
昭和六十一年、解体修理を実施した。


  蛭子堂
時姫堂とも称され、当山開基足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願院殿ともいう。
創建年代はわかっていない。
時子姫は寺伝では自害したと云われ、これにまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は
足利七不思議の伝説の中の白眉の物語として残っている。

妊娠の女人がこの堂にお詣りすれば、栗のイガより栗がかるくもげるが如く、安らかに安産の効き目があると云われ、
昔から信仰されてきた。
その様な謂れから本尊は栗のイガを手にもつ蛭子女尊である。

平成五年、栃木県と足利市より補助を受けてお堂の解体修理を行った。


  御霊屋
足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云われる。
正和年間(1312~1317)の当山伽藍配置図にも境内の北西に描かれている。
創建は鎌倉時代と云われているが、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進によって再建された。
本殿に源氏の祖を祀り、拝殿に県指定文化財足利十五代将軍の像を祀っている。
昭和三十二年境内整備の為、以前の位置より北へ十二間後退させた。
本殿の裏に当山開基足利義兼の父、義康の祖父義国の墓がある。
昭和五十七~五十八年、栃木県及び足利市の助成を得て、(株)安田工務店に依頼して、半解体修理を実施した。


  大黒堂(校倉・宝庫)
宝庫、校倉とも称する。
永享四年(1432)公文所奉行の再建と云われているが、
現存の棟札では当山三十二世満慶上人が宝暦二年(1752)の再修あるいは再建となる。
建築様式は校倉造り風で、元来当山の宝物を収蔵した。
四十二世住職忍空上人の時に宝物は他に移し、足利家伝来の大黒天を祀った。

昭和五十五年、足利市の助成を得て文部省技官安田昭二氏に依り、半解体修理を実施した。

                                           案内説明より

門前通り

門前通り傍の足利尊氏像





足利学校

入徳門 (薬医門)

史蹟 足利学校跡石柱

案内所及びチケット売り場

案内所 論語垂れ布幕

子曰(シイワク) 学而時習之(マナンデトキニコレヲナラウ) 不亦説乎(マタヨロコバシカラズヤ)
有朋自遠方来(トモアリエンポウヨリキタル) 不亦楽乎(マタタノシカラズヤ)
人不知而不慍(ヒトシラズシテイキドオラズ) 不亦君子乎マタクンシナラズヤ)

 

孔子像

史跡足利学校復原の碑

堀を廻らした足利学校

文京区湯島聖堂 楷の樹

楷の樹 整然とした樹形と対生葉で楷書の語源とも言われる

顔子(孔子門弟十哲)子孫 (クスノキ)
顔 振鴻氏手植 昭和10年五月4日

孔子七十一代傍系子孫 (クスノキ)
孔 昭潤氏手植 昭和10年5月4日

皇太子殿下(嘉仁親王)行啓記念樹
明治43年9月8日


  史跡足利学校跡復原の碑
史跡の復元は市民の長年の願いであり、夢であった。
史跡指定地の東部分は、かって東小学校となっていたが、関係者の理解を得て移転した。
これを機に史跡整備構想を策定し、発掘調査や文献資料の調査検討を進め、
江戸中期宝暦年間(1751~1763)の姿に復原工事設計をまとめることが出来た。

事業の推進には文化庁を始め、多くの関係機関の協力を得、方丈等建物七棟、庭園二箇所、
土塁・堀などの復原を主とした東部分の整備事業は十年の歳月を要し完成した。


  恕の扁額 (平成二十三年二月十九日 漆原常石氏 寄贈)
「恕」とは、「おもいやり」のことです。
孔子の教えが書かれた「論語」の一節にある言葉です。

「子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也、」
門人の子貢(孔子十哲の一人)が孔子に尋ねて言った。
「たった一言で一生涯を通して行動する際に心すべきことは何でしょうか」
孔子は答えて言いました。
それは「おもいやり」の心だ 自分がされて欲しく無い事嫌なことは、人施したり要求していけない、と。


  正一位 霊験稲荷社縁起
この正一位霊験稲荷社は、足利学校第七世庠主 玉崗瑞璵(九華)が書いた天文二十三年(1554)九月の棟札に、
足利学校の鎮守である稲荷大明神が、年代が古く、御神体・社殿共に破損しているので、
あらたに神体を造立し、社殿を造営し、八幡大菩薩を合せ祀ったとあるがら、
稲荷社の創建は天文二十三年(1554)よりかなり時代が遡ると思われる。

江戸時代のこの稲荷社は、霊験あらたかで足利の町の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、
祭礼には大勢の人々が参詣した。
また、この稲荷社の狐は、足利の町に異変が起こりそうなときは、前の晩などに危険を知らせて人々を守ったので、
多くの人から大事にされたという。

江戸時代足利学校では毎年十一月に、御供小豆飯を藁にのせ、狐の穴に供えていた。
この稲荷社が霊験あらたかなので、明和七年(1770)第十六世庠主千渓元泉が、もとの稲荷大明神を改め、
正一位如意霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社とした。

社殿は天文二十三年(1554)の創建当時のものと思われるが、
明和九年(1772)あらたに梅や竜などの彫刻を社殿にとりつけた。
参道にある灯籠は、元文二年(1737)に足利町の石井新五兵衛・亀田市郎兵衛の寄進、
水屋の手水鉢は江戸の大井権左衛門の寄進であり、
明治四十二年(1909)図書館のところにあった社殿とともに現在地に移された。
神前には佐野の天明(天明鋳物)で作られた灯籠がある。


  楷樹(ナンバンハゼ) 県指定天然記念物   大正十一年三月七日 白澤保美氏 寄贈
この木は日本、特に東日本には自生しない珍しい木であり、別称「孔子の樹」 「楷の樹」と呼ばれているが、
学名を「ピスタシア・シネンシス」といってウルシ科に属する落葉樹である。
現在目通りの直径2.5m、雌木だけであるから花は咲くが実は結ばない。


  字降松 (かなふりまつ)
足利学校の七世庠主(学校長)玉崗和尚は自ら九華老人と称したが、そのころ廟の前に一本の松があった。
学生が読めない文字に出会ったときに、紙に書いて之を松の枝に付けておくと和尚が見て振り仮名や注釈をつけてくれたので、誰と云うとなく字降松と呼ぶようになり、ついには町の人々までこの松に教えをうけたという。
当時学問を志して足利学校に学んだ学生と訓導(先生)との交流を、いみじくも伝えた心温まる足利の伝説である。


  旧足利学校遺蹟図書館 (市指定重要文化財)
この建物は、大正四年八月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺きで、
基礎及び外壁は煉瓦積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。
和風の屋根、洋風の外壁・内装など和洋折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井等の造りや、
飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建造物として貴重な存在です。

足利学校保存整備事業の一環として、平成六年度県の、「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修しました。


  足利学校裏門 (宝暦年間の姿に復原)
足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。
正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。
主に、日常使う門が、この裏門でした。

學校の裏に位置しないにもかかわらず、この門が裏門と呼ばれていたのかは明らかではありません。

間口八尺の薬医門で、屋根が切妻造りの茅葺です。
両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。
発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。

                                                案内説明より

恕の扁額

稲荷大明神

學校門 (正門 薬医門)

學校門扁額

字降松(カナフリマツ)

裏門

旧足利学校遺蹟図書館

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不断梅 熟しても落果しないと言われる

月桂樹の植樹 左より 海軍大将 東郷平八郎  元帥海軍大将 伊東祐亨  海軍中将 上村彦之丞 
明治三十九年十二月二十三日  階級は植樹当時


  孔子廟
孔子廟は、儒学の祖孔子を祀る廟で、聖廟とも呼ばれています。
大成殿を囲んで築地塀を廻らせ、正面に杏壇門を置いています。
大成殿は、寛文八年(1668)に建てられました。

正面五間(否長)、側面六間、屋根は数寄屋造りで本瓦葺き、周囲に裳階と呼ぶ庇をつけています。
内部の正面中央に孔子像、右に小野篁像、左に德川家康の神位大権現などを安置しています。
杏壇門は、明治二十五年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて五年後に再建されました。
この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠(せきてん)という儀式が毎年行われます。


  木造 孔子坐像 (文化財保護の為複製を展示しています)
室町時代天文四年(1535) 寄木造 玉眼嵌入 像高78.0㎝

頭巾をかぶり、儒服を着けた坐像です。
弟子たちの教育にあたるこの姿は「行教像」といわれます。
像の背中と底の内側の部分に墨書きの文字があり、当時の足利荘の代官・長尾憲長(1503~1550)など
造像に関わった人の名や、当時の学校の様子が記されています。
日本最古の孔子の彫像として、また、足利学校の歴史を語る資料としても大変貴重です。


  木造 小野篁坐像
江戸時代延享三年(1746) 寄木造 玉眼嵌入 像高71.5㎝

小野篁(802~852)は、平安時代の公家・歌人で学問にすぐれ、野相公(やしょうこう)と呼ばれた人です。
足利学校では江戸時代に、小野篁を創建者とする説がとられていました。
本像の制作にあたり、小野篁の子孫という江戸幕府の儒官 人見活(号 雪江)(1687~1759)が、
お金を学校に寄付したことが『足利学校記録』延享三年(1746)八月十九日の条に記されています。

                                             案内説明より

杏壇門 (脇門付四脚門)

孔子廟 大成殿

扁額

孔子坐像 木造(県文化財)

小野篁坐像 木造(市文化財)

衆寮

木小屋

土蔵

書院

裏門~南庭園

孔子廟~方丈~庫裡~衆寮

学校門の扁額

宥座の器 (ゆうざのき)

書院の間

国宝本(複製)等の展示

足利学校の中興 上杉憲実公

玄関 右脇玄関

方丈

方丈座敷

南庭園

北庭園

足利学校中興 上杉憲実公顕彰碑

尊牌の間

方丈式台玄関

孔子と高弟像 六曲屏風

仏殿

仏殿江戸幕府初代将軍徳川家康位牌

仏殿 曲彔(きょくろく) 大椅子

菜園場 (サエンバ)

庠主(学校長)の墓所

足利学校代官 茂木家累代の墓所

校内の樹木

校内の樹木

国道挟んだ向かいの太平記館 大河ドラマ太平記ロケ地記念開館

史跡足利学校事務所(足利市HP内)
栃木県足利市昌平町2338
Tel: 0284-41-2655

足利市観光協会
栃木県足利市伊勢町3-6-4
Tel: 0484-43-3000

学校門前の銀丸本店 飲み物サービス


  南庭園 (江戸時代中期の姿に復原)
足利学校には、方丈の北と南にそれぞれ池の庭があります。
この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水の庭です。
この庭は、湧水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。
三つの峰をもつ築山は比高が高く、池の水面から三メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。

発掘調査の結果と江戸時代の絵図に依って修復しました。
この整備の資料として用いた図絵は、精密で色彩も美しいものであり、
庭の築山やそれぞれの植木などは絵図により復原したものです。


  北庭園 (江戸時代中期の姿に復原)
奥の庭として、南庭園より格が高く大きく、方丈、書院から観賞するように造られています。
形式は、南庭園と同じく築山泉水庭園です。
池は湧き水をたくわえ、亀の形の中島を置き、そこに弁天を祀る石の祠があります。
築山が四つの峰で池を囲み、一番高い峰で水面から三メートルほどあります。

かっては、鑁阿寺の森や遠く両崖山の峰が築山越しの借景になっていたと思われます。
発掘調査の結果、この庭は南庭園よりも古く、三回にわたって改修され、
作庭当初と合せ四期の変革があったことがわかりました。


  方丈・庫裡・書院 (宝暦年間 1751~1763 の姿に復原)
主屋は、左の方丈と右の庫裡・書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。
方丈は六部屋からなり、儀式や行事に使われました。

庫裡は竈(かまど)のある土間、板敷の台所、畳敷きの四部屋からなり、日常の生活空間でした。

書院には、床・床柱、棚・違棚等が設けられ、庠主(学校長)の接客の場所などに用いられました。

屋根は、方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。方丈の棟の高さは11.8mもあります。
造りは質素ながらトガ(栂)普請で、当時木目や色合いが愛されたトガ材を長押(なげし)などに用いています。
天井には美しいヒメコマツ(五葉松)の天井板を張っています。


  衆寮 (宝暦年間 1751~1763 の姿に復原)
衆寮は、僧坊または学生寮です。
学生を寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。

桁行八間、梁間二間半、屋根は切妻造で板葺き、
外壁は上が土壁の漆喰仕上げ、下が板張りです。
内部は、六畳の間に、一間の土間がついて一部屋になり、それが四部屋続く長屋となっています。
発掘調査の結果、堀の中から多数の灯明皿(とうみょうさら)が出土していることから、
夜の闇の中で灯明を灯し、学問にはげんだ様子をうかがうことが出来ます。


  木小屋 (宝暦年間 1751~1763 の姿に復原)
木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の[木」などを格納する建物といわれています。
桁行五間、梁間二間、屋根は寄棟造の茅葺き、外壁は上が土壁の中塗仕上げ、下は板壁です。
床は三和土(たたき)の土間です。

薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。
例えば、サエンバ(菜園場)呼んでいた畑を耕す鍬や鋤等の農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、
修繕用の板材や大工道具などが考えられます。


  土蔵 (宝暦年間 1751~1763 の姿に復原)
土蔵は、大切なものを格納する堅牢な耐火建築として建てられました。
桁行三間、梁間二間の土蔵造です。
外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。
栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。
内部は、壁が漆喰仕上げ、床が板敷となっています。
文庫が別に建てられていたところから、この土蔵には書籍以外で大切なものを納めていたと思われます。


  足利学校中興の祖 関東管領上杉憲実公
室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享十一年(1439)に書籍及び領地を寄進し、学則を定め、
鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(学校長)にするなど、衰えていた学校を大いに整備し、
後の発展の基礎を築きました。

寄進の書籍には、『宋版尚書正義』 『宋版礼記正義』 『宋刊本附釈音毛詩注疏』 『宋刊本附釈音春秋左傳注疏』などの
儒学の経典、他に 『宋版唐書』があります。
これらは、中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に保管されています。
また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、
『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定をあげています。

『宋版尚書正義』 (そうはんしょうしょせいぎ)
『宋版礼記正義』 (そうはんらいきせいぎ)
『宋刊附釈音毛詩注疏』 (そうかんぼんふしゃくおんもうしちゅうそ)
『宋刊本附釈音春秋左傳注疏』 (そうかんぼんふしゃくおんしゅんじゅうさでんちゅうそ)

憲実は永享四年(1432)関東管領となりましたが、永享十年(1438)に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を起こしたので、
持氏軍と戦うこととなり、翌十一年これを破って持氏を自害させました。
これを永享の乱と言います。
足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、
憲実の置かれた状況を考え合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。


  江戸幕府歴代德川将軍家の位牌
第九世庠主閑室元佶和尚は、德川家康の信任が厚く、有名な関ヶ原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、
戦いに役立てました。
幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ、
亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。
足利学校は、このように閑室元佶と家康との結び付きが強かったことから、幕府より百石の朱印地を賜り、
庠主は幕府の任命制となっていました。
その後も江戸幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。
これらのことなどから、江戸幕府德川家歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することとなりました。

江戸幕府歴代将軍の位牌は以下の十人です。
初代徳川家康 三代家光 四代家綱 五代綱吉 六代家宣 七代家継 八代吉宗 九台家重 十代家治 十一代家斉


  曲彔 (きょくろく)
禅僧の導師が説法・法要に際して用いる大椅子。
座面の裏側の墨書名によると、実巌宗和が足利学校十九世庠主に就任する前、
玉林山本源寺(足利市久保田町)住職の時(天明六年 1786)に作られている。 


  庠主(学校長)の歴代墓所
足利学校は十五世紀の中頃、関東管領上杉安房守 藤原憲実によって中興されたものではあるが、
上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定するとともに、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。
庠主は、明治二年に足利学校が藩校になるまでの約四百三十年間にわたり、二十三代まで続いた。
歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高らしめた功績は大きい。
庠主の墓は総計十七基あり、いずれも無縫塔で、その内八基には文字が刻まれているが、残りの九基は不明である。
判明している墓は以下の庠主である。

十四世久室、十五世天叔、十六世月江、十七世千渓、十八世青郊、十九世実巌、二十一世太嶺、二十二世松齢


  サエンバ(菜園場  江戸時代中期の姿に復原)
絵図にサエンバとあるのは、「菜園場}のことと思われます。
ここでは、日々の食膳に必要な材料となる大根、ごぼうその他の野菜、栗や柿などの果樹、茶や薬草を栽培し、
時には花なども楽しんだと思われます。
足利学校の学生は、僧籍に入り僧となりました。
学生として学問に励むことは無論のこと、清掃、洗濯、野菜作りや料理など日常生活の全てが修業でした。

                                           案内説明より

太平記館(足利市観光協会)
栃木県足利市伊勢町3-6-4
Tel: 0284-43-3000

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世界文化遺産 絹産業遺産群


荒船風穴  田島弥平旧宅  高山社跡

富岡製糸場 参照: 温泉その15→かんらの湯





荒船風穴

案内誘導版

ここは通行止め

道整備中

1号風穴石垣

2号風穴石垣

3号風穴石垣

1号風穴説明写真

風穴建物

風穴全景 手前から3号 2号 1号

荒船風穴模型

2号風穴 外気温17.7℃ 内部温1.3℃

風穴温度体験窓

  荒船風穴
荒船風穴は群馬県甘楽郡下仁田町南野牧屋敷にあり、
群馬・長野県境にそびえる荒船山(標高1422m)北麓の標高830m地点に位置しています。
周辺は真夏でも岩石の間より吹き出す冷風が温度を一定に保っていることから、地元では氷穴と呼ばれ、
古くから蚕種(蚕の卵)を貯蔵していたと云われています。

明治37年、当時高山社蚕業学校に在学中の庭屋千尋がこの場所に注目して、
数度の踏査を重ね蚕種貯蔵を行うには有望な地であることを確認し、父である清太郎に報告しました。
そこで庭屋清太郎は完全な蚕種貯蔵庫を設置するために専門家を訪ね、資本金五千円で明治38年9月に起工しました。
これがのちに貯蔵能力が日本一の「風穴界の覇王」と呼ばれることになる「荒船風穴」の始まりです。

風穴利用以前は、蚕種を奥座敷の天井などに蚕種紙をつるして保存し、
春になると日当たりのよい部屋に蚕種紙を出して孵化させる自然保護でしたが、
1年を通して冷涼で温度変化の少ない山間の風穴を利用することによって、蚕種保存技術は格段に進歩しました。
そして、それまでは春蚕中心で年1回であった養蚕が、風穴を利用した蚕種保存によって、農閑期となる夏秋蚕まで拡大し、
年2回、3回と可能になりました。

明治時代後半からの繭増産は、まさに風穴の利用によってもたらされたと言ってもよいでしょう。
1号風穴は明治38年9月起工で、
群馬県技師・鈴木貞太郎、群馬県農会技師・宮田傳三郎、前橋測候所長技師・赤井敬三らの合議の上設計を行いました。
設計は貯蔵室の建築をはじめ、貯蔵箱、蚕種取扱法にいたるまで綿密に行われました。
規模は間口7件、奥行3間半で蚕種収容能力が10万枚になります。

その後、蚕種冷蔵のの要望が増加するのに伴い、1号風穴の指導者に加えて、
高山社・町田菊次郎社長、東京蚕業講習所長・本多農学士、群馬県農業試験場長・佐々木農学士らの合議設計により、
明治41年に2号風穴が完成しました。
間口11間半、奥行3間半、蚕種収容能力70万枚なっています。

ここには群馬県農会と前橋測候所の職員が毎週出張して、自動温度・湿度測定器によって管理されていました。
3号風穴の完成時期は明らかではありませんが、間口8間、奥行3間半で3基合せて貯蔵収納能力は110万枚となっています。
3基とも、深さ15尺で、その上に純土蔵式の建物を建築してあります。
さらに貯蔵室は3室に区分してあり、下室(高さ7尺、床下1尺)は夏秋蚕種遅出の冷蔵、
中室(深さ7尺、は夏秋蚕種早出しの冷蔵と研究室、土蔵部分の上室は春蚕の貯蔵にあてられていました。

荒船風穴で特徴的なのは、3室構造とすることで蚕種を風穴の貯蔵庫から出す際に直接盛夏の高温の場所へ持ち出すことなく、
順次下室から中室へと「生理的順温出穴できることにありました。
この事が蚕種貯蔵の成績を極めて良好なものとし、
委託地域は東京、京都、群馬、埼玉、茨城、栃木、新潟、愛知、鳥取、島根、愛媛を中心に2府31県にわたりました。

風穴から5㎞程下仁田よりにあった庭屋清太郎家には事務所が設けられ、蚕種の製造・販売も行い春秋館と称されました。
蚕種紙の輸送は下仁田迄は上野鉄道、下仁田駅~春秋館は自動車が用いられ、春秋館~風穴間は馬で運びました。
また、全国からの保管や出荷に応えるため、春秋館~風穴間にはいち早く私設電話が付設されていました。
当時、最新の輸送・連絡システムを備えた荒船風穴は、
日本一の蚕種紙貯蔵規模、優秀な冷蔵技術を併せ持ち「風穴の覇王」と呼ばれることになりました。

                                         案内説明より

風穴近くの駐車場
2014/6/1  am8/10 駐車可能であった

3~4台の旧駐車場

荒船風穴新駐車場
風穴まで徒歩片道25~30分

神津牧場

放牧